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3巻
3-2
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そこで弥一郎は、言葉を切った。
続く言葉が『逢坂に連れ戻される』であることは、容易に想像できた。辛そうな顔つきから、弥一郎もきよが連れ戻されては困ると思っていることが確信できる。
しきりに豆腐の工夫を褒め立て、胸を張れと言ったのも、父にきよの自信のない姿を見せまいという気遣いからだったのだろう。
「そうだったんですか……」
「本当にすまん。だが、おとっつぁんを了見させるには、おまえが気張るしかねえ」
力のこもった目できよを見たあと、弥一郎は伊蔵に声をかけた。
「伊蔵、今日の汁はおまえの受け持ちだが、『菱屋』さんのはおきよに任せろ」
「へーい」
「それとおきよ、こいつも頼む」
そこで弥一郎は刺身を盛ろうとしていた手を止め、皿をきよに渡した。
「おまえに刺身を引かせるわけにはいかないが、盛り付けなら任せられる」
「盛り付けですか?」
「どんなに旨い料理でも、盛り付け次第で不味そうに見えてしまう。逆に多少難ありでも盛り付けがうまくいけば、ひと味上がったように見える。疎かにされがちだが、盛り付けってのはそれぐらい大事なんだ」
「そんな大切な仕事を私に?」
「おとっつぁんに修業の成果を見てもらうのに格好だろう」
弥一郎はにやりと笑って、糸切り大根や青紫蘇といったあしらいを入れた平笊を回してくる。ついでに大根おろしが入った鉢も……おそらく薬味として添えろということだろう。だが、父は確か鰹の刺身に大根おろしは使わない。大根おろしの鉢だけ返し、代わりに皿に伏せてあった猪口に手を伸ばした。
「こっちを使わせてもらいます」
「おとっつぁんは辛子好きか」
「はい。鮪には大根おろしですが、鰹は辛子に限るって」
「わかる。俺も鰹には辛子だ」
「それと……お皿を変えてもいいですか?」
先ほど渡されたのは、刺身ならこれと決まった鶯茶の角皿だった。平目や鯛といった白身の魚はよく映えるが、鮪や鰹のような赤身は色が沈むので糸切り大根を敷かなければならない。だが、糸切り大根はあくまでも飾りとして食べ残す客も多い。残った糸切り大根は捨てるしかなく、そのたびにもったいないと思っていた。
赤身の刺身のときは違う皿を試してみたい。皿の色を変えれば、糸切り大根を敷き詰めなくてもいい。使う量を減らしてうまく盛り付けられれば、無駄が減って儲けに通じる。そんな試みも相手が父なら許されるのではないか、ときよは考えたのである。
皿を変えたいという言葉に意表を突かれたようだったが、それでも弥一郎は好きな皿を使えと言ってくれた。
言い出す前から目当ての皿は決まっている。器がずらりと並んでいる棚から取り出したのは、小指の爪半分ほどの線で渦巻きを描いた丸皿。地はほんの少し灰色がまじった白、赤身の魚にはもってこいの色だった。
「飛び鉋、しかも丸皿ときたか……」
弥一郎によると、これは飛び鉋という模様で筑前の窯で焼かれた皿らしい。船で運ばれてきた貴重な品だと聞いて、きよはぎょっとした。
「そんな大事なお皿なんですか! じゃあ、ほかのを……」
慌てて別の皿を探そうとするきよに、弥一郎は笑って言った。
「かまわねえ。皿なんざ、使ってこそだ」
「じゃあ……」
安心して、それでも皿をまな板にそっとのせる。
『千川』で刺身に使っている角皿より小振りなのでのせられる量は減るが、むしろ好都合だ。なにせ母からの文によると、父は五十を過ぎて食欲が落ちつつあるのに食い道楽がやめられず、あれもこれも食べたいのにすぐに腹が満ちてしまう、と嘆いてばかりだそうだ。一皿の量が減ればその分ほかの料理を楽しめるに違いない。
糸切り大根を小さく盛り、もたれかけるように大葉を置く。その大葉に重ねて刺身を並べる。そこにまた大葉を半分ほど重ねてもう一列刺身、手前に辛子、糸切り大根の脇にはわかめと千切りにした茗荷をのせてみた。
独活か茗荷のどちらにしようか迷ったけれど、確か父は茗荷が大好物だ。そのまま醤油で食べてもいいし、汁に入れるのも乙ということで茗荷にした。なにより飛び鉋の皿には、真っ白な独活よりも薄紫の茗荷のほうが合う。
あれこれ考えながら、それでも刺身が傷まないよう大急ぎで盛り付ける。出来上がった皿を見て、弥一郎が大きく頷いた。
「おきよらしい、柔らかい感じの盛り付けだな」
「おかしくありませんか?」
「ぜんぜん。上品でいい。白い皿は赤身の刺身がきれいに見える。今度から鮪や鰹には白を使うことにしよう」
ほっとする間もなく、汁を拵え始める。父は空腹に違いない。とにかく急がなければ、ときよは手を動かし続けた。
「上がったぞ!」
弥一郎の声で、源太郎が皿を盆にのせる。白飯と刺身、香の物はすでに盆の上、あとは汁をのせて運ぶばかりだった。
「これは……眼福」
運ばれた刺身を見て、父が驚きの声を上げた。さらに歓呼の声が続く。
「納豆汁か!」
すかさず源太郎が訊ねる。
「お好きですか?」
「納豆汁は大好物です。いや、これは嬉しい」
父はさっそく汁を啜り始めた。
そのまま父の反応を窺っていたかったけれど、立て続けに客が入ってきてしまった。
子どもたちが働いているのに、と酒を控えてくれた父のためにもしっかり勤めなければ、ときよは背筋を伸ばす。その思いに応えるように、常連ふたり組が暖簾をくぐってきた。
「『おきよの五色素麺』をくれ! 玉子たっぷりでな」
「豪勢だな。こちとら同じ素麺でも雨続きのせいで玉子抜きしか食えねえってのに」
「なに言ってんだ。俺は大工、おまえは屋根職人。雨で稼げねえのは同じだぜ。だが、しみったれてたって仕方ねえ。ここはひとつ玉子で景気づけだ!」
「なるほど、じゃあ俺も玉子入りで!」
座敷に上がりながらふたり組が注文を飛ばす。仕事の段取りのせいか、昼飯が遅くなったらしい。続いて入ってきて父の近くに座ったのは、四十前後の女。ふたり組と同じく常連で、こちらは近くの長屋に住む生花の師匠である。
注文を取りに行った源太郎が、板場に来て言う。
「おきよ、お師匠さんが褒めてたよ。刺身の盛り付けがきれいだって!」
源太郎が鼻の穴を膨らませた。やけに嬉しそうだと思ったら、普段なら汁と飯、あるいは素麺といった軽いものしか頼まないお師匠さんが、刺身を注文してくれたという。父に出された刺身の皿を見て、同じものが欲しい、ついでにお酒も一本……と言ったそうだ。きれいに花を生けるのが生業のお師匠さんに褒められるなんて大したものだ、と源太郎も大いに褒めてくれた。
だが、嬉しいのは嬉しいが、きよが気になるのはお師匠さんより父のほうだった。
「あの……旦那さん、父はなんて……?」
「もちろん、五郎次郎さんも褒めてたよ。おきよが盛り付けましたって言ったら、きよは昔から、器の選び方やあしらいがうまいのか、盛り付けが粋だった、江戸に来てからさらに腕を上げたみたいだ、って目尻を下げっぱなし。納豆汁も滅法旨かったってさ。思ったより『千川』さんのお役に立ってるみたいで安心しました、だってよ」
「よかった……」
「これで、逢坂に連れ戻される心配はなくなったかな」
弥一郎の言葉に、源太郎がぎょっとする。おきよに言っちまったのかい……とこぼしたあと、申し訳なさそうに言った。
「すまなかった。俺が要らぬことを言ったばっかりに、おとっつぁんに長旅をさせちまった。にしても……大したもんだよ、五郎次郎さんは」
俺は息子の彦之助の様子が気になりながらも、京まで見に行く気にはなれなかった。妻のさとは一度見てきてくれと何度も頼んできたが、腰を上げようとしなかった。しかも、路銀をごまかして迷惑をかけたというのに、文で詫びただけで済ませた。親としての心構えが足りないのかもしれない、と源太郎は言う。
どう言葉を返すべきか悩むきよの代わりに、弥一郎が答えてくれた。
「あちらさんは隠居、親父はいまだ『千川』の主、同じようにはいくまいって」
「そ、そうです。親としての心構えとはかかわりありません」
「そうだな……暇さえあれば、俺も京に詫びに行った。そう思っておくことにする。俺と五郎次郎さんは、昔から似た者同士だったからな」
苦笑しつつ、源太郎は客のほうに戻っていく。
『昔から似た者同士』という言葉に首を傾げたものの、注文はどんどんたまっていく。今は料理を出すのが先だった。
鰹の刺身と納豆汁がよほど気に入ったのか、はたまた空腹過ぎたのか、父は白飯をおかわりまでしてきれいに平らげた。
客はそれなりの数だったが、遅い昼飯を食べに来た者ばかりで長居はせず、満席になることもなかった。主のすすめもあって、父が食べ終わったあともゆっくり休むことができたのはなによりだった。
それでも、さすがに一刻(二時間)もいれば十分、これ以上は迷惑と思ったのだろう。父はゆっくり立ち上がると、板場の近くまで来て源太郎に声をかけた。
「お邪魔しました。俺はこれで……」
「え、もう? きよも清五郎もまだ……」
おそらく源太郎は、父がきよたちの家に泊まると思っているのだろう。姉弟は仕事中だし、ひとりで戻っても仕方がないと考えているに違いない。
その証に、申し訳なさそうな言葉が続く。
「里から親父さんが来てくれるなんて滅多にあることじゃない。早帰りさせてやりたいのは山々ですが、これから忙しくなる時分で……」
「とんでもねえ話ですよ、源太郎さん。こんなにゆっくりさせてもらっただけでもありがたい。子どもたちの働きぶりも確かめられたし、あとはどこか宿を探して……」
「宿? おきよたちのところじゃなくて?」
「なに言ってんだい、おとっつぁん! うちに泊まればいいじゃねえか!」
源太郎の声を聞きつけて、清五郎もすっ飛んできた。きよは、父がそう決めたのなら仕方がないと思っていたが、弟は納得できないのだろう。
「せっかくだが、長屋は狭いだろう? 布団だって……」
「狭いったって、ひとりぐらいなんとでもなる。布団なんぞ俺のを使えばいい」
「俺のって……おまえはどうするんだ?」
「俺は平気だよ。冬の最中じゃあるまいし、そこらでごろ寝したって風邪なんて引かねえさ」
「そうもいかねえだろう。お勤めに障りがあっちゃなんねえ」
「だってよう……。それじゃあ、せっかく来てくれたのにろくに話もできねえ……」
清五郎は下唇を噛みしめている。
子どものころ、悔しかったり思いどおりにならなかったりしたとき、よくこんなふうにしていた。おそらく父の布団を用意しなかったことを悔いているのだろう。無理もない。江戸に来てから、きよたちを泊まりで訪う者はひとりもいなかった。実家にいたころですら、人の布団の心配などしたことがなかったのだから、清五郎が思いつかなくて当然、むしろきよの怠りと言えた。
「ごめんなさい、おとっつぁん。それに、清五郎も……。私が損料屋に借りておくべきだった……」
損料屋はありとあらゆる道具を貸してくれる。布団だって借りられるはずだ。自分たちは勤めがあるから無理にしても、隣のよねに頼めば代わりに行ってくれたかもしれない。こんなに清五郎が父と過ごしたがっているとわかっていたら頼んでおいたのに……と思ってもあとの祭りだった。
「損料屋か……。今から行ってみるかな……」
父が苦笑いで言う。
息子がこんなふうに唇を噛む姿は見たくないのだろう。それが夜の間だけでも一緒に過ごしたいという思いからだとわかっていれば、甘くなるのも無理はない。
「ではこの足で……」
「ちょっと待ってください」
そこで踵を返そうとした父を呼び止めたのは、弥一郎だった。
先ほどから清五郎と父の会話を聞きながら難しい顔をしていたが、もしや窘められるのだろうか。勤めに障りが出るから父親には宿に泊まってもらえ、などと……
そんなきよの心配をよそに、弥一郎は源太郎に訊ねた。
「うちに余分な布団はなかったか?」
「ねえはずだ。少し前まであるにはあったが、彦之助が戻ってきたから今はあいつが使ってるし……」
「いや、それじゃねえ。いつだったか布団を打ち直したときに、間に合わせで誂えたやつ。最初はそれこそ損料屋に借りようって話だったが、奉公人の分まで順繰りに打ち直すから長くかかる。損料も馬鹿にならねえし、それぐらいなら買っちまえって……。あれってどうなった?」
「そういやそんなこともあったな……。処分した覚えはねえから、まだあるはずだ。よし、訊いてこよう。五郎次郎さん、ちょいと待っててくだせえ」
そう言い残し、源太郎は店を出ていった。そのまま裏の家に行って、さとに訊ねるのだろう。
程なく、源太郎が戻ってきて嬉しそうに言う。
「あった、あった、ありましたぜ、五郎次郎さん! これで損料屋に行かなくて済むし、今夜からでも長屋で寝られます。いや、よかったよかった」
「いや、でも、お借りするのは……」
「なにを言ってるんですか。どうせ使ってない布団です。なんなら長屋じゃなくてうちに泊まってもらってもいいんですが、それじゃあ清五郎が合点しない。多少狭くても親子水入らずで過ごしてくださいな」
「本当にいいんですか? じゃあ……お言葉に甘えますかな……」
「どうぞどうぞ。今、うちのやつに大風呂敷に包ませてますんで」
「ありがとうございます!」
父が深々と頭を下げた。清五郎も大喜びで言う。
「旦那さん、本当にありがとうございます!」
「いやいや、とにかく使える布団があってよかった」
源太郎の言葉で布団の話は終わり、あとは長屋に運ぶだけとなった。
父は自分が担いでいくと言うが、いくら休んだあとといってもまだまだ疲れは残っている。さすがに布団を背負わせるわけにはいかない、と思ったのか、清五郎が言った。
「おとっつぁん、俺が帰りに背負っていくよ」
「布団ぐらい持てるさ」
「いやいや、やめたほうがいい。どうせ寝るときにしか使わねえんだから、夜になってもかまわねえだろ?」
「じゃあ任せようかな……」
そう言いつつも、父はまだためらっている。仕事帰りの息子に布団まで運ばせたくないのだろう。その時、戸口に男がぬっと現れた。誰かと思えば彦之助、しかも大きな風呂敷包みを背負っている。
「おとっつぁん、布団の支度が調ったぜ。これ、おきよのとこに持っていけばいいんだよな?」
「そうか、おまえがいたな。じゃあ、ひとつ頼まれてくれ」
ほっとした様子の源太郎に、慌てて清五郎が言う。
「平気ですって。俺が帰りに……」
「いやいや。天気がまた崩れかけてる。ものが布団だけに濡れたらことだ。今のうちに運んだほうがいい」
彦之助の言葉で、みんなが一斉に外に目をやる。確かに、今にも降り出しそうな空の色だった。
「そうか、雨は面倒だな……」
「ってことで、ちょっくら運んでくるよ。俺が行けば道案内もできるし。『菱屋』さんは、孫兵衛長屋をご存じないでしょう?」
「道を教えてもらおうと思ってましたが、一緒に行ってもらえるなら助かります」
手間を取らせて申し訳ない、と父は頭を下げた。
「頭なんて下げねえでくだせえ」
彦之助が目を白黒させながら言う。
『菱屋』は逢坂ではそれなりの大店だ。その主が若造相手にこんなふうに頭を下げるのが珍しいのだろう。さらに続ける。
「俺はせっかく修業先を世話してもらいながら逃げ出して、『菱屋』さんの顔に泥を塗った男です。どれだけ詫びても詫びきれねえ。布団ぐらい運ばせてくだせえ」
「ああ、じゃああんたが彦之助さんか……。話は娘から聞いてますよ」
『娘』という言葉に、彦之助がきよを見た。だが、きよは父への文に彦之助のことを書いたことはない。この場合の『娘』はきよではなく姉、彦之助が修業に行った京の料理茶屋『七嘉』に嫁入りしたせいのことだろう。
「せいが文で委細を知らせてきました。あの店なら、と思って紹介したのですが、とんだことになってしまいまして。先日せいの亭主からも、申し訳なかったと連絡がありましたよ」
「そうでしたか……」
「亭主は『千川』の息子は筋がいいって褒めてました。あんなことがあったのだから、店に戻すわけにはいかないし、本人も戻りたくないだろうが、なんとか修業は続けてほしいとありました。かなり買っていたようですよ」
「ご亭主はできたお方ですな……」
彦之助は兄弟子たちに虐められ、江戸に使いに出されたのをいいことにそのまま家に戻ってきた。おまけに路銀にまで手を付けたというのに、なんと寛容な……と源太郎はしきりにありがたがる。
どうやら姉の夫は思ったよりいい人らしい。きよは密かに、彦之助は姉を慕っているのではないかと思っている。もしその憶測が当たっているとしたら彦之助の心情は複雑かもしれない。いや、案外せいが幸せに暮らせそうなことに安心するだろうか……
いずれにしても彦之助はそれには触れず、軽く会釈して父を促した。
「じゃ、『菱屋』さん、そろそろ出かけましょう」
「はい、お世話になります」
かくしてふたりは孫兵衛長屋に向けて歩き出す。孫兵衛長屋の大家は信心深く、頻繁に富岡八幡宮にお参りしているせいか、界隈の店をよく知っている。『千川』についても昔からの馴染みで、その縁もあってきよと清五郎は孫兵衛長屋に住むことになった。
彦之助はここで生まれ育ったし、『千川』の息子でもある。大家だって顔ぐらい覚えているだろう。布団を担いでいったところで、怪しまれることもない。大家は気のいい人だから、父を隣のよね親子にも紹介してくれるはずだ。きよたちが家に戻るまで、安心して過ごせるに違いない。
七つ(午後四時)の鐘が聞こえてきた。
夏場だからまだまだ明るいが、雨が降り出せば、外仕事の職人たちが早上がりしてやってくるかもしれない。父が着いたあと、いつになく客がたくさん来たせいで作り置きしてあった料理が足りなくなりそうだ。夜に備えて仕込み直さねばならない。
――ありがとう旦那さん、板長さん、それに彦之助さん。おかげでおとっつぁんのことを気にかけずに仕事に励める……
深く感謝しつつ、きよはへっついの前に戻る。さっそく弥一郎が声をかけてきた。
「おきよ、鰹の刺身に茗荷を添えるのはいい考えだった。白い皿に映えるし、おとっつぁんも残さず食ってくれた。夜の客にも使いたいから、もっと刻んでおいてくれ」
「はーい」
ふとした思いつきを褒められ、きよはますます嬉しくなる。父も褒めてくれたそうだし、清五郎もきびきび動き回っていた。
源太郎の言うとおり、ふたりが働く様子を目の当たりにし、父も少しは安心してくれたのではないか。そうであってほしい、と思いながら、きよは薄紫の茗荷をまな板の上にのせた。
勤めを終えた帰り道、清五郎は途中で道を折れようとしなかった。いつもならここできよと別れて湯屋に行くのに、と不思議に思って声をかける。
「あら、湯屋に寄らないの?」
「湯屋はあとでおとっつぁんと一緒に行く。すっかり遅くなっちまったし、おとっつぁん、さぞや腹を減らしてるだろうから」
「そうね、じゃあ急ぎましょう」
足を速め、大急ぎで家に戻る。引き戸を開けると、そこには昼間よりずいぶん顔色が良くなった父の姿があった。おかえり、と迎えられ、清五郎が元気よく答える。
「ただいま、おとっつぁん! 遅くなって済まなかった!」
「なんの。うまい昼飯で腹はいっぱいになったし、布団を運んでもらったおかげでしっかり昼寝ができた。生き返ったような気がするよ」
「そうかい、そうかい。それでも昼飯を食ってからもうずいぶんになる。さぞ腹が減っただろう。旦那さんは、少し早めに上がっていいって言ってくれたんだけど……」
そう言いながら、清五郎はきよを見る。恨めしげなのは、きよが、せっかくすすめられた早上がりを断ったからに違いない。
「ごめんなさい。おとっつぁんが待ってるのはわかってたんだけど、日が暮れてからやけに忙しくなっちゃって……」
父が孫兵衛長屋に向かったあと、しばらく客足が止まっていた。雨で早上がりする職人たちを見込んで仕込みに励んだのに、空振りだったか……と落胆したのもつかの間、暮れ六つ(午後六時)過ぎから一気に客が増えた。どうやら、職人たちは湯屋を済ませてさっぱりしてから『千川』にやってきたらしい。
しかも、今日に限ってどの客もやけに健啖で注文はひっきりなし。お運びは言うまでもなく、板場もてんてこ舞い。いくら源太郎にすすめられても、自分たちだけが抜け出すことなんてできるわけがなかった。
「商売繁盛はけっこうなことだ。それに、親が来てるからって勤めを疎かにするようなやつは願い下げだ。おまえたちがそんな輩じゃなくてよかったよ」
「よかった……そう言ってくれて」
思わず安堵の息が漏れる。
実は仕事を続けながらも、父が勝手のわからぬ部屋で居心地の悪い思いをしているのではないか、あるいは主の心遣いを無にしたのか、と叱られるのではないかと心配していたのだ。だが、よく考えれば、大店の主である父が勤めを疎かにする奉公人を許すはずがなかった。
「まったく……姉ちゃんは根っからの働き者だからな。ま、おとっつぁん譲りかもしれねえけど」
「俺だけじゃねえ。おまえたちの母親だって働き者だ。だからこそ、おまえの兄や姉たちも働き者になったし、連れ合いだって怠け者はひとりもいない。唯一の例外がおまえだった」
「ちぇ……どうせ俺は姉ちゃんみたいな芯からの働き者じゃねえよ」
逢坂にいたころは、習い事も家の手伝いも怠けてばかりだったと清五郎は項垂れた。
そんな弟を見ていられず、きよは口を開いた。
「でも、江戸に来てからずいぶん変わったじゃない。一生懸命奉公してるし、考えだって前よりずっとしっかりしてきたわ」
「でもさ、今も、早上がりを断った姉ちゃんを恨みに思うぐらいだから、怠け心は消えちゃいねえんだよ」
「怠け心なんて誰にだってあるわよ。それを表に出さずに頑張ることが大事。清五郎はちゃんとできてるから大丈夫」
「そうかな……」
そこで清五郎は、心配そうに父を見た。
きよは源太郎から父の言葉を伝えられたが、清五郎は聞いていない。おそらく、父が自分の働きぶりをどう思ったのか確かめたいのだろう。
父が、くすりと笑って言った。
「おまえも立派になったよ。客の様子に目が行き届いてるし、なにか言われたときの返事もいい。おまえは声が通るから、板場も聞き取りやすいだろう。ついでに……」
そこで父は言葉を止め、一瞬考えたあと、思い切ったように続けた。
「こんなことを言うのは自惚れさせるようでためらわれるが、客の評判は悪くないと思うぞ」
「それは姉ちゃんの話だろ? 俺は別に……」
「おきよの料理は言うまでもない。だが、おまえも負けず劣らず大したもんだ。客の案内も、注文取りも料理を運ぶ様にも危なげがない。それに、おまえを目当てに『千川』に来る客もいるんじゃないのか?」
「俺目当ての客?」
「ああ、俺のあとから入ってきた女がいただろ?」
「もしかして、お花のお師匠さん?」
「ああ、お花をやってる人か。どうりで盛り付けを気にしたはずだ……。あの女、ずっとおまえを目で追ってたぞ」
「うへえ……」
清五郎は、どうせならもっと若い娘がいい、などと嘆く。きよは思わず、弟のおでこをぴしゃりと叩いてしまった。
「失礼なことを言うんじゃありません! あんなちゃんとした人に見初められるなんてありがたいじゃないの」
とたんに父が噴き出した。
「二十一にもなって、まだおきよにおでこを張られてるのか。がきのころからちっとも変わってねえ。店での様子を見て、こいつもしっかり働くようになった、いよいよ『菱屋』の働き者の血が現れてきたって喜んだのによ」
「子どもだろうが大人だろうが、姉ちゃんはいつまでも姉ちゃんだし、ときどきおっかなくなるのも変わんねえよ!」
「まあな。俺もそんなおきよだからこそ、おまえを任せた。おきよならおまえの世話をしっかりしてくれる、間違ったことをやらかしてもちゃんと叱ってくれるってな」
「はいはい、しっかり叱られてますよ! 今俺があるのは姉ちゃんのおかげ」
「ならよかった。いずれにしても、おまえもおきよもしっかりやってる。半端なことをしてたら源太郎さんに顔向けできねえ、って心配しながら来たが、安心したよ」
「あの……おとっつぁん……」
恐る恐る切り出したきよを、父は怪訝そうに見た。
続く言葉が『逢坂に連れ戻される』であることは、容易に想像できた。辛そうな顔つきから、弥一郎もきよが連れ戻されては困ると思っていることが確信できる。
しきりに豆腐の工夫を褒め立て、胸を張れと言ったのも、父にきよの自信のない姿を見せまいという気遣いからだったのだろう。
「そうだったんですか……」
「本当にすまん。だが、おとっつぁんを了見させるには、おまえが気張るしかねえ」
力のこもった目できよを見たあと、弥一郎は伊蔵に声をかけた。
「伊蔵、今日の汁はおまえの受け持ちだが、『菱屋』さんのはおきよに任せろ」
「へーい」
「それとおきよ、こいつも頼む」
そこで弥一郎は刺身を盛ろうとしていた手を止め、皿をきよに渡した。
「おまえに刺身を引かせるわけにはいかないが、盛り付けなら任せられる」
「盛り付けですか?」
「どんなに旨い料理でも、盛り付け次第で不味そうに見えてしまう。逆に多少難ありでも盛り付けがうまくいけば、ひと味上がったように見える。疎かにされがちだが、盛り付けってのはそれぐらい大事なんだ」
「そんな大切な仕事を私に?」
「おとっつぁんに修業の成果を見てもらうのに格好だろう」
弥一郎はにやりと笑って、糸切り大根や青紫蘇といったあしらいを入れた平笊を回してくる。ついでに大根おろしが入った鉢も……おそらく薬味として添えろということだろう。だが、父は確か鰹の刺身に大根おろしは使わない。大根おろしの鉢だけ返し、代わりに皿に伏せてあった猪口に手を伸ばした。
「こっちを使わせてもらいます」
「おとっつぁんは辛子好きか」
「はい。鮪には大根おろしですが、鰹は辛子に限るって」
「わかる。俺も鰹には辛子だ」
「それと……お皿を変えてもいいですか?」
先ほど渡されたのは、刺身ならこれと決まった鶯茶の角皿だった。平目や鯛といった白身の魚はよく映えるが、鮪や鰹のような赤身は色が沈むので糸切り大根を敷かなければならない。だが、糸切り大根はあくまでも飾りとして食べ残す客も多い。残った糸切り大根は捨てるしかなく、そのたびにもったいないと思っていた。
赤身の刺身のときは違う皿を試してみたい。皿の色を変えれば、糸切り大根を敷き詰めなくてもいい。使う量を減らしてうまく盛り付けられれば、無駄が減って儲けに通じる。そんな試みも相手が父なら許されるのではないか、ときよは考えたのである。
皿を変えたいという言葉に意表を突かれたようだったが、それでも弥一郎は好きな皿を使えと言ってくれた。
言い出す前から目当ての皿は決まっている。器がずらりと並んでいる棚から取り出したのは、小指の爪半分ほどの線で渦巻きを描いた丸皿。地はほんの少し灰色がまじった白、赤身の魚にはもってこいの色だった。
「飛び鉋、しかも丸皿ときたか……」
弥一郎によると、これは飛び鉋という模様で筑前の窯で焼かれた皿らしい。船で運ばれてきた貴重な品だと聞いて、きよはぎょっとした。
「そんな大事なお皿なんですか! じゃあ、ほかのを……」
慌てて別の皿を探そうとするきよに、弥一郎は笑って言った。
「かまわねえ。皿なんざ、使ってこそだ」
「じゃあ……」
安心して、それでも皿をまな板にそっとのせる。
『千川』で刺身に使っている角皿より小振りなのでのせられる量は減るが、むしろ好都合だ。なにせ母からの文によると、父は五十を過ぎて食欲が落ちつつあるのに食い道楽がやめられず、あれもこれも食べたいのにすぐに腹が満ちてしまう、と嘆いてばかりだそうだ。一皿の量が減ればその分ほかの料理を楽しめるに違いない。
糸切り大根を小さく盛り、もたれかけるように大葉を置く。その大葉に重ねて刺身を並べる。そこにまた大葉を半分ほど重ねてもう一列刺身、手前に辛子、糸切り大根の脇にはわかめと千切りにした茗荷をのせてみた。
独活か茗荷のどちらにしようか迷ったけれど、確か父は茗荷が大好物だ。そのまま醤油で食べてもいいし、汁に入れるのも乙ということで茗荷にした。なにより飛び鉋の皿には、真っ白な独活よりも薄紫の茗荷のほうが合う。
あれこれ考えながら、それでも刺身が傷まないよう大急ぎで盛り付ける。出来上がった皿を見て、弥一郎が大きく頷いた。
「おきよらしい、柔らかい感じの盛り付けだな」
「おかしくありませんか?」
「ぜんぜん。上品でいい。白い皿は赤身の刺身がきれいに見える。今度から鮪や鰹には白を使うことにしよう」
ほっとする間もなく、汁を拵え始める。父は空腹に違いない。とにかく急がなければ、ときよは手を動かし続けた。
「上がったぞ!」
弥一郎の声で、源太郎が皿を盆にのせる。白飯と刺身、香の物はすでに盆の上、あとは汁をのせて運ぶばかりだった。
「これは……眼福」
運ばれた刺身を見て、父が驚きの声を上げた。さらに歓呼の声が続く。
「納豆汁か!」
すかさず源太郎が訊ねる。
「お好きですか?」
「納豆汁は大好物です。いや、これは嬉しい」
父はさっそく汁を啜り始めた。
そのまま父の反応を窺っていたかったけれど、立て続けに客が入ってきてしまった。
子どもたちが働いているのに、と酒を控えてくれた父のためにもしっかり勤めなければ、ときよは背筋を伸ばす。その思いに応えるように、常連ふたり組が暖簾をくぐってきた。
「『おきよの五色素麺』をくれ! 玉子たっぷりでな」
「豪勢だな。こちとら同じ素麺でも雨続きのせいで玉子抜きしか食えねえってのに」
「なに言ってんだ。俺は大工、おまえは屋根職人。雨で稼げねえのは同じだぜ。だが、しみったれてたって仕方ねえ。ここはひとつ玉子で景気づけだ!」
「なるほど、じゃあ俺も玉子入りで!」
座敷に上がりながらふたり組が注文を飛ばす。仕事の段取りのせいか、昼飯が遅くなったらしい。続いて入ってきて父の近くに座ったのは、四十前後の女。ふたり組と同じく常連で、こちらは近くの長屋に住む生花の師匠である。
注文を取りに行った源太郎が、板場に来て言う。
「おきよ、お師匠さんが褒めてたよ。刺身の盛り付けがきれいだって!」
源太郎が鼻の穴を膨らませた。やけに嬉しそうだと思ったら、普段なら汁と飯、あるいは素麺といった軽いものしか頼まないお師匠さんが、刺身を注文してくれたという。父に出された刺身の皿を見て、同じものが欲しい、ついでにお酒も一本……と言ったそうだ。きれいに花を生けるのが生業のお師匠さんに褒められるなんて大したものだ、と源太郎も大いに褒めてくれた。
だが、嬉しいのは嬉しいが、きよが気になるのはお師匠さんより父のほうだった。
「あの……旦那さん、父はなんて……?」
「もちろん、五郎次郎さんも褒めてたよ。おきよが盛り付けましたって言ったら、きよは昔から、器の選び方やあしらいがうまいのか、盛り付けが粋だった、江戸に来てからさらに腕を上げたみたいだ、って目尻を下げっぱなし。納豆汁も滅法旨かったってさ。思ったより『千川』さんのお役に立ってるみたいで安心しました、だってよ」
「よかった……」
「これで、逢坂に連れ戻される心配はなくなったかな」
弥一郎の言葉に、源太郎がぎょっとする。おきよに言っちまったのかい……とこぼしたあと、申し訳なさそうに言った。
「すまなかった。俺が要らぬことを言ったばっかりに、おとっつぁんに長旅をさせちまった。にしても……大したもんだよ、五郎次郎さんは」
俺は息子の彦之助の様子が気になりながらも、京まで見に行く気にはなれなかった。妻のさとは一度見てきてくれと何度も頼んできたが、腰を上げようとしなかった。しかも、路銀をごまかして迷惑をかけたというのに、文で詫びただけで済ませた。親としての心構えが足りないのかもしれない、と源太郎は言う。
どう言葉を返すべきか悩むきよの代わりに、弥一郎が答えてくれた。
「あちらさんは隠居、親父はいまだ『千川』の主、同じようにはいくまいって」
「そ、そうです。親としての心構えとはかかわりありません」
「そうだな……暇さえあれば、俺も京に詫びに行った。そう思っておくことにする。俺と五郎次郎さんは、昔から似た者同士だったからな」
苦笑しつつ、源太郎は客のほうに戻っていく。
『昔から似た者同士』という言葉に首を傾げたものの、注文はどんどんたまっていく。今は料理を出すのが先だった。
鰹の刺身と納豆汁がよほど気に入ったのか、はたまた空腹過ぎたのか、父は白飯をおかわりまでしてきれいに平らげた。
客はそれなりの数だったが、遅い昼飯を食べに来た者ばかりで長居はせず、満席になることもなかった。主のすすめもあって、父が食べ終わったあともゆっくり休むことができたのはなによりだった。
それでも、さすがに一刻(二時間)もいれば十分、これ以上は迷惑と思ったのだろう。父はゆっくり立ち上がると、板場の近くまで来て源太郎に声をかけた。
「お邪魔しました。俺はこれで……」
「え、もう? きよも清五郎もまだ……」
おそらく源太郎は、父がきよたちの家に泊まると思っているのだろう。姉弟は仕事中だし、ひとりで戻っても仕方がないと考えているに違いない。
その証に、申し訳なさそうな言葉が続く。
「里から親父さんが来てくれるなんて滅多にあることじゃない。早帰りさせてやりたいのは山々ですが、これから忙しくなる時分で……」
「とんでもねえ話ですよ、源太郎さん。こんなにゆっくりさせてもらっただけでもありがたい。子どもたちの働きぶりも確かめられたし、あとはどこか宿を探して……」
「宿? おきよたちのところじゃなくて?」
「なに言ってんだい、おとっつぁん! うちに泊まればいいじゃねえか!」
源太郎の声を聞きつけて、清五郎もすっ飛んできた。きよは、父がそう決めたのなら仕方がないと思っていたが、弟は納得できないのだろう。
「せっかくだが、長屋は狭いだろう? 布団だって……」
「狭いったって、ひとりぐらいなんとでもなる。布団なんぞ俺のを使えばいい」
「俺のって……おまえはどうするんだ?」
「俺は平気だよ。冬の最中じゃあるまいし、そこらでごろ寝したって風邪なんて引かねえさ」
「そうもいかねえだろう。お勤めに障りがあっちゃなんねえ」
「だってよう……。それじゃあ、せっかく来てくれたのにろくに話もできねえ……」
清五郎は下唇を噛みしめている。
子どものころ、悔しかったり思いどおりにならなかったりしたとき、よくこんなふうにしていた。おそらく父の布団を用意しなかったことを悔いているのだろう。無理もない。江戸に来てから、きよたちを泊まりで訪う者はひとりもいなかった。実家にいたころですら、人の布団の心配などしたことがなかったのだから、清五郎が思いつかなくて当然、むしろきよの怠りと言えた。
「ごめんなさい、おとっつぁん。それに、清五郎も……。私が損料屋に借りておくべきだった……」
損料屋はありとあらゆる道具を貸してくれる。布団だって借りられるはずだ。自分たちは勤めがあるから無理にしても、隣のよねに頼めば代わりに行ってくれたかもしれない。こんなに清五郎が父と過ごしたがっているとわかっていたら頼んでおいたのに……と思ってもあとの祭りだった。
「損料屋か……。今から行ってみるかな……」
父が苦笑いで言う。
息子がこんなふうに唇を噛む姿は見たくないのだろう。それが夜の間だけでも一緒に過ごしたいという思いからだとわかっていれば、甘くなるのも無理はない。
「ではこの足で……」
「ちょっと待ってください」
そこで踵を返そうとした父を呼び止めたのは、弥一郎だった。
先ほどから清五郎と父の会話を聞きながら難しい顔をしていたが、もしや窘められるのだろうか。勤めに障りが出るから父親には宿に泊まってもらえ、などと……
そんなきよの心配をよそに、弥一郎は源太郎に訊ねた。
「うちに余分な布団はなかったか?」
「ねえはずだ。少し前まであるにはあったが、彦之助が戻ってきたから今はあいつが使ってるし……」
「いや、それじゃねえ。いつだったか布団を打ち直したときに、間に合わせで誂えたやつ。最初はそれこそ損料屋に借りようって話だったが、奉公人の分まで順繰りに打ち直すから長くかかる。損料も馬鹿にならねえし、それぐらいなら買っちまえって……。あれってどうなった?」
「そういやそんなこともあったな……。処分した覚えはねえから、まだあるはずだ。よし、訊いてこよう。五郎次郎さん、ちょいと待っててくだせえ」
そう言い残し、源太郎は店を出ていった。そのまま裏の家に行って、さとに訊ねるのだろう。
程なく、源太郎が戻ってきて嬉しそうに言う。
「あった、あった、ありましたぜ、五郎次郎さん! これで損料屋に行かなくて済むし、今夜からでも長屋で寝られます。いや、よかったよかった」
「いや、でも、お借りするのは……」
「なにを言ってるんですか。どうせ使ってない布団です。なんなら長屋じゃなくてうちに泊まってもらってもいいんですが、それじゃあ清五郎が合点しない。多少狭くても親子水入らずで過ごしてくださいな」
「本当にいいんですか? じゃあ……お言葉に甘えますかな……」
「どうぞどうぞ。今、うちのやつに大風呂敷に包ませてますんで」
「ありがとうございます!」
父が深々と頭を下げた。清五郎も大喜びで言う。
「旦那さん、本当にありがとうございます!」
「いやいや、とにかく使える布団があってよかった」
源太郎の言葉で布団の話は終わり、あとは長屋に運ぶだけとなった。
父は自分が担いでいくと言うが、いくら休んだあとといってもまだまだ疲れは残っている。さすがに布団を背負わせるわけにはいかない、と思ったのか、清五郎が言った。
「おとっつぁん、俺が帰りに背負っていくよ」
「布団ぐらい持てるさ」
「いやいや、やめたほうがいい。どうせ寝るときにしか使わねえんだから、夜になってもかまわねえだろ?」
「じゃあ任せようかな……」
そう言いつつも、父はまだためらっている。仕事帰りの息子に布団まで運ばせたくないのだろう。その時、戸口に男がぬっと現れた。誰かと思えば彦之助、しかも大きな風呂敷包みを背負っている。
「おとっつぁん、布団の支度が調ったぜ。これ、おきよのとこに持っていけばいいんだよな?」
「そうか、おまえがいたな。じゃあ、ひとつ頼まれてくれ」
ほっとした様子の源太郎に、慌てて清五郎が言う。
「平気ですって。俺が帰りに……」
「いやいや。天気がまた崩れかけてる。ものが布団だけに濡れたらことだ。今のうちに運んだほうがいい」
彦之助の言葉で、みんなが一斉に外に目をやる。確かに、今にも降り出しそうな空の色だった。
「そうか、雨は面倒だな……」
「ってことで、ちょっくら運んでくるよ。俺が行けば道案内もできるし。『菱屋』さんは、孫兵衛長屋をご存じないでしょう?」
「道を教えてもらおうと思ってましたが、一緒に行ってもらえるなら助かります」
手間を取らせて申し訳ない、と父は頭を下げた。
「頭なんて下げねえでくだせえ」
彦之助が目を白黒させながら言う。
『菱屋』は逢坂ではそれなりの大店だ。その主が若造相手にこんなふうに頭を下げるのが珍しいのだろう。さらに続ける。
「俺はせっかく修業先を世話してもらいながら逃げ出して、『菱屋』さんの顔に泥を塗った男です。どれだけ詫びても詫びきれねえ。布団ぐらい運ばせてくだせえ」
「ああ、じゃああんたが彦之助さんか……。話は娘から聞いてますよ」
『娘』という言葉に、彦之助がきよを見た。だが、きよは父への文に彦之助のことを書いたことはない。この場合の『娘』はきよではなく姉、彦之助が修業に行った京の料理茶屋『七嘉』に嫁入りしたせいのことだろう。
「せいが文で委細を知らせてきました。あの店なら、と思って紹介したのですが、とんだことになってしまいまして。先日せいの亭主からも、申し訳なかったと連絡がありましたよ」
「そうでしたか……」
「亭主は『千川』の息子は筋がいいって褒めてました。あんなことがあったのだから、店に戻すわけにはいかないし、本人も戻りたくないだろうが、なんとか修業は続けてほしいとありました。かなり買っていたようですよ」
「ご亭主はできたお方ですな……」
彦之助は兄弟子たちに虐められ、江戸に使いに出されたのをいいことにそのまま家に戻ってきた。おまけに路銀にまで手を付けたというのに、なんと寛容な……と源太郎はしきりにありがたがる。
どうやら姉の夫は思ったよりいい人らしい。きよは密かに、彦之助は姉を慕っているのではないかと思っている。もしその憶測が当たっているとしたら彦之助の心情は複雑かもしれない。いや、案外せいが幸せに暮らせそうなことに安心するだろうか……
いずれにしても彦之助はそれには触れず、軽く会釈して父を促した。
「じゃ、『菱屋』さん、そろそろ出かけましょう」
「はい、お世話になります」
かくしてふたりは孫兵衛長屋に向けて歩き出す。孫兵衛長屋の大家は信心深く、頻繁に富岡八幡宮にお参りしているせいか、界隈の店をよく知っている。『千川』についても昔からの馴染みで、その縁もあってきよと清五郎は孫兵衛長屋に住むことになった。
彦之助はここで生まれ育ったし、『千川』の息子でもある。大家だって顔ぐらい覚えているだろう。布団を担いでいったところで、怪しまれることもない。大家は気のいい人だから、父を隣のよね親子にも紹介してくれるはずだ。きよたちが家に戻るまで、安心して過ごせるに違いない。
七つ(午後四時)の鐘が聞こえてきた。
夏場だからまだまだ明るいが、雨が降り出せば、外仕事の職人たちが早上がりしてやってくるかもしれない。父が着いたあと、いつになく客がたくさん来たせいで作り置きしてあった料理が足りなくなりそうだ。夜に備えて仕込み直さねばならない。
――ありがとう旦那さん、板長さん、それに彦之助さん。おかげでおとっつぁんのことを気にかけずに仕事に励める……
深く感謝しつつ、きよはへっついの前に戻る。さっそく弥一郎が声をかけてきた。
「おきよ、鰹の刺身に茗荷を添えるのはいい考えだった。白い皿に映えるし、おとっつぁんも残さず食ってくれた。夜の客にも使いたいから、もっと刻んでおいてくれ」
「はーい」
ふとした思いつきを褒められ、きよはますます嬉しくなる。父も褒めてくれたそうだし、清五郎もきびきび動き回っていた。
源太郎の言うとおり、ふたりが働く様子を目の当たりにし、父も少しは安心してくれたのではないか。そうであってほしい、と思いながら、きよは薄紫の茗荷をまな板の上にのせた。
勤めを終えた帰り道、清五郎は途中で道を折れようとしなかった。いつもならここできよと別れて湯屋に行くのに、と不思議に思って声をかける。
「あら、湯屋に寄らないの?」
「湯屋はあとでおとっつぁんと一緒に行く。すっかり遅くなっちまったし、おとっつぁん、さぞや腹を減らしてるだろうから」
「そうね、じゃあ急ぎましょう」
足を速め、大急ぎで家に戻る。引き戸を開けると、そこには昼間よりずいぶん顔色が良くなった父の姿があった。おかえり、と迎えられ、清五郎が元気よく答える。
「ただいま、おとっつぁん! 遅くなって済まなかった!」
「なんの。うまい昼飯で腹はいっぱいになったし、布団を運んでもらったおかげでしっかり昼寝ができた。生き返ったような気がするよ」
「そうかい、そうかい。それでも昼飯を食ってからもうずいぶんになる。さぞ腹が減っただろう。旦那さんは、少し早めに上がっていいって言ってくれたんだけど……」
そう言いながら、清五郎はきよを見る。恨めしげなのは、きよが、せっかくすすめられた早上がりを断ったからに違いない。
「ごめんなさい。おとっつぁんが待ってるのはわかってたんだけど、日が暮れてからやけに忙しくなっちゃって……」
父が孫兵衛長屋に向かったあと、しばらく客足が止まっていた。雨で早上がりする職人たちを見込んで仕込みに励んだのに、空振りだったか……と落胆したのもつかの間、暮れ六つ(午後六時)過ぎから一気に客が増えた。どうやら、職人たちは湯屋を済ませてさっぱりしてから『千川』にやってきたらしい。
しかも、今日に限ってどの客もやけに健啖で注文はひっきりなし。お運びは言うまでもなく、板場もてんてこ舞い。いくら源太郎にすすめられても、自分たちだけが抜け出すことなんてできるわけがなかった。
「商売繁盛はけっこうなことだ。それに、親が来てるからって勤めを疎かにするようなやつは願い下げだ。おまえたちがそんな輩じゃなくてよかったよ」
「よかった……そう言ってくれて」
思わず安堵の息が漏れる。
実は仕事を続けながらも、父が勝手のわからぬ部屋で居心地の悪い思いをしているのではないか、あるいは主の心遣いを無にしたのか、と叱られるのではないかと心配していたのだ。だが、よく考えれば、大店の主である父が勤めを疎かにする奉公人を許すはずがなかった。
「まったく……姉ちゃんは根っからの働き者だからな。ま、おとっつぁん譲りかもしれねえけど」
「俺だけじゃねえ。おまえたちの母親だって働き者だ。だからこそ、おまえの兄や姉たちも働き者になったし、連れ合いだって怠け者はひとりもいない。唯一の例外がおまえだった」
「ちぇ……どうせ俺は姉ちゃんみたいな芯からの働き者じゃねえよ」
逢坂にいたころは、習い事も家の手伝いも怠けてばかりだったと清五郎は項垂れた。
そんな弟を見ていられず、きよは口を開いた。
「でも、江戸に来てからずいぶん変わったじゃない。一生懸命奉公してるし、考えだって前よりずっとしっかりしてきたわ」
「でもさ、今も、早上がりを断った姉ちゃんを恨みに思うぐらいだから、怠け心は消えちゃいねえんだよ」
「怠け心なんて誰にだってあるわよ。それを表に出さずに頑張ることが大事。清五郎はちゃんとできてるから大丈夫」
「そうかな……」
そこで清五郎は、心配そうに父を見た。
きよは源太郎から父の言葉を伝えられたが、清五郎は聞いていない。おそらく、父が自分の働きぶりをどう思ったのか確かめたいのだろう。
父が、くすりと笑って言った。
「おまえも立派になったよ。客の様子に目が行き届いてるし、なにか言われたときの返事もいい。おまえは声が通るから、板場も聞き取りやすいだろう。ついでに……」
そこで父は言葉を止め、一瞬考えたあと、思い切ったように続けた。
「こんなことを言うのは自惚れさせるようでためらわれるが、客の評判は悪くないと思うぞ」
「それは姉ちゃんの話だろ? 俺は別に……」
「おきよの料理は言うまでもない。だが、おまえも負けず劣らず大したもんだ。客の案内も、注文取りも料理を運ぶ様にも危なげがない。それに、おまえを目当てに『千川』に来る客もいるんじゃないのか?」
「俺目当ての客?」
「ああ、俺のあとから入ってきた女がいただろ?」
「もしかして、お花のお師匠さん?」
「ああ、お花をやってる人か。どうりで盛り付けを気にしたはずだ……。あの女、ずっとおまえを目で追ってたぞ」
「うへえ……」
清五郎は、どうせならもっと若い娘がいい、などと嘆く。きよは思わず、弟のおでこをぴしゃりと叩いてしまった。
「失礼なことを言うんじゃありません! あんなちゃんとした人に見初められるなんてありがたいじゃないの」
とたんに父が噴き出した。
「二十一にもなって、まだおきよにおでこを張られてるのか。がきのころからちっとも変わってねえ。店での様子を見て、こいつもしっかり働くようになった、いよいよ『菱屋』の働き者の血が現れてきたって喜んだのによ」
「子どもだろうが大人だろうが、姉ちゃんはいつまでも姉ちゃんだし、ときどきおっかなくなるのも変わんねえよ!」
「まあな。俺もそんなおきよだからこそ、おまえを任せた。おきよならおまえの世話をしっかりしてくれる、間違ったことをやらかしてもちゃんと叱ってくれるってな」
「はいはい、しっかり叱られてますよ! 今俺があるのは姉ちゃんのおかげ」
「ならよかった。いずれにしても、おまえもおきよもしっかりやってる。半端なことをしてたら源太郎さんに顔向けできねえ、って心配しながら来たが、安心したよ」
「あの……おとっつぁん……」
恐る恐る切り出したきよを、父は怪訝そうに見た。
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