きよのお江戸料理日記

秋川滝美

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3巻

3-1

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 かつおの刺身と納豆汁



 文政八年(一八二五年)皐月さつき三日、深川ふかがわ富岡とみおか八幡宮はちまんぐう近くにある料理茶屋『千川せんかわ』では、料理人のが落ち着かない思いでへっついに向かっていた。近くには、そわそわしている男がもうひとり……こちらはきよの弟で名を清五郎せいごろうという。
 ふたりとも逢坂おうさかの油問屋『菱屋ひしや』の子として生まれ、わけあって揃って江戸に出てきてから二年半が過ぎている。時刻は五つ半(午前九時)、まだ店は開けておらず、仕込みの真っ最中だ。きよはもちろん、右隣では板長の弥一郎やいちろう、左隣では兄弟子の伊蔵いぞうがせっせと手を動かし、清五郎と奉公仲間のは店の掃除をしていた。
 落ち着かない理由はただひとつ、卯月うづきの頭に逢坂に住む父、五郎次郎ごろうじろうから『近々江戸に行く』というふみが来たからだ。卯月の中頃に発つから端午たんごの節句までには着くだろうと書かれていたが、旅だから多少は前後することもある。おかげで皐月に入ってからの姉弟は、毎日そわそわしっぱなしなのだ。
 なんとか掃除を済ませたらしき様子の清五郎が、きよのそばまで来て言う。

「なにが悲しくて、あの年でわざわざ逢坂から出てくるかねえ……」
「そんなこと言うものじゃないわ。きっと私たちを気にして見に来てくれるのよ」
「そりゃそうに違いないけど、そもそも俺は二十一、姉ちゃんは二十四だぜ? 江戸に来てから悪さもせず、立派にやってるのに……」
「悪さもせず? それはどうかしらねえ……」

 くっと笑いをこらえたきよに、清五郎は少々恥ずかしそうな様子になる。きよの言葉で、以前、与力よりき上田うえだ相手にかたりを働いたことを思い出したのだろう。
 とはいえ、それはふたりが江戸に出てきて一年にもならないころのことだ。それ以後はずっと真面目に奉公している。近頃では体調を崩したきよの面倒を見てくれたり、堀に流された娘の命を救ったりもしているし、『立派にやってる』という言葉は八割方正しい。わざわざ見に来なくても、という弟の嘆きもわからなくはなかった。
 ただ、それと同じくらい父の心配もわかる。なにせ、逢坂から江戸は遠く離れている。
 藪入やぶいりで仕事が休みになっても一日で往復できるような距離ではないため、一度も帰れていない。もとより、ふたりは難を逃れて江戸に出てきたのだから、迂闊うかつに顔など出せるはずもない。父が今のふたりを知らない以上、心配するなと言うほうが無理な話だ。
 それでもなお、いざとなると気持ちが騒ぐし、清五郎は清五郎で嘆きが止まらない。

「いいよなあ、姉ちゃんは。今や立派な料理人、『千川』におきよあり、だもん。おとっつぁんが来たところで、これっぽっちも心配ねえ。でも俺は……」

 ついさっきまで『立派にやってる』と言っていたのに、今度はずいぶん弱音を吐く。やはり、父の来訪に不安を感じているらしい。末っ子で両親からかなりかわいがられたはずの清五郎ですらこの有様なのだから、きよが不安に思うのは当然だ。だが、それよりも気になるのは、清五郎の物言いだった。

「ちょっと清五郎、いくらなんでも『千川』におきよありって言うのは違うでしょ。誰もそんなふうには思ってないし、なにより板長さんや伊蔵さんに失礼よ」

 ここはしっかりたしなめるべき、とあえて厳しい声を出す。けれど、伊蔵はもちろん、弥一郎も真剣な顔で大鍋をかき回しているだけで、なにも言わない。鍋の中身は大豆を煮てした汁、今は豆腐作りの正念場でそれどころではないのだろう。
 きよだって、さらさらの汁がどうやって豆腐になるかは気になる。なにせ逢坂にいたときも今も豆腐は振売ふりうりから買うもので、自分で作ったことはない。『千川』ですら、普段は豆腐屋から買っていて、今日が初めての試みなのだ。清五郎は捨て置くことにして、きよは弥一郎の前の大鍋に見入った。

「うん、ちゃんと冷めてるな。ここに、にがりを入れて……」

 神妙な面持ちで弥一郎はにがりを量っている。弥一郎は、豆腐作りの手順こそ知っていたが、材料の分量までは知らなかった。それなら、と豆腐屋に訊きに行ったところ、最初はいい顔をされなかったという。料理茶屋が豆腐を作ることになれば、自分のところから仕入れなくなる。売上減らしに協力するなんて、もってのほかということだろう。
 だが、今回『千川』が作ろうとしていたのは、上方かみがたならではの豆腐。崩れてしまうためあまり大きく切り分けられない、柔らかい豆腐だったのだ。もちろん、江戸では売られていないものだ。
 豆腐屋は、上方の豆腐が柔らかいことを知っていた。上方に出かけた際に食べたこともあるし、作り方も習ったらしい。江戸で作らなかったのは、硬い豆腐が当たり前の土地柄では、売りものにならないと考えたからだそうだ。
 それでも、ふと思い出して柔らかい豆腐を食べたくなることがある。もしも『千川』でそれが食べられるなら悪くはない、これまでどおりに自分の店の豆腐も仕入れてくれるのなら、ということで、上方の豆腐の作り方を指南してくれたのだった。

「泡立てねえよう丁寧に混ぜて……あとは火にかけて……」

 ぶつぶつ言いながら弥一郎は作業を続けている。しばらく煮たあと型に入れ、重しをかけずに固める。重しをかければかけるほど水が抜けて硬くなる。重しの有無が豆腐の柔らかさの決め手だった。
 弥一郎は大鍋の中身を型に移し終え、ほっとした顔で額の汗を拭った。

「よし、あとは固まるのを待つだけだ。さて、おきよ、こいつをどうやって出す?」
「どうやって?」
「ああ。そのまんま出したって面白くねえだろ? どうせなら、江戸の豆腐とは違う料理で出したい」
「そう言われましても……」

 弥一郎の思いもわからないではないが、上方かみがた風の豆腐はそれだけで十分話題になるし、同じ料理で出すことによって江戸の豆腐との違いが際立つのではないかとすら思う。なにより、下手に工夫して品書きに『おきよの』をくっつけられたらたまったものではない。ただでさえ、自分の名前がついた料理がそこそこ売れていることに、気が引けてならないのだ。『千川』は源太郎げんたろうと弥一郎の店、修業中のきよが出しゃばっていい場所ではないだろう。

「せっかく板長さんが丹精込めて作られたお豆腐なんですから、そのままで……」

 そんなきよに、弥一郎は首を左右に振る。

「だからこそしっかり売りてえんだよ。おきよの腕はまだまだだが、料理を考え出す力はぴかいちだ。口惜しいが、工夫ってやつは修業の年月とはかかわりないらしい」
「そのとおり」

 いつの間に近づいてきたのか、あるじの源太郎が言う。

「弥一郎が丹精込めて作った豆腐を、おきよの工夫で売る。店は大繁盛、こんなにいいことはねえ」

 それでもためらい続けるきよを見て、弥一郎がはっとしたように言った。

「さてはまた、『おきよの』が増えたら困る、とでも思ってるな? 余計なことを考えるんじゃない。『おきよの』だろうが『弥一郎の』だろうが、俺は一切気にしねえ。売れりゃあいいんだ、ってことでおきよ、おまえならこいつをどう仕立てる?」

 弥一郎に詰め寄られ、ようやくきよは口を開く。実は、柔らかい豆腐をどう出すかについては、既に考え済みだった。

「柔らかい豆腐は大きく切って器に盛ると、崩れて見栄みばえがよくありません。一口の大きさにして水に浮かべて出してはどうでしょう。薬味をたくさん添えて。冬は湯、夏場は水……深川の井戸水は塩気が多いから、買った水を使うことになりますが……」

『たくさん』の意味がわかりづらかったのか、源太郎が首を傾げて問う。

「水はかまわねえが、薬味をたくさんって? 生姜しょうがねぎを盛り上げるってのかい?」
「じゃなくて、種類を増やすんです。生姜や葱はもちろん、大葉、茗荷みょうが、大根下ろし、削り節、一味に七味……ひとつずつ別な味わいを楽しめるように取りそろえて」
「豆腐を小さく切って、それぞれに好きな薬味をのせて醤油をぶっかけるってわけだな」
「そのお醤油も、醤油じょうゆだけじゃなくて出汁だしで割ったものや柚子ゆずを搾り入れたもの、胡麻ごまおつだと思います」
「胡麻油だけじゃ香りはいいが、味は今ひとつだろう?」

 弥一郎がぎょっとしたように訊ねてくる。

「火にかけて塩を溶かします。やっこは『さっぱり』が持ち味ですが、胡麻油を使うと食べ応えが出ます」
「なるほどなあ……これじゃあ『弥一郎の奴』なんて出せねえ。どう考えたって『おきよの一口奴』のほうが上だぜ」

 大したもんだ、と源太郎は手放しで褒める。弥一郎も我が意を得たり、と言わんばかりだった。

「ほら見ろ。おきよはいつも、俺には考えつかない工夫を入れてくる。俺だって薬味をあれこれ揃えるぐらいは思いついたかもしれねえが、豆腐そのものを細かく切って水に浮かべて出す、しかも夏は水、冬は湯、なんてとてもとても……」
「そこまで褒められるようなことでは……」
「いやいや……それなら見栄みばえもいいし、客だって自分の好みに合わせやすい。本当にいい工夫だ。おまえはもうちょっと胸を張っていい。己の力量を見極められないと、次の目当めあてだって定められない。自分を知った上で、もっと上に行こうと頑張ることが大事だ」
「は、はい……」

 口の中でもごもごと呟く。
 あまりの褒められぶりに、嬉しいのを通り越して恥ずかしくなってくる。褒められたのは初めてではないが、ここまで手放しなのは覚えがない。どうしてここまで強く言うのだろう。もしや客の誰かに、あの陰気くさいのをなんとかしろ、とでも言われたのではないか、と疑いたくなってしまった。
 きよの思いを知りもせず、弥一郎は上機嫌、源太郎も嬉しそうに頷く。

「お説ごもっとも。そろそろ『菱屋』さんも江戸に着くころだ。しっかり励んでるところを見せねえと、おとっつぁんだって心配する、ってことで、話はこれまで。みんな仕事に戻ってくれ」

 きれいに話をまとめ、源太郎は手を打ち鳴らす。昼四つ(午前十時)の鐘も聞こえてくる。店を開ける頃合いだった。


 その日、夜まで待っても父、五郎次郎は現れなかった。
 仕事を終えたあと湯屋に寄った清五郎によると、大井川おおいがわで川止めがあったせいで上方かみがたからの荷物が来ない、と嘆く客がいたらしい。大雨による川止めは珍しいことではないが、今回は七日ほど止まっていたそうだ。
 実家からのふみには、端午たんごの節句のころまでには、と書かれていたものの、父は大層用心深い。予定を知らせるときもゆとりを持たせているはずだから、端午の節句の前に到着するのではないか、と思っていたが、七日もの川止めでは仕方がない。たとえ父が大井川を渡る頃合いではなかったとしても、大雨が原因なら旅に支障が出ないとは限らない。
 父はもう五十を超えている。年のわりには健脚だが、所詮隠居の身だ。急ぐ旅ではなし、と宿で雨が弱まるのを待っているのかもしれない。

「川止めってのは本当に困るよな。俺たちが江戸に来たときも心配したけど、案外すんなり渡れたから、おとっつぁんも支障ないとばかり思ってたけど、七日じゃなあ……」

 茶碗に大盛りにした飯にとろろ汁をかけながら清五郎が言う。とろろ汁は山芋やまいもり下ろしてすまし汁で割ったものだが、滋養がある上に喉を通りやすくなるせいか、飯が止まらなくなる。
 先だって、体調を崩した際に、白米ばかりでは身体に良くないと聞いたきよは、五日に一度麦まじりの飯を炊くようになった。だが、身体にいいのはわかっていても、江戸に来てからずっと白米だったせいで口がえたのか、馴染なじみだったはずの麦飯が食べづらくなっていた。なんとかならないか、と考えた挙げ句、とろろ汁を思いついた。
 江戸でもとろろ汁には麦飯を合わせることが多い。さらに、汁かけ飯であれば麦の口当たりも気にならなくなるのではないか、と考え、麦飯の日は少し濃い目の味噌汁や、とろろ汁を添えることにしたのである。
『千川』の品書きにもとろろ汁があり、まかないに出されることもあるが、いずれも味噌仕立て。対して、きよが家で作るのは醤油仕立てのとろろ汁である。これには清五郎も大喜び、実家にいたころを思い出せて嬉しかったに違いない。
 茶碗の飯が半分ぐらいになったところで、ようやく箸を止めた清五郎が言う。

「おとっつぁん、鞠子まりこでとろろ汁を食ったかな?」
「食べたに決まってるわよ。おとっつぁんはとろろ汁に目がないし、あれほどの食い道楽が名物を見逃すわけがないもの」
「だよな。足止めを食ったのが鞠子ならいいな。うまい具合に大井川を渡り終えたあと、鞠子で雨宿り。それならおとっつぁんもとろろ汁が食い放題だ。あ、でも、なんで味噌仕立てなんだ、とか文句をつけたりして」
「それはないわ。おとっつぁんは味噌だろうが醤油だろうが、美味しければいいって考えだし、むしろ食べつけない味を喜ぶと思う」
「なるほど」

 そうかそうか、と頷き、清五郎はまた食べ始める。きよも箸を取り、懐かしい醤油仕立てのとろろ汁を味わう。とろろそのものに大して癖はない。それだけに薬味が果たす役割は大きい。香りの高い青海苔あおのりや舌にぴりりとくる胡椒こしょうをふんだんに使いながら、なごやかな夕食が続く。

「明日ぐらいには着くかなあ……」 

 ふと漏らした言葉から、弟の気持ちがあふれてくる。なにせ弟は末っ子、口でどう言おうが父との再会が待ち遠しくてならないのだろう。

「だといいわね」

 食事を終えたあと、戸締まりを確かめるついでに外に出てみた。見上げた月には雲がかかっており、西のほうにはもっとたくさん雲が見える。このところ、雨が降ったりやんだりですっきりと晴れない。この分では、明日も雨になるかもしれない。
 どうかおとっつぁんに支障がありませんように……と祈りつつ、きよは戸に心張しんばぼうを渡した。


 きよの予想どおり翌日は雨、その次の日も雨だった。
 しかもかなり強い雨で、これなら今日は着かない、むしろ下手に歩かず宿にいてくれたほうがいい、と思うほどだった。
 おかげで弥一郎と伊蔵の間で、いつもどおりに仕事ができた。だからこそ、目を上げた拍子に旅姿の父が入ってくるのを見て、心底驚いて声を上げてしまったのである。

「ど、どうしたんだい、おきよちゃん?」

 心配そのものの顔でとらが飛んできた。
 きよは普段から口数が少なく、話し声もどちらかと言えば小さい。そんなきよが声を上げた。しかもかなりの大声で離れたところにいたとらの耳にまで届いたとなれば、驚かれるのも無理はない。左右にいる弥一郎と伊蔵も目を見開いてきよを見ている。

「いえ……えっと……あの……」

 口ごもっている間に、源太郎が父に気づいて嬉しそうに迎えた。

「五郎次郎さん、ようこそおいでくださいました!」
「こんにちは、源太郎さん。息子たちがお世話になっております」
「なんの、なんの。ご無事でなによりです。長い川止めがあったと聞いて、気を揉んでおりました」
「ご存じでしたか。でも、幸い一日だけ渡れる日がありましてな。あくる日にはまた川止めになっちまいましたが、なんとか渡ることができました」
「それはようございました。さすがは『菱屋』さん、日頃のおこないが違いますね」
「いやいや、実はまた小雨が降り始めていましたし、川上のほうの空は真っ暗でした。渡れると思わず宿から出ない者も多かったんです。ですが、一か八かだと思って行ってみたら、目の前で川止めが解かれまして」
「え、水の具合は大丈夫でしたか?」
かさも勢いもそれなりにありました。でも、また川止めになったら困るってことで大急ぎで渡りました」

 なんて危ないことをするのよ! ときよは叫びそうになる。とはいえ、相手は父親だ。しかも父がちゃんときよを気にかけてくれていたと知ったのは江戸に来てからのことで、逢坂にいた時分は、厄介者としか思われていないと信じていた。おかげで親しく口をきいた覚えがない。そんな間柄の上に、長年会っていなかった相手に言い放つわけにもいかず、きよは言葉をぐっと呑み込んだ。
 だが、呑み込みきれない男がひとり……早足に近づいてきた清五郎だった。

「なんでそんな無茶をするんだよ!」

 まず父に気づいたのはきよ、それから源太郎だった。どうやら清五郎は、入口に背を向けていたせいで気づくのが遅れたらしい。弟のことだから、それもきっと気に入らなかったに違いないが、それ以上に父の無謀なおこないに耐えかねたのだろう。
 大声を上げた後、清五郎は父親に詰め寄った。

「川止めが解かれるか解かれないかのうちなんて、危ないに決まってるじゃねえか! しかも、空が真っ暗だったら川上では大雨に違いねえ。一気に水嵩みずかさが増して、呑まれちまったらどうするつもりだったんだよ!」

 いきり立つ清五郎に、父は平然と返す。

「誰かと思ったら清五郎か。ずいぶんけたな」

 老けたと言うなら、それは父のほうだろう。年はどっこいどっこいのはずだが、父は源太郎より三つ四つ、どうかしたら五つぐらい年上に見える。やはり今なお『千川』のあるじを務める源太郎と、隠居の父では見てくれにも差が出てしまうのか。はたまた旅の疲れの影響か……
 そんなことを思っている間にも、清五郎は父に言い返す。さすがは末っ子、心配からとはいえ、思いの丈をぶちまけられるのはうらやましい限りだった。

けたとか言わないでくれ、大人になったんだよ! それより……」
「そううるさく言うな。川上で降った雨が下まで流れてくるには時がかかる。ちゃんと見極めて渡ったんだから支障はない」
「おとっつぁんが川の玄人くろうとだったとは知らなかったよ!」
「まあまあ……とにかく無事だったんだからよかったじゃないか」

 そこで源太郎が間に入り、親子の言い合いは終わりになった。

「五郎次郎さん、なにはともあれ、一休みしてください。ささ、こちらへ」

 だが源太郎にうながされても、父は座敷に上がろうとしない。疲れているはずなのに……と思いながらふと見ると、父の足は泥にまみれている。雨は上がっているとはいえ、道はまだ乾いていない。父は座敷を汚すのを気にしたのだろう。
 幸い、昼飯時を過ぎて客もまばらだし、注文された料理はすべて出し終えている。今なら板場を離れても支障ないかも……ということで、きよは弥一郎に声をかけた。

「板長さん、すみませんが、ちょっと裏に入ってもかまいませんか?」
「かまわないが……なにか足りないものでもあったか?」
「いえ、足濯あしすすぎを……」
「ああ、そうか。それは気づかなかった。行っていいぞ」
「ありがとうございます。では……」 

 きよが軽く頭を下げて立ち上がろうとすると、反対隣の伊蔵が声をかけてきた。

「通路のへっついで湯を沸かしてあるから、使っていいよ」
「え……?」

 なにかに使うつもりで沸かしていたに違いないのに、と戸惑うきよに、伊蔵はにっこり笑って言った。

「青菜を茹でるつもりだったが、たっぷりあるから多少使ってもかまわねえ。青菜は今すぐじゃなくていいし、減った分は水を足しておいてくれればいい」
「それがいい。疲れた足には水より湯のほうがずっといい」

 弥一郎からもすすめられ、きよはありがたく湯を使わせてもらうことにした。板場の話が聞こえたのか、とらがへっついを回って来てくれる。

「あたしがやるわ」
「いえ、それは私が……」
「でも……」
「おきよに任せなよ。おきよだって、おとっつぁんの世話がしたかろう」
「なるほど、それもそうね」

 伊蔵の言葉にあっさり頷き、父のところに行ったとらは笠と荷物を受け取って言う。

「今、足濯あしすすぎを支度してますから」

 父はほっとしたように答えた。

「助かります。正直、こんな足じゃ上がるわけにはいかないと思ってました」
「足濯ぎか! これは気がつかなかった!」

 源太郎が申し訳なさそうに言うが、『千川』は宿ではないのだから、足濯ぎの用意がないのは当たり前で詫びることではなかった。さらに源太郎は、とらを褒める。

「さすがはおとら。よく気づいたな」
「あたしじゃありません。おきよちゃんです」
「おきよ……」

 そこで父が板場に目を向けた。まじまじと見られて照れくさくなり、逃げるように裏に入る。通路のへっついには、伊蔵の言うとおり大鍋がかかっている。蓋を取って覗き込むと、湯がぐらぐらと沸いていた。
 奥から持ってきたたらいに湯を移し、水を足す。疲れた足には少し熱いぐらいが心地よい。少しずつ足しながら湯加減を見ていると、父がやってきた。

「今持っていきます」
「いやいや、ただでさえ料理茶屋で足を洗うのははばかられる。せめて裏で、と源太郎さんにお願いしたんだよ。おまえたちの顔が早く見たくて、まっすぐに来てしまった。こんなことなら、いったん宿に入って身ぎれいにしてから来るんだったよ」

 その言葉に、きよは父に会えた喜びが一気にしぼんでいく気がした。
 父が宿を取るつもりだなんて考えてもいなかった。当然、自分たちの長屋に来てくれるものだと思っていたのだ。
 だが、そんな気持ちも告げられないまま、きよは隅にある腰掛けを取りに行く。
 きよがすすめた腰掛けに、父は「よっこらしょ」と声を出して座った。
 足元に盥を持っていって草鞋わらじを脱ぐ手伝いをする。初めて触れた父の足は、思ったより固く締まっている。この年で逢坂から江戸まで歩けたのも頷ける足だった。

「ありがとよ」

 足を濯ぎ終え、父は生き返ったような顔で店に戻っていった。盥を片付け、大鍋に減った水を足してきよも板場に戻る。まっすぐにここに来たと言っていたから、父は昼飯を食べていないはずだ。是非とも『千川』の料理を味わってもらいたい。なにより、食い道楽の父がどんな反応を示すか、気になってならなかった。
 早速、源太郎が声をかける。

「ではさっぱりなさったところで、なにをご用意しましょう? 今日はとびきりのかつおが入ってますんで、鰹飯などいかがでしょう?」
「鰹は好物です。だが、とびきりの鰹となると刺身も捨てがたい」
「なるほど……では、両方ってことでいかがです?」
「いやいや、刺身はやっぱり白飯でいただきたい。なにせ江戸の米の旨さはこたえられないですし。それとなにか汁を……」
「――わかりました。では、鰹の刺身と白飯と汁ってことで、酒はどうします? 熱いやつを一本付けましょうか?」

 源太郎に訊かれ、父はあっさり首を横に振る。子どもらが働いている目の前で昼酒でもないでしょう、と笑う顔に思いやりがあふれていた。
 板場に入るようになってから、きよが一番に励んだのは魚の下ろし方だった。弥一郎がやっているのを見たり、伊蔵に手ほどきを受けたりで、今ではいわしさばなら難なくさばける。だが、さすがに鰹、しかも刺身となったらきよの手には負えない。負えないというよりも、しくじったときに取り返しがつかないということで、伊蔵ですら鰹やたいには手を出さない。大きな魚を捌くのは板長である弥一郎の仕事だった。
 今日のきよの受け持ちは鰹飯である。どうせなら自分の料理を食べてほしい気持ちはあったが、父が刺身を食べたいのであれば諦めるしかないだろう。
 そのとき、弥一郎の小さなため息が聞こえた。

「どうしました?」
「いやなに……『菱屋』さんにおまえの料理を食ってもらおうと思ってたんだが、さすがにまだ刺身を引かせるわけにはいかねえ。これじゃあ、腕試しもへったくれも……」
「え?」
「おっといけねえ、口が滑った……」

 弥一郎が珍しく慌てた様子で言う。聞かなかったことにしてくれ、と言われても、さすがに無理な相談だった。

「あの……どういうことなんですか?」
「俺としたことが、やらかしちまった……」

 弥一郎はちらりと座敷に目をやった。源太郎と父が板場を気にするふうがないのを確かめたあと、話し始める。

「今回『菱屋』さんが江戸に来たのは、おまえを連れ戻すためなんだ」
「連れ戻す⁉ いったいどうしてそんなことに……」
「実は、うちの親父がふみに余計なことを書きやがってな……」

『菱屋』に文を送るときは、預かっている姉弟の様子を知らせるのが常になっている。
 父は姉弟、とりわけきよを気にしていることもあって、料理修業の進み具合もかなり詳しく書き送っていたそうだ。源太郎は常々、料理修業そのものはつつがなく進んでいるものの、きよの気の持ちようが心配でならないと書いていたという。

「気の持ちよう?」
「ああ。技量はちゃんと上がっているのに、どうにも自信ってものがついてこねえ。口に出すことは減ったものの『私なんか』が透けて見える。それが心配だって……」
「そうですか……。でも、それと腕試しにどういうかかわりが?」
「『菱屋』さんは、てめえの力量が信じられねえ料理人が、店の役に立つわけがない、迷惑にならねえよう逢坂に連れ戻す、って……」
「え……」

 二の句が継げないとはこのことだ。まさか、父がそんな魂胆で江戸に来たなんて考えもしなかった。
 弥一郎が後ろめたそうに言う。

「『菱屋』さんからの文を読んで、親父も慌てて『心配ご無用。しっかり店の役には立っている』って文を返したらしい。だが、どうにも了見りょうけんしてもらえなくて、とうとう連れ戻しに来ちまった……もう、詫びる言葉もねえよ」
「そんな! 板長さんは悪くないです」
「いや、おきよの心構えが心配だってのは、俺も思ってたことなんだ。考えが揃っちまったからこそ、うちの親父も文にしたためた。おまえを連れ戻されないためには、『菱屋』さんを唸らせるような料理を出すしかねえ。それならってんで、親父がかつお飯をすすめる算段になってたんだよ」
かつお飯なら私の受け持ちですものね……でも、おとっつぁんは刺身を選んだ……」
「そういうことだ。このままじゃあ……」


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