きよのお江戸料理日記

秋川滝美

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2巻

2-3

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 一方、清五郎は至って気楽な様子で上がりかまちの脇に盆を置く。

「ここに置いてもいいですよね。いやあ、重かった」
「なに言ってるの。そんなに重くないでしょ?」
「でもよー、姉ちゃん。盆そのものは大したことねえけど、店からここまで持ってきたらやっぱり重く感じるんだって。先生、これ、召し上がってください」
「おお、飯か! それは助かるな。今日は患者がやたらと多くて、ろくに飯を食う暇もなかったのじゃ」
「先生のところもですか。『千川』もいつになく千客万来でした」
「料理屋はそれでいいだろうが、医者が千客万来ではなあ……。それで……?」

 心配そうに目を向けた深庵に、上田は自ら名乗った。

「わしは与力で上田と申す。ちと確かめたいことがあって参った」
「と、申しますと?」
「今朝方、ここに女が運び込まれたと聞いた。名はゆうで間違いないな」
「……はい」

 深庵は一瞬黙り込んだものの、すぐに神妙に頷いた。ゆうにとってよくない話かもしれないが、名前まで言い当てられてはごまかしようがないと腹をくくったのだろう。

「堀に流されていたそうだが、容態は?」
「かなり冷えて難儀している様子でしたので、身体を温めて休ませました。昼頃に粥を食ったあとは血の気もすっかり戻り……」
「それはよかった。話ができそうか?」
「おそらく。大事を取って今も奥で横にならせておりますが……」
「そうか。では失礼する」
「ちょっとお待ちください!」

 雪駄せったを脱ぎかけた上田をきよは慌てて押しとどめ、自分が先に上がり込んだ。

「眠っていらっしゃるかもしれません。私が先に様子を見て参ります」
「おお、そうか、そうじゃの。女子おなごの寝床に男がいきなり踏み込むのはよろしくないな」

 いろいろ問題を持ち込む人ではあるが、察しは悪くない。さすがは与力様……と感心しつつ、きよは診療所と奥を隔てるふすまをそっと開けた。

「おゆうさん?」

 小声で呼びかけてみると、すぐに返事が聞こえた。

「はい……どなた?」

 行灯あんどんに火が入れられていないため部屋は暗く、きよの顔も見えないのだろう。それでも朝よりずっとはっきりした声に安堵し、また声をかける。

「きよです。ご気分はいかがですか?」
「おきよさん! 朝はお世話になりました。なんとお礼を言っていいやら……」
「いいんですよ、そんなこと。それより、お夕飯をお持ちしました。食べられそうですか?」
「ええ、もうぺこぺこです」
「なによりです。じゃあ、行灯をつけましょう」

 そう言うと、きよは深庵のところに戻って付け木を借り、行灯に火を入れる。薄明かりの中に、身を起こしたゆうの姿が浮かび上がった。

「今、持ってきますね。それと、おゆうさんにお話を聞きたいという方がいらっしゃっています」
「私に?」

 ゆうがなんとも表しがたい表情になる。許嫁いいなずけが探し当ててくれたならいいが、もしも自分に悪さを仕掛けた者たちだったら……と不安になったのだろう。

「うちによく寄ってくださる与力様で、私たちもなにかと力になっていただいてるんですよ」
「与力様……?」
「ええ。その方の小者こものがとあるお屋敷の若様付の中間ちゅうげんと親しいらしくて、人捜しを頼まれたそうです」
「人捜し……あっ!」

 そこでゆうは小さく声を上げ、身を乗り出すように訊ねた。

「もしや若様が……」
「ええ、そのもしや。おゆうさんの姿が見えないのを心配して中間に頼まれ、その中間が与力様のところの小者に相談されたみたいですよ。上田様とおっしゃって……」
「与力って上田様のことだったのですね! そういえば、以前お屋敷の前で若様付の中間がよその家中かちゅうの方と話していたことがありました。あとで聞いたら上田様の小者だと……。じゃあ、その与力様を通じて私がここにいることを若様に?」
「おそらく。今お呼びして大丈夫ですか? それともお食事を先に?」
「今すぐ! ご飯など後回しで」

 あんなに空腹そうだったのに大丈夫だろうか、と心配になったが、上田のことだ。聞きたいことを聞けば、さっさと帰っていくだろう。先に済ませたほうが、ゆっくり食べられるに違いない。
 それでは、とばかりにふすまの向こうに声をかけると、上田が入ってきた。
 寝床の上に座っているゆうの姿を確かめ、名を訊ねる。

「ゆうか?」
「はい」
「許嫁の名……いや、これは聞かぬことにしよう」

 上田はいったん口にした問いを即座に打ち消した。若様の名前を出せば、きよたちにどこの家中で起きた事件かわかってしまうかもしれない。それはさすがによろしくないと考えたのだろう。
 はて……と少し考えた上田は、はたと膝を打ち、改めて訊ねた。

「若様付の中間の名を知っておるか?」
総二郎そうじろう様です」
「もしや我が家の小者こものの名も?」
「確か甚之助じんのすけ……いえ、じん右衛もん様でした」
「間違いないな。無事でなによりじゃ」
「あの、それで若様は……?」
「大層ご心配で、飯も喉を通らぬご様子。中間ちゅうげんは、わしに伝えると約束するまで立ち去らず、うちの小者も難儀したそうじゃ。そこまで心配できる女がいるのが羨ましい、などと申しおったわ」
「そうですか……」

 薄暗い中ではよくわからないが、きっと頬を染めているのだろう。祝言しゅうげんを待ちわびていたのに、こんな目に遭うなんて気の毒すぎる。なんとかふたりが無事に夫婦めおとになれるよう祈らずにいられなかった。
 その後、きよは今朝起こったことと、ゆうを亡き者にしようとしたのではないか、という周りの推測を語った。それを聞いた上田は難しい顔で言う。

「災難であったな……いずれにしても無事でなによりじゃ。甚右衛門によると、総二郎殿は明日も当家に立ち寄るだろうとのこと。その際に、そちの居所を伝えることにしよう」
「ありがとうございます。あ、でも……」

 そこでゆうは、心配そうにふすまのほうをうかがった。とはいえ、閉まった襖の向こうが見えるわけもなく、ため息をつきつつ呟く。

「居所が伝わったところでその先どうしたらいいのか……。深庵先生をはじめ、皆様にもすっかりお世話になってしまいました。いつまでもここにいるわけにもいきませんし、お屋敷に戻るのも……」

 誰に悪さをされたかなど見当もつかない。若様に会いたいのは山々だが、このまま屋敷に戻るのは恐ろしすぎる、とゆうは嘆く。
 上田も困ったように言う。

「それはそうじゃな。なんといっても命を狙われたのだからなあ……」
「上田様。おゆうさんに悪さをした者を捕らえることはできないのですか?」
「きよの気持ちは重々わかる。ゆうも若君もなんとも気の毒。わしもできればそうしてやりたいが、先ほども申したとおり、町人ならまだしも相手は武家だ。わしの手には余るのじゃ」

 すまぬ、と頭を下げられ、きよは慌てて謝った。

「申し訳ありません。そうでした……与力様といえどもできることとできないことがあるのでしたね」
さといきよも、気が高ぶるとそんなことになるのじゃな」

 別に気が高ぶったわけではない。心底、ゆうがかわいそうでなんとかならないか、与力は悪者を捕まえるのが仕事ではないか、と思ってしまっただけだ。同じ武士であっても、与力に武家で起こった事件を裁く権限がないのを忘れていたのだ。
 それでも、ここで言い返しても状況がよくなるわけではない。それよりもゆうの身の振り方を考えることが肝要だった。

「お屋敷の方々は、おゆうさんが亡くなったと思っているのでしょうか?」
「いや、ただの行方知れずと思っているのではないかな。ゆうに悪さをしかけた者たちにしても、下手に死んだなどと告げればなぜ事情を知っておる、ということになる。それよりも勝手にいなくなったことにしておいたほうが無難というものだ」

 若様にも、祝言しゅうげんを嫌って逃げ出したに違いない、いないものはいないのだから諦めろ、とでも言い聞かせるのだろう。
 薬で眠り込んだところを堀に投げ込んだ。早朝のこと、誰かに助けられるはずもなく命を落としたに決まっている。いずれ亡骸なきがらでも上がれば、諦めざるをえなくなる。
 悪者が自分で後釜に座るか、誰かを座らせるつもりなのかは知らないが、いずれにしてもそのあとで……と考えているのだろう、と上田は眉をひそめる。
 聞けば聞くほど腹が立つ話だった。

「もう、堂々とお屋敷に戻って、若様に『殺されそうになりました』って訴えるわけにはいかないんですか?」

 ごちゃごちゃやっているよりそのほうが手っ取り早い。そこまで心配してくれるのであれば、若様が守ってくれるのではないか。
 ところが、そんなきよの考えにゆうは眉根を寄せつつ答えた。

「守ると言っても、二六時中共に過ごすことはできません。食事も別々ですし、なによりまた薬を盛られたら、と思うと心配で喉を通らなくなりそうです」
「そうですね……おゆうさんのご飯にだけ薬を盛ることはたやすいでしょうし、次は毒ってことも……。むしろ、今回眠り薬を選んだことのほうが不思議な気もします」
「さすがに、屋敷の中で死人を出すのはまずいと思ったのじゃろう。いずれにしても、ろくに飯も食えぬような屋敷に戻ることはできぬな……」

 三人が三人とも思案顔で黙り込んでしまった。このまま話していてもいい案は浮かびそうにない。今はゆうに食事をさせたほうがいいと判断し、きよは腰を上げた。

「とりあえず中間ちゅうげんの方から無事を伝えていただくということで、お食事にしませんか?」
「そう……ですね」

 にわかに空腹を思い出したのか、ゆうも頷く。計ったように、清五郎がふすまを開けた。

「へい、お待ちってなもんだい!」
「あんたって子は……」

 おどけた表情の弟に呆れつつ、きよは料理の載った盆を受け取る。盛ってきたままになっているから、おそらく深庵もまだ済ませていないのだろう。

「深庵先生もまだ召し上がっていないのですね。取り分けないと……」

 運びやすいように、どの料理もふたり分をまとめて皿や鉢に盛ってきた。盛り分けないと食べづらい。話している間に分けてくれればよかったのに、と気が利かない弟を恨みつつ、きよは器を借りに行く。ついでに小鍋も借りて、冷えてしまった蜆汁しじみじるを火鉢にかけた。ふたり分の汁はしっかりおこった火鉢ですぐに温まった。味噌の香りがふわりと広がる。ふたつの椀に注ぎ分け、さっと拭った鍋であんかけ豆腐も温める。こんなこともあろうかと、餡をたっぷり持ってきたのは我ながら英断だった。
 餡の中でふつふつと豆腐が踊る。あまり温めすぎると豆腐が固くなるし、舌が焼ける。人肌よりすこし熱くなったぐらいで火から下ろし、中深皿に移した。

「はい、できましたよ。熱い汁やお豆腐は身体が温まりますし、かぶの葉や煮付けはご飯が進むと思いますので、たくさん召し上がれ」

 どうぞごゆっくり、ときよが盆を置くと、待ちかねたようにゆう、そして深庵が箸を取った。

「これはなかなか……かれいの身は骨離れもよく柔らかで食しやすい。汁とり煮は出汁だしをきかせて薄味に仕上がっておる。これなら病人でも箸が進む」

 次から病人たちには、『千川』の料理をすすめることにしよう、などと深庵は嬉しいことを言ってくれた。
 ゆうも一口一口噛みしめるように味わいながら言う。

「本当に優しいお味……。それでいて、胃のに落ちるそばから力に変わっていくような気がいたします」
しかり。白身の魚や豆腐はこなれがよいから、力に変わるのも早い。味付けだけではなく、食材そのものもよく考えられておるな」

 深庵の言葉で料理選びに間違いがなかったことがわかり、きよはほっとする。一方、頷き合う深庵とゆうの様子を見ながら、上田がよだれを垂らさんばかりに言う。

「なんとも旨そうな。そういえば腹が減ったのう……」

 料理から目が離せなくなっている上田に、きよは思わず声をかけた。

「店に戻って上田様の分もお持ちしましょうか?」
「姉ちゃん、それより店に行ってもらったほうが早いよ。俺たちも一緒に……」

 今ならまだ店は閉めていない、と言う清五郎に、上田は鷹揚おうように手を振った。

「いやいや、それには及ばぬ。きよたちはもう仕事を終えたのだろう? 早朝からの人助けのあと一日働いたのじゃ。さぞや疲れておるはずじゃ。わしも家に戻る。そちたちも戻るがよい」

 そう言ったあと、上田はゆうと並んで食べている深庵に訊ねた。

「すまぬが深庵、しばらくゆうを置いてやってはくれぬか?」
「もとよりそのつもりです」
「それは重畳ちょうじょう。わしのほうでどうにかゆうの落ち着き先を探してみるゆえ、それまで頼む。ゆうの相手には当家の小者こものを通じて様子を伝えておく。今日のところはそんな次第でお開きとしよう」

 ささ、きよたちも帰るがよい、と上田がうながす。ゆうはかなり元気を取り戻したようだし、また具合が悪くなっても深庵に任せておけばいい。お産が終わればきくも様子を見に来てくれるはずだ。
 なによりここには住み込みの弟子がいる。先だって見かけたが、かなり屈強そうな身体つきだった。今のところ、ゆうの身の上とここにいることを知っているのは、『千川』の数人ときく、あとは上田だけだが、たとえ悪者に嗅ぎつけられて踏み込まれたとしても、あの弟子がいれば心強い。
 ここならゆうも安心できるに違いない、と判断し、姉弟は上田とともに深庵の家をあとにした。


 翌日、昼の客が引けた頃合いで『千川』にきくがやってきた。しかも意外すぎる知らせを持ってである。

「おゆうさん、家移やうつりしたよ」

 奉公していた屋敷に戻ったのであれば、家移りなどという言葉は使わない。おそらく新しい住処すみかを見つけたのだろうけれど、昨日の今日ではさすがに早業はやわざすぎる。
 どうしたことだ、と首を傾げた『千川』の面々に、きくは嬉しそうに告げた。

「お産が朝までかかってね。やれやれ、と思いながら深庵先生のところに行ってみたらちょうど迎えが来たところでさ。駕籠かごに乗っていったよ」
「駕籠……ですか? まさかお屋敷からお迎えが来たとか……」

 きよがへっついの火加減を見ながら訊ね返すと、きくはそのときの様子を語ってくれた。

「お屋敷じゃない。おそらく別のところだ。深庵先生も驚いていなかったから、顔見知りなんだろうね。おゆうさんも、ほっとしていたみたいだったし。それにしても、黒羽織のお迎えとは恐れ入ったよ」
「黒羽織……では上田様が?」
「あんた方も知ってる御仁かい?」

 この状況で駕籠かごを仕立てて迎えに行く、しかも黒羽織となったら上田以外に考えられない。そこできよは、きくに上田が『千川』に時折立ち寄る客であること、さらに昨夜の経緯を伝えた。

「ああ、そうか……どこかで見た顔だと思ったら、ここの特別扱いの客か。そりゃあ深庵先生もおゆうさんも安心だ。いい隠れ場所が見つかってよかったよ。しかも、顔を見られないように駕籠で迎えに来るなんて、なんとも気が利く男だねえ」

 その気配りは上田その人によるものなのかと疑問がよぎる。
 おそらく上田は帰宅したあと、ゆうの落ち着き先についてりょうに相談したのだろう。思慮深いりょうのことだ。迂闊うかつに事情を知る者を増やすよりも当家でかくまったほうがいい、などと言い出しかねない。
 そのとき、隣から弥一郎の面白がっているような声がした。

「それは……上田様のおふくろ様――おりょう様だな」

 反対隣から伊蔵も言う。

「間違いないですね。どうして一緒に連れて帰らなかった、とか叱られてたりして」
「さもなきゃ、朝一番で駕籠を仕立てて、なんてことにはならねえな」

 清五郎の言葉で源太郎も大笑い、上田がこの場にいたらさぞや肩を落としたことだろう。きくが不思議そうに訊ねた。

「なんだい、その与力様のおふくろ様ってのは、そんなに恐ろしいお方なのかい?」
「とんでもない。おりょう様はとても気遣いに富む、心優しいお方です」

 ただ上田が、おふくろ様が大好き、かつ大事に思うあまり、頭が上がらなくなっているだけだ、とは言わなかった。さすがにそれでは形無しすぎるだろう。
 なんとか言葉を呑み込んだきよを気にもとめず、きくは繰り返し頷く。

「それはよかった。いくら与力様の家でも、家の中に鬼みたいな人がいたら気が休まらないからねえ」
「そんな心配はご無用、おゆうさんはきっと心地よく過ごせると思います」
「なによりだよ。じゃあ、あたしはこれで」

 ゆうの無事を知らせに来ただけだから、ときくは帰っていった。
 普段であれば源太郎か弥一郎が引き留めて、なにか食べていくように言ったかもしれない。だが、きくも夜中よるじゅうお産に付き合って疲れているはずだ。早く帰って休んだほうがいいと判断したのだろう。
 いずれにしてもよかった。どんな悪者に狙われていようが、与力の家なら安心だ、と喜び合い、『千川』の面々は仕事に戻った。


 それから七日ほど経ったある日、板場にやってきた源太郎がきよに話しかけた。

「おきよ、上田様とおりょう様になにかお届けしたほうがいいかと思うんだが……」
「というと?」
「いや、この間の騒ぎだが、上田様とおりょう様がおゆうさんをお屋敷でかくまってくださったのは、うちがかかわっていたせいじゃねえかと思ってさ。いくらお調べの最中だったとしても、女を拾ったのが清五郎じゃなければ、そこまではなさらなかっただろう。迷惑料と言うか、礼と言うか……」
「そのとおりかもしれません」

 ではなにを……と考えながら周りを見回したきよは、弥一郎の脇にあった丼に目をとめた。そこには水で溶いた粉が入っている。おそらく揚げ物に使った残りだろう。

「どうした、おきよ? 溶いた粉が珍しいわけでもあるまいに……。あ、これを使ってなにか作ろうってのか?」

 丼に見入っているのに気づいたのか、弥一郎が訊ねてきた。きっと弥一郎も、お礼の品について考えてくれているのだろう。

「あの……上田様方へのお礼はお菓子がいいのではと……」
「菓子?」
「はい。あんを丸めて溶いた粉を絡めて焼いてみてはどうでしょう?」
「お、きんつばだな!」
「あ……」

 伊蔵の声にはっとした。確かに餡に溶いた粉を絡めて焼くのはきんつばだ。もともとは上方かみがたで生まれた菓子で、米粉で作った薄い皮で餡子を包んで焼いた『ぎんつば』が、江戸に伝わったところ、米粉の皮が小麦粉になり、呼び名も『きんつば』になったらしい。おそらく銀より金のほうが景気がいいとでも考えたのだろう。もしかしたら、上方ではもっぱら銀貨だが、江戸では金貨が使われることにも関わりがあるのかもしれない。いずれにしても、広く売られているお菓子だった。
 せっかくいい工夫だと思ったのに、ずっと昔からある菓子だったと気がついて、きよはがっかりしてしまった。
 肩を落としたきよに、弥一郎が慰めるように言う。

「そんなにしょんぼりしなくていい。人なんて、案外みんな似たようなことを考えるものだ」
「そうそう。それより、上田様にお届けするなら試しに作ってみなきゃ」
「とかなんとか言って、おこぼれにあずかる気だな?」

 弥一郎が呆れ顔で伊蔵に言った。
 大福やきんつばは町人にも人気の菓子だが、大福はひとつ四もん、きんつばはもっと値が張るような気がする。たとえ慣れないきよの手作りにしても、ただでありつけるなら……と伊蔵は考えたのだろう。

「へへっ、ばれたか! でも、そんな顔をするところを見ると、板長さんだってまんざらじゃないはずですぜ」

 言われて見ると、確かに弥一郎もにやにやしている。この人もお菓子が好きだったのか、と思っていると、源太郎や清五郎、そしてとらまでが期待のこもった目できよを見ていた。
 源太郎が近づいてきて言う。

「今日は大入り、きよの座禅豆ざぜんまめも品切れだ。明日は新しく煮なきゃならねえ。二口のへっついを使って隣であんも煮るがいいさ」
「でも、小豆あずきが……」

 この時刻ではもう乾物屋は閉まっている。小豆がなくては餡は作れない。困ったように言うきよに、源太郎は平然と返した。

「小豆なら、鏡開きで汁粉を作った残りがあるはずだ。去年の豆だし、そろそろ使っちまいたいんだ」
「そうですか……じゃあ、そうさせてもらいます」

 この騒ぎの発端は清五郎だ。ゆうを助けられたのはよかったと思うものの、見つけたのが清五郎でなければこんなことにはならなかっただろう。弟のせいでまた『千川』に迷惑をかけてしまった。それでも、お試しで作ったものをみんなに食べてもらえば少しはお返しができる。
 かくして、翌日は餡と座禅豆を並べて煮ることに決め、きよはその日の仕事を終えた。


 翌日、朝一番で『千川』にやってきたきよは早速小豆を煮始めた。
 しばらくして鍋の中の小豆あずきあんを見て、ほっと一息つく。
 ――よかった、ちゃんとできた……
 鍋に水と小豆を入れてへっついにかけ、ぐらぐら沸かせて湯を捨てる。もう一度同じことを繰り返し、三度目は火を弱めて柔らかくなるまで煮る。煮えた小豆の皮をざるでしたあと、鍋に戻してとろ火にかける。
 それらの仕事を迷うことなくできたことが、きよはとても嬉しい。数えるほどしか作ったことはなかったが、料理にかかわることはそう簡単に忘れたりしない。そんな自信のようなものが生まれた。
 あとは塩を加えて水気がなくなるまで練り上げるだけだ、と思いながら、きよは店のほうをうかがった。
 幸い、客が立て込んでいる様子はない。もうしばらくは大丈夫、と安堵しつつ弥一郎に目をやると、彼は赤芋を揚げようとしていた。赤芋はその名のとおり皮が赤紫色で、薩摩さつまで広く作られているので薩摩芋、あるいは栗より旨い(九里四里くりより旨い)ということで十三じゅうさんとも呼ばれている。熱するとは黄金色となり、強い甘みを持つ芋だ。
 ――大きな赤芋。さぞや甘いでしょうね……
 そんなことを思ったあと、餡を練り始める。しばらく続けたあと、きよははっと思いついた。
 ――赤芋を茹で潰して餡にしたらどうかしら……。小豆の餡のほんのりとした甘さはとてもいいものだけど、赤芋ならもっと甘くなる。おりょう様は甘い座禅豆ざぜんまめをお好みになるぐらいだから、甘い餡もお好きに違いない。よし、試してみよう!

「板長さん、赤芋を少し使っていいですか?」
「赤芋ぐらいいくらでも使っていいが、どうするつもりだ?」
「餡を作ってみようと思って……」
「赤芋の餡……それはいいかもしれない」

 弥一郎は手元にあった大きな赤芋を手に取り、すいすいと皮を剥く。続いて指二本ぐらいの大きさに刻み、伊蔵に渡した。

「茹でてやってくれ」
「へーい」

 伊蔵は至って気楽に返事をする。慌てたのはきよだ。


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