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2巻
2-2
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ここまで深く眠り込むのは尋常ではない。おそらく飯に麻の実でも入れられたのだろう、と深庵は言う。麻の実は古くから用いられ、不眠に効くとされていた。
「そなたを憎く思う者がいるようだ。心当たりはあるか?」
「ありません」
「勘弁してくれよ……」
面倒なことになりそうだ、かかわりたくねえ、と清五郎が後ずさりする。
堀に落ちていた女を見つけて引き上げたのは、紛れもなく清五郎だ。それなのに今更かかわりたくないなんて……ときよは腹が立ってきた。
「ことの発端はあんたでしょ!」
「わかってるよ! でも薬を盛られて堀に落とされたなんて、物騒すぎるだろ。もしやどこぞのお殿様に見初められて、悋気を起こした奥方が……」
「違います。お殿様はそんな方ではありません!」
「それはどうだか。お殿様って言ったって男は男だ」
弥一郎のもっともな意見に、清五郎は大きく頷いた。
「そうそう。こう言っちゃあなんだが、あんた大した別嬪じゃねえか。見初められたって不思議はねえ」
そうだ、そうだと弥一郎も伊蔵も口を揃える。困り果てている女を見かねたのか、きくが言った。
「当て推量はおやめ。本人の口からじっくり聞こうじゃないか。こうなったら乗りかかった船だ、あたしらにできることはするさ」
さあ話してごらん、まずは名前から、ときくに言われ、女は口を開いた。
「私はゆうと申します。とあるお屋敷の奥女中をしております」
「奥女中⁉ 奥女中ときたら殿様のお手つき……やっぱりお家騒動じゃねえか!」
「おだまり! いい加減にしないと猿轡をかますよ!」
ついにはきくにまで叱られ、清五郎はしゅんとする。姉でありながら、いい気味だと思う自分に苦笑しつつ、きよはゆうの言葉を待った。
「本当にお殿様とはかかわりありません。そもそも私は姫様付き、しかも下っ端も下っ端ですので、お殿様にお目通りすることなんて滅多にないんです」
「本当に殿様とは関わりねえのかい?」
「はい。でも……若様とは……」
「若様?」
清五郎だけではなく、深庵やきく、弥一郎もまっすぐにゆうを見ている。その眼差しから親身になってくれそうだと感じたのか、ゆうはぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「実は私は商人の娘で、三番目の若様と夫婦になる前提で嫁入り修業がてら奉公に上がりました。半年ほど過ぎて、そろそろ祝言を交わそうと思っていたところだったんです」
「それは誰の考えで?」
深庵の問いに、ゆうは少し考えて答えた。
「おそらくはお殿様だと……」
「もしや、奥方が面白く思っていなかったとか?」
「わかりません。でも、奥方様も私には優しくしてくださっていましたし……」
「さようか。それなら相手の男かもしれんぞ。まだ腰を落ちつけたくない、あるいはそなたとの婚姻は親の言いつけ、実は他に想う女がいるとか……」
そこでゆうは、深庵をきっと睨み付けた。
「あり得ません。若様は、武家のことなどわからないことだらけだった私に、様々なことを細かに教えてくださいました。いつもお優しくて、祝言が待ち遠しいって……。嘘がつけるお人柄ではありませんし、私以外の女と親しく口をきいている姿を見たこともありません。他に女なんているわけないんです!」
「わかった、わかった! そういきり立つな。身体に障る」
勢いよく身を起こしたゆうを再び寝かせ、やれやれ、とため息をついた深庵を咎めるようにきくが言う。
「今のは先生がよくないよ。当て推量でひどいこと言うから」
「悪かった……。では、おゆうは近々祝言を挙げるはずだった。相手との仲もなにも問題がない。恋敵はいないし、誰かに憎まれる覚えもない、ということじゃな?」
「そのとおりです。いったいどうして……」
「そなたに心当たりがないとすれば、誰ぞが若様に岡惚れしているのかもしれぬ。男にその気はなくても、その若様を憎からず思っている女がいた。しかし若様はなびかぬし、近々祝言と聞いて焦り、いっそ亡き者に……と」
「そんなこと、実際にあるもんかい?」
清五郎が首を傾げた。きよも、それではまるで読み物だ、想像が過ぎると呆れつつも話を聞いていた。
「それにしても、今後をどうするかじゃな……」
深庵は薄い髭を捻りながら考え込んでいる。
奉公先でも心配している者がいるかもしれない。だが、本当に薬を盛られて堀に流されたとしたら、恐ろしくて戻るどころではない。かといって、このまま行方をくらますわけにもいかない。なにより相手の若様が気の毒すぎる。
「相手の男にだけでも居場所を知らせるわけにいかねえかな……」
弥一郎の言葉に、清五郎も頷く。
「遣いをやってこっそり呼び出せばいいんじゃねえかな。なんなら俺がちょっくら走って……」
「それはいいが、まかり間違っておゆうさんに悪さをしたやつの耳にでも入ったら大変だぞ」
悪者はおそらくゆうが命を落としたと考えているだろう。どうかすれば亡骸が上がるのを待っているかもしれない。無事だとわかればまたなにか仕掛けてくるに決まっている。迂闊なことはできない、そう弥一郎が言うのはもっともだった。
「おゆうさん、あんたはどうしたい? 夫婦になりたいという気持ちは失せてないのじゃな?」
「もちろんです。今ごろきっと心配してくださっているでしょうし……なんとかあの方にだけでも知らせなくては……」
「心配で済めばいいけど、悪者に吹き込まれでもしておゆうさんが儚くなっちまったと思い込んだ日には、やけになって後追いなんてことも……」
「ろくでもないことを言うな!」
深庵に大声で叱られ、清五郎はびくりと首を竦めた。きくがゆうの枕元に這い寄り、力づけるように言う。
「大丈夫だよ。仮にも武士、しかも夫婦約束までして情も通じてたんだろ? 知らせがなくても、あんたが無事だって気持ちのどこかで感じてるさ」
「そうだ、そうだ! いずれにしても、なんとかして知らせねえと。かといって見ず知らずの者が行ったら怪しまれるだろうし、文だって無事にその若様に届くとは限らねえし……」
清五郎が唸る。飯に薬を盛れるぐらいだから、悪者は屋敷内にいるに決まっている。文は門番に渡すのが常だから、若様宛にすれば横取りされかねない。
「あーあ……いっそ忍びの知り合いでもいればなあ……」
じれったそうに清五郎が言う一方、伊蔵は心配そうに弥一郎に話しかけた。
「それはそうと……板長さん、俺たちずっとここにいて大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「そろそろ五つ半(午前九時)になろうかって時分じゃねえかと……」
「まずい!」
弥一郎がものすごい勢いで立ち上がった。
『千川』はたいてい昼四つ(午前十時)から四つ半(午前十一時)の間に店を開ける。急いで戻らないと間に合わなくなる。伊蔵は住み込みなので、早朝から弥一郎とふたりで仕事にかかっていたはずだが、いくら仕込みが終わっていたとしても、料理人が揃って不在では店を開けられない。
ゆうのことは気になるが、今は店に戻るしかなかった。
深庵の家から大急ぎで戻った一同は、『千川』の前をうろうろしていた主――源太郎に出くわした。角を曲がってきた弥一郎を見つけるなり、源太郎が駆け寄ってくる。
間近で見た源太郎の顔は、堀の水にでも浸かったのではないかと思うほど血の気が失せていた。
「無事だったか……。みんな一緒だったんだな」
「どうした親父?」
「どうしたもこうしたもねえよ!」
裏の自宅で朝飯を済ませ、帳面でもつけようと来てみれば、店はもぬけの殻。
さらに、奉公人ばかりか息子の弥一郎まで姿が見えないと気づくに至って、これはただ事ではない、事件に巻き込まれたのかもしれないといても立ってもいられなかったらしい。
弥一郎が後ろ頭を掻きつつ言う。
「そいつはすまねえ。慌てて飛び出しちまって、あとのことなんてすっかり頭から抜けちまってた。考えたら、なにも四人揃っておゆうさんが気を取り戻すのを待つ必要なんてなかった。俺と伊蔵だけでも店に戻るんだった」
「おゆうさんって誰だい?」
「それはあとで。今は店を開けなきゃ」
そのとおり、ということでみんなが一斉に動き出す。大車輪で働いたおかげで、なんとかいつもどおりの時刻に暖簾を出すことができた。
その日はいつになく大入りで、店を開けるまでの慌ただしさが一日中続いた。いつもであれば昼時を過ぎれば一段落する客足がまったく衰えず、源太郎は大喜びする一方で、今朝の子細を聞く間がなく気を揉んでいる様子でもあった。
そんな源太郎にようやくゆうについて語ることができたのは、仕事を終えて夕飯を食べに来る職人たちが去ったあと、暮れ六つ半(午後七時)のことだった。
「なんて忙しねえ一日だ。なんで今日に限ってこんなに客が詰めかけたんだか。もう肩も首もかっちかちだぜ」
首を左右に折り曲げながら嘆く弥一郎のところに、源太郎が来て訊ねた。
「ご苦労さん。だがおかげで今日は大儲けだよ。それで、朝方なにがあったんだい? おゆうさんってのはいったい……」
「どこかのお屋敷の奥女中らしい。堀に流されてるところを清五郎が見つけちまって、みんなして引き上げるやら深庵先生のところに運ぶやらでてんやわんやだったんだ」
「堀に流されてた? 奥女中ってことは子どもじゃねえよな? なんだってそんなことに……」
「よくわからんが、いろいろ事情があったらしい」
「それでそのおゆうさんってのは大丈夫だったんだろうな? まさか土左衛門……」
「土左衛門に名前が聞けるかよ。とはいえ、引き上げようが大八車で運ぼうが気を取り戻さなくてな。どうしたことかと思ってたら、薬を盛られてたみたいだ」
「眠ったまま水に落とされてよく無事に済んだな。ああそうか、そのほうが妙に暴れねえからさほど水を呑まなかったってこともあるかもな」
「かもな……。で、俺たちはおゆうさんの無事を確かめたところで戻ってきたってわけだ」
「なるほど、話はわかった。ただ、今度からは知らせを寄越してくれ。生きた心地がしなかったぜ」
「すまねえ……って、こんなことがしょっちゅうあったら堪らねえよ!」
「だよな」
そこで親子は大笑い、釣られて伊蔵ときよも笑い出したところで、暖簾の隙間から白髪頭が覗いた。店の中に首だけ突っ込んで、きょろきょろと見回したのはきくだった。
「おや、おきくさんじゃないか」
とらはきくを知っていたらしく、気軽に声をかける。源太郎は源太郎で、嬉しそうに訊ねた。
「飯かい? 前に来てくれてから二年近くになるじゃないか。さ、そんなところに突っ立ってないでお入りよ」
話しぶりから察するに、きくは『千川』の客になったことがあるらしい。とはいえ、きよや清五郎のことを知らなかったところを見ると、二年近く前に来たきりという源太郎の言葉は間違っていないのだろう。
今日は餡かけ豆腐が旨いよ、などと話しながら源太郎はきくを席に上がらせようとした。ところが、入ってきたきくは、源太郎ととらに会釈したあと、まっすぐ板場にやってきた。
「ああ、よかった。みんないてくれたんだね。これなら話が早い」
「俺たちにご用ですかい?」
「ああ。おゆうさんになにか滋養のあるものを……と思ってね。深庵先生は男やもめでろくなものは作れないし、材料だってない。昼は様子見であたしがお粥を炊いてやったんだけど、いつまでもそれじゃあ力がつかない。この際家に戻ってなにか拵えようと思ってたんだけど、お呼びがかかっちまったんだよ」
生業が取り上げ婆だけに、朝昼問わず呼び出される。ゆうのことは気になるが、生まれそうになっている赤ん坊を放っておくわけにはいかない。できればなにか届けてやってくれまいか、ときくは頼みに来たという。
「『千川』が持ち帰りをさせない店だとはわかってるけど、ことがことだけに特別になんとかしてもらえないかねえ……」
そこで、きくは弥一郎と源太郎の顔を交互に見た。さらに、ちょっとずるそうな目をして言う。
「ほかにも特別があるみたいだし、ここはなんとか……」
「ほかにも?」
「お惚けでないよ。時々風呂敷包みを提げた黒羽織が出ていくらしいじゃないか。どうかすると徳利も……」
「知ってたのかい……。もしや噂になってるとか?」
げんなりした顔で訊ねた源太郎に、きくはにやにやしながら答えた。
「噂ってほどじゃないよ。ただ『千川』もお役人は特別扱いなんだな、って。まあ、菓子折に小判を敷き詰めて持たせたってわけでもないだろうし……」
「当たり前だ。うちにそんな金はねえし、あったとしてもそんなことをしなきゃならない理由がない」
「そりゃそうだ。だったらよけいに、包みの中は料理ってことになる。ここはひとつ、かわいそうな女のために特別をひとつ増やしてやっておくれよ。餡かけ豆腐なら打ってつけだ」
じゃあ頼んだよ、と言い置いて、きくは店を出ていく。小走りに去っていったところを見ると、産気づいた女はよほど切羽詰まっているのだろう。
「頼まれたはいいけど、誰が代を引き受けてくれるんだよ」
まさか深庵に払わせるわけにはいかない。医者の中にはろくに病人も治せないくせに、とんでもない金を取る者もいるが、深庵は違う。よほど金に余裕がある者なら余分に取るぐらいのことはしているらしいが、本当に困っている家からは薬代すら取らない。それどころか、食うものがないと知れば自分の米を分けてやるほどなのだ。男やもめでろくに料理もしないくせに、米だけはふんだんに置いているのは、困っている患者たちに分けてやるためだろう。そんな人に料理代、しかも深庵が食べるわけでもないものを払わせるなんてありえない、と源太郎はため息をついた。
弥一郎が笑いながら言う。
「今日一日、やけに忙しかったと思ったらこういうことか」
「こういうことかって?」
「たっぷり儲けたんだから、多少は施せってこと。いいじゃねえか、どうせうちの損は材料代だけなんだし。情けは人のためならずとも言う。いつか回り回って返ってくるさ」
「しょうがねえなあ……。じゃあまあ、適当に見繕ってやってくれ」
「合点。そろそろきよと清五郎は引け時だ。帰り際に届けさせるとしよう」
回り道になるがよろしくな、と言われ、きよはもちろん清五郎も元気よく頷く。
もとより帰りに寄ってみようと思っていた。清五郎だって同じ気持ちだろう。多少の遠回りなど気にもならなかった。
適当に見繕ってくれ、と任された弥一郎は天井に目を向けた。おそらく品書きの中から食べやすくて滋養のあるものを選ぼうとしているのだろう。しばらくそうしていたあと、きよに話しかけてきた。
「餡かけ豆腐はよしとしても、あとをどうするかな? 堀に落ちた女に人気の料理とかあるか?」
弥一郎の軽口に、きよは苦笑する。
「堀に落ちた女に人気って……そんなもの聞いたことありません。ただ、病み上がりは魚や葉物をたくさん食べるといいと聞いたことがあります。きっと身体にいいのだと思います。今なら鰈の煮付けとか……あとは、蕪の葉の炒り煮なんかがいいかもしれません」
「蕪の葉の炒り煮……含め煮とは違うのか?」
「含め煮は生の葉を出汁で煮ますが、炒り煮は葉を刻んで炒め、醤油と味醂で味をつけるんです。大根の葉でも同じようにできますし、胡麻油の香りがなんとも言えず、実家の者たちには白飯やお粥に添えると箸が止まらなくなると人気でした。あ、削り節を入れるとなおいいかもしれません。出汁を取ったあとのもので十分ですし」
「それは旨そうな……。蕪の葉も出汁を取ったあとの削り節も山ほどある。よし、早速作ってみてくれ。あとは?」
三品も届ければ十分な気がするが、弥一郎はまだ物足りないらしい。料理屋の沽券に関わるのだろうか、と思いながら、きよは板場をくるりと見回した。目についたのは、大きな味噌樽だった。
「なにか汁を……蜆はどうでしょう?」
「それがいい。では深庵先生とふたり分、届けることにしよう。飯も忘れずにな」
魚と葉物、豆腐と汁物、そこに飯を加えれば贅沢な夕飯になる。ゆうはもちろんのこと、深庵も喜んでくれるに違いない。
手早く蕪の葉を刻み、炒り煮を作る。その間に、伊蔵が蜆汁を拵えてくれた。最後に味噌を溶くに至って、きよはそっと頼んだ。
「店に出すときより少しだけ味噌を控えてもらえませんか?」
「薄味にしろってことか?」
「はい。母が、病人や年寄りには薄味がいいって言ってたんです。うちのお客さんは職人さんやお酒を呑まれる方が多いので、幾分味付けが濃いめですし……」
鰈の煮付けと餡かけ豆腐はもうできあがっているから仕方がないが、他は薄味のほうがいいかもしれない、ということで、炒り煮に使う醤油を控えた。胡麻油がきいているし、削り節もふんだんに入れたから、味わいは十分だろう。
「なるほど、そういうこともあるのか……」
知らねえことばかりだ……と呟きながら、伊蔵は蜆汁を仕上げる。そこにやってきたのは、なんと与力の上田だった。
「これはこれは上田様……」
至って愛想よく迎えた源太郎に、上田はなんだか難しい顔で応えた。
「邪魔をしてすまんが、少々訊ねたいことがあって参った」
「と、申しますと? なにかまた物騒な事件でも?」
雛祭りのころ、近くで押し込みがあり、犯人が潜んでいるかもしれないから行き帰りに気をつけるようにと言いに来てくれたことがあった。今回も同様かと源太郎が心配するのも無理はなかった。
「物騒は物騒だが、この店とはかかわりない。ただ、この界隈の医者について調べたくてな」
「医者? それならなにもうちにいらっしゃらなくても」
上田は与力なのだから、手下がたくさんいる。医者の所在ぐらい簡単に調べられるはずだ。わざわざ『千川』にやってくる必要はない。
当たり前の問いを受け、上田は難しい顔で店内を見回した。この与力が入ってくるのと同時に、ひとりだけいた客が帰ったので、店内には源太郎親子と奉公人が残るのみだった。それでももう一度、戸口から入ってこようとする客がいないかを確かめ、上田は口を開いた。
「実はとある屋敷で女がひとり行方知れずになっておってな。昨夜まで確かにいたはずが、朝になってみたら姿がない。屋敷中を探したが見つからず、奉公人たちも寝所に下がったあと誰も見ていないと口を揃えたそうな……」
「拐かしですか? 上田様、そちらのお屋敷と懇意にされてるのですか?」
「いやいや、わし自身はほとんどかかわりがない」
「じゃあどうして……」
「そこの中間と我が家の小者が親しくてな。なんとか探してくれないか、と頼んできたそうだ」
中間はその家の一番下の若様付で、とてもかわいがられていた。女の姿が見えないと知った若に探すように申しつけられた中間は、家の中を探し回ったが見つけられず、家の外にまで探しに出た。その途中で上田家の前を通りかかり、折良く門前にいた小者に頼み込んでいったらしい。
与力の家に奉公しているからといって、探索に長けているわけではない。無理だと断ったが、中間は小者をあてにしているわけではなく、上田に頼んでほしいと言う。
いずれ若様が祝言を挙げる相手、しかも相思相愛の仲だ。なんとか助けてもらえないかと縋りつかれ、やむなく小者がりょうに相談し、りょうが上田に……という具合だったそうだ。
「若様は心配のあまりいても立ってもいられぬ様子らしく、中間は足を棒にして探し回っていた。聞けば、ふたりは親が仕立てた縁組みとは思えぬほど仲が良く、とりわけ若様は祝言を待ちわびていたそうじゃ。おふくろ様も、あまりに気の毒、なんとかしてやってくれと申される。とはいえ相手は武家。もちろん届けなど出ておらぬ。与力といえども簡単に入り込むわけにいかず、まずは近隣から、と密かに探らせてみたところ、ひとつふたつわかったことがあった」
「わかったこととは?」
「ひとつ、明け方、件の屋敷の裏口からなにやら大きなものを担いで出てきた男を見た者がいる。ふたつ、この近くで堀になにかを投げ込んで逃げ去った者がいる。かなり大きな水音だったそうだ」
投げ込んだのなら堀に残っているはずだ、と調べてみたが、それらしい物は見当たらないし、土左衛門も上がっていない。万が一投げ込まれたのが捜している女だったとしたら、運良く助けられ近場の医者に担ぎ込まれたのではないか。そんな憶測の下、上田は医者について訊きに来たそうだ。
「医は仁術というが、中には面倒にかかわりたくないという者もいる。そちたちなら、人情に厚く腕もいい医者の心当たりがあるのではないかと思ってな」
「行方知れずの女、若様の許嫁……どこかで聞いた話だな」
源太郎の呟き声に、すかさず上田が訊ねた。
「心当たりがあるのか?」
「俺ではなく弥一郎たち、正確には清五郎でさあ」
「清五郎か! つくづく面倒を起こす男だな!」
「あ、ひでえ……」
源太郎の後ろで話を聞いていた清五郎が、情けなさそうに言う。上田の評価は仕方のないことだろう。だが、前回は確かに面倒は面倒だったけれど、今回は人の命を救っている。褒められこそすれ、叱られる義理はなかった。
どういうことだ、と上田に訊かれ、清五郎はなんだか得意そうに経緯を語った。
「なるほど、それは手柄であった。ではその女、名はなんという?」
「おゆうさんです」
「おそらく間違いない。それが、中間が探しておった女だろう。その深庵という医者のところにいるのだな?」
「はい。今から帰りがてら飯を届けに行くところです」
「ちょうどよい。わしも一緒に行って確かめるとしよう」
腰の軽い与力は、とらが淹れた茶に見向きもせずに『千川』を出る。深庵の家など知らぬくせに、先陣を切るところが面白かった。
「深庵先生、お邪魔します」
清五郎はふたり分の料理が載っている大きな盆を掲げている。代わりにきよが声をかけ、引き戸を開けた。
「おお、おきよと清五郎か……え……」
そこで言葉を切ったのは、ふたりの後ろに上田の姿が見えたからだろう。日もとっぷり暮れているというのにいきなり黒羽織に登場されては、様々な患者に接してきた深庵といえども驚いたに違いない。
「そなたを憎く思う者がいるようだ。心当たりはあるか?」
「ありません」
「勘弁してくれよ……」
面倒なことになりそうだ、かかわりたくねえ、と清五郎が後ずさりする。
堀に落ちていた女を見つけて引き上げたのは、紛れもなく清五郎だ。それなのに今更かかわりたくないなんて……ときよは腹が立ってきた。
「ことの発端はあんたでしょ!」
「わかってるよ! でも薬を盛られて堀に落とされたなんて、物騒すぎるだろ。もしやどこぞのお殿様に見初められて、悋気を起こした奥方が……」
「違います。お殿様はそんな方ではありません!」
「それはどうだか。お殿様って言ったって男は男だ」
弥一郎のもっともな意見に、清五郎は大きく頷いた。
「そうそう。こう言っちゃあなんだが、あんた大した別嬪じゃねえか。見初められたって不思議はねえ」
そうだ、そうだと弥一郎も伊蔵も口を揃える。困り果てている女を見かねたのか、きくが言った。
「当て推量はおやめ。本人の口からじっくり聞こうじゃないか。こうなったら乗りかかった船だ、あたしらにできることはするさ」
さあ話してごらん、まずは名前から、ときくに言われ、女は口を開いた。
「私はゆうと申します。とあるお屋敷の奥女中をしております」
「奥女中⁉ 奥女中ときたら殿様のお手つき……やっぱりお家騒動じゃねえか!」
「おだまり! いい加減にしないと猿轡をかますよ!」
ついにはきくにまで叱られ、清五郎はしゅんとする。姉でありながら、いい気味だと思う自分に苦笑しつつ、きよはゆうの言葉を待った。
「本当にお殿様とはかかわりありません。そもそも私は姫様付き、しかも下っ端も下っ端ですので、お殿様にお目通りすることなんて滅多にないんです」
「本当に殿様とは関わりねえのかい?」
「はい。でも……若様とは……」
「若様?」
清五郎だけではなく、深庵やきく、弥一郎もまっすぐにゆうを見ている。その眼差しから親身になってくれそうだと感じたのか、ゆうはぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「実は私は商人の娘で、三番目の若様と夫婦になる前提で嫁入り修業がてら奉公に上がりました。半年ほど過ぎて、そろそろ祝言を交わそうと思っていたところだったんです」
「それは誰の考えで?」
深庵の問いに、ゆうは少し考えて答えた。
「おそらくはお殿様だと……」
「もしや、奥方が面白く思っていなかったとか?」
「わかりません。でも、奥方様も私には優しくしてくださっていましたし……」
「さようか。それなら相手の男かもしれんぞ。まだ腰を落ちつけたくない、あるいはそなたとの婚姻は親の言いつけ、実は他に想う女がいるとか……」
そこでゆうは、深庵をきっと睨み付けた。
「あり得ません。若様は、武家のことなどわからないことだらけだった私に、様々なことを細かに教えてくださいました。いつもお優しくて、祝言が待ち遠しいって……。嘘がつけるお人柄ではありませんし、私以外の女と親しく口をきいている姿を見たこともありません。他に女なんているわけないんです!」
「わかった、わかった! そういきり立つな。身体に障る」
勢いよく身を起こしたゆうを再び寝かせ、やれやれ、とため息をついた深庵を咎めるようにきくが言う。
「今のは先生がよくないよ。当て推量でひどいこと言うから」
「悪かった……。では、おゆうは近々祝言を挙げるはずだった。相手との仲もなにも問題がない。恋敵はいないし、誰かに憎まれる覚えもない、ということじゃな?」
「そのとおりです。いったいどうして……」
「そなたに心当たりがないとすれば、誰ぞが若様に岡惚れしているのかもしれぬ。男にその気はなくても、その若様を憎からず思っている女がいた。しかし若様はなびかぬし、近々祝言と聞いて焦り、いっそ亡き者に……と」
「そんなこと、実際にあるもんかい?」
清五郎が首を傾げた。きよも、それではまるで読み物だ、想像が過ぎると呆れつつも話を聞いていた。
「それにしても、今後をどうするかじゃな……」
深庵は薄い髭を捻りながら考え込んでいる。
奉公先でも心配している者がいるかもしれない。だが、本当に薬を盛られて堀に流されたとしたら、恐ろしくて戻るどころではない。かといって、このまま行方をくらますわけにもいかない。なにより相手の若様が気の毒すぎる。
「相手の男にだけでも居場所を知らせるわけにいかねえかな……」
弥一郎の言葉に、清五郎も頷く。
「遣いをやってこっそり呼び出せばいいんじゃねえかな。なんなら俺がちょっくら走って……」
「それはいいが、まかり間違っておゆうさんに悪さをしたやつの耳にでも入ったら大変だぞ」
悪者はおそらくゆうが命を落としたと考えているだろう。どうかすれば亡骸が上がるのを待っているかもしれない。無事だとわかればまたなにか仕掛けてくるに決まっている。迂闊なことはできない、そう弥一郎が言うのはもっともだった。
「おゆうさん、あんたはどうしたい? 夫婦になりたいという気持ちは失せてないのじゃな?」
「もちろんです。今ごろきっと心配してくださっているでしょうし……なんとかあの方にだけでも知らせなくては……」
「心配で済めばいいけど、悪者に吹き込まれでもしておゆうさんが儚くなっちまったと思い込んだ日には、やけになって後追いなんてことも……」
「ろくでもないことを言うな!」
深庵に大声で叱られ、清五郎はびくりと首を竦めた。きくがゆうの枕元に這い寄り、力づけるように言う。
「大丈夫だよ。仮にも武士、しかも夫婦約束までして情も通じてたんだろ? 知らせがなくても、あんたが無事だって気持ちのどこかで感じてるさ」
「そうだ、そうだ! いずれにしても、なんとかして知らせねえと。かといって見ず知らずの者が行ったら怪しまれるだろうし、文だって無事にその若様に届くとは限らねえし……」
清五郎が唸る。飯に薬を盛れるぐらいだから、悪者は屋敷内にいるに決まっている。文は門番に渡すのが常だから、若様宛にすれば横取りされかねない。
「あーあ……いっそ忍びの知り合いでもいればなあ……」
じれったそうに清五郎が言う一方、伊蔵は心配そうに弥一郎に話しかけた。
「それはそうと……板長さん、俺たちずっとここにいて大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「そろそろ五つ半(午前九時)になろうかって時分じゃねえかと……」
「まずい!」
弥一郎がものすごい勢いで立ち上がった。
『千川』はたいてい昼四つ(午前十時)から四つ半(午前十一時)の間に店を開ける。急いで戻らないと間に合わなくなる。伊蔵は住み込みなので、早朝から弥一郎とふたりで仕事にかかっていたはずだが、いくら仕込みが終わっていたとしても、料理人が揃って不在では店を開けられない。
ゆうのことは気になるが、今は店に戻るしかなかった。
深庵の家から大急ぎで戻った一同は、『千川』の前をうろうろしていた主――源太郎に出くわした。角を曲がってきた弥一郎を見つけるなり、源太郎が駆け寄ってくる。
間近で見た源太郎の顔は、堀の水にでも浸かったのではないかと思うほど血の気が失せていた。
「無事だったか……。みんな一緒だったんだな」
「どうした親父?」
「どうしたもこうしたもねえよ!」
裏の自宅で朝飯を済ませ、帳面でもつけようと来てみれば、店はもぬけの殻。
さらに、奉公人ばかりか息子の弥一郎まで姿が見えないと気づくに至って、これはただ事ではない、事件に巻き込まれたのかもしれないといても立ってもいられなかったらしい。
弥一郎が後ろ頭を掻きつつ言う。
「そいつはすまねえ。慌てて飛び出しちまって、あとのことなんてすっかり頭から抜けちまってた。考えたら、なにも四人揃っておゆうさんが気を取り戻すのを待つ必要なんてなかった。俺と伊蔵だけでも店に戻るんだった」
「おゆうさんって誰だい?」
「それはあとで。今は店を開けなきゃ」
そのとおり、ということでみんなが一斉に動き出す。大車輪で働いたおかげで、なんとかいつもどおりの時刻に暖簾を出すことができた。
その日はいつになく大入りで、店を開けるまでの慌ただしさが一日中続いた。いつもであれば昼時を過ぎれば一段落する客足がまったく衰えず、源太郎は大喜びする一方で、今朝の子細を聞く間がなく気を揉んでいる様子でもあった。
そんな源太郎にようやくゆうについて語ることができたのは、仕事を終えて夕飯を食べに来る職人たちが去ったあと、暮れ六つ半(午後七時)のことだった。
「なんて忙しねえ一日だ。なんで今日に限ってこんなに客が詰めかけたんだか。もう肩も首もかっちかちだぜ」
首を左右に折り曲げながら嘆く弥一郎のところに、源太郎が来て訊ねた。
「ご苦労さん。だがおかげで今日は大儲けだよ。それで、朝方なにがあったんだい? おゆうさんってのはいったい……」
「どこかのお屋敷の奥女中らしい。堀に流されてるところを清五郎が見つけちまって、みんなして引き上げるやら深庵先生のところに運ぶやらでてんやわんやだったんだ」
「堀に流されてた? 奥女中ってことは子どもじゃねえよな? なんだってそんなことに……」
「よくわからんが、いろいろ事情があったらしい」
「それでそのおゆうさんってのは大丈夫だったんだろうな? まさか土左衛門……」
「土左衛門に名前が聞けるかよ。とはいえ、引き上げようが大八車で運ぼうが気を取り戻さなくてな。どうしたことかと思ってたら、薬を盛られてたみたいだ」
「眠ったまま水に落とされてよく無事に済んだな。ああそうか、そのほうが妙に暴れねえからさほど水を呑まなかったってこともあるかもな」
「かもな……。で、俺たちはおゆうさんの無事を確かめたところで戻ってきたってわけだ」
「なるほど、話はわかった。ただ、今度からは知らせを寄越してくれ。生きた心地がしなかったぜ」
「すまねえ……って、こんなことがしょっちゅうあったら堪らねえよ!」
「だよな」
そこで親子は大笑い、釣られて伊蔵ときよも笑い出したところで、暖簾の隙間から白髪頭が覗いた。店の中に首だけ突っ込んで、きょろきょろと見回したのはきくだった。
「おや、おきくさんじゃないか」
とらはきくを知っていたらしく、気軽に声をかける。源太郎は源太郎で、嬉しそうに訊ねた。
「飯かい? 前に来てくれてから二年近くになるじゃないか。さ、そんなところに突っ立ってないでお入りよ」
話しぶりから察するに、きくは『千川』の客になったことがあるらしい。とはいえ、きよや清五郎のことを知らなかったところを見ると、二年近く前に来たきりという源太郎の言葉は間違っていないのだろう。
今日は餡かけ豆腐が旨いよ、などと話しながら源太郎はきくを席に上がらせようとした。ところが、入ってきたきくは、源太郎ととらに会釈したあと、まっすぐ板場にやってきた。
「ああ、よかった。みんないてくれたんだね。これなら話が早い」
「俺たちにご用ですかい?」
「ああ。おゆうさんになにか滋養のあるものを……と思ってね。深庵先生は男やもめでろくなものは作れないし、材料だってない。昼は様子見であたしがお粥を炊いてやったんだけど、いつまでもそれじゃあ力がつかない。この際家に戻ってなにか拵えようと思ってたんだけど、お呼びがかかっちまったんだよ」
生業が取り上げ婆だけに、朝昼問わず呼び出される。ゆうのことは気になるが、生まれそうになっている赤ん坊を放っておくわけにはいかない。できればなにか届けてやってくれまいか、ときくは頼みに来たという。
「『千川』が持ち帰りをさせない店だとはわかってるけど、ことがことだけに特別になんとかしてもらえないかねえ……」
そこで、きくは弥一郎と源太郎の顔を交互に見た。さらに、ちょっとずるそうな目をして言う。
「ほかにも特別があるみたいだし、ここはなんとか……」
「ほかにも?」
「お惚けでないよ。時々風呂敷包みを提げた黒羽織が出ていくらしいじゃないか。どうかすると徳利も……」
「知ってたのかい……。もしや噂になってるとか?」
げんなりした顔で訊ねた源太郎に、きくはにやにやしながら答えた。
「噂ってほどじゃないよ。ただ『千川』もお役人は特別扱いなんだな、って。まあ、菓子折に小判を敷き詰めて持たせたってわけでもないだろうし……」
「当たり前だ。うちにそんな金はねえし、あったとしてもそんなことをしなきゃならない理由がない」
「そりゃそうだ。だったらよけいに、包みの中は料理ってことになる。ここはひとつ、かわいそうな女のために特別をひとつ増やしてやっておくれよ。餡かけ豆腐なら打ってつけだ」
じゃあ頼んだよ、と言い置いて、きくは店を出ていく。小走りに去っていったところを見ると、産気づいた女はよほど切羽詰まっているのだろう。
「頼まれたはいいけど、誰が代を引き受けてくれるんだよ」
まさか深庵に払わせるわけにはいかない。医者の中にはろくに病人も治せないくせに、とんでもない金を取る者もいるが、深庵は違う。よほど金に余裕がある者なら余分に取るぐらいのことはしているらしいが、本当に困っている家からは薬代すら取らない。それどころか、食うものがないと知れば自分の米を分けてやるほどなのだ。男やもめでろくに料理もしないくせに、米だけはふんだんに置いているのは、困っている患者たちに分けてやるためだろう。そんな人に料理代、しかも深庵が食べるわけでもないものを払わせるなんてありえない、と源太郎はため息をついた。
弥一郎が笑いながら言う。
「今日一日、やけに忙しかったと思ったらこういうことか」
「こういうことかって?」
「たっぷり儲けたんだから、多少は施せってこと。いいじゃねえか、どうせうちの損は材料代だけなんだし。情けは人のためならずとも言う。いつか回り回って返ってくるさ」
「しょうがねえなあ……。じゃあまあ、適当に見繕ってやってくれ」
「合点。そろそろきよと清五郎は引け時だ。帰り際に届けさせるとしよう」
回り道になるがよろしくな、と言われ、きよはもちろん清五郎も元気よく頷く。
もとより帰りに寄ってみようと思っていた。清五郎だって同じ気持ちだろう。多少の遠回りなど気にもならなかった。
適当に見繕ってくれ、と任された弥一郎は天井に目を向けた。おそらく品書きの中から食べやすくて滋養のあるものを選ぼうとしているのだろう。しばらくそうしていたあと、きよに話しかけてきた。
「餡かけ豆腐はよしとしても、あとをどうするかな? 堀に落ちた女に人気の料理とかあるか?」
弥一郎の軽口に、きよは苦笑する。
「堀に落ちた女に人気って……そんなもの聞いたことありません。ただ、病み上がりは魚や葉物をたくさん食べるといいと聞いたことがあります。きっと身体にいいのだと思います。今なら鰈の煮付けとか……あとは、蕪の葉の炒り煮なんかがいいかもしれません」
「蕪の葉の炒り煮……含め煮とは違うのか?」
「含め煮は生の葉を出汁で煮ますが、炒り煮は葉を刻んで炒め、醤油と味醂で味をつけるんです。大根の葉でも同じようにできますし、胡麻油の香りがなんとも言えず、実家の者たちには白飯やお粥に添えると箸が止まらなくなると人気でした。あ、削り節を入れるとなおいいかもしれません。出汁を取ったあとのもので十分ですし」
「それは旨そうな……。蕪の葉も出汁を取ったあとの削り節も山ほどある。よし、早速作ってみてくれ。あとは?」
三品も届ければ十分な気がするが、弥一郎はまだ物足りないらしい。料理屋の沽券に関わるのだろうか、と思いながら、きよは板場をくるりと見回した。目についたのは、大きな味噌樽だった。
「なにか汁を……蜆はどうでしょう?」
「それがいい。では深庵先生とふたり分、届けることにしよう。飯も忘れずにな」
魚と葉物、豆腐と汁物、そこに飯を加えれば贅沢な夕飯になる。ゆうはもちろんのこと、深庵も喜んでくれるに違いない。
手早く蕪の葉を刻み、炒り煮を作る。その間に、伊蔵が蜆汁を拵えてくれた。最後に味噌を溶くに至って、きよはそっと頼んだ。
「店に出すときより少しだけ味噌を控えてもらえませんか?」
「薄味にしろってことか?」
「はい。母が、病人や年寄りには薄味がいいって言ってたんです。うちのお客さんは職人さんやお酒を呑まれる方が多いので、幾分味付けが濃いめですし……」
鰈の煮付けと餡かけ豆腐はもうできあがっているから仕方がないが、他は薄味のほうがいいかもしれない、ということで、炒り煮に使う醤油を控えた。胡麻油がきいているし、削り節もふんだんに入れたから、味わいは十分だろう。
「なるほど、そういうこともあるのか……」
知らねえことばかりだ……と呟きながら、伊蔵は蜆汁を仕上げる。そこにやってきたのは、なんと与力の上田だった。
「これはこれは上田様……」
至って愛想よく迎えた源太郎に、上田はなんだか難しい顔で応えた。
「邪魔をしてすまんが、少々訊ねたいことがあって参った」
「と、申しますと? なにかまた物騒な事件でも?」
雛祭りのころ、近くで押し込みがあり、犯人が潜んでいるかもしれないから行き帰りに気をつけるようにと言いに来てくれたことがあった。今回も同様かと源太郎が心配するのも無理はなかった。
「物騒は物騒だが、この店とはかかわりない。ただ、この界隈の医者について調べたくてな」
「医者? それならなにもうちにいらっしゃらなくても」
上田は与力なのだから、手下がたくさんいる。医者の所在ぐらい簡単に調べられるはずだ。わざわざ『千川』にやってくる必要はない。
当たり前の問いを受け、上田は難しい顔で店内を見回した。この与力が入ってくるのと同時に、ひとりだけいた客が帰ったので、店内には源太郎親子と奉公人が残るのみだった。それでももう一度、戸口から入ってこようとする客がいないかを確かめ、上田は口を開いた。
「実はとある屋敷で女がひとり行方知れずになっておってな。昨夜まで確かにいたはずが、朝になってみたら姿がない。屋敷中を探したが見つからず、奉公人たちも寝所に下がったあと誰も見ていないと口を揃えたそうな……」
「拐かしですか? 上田様、そちらのお屋敷と懇意にされてるのですか?」
「いやいや、わし自身はほとんどかかわりがない」
「じゃあどうして……」
「そこの中間と我が家の小者が親しくてな。なんとか探してくれないか、と頼んできたそうだ」
中間はその家の一番下の若様付で、とてもかわいがられていた。女の姿が見えないと知った若に探すように申しつけられた中間は、家の中を探し回ったが見つけられず、家の外にまで探しに出た。その途中で上田家の前を通りかかり、折良く門前にいた小者に頼み込んでいったらしい。
与力の家に奉公しているからといって、探索に長けているわけではない。無理だと断ったが、中間は小者をあてにしているわけではなく、上田に頼んでほしいと言う。
いずれ若様が祝言を挙げる相手、しかも相思相愛の仲だ。なんとか助けてもらえないかと縋りつかれ、やむなく小者がりょうに相談し、りょうが上田に……という具合だったそうだ。
「若様は心配のあまりいても立ってもいられぬ様子らしく、中間は足を棒にして探し回っていた。聞けば、ふたりは親が仕立てた縁組みとは思えぬほど仲が良く、とりわけ若様は祝言を待ちわびていたそうじゃ。おふくろ様も、あまりに気の毒、なんとかしてやってくれと申される。とはいえ相手は武家。もちろん届けなど出ておらぬ。与力といえども簡単に入り込むわけにいかず、まずは近隣から、と密かに探らせてみたところ、ひとつふたつわかったことがあった」
「わかったこととは?」
「ひとつ、明け方、件の屋敷の裏口からなにやら大きなものを担いで出てきた男を見た者がいる。ふたつ、この近くで堀になにかを投げ込んで逃げ去った者がいる。かなり大きな水音だったそうだ」
投げ込んだのなら堀に残っているはずだ、と調べてみたが、それらしい物は見当たらないし、土左衛門も上がっていない。万が一投げ込まれたのが捜している女だったとしたら、運良く助けられ近場の医者に担ぎ込まれたのではないか。そんな憶測の下、上田は医者について訊きに来たそうだ。
「医は仁術というが、中には面倒にかかわりたくないという者もいる。そちたちなら、人情に厚く腕もいい医者の心当たりがあるのではないかと思ってな」
「行方知れずの女、若様の許嫁……どこかで聞いた話だな」
源太郎の呟き声に、すかさず上田が訊ねた。
「心当たりがあるのか?」
「俺ではなく弥一郎たち、正確には清五郎でさあ」
「清五郎か! つくづく面倒を起こす男だな!」
「あ、ひでえ……」
源太郎の後ろで話を聞いていた清五郎が、情けなさそうに言う。上田の評価は仕方のないことだろう。だが、前回は確かに面倒は面倒だったけれど、今回は人の命を救っている。褒められこそすれ、叱られる義理はなかった。
どういうことだ、と上田に訊かれ、清五郎はなんだか得意そうに経緯を語った。
「なるほど、それは手柄であった。ではその女、名はなんという?」
「おゆうさんです」
「おそらく間違いない。それが、中間が探しておった女だろう。その深庵という医者のところにいるのだな?」
「はい。今から帰りがてら飯を届けに行くところです」
「ちょうどよい。わしも一緒に行って確かめるとしよう」
腰の軽い与力は、とらが淹れた茶に見向きもせずに『千川』を出る。深庵の家など知らぬくせに、先陣を切るところが面白かった。
「深庵先生、お邪魔します」
清五郎はふたり分の料理が載っている大きな盆を掲げている。代わりにきよが声をかけ、引き戸を開けた。
「おお、おきよと清五郎か……え……」
そこで言葉を切ったのは、ふたりの後ろに上田の姿が見えたからだろう。日もとっぷり暮れているというのにいきなり黒羽織に登場されては、様々な患者に接してきた深庵といえども驚いたに違いない。
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