17 / 80
2巻
2-1
しおりを挟む
お礼のきんつば
文政七年(一八二四年)神無月、深川佐賀町にある孫兵衛長屋では、一組の男女が長火鉢の支度をしていた。奥から二番目の部屋の前に陣取り、女はせっせと長火鉢を乾拭きし、男はなにやら面倒そうに灰を篩っている。
ふたりは逢坂の油問屋に生まれた姉弟で、姉の名をきよ、弟を清五郎という。わけあって逢坂にいられなくなったあと江戸に移り、深川の料理茶屋『千川』に奉公し始めてから三度目の冬を迎えようとしていた。
「なあ、姉ちゃん。これってしまうときにちゃんと篩ったんじゃねえのか?」
弟の清五郎の声が少しくぐもっているのは、鼻から下を手拭いですっぽり覆っているせいだ。そうでもしないと細かい灰を吸い込んでむせてしまうだろう。
「もちろんよ。でも、夏の間ずっと置いてあったんだから、湿気を吸って固まってるかもしれない。やっぱり使う前にちゃんとしておかないと」
「面倒くせえったらありゃしない。だったらいっそ、次からはしまう前に篩うのはやめにしようよ。同じことを二度もやるなんて手間なだけだぜ」
「なに言ってるの。それこそがっちがちに固まって篩うどころじゃなくなるわよ。ちょっと手をかけておけば次に楽できる。そんなことはたくさんあるでしょ?」
冬の終わりに手をかけた灰はさらさらでたやすく篩えるのだから、文句を言うほどのことじゃない、と姉に諭され、清五郎は渋々作業に戻ったものの、すぐにまた文句を言い始める。今度は灰ではなく、火鉢そのものが矛先だった。
「それにしてもこの長火鉢、どうしてこうなんだろ。上方みてえに四方に縁が付いてりゃいいのに。これじゃあ飯もろくに食えやしない」
上方と江戸の道具では、道具の呼び方が違うことがあるし、同じ呼び方でも姿形が異なることもある。かんてきと七輪は同じもので名前が違う例だけれど、火鉢、とりわけ長火鉢は姿形から異なる。いずれも長方形ではあるが上方のものは四方に太い縁があり、ちょっとした膳代わりに使えるのに対して、江戸の長火鉢には縁がなく端に天板があるだけ……。ひとりならそこで飯を済ませられるが、ふたりとなると難しい。
清五郎にはそれが不満でならないのだろう。
「そんなに文句を言わなくてもいいじゃない。あんたは火鉢でぬくぬくとご飯を食べてるんだから」
「だから、それがうまくないんだって」
食事のとき、きよは必ず長火鉢の天板を清五郎に使わせている。かわいい弟が少しでも心地よいようにとの気遣いからだったが、本人にしてみればそれはそれで心苦しいのだろう。
「天板しかないからそうなるんだ。実家にあったような火鉢ならふたりともが暖かく飯を食える。姉ちゃんは女なんだから、身体は冷やさねえほうがいいに決まってるのに、いくら言っても俺に譲ってばっかりだし」
「清五郎……」
文句の中に混じる心遣いに、思わず目尻が下がる。
清五郎が問題を起こして実家にいられなくなったのは今からおよそ二年前。きよは弟の世話役として一緒に江戸に出てきたけれど、近頃こんなふうに気遣われることが増えてきた。
弟の成長が嬉しい半面、心のどこかで寂しさを覚えている。清五郎は弟だけれど、母親が巣立ちつつある息子を見守るのと同じような心境なのかもしれない。
「ありがとね。でも郷に入っては郷に従えって言うし、江戸の長火鉢はどれもこういう形なんだからこれを使うしかない。だから気にしないで。どうしても冷えて我慢できなくなったら、そのときは使わせてもらうから」
「絶対だぜ? 遠慮なく言ってくれよ」
そして清五郎はまた灰を篩い始める。
明日は玄猪、本格的な冬の到来に備えて炬燵や火鉢に火を入れ始める日だった。
翌日、朝の片付けが済むなり、きよは奉公先である『千川』に向かった。もちろん清五郎も一緒だ。
「今日はずいぶん過ごしやすいな」
隣を歩く清五郎が嬉しそうに話しかけてきた。
「そう? 私は昨日より寒いように思うけど」
「お天道さまもしっかり出てるし、もう少ししたらうんと暖かくなる。それにどのみちへっついに張り付くんだろ? 多少寒いぐらいでちょうどいいじゃねえか」
「ものは考えようね」
いつも気楽でいいわね、あんたは……とため息をつくきよに、清五郎はやけに真剣な顔で言う。
「俺は気楽すぎるかもしれねえけど、姉ちゃんは考えすぎだよ。あんまり心配事ばっかり抱え込んでるとそのうちぱーんと弾けちまうよ。心配事の種をばらまいてる俺が言うことじゃないんだろうけどさ……」
「あら、わかってるじゃない!」
そう言ってきよが立てた笑い声に、清五郎もほっとしたように答える。
「そうそう。そうやって笑ってるのがいい。姉ちゃんは、誰かに何かをしてもらったらすぐさまお返ししなきゃって考えるけど、あれだって俺に言わせりゃどうかと思うぜ。今の俺たちにできることなんて高が知れてるんだし、助けてくれるって人がいるのなら甘えていいんじゃねえかな」
『千川』や孫兵衛長屋の人々もなにかときよと清五郎に気を配ってくれる。けれど、そういった人たちはなにもお返しをしてもらおうと思って親切にしてくれているわけではない。きよの気持ちはわかるが、あまり律儀にお返しをするのは、かえってみんなの気持ちに沿わないのではないか、と清五郎は言うのだ。
「こんなにお返しに苦労させるぐらいなら、いっそなにもしないほうがいい、なんて思われたら、姉ちゃんだって損だろ?」
「もともと親切をあてにしてるわけじゃないんだから、損ってこともないわよ。それに私、前におりょう様にたくさん心付けをいただいたでしょう? おかげで、あんなにいい包丁を買えたのに、いまだになにもお返ししてないのよ」
りょうというのは、与力を務める上田の母親である。上田は、以前乾物屋でぶつかってきた清五郎が料理人を騙ったのをきっかけに『千川』に出入りするようになったのだが、親子ともどもきよの料理を気に入ってくれており、なにかと世話になることが多かった。
「だから、それが律儀すぎるんだよ。俺たちは姉弟で身を寄せ合ってなんとか暮らしてる身だぞ。与力のおふくろ様にお返しとか、逆におこがましいってもんだよ」
「そりゃそうだけど、他人様からなにかしてもらったらちゃんとお返ししろっておとっつぁんもおっかさんも……」
「俺もよく言われたけど、それって同じ人に返す必要ねえんじゃねえの?」
「え?」
お返しなのだから、くれた人に返すのは当たり前だ。なにを言っているんだ、この弟は……と思っていると、清五郎がしたり顔で言う。
「ものでも金でも、持ってる人が持ってない人に回す。助けてもらった人は、そいつを元にうんと頑張って、次は自分が困ってる人を助ける。順送りでいいと思う。俺も姉ちゃんから受けた恩はせいぜい誰かに……」
「えー……ちょっとは私に返してくれても」
ぼそりと呟いた声に、清五郎が大声で笑った。
「だよな。他人様に回す前に、姉ちゃんにいい思いしてもらわなきゃな」
「とはいえ、あんたにくっついて江戸に来られたことで先払いしてもらった気もするわ」
逢坂から江戸に来たことで、きよの人生は大きく変わった。最初は父に厄介払いされたと思ったけれど、それはただの勘違いで、父なりにきよの身を案じてくれていたこともわかった。
下働きから料理人になったおかげで給金も上がり、時々は逢坂の実家に文を遣れるようになったし、送るたびに韋駄天のような早さで返ってくる。父の達筆、母の柔らかな文字、長兄の清太郎、双子の兄である清三郎の手によるもの、時には嫁いだはずの姉せいのものまで入った分厚い便りを見るたびに、家族の絆と思いやりを感じる。それは、逢坂と江戸に離れたからこそ得られた思いだった。
「江戸に来なければ料理人になろうなんて思わなかったし、そもそも女が料理人になれるなんて考えもしなかった。そういうのってやっぱり江戸だからこそってこともあるのかもしれない」
逢坂は古い町だが、江戸は違う。今までにないものを受け入れる気持ちが大きい気がする。だからこそ新しいものがたくさん生まれるし、新しいものを生み出す者を認める気風があるのだろう。男であろうと女であろうと、旨いものを作れるならそれでいいという度量の広さが、江戸にはあるように思えた。
「私は江戸に来てよかったと思ってるし、そのきっかけをくれたのはあんた。あんたが上田様にぶつかったおかげで今があるのも間違いない。でも、あんなはらはらした気持ちにさせられるのはできればもう勘弁してもらいたいわねえ……」
「悪かったって!」
最後の最後で釘を刺され、清五郎はつまらなそうに横を向いた。そして、ぎょっとしたように目を見開いたかと思ったら、ものすごい勢いで走り出す。
「ちょっと清五郎!」
何事かと清五郎が向かった先に目をやったとたん、黒江川の中程に人らしき姿が見えた。どうやら誰かが流されているらしい。岸から清五郎が大声で呼びかける。
「おい、大丈夫か⁉」
水面に顔を伏せているが、島田髷から女とわかる。紺の縦縞に小鷹結びの帯というところを見ると、おそらくどこかのお女中だろう。
何度呼びかけても反応がないまま、女はゆっくりと流されていく。背に腹は代えられぬ、とばかりに清五郎が草履を脱いだ。
「ちょっと清五郎、あんた飛び込む気⁉」
「しょうがないだろ! 見て見ぬふりはできねえ。姉ちゃんは、人を呼んできてくれ!」
姉弟がいたのは黒江川にかかる八幡橋の袂、『千川』は目と鼻の先だからきよの足でもすぐに辿り着ける。とにかく急がなければ、ときよは裾の乱れも気にせず、人気のない道を駆けた。
『千川』の裏口から入ったところにいたのは、板長の弥一郎だった。
「どうした、おきよ。いつもより随分早いのに、そこまで息を切らして走ってくることもなかろう」
「い、板長さん、今、堀で女の人が流されてて……」
「なんだと⁉」
「清五郎が助けに飛び込んだんですが、人を呼んで来てくれって。たぶんひとりじゃ埒があかないんだと思います」
「そいつぁ大変だ! おい、伊蔵はいるか?」
「へーい!」
「どこかに物干し竿があるから探して持ってこい!」
俺は先に行く、と叫ぶなり、弥一郎はものすごい勢いで飛び出した。もちろんきよは置いてけぼりだ。やむなくきよは兄弟子の伊蔵が物干し竿を探すのを待って、事情を説明しつつ来た道を戻る。辿り着いた八幡橋では、清五郎がなんとか女を助けようと躍起になっていた。女は意識がないように見えるし、清五郎はずぶ濡れ……。伊蔵が持ってきた物干し竿を弥一郎がひったくった。
「清五郎! その女を捕まえて、この竿に掴まれ」
「合点だ!」
水の中ですったもんだしているより引き上げたほうがいいに決まっている。清五郎は右手で女の後ろ襟をひっ掴み、左手で物干し竿の端を握る。弥一郎と伊蔵がふたりがかりでこっちの端を引っ張り、なんとか岸にたぐり寄せた。
「参ったな。息はしてるみたいだが……」
鼻と口の先に手をかざした伊蔵が困ったように言う。
とにかく血の気が失せているし、何度呼びかけても返事がない。もちろん身体も冷え切っている。こんな朝っぱらから冷たい水に浸かっていたのだから無理もない。
「とにかく深庵先生のとこに連れていこう」
「『千川』さん、うちの大八車を使ってくれ!」
そこで弥一郎に声をかけてきたのは、騒ぎを聞きつけて出てきていた『下総屋』の番頭だった。
深川は海や川を使って国中から米が集められ、金に換える場所であることから米を扱う店が多い。中でも『下総屋』はかなり大きな米問屋なので、大八車も二台、三台と備えている。一台ぐらい貸したところで支障はないのだろう。
「すまねえ『下総屋』さん、ちょいと借りるよ」
弥一郎、伊蔵、清五郎が三人がかりで女を大八車に乗せ、『下総屋』の番頭が引っ張って医者のところに運ぶ。深庵はこの近隣に住む医者で、齢こそ五十を超えているが、腕は確かだし面倒見もいい。病や怪我だけでなく、なにかにつけて相談に乗ってくれるためみんなが頼りにしていた。
伊蔵が先触れに走ったおかげで、大八車が着いたときには家の戸口は開け放たれ、深庵が待ち構えていた。
「ささ、早う中へ!」
よっこらせい、と声を掛け合い中に運び込む。家の中には火鉢がいくつも置かれていた。まだ火を熾したばかりのようだが、これでもかと炭が入っているし、すぐに暖かくなるだろう。
「まずは着物を脱がせないと……そこの女、手を貸してくれ。男どもはちょいと外に出ておれ」
深庵がきよに声をかけた。
いくら気を失っていても、娘の着替えを男連中に手伝わせるわけにはいかない。本人だってあとで聞いたらさぞや気にするだろう。医者の自分は別にしても、とにかく男たちの目に触れぬように……。そんな配慮ができるところが、深庵の人徳の証だった。
濡れた着物は重く扱いづらい。それでもせっせと帯を解き、身体の熱を奪う冷たい布を剥いでいく。
途中で深庵が感心したように言った。
「細い身体に見合わず、ずいぶん腕っ節が強いな。そなた、名はなんという? 弥一郎たちといたようだが、『千川』に勤めているのか?」
「きよと申します。弟と一緒に『千川』にお世話になっております」
「きよ……おお、『おきよの座禅豆』のきよか! あの座禅豆は、柔らかくて甘くて大変美味だと聞いておる」
「え……先生のお耳にまで……。お恥ずかしい……」
「なんのなんの。悪い噂ではないからよいではないか。一度食いに行ってみたいと思いながら、なかなか機会がなくてな。『千川』に女の料理人が入ったと聞いたが、そなたのことだったのじゃな」
『千川』は客が多い店だから一度に作らなければならない量も多かろう、腕っ節も強くなって当然だ、と深庵はひとり合点しているが、きよの力の強さは赤子の時分からだ。
だが、今はそんなことを話している場合ではない。濡れた身体を拭き、布団の上に移す。なにか着るものを……と思ったところで、深庵に乾いた手拭いを渡された。
「今、着物を持ってくる。だが、着せる前にこれで身体を擦ってやってくれ」
「はい!」
乾いた手拭いで力任せに擦る。痛いかもしれないが、擦ることで生まれる熱のほうが大事だろう。せっせと擦って、少し赤みが差してきたところに深庵が戻ってきた。
「おお、よい加減じゃ。どれ浴衣を……」
ふたりがかりで女に浴衣を着せ、厚手の夜着を被せたところで、外から弥一郎の声がした。
「先生、お客みたいですぜ」
「客? こんな朝っぱらから誰じゃ……」
「山本町のおきくさんです」
「おお、取り上げ婆のおきくか! それは都合がいい。入ってもらってくれ」
深庵の声で、女が部屋に入ってきた。四十過ぎ、もしかしたら五十の声を聞いているかもしれない。早朝にしてはやけに疲れた様子できくは入ってきた。深庵が取り上げ婆だと言っていたから、近くでお産があったのだろう。
「先生、冬木町のおたまさんのところ、なんとか無事に生まれたよ」
「おお、そうか! ずっと血色がよくなかったし、むくみも出ておったから心配していたのじゃ」
「逆子だったみたいでずいぶん難儀したが、赤ん坊が小さめだったのが幸いした。元気な男の子、おたまさんもよう頑張った」
「無事でなにより。それで今、帰りか? わざわざすまぬ」
「ああ。前々から先生も気にしてたからね。寝てるようなら出直すつもりだったが、家の中から人の声がするし、それならついでに知らせておこうと思ってさ」
「ご苦労じゃったのう」
よかったよかったと深庵が目を細める一方で、きくは横たわっている女を見て言った。
「それで、これはいったいなんの騒ぎだい?」
「黒江川を流れてるところを、通りかかった連中が引き上げて連れてきた」
「堀を? で、さっき都合がいいって言ってたけど、あたしになにか?」
「仕事帰りで疲れているところ済まないが、ちょっと診てやってくれないか?」
「ははあん……」
きくは何事かを合点したらしい。即座に畳に膝をつき、夜着の下に手を差し込む。そのまま腹から胸にかけてゆっくりと撫で回したあと、手を抜いて深庵を振り返った。
「たぶん、身重じゃないね」
「そうか……それはよかった。もしや覚悟の身投げかと……」
「着物は乱れてたかい?」
「さほどは……。歯は染めてないし、おそらく嫁入り前だろう。にもかかわらず孕んじまって思い余ってのことかと……」
「いや、ここまで乱れがないなら身投げなのは確かだろう。身投げのわけにはいろいろあるしな」
「なんてこったい!」
そこで怒声を上げて飛び込んできたのは、清五郎だった。
「四苦八苦して引っ張り上げてやったってのに、身投げだったって⁉」
「まあそう憤るな。きっと、やむにやまれぬ事情があってのことだろう」
「そりゃそうかもしれねえけど、俺の身にもなってくれよ! 堀に浸かって骨まで冷えちまった。それに着物だって洗わなきゃなんねえ。また姉ちゃんの仕事が増えちまう」
このままでは風邪を引くということで、女を深庵のところに運び込んだあと、清五郎は家に着替えに行っていた。
『下総屋』の番頭と一緒に出て大八車を返してからのはずだが、予想よりずっと早く戻ってきた。よほど女が気になったに違いない。そのまま、なんとか息を吹き返してくれと祈りつつ待っていたのに、身投げなどと聞かされれば腹も立つ。ついでに脱ぎっぱなしにしてきた着物が気になってもきたのだろう。
「そんなのいいのよ」
「いいことねえよ! そうだ、姉ちゃんが洗うことはねえ。洗濯屋に出そう。どこの誰だか知らねえけど、目を覚ましたら手間賃をふんだくってやる!」
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ! この寒空に冷たい堀に飛び込むほど追い詰められてたのよ? 気の毒だと思わないの⁉ だいたい、あんたはついさっき、人から受けた恩は別の人に返したっていいって言ってたじゃないの! 今がその時よ!」
「ついさっきじゃねえよ……もう半刻(一時間)以上経って……」
「屁理屈を捏ねるんじゃありません‼」
「うへえ……」
久しぶりに恐い姉ちゃんが出た……と、清五郎が首を竦める。弥一郎と伊蔵はとっくに慣れっこなのか、何食わぬ顔だが、深庵ときくは大声で笑った。
「腕っ節は強いし、気っ風もいい。女にしておくには惜しいのう」
「深庵先生、女を蔑むようなことをお言いでないよ。先生だって女の股から生まれたんだからね。それよりあんた、取り上げ婆にならないか? お産でのたうつ女を押さえ込むには力がいる。ぐじぐじ泣き出す女を叱りつけなきゃならないときもあるし、あんたみたいな人はうってつけだ」
「おきくさん、勘弁してくだせえ。おきよはうちの料理人なんで」
慌てたように言った弥一郎に、きくは残念そうに、それでもどこか嬉しそうな顔で答えた。
「そうかい。じゃあ、あんたも自分の腕一本で食ってるんだね。頼もしいことだ。この女もあんたみたいだったら、身投げなんてせずに済んだだろうに……」
そこできくは痛ましそうに女を見た。
事情もわからないのに、なにをみんなして好き勝手なことを言っているのだろう。それにしても、そろそろ気がついてもよさそうなものだけど……
そんなことを考えながら、きよは女の顔をじっと見つめた。そして、ふと火鉢の上の鉄瓶に目をやり深庵に声をかける。
「先生、お湯をいただいていいですか?」
「おお、すまん。皆に茶でも淹れてくれるのか?」
「それはのちほど。今はこの方の髪を……」
きよの言葉で、きくが女の髪から櫛や簪を抜き始める。身体は拭いたし夜着も被っているけれど髪は濡れたままだ。これでは心地悪いだろうし、どのみち堀の水をたっぷり吸っているのだから洗わずにはいられない。今は無理だがせめて拭くぐらいは……というきよの考えを察してくれたに違いない。
桶を借り、鉄瓶の湯を移して水を足す。手を入れるには少し熱いかも、というぐらいの頃合いになったところで、先ほど身体を擦っていた手拭いを絞った。
「ちょいと貸しとくれ」
絞ったばかりの手拭いにきくが手を伸ばした。なにかと思えば、女の耳の下や首筋あたりを丁寧に拭っている。どうやら泥がついていたらしい。きれいに拭き上げ、もう一度絞り直して髪を拭く。
あまりにも手慣れた様子に感心してしまったが、当たり前と言えば当たり前。きくはいつも、お産で汗だくになる女の肌や髪を拭いてやっているのだろう。
何度も手拭いを絞り直して拭いているうちに、女が小さく呻いた。
「おお……気を取り戻したか!」
離れたところできくのすることを見ていた深庵が、すっとんできて女の様子を確かめる。
「これ女。気分はどうじゃ? どこぞ痛むか?」
深庵の声で目を開けた女は、ぼうっとしたまま深庵を見たあと周りを見回す。
「ここは……?」
「富岡八幡宮の近くじゃ。わしは深庵、町医者でな。そなたは堀に流されていたところを、この者たちに救われた」
「富岡八幡宮……? 堀に流されていた……?」
女は唖然としている。まったく身に覚えがないといわんばかりの様子に、弥一郎があまりにも不躾な質問をぶつけた。
「あんた、身投げしたんじゃねえのか?」
「とんでもないことです!」
「身投げじゃねえなら……」
「わかりません。私はいつもどおり床についたんです。それなのに……」
ますますわからない、と首を傾げた弥一郎に代わって、深庵が訊ねた。
「気づいたらここにいた、と……。あんた住まいはどのあたりだ?」
「……猿江町です」
「猿江町……黒江川とは方向違いもいいところじゃな。水に落ちた覚えは?」
「ありません。本当に私は堀に流されていたのですか?」
「流されていたからこそ、この有様じゃ」
見覚えのない浴衣、解かれた髪、盥には水を吸った着物や襦袢が突っ込まれている。
水に落ちたのは間違いないと察したのか、女はまた呻き声を上げた。
「こんなに覚えていないなんて……。日頃から眠りは浅いほうなのに……」
「薬でも盛られたのかもしれぬ。それなら今の今まで目が覚めなかったのも合点がいく」
文政七年(一八二四年)神無月、深川佐賀町にある孫兵衛長屋では、一組の男女が長火鉢の支度をしていた。奥から二番目の部屋の前に陣取り、女はせっせと長火鉢を乾拭きし、男はなにやら面倒そうに灰を篩っている。
ふたりは逢坂の油問屋に生まれた姉弟で、姉の名をきよ、弟を清五郎という。わけあって逢坂にいられなくなったあと江戸に移り、深川の料理茶屋『千川』に奉公し始めてから三度目の冬を迎えようとしていた。
「なあ、姉ちゃん。これってしまうときにちゃんと篩ったんじゃねえのか?」
弟の清五郎の声が少しくぐもっているのは、鼻から下を手拭いですっぽり覆っているせいだ。そうでもしないと細かい灰を吸い込んでむせてしまうだろう。
「もちろんよ。でも、夏の間ずっと置いてあったんだから、湿気を吸って固まってるかもしれない。やっぱり使う前にちゃんとしておかないと」
「面倒くせえったらありゃしない。だったらいっそ、次からはしまう前に篩うのはやめにしようよ。同じことを二度もやるなんて手間なだけだぜ」
「なに言ってるの。それこそがっちがちに固まって篩うどころじゃなくなるわよ。ちょっと手をかけておけば次に楽できる。そんなことはたくさんあるでしょ?」
冬の終わりに手をかけた灰はさらさらでたやすく篩えるのだから、文句を言うほどのことじゃない、と姉に諭され、清五郎は渋々作業に戻ったものの、すぐにまた文句を言い始める。今度は灰ではなく、火鉢そのものが矛先だった。
「それにしてもこの長火鉢、どうしてこうなんだろ。上方みてえに四方に縁が付いてりゃいいのに。これじゃあ飯もろくに食えやしない」
上方と江戸の道具では、道具の呼び方が違うことがあるし、同じ呼び方でも姿形が異なることもある。かんてきと七輪は同じもので名前が違う例だけれど、火鉢、とりわけ長火鉢は姿形から異なる。いずれも長方形ではあるが上方のものは四方に太い縁があり、ちょっとした膳代わりに使えるのに対して、江戸の長火鉢には縁がなく端に天板があるだけ……。ひとりならそこで飯を済ませられるが、ふたりとなると難しい。
清五郎にはそれが不満でならないのだろう。
「そんなに文句を言わなくてもいいじゃない。あんたは火鉢でぬくぬくとご飯を食べてるんだから」
「だから、それがうまくないんだって」
食事のとき、きよは必ず長火鉢の天板を清五郎に使わせている。かわいい弟が少しでも心地よいようにとの気遣いからだったが、本人にしてみればそれはそれで心苦しいのだろう。
「天板しかないからそうなるんだ。実家にあったような火鉢ならふたりともが暖かく飯を食える。姉ちゃんは女なんだから、身体は冷やさねえほうがいいに決まってるのに、いくら言っても俺に譲ってばっかりだし」
「清五郎……」
文句の中に混じる心遣いに、思わず目尻が下がる。
清五郎が問題を起こして実家にいられなくなったのは今からおよそ二年前。きよは弟の世話役として一緒に江戸に出てきたけれど、近頃こんなふうに気遣われることが増えてきた。
弟の成長が嬉しい半面、心のどこかで寂しさを覚えている。清五郎は弟だけれど、母親が巣立ちつつある息子を見守るのと同じような心境なのかもしれない。
「ありがとね。でも郷に入っては郷に従えって言うし、江戸の長火鉢はどれもこういう形なんだからこれを使うしかない。だから気にしないで。どうしても冷えて我慢できなくなったら、そのときは使わせてもらうから」
「絶対だぜ? 遠慮なく言ってくれよ」
そして清五郎はまた灰を篩い始める。
明日は玄猪、本格的な冬の到来に備えて炬燵や火鉢に火を入れ始める日だった。
翌日、朝の片付けが済むなり、きよは奉公先である『千川』に向かった。もちろん清五郎も一緒だ。
「今日はずいぶん過ごしやすいな」
隣を歩く清五郎が嬉しそうに話しかけてきた。
「そう? 私は昨日より寒いように思うけど」
「お天道さまもしっかり出てるし、もう少ししたらうんと暖かくなる。それにどのみちへっついに張り付くんだろ? 多少寒いぐらいでちょうどいいじゃねえか」
「ものは考えようね」
いつも気楽でいいわね、あんたは……とため息をつくきよに、清五郎はやけに真剣な顔で言う。
「俺は気楽すぎるかもしれねえけど、姉ちゃんは考えすぎだよ。あんまり心配事ばっかり抱え込んでるとそのうちぱーんと弾けちまうよ。心配事の種をばらまいてる俺が言うことじゃないんだろうけどさ……」
「あら、わかってるじゃない!」
そう言ってきよが立てた笑い声に、清五郎もほっとしたように答える。
「そうそう。そうやって笑ってるのがいい。姉ちゃんは、誰かに何かをしてもらったらすぐさまお返ししなきゃって考えるけど、あれだって俺に言わせりゃどうかと思うぜ。今の俺たちにできることなんて高が知れてるんだし、助けてくれるって人がいるのなら甘えていいんじゃねえかな」
『千川』や孫兵衛長屋の人々もなにかときよと清五郎に気を配ってくれる。けれど、そういった人たちはなにもお返しをしてもらおうと思って親切にしてくれているわけではない。きよの気持ちはわかるが、あまり律儀にお返しをするのは、かえってみんなの気持ちに沿わないのではないか、と清五郎は言うのだ。
「こんなにお返しに苦労させるぐらいなら、いっそなにもしないほうがいい、なんて思われたら、姉ちゃんだって損だろ?」
「もともと親切をあてにしてるわけじゃないんだから、損ってこともないわよ。それに私、前におりょう様にたくさん心付けをいただいたでしょう? おかげで、あんなにいい包丁を買えたのに、いまだになにもお返ししてないのよ」
りょうというのは、与力を務める上田の母親である。上田は、以前乾物屋でぶつかってきた清五郎が料理人を騙ったのをきっかけに『千川』に出入りするようになったのだが、親子ともどもきよの料理を気に入ってくれており、なにかと世話になることが多かった。
「だから、それが律儀すぎるんだよ。俺たちは姉弟で身を寄せ合ってなんとか暮らしてる身だぞ。与力のおふくろ様にお返しとか、逆におこがましいってもんだよ」
「そりゃそうだけど、他人様からなにかしてもらったらちゃんとお返ししろっておとっつぁんもおっかさんも……」
「俺もよく言われたけど、それって同じ人に返す必要ねえんじゃねえの?」
「え?」
お返しなのだから、くれた人に返すのは当たり前だ。なにを言っているんだ、この弟は……と思っていると、清五郎がしたり顔で言う。
「ものでも金でも、持ってる人が持ってない人に回す。助けてもらった人は、そいつを元にうんと頑張って、次は自分が困ってる人を助ける。順送りでいいと思う。俺も姉ちゃんから受けた恩はせいぜい誰かに……」
「えー……ちょっとは私に返してくれても」
ぼそりと呟いた声に、清五郎が大声で笑った。
「だよな。他人様に回す前に、姉ちゃんにいい思いしてもらわなきゃな」
「とはいえ、あんたにくっついて江戸に来られたことで先払いしてもらった気もするわ」
逢坂から江戸に来たことで、きよの人生は大きく変わった。最初は父に厄介払いされたと思ったけれど、それはただの勘違いで、父なりにきよの身を案じてくれていたこともわかった。
下働きから料理人になったおかげで給金も上がり、時々は逢坂の実家に文を遣れるようになったし、送るたびに韋駄天のような早さで返ってくる。父の達筆、母の柔らかな文字、長兄の清太郎、双子の兄である清三郎の手によるもの、時には嫁いだはずの姉せいのものまで入った分厚い便りを見るたびに、家族の絆と思いやりを感じる。それは、逢坂と江戸に離れたからこそ得られた思いだった。
「江戸に来なければ料理人になろうなんて思わなかったし、そもそも女が料理人になれるなんて考えもしなかった。そういうのってやっぱり江戸だからこそってこともあるのかもしれない」
逢坂は古い町だが、江戸は違う。今までにないものを受け入れる気持ちが大きい気がする。だからこそ新しいものがたくさん生まれるし、新しいものを生み出す者を認める気風があるのだろう。男であろうと女であろうと、旨いものを作れるならそれでいいという度量の広さが、江戸にはあるように思えた。
「私は江戸に来てよかったと思ってるし、そのきっかけをくれたのはあんた。あんたが上田様にぶつかったおかげで今があるのも間違いない。でも、あんなはらはらした気持ちにさせられるのはできればもう勘弁してもらいたいわねえ……」
「悪かったって!」
最後の最後で釘を刺され、清五郎はつまらなそうに横を向いた。そして、ぎょっとしたように目を見開いたかと思ったら、ものすごい勢いで走り出す。
「ちょっと清五郎!」
何事かと清五郎が向かった先に目をやったとたん、黒江川の中程に人らしき姿が見えた。どうやら誰かが流されているらしい。岸から清五郎が大声で呼びかける。
「おい、大丈夫か⁉」
水面に顔を伏せているが、島田髷から女とわかる。紺の縦縞に小鷹結びの帯というところを見ると、おそらくどこかのお女中だろう。
何度呼びかけても反応がないまま、女はゆっくりと流されていく。背に腹は代えられぬ、とばかりに清五郎が草履を脱いだ。
「ちょっと清五郎、あんた飛び込む気⁉」
「しょうがないだろ! 見て見ぬふりはできねえ。姉ちゃんは、人を呼んできてくれ!」
姉弟がいたのは黒江川にかかる八幡橋の袂、『千川』は目と鼻の先だからきよの足でもすぐに辿り着ける。とにかく急がなければ、ときよは裾の乱れも気にせず、人気のない道を駆けた。
『千川』の裏口から入ったところにいたのは、板長の弥一郎だった。
「どうした、おきよ。いつもより随分早いのに、そこまで息を切らして走ってくることもなかろう」
「い、板長さん、今、堀で女の人が流されてて……」
「なんだと⁉」
「清五郎が助けに飛び込んだんですが、人を呼んで来てくれって。たぶんひとりじゃ埒があかないんだと思います」
「そいつぁ大変だ! おい、伊蔵はいるか?」
「へーい!」
「どこかに物干し竿があるから探して持ってこい!」
俺は先に行く、と叫ぶなり、弥一郎はものすごい勢いで飛び出した。もちろんきよは置いてけぼりだ。やむなくきよは兄弟子の伊蔵が物干し竿を探すのを待って、事情を説明しつつ来た道を戻る。辿り着いた八幡橋では、清五郎がなんとか女を助けようと躍起になっていた。女は意識がないように見えるし、清五郎はずぶ濡れ……。伊蔵が持ってきた物干し竿を弥一郎がひったくった。
「清五郎! その女を捕まえて、この竿に掴まれ」
「合点だ!」
水の中ですったもんだしているより引き上げたほうがいいに決まっている。清五郎は右手で女の後ろ襟をひっ掴み、左手で物干し竿の端を握る。弥一郎と伊蔵がふたりがかりでこっちの端を引っ張り、なんとか岸にたぐり寄せた。
「参ったな。息はしてるみたいだが……」
鼻と口の先に手をかざした伊蔵が困ったように言う。
とにかく血の気が失せているし、何度呼びかけても返事がない。もちろん身体も冷え切っている。こんな朝っぱらから冷たい水に浸かっていたのだから無理もない。
「とにかく深庵先生のとこに連れていこう」
「『千川』さん、うちの大八車を使ってくれ!」
そこで弥一郎に声をかけてきたのは、騒ぎを聞きつけて出てきていた『下総屋』の番頭だった。
深川は海や川を使って国中から米が集められ、金に換える場所であることから米を扱う店が多い。中でも『下総屋』はかなり大きな米問屋なので、大八車も二台、三台と備えている。一台ぐらい貸したところで支障はないのだろう。
「すまねえ『下総屋』さん、ちょいと借りるよ」
弥一郎、伊蔵、清五郎が三人がかりで女を大八車に乗せ、『下総屋』の番頭が引っ張って医者のところに運ぶ。深庵はこの近隣に住む医者で、齢こそ五十を超えているが、腕は確かだし面倒見もいい。病や怪我だけでなく、なにかにつけて相談に乗ってくれるためみんなが頼りにしていた。
伊蔵が先触れに走ったおかげで、大八車が着いたときには家の戸口は開け放たれ、深庵が待ち構えていた。
「ささ、早う中へ!」
よっこらせい、と声を掛け合い中に運び込む。家の中には火鉢がいくつも置かれていた。まだ火を熾したばかりのようだが、これでもかと炭が入っているし、すぐに暖かくなるだろう。
「まずは着物を脱がせないと……そこの女、手を貸してくれ。男どもはちょいと外に出ておれ」
深庵がきよに声をかけた。
いくら気を失っていても、娘の着替えを男連中に手伝わせるわけにはいかない。本人だってあとで聞いたらさぞや気にするだろう。医者の自分は別にしても、とにかく男たちの目に触れぬように……。そんな配慮ができるところが、深庵の人徳の証だった。
濡れた着物は重く扱いづらい。それでもせっせと帯を解き、身体の熱を奪う冷たい布を剥いでいく。
途中で深庵が感心したように言った。
「細い身体に見合わず、ずいぶん腕っ節が強いな。そなた、名はなんという? 弥一郎たちといたようだが、『千川』に勤めているのか?」
「きよと申します。弟と一緒に『千川』にお世話になっております」
「きよ……おお、『おきよの座禅豆』のきよか! あの座禅豆は、柔らかくて甘くて大変美味だと聞いておる」
「え……先生のお耳にまで……。お恥ずかしい……」
「なんのなんの。悪い噂ではないからよいではないか。一度食いに行ってみたいと思いながら、なかなか機会がなくてな。『千川』に女の料理人が入ったと聞いたが、そなたのことだったのじゃな」
『千川』は客が多い店だから一度に作らなければならない量も多かろう、腕っ節も強くなって当然だ、と深庵はひとり合点しているが、きよの力の強さは赤子の時分からだ。
だが、今はそんなことを話している場合ではない。濡れた身体を拭き、布団の上に移す。なにか着るものを……と思ったところで、深庵に乾いた手拭いを渡された。
「今、着物を持ってくる。だが、着せる前にこれで身体を擦ってやってくれ」
「はい!」
乾いた手拭いで力任せに擦る。痛いかもしれないが、擦ることで生まれる熱のほうが大事だろう。せっせと擦って、少し赤みが差してきたところに深庵が戻ってきた。
「おお、よい加減じゃ。どれ浴衣を……」
ふたりがかりで女に浴衣を着せ、厚手の夜着を被せたところで、外から弥一郎の声がした。
「先生、お客みたいですぜ」
「客? こんな朝っぱらから誰じゃ……」
「山本町のおきくさんです」
「おお、取り上げ婆のおきくか! それは都合がいい。入ってもらってくれ」
深庵の声で、女が部屋に入ってきた。四十過ぎ、もしかしたら五十の声を聞いているかもしれない。早朝にしてはやけに疲れた様子できくは入ってきた。深庵が取り上げ婆だと言っていたから、近くでお産があったのだろう。
「先生、冬木町のおたまさんのところ、なんとか無事に生まれたよ」
「おお、そうか! ずっと血色がよくなかったし、むくみも出ておったから心配していたのじゃ」
「逆子だったみたいでずいぶん難儀したが、赤ん坊が小さめだったのが幸いした。元気な男の子、おたまさんもよう頑張った」
「無事でなにより。それで今、帰りか? わざわざすまぬ」
「ああ。前々から先生も気にしてたからね。寝てるようなら出直すつもりだったが、家の中から人の声がするし、それならついでに知らせておこうと思ってさ」
「ご苦労じゃったのう」
よかったよかったと深庵が目を細める一方で、きくは横たわっている女を見て言った。
「それで、これはいったいなんの騒ぎだい?」
「黒江川を流れてるところを、通りかかった連中が引き上げて連れてきた」
「堀を? で、さっき都合がいいって言ってたけど、あたしになにか?」
「仕事帰りで疲れているところ済まないが、ちょっと診てやってくれないか?」
「ははあん……」
きくは何事かを合点したらしい。即座に畳に膝をつき、夜着の下に手を差し込む。そのまま腹から胸にかけてゆっくりと撫で回したあと、手を抜いて深庵を振り返った。
「たぶん、身重じゃないね」
「そうか……それはよかった。もしや覚悟の身投げかと……」
「着物は乱れてたかい?」
「さほどは……。歯は染めてないし、おそらく嫁入り前だろう。にもかかわらず孕んじまって思い余ってのことかと……」
「いや、ここまで乱れがないなら身投げなのは確かだろう。身投げのわけにはいろいろあるしな」
「なんてこったい!」
そこで怒声を上げて飛び込んできたのは、清五郎だった。
「四苦八苦して引っ張り上げてやったってのに、身投げだったって⁉」
「まあそう憤るな。きっと、やむにやまれぬ事情があってのことだろう」
「そりゃそうかもしれねえけど、俺の身にもなってくれよ! 堀に浸かって骨まで冷えちまった。それに着物だって洗わなきゃなんねえ。また姉ちゃんの仕事が増えちまう」
このままでは風邪を引くということで、女を深庵のところに運び込んだあと、清五郎は家に着替えに行っていた。
『下総屋』の番頭と一緒に出て大八車を返してからのはずだが、予想よりずっと早く戻ってきた。よほど女が気になったに違いない。そのまま、なんとか息を吹き返してくれと祈りつつ待っていたのに、身投げなどと聞かされれば腹も立つ。ついでに脱ぎっぱなしにしてきた着物が気になってもきたのだろう。
「そんなのいいのよ」
「いいことねえよ! そうだ、姉ちゃんが洗うことはねえ。洗濯屋に出そう。どこの誰だか知らねえけど、目を覚ましたら手間賃をふんだくってやる!」
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ! この寒空に冷たい堀に飛び込むほど追い詰められてたのよ? 気の毒だと思わないの⁉ だいたい、あんたはついさっき、人から受けた恩は別の人に返したっていいって言ってたじゃないの! 今がその時よ!」
「ついさっきじゃねえよ……もう半刻(一時間)以上経って……」
「屁理屈を捏ねるんじゃありません‼」
「うへえ……」
久しぶりに恐い姉ちゃんが出た……と、清五郎が首を竦める。弥一郎と伊蔵はとっくに慣れっこなのか、何食わぬ顔だが、深庵ときくは大声で笑った。
「腕っ節は強いし、気っ風もいい。女にしておくには惜しいのう」
「深庵先生、女を蔑むようなことをお言いでないよ。先生だって女の股から生まれたんだからね。それよりあんた、取り上げ婆にならないか? お産でのたうつ女を押さえ込むには力がいる。ぐじぐじ泣き出す女を叱りつけなきゃならないときもあるし、あんたみたいな人はうってつけだ」
「おきくさん、勘弁してくだせえ。おきよはうちの料理人なんで」
慌てたように言った弥一郎に、きくは残念そうに、それでもどこか嬉しそうな顔で答えた。
「そうかい。じゃあ、あんたも自分の腕一本で食ってるんだね。頼もしいことだ。この女もあんたみたいだったら、身投げなんてせずに済んだだろうに……」
そこできくは痛ましそうに女を見た。
事情もわからないのに、なにをみんなして好き勝手なことを言っているのだろう。それにしても、そろそろ気がついてもよさそうなものだけど……
そんなことを考えながら、きよは女の顔をじっと見つめた。そして、ふと火鉢の上の鉄瓶に目をやり深庵に声をかける。
「先生、お湯をいただいていいですか?」
「おお、すまん。皆に茶でも淹れてくれるのか?」
「それはのちほど。今はこの方の髪を……」
きよの言葉で、きくが女の髪から櫛や簪を抜き始める。身体は拭いたし夜着も被っているけれど髪は濡れたままだ。これでは心地悪いだろうし、どのみち堀の水をたっぷり吸っているのだから洗わずにはいられない。今は無理だがせめて拭くぐらいは……というきよの考えを察してくれたに違いない。
桶を借り、鉄瓶の湯を移して水を足す。手を入れるには少し熱いかも、というぐらいの頃合いになったところで、先ほど身体を擦っていた手拭いを絞った。
「ちょいと貸しとくれ」
絞ったばかりの手拭いにきくが手を伸ばした。なにかと思えば、女の耳の下や首筋あたりを丁寧に拭っている。どうやら泥がついていたらしい。きれいに拭き上げ、もう一度絞り直して髪を拭く。
あまりにも手慣れた様子に感心してしまったが、当たり前と言えば当たり前。きくはいつも、お産で汗だくになる女の肌や髪を拭いてやっているのだろう。
何度も手拭いを絞り直して拭いているうちに、女が小さく呻いた。
「おお……気を取り戻したか!」
離れたところできくのすることを見ていた深庵が、すっとんできて女の様子を確かめる。
「これ女。気分はどうじゃ? どこぞ痛むか?」
深庵の声で目を開けた女は、ぼうっとしたまま深庵を見たあと周りを見回す。
「ここは……?」
「富岡八幡宮の近くじゃ。わしは深庵、町医者でな。そなたは堀に流されていたところを、この者たちに救われた」
「富岡八幡宮……? 堀に流されていた……?」
女は唖然としている。まったく身に覚えがないといわんばかりの様子に、弥一郎があまりにも不躾な質問をぶつけた。
「あんた、身投げしたんじゃねえのか?」
「とんでもないことです!」
「身投げじゃねえなら……」
「わかりません。私はいつもどおり床についたんです。それなのに……」
ますますわからない、と首を傾げた弥一郎に代わって、深庵が訊ねた。
「気づいたらここにいた、と……。あんた住まいはどのあたりだ?」
「……猿江町です」
「猿江町……黒江川とは方向違いもいいところじゃな。水に落ちた覚えは?」
「ありません。本当に私は堀に流されていたのですか?」
「流されていたからこそ、この有様じゃ」
見覚えのない浴衣、解かれた髪、盥には水を吸った着物や襦袢が突っ込まれている。
水に落ちたのは間違いないと察したのか、女はまた呻き声を上げた。
「こんなに覚えていないなんて……。日頃から眠りは浅いほうなのに……」
「薬でも盛られたのかもしれぬ。それなら今の今まで目が覚めなかったのも合点がいく」
0
お気に入りに追加
352
あなたにおすすめの小説


【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。