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9巻
9-2
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リカの表情はひどく柔らかい。おそらくユキヒロの顔を思い浮かべたせいだろう。
美音は、夫のことを考えただけでこんな顔になるなんて、とほほえましく思う。
ただ、美音の知っているユキヒロは、隣に怒鳴り込むようなタイプではない。元気はいいが、物の道理をわきまえているし、文句を言いたくなるようなことがあったとしても冷静に対処するだろう。
それに、『加藤精肉店』にはヨシノリ夫婦という、ユキヒロ以上に頼りになる人がいる。何かあれば彼らが適切に対応してくれるに違いない。
ただそれは、彼らがリカの味方だった場合である。万が一、ヨシノリ夫婦がリカに不満を持っていた場合、リカはさらに困った立場に追い込まれてしまう。
おそらくリカもそれを気にしているのだろう。だからこそ、わざわざ美音を呼び止めて、彼らが何か言っていなかったか、と訊ねたに違いない。美音自身は、ヨシノリ夫婦からリカの愚痴など聞いたことはなかったが。
リカの杞憂だとは思いつつも、美音は改めて訊ねてみた。
「ねえ、リカさん。ユキヒロさんはともかく、ヨシノリさんやタマヨさんに叱られたりするの? 叱られるまではいかないにしても、口調がきつかったり……」
「とんでもないです。お義母さんはすごく優しくしてくださいます。自分がお嫁に来たときも慣れなくて大変だったそうで、ゆっくりでいいよ、辛かったら無理しなくていいよ、っていつも言ってくださるんです。お義父さんも同じで、今時同居してくれるだけでもありがたい、ましてや肉屋の仕事まで手伝ってくれるなんて、って……」
「だったらどうして私に、あんなこと訊いたの?」
今の話を聞く限り、ヨシノリ夫婦が自分を悪く思っていないことはわかっているようだ。それなのになぜ……と、疑問を呈する美音に、リカは申し訳なさそうに言った。
「私も最初は素直に喜んでたんです。いいおうちに来てよかったなあ……って。でも、隣の女将さんにひどいことを言われ続けているうちに、もしかしたらお義父さんたちも同じように考えているんじゃないかって……。でも、お義父さんもお義母さんも常識をわきまえた人だし、無理して私に優しくしてくださってるんじゃないかって……」
そう語るリカに、ユキヒロの話をしていたときの嬉しそうな表情は欠片もない。美音のいたたまれない気持ちも、また戻ってくる。
「疑心暗鬼になっちゃったのね」
「ええ……。もしかしたら、美音さんには本音を話しているかもしれないと思って」
「私が、ヨシノリさんからリカさんについての話を聞いたのは一度だけよ。それはね……」
そこでリカは、えっ! と声を上げた。
「やっぱり、何かおっしゃってたんですね! それって、それって……」
リカは、気の毒なほど動転している。慌てて美音は、話の先を急いだ。
「落ち着いて、リカさん! 私が聞いたのは、リカさんがユキヒロさんと結婚する前の話なの。『本当に控えめで感じのいい子だ』『ユキにはもったいない』って、そりゃあもう手放しで褒めてたわ。リカさんの性格もちゃんとわかってて、どうしても商売に馴染めないようなら、店には出なくていい、なんてことも……」
ヨシノリは、リカが肉屋の仕事に馴染めないかもしれないということぐらいわかっていた。
その上で、まだ結婚もしないうちから少しでも仕事を覚えようと頑張るリカの姿に、感動すらしていたのだ。おそらくそれは、タマヨも同じ。ふたりは表裏のない人たちだし、本心を隠してどうのこうの、というのは考えられなかった。
「そうですか……じゃあ私、やっぱりもっと頑張らなきゃ……」
新しい家族はしっかりと自分を受け入れて、支えようとしてくれている。それなら自分は頑張るしかない。こんなことで負けちゃいけない……
リカの決意宣言のような台詞を聞いて、美音は少し悲しい気持ちになってしまった。
リカは、家族の信頼に応え、自分の役割を果たすことに必死になっているように思える。彼女の頭の中には、家族なんだから甘えたっていい、支え合って当然、という考えがないのだ。
辛いときは甘える、できないときは助けてもらう。それが家族というものだ、と言う人は多いし、美音もそのとおりだと思う。
ただ、リカの場合、家族になってまだ三ヶ月。傷ついた自分、弱い自分をさらけ出し助けを求めるには、短すぎる時間なのかもしれない。
リカは黙って自転車を押している。美音はリカに、家族には甘えてもいいのだと気付いてほしかった。
「ユキヒロさんがそうしたいなら、お隣に怒鳴り込んでもらってもいいんじゃないかしら……」
要は、美音との関係に横やりを入れられたとき、兄の怜や祖父の松雄のところに直談判に行った。自分のせいで対立を生んだことは申し訳ないと思う反面、美音は彼が自分を想ってくれる気持ちがとても嬉しかったし、それ以後、彼の家族から文句を言われることもなくなった。
リカの場合にしても、ユキヒロが行動を起こせば、案外事態はいいほうに向かうのではないか、と美音は考えていた。
「でもお隣の女将さんはすごくはっきりした方ですから……」
「そうねえ……」
はっきりしているというのは褒め言葉のようだけれど、往々にして――特にショウコの場合はかなりの否定的表現だ。
言わなくてもいいことをはっきり言って、人を傷つける。しかも自ら『悪気はない』とか『あんたのためを思って』なんて言葉を添える。自分は決して間違っていないと信じるやっかいなタイプである。その上、もっと悪いことにショウコは、強い相手には簡単にしっぽを巻く。自分より弱そうな相手を捕まえてはもっともらしく『助言』をするのだ。
これまでも、見るに見かねた人が、弱いものいじめはやめろと諭したことがあった。ところが本人は、心配しているからこその助言だ、そんなふうに取るなんて、それこそいじめじゃないか、なんて食ってかかったのだ。
暖簾に腕押し、蛙の面になんとやら……そんな相手に怒鳴り込んだところで、事態が解決するとは思えない、とリカは言いたいに違いない。
「前に勤めていた会社にも、ああいうタイプの人がいました。きっと、言っても無駄だと思います」
「でも、なにも言わなければ、これからもずっと我慢することになっちゃうわ。リカさん、それでもいいの?」
「実際に、ちゃんとできてないんですから、言われても仕方ありません。私が失敗さえしなければいいだけのことなので……」
なぜこんなに失敗ばかりしてしまうのか。学生時代も、会社に勤めてからも、こんなに失敗を繰り返したことなどなかったのに、と、リカは今にも泣きそうな顔になる。
その言葉を聞いて美音ははっとした。リカは客あしらいに不慣れなだけでなく、失敗することにも慣れていないのではないだろうか。
「リカさん、もしかして昔からずっと優等生だったんじゃない?」
「え?」
学校も仕事もそつなくこなしてきた。事務仕事はある意味、勉強の延長のようなもの、新入社員向けの教育もしっかり施されたし、慣れるのにそれほど時間はかからなかった。
けれど、肉屋の仕事はこれまでとはまったく趣が異なる。義父母や夫は忙しい合間を縫ってあれこれ教えてくれるけれど、人見知りの激しいリカにとって、毎日毎日店に立つだけでも大変だった。
新しい家族に迷惑をかけたくない、なんとか上手くやらなければと緊張するあまり、失敗を繰り返してしまう。失敗するたびに、夫や義父母に申し訳なくて自分を責めまくる。実際は、文句ひとつ言われたことはないというのに――
失敗経験の少ないリカにとって、失敗すること自体がストレスなのではないか。そしてそのストレスが、また新たな失敗を呼んでしまう、という悪循環に陥っているような気がした。
「ヨシノリさんやタマヨさんに叱られたことはないって言ってたけど、それって、リカさんに気を遣ってるんじゃなくて、叱るほどのことでもないって思っているだけじゃないかしら?」
「そうでしょうか……」
リカはなお不安そうにしている。美音はさらに話を続けた。
「お嫁さんとはいえ、リカさんは『加藤精肉店』の新入社員みたいなものでしょ? 失敗するのは当たり前じゃない。注文を聞き間違えたら、ごめんなさいって謝ってもう一回聞けばいいし、お肉を量るのだってゆっくりでいいのよ。それ以外の失敗をしても、お肉屋さんに壊れて困るようなものなんて、そんなにないはずだし大丈夫よ」
秤はそう簡単に壊れないし、レジが動かなくなっても誰かがなんとかしてくれるだろう。この界隈には、ピーピー鳴っているレジの前で慌てるリカを見て笑い出す客はいても、怒り出すような客はいない。お肉を量るのが遅いといってもせいぜい数分、それが待ちきれないほどせっかちな客なら、量り売りではなく、パック詰めを売っているスーパーに行くだろう。
「今までに、お客さんから苦情をいただいたことはある?」
もちろんショウコさん以外よ、と付け足した美音に、リカははっとしたような顔になった。
「そういえば、ありません」
「みんな、ちゃんと待ってくれたでしょう?」
「はい。慌てなくていいよ、ゆっくりでいいよ、どうせ暇なんだから……って」
「やっぱり……。私たちが『ぼったくり』を引き継いだときもそうだったわ。いろいろ失敗したのに、みんな笑って『いいよ、いいよ』って……。この町はそういう町なのよ。一生懸命な人には優しいの。きっと、自分が慣れなくて大変だったときの気持ちを忘れてないんでしょうね」
「そうですね」
「叱られるかもって思うと緊張しちゃうわよね。でも、安心して。そんなことで叱られたりしないから。今のリカさんは、自分で自分の頭の中に怖い人を作ってる。きっと、周りの人みんながショウコさんに見えちゃってるのね」
実際は誰も叱ったりしない。ショウコはうるさいかもしれないが、彼女の場合は相手が誰であっても同じ。たとえ完璧に仕事をこなしていても、理由を見つけて文句を言うだろう。
「あの人は例外中の例外。このあたりに、あんなに難しい人はショウコさんしかいないわ。リカさんが誰からも叱られてないってことは、みんなは、リカさんが一生懸命だってわかってくれてるってことでしょう? だからきっと、それでいいのよ」
リカの気持ちを少しでも軽くしたくて、美音はついつい多弁になる。そんな美音の言葉を、リカはただじっと聞いていた。
「面と向かって文句や嫌みを言われるのは辛いでしょうけど、なるべく気にしないようにね。おかしいのはショウコさんのほうなんだから、全自動悪口製造機が置いてあるとでも思って、頑張って聞き流して」
『全自動悪口製造機』という言葉に、リカは少しだけ笑った。でもその笑みは、単に言葉が面白かったから浮かんだだけで、心が軽くなったわけではなさそうだ。
美音は、もっとこの人を楽にしてあげられる言葉をかけられればいいのに……と自分が歯痒くなる。
けれどちょうどそこで、曲がり角に着いてしまった。美音の家は右に曲がった先、リカは左……ここで別れざるを得ない。時間も遅いし、これ以上話し続けることはできなかった。
リカが、深々とお辞儀をして言う。
「話を聞いてくださってありがとうございました」
「聞くだけしかできなくて、ごめんなさい。でも、やっぱりユキヒロさんにだけは話したほうがいいと思うわ。リカさんは心配をかけたくないのかもしれないけど、ユキヒロさんにしてみたら、旦那さんなのに悩みを打ち明けてもらえないのは寂しいかも。リカさんだって、悩みがあるのにユキヒロさんが相談してくれなかったら寂しいと思わない?」
「そうですね……。私にぐらい言ってくれても……って思います」
「でしょ? あんまり重く取られたくないなら、せめて、今日、こんなこと言われちゃったー、ぐらいの感じで」
「……やってみます」
そしてリカは自転車に跨がり、商店街に続く道を走っていった。
†
深夜にリカと出会ってから三日後の夕方、『ぼったくり』のカウンターにはシンゾウとウメが座っていた。
ふたりは揃って本日のおすすめであるマグロとゴボウのしぐれ煮を注文し、盃を傾けている。
マグロとゴボウのしぐれ煮は、マグロとゴボウを酒と醤油、みりんで煮込む料理だが、美音は日によって食材の切り方を変えている。脂がのっているマグロは身が崩れやすいため、ゴボウもささがきにして柔らかく仕上げる。反対に、身が締まりやすい赤身のマグロは角切りにし、ゴボウも大きさを揃えて乱切り、さっと煮て歯ごたえを残すようにしているのだ。
今日は赤身のマグロを使ったため、ゴボウは乱切り。ふたりはしゃきしゃきの歯ごたえを楽しみつつ、『この年でもゴボウがちゃんと噛めるのは、日頃の手入れの成果だ』などと、自画自賛し合っていた。
ちなみにシンゾウは『ぼったくり』と同じ商店街で薬局を営んでおり、町内のご意見番と呼ばれる知恵者、ウメはかつて芸者をしていたらしいが今は隠居していて、三日に一度現れてはお気に入りの焼酎の梅割りを注文する。いずれも『ぼったくり』の常連である。
「そういや、肉屋の倅が、豆腐屋の婆にぶち切れたらしいぞ」
シンゾウの、困ったものだと言わんばかりのため息に、ウメがちょっと目を見張る。
「ユキちゃんが? 珍しいこともあるもんだね。いったいなんで?」
「それがさあ……豆腐屋の婆が肉屋の若嫁さんをちょいちょいいじめてたらしくて、『俺の嫁に余計なこと聞かせるんじゃねえ!』って……」
「ひゃあ……そりゃあ、相当腹に据えかねたんだろうね」
よほど驚いたのだろう。ウメは酎ハイの中の梅をつついていた箸を止め、口をあんぐり開けた。
「だよなあ……。なんせ、ユキは昔っから喧嘩が嫌いで、よそで誰かに意地悪されてもじっと我慢。家に帰ってから押し入れに潜り込んで泣くような奴だった」
「あたしもタマヨさんから聞いたことがあるよ。ユキちゃんが泣いてるのに気付いて、どうしたんだって訊いても、なんでもないってごしごし涙を拭いたりするんだって。で、翌日には元気になってはしゃぎ回ったりして……本当に辛抱強い子だよ」
世の中には悪口を言うのが大好きという人間がいる。ユキヒロはそれとは正反対の性格で、とにかく誰かを悪く言うのが嫌いだ。たとえそれが根拠のあることであっても、である。なんでも黙って堪えてしまうから争いごとにはならない。ましてや、自分が争いの種を蒔くなんてもっての外。別に弱虫というわけではないが、ユキヒロは『温厚』を『我慢』でコーティングしたような人物だった。
さらにその性格は、父親のヨシノリもそっくり同じだ。
商店街の人々は、売られた喧嘩を片っ端から買って、肉包丁でも振り回された日には物騒で仕方がない、肉屋はあれぐらいでちょうどいいんだ、と笑っている。血気盛んな魚屋であるミチヤは、そいつは俺に対する皮肉か? なんてくってかかったとかかからなかったとか……
いずれにしても、『争わない』が代名詞みたいなユキヒロが、あの毒舌家のショウコ相手に一幕演じたと聞けば、誰もが驚かずにはいられない。例外があるとしたら、あらかじめリカから話を聞いていた美音ぐらいのものだろう。
肉屋と豆腐屋の悶着、しかも怒鳴り込んだのが息子のユキヒロときたら、この話はリカの悩みに直結しているに違いない。ユキヒロに伝えたほうがいいと言ったのは自分だ。それが原因で状況がこじれたとしたら、申し訳なさすぎる。美音は肝を冷やしつつ話の続きを待った。
「俺も耳を疑ったけど、どうやら本当らしい。なんでもあの婆、若嫁さんが嫁に来てからずっと、ちくりちくりいびってたんだってさ。しかも、若嫁さんがひとりのときに限って」
「まったくあの因業婆! 自分とこにも若い嫁がいるんだから、いびりたけりゃそっちでやればいい。なんでよそ様にまで手を出すのかね!」
「ウメ婆、それはそれでちょいと差し障るぜ」
どこの嫁であろうと、いや、嫁でなくても誰かをいびるなんてやっていいことじゃない、とシンゾウは顔をしかめた。ウメはあっさり前言を撤回する。
「そりゃそうだ。あたしも気をつけるよ。それで?」
「ま、ウメ婆がそんなことしないのはわかってるけどな。で、若嫁さんは長いこと辛抱してたらしいんだが、とうとう堪え切れなくなってユキにこぼしたそうだ。あ、こぼしたっていっても『隣の女将さんがいろいろ教えてくださるんだけど、なかなかうまくできなくて、どうしたらいいのかしら……』ってな感じだったみたいだが」
話を聞いた美音は、それはいいアプローチだ、と感心してしまった。
ただの泣き言ではなく、困りごとの相談、しかもショウコをどうにかしてほしいというのではなく、自分自身を変えることで問題を解決したいと訴えている。おそらくリカは散々迷った末、このやり方ならもめ事の原因にならないと考えたのだろう。
「なるほど、肉屋の若嫁さん、けっこう頭が切れるんだね」
ウメは美音と同じことを思ったのかしきりに頷いている。その間に、シンゾウは酒が注がれたグラスに口をつけた。
「お、美音坊、こいつぁ……」
「あんたが酒の話をすると長くなる。怒鳴り込まれた豆腐屋の婆はそのあとどうしたんだい?」
「シンゾウさん、お酒の説明はあとでちゃんとします。だから、とりあえず続きを聞かせて!」
ウメと美音にせがまれて、シンゾウはやれやれといったふうに肩をすくめた。いったいいつから美音坊はそんな噂好きになったんだい……と嘆かれ、少々恥ずかしく思ったものの、リカ、そしてユキヒロのその後が気になる。ショウコのことだから、こてんぱんにやりこめたのでは? と心配になったし、同じように考えたのか、ウメの眉間にも深い皺が寄っていた。
ところが、ふたりの意に反して、シンゾウはやけに嬉しそうに答える。
「それがさ、驚いたことに、ユキの圧勝」
「え!?」
「もうさ、生まれてから今まで溜め込んでた罵り文句を全部出し切ったんじゃないかってぐらい。怒濤のごとくおっかぶせて、最後に『今度うちのリカに余計なこと言ったら、豆腐の桶に豚の内臓ぶちこむぞ!』って」
「うわーすごい」
触らぬ神に祟りなし、と今まで誰もがショウコを放置していた。確かに苦言を呈する者はいたが、本気で立ち向かった人はいなかったはずだ。その彼女に直談判しただけでもすごいのに、最後の台詞が想像させる情景がまたすごい。
豆腐がゆらりと浮いている水桶に豚の……と思っただけで気分が悪くなる。
「婆は悪いに違いないが、店の豆腐に罪はねえ。それは勘弁してくれ、って見てた連中が止めたらしいけどなあ」
それはそれでなんだかお門違いな仲裁だね、とウメは呆れる。
いずれにしても、ショウコは怒り狂うユキヒロ相手に一言も返せなかったそうだから、ユキヒロの気も済んだことだろう。シンゾウはしきりにリカを褒める。
「しっかし、大したもんだよ、あの若嫁さんは」
「うん、見かけによらない」
ウメはどこか嬉しそうに笑って言う。あのユキちゃんにそこまでさせるなんてよっぽど惚れられてるんだねえ……と。
馨は馨で、ラブラブ熱愛だ、と大喜びしている。
「そのうち、カナコさんを超えるかもね」
「夫婦円満でけっこうなことだ。でも、大したもんだっていうのは、それだけじゃねえ。ユキが怒鳴り込んだあと、若嫁さんは菓子折持って謝りに行ったそうだ。お騒がせして申し訳ありませんでした、って」
「えー!? だって、どう考えたって、悪いのはあっちじゃん」
さっきまでにやにやしていた馨が、にわかに怒り出した。ショウコが詫びを入れるならまだしも、その逆なんて考えられない、と大騒ぎである。
「若嫁さん曰く、どんな理由があってもお客さんの前で騒ぎを起こしたことに変わりはない、自分が余計なことを言ったせいだ、ってさ」
「ああ……」
そこで美音は、あの夜のリカの様子を思い出した。彼女がしきりに、ユキヒロさんには言えない、と首を横に振っていたのは、こういうことだったのかもしれない。
「まあ、結果はそんな感じだが、そもそも今回の発端もあの婆さんのいびりだったらしい」
シンゾウは、居合わせた客から聞いたという事の顛末を話し始めた。
なんでもショウコはリカがひとりで店番をしていたときに現れ、ここぞとばかりに嫌みや文句を連ねたらしい。挙げ句の果ては、あんたは本当に役に立たない、あんなに慌てて結婚したのはこの機会を逃したら嫁のもらい手がなくなりそうだったからに違いない、とまで……
おそらくショウコは、自分の息子のほうがずっと前から結婚の予定を立てていたのに、ユキヒロたちのほうが先に結婚してしまったことが気に障ってならないのだろう、というのがシンゾウの推測だった。
「なんだいそりゃ……。そんなのどっちが先だってかまやしないじゃないか」
呆れ果てたようなウメの台詞に、馨もしきりに頷く。
「そうだよ。あとから結婚したから町の人たちに受け入れてもらえなかった、とでもいうならまだしも、みんなして大歓迎、大喜びだったのに!」
「まあ、あれだ。昔っからあの婆さんはユキのことをライバル視してたからな。ヨシノリ夫婦はそんなこと気にもしちゃいねえし、息子同士も仲良くやってるのに」
「まったく迷惑な話だよ……それで?」
「言いたいだけ言って婆さんが意気揚々と引き上げてった直後に、ユキが配達から帰ってきたんだとさ。若嫁さん、ユキの顔を見るなり涙をぽろぽろーって……かわいそうによう……」
美音は、夫のことを考えただけでこんな顔になるなんて、とほほえましく思う。
ただ、美音の知っているユキヒロは、隣に怒鳴り込むようなタイプではない。元気はいいが、物の道理をわきまえているし、文句を言いたくなるようなことがあったとしても冷静に対処するだろう。
それに、『加藤精肉店』にはヨシノリ夫婦という、ユキヒロ以上に頼りになる人がいる。何かあれば彼らが適切に対応してくれるに違いない。
ただそれは、彼らがリカの味方だった場合である。万が一、ヨシノリ夫婦がリカに不満を持っていた場合、リカはさらに困った立場に追い込まれてしまう。
おそらくリカもそれを気にしているのだろう。だからこそ、わざわざ美音を呼び止めて、彼らが何か言っていなかったか、と訊ねたに違いない。美音自身は、ヨシノリ夫婦からリカの愚痴など聞いたことはなかったが。
リカの杞憂だとは思いつつも、美音は改めて訊ねてみた。
「ねえ、リカさん。ユキヒロさんはともかく、ヨシノリさんやタマヨさんに叱られたりするの? 叱られるまではいかないにしても、口調がきつかったり……」
「とんでもないです。お義母さんはすごく優しくしてくださいます。自分がお嫁に来たときも慣れなくて大変だったそうで、ゆっくりでいいよ、辛かったら無理しなくていいよ、っていつも言ってくださるんです。お義父さんも同じで、今時同居してくれるだけでもありがたい、ましてや肉屋の仕事まで手伝ってくれるなんて、って……」
「だったらどうして私に、あんなこと訊いたの?」
今の話を聞く限り、ヨシノリ夫婦が自分を悪く思っていないことはわかっているようだ。それなのになぜ……と、疑問を呈する美音に、リカは申し訳なさそうに言った。
「私も最初は素直に喜んでたんです。いいおうちに来てよかったなあ……って。でも、隣の女将さんにひどいことを言われ続けているうちに、もしかしたらお義父さんたちも同じように考えているんじゃないかって……。でも、お義父さんもお義母さんも常識をわきまえた人だし、無理して私に優しくしてくださってるんじゃないかって……」
そう語るリカに、ユキヒロの話をしていたときの嬉しそうな表情は欠片もない。美音のいたたまれない気持ちも、また戻ってくる。
「疑心暗鬼になっちゃったのね」
「ええ……。もしかしたら、美音さんには本音を話しているかもしれないと思って」
「私が、ヨシノリさんからリカさんについての話を聞いたのは一度だけよ。それはね……」
そこでリカは、えっ! と声を上げた。
「やっぱり、何かおっしゃってたんですね! それって、それって……」
リカは、気の毒なほど動転している。慌てて美音は、話の先を急いだ。
「落ち着いて、リカさん! 私が聞いたのは、リカさんがユキヒロさんと結婚する前の話なの。『本当に控えめで感じのいい子だ』『ユキにはもったいない』って、そりゃあもう手放しで褒めてたわ。リカさんの性格もちゃんとわかってて、どうしても商売に馴染めないようなら、店には出なくていい、なんてことも……」
ヨシノリは、リカが肉屋の仕事に馴染めないかもしれないということぐらいわかっていた。
その上で、まだ結婚もしないうちから少しでも仕事を覚えようと頑張るリカの姿に、感動すらしていたのだ。おそらくそれは、タマヨも同じ。ふたりは表裏のない人たちだし、本心を隠してどうのこうの、というのは考えられなかった。
「そうですか……じゃあ私、やっぱりもっと頑張らなきゃ……」
新しい家族はしっかりと自分を受け入れて、支えようとしてくれている。それなら自分は頑張るしかない。こんなことで負けちゃいけない……
リカの決意宣言のような台詞を聞いて、美音は少し悲しい気持ちになってしまった。
リカは、家族の信頼に応え、自分の役割を果たすことに必死になっているように思える。彼女の頭の中には、家族なんだから甘えたっていい、支え合って当然、という考えがないのだ。
辛いときは甘える、できないときは助けてもらう。それが家族というものだ、と言う人は多いし、美音もそのとおりだと思う。
ただ、リカの場合、家族になってまだ三ヶ月。傷ついた自分、弱い自分をさらけ出し助けを求めるには、短すぎる時間なのかもしれない。
リカは黙って自転車を押している。美音はリカに、家族には甘えてもいいのだと気付いてほしかった。
「ユキヒロさんがそうしたいなら、お隣に怒鳴り込んでもらってもいいんじゃないかしら……」
要は、美音との関係に横やりを入れられたとき、兄の怜や祖父の松雄のところに直談判に行った。自分のせいで対立を生んだことは申し訳ないと思う反面、美音は彼が自分を想ってくれる気持ちがとても嬉しかったし、それ以後、彼の家族から文句を言われることもなくなった。
リカの場合にしても、ユキヒロが行動を起こせば、案外事態はいいほうに向かうのではないか、と美音は考えていた。
「でもお隣の女将さんはすごくはっきりした方ですから……」
「そうねえ……」
はっきりしているというのは褒め言葉のようだけれど、往々にして――特にショウコの場合はかなりの否定的表現だ。
言わなくてもいいことをはっきり言って、人を傷つける。しかも自ら『悪気はない』とか『あんたのためを思って』なんて言葉を添える。自分は決して間違っていないと信じるやっかいなタイプである。その上、もっと悪いことにショウコは、強い相手には簡単にしっぽを巻く。自分より弱そうな相手を捕まえてはもっともらしく『助言』をするのだ。
これまでも、見るに見かねた人が、弱いものいじめはやめろと諭したことがあった。ところが本人は、心配しているからこその助言だ、そんなふうに取るなんて、それこそいじめじゃないか、なんて食ってかかったのだ。
暖簾に腕押し、蛙の面になんとやら……そんな相手に怒鳴り込んだところで、事態が解決するとは思えない、とリカは言いたいに違いない。
「前に勤めていた会社にも、ああいうタイプの人がいました。きっと、言っても無駄だと思います」
「でも、なにも言わなければ、これからもずっと我慢することになっちゃうわ。リカさん、それでもいいの?」
「実際に、ちゃんとできてないんですから、言われても仕方ありません。私が失敗さえしなければいいだけのことなので……」
なぜこんなに失敗ばかりしてしまうのか。学生時代も、会社に勤めてからも、こんなに失敗を繰り返したことなどなかったのに、と、リカは今にも泣きそうな顔になる。
その言葉を聞いて美音ははっとした。リカは客あしらいに不慣れなだけでなく、失敗することにも慣れていないのではないだろうか。
「リカさん、もしかして昔からずっと優等生だったんじゃない?」
「え?」
学校も仕事もそつなくこなしてきた。事務仕事はある意味、勉強の延長のようなもの、新入社員向けの教育もしっかり施されたし、慣れるのにそれほど時間はかからなかった。
けれど、肉屋の仕事はこれまでとはまったく趣が異なる。義父母や夫は忙しい合間を縫ってあれこれ教えてくれるけれど、人見知りの激しいリカにとって、毎日毎日店に立つだけでも大変だった。
新しい家族に迷惑をかけたくない、なんとか上手くやらなければと緊張するあまり、失敗を繰り返してしまう。失敗するたびに、夫や義父母に申し訳なくて自分を責めまくる。実際は、文句ひとつ言われたことはないというのに――
失敗経験の少ないリカにとって、失敗すること自体がストレスなのではないか。そしてそのストレスが、また新たな失敗を呼んでしまう、という悪循環に陥っているような気がした。
「ヨシノリさんやタマヨさんに叱られたことはないって言ってたけど、それって、リカさんに気を遣ってるんじゃなくて、叱るほどのことでもないって思っているだけじゃないかしら?」
「そうでしょうか……」
リカはなお不安そうにしている。美音はさらに話を続けた。
「お嫁さんとはいえ、リカさんは『加藤精肉店』の新入社員みたいなものでしょ? 失敗するのは当たり前じゃない。注文を聞き間違えたら、ごめんなさいって謝ってもう一回聞けばいいし、お肉を量るのだってゆっくりでいいのよ。それ以外の失敗をしても、お肉屋さんに壊れて困るようなものなんて、そんなにないはずだし大丈夫よ」
秤はそう簡単に壊れないし、レジが動かなくなっても誰かがなんとかしてくれるだろう。この界隈には、ピーピー鳴っているレジの前で慌てるリカを見て笑い出す客はいても、怒り出すような客はいない。お肉を量るのが遅いといってもせいぜい数分、それが待ちきれないほどせっかちな客なら、量り売りではなく、パック詰めを売っているスーパーに行くだろう。
「今までに、お客さんから苦情をいただいたことはある?」
もちろんショウコさん以外よ、と付け足した美音に、リカははっとしたような顔になった。
「そういえば、ありません」
「みんな、ちゃんと待ってくれたでしょう?」
「はい。慌てなくていいよ、ゆっくりでいいよ、どうせ暇なんだから……って」
「やっぱり……。私たちが『ぼったくり』を引き継いだときもそうだったわ。いろいろ失敗したのに、みんな笑って『いいよ、いいよ』って……。この町はそういう町なのよ。一生懸命な人には優しいの。きっと、自分が慣れなくて大変だったときの気持ちを忘れてないんでしょうね」
「そうですね」
「叱られるかもって思うと緊張しちゃうわよね。でも、安心して。そんなことで叱られたりしないから。今のリカさんは、自分で自分の頭の中に怖い人を作ってる。きっと、周りの人みんながショウコさんに見えちゃってるのね」
実際は誰も叱ったりしない。ショウコはうるさいかもしれないが、彼女の場合は相手が誰であっても同じ。たとえ完璧に仕事をこなしていても、理由を見つけて文句を言うだろう。
「あの人は例外中の例外。このあたりに、あんなに難しい人はショウコさんしかいないわ。リカさんが誰からも叱られてないってことは、みんなは、リカさんが一生懸命だってわかってくれてるってことでしょう? だからきっと、それでいいのよ」
リカの気持ちを少しでも軽くしたくて、美音はついつい多弁になる。そんな美音の言葉を、リカはただじっと聞いていた。
「面と向かって文句や嫌みを言われるのは辛いでしょうけど、なるべく気にしないようにね。おかしいのはショウコさんのほうなんだから、全自動悪口製造機が置いてあるとでも思って、頑張って聞き流して」
『全自動悪口製造機』という言葉に、リカは少しだけ笑った。でもその笑みは、単に言葉が面白かったから浮かんだだけで、心が軽くなったわけではなさそうだ。
美音は、もっとこの人を楽にしてあげられる言葉をかけられればいいのに……と自分が歯痒くなる。
けれどちょうどそこで、曲がり角に着いてしまった。美音の家は右に曲がった先、リカは左……ここで別れざるを得ない。時間も遅いし、これ以上話し続けることはできなかった。
リカが、深々とお辞儀をして言う。
「話を聞いてくださってありがとうございました」
「聞くだけしかできなくて、ごめんなさい。でも、やっぱりユキヒロさんにだけは話したほうがいいと思うわ。リカさんは心配をかけたくないのかもしれないけど、ユキヒロさんにしてみたら、旦那さんなのに悩みを打ち明けてもらえないのは寂しいかも。リカさんだって、悩みがあるのにユキヒロさんが相談してくれなかったら寂しいと思わない?」
「そうですね……。私にぐらい言ってくれても……って思います」
「でしょ? あんまり重く取られたくないなら、せめて、今日、こんなこと言われちゃったー、ぐらいの感じで」
「……やってみます」
そしてリカは自転車に跨がり、商店街に続く道を走っていった。
†
深夜にリカと出会ってから三日後の夕方、『ぼったくり』のカウンターにはシンゾウとウメが座っていた。
ふたりは揃って本日のおすすめであるマグロとゴボウのしぐれ煮を注文し、盃を傾けている。
マグロとゴボウのしぐれ煮は、マグロとゴボウを酒と醤油、みりんで煮込む料理だが、美音は日によって食材の切り方を変えている。脂がのっているマグロは身が崩れやすいため、ゴボウもささがきにして柔らかく仕上げる。反対に、身が締まりやすい赤身のマグロは角切りにし、ゴボウも大きさを揃えて乱切り、さっと煮て歯ごたえを残すようにしているのだ。
今日は赤身のマグロを使ったため、ゴボウは乱切り。ふたりはしゃきしゃきの歯ごたえを楽しみつつ、『この年でもゴボウがちゃんと噛めるのは、日頃の手入れの成果だ』などと、自画自賛し合っていた。
ちなみにシンゾウは『ぼったくり』と同じ商店街で薬局を営んでおり、町内のご意見番と呼ばれる知恵者、ウメはかつて芸者をしていたらしいが今は隠居していて、三日に一度現れてはお気に入りの焼酎の梅割りを注文する。いずれも『ぼったくり』の常連である。
「そういや、肉屋の倅が、豆腐屋の婆にぶち切れたらしいぞ」
シンゾウの、困ったものだと言わんばかりのため息に、ウメがちょっと目を見張る。
「ユキちゃんが? 珍しいこともあるもんだね。いったいなんで?」
「それがさあ……豆腐屋の婆が肉屋の若嫁さんをちょいちょいいじめてたらしくて、『俺の嫁に余計なこと聞かせるんじゃねえ!』って……」
「ひゃあ……そりゃあ、相当腹に据えかねたんだろうね」
よほど驚いたのだろう。ウメは酎ハイの中の梅をつついていた箸を止め、口をあんぐり開けた。
「だよなあ……。なんせ、ユキは昔っから喧嘩が嫌いで、よそで誰かに意地悪されてもじっと我慢。家に帰ってから押し入れに潜り込んで泣くような奴だった」
「あたしもタマヨさんから聞いたことがあるよ。ユキちゃんが泣いてるのに気付いて、どうしたんだって訊いても、なんでもないってごしごし涙を拭いたりするんだって。で、翌日には元気になってはしゃぎ回ったりして……本当に辛抱強い子だよ」
世の中には悪口を言うのが大好きという人間がいる。ユキヒロはそれとは正反対の性格で、とにかく誰かを悪く言うのが嫌いだ。たとえそれが根拠のあることであっても、である。なんでも黙って堪えてしまうから争いごとにはならない。ましてや、自分が争いの種を蒔くなんてもっての外。別に弱虫というわけではないが、ユキヒロは『温厚』を『我慢』でコーティングしたような人物だった。
さらにその性格は、父親のヨシノリもそっくり同じだ。
商店街の人々は、売られた喧嘩を片っ端から買って、肉包丁でも振り回された日には物騒で仕方がない、肉屋はあれぐらいでちょうどいいんだ、と笑っている。血気盛んな魚屋であるミチヤは、そいつは俺に対する皮肉か? なんてくってかかったとかかからなかったとか……
いずれにしても、『争わない』が代名詞みたいなユキヒロが、あの毒舌家のショウコ相手に一幕演じたと聞けば、誰もが驚かずにはいられない。例外があるとしたら、あらかじめリカから話を聞いていた美音ぐらいのものだろう。
肉屋と豆腐屋の悶着、しかも怒鳴り込んだのが息子のユキヒロときたら、この話はリカの悩みに直結しているに違いない。ユキヒロに伝えたほうがいいと言ったのは自分だ。それが原因で状況がこじれたとしたら、申し訳なさすぎる。美音は肝を冷やしつつ話の続きを待った。
「俺も耳を疑ったけど、どうやら本当らしい。なんでもあの婆、若嫁さんが嫁に来てからずっと、ちくりちくりいびってたんだってさ。しかも、若嫁さんがひとりのときに限って」
「まったくあの因業婆! 自分とこにも若い嫁がいるんだから、いびりたけりゃそっちでやればいい。なんでよそ様にまで手を出すのかね!」
「ウメ婆、それはそれでちょいと差し障るぜ」
どこの嫁であろうと、いや、嫁でなくても誰かをいびるなんてやっていいことじゃない、とシンゾウは顔をしかめた。ウメはあっさり前言を撤回する。
「そりゃそうだ。あたしも気をつけるよ。それで?」
「ま、ウメ婆がそんなことしないのはわかってるけどな。で、若嫁さんは長いこと辛抱してたらしいんだが、とうとう堪え切れなくなってユキにこぼしたそうだ。あ、こぼしたっていっても『隣の女将さんがいろいろ教えてくださるんだけど、なかなかうまくできなくて、どうしたらいいのかしら……』ってな感じだったみたいだが」
話を聞いた美音は、それはいいアプローチだ、と感心してしまった。
ただの泣き言ではなく、困りごとの相談、しかもショウコをどうにかしてほしいというのではなく、自分自身を変えることで問題を解決したいと訴えている。おそらくリカは散々迷った末、このやり方ならもめ事の原因にならないと考えたのだろう。
「なるほど、肉屋の若嫁さん、けっこう頭が切れるんだね」
ウメは美音と同じことを思ったのかしきりに頷いている。その間に、シンゾウは酒が注がれたグラスに口をつけた。
「お、美音坊、こいつぁ……」
「あんたが酒の話をすると長くなる。怒鳴り込まれた豆腐屋の婆はそのあとどうしたんだい?」
「シンゾウさん、お酒の説明はあとでちゃんとします。だから、とりあえず続きを聞かせて!」
ウメと美音にせがまれて、シンゾウはやれやれといったふうに肩をすくめた。いったいいつから美音坊はそんな噂好きになったんだい……と嘆かれ、少々恥ずかしく思ったものの、リカ、そしてユキヒロのその後が気になる。ショウコのことだから、こてんぱんにやりこめたのでは? と心配になったし、同じように考えたのか、ウメの眉間にも深い皺が寄っていた。
ところが、ふたりの意に反して、シンゾウはやけに嬉しそうに答える。
「それがさ、驚いたことに、ユキの圧勝」
「え!?」
「もうさ、生まれてから今まで溜め込んでた罵り文句を全部出し切ったんじゃないかってぐらい。怒濤のごとくおっかぶせて、最後に『今度うちのリカに余計なこと言ったら、豆腐の桶に豚の内臓ぶちこむぞ!』って」
「うわーすごい」
触らぬ神に祟りなし、と今まで誰もがショウコを放置していた。確かに苦言を呈する者はいたが、本気で立ち向かった人はいなかったはずだ。その彼女に直談判しただけでもすごいのに、最後の台詞が想像させる情景がまたすごい。
豆腐がゆらりと浮いている水桶に豚の……と思っただけで気分が悪くなる。
「婆は悪いに違いないが、店の豆腐に罪はねえ。それは勘弁してくれ、って見てた連中が止めたらしいけどなあ」
それはそれでなんだかお門違いな仲裁だね、とウメは呆れる。
いずれにしても、ショウコは怒り狂うユキヒロ相手に一言も返せなかったそうだから、ユキヒロの気も済んだことだろう。シンゾウはしきりにリカを褒める。
「しっかし、大したもんだよ、あの若嫁さんは」
「うん、見かけによらない」
ウメはどこか嬉しそうに笑って言う。あのユキちゃんにそこまでさせるなんてよっぽど惚れられてるんだねえ……と。
馨は馨で、ラブラブ熱愛だ、と大喜びしている。
「そのうち、カナコさんを超えるかもね」
「夫婦円満でけっこうなことだ。でも、大したもんだっていうのは、それだけじゃねえ。ユキが怒鳴り込んだあと、若嫁さんは菓子折持って謝りに行ったそうだ。お騒がせして申し訳ありませんでした、って」
「えー!? だって、どう考えたって、悪いのはあっちじゃん」
さっきまでにやにやしていた馨が、にわかに怒り出した。ショウコが詫びを入れるならまだしも、その逆なんて考えられない、と大騒ぎである。
「若嫁さん曰く、どんな理由があってもお客さんの前で騒ぎを起こしたことに変わりはない、自分が余計なことを言ったせいだ、ってさ」
「ああ……」
そこで美音は、あの夜のリカの様子を思い出した。彼女がしきりに、ユキヒロさんには言えない、と首を横に振っていたのは、こういうことだったのかもしれない。
「まあ、結果はそんな感じだが、そもそも今回の発端もあの婆さんのいびりだったらしい」
シンゾウは、居合わせた客から聞いたという事の顛末を話し始めた。
なんでもショウコはリカがひとりで店番をしていたときに現れ、ここぞとばかりに嫌みや文句を連ねたらしい。挙げ句の果ては、あんたは本当に役に立たない、あんなに慌てて結婚したのはこの機会を逃したら嫁のもらい手がなくなりそうだったからに違いない、とまで……
おそらくショウコは、自分の息子のほうがずっと前から結婚の予定を立てていたのに、ユキヒロたちのほうが先に結婚してしまったことが気に障ってならないのだろう、というのがシンゾウの推測だった。
「なんだいそりゃ……。そんなのどっちが先だってかまやしないじゃないか」
呆れ果てたようなウメの台詞に、馨もしきりに頷く。
「そうだよ。あとから結婚したから町の人たちに受け入れてもらえなかった、とでもいうならまだしも、みんなして大歓迎、大喜びだったのに!」
「まあ、あれだ。昔っからあの婆さんはユキのことをライバル視してたからな。ヨシノリ夫婦はそんなこと気にもしちゃいねえし、息子同士も仲良くやってるのに」
「まったく迷惑な話だよ……それで?」
「言いたいだけ言って婆さんが意気揚々と引き上げてった直後に、ユキが配達から帰ってきたんだとさ。若嫁さん、ユキの顔を見るなり涙をぽろぽろーって……かわいそうによう……」
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