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9巻
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傷を癒すもの
東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、帰宅しようと外に出たとたん、空気の冷たさに身を震わせた。
十一月も終わりに近づき、夜中はもうかなり冷え込む。そろそろ厚手のコートを出さなければ、と思いつつ美音は引き戸に鍵をかけた。
あたりに人影はなく、通りは静まり返っている。一日の仕事を終えた疲れと、軽い充実感を覚えながら美音は自宅に向けて歩き出す。
商店街で一番遅くまで営業しているのは『ぼったくり』なので、この店の灯りが消えると商店街を照らすのは街灯のみとなる。かつては暖かみのあるオレンジ色の電球だったが、LEDに変えられた今、青白い光が空気の冷たさに拍車をかけているように思えた。
だが、美音がそれよりも残念に思うのは、LED照明の明るさそのものだ。
確かに電球よりもずっと遠くまで灯りが届き、省エネにもなるというのはいいことである。けれど、ただでさえ都会は明るすぎて星が見えないと言われているのに、照明すべてがLEDになってしまったら、今まで以上に星を見つけにくくなるのではないか、と心配になるのだ。
よく晴れた夜、星座を探しながら帰るのは、美音の楽しみのひとつだった。今のうちに堪能しておいたほうがいいのかしら……と思いながら、美音は空を見上げる。
――オリオン座があんなところに。今年ももうすぐ終わっちゃうのね……
例年この時期になると、年の瀬までにやらなければならないことが次々に頭に浮かんで焦燥感に駆られる。毎年のことなのに、どうしてもっと計画的にできないのかしら、と情けなくなるほどだ。
とはいえ、おせちの食材は年の瀬にならないと店に並ばないし、あまり早々と大掃除をしてしまうと年明けまでにまた汚れてしまいそう……なんて自分に言い訳をしながら、ふと腕にかけていた鞄を見た。
――なんだか膨らんでいるような気がする。
いつもと違うものでも入れてたっけ? と、首を傾げた次の瞬間、美音はぎょっとした。
「忘れてた!」
鞄をわずかに膨らませていたのは、黒い不織布のケースに入れられた映画のDVDだった。
駅前のレンタルショップで借りたもので、期限は今日まで。仕込みを終えたあと、散歩がてら返しに行けばいいと思って持ってきたのだが、今日は思ったよりも仕込みに時間がかかってしまった。
そのせいで散歩はショートコースに変更、駅まで行くことができなかったのだ。
こんなことなら妹の馨に頼めばよかった、自転車ならすぐだったのに……と大きなため息が出てしまう。
期限は今日までというものの、件のレンタルショップにおける『今日』の定義は、翌日の開店時刻までだ。開店時刻は朝十時だから、それまでに返却ボックスに入れれば問題ないとはわかっているが、夜のうちに返しに行ったほうが安心。なにより、この時間ならまだレンタルショップは営業中だから、別の作品を借りることもできる。
美音は鞄からスマホを取り出し、馨に帰宅が遅れるというメッセージを送信した。
すぐに馨から、『こんな時間に駅まで行くの?』という返信が来る。続いて、驚いているアザラシのスタンプも。やむなく、再度メッセージを送って事情を説明すると、ため息をつくアザラシと、『とにかく気をつけて』というメッセージが返ってきた。姉の性格と、レンタルDVDの返却という用向きから考えて、やむを得ないと判断したのだろう。
続いて届いたのは、『自転車が置きっぱなしになってるから使って』というありがたい言葉だった。
そこに至ってようやく美音は、馨が今、家にいないことを思い出した。美音より少し早く仕事を終えた馨は、このあと彼氏の哲と会うことになっている、と嬉しそうに出ていった。ぎりぎりバスのある時間だったから、自転車をおいてバスで駅に向かったのだろう。
『ぼったくり』から駅までは、かなりの距離がある。だが、店を閉めたこの時間、バスはもう終わっているため、歩くしかない。正直、けっこう時間がかかるなあと思っていたのだ。自転車なら歩くよりもずっと早いし、安全だ。
『ありがとう! すごく助かる!』というメッセージに、『どういたしまして。でも本当に気をつけて!』という言葉と困り果てた顔のスタンプが返ってきて、姉妹のやりとりは終了した。
こんな時間に駅まで、しかもひとりで行くのは危ないとわかっている。恋人である要に知られたらとんでもなく叱られるだろう。
だが、明日の朝に回してしまえば、急用が入って返しに行けなくなる可能性もある。無駄に延滞料を払うのは嫌だったし、何よりこの時間なら人も少ない。周りを気にせずゆっくりと、次に借りるDVDを選ぶことができるのだ。
そうやって借りてきた古い映画やドラマを観ることは、星座探し同様美音の楽しみのひとつだった。
無事にDVDを返し終えた美音は、次に借りるものを探そうと店の奥に入っていった。
店内は人影もまばらだったが、やはり人気があるのか、新作コーナーにだけは客がそれなりに見受けられる。
とはいえ新作はレンタル料も高いし、貸し出し中ばかり。それよりも旧作の名画や家族向けのドラマのほうが気楽、ということで、美音が新作を借りることはほとんどなかった。
例によって新作コーナーを通り過ぎ、旧作名画のコーナーに入った美音は咄嗟に足を止めた。そこにいた客に見覚えがあったからだ。
ずらりと並んだ旧作名画のDVDを手にとって眺めては戻し、また次を……とやっているのは、つい最近『加藤精肉店』の息子、ユキヒロと結婚したばかりのリカだった。
ふたりの結婚に先立ち、リカの兄は『加藤精肉店』界隈に聞き合わせに現れた。
その際、『ぼったくり』にも立ち寄り、常連たちから『加藤精肉店』についての話を聞いたのだ。もちろん常連たちは、早々に聞き合わせだと察し、縁談に差し障るような話は一切しなかった。にもかかわらず、リカの兄は家族にあまりいい報告をしなかったらしく、『加藤精肉店』の店主ヨシノリは、息子の縁談が壊れてしまうのではないかとずいぶん心配していた。
リカの兄にしてみれば、妹は内気だから客商売に向かない、肉屋の跡取りと結婚したら苦労するのではないか、という懸念があったようだ。それでも本人たちの意志は固く、ふたりがかりでリカの家族を説得し、無事結婚に漕ぎ着けた。
当初、跡取り息子の結婚ということで、さぞや盛大な式を挙げるのではないかと噂されたが、本人たちも家族もいわゆる『ジミ婚』志向。大がかりな披露宴はやらずに神前式と家族だけの食事会に留めた。その後、ヨシノリ一家は揃って商店街の端から端まで挨拶に回り、住民たちはこぞってふたりの結婚を祝ったのだった。
結婚後、リカはヨシノリ一家とともに店頭に立つようになり、肉を量ったり包んだりと少しずつ仕事を覚え始めた――それが三ヶ月前のことである。
普段美音は『ぼったくり』で使う食材を配達してもらっているため、店頭に足を運ぶことはあまりない。
とはいえ、仕込みを終えたあと、献立に物足りなさを感じて急遽一品加える場合がある。予定外の料理だから、食材の用意がなければ買いに行くしかない。そんなこんなで、昼下がり、買い物に行くのだが、昼下がりは客が少ない時間帯とみえて、どの店も交代で休憩を取っているらしい。店頭にいるのはせいぜいひとり、時には誰もいなくて、奥に向かって呼びかけて出てきてもらうこともあった。『魚辰』しかり、『八百源』しかりである。
そんな中、『加藤精肉店』が無人だったことはなく、大体の場合、リカがひとりで店番をしていた。
客が注文した肉のトレイを取り出して、真剣そのものの表情で量る。丁寧に包んで、たどたどしく礼を言う――そんなリカの姿は初々しく、とてもかわいらしい。『加藤精肉店』の看板は字が消えかけているけれど、この看板娘がいれば十分事足りると美音は思っていた。
「リカさん?」
「あ……美音さん。こんばんは」
ユキヒロと一緒かと思ったが、あたりに姿は見えない。どうやらリカもひとりで来たらしい。仲むつまじく暮らしていると思っていたのだが、こんな深夜にひとりでいるところをみると、そうではなかったのだろうか。
リカは既に、一本や二本ではない数のDVDを手にしているのに、さらに物色中の様子。おそらく彼女の趣味は映画鑑賞なのだろう。いかにも『肉屋の若嫁さんは控えめで大人しい』と噂される彼女に相応しい、ひとりでひっそりと楽しめる趣味だと思う。
リカは検索機で出力してきたらしき用紙と、DVDが並べられている棚を見比べては首を傾げている。データ上はそこにあるはずなのに、見つからなくて困っているようだ。書店やレンタルショップではよくあることだった。
「見つからないの? もしよければ、一緒に探しましょうか?」
「あ……」
リカは一瞬ためらったようだが、どうしても観たい作品だったらしく、手にしていた用紙を美音に示した。それはかなり古いフランス映画だった。
「ああ、これ……私も観たことがあるわ。でも、ずいぶん前の作品だから、置いているお店が少ないのよね」
「そうみたいですね」
そんな言葉を交わしつつ、しばらく探した結果、その作品を見つけたのは美音だった。本来あるべき場所から少し離れた棚に紛れ込んでいたのだ。
「あった! リカさん、これじゃない?」
「これです、これです。こんなところに入り込んでたんですね……」
リカは、美音が差し出したDVDを嬉しそうに受け取った。その時点で、美音も自分が借りる作品を選び終わっていた。リカの捜し物を手伝っている間に、かねてから観たいと思っていたタイトルを見つけたのだ。
本日はこれにて終了、ということで、ふたりは一緒にレジカウンターに向かった。
深夜だったせいか、稼働しているレジはひとつしかない。美音はリカに先を譲り、後ろに並んで自分の番が来るのを待っていた。
間隔をあけて立っていたわけではないので、店員がレンタル処理をするために並べたDVDのタイトルが自然と目に入ってくる。
リカが借りようとしていたのは、誰もが知っている有名作品ばかり。しかも、そのすべてが『全世界が泣いた!』なんて煽り文句がつけられるようなものだった。
リカさんは泣ける映画が好きなのね……と考えていると、リカが不意に振り返った。
「すみません。私のほうが借りる本数が多いんだから……」
美音さんを先にしてもらえばよかった――おそらく、リカはそんな詫びを口にするつもりだったのだろう。だが、振り向いたとたん、美音の視線がどこに向かっているかに気付いたらしい。リカの言葉が途切れる。咄嗟に美音は謝った。
「ごめんなさい。感じ悪いわよね……」
「いえ……」
そう言うとリカはカウンターに向き直り、手続きが終わったDVDを受け取った。そのまま店を出るかと思ったら、少し離れたところで立っている。
美音は気まずい思いを少々もてあまし、いっそ先に帰ってくれないかなと思ったが、彼女はやはり動かない。どうやら美音を待っているらしい。
確かにこんな時間だ、ふたりで帰ったほうが安心には違いない。ということで貸し出し手続きを終えた美音は、リカのところに向かった。
やっぱり気まずいな、と思いながら歩いていくと、リカは美音以上に緊張の面持ちをしていた。
「あの……美音さん」
声になんだか必死な様子が窺える。リカが借りた映画のタイトルを見ていたことについて文句を言われるわけではないらしい、とほっとしていると、リカはためらいがちに、少し時間をいただけないか、と訊いてきた。
時間が時間だし、早く帰りたい気持ちはある。だが、こんなに思い詰めたような顔のリカを捨て置くことなどできなかった。
「じゃあ、帰りながら話をしましょうか」
リカは時計を確かめ、こっくりと頷いた。
「あ、でも私、自転車で……」
「私もよ」
自転車で走りながら会話をするのは難しい、ということで、ふたりは自転車を引いて帰ることにした。だが、リカはなかなか口を開こうとしない。いつまでも自転車を引っ張って歩くのもなんだし、美音はこちらから水を向けてみることにした。
「それでリカさん、何か私に訊きたいことでも?」
「あの……お義母さん、私のことなにか言ってませんでしたか?」
「え、タマヨさん?」
タマヨというのはヨシノリの妻だ。ヨシノリ夫婦とユキヒロ夫婦は、『加藤精肉店』の二階と三階に住んでいる。
タマヨは、美音が買い物に行ったり、注文の電話をしたりすると、気軽におしゃべりしてくれるが、リカについて話しているのを聞いた覚えはなかった。
「特に何も……。リカさん、何か気になることでもあるの?」
「あの……私、気が利かないし、やっぱりお店の仕事に向いていないみたいで……」
失敗ばっかりなんです……とリカは消え入りそうな声で言う。
「お義母さんやユキヒロさんみたいに元気に挨拶もできないし、お客さんの注文も一度で聞き取れなくて訊き返したり、間違えてばっかり。お肉を量るのも下手で、なかなかお客さんのおっしゃる量にできないんです。もう三ヶ月も経つのに、お義母さんたちに迷惑をかけてるのが申し訳なくて……」
「もう三ヶ月って……。どっちかっていうと、まだ三ヶ月、だと思うけど……」
リカは結婚するまで、事務機器メーカーで事務員をしていたそうだ。学生時代のアルバイトまで含めても、接客業に就いたことはないという。それなのに下町の肉屋に嫁いできて、夫の親と同居までして頑張っている。しかも、まだ三ヶ月しか経っていないのだ。
『加藤精肉店』に入って三十年にもなるタマヨや、肉屋で生まれ育ったユキヒロと同じようにできるわけがない。
何をそんなに焦っているのだろう、と考えていると、リカがぽつりと漏らした。
「私もマリさんぐらいテキパキできれば……」
その言葉で、ようやく美音はリカを悩ませている原因に思い当たった。
『加藤精肉店』の隣に『豆腐の戸田』という屋号の豆腐店がある。
『豆腐の戸田』にはシュンという跡取り息子がいるのだが、シュンとリカの夫ユキヒロは同い年、しかもシュンも二ヶ月前に結婚したばかりだった。その結婚相手が、先ほどリカが名前を出した、マリという女性である。
美音から見ても、マリは、客商売をするために生まれてきたのではないかと思うような人だ。豆腐屋の仕事にもあっという間に馴染み、親夫婦との関係も良好。豆腐屋の女将ショウコはいつも嫁自慢をしている。
マリ自身は、人に嫌な思いをさせるような人ではない。リカを悩ませているのは、ショウコの自慢話ではないか、と美音は推測した。なぜなら、美音もまた、ショウコの自慢話を耳にしたことがあったからだ。それは、例によって昼下がり、翌日の朝食に使おうと『戸田の豆腐』に油揚げを買いに行ったときのことだった。
『うちの嫁はすごくできた人だ。商売にもそつがないし、家事だってうまい。本当にいい人に来てもらった』
ショウコは得意げにそんなことを言ったあと、『加藤精肉店』のほうを見て嗤った。『笑った』ではなく『嗤った』のだ。
『あんなに不器用なお嫁さんじゃなくてよかった。加藤さんとこは大変だね』
正直、美音はうんざりした。
そもそもショウコという人は口が悪い。『悪い』というよりも『汚い』と表現したくなるほどで、近隣の評判も思わしくない。
確かにこの町の住民は、総じてはっきりものを言う傾向がある。だが、そこには相手を思いやる気持ちが窺えるし、真に相手を傷つけるようなことは言わない。だからこそ、言われた相手も、あーあ、言われちゃった、などと笑って済ますことができた。
だが、ショウコはそんな町の人たちとは全然違う。なんでもかんでも比較して、少しでも自分が優位に立とうと躍起になるのだ。
馨は、ああいうのをマウンティングっていうんだよ、とさも嫌そうな顔で言うし、町の人たちも、実力のない奴ほどそういうことをやりたがる、と憤慨することしきり……
ショウコの舌禍事件については枚挙にいとまがないが、とにかく彼女は、善人揃いのこの町内においてかなり特異な存在だった。
そういったこともあり、リカを貶し始めたショウコに、最初は町内の人たちも、またか……と呆れただけだった。
ところが、ひとしきり貶せば気が済んで、矛先も変わるだろうと思っていたのに、今回はいっこうにやむ気配がない。見るに見かねた人々が、口々に注意しても本人は欠片も反省しなかった。
『ほんとに大変なことを大変だと言ってるだけじゃないか。これでもあたしは心配してるんだよ。うちのマリに、客商売や家事のコツを教えさせたいぐらいだ。マリは隣の嫁さんより若いのに、なんでも上手にできる。見上げたもんだと思わないかい?』
などと、言い返すらしい。その上、リカに面と向かって言ったそうだ。
『あんたも商売をしてる家に嫁に来たなら、もうちょっとやりようがあるだろう。いつまでもOL気分ですかしてないで、うちのマリを見習ったらどうだい』
リカは、そうやってちくりちくりと言われても、反論することもなく控えめな笑顔を崩さない。おそらく、内心にはこみ上げるものがあっただろう。それでも、相手は長年のお隣さんだし、ましてや嫁に来たばかりの身である。反論すればさらに問題は大きくなる、とでも考えて我慢していたのかもしれない。
それが、ここにきてとうとう耐えられなくなって……というのが、リカの現状ではないか、と美音は思ったのだ。
とはいえ、確証などない。推測はあくまでも推測ということで、美音は単刀直入に訊いてみることにした。
「もしかして、ショウコさんのことで悩んでるの?」
「……やっぱり、わかっちゃいますか。これでも、家の中では頑張って隠してたんですけど」
リカは、ふう……とため息をついた。
結婚してから三ヶ月、毎日一生懸命やっているつもりだが、ちっとも上達しない。夜になると落ち込みはさらにひどくなり、くよくよと考えて眠れない。やむなく家族が寝静まったのを見計らっては抜け出し、DVDを借りに来ていたそうだ。
「うっかり物陰とかで泣いてたら、ユキヒロさんやお義父さん、お義母さんに心配をかけちゃうでしょう? 映画を観ていれば平気かなと思って……」
「それであんなに悲しい映画ばっかりを……」
自営業の親夫婦と同居し、自分もその仕事を手伝っているとあっては、ひとりきりになれる場所も時間もほとんどない。
昼下がりにひとりで店番をすることはあるが、店で泣くのは論外だ。そんなところを見られたら、また隣の女将さんに咎められる。だからこそ、映画を観ながら泣いていたのだ、とリカは語った。それなら、感動して泣いているのだろうと思ってもらえると……
泣くことにすら、そこまで気を遣わねばならないリカがあまりにも哀れで、美音は言葉を失う。
DVDを次々再生し、映画を観ているふうで、その実、どんな台詞も頭に入っていない。泣いてもおかしくない内容に紛れて、自分の至らなさに涙するリカ。痛ましいとしか言いようがなかった。
「なんてこと……。それって、ユキヒロさんは知っているの?」
つい非難めいた口調になるのを止められなかった。ショウコはさておき、自分の妻がこんなに辛い思いをしているのに、夫は何をしているのだ、と腹が立ってくる。
「知らないと思います。自分で言うのもなんですけど、そういう意味では私、本当に頑張ってるんですよ。だからユキヒロさんは、私が泣いてるのは映画のせいだって思い込んでるはずです。『お前は本当に泣ける映画が好きだなあ、俺はもっと楽しくて笑えるのが好きだけどな』って言われますから」
リカは、ちょっと得意そうな顔になった。だが、その顔を見た美音は、さらにもどかしさを感じてしまう。
美音とリカは、月に何度か店先で言葉を交わすだけの関係だ。その美音に告げられることを、なぜ夫であるユキヒロに言えないのか……
だが次の瞬間、それこそがリカなのだと思い直す。
この状況は自分のせいだと思い込み、自分を悩ませている相手に改善を求めることなど考えもしない。それどころか、自分のことで夫に迷惑をかけるなんて論外とでも思っているのだろう。
それでいて、舅、姑が自分をどう思っているかは気になる。だからこそ、美音に声をかけてきたのだろう。けれど、そこに、美音に状況をなんとかしてもらいたいなんて気持ちは微塵もないのだ。
何をしてほしいわけじゃない。話を聞いてくれただけで十分――
そんな思いが、リカの表情から滲み出ていた。
きっとリカは、今夜も映画を観て泣くつもりに違いない。涙を流すことはストレス発散のひとつの方法だといわれているし、今のリカにはそれ以外に方法はない。
「やっぱり、ユキヒロさんに言うべきだと思うけど……」
リカの性格を考えたら、無理な話だとわかっていても、美音にはそんなことしか言えなかった。そんな美音の言葉に、リカは弱々しく笑う。
「ユキヒロさんには言えません。言ったら、きっとすごく怒りますから……」
「え? リカさんが怒られちゃうってこと?」
「じゃなくて!!」
咄嗟にリカの声が大きくなった。そんな人じゃないの、と必死でユキヒロを庇おうとするリカに、この夫婦の根本的な信頼関係が窺える。
リカは心底ユキヒロが好きで信頼しきっているからこそ、慣れない客商売、しかも同居という環境に飛び込んでこられたのだろう。にもかかわらずこの状況だ。美音には痛ましいとしか思えなかった。それなのに、リカはどこか嬉しそうに言う。
「ユキヒロさんって、ああ見えて怒ったらすごいんです。私をすごく大切にしてくれてますから、私がお隣の女将さんにひどいことを言われてるって知ったら、お隣に怒鳴り込んじゃいます」
東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、帰宅しようと外に出たとたん、空気の冷たさに身を震わせた。
十一月も終わりに近づき、夜中はもうかなり冷え込む。そろそろ厚手のコートを出さなければ、と思いつつ美音は引き戸に鍵をかけた。
あたりに人影はなく、通りは静まり返っている。一日の仕事を終えた疲れと、軽い充実感を覚えながら美音は自宅に向けて歩き出す。
商店街で一番遅くまで営業しているのは『ぼったくり』なので、この店の灯りが消えると商店街を照らすのは街灯のみとなる。かつては暖かみのあるオレンジ色の電球だったが、LEDに変えられた今、青白い光が空気の冷たさに拍車をかけているように思えた。
だが、美音がそれよりも残念に思うのは、LED照明の明るさそのものだ。
確かに電球よりもずっと遠くまで灯りが届き、省エネにもなるというのはいいことである。けれど、ただでさえ都会は明るすぎて星が見えないと言われているのに、照明すべてがLEDになってしまったら、今まで以上に星を見つけにくくなるのではないか、と心配になるのだ。
よく晴れた夜、星座を探しながら帰るのは、美音の楽しみのひとつだった。今のうちに堪能しておいたほうがいいのかしら……と思いながら、美音は空を見上げる。
――オリオン座があんなところに。今年ももうすぐ終わっちゃうのね……
例年この時期になると、年の瀬までにやらなければならないことが次々に頭に浮かんで焦燥感に駆られる。毎年のことなのに、どうしてもっと計画的にできないのかしら、と情けなくなるほどだ。
とはいえ、おせちの食材は年の瀬にならないと店に並ばないし、あまり早々と大掃除をしてしまうと年明けまでにまた汚れてしまいそう……なんて自分に言い訳をしながら、ふと腕にかけていた鞄を見た。
――なんだか膨らんでいるような気がする。
いつもと違うものでも入れてたっけ? と、首を傾げた次の瞬間、美音はぎょっとした。
「忘れてた!」
鞄をわずかに膨らませていたのは、黒い不織布のケースに入れられた映画のDVDだった。
駅前のレンタルショップで借りたもので、期限は今日まで。仕込みを終えたあと、散歩がてら返しに行けばいいと思って持ってきたのだが、今日は思ったよりも仕込みに時間がかかってしまった。
そのせいで散歩はショートコースに変更、駅まで行くことができなかったのだ。
こんなことなら妹の馨に頼めばよかった、自転車ならすぐだったのに……と大きなため息が出てしまう。
期限は今日までというものの、件のレンタルショップにおける『今日』の定義は、翌日の開店時刻までだ。開店時刻は朝十時だから、それまでに返却ボックスに入れれば問題ないとはわかっているが、夜のうちに返しに行ったほうが安心。なにより、この時間ならまだレンタルショップは営業中だから、別の作品を借りることもできる。
美音は鞄からスマホを取り出し、馨に帰宅が遅れるというメッセージを送信した。
すぐに馨から、『こんな時間に駅まで行くの?』という返信が来る。続いて、驚いているアザラシのスタンプも。やむなく、再度メッセージを送って事情を説明すると、ため息をつくアザラシと、『とにかく気をつけて』というメッセージが返ってきた。姉の性格と、レンタルDVDの返却という用向きから考えて、やむを得ないと判断したのだろう。
続いて届いたのは、『自転車が置きっぱなしになってるから使って』というありがたい言葉だった。
そこに至ってようやく美音は、馨が今、家にいないことを思い出した。美音より少し早く仕事を終えた馨は、このあと彼氏の哲と会うことになっている、と嬉しそうに出ていった。ぎりぎりバスのある時間だったから、自転車をおいてバスで駅に向かったのだろう。
『ぼったくり』から駅までは、かなりの距離がある。だが、店を閉めたこの時間、バスはもう終わっているため、歩くしかない。正直、けっこう時間がかかるなあと思っていたのだ。自転車なら歩くよりもずっと早いし、安全だ。
『ありがとう! すごく助かる!』というメッセージに、『どういたしまして。でも本当に気をつけて!』という言葉と困り果てた顔のスタンプが返ってきて、姉妹のやりとりは終了した。
こんな時間に駅まで、しかもひとりで行くのは危ないとわかっている。恋人である要に知られたらとんでもなく叱られるだろう。
だが、明日の朝に回してしまえば、急用が入って返しに行けなくなる可能性もある。無駄に延滞料を払うのは嫌だったし、何よりこの時間なら人も少ない。周りを気にせずゆっくりと、次に借りるDVDを選ぶことができるのだ。
そうやって借りてきた古い映画やドラマを観ることは、星座探し同様美音の楽しみのひとつだった。
無事にDVDを返し終えた美音は、次に借りるものを探そうと店の奥に入っていった。
店内は人影もまばらだったが、やはり人気があるのか、新作コーナーにだけは客がそれなりに見受けられる。
とはいえ新作はレンタル料も高いし、貸し出し中ばかり。それよりも旧作の名画や家族向けのドラマのほうが気楽、ということで、美音が新作を借りることはほとんどなかった。
例によって新作コーナーを通り過ぎ、旧作名画のコーナーに入った美音は咄嗟に足を止めた。そこにいた客に見覚えがあったからだ。
ずらりと並んだ旧作名画のDVDを手にとって眺めては戻し、また次を……とやっているのは、つい最近『加藤精肉店』の息子、ユキヒロと結婚したばかりのリカだった。
ふたりの結婚に先立ち、リカの兄は『加藤精肉店』界隈に聞き合わせに現れた。
その際、『ぼったくり』にも立ち寄り、常連たちから『加藤精肉店』についての話を聞いたのだ。もちろん常連たちは、早々に聞き合わせだと察し、縁談に差し障るような話は一切しなかった。にもかかわらず、リカの兄は家族にあまりいい報告をしなかったらしく、『加藤精肉店』の店主ヨシノリは、息子の縁談が壊れてしまうのではないかとずいぶん心配していた。
リカの兄にしてみれば、妹は内気だから客商売に向かない、肉屋の跡取りと結婚したら苦労するのではないか、という懸念があったようだ。それでも本人たちの意志は固く、ふたりがかりでリカの家族を説得し、無事結婚に漕ぎ着けた。
当初、跡取り息子の結婚ということで、さぞや盛大な式を挙げるのではないかと噂されたが、本人たちも家族もいわゆる『ジミ婚』志向。大がかりな披露宴はやらずに神前式と家族だけの食事会に留めた。その後、ヨシノリ一家は揃って商店街の端から端まで挨拶に回り、住民たちはこぞってふたりの結婚を祝ったのだった。
結婚後、リカはヨシノリ一家とともに店頭に立つようになり、肉を量ったり包んだりと少しずつ仕事を覚え始めた――それが三ヶ月前のことである。
普段美音は『ぼったくり』で使う食材を配達してもらっているため、店頭に足を運ぶことはあまりない。
とはいえ、仕込みを終えたあと、献立に物足りなさを感じて急遽一品加える場合がある。予定外の料理だから、食材の用意がなければ買いに行くしかない。そんなこんなで、昼下がり、買い物に行くのだが、昼下がりは客が少ない時間帯とみえて、どの店も交代で休憩を取っているらしい。店頭にいるのはせいぜいひとり、時には誰もいなくて、奥に向かって呼びかけて出てきてもらうこともあった。『魚辰』しかり、『八百源』しかりである。
そんな中、『加藤精肉店』が無人だったことはなく、大体の場合、リカがひとりで店番をしていた。
客が注文した肉のトレイを取り出して、真剣そのものの表情で量る。丁寧に包んで、たどたどしく礼を言う――そんなリカの姿は初々しく、とてもかわいらしい。『加藤精肉店』の看板は字が消えかけているけれど、この看板娘がいれば十分事足りると美音は思っていた。
「リカさん?」
「あ……美音さん。こんばんは」
ユキヒロと一緒かと思ったが、あたりに姿は見えない。どうやらリカもひとりで来たらしい。仲むつまじく暮らしていると思っていたのだが、こんな深夜にひとりでいるところをみると、そうではなかったのだろうか。
リカは既に、一本や二本ではない数のDVDを手にしているのに、さらに物色中の様子。おそらく彼女の趣味は映画鑑賞なのだろう。いかにも『肉屋の若嫁さんは控えめで大人しい』と噂される彼女に相応しい、ひとりでひっそりと楽しめる趣味だと思う。
リカは検索機で出力してきたらしき用紙と、DVDが並べられている棚を見比べては首を傾げている。データ上はそこにあるはずなのに、見つからなくて困っているようだ。書店やレンタルショップではよくあることだった。
「見つからないの? もしよければ、一緒に探しましょうか?」
「あ……」
リカは一瞬ためらったようだが、どうしても観たい作品だったらしく、手にしていた用紙を美音に示した。それはかなり古いフランス映画だった。
「ああ、これ……私も観たことがあるわ。でも、ずいぶん前の作品だから、置いているお店が少ないのよね」
「そうみたいですね」
そんな言葉を交わしつつ、しばらく探した結果、その作品を見つけたのは美音だった。本来あるべき場所から少し離れた棚に紛れ込んでいたのだ。
「あった! リカさん、これじゃない?」
「これです、これです。こんなところに入り込んでたんですね……」
リカは、美音が差し出したDVDを嬉しそうに受け取った。その時点で、美音も自分が借りる作品を選び終わっていた。リカの捜し物を手伝っている間に、かねてから観たいと思っていたタイトルを見つけたのだ。
本日はこれにて終了、ということで、ふたりは一緒にレジカウンターに向かった。
深夜だったせいか、稼働しているレジはひとつしかない。美音はリカに先を譲り、後ろに並んで自分の番が来るのを待っていた。
間隔をあけて立っていたわけではないので、店員がレンタル処理をするために並べたDVDのタイトルが自然と目に入ってくる。
リカが借りようとしていたのは、誰もが知っている有名作品ばかり。しかも、そのすべてが『全世界が泣いた!』なんて煽り文句がつけられるようなものだった。
リカさんは泣ける映画が好きなのね……と考えていると、リカが不意に振り返った。
「すみません。私のほうが借りる本数が多いんだから……」
美音さんを先にしてもらえばよかった――おそらく、リカはそんな詫びを口にするつもりだったのだろう。だが、振り向いたとたん、美音の視線がどこに向かっているかに気付いたらしい。リカの言葉が途切れる。咄嗟に美音は謝った。
「ごめんなさい。感じ悪いわよね……」
「いえ……」
そう言うとリカはカウンターに向き直り、手続きが終わったDVDを受け取った。そのまま店を出るかと思ったら、少し離れたところで立っている。
美音は気まずい思いを少々もてあまし、いっそ先に帰ってくれないかなと思ったが、彼女はやはり動かない。どうやら美音を待っているらしい。
確かにこんな時間だ、ふたりで帰ったほうが安心には違いない。ということで貸し出し手続きを終えた美音は、リカのところに向かった。
やっぱり気まずいな、と思いながら歩いていくと、リカは美音以上に緊張の面持ちをしていた。
「あの……美音さん」
声になんだか必死な様子が窺える。リカが借りた映画のタイトルを見ていたことについて文句を言われるわけではないらしい、とほっとしていると、リカはためらいがちに、少し時間をいただけないか、と訊いてきた。
時間が時間だし、早く帰りたい気持ちはある。だが、こんなに思い詰めたような顔のリカを捨て置くことなどできなかった。
「じゃあ、帰りながら話をしましょうか」
リカは時計を確かめ、こっくりと頷いた。
「あ、でも私、自転車で……」
「私もよ」
自転車で走りながら会話をするのは難しい、ということで、ふたりは自転車を引いて帰ることにした。だが、リカはなかなか口を開こうとしない。いつまでも自転車を引っ張って歩くのもなんだし、美音はこちらから水を向けてみることにした。
「それでリカさん、何か私に訊きたいことでも?」
「あの……お義母さん、私のことなにか言ってませんでしたか?」
「え、タマヨさん?」
タマヨというのはヨシノリの妻だ。ヨシノリ夫婦とユキヒロ夫婦は、『加藤精肉店』の二階と三階に住んでいる。
タマヨは、美音が買い物に行ったり、注文の電話をしたりすると、気軽におしゃべりしてくれるが、リカについて話しているのを聞いた覚えはなかった。
「特に何も……。リカさん、何か気になることでもあるの?」
「あの……私、気が利かないし、やっぱりお店の仕事に向いていないみたいで……」
失敗ばっかりなんです……とリカは消え入りそうな声で言う。
「お義母さんやユキヒロさんみたいに元気に挨拶もできないし、お客さんの注文も一度で聞き取れなくて訊き返したり、間違えてばっかり。お肉を量るのも下手で、なかなかお客さんのおっしゃる量にできないんです。もう三ヶ月も経つのに、お義母さんたちに迷惑をかけてるのが申し訳なくて……」
「もう三ヶ月って……。どっちかっていうと、まだ三ヶ月、だと思うけど……」
リカは結婚するまで、事務機器メーカーで事務員をしていたそうだ。学生時代のアルバイトまで含めても、接客業に就いたことはないという。それなのに下町の肉屋に嫁いできて、夫の親と同居までして頑張っている。しかも、まだ三ヶ月しか経っていないのだ。
『加藤精肉店』に入って三十年にもなるタマヨや、肉屋で生まれ育ったユキヒロと同じようにできるわけがない。
何をそんなに焦っているのだろう、と考えていると、リカがぽつりと漏らした。
「私もマリさんぐらいテキパキできれば……」
その言葉で、ようやく美音はリカを悩ませている原因に思い当たった。
『加藤精肉店』の隣に『豆腐の戸田』という屋号の豆腐店がある。
『豆腐の戸田』にはシュンという跡取り息子がいるのだが、シュンとリカの夫ユキヒロは同い年、しかもシュンも二ヶ月前に結婚したばかりだった。その結婚相手が、先ほどリカが名前を出した、マリという女性である。
美音から見ても、マリは、客商売をするために生まれてきたのではないかと思うような人だ。豆腐屋の仕事にもあっという間に馴染み、親夫婦との関係も良好。豆腐屋の女将ショウコはいつも嫁自慢をしている。
マリ自身は、人に嫌な思いをさせるような人ではない。リカを悩ませているのは、ショウコの自慢話ではないか、と美音は推測した。なぜなら、美音もまた、ショウコの自慢話を耳にしたことがあったからだ。それは、例によって昼下がり、翌日の朝食に使おうと『戸田の豆腐』に油揚げを買いに行ったときのことだった。
『うちの嫁はすごくできた人だ。商売にもそつがないし、家事だってうまい。本当にいい人に来てもらった』
ショウコは得意げにそんなことを言ったあと、『加藤精肉店』のほうを見て嗤った。『笑った』ではなく『嗤った』のだ。
『あんなに不器用なお嫁さんじゃなくてよかった。加藤さんとこは大変だね』
正直、美音はうんざりした。
そもそもショウコという人は口が悪い。『悪い』というよりも『汚い』と表現したくなるほどで、近隣の評判も思わしくない。
確かにこの町の住民は、総じてはっきりものを言う傾向がある。だが、そこには相手を思いやる気持ちが窺えるし、真に相手を傷つけるようなことは言わない。だからこそ、言われた相手も、あーあ、言われちゃった、などと笑って済ますことができた。
だが、ショウコはそんな町の人たちとは全然違う。なんでもかんでも比較して、少しでも自分が優位に立とうと躍起になるのだ。
馨は、ああいうのをマウンティングっていうんだよ、とさも嫌そうな顔で言うし、町の人たちも、実力のない奴ほどそういうことをやりたがる、と憤慨することしきり……
ショウコの舌禍事件については枚挙にいとまがないが、とにかく彼女は、善人揃いのこの町内においてかなり特異な存在だった。
そういったこともあり、リカを貶し始めたショウコに、最初は町内の人たちも、またか……と呆れただけだった。
ところが、ひとしきり貶せば気が済んで、矛先も変わるだろうと思っていたのに、今回はいっこうにやむ気配がない。見るに見かねた人々が、口々に注意しても本人は欠片も反省しなかった。
『ほんとに大変なことを大変だと言ってるだけじゃないか。これでもあたしは心配してるんだよ。うちのマリに、客商売や家事のコツを教えさせたいぐらいだ。マリは隣の嫁さんより若いのに、なんでも上手にできる。見上げたもんだと思わないかい?』
などと、言い返すらしい。その上、リカに面と向かって言ったそうだ。
『あんたも商売をしてる家に嫁に来たなら、もうちょっとやりようがあるだろう。いつまでもOL気分ですかしてないで、うちのマリを見習ったらどうだい』
リカは、そうやってちくりちくりと言われても、反論することもなく控えめな笑顔を崩さない。おそらく、内心にはこみ上げるものがあっただろう。それでも、相手は長年のお隣さんだし、ましてや嫁に来たばかりの身である。反論すればさらに問題は大きくなる、とでも考えて我慢していたのかもしれない。
それが、ここにきてとうとう耐えられなくなって……というのが、リカの現状ではないか、と美音は思ったのだ。
とはいえ、確証などない。推測はあくまでも推測ということで、美音は単刀直入に訊いてみることにした。
「もしかして、ショウコさんのことで悩んでるの?」
「……やっぱり、わかっちゃいますか。これでも、家の中では頑張って隠してたんですけど」
リカは、ふう……とため息をついた。
結婚してから三ヶ月、毎日一生懸命やっているつもりだが、ちっとも上達しない。夜になると落ち込みはさらにひどくなり、くよくよと考えて眠れない。やむなく家族が寝静まったのを見計らっては抜け出し、DVDを借りに来ていたそうだ。
「うっかり物陰とかで泣いてたら、ユキヒロさんやお義父さん、お義母さんに心配をかけちゃうでしょう? 映画を観ていれば平気かなと思って……」
「それであんなに悲しい映画ばっかりを……」
自営業の親夫婦と同居し、自分もその仕事を手伝っているとあっては、ひとりきりになれる場所も時間もほとんどない。
昼下がりにひとりで店番をすることはあるが、店で泣くのは論外だ。そんなところを見られたら、また隣の女将さんに咎められる。だからこそ、映画を観ながら泣いていたのだ、とリカは語った。それなら、感動して泣いているのだろうと思ってもらえると……
泣くことにすら、そこまで気を遣わねばならないリカがあまりにも哀れで、美音は言葉を失う。
DVDを次々再生し、映画を観ているふうで、その実、どんな台詞も頭に入っていない。泣いてもおかしくない内容に紛れて、自分の至らなさに涙するリカ。痛ましいとしか言いようがなかった。
「なんてこと……。それって、ユキヒロさんは知っているの?」
つい非難めいた口調になるのを止められなかった。ショウコはさておき、自分の妻がこんなに辛い思いをしているのに、夫は何をしているのだ、と腹が立ってくる。
「知らないと思います。自分で言うのもなんですけど、そういう意味では私、本当に頑張ってるんですよ。だからユキヒロさんは、私が泣いてるのは映画のせいだって思い込んでるはずです。『お前は本当に泣ける映画が好きだなあ、俺はもっと楽しくて笑えるのが好きだけどな』って言われますから」
リカは、ちょっと得意そうな顔になった。だが、その顔を見た美音は、さらにもどかしさを感じてしまう。
美音とリカは、月に何度か店先で言葉を交わすだけの関係だ。その美音に告げられることを、なぜ夫であるユキヒロに言えないのか……
だが次の瞬間、それこそがリカなのだと思い直す。
この状況は自分のせいだと思い込み、自分を悩ませている相手に改善を求めることなど考えもしない。それどころか、自分のことで夫に迷惑をかけるなんて論外とでも思っているのだろう。
それでいて、舅、姑が自分をどう思っているかは気になる。だからこそ、美音に声をかけてきたのだろう。けれど、そこに、美音に状況をなんとかしてもらいたいなんて気持ちは微塵もないのだ。
何をしてほしいわけじゃない。話を聞いてくれただけで十分――
そんな思いが、リカの表情から滲み出ていた。
きっとリカは、今夜も映画を観て泣くつもりに違いない。涙を流すことはストレス発散のひとつの方法だといわれているし、今のリカにはそれ以外に方法はない。
「やっぱり、ユキヒロさんに言うべきだと思うけど……」
リカの性格を考えたら、無理な話だとわかっていても、美音にはそんなことしか言えなかった。そんな美音の言葉に、リカは弱々しく笑う。
「ユキヒロさんには言えません。言ったら、きっとすごく怒りますから……」
「え? リカさんが怒られちゃうってこと?」
「じゃなくて!!」
咄嗟にリカの声が大きくなった。そんな人じゃないの、と必死でユキヒロを庇おうとするリカに、この夫婦の根本的な信頼関係が窺える。
リカは心底ユキヒロが好きで信頼しきっているからこそ、慣れない客商売、しかも同居という環境に飛び込んでこられたのだろう。にもかかわらずこの状況だ。美音には痛ましいとしか思えなかった。それなのに、リカはどこか嬉しそうに言う。
「ユキヒロさんって、ああ見えて怒ったらすごいんです。私をすごく大切にしてくれてますから、私がお隣の女将さんにひどいことを言われてるって知ったら、お隣に怒鳴り込んじゃいます」
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