居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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8巻

8-2

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「ハルくんのおじいちゃん、どこか具合が悪いのかしら?」
「ぼけちゃったんだって」
「ぼけちゃった……?」
「なんでも忘れちゃうって、ママが言ってた」

 認知症が始まっているのだろうか。年齢からすれば決しておかしくはない。
 身体が丈夫なままに認知症が始まると、確かにまわりは皆困った顔になる。
 どこも悪くないのに、記憶がどんどん消えていく。家族の顔も忘れるし、食事をしても食べたこと自体を忘れてしまう。
 外に出かけても家に帰る道順を忘れ、排泄や睡眠のリズムが狂い、昼夜が逆転。家族はその対処に困り果てる。
 おそらくハルキはそんな両親の顔を思い出して、自分も困った顔になっているのだろう。

「もうすぐ『かいごしせつ』ってとこにいくんだって……」

 パパがそう言ってた、と呟いたあと、ハルキは泣きそうな顔になった。
 美音と馨は顔を見合わせてため息をつく。
 以前、『ぼったくり』の客であるノリが、沖縄の祖父のことを心配して相談を持ちかけてきたことがあった。だが、ノリの祖父は認知症とはいえ、初期も初期。介護サービスの助けを得ながら、まだまだひとりで生活ができる状況だった。ハルキの祖父はそこからさらに症状が進んでいるのだろう。
 家族は介護に疲れ果て、もう一緒には住めないと判断したに違いない。なんとも切ない話だった。

「お父さんとお母さんは、お仕事をしてらっしゃるの?」
「せんせい」
「ふたりとも?」
「うん」

 ああ、それは厳しい。あまりにも厳しい状況だ……
 美音はさらに気が重くなる。
 昨今の教員は激職だ。昔だってそうだったのだろうが、最近は特に、子どももその親も意識が高いというか、とにかく難しい。学校にまつわるあらゆることに時間を取られ、自分たちの家族のためにける時間はどんどん減っていると聞く。
 そこに介護の必要な認知症の親を抱えては、仕事はおろか、生活そのものに支障をきたす。
 仕事への責任感と年老いた親の介護。そのふたつを天秤にかけるなんて間違っているとわかっていても、あえてそれをしなければならない。そして、苦渋の選択で介護施設を選ぶ。
 介護施設はどこも入所待ちの長い列ができている。受け入れ先があったこと自体がラッキーなのだ、自分たちの至らぬ介護を受けているよりもそういう施設に入ったほうがずっと厚い介護を受けられるのだと、自分たちに言い聞かせて……
 ハルキの家族の事情はわかった。だが、それとサツマイモの茎の関連性は未だに不明だ。馨は諦めることなく、ハルキから答えを引き出そうとしていた。

「それで、どうしてサツマイモの茎なのかな?」
「何が食べたい、って聞いたらサツマイモって……」

 介護施設に行く前に、せめて好きなものを食べてもらいたい――
 そんな思いから、家族は祖父に好物をたずねたのだろう。

「ママ、いろいろ作ったんだ……」
「焼いたり、蒸したり?」
「天ぷらとか……あと、なんかお菓子みたいなのも……」
「スイートポテトとか大学芋かな? バターが入ってたり、甘いタレがついたり……」
「あ、うん、そういうの……」

『サツマイモ』という答えが返ってきたため、焼き芋や蒸し芋、天ぷら、唐揚げ、スイートポテトや大学芋、きんとんに芋ようかんに至るまで、およそ考えられる限りのサツマイモを用意したのだろう。けれど、そのいずれにも、ハルキの祖父は首を横に振ったらしい。

「もう考えつかないってママが言って、それでおじいちゃんが『クキ』って……」

 それで家族は、ハルキの祖父が食べたいのはサツマイモそのものではなく茎なのだと察した。だが、茎だと聞いた家族はもっと困り果てた。
 サツマイモの茎なんて店で売っているものではない。ハルキの両親もなんとかならないかと努力はしたに違いないが、やはり手に入らなかったのだろう。
 おじいちゃんの介護施設の入所日は迫る。せめて家にいる間に好きなもの、食べたいものを食べさせてあげたい。それなのに、おじいちゃんが一番食べたいものは手に入らない。

「それでどうしたの?」
「ぼくが知ってたの」
「サツマイモの茎があるところ?」
「うん。学校」
「あ、そうか……理科でやるよね!」

 確かに、このあたりの小学校ではサツマイモの栽培をする。美音も馨もやった記憶があった。
 ハルキの言葉で、小学校の教員をしている父親は、四年生が理科の授業でサツマイモを育てていたことを思い出したそうだ。
 だが、学校に行けばサツマイモの茎がある! と家族が顔を輝かせた次の瞬間、父親ががっくりうなだれたという。

「なかったんだって」

 ハルキの父いわく、十月に入ってすぐに四年生たちが大騒ぎで芋掘りをしていた。
 大きい、小さい、太い、細いと、それぞれが掘った芋を比べ合っていたし、給食のメニューにも入れられていた。先週のことだから、もう茎は処分されているだろう。
 近隣の小学校にしても幼稚園にしても、たいてい十月早々に芋掘りを終わらせる。だから、今年はもうどこも終わっているはずだ。農家を探し出したところで同じだろう、と両親が話していたそうだ。

「でもぼく……」
「諦められなかった?」
「そうなの」

 家庭環境から想像すると、小さいころからハルキの世話をしてきたのは祖父母なのだろう。
 ハルキにしてみれば、いつもそばにいてくれたおじいちゃんとおばあちゃんだ。おばあちゃんの話は全然出てこないから、今はおじいちゃんだけなのだろうが、とにかく一緒に遊んだり、勉強を見てくれたり、おやつを用意してくれたりした人なのだ。
 認知症になって、いろいろなことを忘れてしまったからといって、ハルキがおじいちゃんのことを忘れたわけじゃない。大好きなおじいちゃんのために、なんとかサツマイモの茎を探したい。
 そんな気持ちがあっても不思議ではなかった。

「ぼく、探したんだよ」

 学校が終わってから、あちこちを探し回った。もしかしたらどこかの学校に残っていないか、庭に生えていないか、と目を皿のようにして探した。その結果、ようやくあおはずく幼稚園の園庭に残っているサツマイモを見つけたのだ、とハルキはちょっと自慢げに言った。
 それを聞いて美音は、ウメの話を思い出した。

「そういえば、予定していた日が台風と重なって、お芋掘りがずいぶん遅れたってウメさんが言ってたわ」

 おそらく、今年のあおはずく幼稚園のお芋掘りは、この界隈で最後だったに違いない。最後の芋掘り、最後のサツマイモの茎……ハルキはそれを見つけたのだ。

「いつ見つけたの?」
「昨日」
「誰かに知らせた?」
「パパとママ」

 夕食の席でハルキから話を聞いた両親は大喜び。早速、明日にでも園に頼んでみると言ってくれたそうだ。

「でも、やっぱりなかったの」

 ハルキの目から涙がこぼれそうになっていた。きっと、そのときの失望を思い出したのだろう。
 幸い今日は小学校の先生たちの研修会があるそうで、給食を食べて下校になった。
 家に飛んで帰るなり、あの幼稚園に行ってみたのに、畑にはもうサツマイモはなく、茎もなかった。

「タッチの差で、掘られちゃったってわけか……」
「朝一番で茎を切って、袋に詰めてゴミ収集に出しちゃったんでしょうね」

 サツマイモの一本の苗から育つ茎はかなり長い。畑全体ともなればけっこうな量になるし、園庭にいつまでも置いておくわけにもいかない。朝一番で茎を切って、ウメが持ち帰りそうな分だけを残して処分したに違いない。
 せっかく見つけた最後のサツマイモだったのに、と泣きそうになっていたとき、目の前を大きなレジ袋を持ったおばあさんが通った。袋には、なんだかツルのようなものが入っている。
 あれはもしかして……!? と思ったハルキは一生懸命そのおばあさんを追いかけて、『ぼったくり』に辿り着いた。
 おばあさんは店の中に入り、しばらくして出てきたときにはもう袋は持っていなかった。
 この店は食べ物屋さんみたいだし、おばあさんに譲ってもらうよりもお金を出して買えるならそのほうが簡単かもしれない。
 急いで帰って自分のお小遣いが入っている財布を持って戻ってきたものの、店に入る勇気はない。かといって帰るに帰れず、ずっと様子をうかがっていた――
 一語ずつしか進まないもどかしい会話の果て、ようやくハルキから聞き出したのはそんな事情だった。

「はあ……ハルくん、すごいよ。よくそれだけひとりで考えられたね」

 馨がひどく感心している。
 言葉はものすごく――もしかしたら年齢以上につたないのに、頭の中は随分しっかりしている。男の子ってこういうものなんだろうか……と美音と馨は本当にびっくりしてしまった。

「それで、おじいちゃんにサツマイモの茎を持っていってあげたいのね?」

 そう言った美音に、ハルキは大きくこっくり頷いた。

「よくわかったわ。どれぐらいあればいいのかしら?」

 美音にたずねられ、ハルキはまた赤い財布を差し出した。

「これだけ……」

 美音はその財布をじっと見た。
 お腹が空いた子どもに自分の顔を差し出して食べさせるヒーローが、力強く拳を突き出している。
 ハルキはそのヒーローのように、自分の身を削ろうとしていた。
 お小遣いが入った、大事な財布。小銭ばかりかもしれないが、けっこう膨らんでいる。もしかしたら、ほしいものがあって貯めていたのかもしれない。この財布からお金を出させるなんてできるわけがなかった。
 ところが、美音の困ったような視線をハルキは逆の意味に取ったらしい。

「足りない……?」

 また泣きそうになっているハルキの頭をくるくると撫で、美音は言った。

「お金はいらないわ」
「でも、知らない人からものをもらってはいけません、ってパパもママも先生も!!」

 そこだけやけにすらすら言うところを見ると、日頃から何度も言い聞かされているのだろう。
 やっぱりね……と思いながら、美音はサツマイモの茎のきんぴらを小さな使い捨て容器に詰めた。その一方で、馨に指示して、メモ用紙に『ぼったくり』の連絡先と美音の名前を書かせる。
 そして最後に、両方を紙の手提てさげ袋に入れた。

「このお店の連絡先を入れておくから、お父さんかお母さんに見せてね。それで、ここに電話してくださいって伝えて。そしたら、どうしてこういうことになったか説明してあげるから」

 美音の言葉に馨が追加する。

「ハルくんはちゃんと説明できると思うけど、お母さんたちもそのほうが安心するから」

 親と子どもの両方に接する機会が多い教員夫婦なら、子どもは時として、自分に都合のいい説明しかしない場合があることを知っているはずだ。
 それがゆえに、我が子の説明に不安を覚えるかもしれない。それに、どこの誰からもらったかわからない食品を口にするのは怖いに決まっている。

「お忙しいところ申し訳ありませんが、なるべく早く電話してください、って伝えてね。そしたらおじいちゃんにも早く食べていただけるから」

 勝手におじいちゃんに食べさせちゃ駄目よ、と念を押して、美音はハルキを店の外に送り出した。
 もう本当に暗くなる寸前だ。急いで家に帰さないと、と焦る気持ちが大きかった。

「じゃあね、ハルくん。気をつけて帰ってね」

 小さな紙袋を提げ、大きく手を振ったあと、ハルキは飛び跳ねるように帰っていった。


 ハルキが店をあとにしてから一時間半後、『ぼったくり』の電話が鳴った。
 店は既に開店、サツマイモの茎を楽しみにやってきたウメが、いつもの焼酎しょうちゅうの梅割りを一口呑んだところだった。
 ハルくんのおうちの方かしら……と思いながら受話器を取ってみると、礼儀正しい挨拶が聞こえてくる。

「お忙しい時間に失礼いたします。わたくし真田さなだと申しますが……」

 続けて、息子が大変お世話になりました、という言葉が聞こえる。やはり電話の主は、ハルキの母親だった。いかにも学校の先生らしい、落ち着いたしっかりした話し方である。だが、その声の裏に、あまりにも怪しげな店の名前に戸惑っている様子がうかがえた。

「お店を開ける準備をされていたのでしょう? そんな時間に、うちの子が面倒をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。開店に間に合わなかったりなんてことは……」
「大丈夫ですよ。そんなに面倒ってこともありませんでしたし」

 既に出来上がっていた料理をお裾分けしただけだ、と言う美音に、ハルキの母は、ためらいがちに続ける。

「でも……あの子から話を聞き出すのは、大変だったんじゃありませんか?」

 その言葉から、彼女の常日頃の苦労がしのばれた。きっと、ハルキの言葉のつたなさを詫びる機会が多いのだろう。確かにハルキは語彙ごいが少ないように見える。だが、彼が何も考えていないかと言えば、決してそうではない。むしろ、少ない言葉の端々から聡明さがにじみ出ているように美音には思えた。

「正直、最初は戸惑いました。でも、こちらがたずねたことにはちゃんと答えてくれましたし、問題ありません。というか……ハルキくんは、すごくしっかりした考えを持ってますよね」

『しっかりしている』ではなく、『しっかりした考え』と強調するように言った美音に、ハルキの母親の声が少しだけ明るくなった。

「ハルキは、自分が考えていることを説明するのが本当に下手なんです。家族は慣れているから不自由しませんが、初めて会う方だと特に難しいみたいで……上手く話せないと本人も焦りますし、余計に伝わらなくなってしまうんです」

 よくぞ、根気よくあの子の話を聞いてくださいました、と電話の向こうで頭を下げた気配が伝わってきた。

「ハルキくんは、おじいちゃんのことが大好きなんですね」
「生まれてからずっと、ハルキの世話はしゅうとしゅうとめに任せきりだったんです。本当によく面倒を見てくれて、あの子もすごく懐いていました。それなのに、こんなことに……」

 私が仕事をしていなければ、うちで介護することもできたかもしれないのに、とハルキの母はまた沈んだ声になった。
 ハルキの話の中に、『おじいちゃんはパパのパパ』という説明があった。ハルキの母親から見れば舅ということになる。おそらく、介護施設に入所させるにあたっての心理的な壁は相当なものだっただろう。認知症は確かに進んでいるが、自分が仕事さえしていなければ、まだまだ家にいてもらえたかもしれない、と今なお自分を責めているに違いない。
 ――ノリくんのお祖父さんの問題を聞いたばかりなのに、またこんな話を聞くなんて……
 美音は改めて介護問題の身近さを感じながら、なぐさめるような声を出した。

「差し出がましいことを申しますが……あんまりご自分をお責めにならないほうがいいと思いますよ。私の父がよく言ってたんですけど、人には与えられた仕事があるんだそうです」
「与えられた仕事……?」
「ええ。真田さんの場合、それは学校で子どもにいろいろなことを教えることなんじゃないでしょうか。今までに、真田さんが先生として教え、導いたお子さんはたくさんいるはずです。同じように介護施設でお年寄りの世話をするのが仕事という人もいます。それぞれが、それぞれに与えられた仕事をするために、他の人に仕事を任せる。それでいいと私は思うんですけど……」
「そうでしょうか……」
「おそらく。真田さんも旦那様も、おじいさまを思う気持ちをちゃんとお持ちで、なんとかサツマイモの茎を探そうと努力されたんでしょう? ハルキくんはそれを見ていたからこそ、自分も探さなきゃ、って頑張ったんだと思います。ご両親の姿がそうさせたんですよ」
「……そうかもしれません」
「だから、大丈夫です。おじいさまはきっとわかってくださいます。あとは、それぞれが自分の仕事を頑張って、時間が許す限りおじいさまに顔を見せてさしあげれば……」
「そうですね」

 電話の向こうで、ハルキの母親はしばらく美音の言葉を噛みしめるように黙っていた。
 自分より明らかに年下である美音の、わかったような言葉に反発を覚えても不思議ではない。それなのに、彼女はちゃんと受け止めてくれたようだ。
 それは、子どもの生意気な理屈を聞き慣れ、それでも聞き取るべきはきちんと聞き取ってきた教師ならではの姿だろう。美音にはそんなふうに思えてならなかった。

「本当にありがとうございました。気持ちが楽になりました。それで……」

 代金をお支払いしたいのですが……と続いた母親の言葉を、美音は笑って否定した。

「ご心配なく。それ、元々無料ただなんです」
「と、いうと?」
「うちの常連さんが幼稚園からいただいてきたんですよ。その方はサツマイモの茎のきんぴらが大好きで、この時期になるとうちでお引き受けしてきんぴらを作ることになってるんです」
「なんてこと……お客さんからいただいたものを横取りしちゃったんですね……」

 しかも大好物を……と彼女はこの世の終わりのような声を出す。
 きっと、ものすごく真面目な先生なんだろうな……と、美音はハルキの母親にさらに好感を抱く。
 ここはひとつ、何が何でも安心してもらいたい。そんな気持ちで、美音は極めて明るく言った。

「大丈夫です。サツマイモの茎、けっこうたくさんありましたから」
「そうですか……?」
「ええ、大きな丼にいっぱい。好き嫌いが分かれやすいものでもありますし、残っても困ります」
「でも……」
「いいんです。そもそも、あれは子どもさんたちが育てたサツマイモ。いくら捨ててしまう予定の茎だといっても、それで商売するのはさすがに気が引けます。だから、サツマイモの茎のきんぴらはうちの店ではサービスメニューなんです」

 実のところ、無料で得たものであきなうことはいくらでもある。
 人参の葉もそうだし、ウメが毎年大豊作にするゴーヤもそうだ。けれど、さすがに子どもが育てたものはためらわれる。馨とも相談した結果、ウメが持ち込んでくるサツマイモの茎は、『お好きな方はいくらでも』ということで、鉢ごとカウンターに置くことにしたのだ。手間がかかるのに一銭にもならない。ウメがいつも悪いね、と繰り返すのもそのせいだった。

「どうかお気になさらないでください。もしも、おじいさまが気に入ってくださったら、来年もお裾分けします。連絡先を教えてくだされば、作ったときにお知らせしますよ。来年も、再来年も、その次の年も、ずっとずっとお元気で、召し上がっていただけるといいですね」
「はい……本当に……」

 美音の言葉に声をつまらせながら、ハルキの母親は自分の電話番号を告げる。
 今度、お店におじゃまさせてください、と言い添えて彼女は電話を切った。


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