居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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7巻

7-3

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 男は注ぎ足された湯飲みを持ち上げ馨に小さく頭を下げたあと、ため息まじりに答えた。

「病院か……。実はそれも調べてみたんだけど、なんせ予約がいっぱいで、てもらえるのは二ヶ月も先になるらしい。それじゃあ孫が生まれるのに間に合わない。待ってられないと思って自己流で始めてみたんだ」
「ああ、そういえばどこもいっぱいだって聞きますね。自己流じゃあますます大変でしょう?」
「家族はもともと俺のたばこをよく思ってなかったから、多少苦労するのは当然だ、みたいに言われちゃってさ」
「それはさらに辛いですね」

 そこで男は、うん……と小さく頷き、それでもきっぱりと言い切る。

「でも、生まれてくる赤ん坊のためにも絶対やめたいんだ」
「大丈夫ですよ、その意志があればきっとやめられます」
「そうかな」
「そうですよ。今はいいサプリメントも出てるみたいだし、そっちも調べてみたらどうですか?」

 禁煙サプリっていうらしいですよ、という馨の言葉に、男は思い当たったらしい。

「禁煙サプリか……聞いたことあるな」
「けっこう効果があるって評判ですから、是非調べてみてください」
「ああ、ありがとう」

 美音と馨に励まされて、男は自分に言い聞かせるように、絶対やめる、やめてみせる、と呟いた。

「だれかに当たり散らしたくなったら、うちに寄ってください」

 美音が、なんでもない風で男に言った。

「うちは居酒屋ですから、お客さんの愚痴ぐちや文句には慣れてます。家に帰ってご家族に当たり散らすよりも、うちで吐き出していってください」

 男の目が点になった。だめ押しのように、馨も付け加える。

「一回波が来て、やりすごしたら、しばらくは大丈夫って聞きます。ここでばーっと吐き出してから家に帰って、ちょっと奥さんと話とかして、あとは布団被って寝ちゃえばいいんですよ」

 いかにもな口調で言ってはみたが、実は単なる聞きかじり、それが本当かどうかは馨にはわからない。だが、男がうんうんと頷いたところを見ると『吸いたい波』というのはやはりあるのだろう。

「じゃあお言葉に甘えて」
「いつでも。下世話なものしか出ませんけど」
「馨!」

 つい皮肉が出て、姉の叱責しっせきが飛んできた。だが、馨が無礼を詫びるよりも先に、男が頭を下げた。

「それもすまなかった。言いがかりもいいところだ。本当は俺、さばは大好きなんだ。オランダ煮も赤だしもすごくうまかった」


 そう言って男は笑う。屈託のない笑顔に、馨はほっと胸をなで下ろした。

「たばこをやめると、舌の感覚が戻るそうですよ。食べるものがすごく美味しくなるって。だから、いろいろなものがもっと美味しく感じられるようになるかもしれません」
「ああ、それはいいな。励みになる」
「だから、頑張ってくださいね」
「ありがとう」

 そして男は、また寄らせてもらうよ……と帰っていった。


     †


「たばこか……」

 いつもどおりに遅い時刻に現れた客――かなめは、一瞬、目を宙に泳がせたあと後ろめたそうな顔になった。
 その様子にぴんときて、美音は要をじっと見つめる。

「もしかして、吸ってたことがあるんですか?」
「吸ってたっていうか……昔、一度だけ、吸ったことがある」
「昔? 要さん、それって、もしかしたら未成年のときだったんじゃ……」

 今現在、要が喫煙者でないことはわかっている。
 彼のどこからもたばこのにおいなんてしないし、母親と住む家にも、学生時代暮らしていたというマンションの部屋にもたばこの気配はなかった。こんな顔をするのは、違法行為に手を染めたという自覚があるからに違いない。
 美音の疑わしそうな眼差しに、要はあっさり頷いた。

「高校……あれは確か、二年生ぐらいのときだったかな」
「吸っちゃったんですか?」
「うん……まあ……」
「わあ……要さんって、不良だったんですね」
「そう言うなよ。一度だけだ。しかも、一本をまともに吸いきることすらできなかったんだから」

 そして、要はやましさ満載の表情のまま、たった一回きりの喫煙経験について語り始めた。


「親父がたばこを吸う人でさ、家に買い置きのカートンがあったんだ」

 コンビニや自販機でたばこを買うのはハードルが高いが、家にあるなら話は別だ。これ幸いと一箱くすねて、両親の留守を狙って火をつけてみた。
 自分の部屋だと臭いでばれるから、わざわざ父親の書斎にもぐり込んで……と要は思い出し笑いをしながら言った。

「ちゃんと吸えましたか? 初めてのときって、吸い方がわからないんじゃないですか?」

 どこかで、初めてのときは上手く火をつけることさえできない、と聞いたことがあった。ところが要はそのあたりは学習済みでのぞんだらしい。

「悪友の経験談とか聞いてたからね。火はちゃんとついた。ただ、学習しすぎて、初心者のくせに上級者みたいなことやっちまった」
「っていうと?」
「思いっきり肺に吸い込んじゃったんだ。ひどい目にったよ。気持ちは悪くなるし、頭はくらくらするし……もう二度とごめんだって思った」

 自分には無理だと判断し、さっさと火を消した。吸い殻は父親の灰皿に紛れ込ませてまんまと隠蔽いんぺいしたものの、残ったたばこの処分に困った。

「なるほど……一本だけしか吸ってないんですものね。で、どうしたんですか?」
「毎日、一本ずつ親父のたばこケースに戻した」
「ええっ!?」

 封が開いているたばこをカートンに戻すわけにはいかない。かといって、そこらに放置もできない。自分の部屋なんてもってのほかだ。処分に困った要は、父親の留守を見計らって書斎にもぐり込み、机の上に置いてあるたばこのケースに戻した。一度にたくさん戻すと気付かれる、ということで一日に一本ずつ……

「か、要さん……それってあまりにも……」
「馬鹿だって言いたいんだろう? そのとおり、いくら悪ぶってても根は真面目だったんだよ、おれは」
「どうして、外に持っていって捨てなかったんですか? 駅とか、コンビニとか、捨てる場所はいくらでもあるじゃないですか。そのほうがよっぽど簡単だったでしょうに……」
「だよなー。今ならそう思う。我ながら情けないよ。知恵が回らないというか、なんというか……」

 そう言うなり、要はがっくりとうなだれた。
 そんな要とは裏腹に、美音はこぼれる笑みを止められない。
 笑い続けている美音を見て、要が不満そうな声を上げた。

「そこまで笑わなくても……」
「ごめんなさい。忍び足でお父様の書斎に潜り込む要さんを想像したらおかしくて……」
「まあ、そうだろうな。でまあ、それでりた。それっきり、たばこにだけは手を出してない。お利口だろ?」
「ですね。お父様のたばこに感謝です。きっと強いたばこだったんですね?」
「だろうな。白くてあっさりした感じのパッケージだったから、大したことないと思ったんだけど、大間違いだった」
「真ん中に紺色のおうぎ形のマークとか入ってる箱ですか?」
「そう。目茶苦茶強くて、ビギナーにはまず無理なやつ。よく知ってるね」
「昔、お客さんが吸ってたんです。まわりの人から『やめられないにしても、もうちょっと軽いのにしろよ』ってよく言われてました。よりにもよって、最初にそんなものに当たるなんて……」
「運がいいのか悪いのか、よくわからないよね」

 そしてふたりは顔を見合わせてまたひとしきり笑った。

「にしても、ひどい客だったね。まあ、それぐらい禁煙っていうのは大変なんだろうけど、八つ当たりはいただけない」
「あーでも……こういう商売してるとよくあるみたいですよ」
「八つ当たりが?」
「ええ。八つ当たりとか、いちゃもんとか……。まあ、うちは常連さんが多いから、今日みたいなことは滅多にありませんけど」

 それでも、通りすがりの客がさ晴らしをしていくことがないわけではない。原因は様々だし、憂さ晴らしの方法もいろいろだけれど、それで客がすっきりして帰っていくなら、それでいい。呑み屋というのは元々そういう場所だと美音は考えていた。

「まあ、憂さ晴らしも暴言だけで済むならいいけど……」

 オランダ煮をつついていた手を止め、要が心配そうに言った。

「もしも客が店で暴れ出したら、君たちではどうしようもないだろう?」

 女ふたりでやっている店である。大の男が、しかも酒に酔って暴れ出したら太刀打たちうちできない、と要は眉を寄せた。

「大丈夫です。今までうちで暴れ出した人はいませんし、そんなことがあったとしても、たぶん、皆さんがなんとかしてくれますし」
「常連客が誰もいなかったらどうするんだ。いても女性客ばっかりとか……。この店に来る女性はみんな威勢はいいけれど、武道をたしなんでいるような人はいないだろう?」
「聞いたことありませんね。でも、大丈夫です」
「だからなぜ?」
「だってここ、商店街ですよ?」

 いくら閉店後でシャッターが下りているといっても、建物が無人になっているわけではない。このあたりで店をいとなんでいる人間のほとんどは、店の二階に住んでいるのだ。引き戸を開けて大声で呼べば、あっという間に駆けつけてくれる。
 この町の人たちは、今時の、面倒なことには極力関わりたくないという人々とは一線を画している。特に、早くに両親を亡くしている美音姉妹については、みんなが気にかけてくれていて、ことあるごとに『大丈夫か? 困りごとはないか?』とかれているぐらいなのだ。
 そんな人たちが、美音や馨の声を無視するわけがなかった。

「そうか……それならいいんだけど……」

 美音の説明にとりあえず頷きはしたものの、要は依然として心配そうにしている。ふたりの関係が変わったことで、美音の身を案ずる気持ちがより大きくなっているのだろう。
 美音は要の気持ちが嬉しい反面、ちょっと困ってしまった。
 ここは居酒屋で、自分は店主だ。いろいろな客がやってくるし、来てもらわなければ商売が成り立たない。
『ぼったくり』は父の代からの常連も多い店だから、美音たちが対応に困ることは少ない。それでも、理不尽な客がまったくいないわけでもない。時には今日のような禁煙中でいらいらしている客も来るし、部下が意に染まない、なんて理由で同年代らしき美音に当たり散らした客もいた。
 だが、相手がどんな客であっても、店主である美音が逃げ出すことはできない。この店で起こることはすべて自分の責任だし、他の客や馨に害が及ばないように止めるのも自分だ。
 父はずっとそうやってこの店をいとなんできたし、自分もそうしてきたのだ。それを今更、危ないとか心配だとか言われては、商売を続けていけなくなる。
 どんな仕事にも、大変なことはある。むしろ、大変なことがあるからこそ仕事と呼べるのだ。楽しいばかりでお金をいただくことなんてできるはずがない。
 そして美音は、心配そうにこちらを見ている要に一息に言い切った。

「大丈夫です。誰かに何かを言われるたびにしっぽを巻いて逃げ出すようでは、居酒屋の女将おかみなんて務まりません。私はもう何年もこの仕事をやってきたし、要さんが思うよりずっとしぶといんです。多少のことではへこたれないし、逃げ出したりもしません」

 視線を逸らすことなく言い放った美音を、要は驚いたように見た。

「逃げ出したりしない……」
「そうです。ここが私の生きる場所です。というか、ここしかないんです。だからこれからもここで生きていくし、そのためには、なんとしてでもこの店を守らなきゃならないんです。たちの悪いお客さんのひとりやふたり、どうってことありません。それでも心配だって言うなら、柔道とか空手とか習いに行ってもいいですよ?」

 男の客が暴れ出したらどうしようもないだろう、という心配はわからないでもない。その対策が必要ならば、武術を習うのも一手だろう。
 もちろん、陸上、球技、水泳、その他オールラウンドで運動音痴を自認する美音が、今から武道を始めたところで護身術として使えるまでになるには相当な年数がかかるだろう。ただ、それぐらいの覚悟があるのだと要に伝えたい、伝えるべきだと思った。

「体格差とか関係ないそうですから、合気道のほうがいいでしょうか?」

 真顔でたずねる美音に唖然あぜんとしたあと、要は盛大に笑い出した。

「わかった、わかった。君は何があってもここを動かない、どんな客が来ても大丈夫、ってことだね。でも武道は、ちょっと考え直したほうがいい。怪我をするのがオチだ」

 テニスでホームラン乱発するぐらいの運動神経じゃね、と茶化され、美音はふくれてしまった。

「そんな昔のことを持ち出さなくても……」
「ごめん。ぶかぶかの道着で畳に伸びてる姿しか想像できなくて……。ま、いずれにしても君の覚悟はよくわかったよ」
「そういうことです。だから、万が一、要さんの親衛隊とか元カノとかがどかどか押しかけてきたって平気です」
「それは頼もしい……って、親衛隊なんてないし、元カノも来ないよ!」
「さあ、どうでしょうねえ……」

 なんせ複数酵母の人ですし~なんて、以前要の女性関係を揶揄やゆしたフレーズをうそぶきつつ、美音はにっこり笑ってみせる。軽口を挟んだことで、要の表情をおおい尽くしていた心配の色が薄らいだことが嬉しかった。

「ということで、ここに来たい人は誰でも来ればいいし、来たくなくなったら来なくてもいいんです」
「それって俺も含めて?」
「もちろん。来たくもない人に、無理やり来てくださいとは言えませんし」
「いや、それあっさりしすぎだろ。もうちょっと粘るっていうか、来たくなるように頑張ります、とかさー」

 一気に情けなさそうな顔になった要に、美音はケラケラ笑う。

「要さんが、テニスの話とかするからですよ。とにかく、大丈夫。私は強いです。必要とあらば、要さんだって守ってあげますよ」
「それは心強い」
「ということで、要さん」

 美音が、さあこの話はおしまい、といった様子で言った。

「なに?」
「今、うちの冷蔵庫の中に『飛露喜ひろき 特別純米』が入ってるんですよ。召し上がります?」
「え……『飛露喜』!?」

 まさかここで聞くとは思わなかった名前が美音の口から出て、要は一瞬固まった。
『飛露喜 特別純米』は福島県河沼郡会津坂下町かわぬまぐんあいづばんげまちにある廣木ひろき酒造本店という蔵元が造る酒である。
 廣木酒造本店は、一時期、廃業を覚悟するほどに売り上げが低迷したが、それに負けることなく研鑽けんさんし、全国で引く手あまたとなるこの酒を造り上げた。
 透明感と存在感という二つの概念をあわせ持つ酒を造りたい、という蔵元の熱意が実を結んだこの酒は、口に含んだ時のさわやかさと、飲み下したあとに残るしっかりとした米の味わいが比類ない。徐々に名も広がり、今では日本酒を知る者にとって『飛露喜』と言えば幻の酒とささやかれるほどの品薄ぶりで、このラベルを見たら迷わず注文、とまで言われている。
 その希少な酒が、今『ぼったくり』にあるというのだ。絶句するのは当然だった。

「君というか、この店にそんな伝手つてがあったのか?」
「すごいでしょ? 知り合いの酒屋さんが、特別に回してくれたんです。たった一本だけですけど」

 それを一番に要さんに呑んでほしかった、と美音は言う。
 本当は、古くからの常連さんに口を切ってもらうべきなのかもしれませんけど、やっぱり……なんて、美音は少し恥じらう様子を見せる。店主としてあるまじき依怙贔屓えこひいき、とでも思っているかもしれない。とはいえ要としても、やはりこれから呑めるだろう幻の酒に心が浮き立つ。
 すると、美音が突然、弾かれたように笑い出した。

「要さん、頭の中、『飛露喜』でいっぱいでしょ?」
「あ……」

 美音に合わせて軽口を叩いてはいたが、その実、不安だった。彼女は『私は強いです』なんて言い張っているが、自分を安心させたいがための強がりなんじゃないかと……。だが、今この店に、滅多に手に入らぬ『飛露喜 特別純米』という酒があり、自分が封を切れそうだと思ったとたん、その心配が一瞬どこかに行ってしまったのだ。
 美音は、くっくっと笑いながら冷蔵庫を開ける。

「あー私、『飛露喜』に負けた女になっちゃったー」
「町内清掃に負けた男と酒に負けた女はけっこういい組み合わせかもよ」

 以前、美音が自分を置いて町内清掃に向かったときに自称したネーミングを出して茶化す。

「それなら、『飛露喜』に負けた女の方がちょっと上等ですね!」

 美音は平然と言い返し、極上の酒をグラスにいだ。
 目の前に出されるやいなや口に運び、陶然となった要を尻目に、美音はしめさばに包丁を入れ始める。さわやかな酢橘すだちの香りに鼻をくすぐられ、要はごくりと生唾を呑んだ。

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