居酒屋ぼったくり

秋川滝美

文字の大きさ
表紙へ
上 下
83 / 228
6巻

6-3

しおりを挟む
 目の前でぷんぷん怒っている美音を見ながら、要はそれまで感じていた怒りのようなものが、すっかり溶けてしまったことに気付いた。
 彼女の妹が、今日から『ぼったくり』は三連休になる、自分は旅行に出かけるから姉をよろしく、とメールで連絡してきたとき、最初に感じたのは苛立ち、続いて落胆だった。
 三日間、しかも年に一度きりの連休だというのに、彼女にはおれと過ごすという選択肢が全くないのかと思ったら、怒りよりも哀しみが湧いた。
 けれどその感情はすぐにまた色を変えた。彼女は、おれが仕事に忙殺されていることをよく知っている。彼女が連休になることを告げなかったのは、残業や休日出勤など当たり前になっている自分を心配しているからに違いない。
 以前から『ショッピングプラザ下町』のオープンに備えて三連休は会社待機だと散々嘆いていたし、その後の出張予定も知らせていた。そんな状況で彼女が、自分のために仕事の予定を変えてくれなんて、言えるはずがない。彼女のことだから、それを言えばおれがどんな無理をするか考えるだろうし、その想像は当たっている。
 彼女はいつでもおれの心配をしている。それは付き合い出す前からずっと同じで、まるで母親か何かのように、食事の中身から仕事の量、果ては休日の過ごし方まで心配の種は尽きない。
 心配が高じて、一緒に過ごすよりもおれの仕事や休息を優先させようとする彼女は、あまりにも普通の恋人の概念からは遠い。
 だがそれがわずらわしいかと言えばそうではない。常々ありがたいと思っているのだ。それが彼女の性格だし、彼女がそういう形でしか自分の想いを表せないことぐらいちゃんとわかっている。それでも、その配慮がこんな形で出てしまうのはやっぱり切なかった。
 彼女の妹から連絡を受けたあと、片っ端から電話をかけまくった。自分の代わりに会社で待機してくれる人間を探すためだ。せめて今日一日だけでも、という思いがあった。
 三連休だから難しいかと思っていたが、子どもが風邪をひいて外出できなくなったという社員が代わりを引き受けてくれた。夫婦ふたりして看病するよりも休日出勤手当が欲しいという即物的な理由だったが、助かったことは確かだ。万が一手に負えないことが起きたら、いつでも携帯を鳴らしてくれと伝えて会社を出たのは三十分ほど前のことだ。
 彼女の配慮だとわかっていても、いざ顔を見たら、もっと早くに言ってくれればいろいろ計画も立てられたのに……という思いが込み上げた。自宅にしても、『ぼったくり』からそんなに離れてはいない。これぐらいの距離なら送ってきたところで大して時間はかからない。むしろ、一緒にいられる時間が延びて嬉しいぐらいなのに……と思ったら悔しくなって、ついついからかってしまったのだ。

「ごめん。君の心配はわかってるけど、もう少し一緒にいたいっていうおれの気持ちもわかってくれると嬉しい」
「……ごめんなさい」
「ということで、この話はこれで終わり。どこか行きたいとこある?」

 車に乗るようにうながしながら、要が質問してきた。
 ちょっと考えてみたが、行きたいところなんて思いつかない。要が来てくれるなんて予想もしていなかったのだ。一緒にいられるだけで十分である。
 このままずっと車の中に座っていてもいいぐらいです、と呟いた美音の言葉を聞いて、要はにやりと笑った。

「車の中にずっとって……なんか誘ってるの?」

 その笑いに込められた淫靡いんびな色に気付いて、美音は瞬時に頬を染める。

「そういう意味じゃありません!」
「それは残念。じゃあまあそれは、いずれそのうちに、ということで」

 美音は、勘弁してください! と言いたくなる。馨がそれを聞いたら、きっと『いい年して、何カマトトぶってんのよ!』と笑うだろう。だが、彼氏いない歴絶賛更新中、経験値ほぼゼロの自分にとって、男女関係のハードルはとんでもなく高い。発展家の馨には想像もできないに違いない。
 知らないことが多すぎると臆病になる。動かない車の中でじっと座ってるなんて、確かに危なすぎる。とにかく行き先を決めなくちゃ……
 一生懸命考えてみたが、行きたい場所なんて思いつかない。そもそも休みになる前にも散々考えたけれど、出かけたい場所は図書館とか書店ぐらいしかなかったのだ。
 美音は返事に困り、つい要を見上げてしまった。

「特に行きたいところはない、って感じかな?」
「そう……なりますね」

 要はあっさり同意した美音に軽く頷くと、唐突に言った。

「花火は好き?」
「花火……?」

 もう十月だというのになんで花火の話題が……と美音は疑問に思う。
 日本人で花火が大嫌いだという人は珍しい。少なくとも、美音は会ったことがない。
 ご多分に漏れず、美音も子どものころから花火は大好きだ。花火が上がっているのを見つけたときは、いつまでもその場にたたずみ、見つめ続けた。たとえそれがビルの谷間に覗く花火の欠片かけらに過ぎなくても……
 けれど、大人になってからはそういう断片的な花火すら見ていない。夜の仕事をしている美音には、花火を見る機会などなかったからだ。

「じゃあ見に行こうよ」
「え……どこに……?」

 遊園地のアトラクションですか? といてみたけれど、そうじゃないと要は否定した。

「競技花火大会って聞いたことある?」
「競技花火……」
「全国の花火師が集まって、自分たちが作った花火を競うんだ」

 聞いたことがあるかも……と、美音は必死に記憶を探った。

「えーっと……もしかして、それで来年の花火の注文が決まっちゃうとかいう?」
「そうそれ」

 例年十月はじめの土曜日に北関東のとある町でおこなわれる競技花火大会は、シーズンの終わりを飾るに相応ふさわしい、大規模な花火大会だ。
 全国の花火師が、この日のために技巧をらして作り上げた花火を次々に打ち上げ、その評価を競う。結果がストレートに来年度の売り上げに影響するため、気合いの入りようは半端ではないらしい。
 そんな素晴らしい花火大会なので、当然観光客の数もものすごく、近隣のホテルは一年前から予約でいっぱい、当日ともなると会場に続く道は人と車であふれてしまう。
 美音はその花火大会のことはなんとなく知っていたけれど、土曜の夜ということもあって自分がそれを見に行くことなど考えたこともなかった。

「でも……それってもう終わったんじゃ?」

 確かその花火大会は十月の第一週に開かれると聞いた。今日は十月八日なのだから既に終わっているはずだった。

「先週の天気、忘れたの?」

 そう言われて思い出した。確か、先週の土曜日は大雨だった。

「ちょっとぐらいの雨ならやるんだけど、さすがに朝からあの雨だし川も増水してるから危険、ってことで延期されて今日になったんだ。見たくない?」
「見たいです!」

 でも……と、美音はすぐに顔を曇らせた。

「何? なんか気になることでもあるの?」
「道も渋滞するだろうし……人出もすごいって聞いたことがあります」
「人混みが苦手なの?」
「それもありますけど、要さんが疲れちゃうでしょう?」

 ここから花火大会のある町まで運転して、さらに人混みにまれて花火を見るなんて大変すぎる。今日はなんとかなっても、明日はまた仕事だろうし、連休明けには出張が待っている。花火を見るためだけに、そんなに大変な思いをさせるのは申し訳なさすぎる。
 そんな説明をしたあと美音は、やっぱりもうちょっと人が少なそうなところにしましょう、と提案した。

「大丈夫だよ。今からすぐに出れば、混み始める前に向こうに着ける」
「でも会場だってきっと混んでるし……」
「まあなんとかなるよ。それに、混んでるっていっても阿鼻あび叫喚きょうかんってほどじゃないだろう」
「花火会場で阿鼻叫喚って……」

 あり得ないだろう? と笑ったあと、要は再度確認した。

「この花火大会は十月の第一週、『ぼったくり』の秋休みは十月の第二週って決まってるんだろう? 花火が延期になるほどの雨なんて滅多にないし、これを逃したら君が見る機会はもう一生ないかもしれない」
「行きます!!」

 そうこなくっちゃ、と時代がかった台詞せりふとともに要は車のエンジンをかけた。軽いエンジン音が美音の気持ちをさらに高揚こうようさせた。


     †


「か……要さん……」
「何?」
「なんで私たち、こんなところにいるんですか?」
「花火を見るためだろう?」
「でも!」

 要の言ったとおり道はまだ混み始めておらず、車は出発してから一時間半ほどで目的地に到着した。開始時間よりかなり前に着いたおかげで、会場近くの駐車場が空いていたのは幸いだった。
 川沿いを散歩したりお茶を飲んだりして時間を潰したあと、夕暮れの田んぼ道をゆっくり歩いて会場に向かう。そのころには客足も増え、すっかり花火大会の雰囲気が出来上がっていた。
 最初美音は、橋の上から、あるいは打ち上げ会場から少し離れた川原で観覧するのだろうと思っていた。だが、橋を渡り終え、川原に下りていく小道を通り過ぎても要は足を止めなかった。
 もうすぐそこは打ち上げ会場というところまで来たとき、要がひものついたIDカードのようなものを渡してきた。言われるままに首にかけ、狭い通路を進んで入場ゲートをくぐった先にあったのはなんと桟敷席さじきせきだった。
 特設ステージのすぐ隣に作られたその席では、ひとつひとつの花火の概要やスポンサーを読み上げるナレーターの声がはっきり聞こえ、花火は頭の真上に広がる。
 美音は打ち上げ花火というのは目の高さで、遥か遠くに見るものだとばかり思っていた。そのため、花火があまりにも間近に、そして巨大に見えることに仰天、まるで巣で餌を待つひなのように口がぽかんと開いてしまった。
 そしてにわかに疑問がわいてきた。入場にあたってIDカードを要求されるぐらいだから、ここはあらかじめ申し込みが必要な席なのだろう。急に予定を決めた要が、なぜそんな席を押さえることができたのだろう……
 だが要は、美音の疑問に答えてくれない。

「きれいじゃない?」
「きれいなんて通り越して、もうすごいとしか……」

 花火を打ち上げるドーンという音が身体に響く。花火の一連の流れに合わせて選ばれたBGMもはっきり聞こえてくる。いずれも打ち上げ会場間近の席でないと経験できないことだった。
 花火の音が大きすぎて、隣にいる要の声すら満足に聞こえない。会話を交わすためには身体を寄せ合わなくてはならず、なんだかくすぐったいような心地になる。ふたりで寄り添って見上げる花火は、最早この世のものとは思えなかった。

「なんかもう……言葉に困っちゃいますね」

 空一面を埋め尽くす大玉の打ち上げ花火や滝のように流れ落ちる仕掛け花火は、まさに火が織りなす芸術だった。秒刻みで形を変えていく花や樹、人気アニメのキャラクターなどに似せて作られる天上絵図は、次はどうなるのだろうという期待を呼び、一瞬たりとも目を離せない。それなのに、隣にいる要の姿も見ていたくて、美音はどっちを向いていいのかわからなくなる。花火を見上げたり、隣の男に目を走らせたり、忙しいことこの上なかった。



 要はそんな美音の様子をじっと見ていた。
 実はこの桟敷席さじきせきを押さえるのはけっこう難しい。だが、要が勤める会社が長年この花火大会のスポンサーを続けている関係で、いくつかの席を優先的に押さえることができる。要はそんな席のひとつを割り当てられ、数年前に一度見に来たことがあったのだ。だから初めて見る美音ほどの驚きはない。むしろ隣にいる女を見ていたい気持ちのほうが大きかった。
 今日は朝から職場で事務仕事をしていた。
『ショッピングプラザ下町』はオープンを二日後に控えて、準備も佳境に入っている。建物に不具合が出たときのために、と会社で待機していたが、問題が起きていなければすることはない。正直に言えば、会社にいる必要があるかどうかすら疑問だ。
 職人ではないのだから、不具合を直しに走れるわけではない。せいぜい職人や必要な部材を手配するのが関の山で、それなら電話で事足りる。どこにいようと携帯電話さえ持っていれば対応は可能だと思っていた。
 それでも、不具合があったときに電話がかかってくるのはたいてい会社だし、部材だって大半は会社の倉庫にあるのだから……と上司は言う。やむなく出勤し、溜まっていた書類を片付けていたのだ。
 美音の妹から連絡を受けたのは、そんなときだった。
 秋休みは今日から三日間という文面のメールを見たとき、要は反射的に壁にかかっていたカレンダーに目をやった。そこには誰かが書いた『競技花火大会』という文字……
 それを見た瞬間、あのすごい花火を美音に見せてやりたい、という思いが込み上げてきた。とはいえ、今年の桟敷席さじきせきはもう誰かの手に渡っているだろう。来年はちょっと頑張ってゲットしてみようか……と思いながら、とにかく自分の代わりに会社で待機してくれる人間を探し始めた。運良く引き受けてくれる人間が見つかり、やれやれと思っていたら、なんと彼が行こうとしていたのはくだんの花火大会だと言う。
 彼は、どうせうちは行けないのだから……と桟敷席を譲ってくれた。もしも美音が行きたがらなければ無駄になるけれど、そのときは元々空席になる運命だったと思うことにしてありがたく受け取った。彼には二重の意味で借りを作ってしまったが、陶然とうぜんとしている美音を見られただけでもその甲斐はあった。
 狭い桟敷席は、あらかじめ注文されていた弁当や飲み物を置くとさらに狭くなった。はみださないようにするには密着するほかはない。おまけに、豪快な花火の音は会話を不自由にさせ、お互いの言葉を伝えるためには、耳元に口を寄せるようにして話すしかなくなる。
 周囲の誰もが同じような状態だったので、美音もごく自然にそれにならった。その状況が要に嬉しくないはずがない。
 これじゃあまるでエロ親爺おやじそのものだな……と思いながら、要は花火などそっちのけで意識のすべてを美音に向けていた。


 時間の経過とともに花火はより豪華に、大規模になっていった。
 これぞ日本の伝統芸術、さあ見ろ! と言わんばかりの壮大な宙絵そらえに、美音はもう言葉もない。ため息すらつけず、ただただ天空を見上げる。

「以上をもちまして、本年度の競技花火大会を終了致します」

 そのアナウンスが聞こえても、美音はしばらく放心したままだった。

「大丈夫?」

 要の声ではっと我に返る。周りの人々は既に片付けを終え、会場から出ようとしていた。

「ごめんなさい。あんまりすごかったから……」
「ああ、わかるよ。おれも初めて見たときは茫然自失ぼうぜんじしつだった」
「そうですよね……全国の優秀な花火ばっかりなんですものね」

 夏に各地でもよおされる花火大会の中にも素晴らしいものはたくさんあるだろう。けれど、打ち上げられるすべてが芸術の域に達している花火大会は少ないはずだ。それはやはり『競技花火』とめい打たれるに相応ふさわしいものだった。
 会場の撤収が始まった。ふたりは慌てて荷物をまとめ、会場を出る人の列に続いた。


 あまりにもたくさんの人間が一度に移動していたために、その歩みはとても遅く、駐車場に辿り着いたのは花火が終わって一時間近く経ってからだった。

「やれやれ……やっと車に乗れた」
「すごい人でしたね」
「大丈夫? 疲れたんじゃない?」
「ぜんぜん。連れてきてくださって本当にありがとうございました!」
「それはよかった。あ、でもね、ひとつだけ謝っておくよ」
「なんですか?」

 こんなに素敵なものを見せてくれたのに、謝らなきゃならないことなんて……といぶかしく思いながら、美音は要を見た。

「今後花火を見ても、あんまり感動できなくなるかも……」
「え?」
「ここの花火を、しかも桟敷席さじきせきで見てしまったら、生半可な花火じゃ満足できなくなるよ」

 ――確かにそうかも……
 美音は今まで見てきたうちで、一番感動的な花火を思い出そうとしてみた。
 古来、『花火は江戸の花』と言われている。夏ともなれば、東京のあちこちで花火大会が開催される。それこそ、週末ごとと言っていいほどである。
 美音の記憶の中にある花火大会は、子どものころ、祖父母に連れられて見たのが最後だ。すごくきれいだと思ったし、感動もしたはずだ。けれど、それをさらに美化したとしても、今夜見た競技花火大会には遠く及ばない。
 広がる花火の大きさ、美しさもさることながら、打ち上げの音が身体中に響き、空から降ってくる燃えかすまでもが間近に見える花火大会なんて初めてだった。

「ということで……」

 と、要は美音の視線を捕まえたまま言った。

「君は今後、花火が見たくなったら、おれと一緒にここに来るしかない」
「はい?」
「うちの会社はここのスポンサーなんだ。何年かに一度ぐらいなら、おれに桟敷席が回ってくる可能性がある。あるいは今回みたいにドタキャンになったのを譲り受けるとか」
「なるほど、それで……」

 その言葉で美音は、要が予定になかった桟敷席を押さえられた理由に納得した。同時に、スポンサーでもなければこんなにいい席を取るのは難しいだろうと思う。しきりに頷いている美音に、要は何気ない素振りで言った。

「今日は突発だったから仕方ないけど、次は泊まりがけがいいな」
「え……」
「だって、君はおれの身体が心配なんだろう? こんな時間まで人混みの中で花火を見て、また運転して帰るなんて大変だと思わない?」

 泊まりだったらそんな心配ないよね、なんてにやにや笑いながら、要はさらに言葉を重ねる。

「なんだったら、今からどこか探してもいいんだけど……」

 この町はどこも予約でいっぱいだろうけど、車なんだし、ちょっと離れれば……と要はスマートフォンを取り出す。

「ちょ……ちょっと待ってください!」

 美音は検索を始めようとした要を慌てて止めた。
 無理だから、絶対無理だから、心の準備が間に合いませんから! と自分の顔に書いてあるような気がした。
 もしも本気だったらどうしよう、と過去最大級の焦りの中で上げた声に、要は弾けるように笑い出した。

「冗談だよ」

 美音はがっくりとこうべを垂れ、大きく安堵の息を漏らす。

「おれはそんなにがっついてもいないし、君を焦らせる気もない。でも、ずっとこのままでいられるほどガキでもない。そのあたりよろしく」
「はい……」

 美音の蚊の鳴くような声が聞こえた。
 あれほど人の心の機微きびを察することにけていて、人と人との間に必要な配慮の全てをこなしているように見えるのに、男女の機微にかけては無頓着むとんちゃく。彼女を見ていると要は、いったいどういう監視体制下で育てたらこんな風になるのだ、と頭を抱えてしまう。頑固親爺おやじだったと誰もが評価する美音の父親を恨みたくなってくる。その頑固親爺の存在が余計な虫から美音を守ったとはわかっていてもだ。しかもこのままでは自分すらもその虫の範疇はんちゅうに放り込まれそうでうんざりする。
 彼女は『待って』と言ったのであって、完全に拒否したわけではない。とりあえず時間をかけるしかないな……とシートベルトに手を伸ばそうとした瞬間、秋の夜に冷え切った唇に温かいものがかすめた。

「え……?」

 温かく柔らかい感触はあっという間に去った。
 要はあっけにとられて、助手席を見た。美音は膝に置いた両手の拳を握りしめ、ケチャップを超えるかと思うほど頬を赤く染めている。

「お待たせ料です」

 普段の美音を考えたらこれが精一杯、むしろよく頑張りましたと評価するべきか。あるいは『お待たせ料』にしては少なすぎると抗議すべきか――
 どっちにするかなんて考えるまでもない。千載一遇せんざいいちぐうのチャンス到来とばかりに、要は美音を抱き寄せて不足分を勝手に徴収した。

しおりを挟む
表紙へ

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

お兄さんの子供を妊娠したの!旦那を寝取った妹からの反撃が怖い!血を分けた家族からの裏切りを解決したのは…

白崎アイド
大衆娯楽
「お兄さんの子供を妊娠したの」と妹がいきなり告白してきた。 恐ろしい告白に私はうろたえる。 だが、妹が本当に狙っているものを知って怒りが湧き上がり…

パパー!紳士服売り場にいた家族の男性は夫だった…子供を抱きかかえて幸せそう…なら、こちらも幸せになりましょう

白崎アイド
大衆娯楽
夫のシャツを買いに紳士服売り場で買い物をしていた私。 ネクタイも揃えてあげようと売り場へと向かえば、仲良く買い物をする男女の姿があった。 微笑ましく思うその姿を見ていると、振り向いた男性は夫だった…

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

余命1年の侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
余命を宣告されたその日に、主人に離婚を言い渡されました

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。