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5巻
5-1
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実りをもたらすもの
もうお盆も過ぎたというのに、まだまだ夏の暑さが居座っていて、秋の気配はうっすらとも感じられない。特に昼下がりの熱気といったら、カレンダーの立秋という文字を切り抜いて一ヶ月ほど先の日付に貼り直したくなるほどである。
東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、仕込みが終わって店を開けるまでの間をウォーキングの時間と決め、健康増進に努めている。だが、この暑さでは、とてもじゃないけれど外に出かける気にはなれなかった。
もういっそスポーツジムにでも行ってみたほうがいいのかも……
それなら天気や気温の影響も受けにくいはずだ、と考えながら、美音は引き戸を開けた。
ウォーキングは無理でも、せめて先日クリーニングに出したブラウスとパンツを受け取りに行こうと考えてのことだった。ところが、店を出るか出ないかのうちに、大きな声が聞こえてきた。
「あ、お姉ちゃん、よかった! まだ出かけてなかったんだ!」
暑さにも負けず元気な声を張り上げているのは、妹の馨だった。何事かと目をやれば、彼女はひとりの女性を支えながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「どうしたの?」
美音が驚いている間に、馨は女性を『ぼったくり』の店内に入れ、小上がりに腰掛けさせた。
「とりあえずお水ちょうだい。それと、保冷剤あったよね?」
「あるわよ」
女性は初老といった感じ。ただし、三日に一度『ぼったくり』を訪れる常連のウメよりは若そうである。
見るからに具合が悪そうな女性の様子に、美音は慌てて冷蔵庫から水と保冷剤を取り出した。直接身体に当てては冷たかろうと、手近にあった薄手のタオルで保冷剤をくるむ。
馨は女性に水のペットボトルを渡して飲むように促したあと、女性の脇の下に保冷剤を挟み込んだ。
「保冷剤、もっといる?」
「あるだけちょうだい!」
ペットボトルの水を半分ぐらい飲んだのを確認して、馨は女性を横にならせた。新たに受け取った保冷剤のタオル包みを反対側の脇の下、それから内股にもあてがう。
思わぬところを冷やされて仰天している女性に、馨は、大きな血管が通っている場所なので、体温を下げるのに効果的なのだと説明している。どこからどう見ても、熱中症の手当だった。
「大丈夫ですか? お医者様をお呼びしましょうか?」
この時間、近くにある太田医院は昼休み中だ。けれど、具合の悪い人を放ってなんておけない太田先生のことだから、わけを話せばきっと往診してくれるだろう。
「大丈夫。少し休ませてもらえば……」
女性は小さな、それでいてはっきりした声でそう答えた。
「目眩や吐き気はありますか?」
馨はそう訊ねながら、そっと女性の手の甲をつまんでいる。つい最近テレビで見た、脱水症状のチェックを試みているのだろう。深刻な脱水症状に陥っていると、つまんだ皮膚が元に戻らなくなるらしい。幸い、女性の皮膚はすぐに元に戻った。少し休めば大丈夫という言葉を信じてよさそうである。
「よかった。でも、水だけじゃなくて塩分も取ったほうがよさそうだね」
馨はそう言いながらカウンターの中に入り、流しの下にかがみ込む。おそらくそこに置いてある壺から梅干しでも取り出すつもりなのだろう。
確かに熱中症に梅干しは効果的だ。だが、いくら治療目的とはいえ、梅干しだけをかじるというのは辛いのではないか。美音はちょっと考えたあと、自分もカウンターの中に入り、冷蔵庫を開けた。
「馨、こっちのほうがいいんじゃない?」
「え……? あ、お味噌汁か!」
塩分と水分を同時に補給できる味噌汁は熱中症にはもってこいである。
さすがにこの暑さの中、熱々の味噌汁はすすめにくいが、幸い今日は『本日のおすすめ』に入れようと思って冷やしておいた茄子の味噌汁がある。火をしっかり通して柔らかくなった茄子に茗荷と大葉の千切りを添えた冷たい味噌汁は、暑い夜のご馳走。炊きたてのご飯とこの味噌汁を締めにしたがる常連客は多かった。
「お茄子のお味噌汁なんですが、冷たいのがお嫌いじゃなければいかがですか?」
味噌汁は熱くなくては、という人もいる。この女性もそのひとりだったら、代わりにスイカでも切ろうと思いながら訊ねると、女性は弱々しく、それでもはっきりと頷いた。
「冷たいお味噌汁、大好物だよ……」
「よかった! じゃあ、すぐによそいますね」
美音は大ぶりな椀を取り出し、冷たい味噌汁をたっぷり注いだ。茄子のせいで味噌の色がわずかに青黒くなっている。それをごまかすように濃い緑の大葉をふんだんに散らす。
「起き上がれそう?」
女性が頷くのを確認してから、馨が背に手を添えてゆっくりと身体を起こさせる。箸と椀を渡すと、彼女は待ちかねたように冷たい味噌汁を一口啜った。
「ああ……よく冷えてる」
「しょっぱすぎませんか?」
「いい塩梅だよ。すごく美味しい」
女性は続いて茄子を一切れ口にし、一緒に口に入った茗荷の歯触りににっこりと笑った。
「夏のご馳走だね。もう立秋も過ぎたから、夏って言うのもあれだけど」
「こんなに暑いんですもの、まだまだ夏ですよ」
「そうそう。だから油断しちゃだめ。こんな暑い盛りに出歩くなんてもってのほか」
「そうは思ったんだけど、どうしても娘のところに行きたくて……」
孫に食べさせたくてね、と女性は隣に置いた手提げ袋に目をやった。手提げ袋は大きい上にかなり重そうに見える。
「野菜なんだ。今朝、畑で穫ったばかりだから新鮮なうちにと思ってさ」
畑と聞いて、美音はちょっと首を傾げた。このあたりはもっぱら商店街と住宅地で、畑を見た記憶はない。だが、手提げ袋から覗いている野菜は色鮮やか、しかも皮もぴんと張っていて取れたてにしか見えない。きっと美音が知らない場所にあるのだろう。
「このあたりにも畑があるんですね。気が付きませんでした」
美音の言葉を聞いたとたん、女性は急に落ち着かない様子になった。どうしたのだろう、と思っていると、後ろめたそうに言う。
「ちょっと行った先に、川があるだろう? あそこの……」
「ああ、あの川原の畑……」
ここから歩いて二十分ぐらいのところに、川幅こそ広いが水量の少ない川がある。かつてはもっと水量も多かったそうだが、最近は随分減って、川よりも川原のほうが広いほどだ。近頃では、その広い川原を使って園芸を楽しむ人が増えてきている。一ヶ月ほど前、たまには違う方角に散歩に行こうと馨に誘われた際に、川原に広がる畑を見て驚いたことを、美音は思い出した。
連綿と続く畑はそれなりに丹精込めて作られているようで、葉陰にはちらほら見慣れた野菜が実っていた。その中に一際見事で、目を留めずにいられない一画があった。プチトマト、茄子、ピーマンといった作りやすい野菜ばかりではなく、里芋やズッキーニ、大玉のトマトなど、手入れが大変そうだなと思われるものもたくさん育っていた。
「あの川原はすごいですよね、畑がずらりと並んでいて。素人には手に負えないような野菜を植えているところもありましたっけ。しかもどれもすごくよくできてて、びっくりしました」
「見たことがおありなんだね」
「ええ。特に里芋とかトマトが何本も植えてあるところはすごいです。里芋の葉っぱはつやつやですし、大玉のトマトが実割れもせずに真っ赤に熟して」
「ああ、それがうちだよ」
さっきまでの後ろめたそうな感じが鳴りを潜め、女性は嬉しそうに畑の話を始めた。
「最近はプチトマトばっかりで、大きなトマトを作っている人も減ったみたいだね。大玉のトマトは食べ応えもあるし、使い勝手もいいんだけどさ」
「わかります。それに、ズッキーニが生えているのを見たのは初めてです」
「おや、あんた方、あれがズッキーニだってわかったんだ」
せいぜい裏のプランターに大葉を植えるのが関の山、畑仕事などしたこともなかったが、これでも美音は食に携わる人間の端くれである。ズッキーニがどんな植物で、どんな風に実がなるかぐらいは知っていた。
「カボチャの一種なんですってね。初めて聞いたときはびっくりしましたけど」
「そうだろう、そうだろう。中にはキュウリと同じようなものだと思ってる人もいるからね」
形だけ見ればそうだけど、味はやっぱりキュウリとは違う、と美音が答えると、女性は嬉しそうに頷いた。おそらく、畑の作物のことをよく知っている人間に出会えて嬉しかったのだろう。
「あの畑ならさぞやたくさん穫れるでしょう。お孫さんに届けたくなる気持ちもわかります」
「まあ、そういうわけで時々娘のところに届けに行ってるんだけど、今日は家のことを済ませてからと思ったのがよくなかった。一番暑い時間にバス停まで歩くことになってしまって……」
息は上がるし、目眩はしてくるし、どうしようと思っていたらこの人が声をかけてくださったんだよ、本当に助かった、と女性は改めて馨に頭を下げた。
「道ばたで、肩で息している人がいたから、大丈夫かなと思って声をかけたんだよ。とにかく涼しいところで休んでもらわないと、と思って連れてきちゃった」
馨が女性を見つけたのは商店街からバス通りに続く道でのことだったそうだ。救急車を呼ぶかどうか迷ったものの意識はあるし、少し休めば大丈夫かと思って『ぼったくり』に連れてきたという。
「そうだったの。大事に至らなくてよかったわ。まだしばらくは涼しくなりそうにもないし、日が陰るまで休んでいってくださいな」
美音がそう声をかけると、女性はちょっと困ったような顔になった。
「娘は勤めに出ていて、午後にならないと戻らないんだよ。これぐらいの時間に届けて、娘が帰るまでに夕飯の支度をしておけばいいと思ってね。でもやっぱりこの暑さの中、出歩くのは無謀だったね……」
「そういうことだったんですか」
残念ながら今日は無理そうだ、と女性はしょんぼりしている。美音と馨は顔を見合わせ、次いで壁に掛かっている時計を見上げた。時刻は午後三時になるところ、まだしばらく暑さは去らない。既に体調が悪くなっているのに、また外に出るのは無謀だった。
「しょうがないから、今日は諦めることにするよ」
日が少し陰ったら家に帰るから、それまでもうしばらくお邪魔させてほしい、と女性は申し訳なさそうに言った。
「休んでもらうのは全然かまいませんけど……」
美音は、なんとか娘さんのところに野菜を届ける方法はないかと、思案を巡らす。車でも持っていれば送っていってあげられたのに……と困った顔になった美音を見て、女性は勘違いをしたらしい。
「あ、店を開けるまでには失礼するよ!」
店の造りからして、ここは居酒屋さんなんだろう? 何時に店を開けるんだい? と訊かれて、馨はぶんぶんと首を振った。
「そんなこと気にしないで。それより、娘さんのところってここから遠いの?」
「バスで三十分ぐらいかねえ……」
「それじゃあ、ちょっと間に合わないか……」
馨が大きなため息をついた。馨はきっと、自分が代わりに届けに行こうと思ったのだろう。
だが、ここからバス停まで歩いて、それからバスに乗って、娘さんの家を探して……では、開店までに戻ってこられない。
「いいんだよ。野菜は畑にまだまだあるし、日を改めるよ」
きっとまた機会はあるだろう、と言いつつも女性はさらに肩を落とす。野菜のことよりも娘さんやお孫さんと過ごせなくなったことのほうが残念そうだった。
「お嬢さんは車とかお持ちじゃないんですか?」
「あるにはあるけど、仕事を終えて保育園に孫を迎えに行って、それから晩ご飯の支度……とてもじゃないけど迎えに来てくれなんて言えないよ」
四歳になる孫は男の子で、いつもお腹を空かしている。家に帰ったらできるだけ早くご飯にしてやらないとかわいそうだ、と女性は言う。
「迎えに来てもらって、一緒に外でご飯とかは?」
それなら食事の支度もいらないし、お孫さんもすぐに食べられる、と馨が提案したが、女性は小さく首を振った。
「それができれば苦労はないんだけど、うちの孫はちょっとアレルギーがあってね。外食が難しいんだよ」
牛乳も小麦粉も大豆もだめで、保育園の給食も食べられずお弁当を持参している。アレルギー対応の飲食店はないでもないが、調理器具にまで気を遣ってくれるところは少ない。ひやひやしながら外食するよりも、家で作ったほうが安心なのだと娘さんは言っているそうだ。
「野菜にしても、あたしが作ったものなら農薬やらなんやらの心配もないからね……」
女性が無理をしてでも野菜を届けようとした理由は、新鮮云々もさることながら、お孫さんにとって安心な食べ物ということが大きかったのか……
美音は改めて感心するとともに、なんとかしたいという気持ちをさらに強くした。
「馨、お店に間に合わなくてもかまわないから、届けに行ってあげて」
「でもそれじゃあ、このおば……じゃなくて、えーっと……ごめんなさい、お名前をお訊きしてもいいですか?」
おばさんとおばあさんの選択に迷い、さすがにどっちにしても失礼だと悟ったらしい。おもむろに謝ったあと、馨は女性に名前を訊いた。
女性はそんな馨を笑いながら、自分はツキミというのだと名乗った。
「じゃあ、改めて。届けに行くのはかまわないけど、それじゃあツキミさんが娘さんやお孫さんに会えないでしょ?」
ツキミは野菜の入った手提げの他に小さなボストンバッグを持っている。一泊分ぐらいの荷物が入りそうな大きさだった。もしかしたら野菜を届けたついでに、一晩泊まってくるつもりだったのかもしれない。
「そうねえ……、あ、じゃあ、うちで作られては?」
娘さんが仕事を終えて、お孫さんを連れて帰るのは夕方らしい。それならば、しばらく休憩したあと、ここで食事を作ってはどうか。作り終える頃には日も陰って、少しは過ごしやすくなるだろう。
「あ、それはグッドアイデアだね! お料理ならあたしたちだって手伝えるし、娘さんが迎えに来てくれたとしたら家に帰ってすぐご飯にできるよ」
「でもそれじゃあ、あんまりにも……」
迷惑をかけすぎる、とためらうツキミに、美音はにっこりと笑いかけた。
「私たち、早くに両親を亡くしてるんです。だから、いつも、親孝行のまねごとでもいいからしてみたいって思ってたんですよ。半分私たちのわがままみたいなものですから」
「立派な娘さんがいらっしゃるのに、あたしたちみたいなのはお断りかもしれないけど、気分だけでも味わわせてもらえると嬉しいなあ……って」
姉妹の双方にそう言われ、ツキミは返す言葉をなくしている。だが、実際のところ、日が沈んで涼しくなるまでの時間をここで過ごすならば、その時間を使って料理をするというのは名案のはずだ。しばらく考えた後、ツキミはすまなそうに頷いた。
†
「おや、ズッキーニかい? こりゃまたハイカラだねえ」
カウンターに出されている料理を見て、ウメがからからと笑った。
料理を終えたあと、ツキミは手提げに入れてあった野菜を美音に差し出した。ここまで世話になってお礼もしないのは申し訳なさすぎるというのだ。
『でもそれじゃあ、お孫さんの分が……』
今夜の分はあるにしても、と美音は心配したが、ツキミはぜんぜん大丈夫だと笑った。
『おかげさんで野菜は豊作。畑にまだまだあるし、帰りは娘が車で家まで送ってくれるって言うから、そのときに獲れたてを渡すよ』
それを聞いて、最初は遠慮していた美音も、ありがたく頂戴することにした。何よりも味見をさせてもらったズッキーニがあまりにも美味しくて断り切れなかったというのが真相。
ツキミの孫は化学物質にも敏感で、添加物にもかなり気を配らなければならないらしい。だからこそツキミは無農薬で野菜を栽培し、調味料まで厳選して孫のために料理を作っているそうだ。今日、彼女が作った料理はズッキーニとトマトを豚肉と一緒にコンソメで煮込むだけというシンプルなものだったが、取れたての野菜ならではの深く濃い味わいに美音も馨も目を見張った。だが、それ以上に料理の味を上げていたのは、ツキミの孫を思う気持ちだったのかもしれない。なにせ彼女は、固形のコンソメスープまでアレルギー対応のものを持参していたのだから……
野菜をもらった美音は、ツキミと同じように煮込み料理にすることも考えたが、彼女以上に温かい味にできるかどうか大いに疑問。あれこれ考えた結果、『本日のおすすめ』には、ズッキーニと豚肉の炒め物を入れることにした。
幅広の千切りに刻んだ豚肉に予め醤油とみりんで味付けし、半月状に切ったズッキーニとともに炒めたあと溶き卵を絡める。たっぷりの生姜と、ほんの少量のニンニクを入れた炒め物は、酒の肴にもご飯にもぴったりの一品である。現に、カウンターではリョウがそれをおかずにわしわしとどんぶり飯をかき込んでいる。この暑さの中でも衰えを見せぬ食欲は、飲食を商う者にとっても頼もしい限りだった。
「まったく、相変わらずよく食べるねえ、この子は」
「だってウメさん、この炒め物、めっちゃ飯に合うっす。ズッキーニってカボチャの一種だって聞いてたから、おかずにはどうなんだ? と思ってたけど、濃いめの味付けで、肉もたっぷり。もう言うことないっす!」
「それでいきなりご飯を食べてるってわけかい?」
「だって俺、今日は朝から外に出っぱなしで、まともに昼飯も食えなかったんす。もう腹が減って、腹が減って、酒どころじゃなかったっす」
「おや、そうかい」
あんたの空きっ腹は今日に始まったことでもあるまいに、と笑いながら、ウメは目の前に出された焼酎の梅割りをグビリとやった。
「いやー、こういつまでも暑いとやってらんねえなあ!」
首から下げたタオルで汗を拭き拭き入ってきたのは、足場職人のトクだった。
昨年の冬、トクの弟子が、冬は足場が冷えて辛いとこぼしたらしいが、夏の暑い盛りに足場を組むのも大変だろう。むしろトクのように身体を使って仕事をする人には、冬よりも夏のほうがこたえるに違いない。
「お疲れさまでした。まずビールにしますか? よく冷えたクラフトビールが……」
ビールほど汗に似合う酒はない、と思っての提案だったが、意外にもトクはきっぱりと断った。
「いや、今日は、現場近くの自販機のお茶やら水やらが軒並み売り切れ。スポーツ飲料すらなかった。残ってるのは炭酸ばっかりで、さすがに飽きちまった。泡が立ってない酒がいいな」
そう言いながら『本日のおすすめ』に目をやったトクは、おっ! と小さく声を上げた。
「なんでえ、カワハギのみりん干しが入ってるじゃねえか。これじゃあ日本酒以外の選択肢はねえだろう!」
トクは魚の干物が大好物だ。わけてもみりん干しには目がない。鯖や鰯といった青魚のみりん干しをつまみにぎんぎんに冷えた日本酒を呑むのは、彼の夏の楽しみのひとつだった。
冷蔵庫にはトク好みの辛口の酒が何本も冷えている。その中から、みりん干しに合う銘柄を選べばいい。そう思ってトクの顔を見た美音は、依然として引かない汗に眉をひそめた。
――この汗じゃ、さぞかしのどが渇いているだろうなあ……
どう考えても最適はごくごくやれるビールだ。でも、泡が立つ酒は嫌だと本人が言っている。いくらよく冷えていて、のど越しがいいといっても、冷酒をごくごくやるわけにはいかない。
「トクさん、たまにはウイスキーの水割りはいかが? 意外にみりん干しにはぴったりなんですけど……」
「水割りか……なるほど、それならのどの渇きにもいいな。確かに、みりん干しは甘いからウイスキーには合いそうだ」
「スモーキーなタイプがおすすめです」
「スモーキーか……。輸入物で燻製香が強いのは苦手だな」
「じゃあ……ちょっと控えめな感じで……こちらはどうでしょう?」
そう言って美音が取り出した国産ウイスキーのボトルに、トクは、ほう……と見入った。
「このボトルは見たことがあるな」
「燻製香はウイスキーの持ち味でもあるんですが、日本人の中には苦手だとおっしゃる方も多いんです。でもこの銘柄は、日本人の舌に合うように造られていて、スモーキーなタイプはちょっと、っておっしゃる方にも人気なんですよ」
このウイスキーのほのかな甘みは、みりんの甘みと相まって肉厚なカワハギの味わいを引き立ててくれるだろう。
「よし、こいつは呑んだことはねえが、美音坊がすすめるなら間違いねえだろう。それにするよ」
「はーい!」
馨が元気よく返事をして、大きなグラスを取り出す。美音はその横で、カワハギのみりん干しを焼き始めた。
もうお盆も過ぎたというのに、まだまだ夏の暑さが居座っていて、秋の気配はうっすらとも感じられない。特に昼下がりの熱気といったら、カレンダーの立秋という文字を切り抜いて一ヶ月ほど先の日付に貼り直したくなるほどである。
東京下町で居酒屋『ぼったくり』を営む美音は、仕込みが終わって店を開けるまでの間をウォーキングの時間と決め、健康増進に努めている。だが、この暑さでは、とてもじゃないけれど外に出かける気にはなれなかった。
もういっそスポーツジムにでも行ってみたほうがいいのかも……
それなら天気や気温の影響も受けにくいはずだ、と考えながら、美音は引き戸を開けた。
ウォーキングは無理でも、せめて先日クリーニングに出したブラウスとパンツを受け取りに行こうと考えてのことだった。ところが、店を出るか出ないかのうちに、大きな声が聞こえてきた。
「あ、お姉ちゃん、よかった! まだ出かけてなかったんだ!」
暑さにも負けず元気な声を張り上げているのは、妹の馨だった。何事かと目をやれば、彼女はひとりの女性を支えながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「どうしたの?」
美音が驚いている間に、馨は女性を『ぼったくり』の店内に入れ、小上がりに腰掛けさせた。
「とりあえずお水ちょうだい。それと、保冷剤あったよね?」
「あるわよ」
女性は初老といった感じ。ただし、三日に一度『ぼったくり』を訪れる常連のウメよりは若そうである。
見るからに具合が悪そうな女性の様子に、美音は慌てて冷蔵庫から水と保冷剤を取り出した。直接身体に当てては冷たかろうと、手近にあった薄手のタオルで保冷剤をくるむ。
馨は女性に水のペットボトルを渡して飲むように促したあと、女性の脇の下に保冷剤を挟み込んだ。
「保冷剤、もっといる?」
「あるだけちょうだい!」
ペットボトルの水を半分ぐらい飲んだのを確認して、馨は女性を横にならせた。新たに受け取った保冷剤のタオル包みを反対側の脇の下、それから内股にもあてがう。
思わぬところを冷やされて仰天している女性に、馨は、大きな血管が通っている場所なので、体温を下げるのに効果的なのだと説明している。どこからどう見ても、熱中症の手当だった。
「大丈夫ですか? お医者様をお呼びしましょうか?」
この時間、近くにある太田医院は昼休み中だ。けれど、具合の悪い人を放ってなんておけない太田先生のことだから、わけを話せばきっと往診してくれるだろう。
「大丈夫。少し休ませてもらえば……」
女性は小さな、それでいてはっきりした声でそう答えた。
「目眩や吐き気はありますか?」
馨はそう訊ねながら、そっと女性の手の甲をつまんでいる。つい最近テレビで見た、脱水症状のチェックを試みているのだろう。深刻な脱水症状に陥っていると、つまんだ皮膚が元に戻らなくなるらしい。幸い、女性の皮膚はすぐに元に戻った。少し休めば大丈夫という言葉を信じてよさそうである。
「よかった。でも、水だけじゃなくて塩分も取ったほうがよさそうだね」
馨はそう言いながらカウンターの中に入り、流しの下にかがみ込む。おそらくそこに置いてある壺から梅干しでも取り出すつもりなのだろう。
確かに熱中症に梅干しは効果的だ。だが、いくら治療目的とはいえ、梅干しだけをかじるというのは辛いのではないか。美音はちょっと考えたあと、自分もカウンターの中に入り、冷蔵庫を開けた。
「馨、こっちのほうがいいんじゃない?」
「え……? あ、お味噌汁か!」
塩分と水分を同時に補給できる味噌汁は熱中症にはもってこいである。
さすがにこの暑さの中、熱々の味噌汁はすすめにくいが、幸い今日は『本日のおすすめ』に入れようと思って冷やしておいた茄子の味噌汁がある。火をしっかり通して柔らかくなった茄子に茗荷と大葉の千切りを添えた冷たい味噌汁は、暑い夜のご馳走。炊きたてのご飯とこの味噌汁を締めにしたがる常連客は多かった。
「お茄子のお味噌汁なんですが、冷たいのがお嫌いじゃなければいかがですか?」
味噌汁は熱くなくては、という人もいる。この女性もそのひとりだったら、代わりにスイカでも切ろうと思いながら訊ねると、女性は弱々しく、それでもはっきりと頷いた。
「冷たいお味噌汁、大好物だよ……」
「よかった! じゃあ、すぐによそいますね」
美音は大ぶりな椀を取り出し、冷たい味噌汁をたっぷり注いだ。茄子のせいで味噌の色がわずかに青黒くなっている。それをごまかすように濃い緑の大葉をふんだんに散らす。
「起き上がれそう?」
女性が頷くのを確認してから、馨が背に手を添えてゆっくりと身体を起こさせる。箸と椀を渡すと、彼女は待ちかねたように冷たい味噌汁を一口啜った。
「ああ……よく冷えてる」
「しょっぱすぎませんか?」
「いい塩梅だよ。すごく美味しい」
女性は続いて茄子を一切れ口にし、一緒に口に入った茗荷の歯触りににっこりと笑った。
「夏のご馳走だね。もう立秋も過ぎたから、夏って言うのもあれだけど」
「こんなに暑いんですもの、まだまだ夏ですよ」
「そうそう。だから油断しちゃだめ。こんな暑い盛りに出歩くなんてもってのほか」
「そうは思ったんだけど、どうしても娘のところに行きたくて……」
孫に食べさせたくてね、と女性は隣に置いた手提げ袋に目をやった。手提げ袋は大きい上にかなり重そうに見える。
「野菜なんだ。今朝、畑で穫ったばかりだから新鮮なうちにと思ってさ」
畑と聞いて、美音はちょっと首を傾げた。このあたりはもっぱら商店街と住宅地で、畑を見た記憶はない。だが、手提げ袋から覗いている野菜は色鮮やか、しかも皮もぴんと張っていて取れたてにしか見えない。きっと美音が知らない場所にあるのだろう。
「このあたりにも畑があるんですね。気が付きませんでした」
美音の言葉を聞いたとたん、女性は急に落ち着かない様子になった。どうしたのだろう、と思っていると、後ろめたそうに言う。
「ちょっと行った先に、川があるだろう? あそこの……」
「ああ、あの川原の畑……」
ここから歩いて二十分ぐらいのところに、川幅こそ広いが水量の少ない川がある。かつてはもっと水量も多かったそうだが、最近は随分減って、川よりも川原のほうが広いほどだ。近頃では、その広い川原を使って園芸を楽しむ人が増えてきている。一ヶ月ほど前、たまには違う方角に散歩に行こうと馨に誘われた際に、川原に広がる畑を見て驚いたことを、美音は思い出した。
連綿と続く畑はそれなりに丹精込めて作られているようで、葉陰にはちらほら見慣れた野菜が実っていた。その中に一際見事で、目を留めずにいられない一画があった。プチトマト、茄子、ピーマンといった作りやすい野菜ばかりではなく、里芋やズッキーニ、大玉のトマトなど、手入れが大変そうだなと思われるものもたくさん育っていた。
「あの川原はすごいですよね、畑がずらりと並んでいて。素人には手に負えないような野菜を植えているところもありましたっけ。しかもどれもすごくよくできてて、びっくりしました」
「見たことがおありなんだね」
「ええ。特に里芋とかトマトが何本も植えてあるところはすごいです。里芋の葉っぱはつやつやですし、大玉のトマトが実割れもせずに真っ赤に熟して」
「ああ、それがうちだよ」
さっきまでの後ろめたそうな感じが鳴りを潜め、女性は嬉しそうに畑の話を始めた。
「最近はプチトマトばっかりで、大きなトマトを作っている人も減ったみたいだね。大玉のトマトは食べ応えもあるし、使い勝手もいいんだけどさ」
「わかります。それに、ズッキーニが生えているのを見たのは初めてです」
「おや、あんた方、あれがズッキーニだってわかったんだ」
せいぜい裏のプランターに大葉を植えるのが関の山、畑仕事などしたこともなかったが、これでも美音は食に携わる人間の端くれである。ズッキーニがどんな植物で、どんな風に実がなるかぐらいは知っていた。
「カボチャの一種なんですってね。初めて聞いたときはびっくりしましたけど」
「そうだろう、そうだろう。中にはキュウリと同じようなものだと思ってる人もいるからね」
形だけ見ればそうだけど、味はやっぱりキュウリとは違う、と美音が答えると、女性は嬉しそうに頷いた。おそらく、畑の作物のことをよく知っている人間に出会えて嬉しかったのだろう。
「あの畑ならさぞやたくさん穫れるでしょう。お孫さんに届けたくなる気持ちもわかります」
「まあ、そういうわけで時々娘のところに届けに行ってるんだけど、今日は家のことを済ませてからと思ったのがよくなかった。一番暑い時間にバス停まで歩くことになってしまって……」
息は上がるし、目眩はしてくるし、どうしようと思っていたらこの人が声をかけてくださったんだよ、本当に助かった、と女性は改めて馨に頭を下げた。
「道ばたで、肩で息している人がいたから、大丈夫かなと思って声をかけたんだよ。とにかく涼しいところで休んでもらわないと、と思って連れてきちゃった」
馨が女性を見つけたのは商店街からバス通りに続く道でのことだったそうだ。救急車を呼ぶかどうか迷ったものの意識はあるし、少し休めば大丈夫かと思って『ぼったくり』に連れてきたという。
「そうだったの。大事に至らなくてよかったわ。まだしばらくは涼しくなりそうにもないし、日が陰るまで休んでいってくださいな」
美音がそう声をかけると、女性はちょっと困ったような顔になった。
「娘は勤めに出ていて、午後にならないと戻らないんだよ。これぐらいの時間に届けて、娘が帰るまでに夕飯の支度をしておけばいいと思ってね。でもやっぱりこの暑さの中、出歩くのは無謀だったね……」
「そういうことだったんですか」
残念ながら今日は無理そうだ、と女性はしょんぼりしている。美音と馨は顔を見合わせ、次いで壁に掛かっている時計を見上げた。時刻は午後三時になるところ、まだしばらく暑さは去らない。既に体調が悪くなっているのに、また外に出るのは無謀だった。
「しょうがないから、今日は諦めることにするよ」
日が少し陰ったら家に帰るから、それまでもうしばらくお邪魔させてほしい、と女性は申し訳なさそうに言った。
「休んでもらうのは全然かまいませんけど……」
美音は、なんとか娘さんのところに野菜を届ける方法はないかと、思案を巡らす。車でも持っていれば送っていってあげられたのに……と困った顔になった美音を見て、女性は勘違いをしたらしい。
「あ、店を開けるまでには失礼するよ!」
店の造りからして、ここは居酒屋さんなんだろう? 何時に店を開けるんだい? と訊かれて、馨はぶんぶんと首を振った。
「そんなこと気にしないで。それより、娘さんのところってここから遠いの?」
「バスで三十分ぐらいかねえ……」
「それじゃあ、ちょっと間に合わないか……」
馨が大きなため息をついた。馨はきっと、自分が代わりに届けに行こうと思ったのだろう。
だが、ここからバス停まで歩いて、それからバスに乗って、娘さんの家を探して……では、開店までに戻ってこられない。
「いいんだよ。野菜は畑にまだまだあるし、日を改めるよ」
きっとまた機会はあるだろう、と言いつつも女性はさらに肩を落とす。野菜のことよりも娘さんやお孫さんと過ごせなくなったことのほうが残念そうだった。
「お嬢さんは車とかお持ちじゃないんですか?」
「あるにはあるけど、仕事を終えて保育園に孫を迎えに行って、それから晩ご飯の支度……とてもじゃないけど迎えに来てくれなんて言えないよ」
四歳になる孫は男の子で、いつもお腹を空かしている。家に帰ったらできるだけ早くご飯にしてやらないとかわいそうだ、と女性は言う。
「迎えに来てもらって、一緒に外でご飯とかは?」
それなら食事の支度もいらないし、お孫さんもすぐに食べられる、と馨が提案したが、女性は小さく首を振った。
「それができれば苦労はないんだけど、うちの孫はちょっとアレルギーがあってね。外食が難しいんだよ」
牛乳も小麦粉も大豆もだめで、保育園の給食も食べられずお弁当を持参している。アレルギー対応の飲食店はないでもないが、調理器具にまで気を遣ってくれるところは少ない。ひやひやしながら外食するよりも、家で作ったほうが安心なのだと娘さんは言っているそうだ。
「野菜にしても、あたしが作ったものなら農薬やらなんやらの心配もないからね……」
女性が無理をしてでも野菜を届けようとした理由は、新鮮云々もさることながら、お孫さんにとって安心な食べ物ということが大きかったのか……
美音は改めて感心するとともに、なんとかしたいという気持ちをさらに強くした。
「馨、お店に間に合わなくてもかまわないから、届けに行ってあげて」
「でもそれじゃあ、このおば……じゃなくて、えーっと……ごめんなさい、お名前をお訊きしてもいいですか?」
おばさんとおばあさんの選択に迷い、さすがにどっちにしても失礼だと悟ったらしい。おもむろに謝ったあと、馨は女性に名前を訊いた。
女性はそんな馨を笑いながら、自分はツキミというのだと名乗った。
「じゃあ、改めて。届けに行くのはかまわないけど、それじゃあツキミさんが娘さんやお孫さんに会えないでしょ?」
ツキミは野菜の入った手提げの他に小さなボストンバッグを持っている。一泊分ぐらいの荷物が入りそうな大きさだった。もしかしたら野菜を届けたついでに、一晩泊まってくるつもりだったのかもしれない。
「そうねえ……、あ、じゃあ、うちで作られては?」
娘さんが仕事を終えて、お孫さんを連れて帰るのは夕方らしい。それならば、しばらく休憩したあと、ここで食事を作ってはどうか。作り終える頃には日も陰って、少しは過ごしやすくなるだろう。
「あ、それはグッドアイデアだね! お料理ならあたしたちだって手伝えるし、娘さんが迎えに来てくれたとしたら家に帰ってすぐご飯にできるよ」
「でもそれじゃあ、あんまりにも……」
迷惑をかけすぎる、とためらうツキミに、美音はにっこりと笑いかけた。
「私たち、早くに両親を亡くしてるんです。だから、いつも、親孝行のまねごとでもいいからしてみたいって思ってたんですよ。半分私たちのわがままみたいなものですから」
「立派な娘さんがいらっしゃるのに、あたしたちみたいなのはお断りかもしれないけど、気分だけでも味わわせてもらえると嬉しいなあ……って」
姉妹の双方にそう言われ、ツキミは返す言葉をなくしている。だが、実際のところ、日が沈んで涼しくなるまでの時間をここで過ごすならば、その時間を使って料理をするというのは名案のはずだ。しばらく考えた後、ツキミはすまなそうに頷いた。
†
「おや、ズッキーニかい? こりゃまたハイカラだねえ」
カウンターに出されている料理を見て、ウメがからからと笑った。
料理を終えたあと、ツキミは手提げに入れてあった野菜を美音に差し出した。ここまで世話になってお礼もしないのは申し訳なさすぎるというのだ。
『でもそれじゃあ、お孫さんの分が……』
今夜の分はあるにしても、と美音は心配したが、ツキミはぜんぜん大丈夫だと笑った。
『おかげさんで野菜は豊作。畑にまだまだあるし、帰りは娘が車で家まで送ってくれるって言うから、そのときに獲れたてを渡すよ』
それを聞いて、最初は遠慮していた美音も、ありがたく頂戴することにした。何よりも味見をさせてもらったズッキーニがあまりにも美味しくて断り切れなかったというのが真相。
ツキミの孫は化学物質にも敏感で、添加物にもかなり気を配らなければならないらしい。だからこそツキミは無農薬で野菜を栽培し、調味料まで厳選して孫のために料理を作っているそうだ。今日、彼女が作った料理はズッキーニとトマトを豚肉と一緒にコンソメで煮込むだけというシンプルなものだったが、取れたての野菜ならではの深く濃い味わいに美音も馨も目を見張った。だが、それ以上に料理の味を上げていたのは、ツキミの孫を思う気持ちだったのかもしれない。なにせ彼女は、固形のコンソメスープまでアレルギー対応のものを持参していたのだから……
野菜をもらった美音は、ツキミと同じように煮込み料理にすることも考えたが、彼女以上に温かい味にできるかどうか大いに疑問。あれこれ考えた結果、『本日のおすすめ』には、ズッキーニと豚肉の炒め物を入れることにした。
幅広の千切りに刻んだ豚肉に予め醤油とみりんで味付けし、半月状に切ったズッキーニとともに炒めたあと溶き卵を絡める。たっぷりの生姜と、ほんの少量のニンニクを入れた炒め物は、酒の肴にもご飯にもぴったりの一品である。現に、カウンターではリョウがそれをおかずにわしわしとどんぶり飯をかき込んでいる。この暑さの中でも衰えを見せぬ食欲は、飲食を商う者にとっても頼もしい限りだった。
「まったく、相変わらずよく食べるねえ、この子は」
「だってウメさん、この炒め物、めっちゃ飯に合うっす。ズッキーニってカボチャの一種だって聞いてたから、おかずにはどうなんだ? と思ってたけど、濃いめの味付けで、肉もたっぷり。もう言うことないっす!」
「それでいきなりご飯を食べてるってわけかい?」
「だって俺、今日は朝から外に出っぱなしで、まともに昼飯も食えなかったんす。もう腹が減って、腹が減って、酒どころじゃなかったっす」
「おや、そうかい」
あんたの空きっ腹は今日に始まったことでもあるまいに、と笑いながら、ウメは目の前に出された焼酎の梅割りをグビリとやった。
「いやー、こういつまでも暑いとやってらんねえなあ!」
首から下げたタオルで汗を拭き拭き入ってきたのは、足場職人のトクだった。
昨年の冬、トクの弟子が、冬は足場が冷えて辛いとこぼしたらしいが、夏の暑い盛りに足場を組むのも大変だろう。むしろトクのように身体を使って仕事をする人には、冬よりも夏のほうがこたえるに違いない。
「お疲れさまでした。まずビールにしますか? よく冷えたクラフトビールが……」
ビールほど汗に似合う酒はない、と思っての提案だったが、意外にもトクはきっぱりと断った。
「いや、今日は、現場近くの自販機のお茶やら水やらが軒並み売り切れ。スポーツ飲料すらなかった。残ってるのは炭酸ばっかりで、さすがに飽きちまった。泡が立ってない酒がいいな」
そう言いながら『本日のおすすめ』に目をやったトクは、おっ! と小さく声を上げた。
「なんでえ、カワハギのみりん干しが入ってるじゃねえか。これじゃあ日本酒以外の選択肢はねえだろう!」
トクは魚の干物が大好物だ。わけてもみりん干しには目がない。鯖や鰯といった青魚のみりん干しをつまみにぎんぎんに冷えた日本酒を呑むのは、彼の夏の楽しみのひとつだった。
冷蔵庫にはトク好みの辛口の酒が何本も冷えている。その中から、みりん干しに合う銘柄を選べばいい。そう思ってトクの顔を見た美音は、依然として引かない汗に眉をひそめた。
――この汗じゃ、さぞかしのどが渇いているだろうなあ……
どう考えても最適はごくごくやれるビールだ。でも、泡が立つ酒は嫌だと本人が言っている。いくらよく冷えていて、のど越しがいいといっても、冷酒をごくごくやるわけにはいかない。
「トクさん、たまにはウイスキーの水割りはいかが? 意外にみりん干しにはぴったりなんですけど……」
「水割りか……なるほど、それならのどの渇きにもいいな。確かに、みりん干しは甘いからウイスキーには合いそうだ」
「スモーキーなタイプがおすすめです」
「スモーキーか……。輸入物で燻製香が強いのは苦手だな」
「じゃあ……ちょっと控えめな感じで……こちらはどうでしょう?」
そう言って美音が取り出した国産ウイスキーのボトルに、トクは、ほう……と見入った。
「このボトルは見たことがあるな」
「燻製香はウイスキーの持ち味でもあるんですが、日本人の中には苦手だとおっしゃる方も多いんです。でもこの銘柄は、日本人の舌に合うように造られていて、スモーキーなタイプはちょっと、っておっしゃる方にも人気なんですよ」
このウイスキーのほのかな甘みは、みりんの甘みと相まって肉厚なカワハギの味わいを引き立ててくれるだろう。
「よし、こいつは呑んだことはねえが、美音坊がすすめるなら間違いねえだろう。それにするよ」
「はーい!」
馨が元気よく返事をして、大きなグラスを取り出す。美音はその横で、カワハギのみりん干しを焼き始めた。
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