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4巻
4-3
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「これ……食べたことない味だ。なに?」
「ミズっていう山菜です。赤ミズと青ミズがあってこれは赤のほう」
「どう違うの?」
「味も食感もよく似てるんですが、生えてる場所が違うそうです。青ミズは山の奥の涼しくて湿った場所に限られるみたいですが、赤ミズは水があるところならけっこう生えてるらしいです」
「そうか。赤ミズのほうが庶民的なんだな」
山菜相手に庶民的って表現はどうなの? と思わないでもなかったが、手に入れやすいという意味では確かに庶民的なのかもしれない。そう納得した美音は、ちょっと自慢げに言った。
「庶民的なら、うちに似合いですね。しかも塩昆布をまぶしただけっていう手抜き料理ですし、まさしく『ぼったくり』」
「手抜きねえ……」
要はそう言いながら、箸でつまみ上げた赤ミズをしみじみと見た。
「これさ、下拵えが大変じゃないの?」
「え?」
「山菜ってどれも、灰汁を取ったり皮を剥いたりで大変じゃないか」
鋭い……
美音は感心せずにいられなかった。確かに山菜というのは、野菜に比べて断然手がかかる。同じような見てくれであっても、小松菜ならば茹でるだけですむが、赤ミズは皮を剥かなければならない。それをすることでしゃきしゃきの食感が得られるのだが、細い茎の皮を一本一本剥くのは大変な作業だ。しかも店で使うものだから量もそれなりにあって、今日は朝から馨とふたりがかりだった。
そんなに手のかかる山菜だからこそ、せめて味付けぐらいは……と塩昆布であえるだけに止めたのである。
「だと思った。君の言う『手抜き』はたいてい部分的なんだよね」
要はやけに嬉しそうに笑って言う。まるでからくりを見抜いてやったぞ、と言わんばかりの顔だった。
「見た目はすごく簡単そうに見えるけど、裏で随分手をかけてる。だからこそ旨いんだろうね。全編にわたり手抜き一辺倒、とかだったら旨いはずがないよ」
「あ、でも、素材がよければ……」
手をかけないほうが美味しいものだってあります、と続ける前に、要が口を挟んだ。
「その素材を探してくること自体が大変だろう?」
「それだってヒロシさんやミチヤさんが……」
野菜だって魚だって肉だって、商店街の人たちがとびっきりのものを届けてくれる。美音はそれを受け取って料理するだけなのだ。ちっとも大変じゃない。
「確かに出入りの店はよくしてくれるかもしれない。でもそれは君と君のお父さんが作ってきた信頼関係の結果だよ。考えようによっては、下拵えよりずっと手のかかることかもしれない」
その信頼関係に基づく確かな仕入れができないとしたら、きっと君は自ら市場なり産地なりに乗り込んで食材を探すだろう。要するに、手抜きに徹するなんて不可能だね、と要は断言する。
「その恩恵に与る身としては、いつまでもそうあってほしいけど、君は大変だろう。身体を壊しても困るし、あんまり頑張りすぎないほうがいいよ」
そんなにはっきり言葉にしないでほしい……
言葉が足りないと責められる男は多い。要にしても、つい最近までは本当に言葉が足りなくてよくわからない人だと思っていた。けれど、このところの彼はやたらと饒舌で、しかも人の琴線に触れるような言葉ばかりを選び出す。
『ぼったくり』の常連や下町の人たちは、心根は優しいけれど、言葉はぶっきらぼうだったり、足りなかったりする。そんな荒削りな表現に慣れている美音は、要のストレートな労いの言葉に戸惑うばかりだった。
「あ、ありがとうございます。気をつけます」
頭を下げた拍子に、魚の焼き網が目に入った。塩をしたサヨリにこんがりと焦げ目がつきつつある。あわててサヨリをひっくり返したあと、美音は冷蔵庫に向き直り、焼き魚に合う酒を選び始めた。
†
四月も終わりに近づいたある日、カウンターに座ったのはリョウだった。
「あの現場、もう取り壊し終わっちゃったんすね」
「そうね。ブルドーザーとかも残ってないから、整地まで終わったんじゃないかしら」
何かの加減で中止にでもなればいいと思っていたのにがっかりだ、とリョウはつまらなそうに言う。
「しょうがねえさ。始まった工事はそう簡単に止まりゃしねえよ。ま、一杯やんな」
相客のシンゾウは慰めるように言うと、ほどよく冷えた銀ラベルのビールをリョウのグラスに注いだ。ごくごくと中程まで呑んだあと、リョウはまた、あーあ……とため息をつく。
「そんなにため息ばっかりついてないで、これでもご覧くださいな」
そう言うと馨は本日のおすすめの品書きを差し出した。
「ほら、今日はリョウちゃんの大好物があるよ!」
気乗りしない様子で受け取ったリョウは、そこに書かれている料理名を見て歓声を上げた。
「うひょー鯛飯、やったー!! 俺、炊き込み飯系大好き! 美音さん……」
「わかってますって、大盛り、でしょ?」
「ぴんぽーん!!」
急に目を輝かせたリョウに、美音は、あのため息満載の姿はなんだったの、と思う。ふとシンゾウに目をやると、彼も苦笑いを浮かべていた。
「この町を心配してくれてるのかと思いきや、鯛飯ひとつでこれとはな」
「それとこれとは話が別っす!」
やがてリョウは、目一杯盛りあげられた鯛飯を元気よく掻き込み始めた。
が、すぐに、添えてあった山椒の芽を呑み込み損ねてむせてしまい、シンゾウに呆れられる。
「まったく、風情も何もあったもんじゃねえな。せっかく美音坊がいい出汁を使って上品に炊きあげてくれたってのに、台無しだぜ」
「のんびり食ってられないほど旨いんだからしょうがないっす。特にこの、飯がちょっと焦げたとこなんて最高! そもそも、俺に上品さなんて求めるほうが間違ってるっす!」
「ちょっとは努力しやがれ!」
シンゾウはそんな小言を言う。だが、瞬く間に器を空にしてくれるリョウは、料理に花丸をつけてくれているように思える。食べ終わって満足のため息を漏らすリョウを見ながら、美音は上品さなんてどうでもいいと微笑まずにいられなかった。
「……その後、モモコさんはどんな感じですか?」
リョウが大盛りの鯛飯を平らげて帰り、客がシンゾウだけになったところを見計らって、美音は話を切り出した。
「うん。美音坊にも心配かけたが、どうやらやっと重い腰を上げて帰る気になったようだ」
「それはそれは……」
帰る気持ちになったところをみると、家族の間でなにか解決に向かうような話し合いがなされたのだろう。美音はその内容が気になって仕方がなかった。
「家の中でぐらい弱音を吐かせてやらねえと、よそに飛んで出るぞ、って言ってやったんだ」
「よそに……って浮気するってこと?」
馨がぎょっとしたように言う。
「モモコはなあ、ちょっと安心しすぎてるんだ。ついでに、亭主を理想化しすぎてもいる」
自分が好きになって結婚した相手なのだから、ずっと素敵なままでいてほしい。そのためには素敵じゃないところは容赦なく指摘する。自分たちは相思相愛の夫婦なのだから、多少無遠慮な言葉を吐いても大丈夫……
そんな甘えがモモコの中にあるのではないか、とシンゾウは言う。
「でもさあ……素敵なままでいてほしいって当たり前の感情だと思うけど」
「それはそうなんだろうが、やっぱり物には言い方ってのがあるじゃねえか。ただでさえくよくよ悩んでる男相手に、とどめを刺すようなことを言ったんだと思うよ。あいつはそれについて何にも言わねえが、派手に夫婦げんかをやらかしたような気がする。それで帰りにくくなってるんじゃねえかって……」
モモコの夫から全然連絡が入ってこないのがその根拠らしい。今までなら、たとえ一泊二日の帰省であっても、夫のほうからシンゾウあてに『お世話になります』という電話があった。ところが、今回に限って音沙汰なし。滞在も長く、モモコの身体のことだって、カノンのことだって気になるはずなのにおかしすぎる、とシンゾウは説明した。
「なるほど……そう考えると納得がいきますね」
「親しき仲にも礼儀あり、って言うじゃないか。それがあんまり崩れすぎると、男は家を港と思えなくなる。最初はそれですんでも、そのうちよそに港がほしいと思うようになったって不思議じゃねえ」
「確かにそうかも……あたしも気をつけなきゃ……」
哲君がよそに行っちゃったら困る……と馨はちょっと泣きそうな顔になった。シンゾウは、気をつけてれば大丈夫だろうさ、なんて馨を慰めながら話を続ける。
「モモコは旦那にしゃんとしてほしくて、きつい言葉を使っちまったんだと思う。あの性格だから、しゃべってるうちにどんどんエスカレートしちまった可能性もある。旦那だって面白くなかったに違いねえよ」
モモコが、夫相手に言い募る様子が目に浮かぶ。なんでもできて自信たっぷりのモモコだけに、夫はさぞや傷つくことだろう。
「感情的にまくし立てたんじゃ、相手を心配する気持ちは伝わらねえ。家だから、女房相手だから吐いた弱音を、そんな風に叩きつぶしちゃいけねえよ」
「でも話を聞く限り、モモコさんの旦那さんって、けっこうへたれな感じだけど……」
馨は遠慮会釈のない感想を述べる。美音は、あんたはそういうところに気をつけないといけないんじゃないの? と心配してしまうが、馨は本人相手じゃなければいいとでも思っているらしい。あとでちょっとお小言だな、と思いながら美音はシンゾウに訊く。
「本当にそういう感じなんですか?」
「あの男は頑張り屋だよ。医者になれなかったことを悔やんでるのかもしれねえが、薬剤師の仕事を疎かになんてしてない。最新の知識もちゃんと仕入れてるし、たまに会うときは俺の経験談なんかも聞きたがる。失敗しても、同じことを繰り返さねえようにちゃんと気をつけてる。きっと今でも、外ではぱりっとしたいい男なんだよ」
「じゃなきゃ、あのモモコさんが好きになったりしないよね」
「ま、そういうことだな」
「でもさあ、それなら余計に、旦那さんが弱音を吐くのって聞きたくないかも。モモコさんにしてみれば、こんな人じゃなかったはずなのに……ってならない?」
「そのあたりが、今回のもめ事の原因なんだろうな」
「気持ちはわかりますけど、それじゃあ旦那さんも疲れちゃいますね……」
ふたりは薬剤師の国家資格取得を目指してずっと一緒に頑張ってきたと聞いた。モモコの夫は優秀で、モモコが教えを乞うことも多かったらしい。けれど、ひたすら頑張っていた学生時代のイメージを保ち続けるのは大変だろう。特に結婚した相手からそれを求められては、気を許せる場所がなくなってしまう。
「気を許してる相手だからこそ弱音が吐けるんだよね……ってことは、泣きごと言いまくりの哲君は……」
えへへ……と馨は嬉しそうに笑う。よかったな、とシンゾウも笑い返した。
「モモコさんは、シンゾウさんの話を聞いて帰る気になったんですね。よかった……」
そう言いながらも美音は、何となく腑に落ちなかった。何でもできて自信たっぷり、親にさえ泣きごとひとつ言わないモモコが、シンゾウの話を聞いただけで弱音を吐く人間の気持ちを理解するとは思えなかった。
「それがな……あいつも最初は納得しなかったんだ。結婚する前だってしてからだって同じ旦那だ、それなのに……って」
「じゃあどうして……?」
「モモコが言いたい放題できるのは安心してるからだろう、って言ってやった。彼氏ならいざ知らず、旦那なら何を言っても許してくれるって思ってるだろう。言いたい放題してストレス発散してるんじゃねえのか。そいつは形こそ違え、旦那が弱音を吐く気持ちと同じだぜって」
「……そうですね……」
どっちも同じ、家族に対する甘えだ、と言われればそのとおりだった。しかも、過ぎる言葉は頻繁な弱音以上に相手にとって負担なのだとまで言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「あー、それもわかる。さすがシンゾウさん!」
馨は感心して手放しでシンゾウを褒める。だが、シンゾウはなぜか急に居心地悪そうに、椅子の上でもぞもぞと身体を動かした。
「どうかしました?」
「それがよお……」
実は受け売りなんだ、とシンゾウは気まずそうに言う。
「タクのとーちゃんと話したときに、あんたも毎日忙しそうで大変だな、って言ったんだよ。あんまり疲れた顔してたからさ。ま、ここまで来たなら帰りに美音坊のとこでいい酒呑んで、旨いもの食って、ついでに愚痴でも吐いていきなってさ」
「あら、それは宣伝ありがとうございます」
要は相変わらず遅い時間にばかり現れる。でも、このところはあまり疲れた様子は見せていない。新しく任された仕事は大変だけど楽しい、とばかり言っていた。その要が、シンゾウにはそんなに疲れた様子を見せたのが美音には意外だった。
「いや、あからさまに疲れた、って感じじゃねえが、俺も商売だから何となくわかる。これは相当根詰めてるなあってな。で、もう夕方だったから、なんなら一緒に行くか? って誘ってみたんだ」
「え、でも……」
馨が記憶を探るように目を泳がせた。ここ数日、シンゾウと要が連れだって来たことなどなかったはずだ。
「ああ、きっぱり断られちまったんだ」
「あれー、勧誘失敗かあ……。つれないなあ、要さん。寄ってくれればいいのに」
「あいつな、工事のことでなんだかもめたばっかりだったらしい。このまま『ぼったくり』に行ったら愚痴吐きっぱなしになるから今日はやめておく、って言ってた」
「別に愚痴ぐらい聞くのに……うちはそういう店なんですから」
「俺もそう言ったんだよ。美音坊なら聞いてくれるぞ、って。だがな、今の気分だと、仕事相手を罵りまくりそうだから遠慮しておく、だとさ」
シンゾウが、それだって愚痴のうちだろう? と返すと、要はきっぱり言ったそうだ。
『おれってなんて無能なんだ、って嘆くだけならまだしも、あいつのせいで上手くいかない、とか言い出すのはみっともないですよ。人の悪口って、聞いて気持ちがいいものじゃありません。誰かを貶める言葉は、たとえ自分に向けられたものじゃなくても、気分をささくれ立たせる気がします。だから今日はパスさせてください』
せっかく誘ってもらったのに申し訳ありません、と頭を下げ、要は去っていったそうだ。
「確かに、きつい言葉ってのは誰の耳にもきつく聞こえると思ったね。モモコは愚痴ばっかりって言うけど、あいつにぽんぽん言われる旦那だってたまらねえだろう。人の悪口どころか、もろに自分への非難だからな。たとえ心配からくる叱咤激励にしたって、モモコの言葉は容赦なさすぎる。限度があるさ」
そのあと家に帰ったシンゾウは、その話をモモコにしたという。
家族だからって何を言ってもいいってもんじゃない。愚痴を吐くのも、不用意な言葉をぶつけるのも、甘えの一種だ。もしもお前が旦那の愚痴を聞きたくないと思うのなら、旦那だってお前のきつい言葉なんて聞きたくないだろう……
モモコは黙って考えていたあと、二階に上がっていったそうだ。おそらく夫に電話をかけに行ったのだろう。しばらくしてすっきりとした顔で下りてきたモモコは、そろそろ帰ることにする、と言ったらしい。
「やっぱりモモコさんってすごいです。悪いと思ったらすぐに謝れるんだから」
頑として自分の非を認めない人間もいる。けれどモモコは、シンゾウに言い聞かされたことで自分にも悪いところがあったと認め、すぐに謝った。それは決して簡単なことではない。
モモコにそれができるのは、おそらく小さいころからシンゾウやサヨがそのように育ててきたからだろう。間違ったら直す、迷惑をかけたら謝る、というシンゾウ夫婦の背中を、モモコはしっかり見て育ってきたに違いない。
美音がそんな感想を漏らすと、シンゾウはちょっとくすぐったそうな顔で言った。
「人間は間違うものさ。でも、そのあとどうするかで値打ちが決まるからな」
「ほんとだね。あたしも見習わなきゃ! これで一件落着。でもシンゾウさんもサヨさんも、寂しくなっちゃうね」
「こんな暮らしに慣れると、あとが大変だから、このあたりが頃合いだろうさ」
店番を代わってもらえるのは楽だからなあ、とシンゾウは笑う。それでも、どこかモモコが帰ってしまう寂しさが滲んでいて、美音は切なくなる。
「赤ちゃんを産みに帰ってくるの、楽しみだね!」
「楽しみばっかりじゃねえけどな、赤ん坊って大変だし」
「とか何とか言っちゃって~!」
ふたりのお孫さんを引き連れて町中見せて歩くんでしょ、と馨に突っ込まれ、よせやい! と言い返す。それでも、何ヶ月か先に実現するその光景を想像したらしく、シンゾウの目尻がわずかに下がった。
「モモコさんの件は無事解決。よかったね、お姉ちゃん。それにしても要さん、かっこいいね。漢字の漢って書いて『おとこ』って感じ」
シンゾウを見送ったあと、馨がそんな感想を漏らした。
愚痴も人の悪口もどれだけ言ってくれても構わない。それで少しでも楽になれるなら、ちゃんと全部聞く。
確かに、悪口を言う人はいい印象を与えない。けれど、普段から黙々と頑張っている人が、耐えかねたように漏らす悪口はちょっと違う。たかが呑み屋の店主にそこまで気を遣える要が、人の悪口を言いたくなったのは、それだけ相手がたまりかねるようなことをしたからだろう――
そう思えるほどには、要という客を理解しているつもりだった。それが彼自身に伝わっていなかったことが、美音にはとても寂しかった。
「そんないいかっこしなくても、ちゃんとわかってるのに……」
「かっこつけたいお年頃なんじゃない?」
うちの常連の中では若いほうだし、まだまだ見栄も張りたいんだよ、と馨は笑う。
「無理して全部呑み込まなくていいじゃない。外に出すのはきれいで優しい言葉ばっかり。そんなだからサヨリになっちゃうんだよ」
「サヨリって?」
「お腹の中が真っ黒なんだって、あの人。自分でそう言ってたわ」
「なにそれ!」
馨はそれを聞いたときの美音同様、盛大に笑いこけたあと、したり顔で続ける。
「でもまあ……サヨリの外見しか知らない人は、お腹の中があんなに真っ黒だってわかったらびっくりしちゃうよね。見せないほうがいいのかも……」
そう言うと馨は壁の時計を見上げ、いそいそと帰り支度を始めた。おそらく、急いで帰って哲に連絡でもするのだろう。
――おれだって人間だからたまには落ち込むし、うじうじもする。おれが本気で愚痴りだしたら目も当てられないよ。罵詈雑言吐きまくるかも。
以前、要はそう言っていた。それなのに、実際の彼はそういう思いを全部お腹に閉じ込めて、一生懸命きれいな外見を守ろうとしている。
モモコが言いたい放題になったり、モモコの夫が弱音を吐きまくったりするのは、お互いへの信頼があるからだ。その信頼に甘えすぎてはいけないというのは事実だし、シンゾウとの会話から推察するに、要もそう考えているらしい。けれど、弱いところや汚いところは一切見せません、言葉も姿もきれいなところだけご覧ください、というのはあまりにも無理のしすぎ、意地の張りすぎのように思えた。
美音は、意地っ張りなサヨリの姿を思い浮かべる。おそらく今日も、へとへとになるまで仕事をして、疲れ切っていることだろう。
彼にだって、本当の自分を見せられる相手が必要だ。お腹が真っ黒でも真っ白でも気兼ねなくさらけ出せる相手が……。要のために、どこかにそんな人がいてほしい。
そう願った瞬間、美音の心の中に微かな風が吹いた。その風の微妙な冷たさが、お前も意地っ張りなサヨリだよ……と囁いているようだった。
「ミズっていう山菜です。赤ミズと青ミズがあってこれは赤のほう」
「どう違うの?」
「味も食感もよく似てるんですが、生えてる場所が違うそうです。青ミズは山の奥の涼しくて湿った場所に限られるみたいですが、赤ミズは水があるところならけっこう生えてるらしいです」
「そうか。赤ミズのほうが庶民的なんだな」
山菜相手に庶民的って表現はどうなの? と思わないでもなかったが、手に入れやすいという意味では確かに庶民的なのかもしれない。そう納得した美音は、ちょっと自慢げに言った。
「庶民的なら、うちに似合いですね。しかも塩昆布をまぶしただけっていう手抜き料理ですし、まさしく『ぼったくり』」
「手抜きねえ……」
要はそう言いながら、箸でつまみ上げた赤ミズをしみじみと見た。
「これさ、下拵えが大変じゃないの?」
「え?」
「山菜ってどれも、灰汁を取ったり皮を剥いたりで大変じゃないか」
鋭い……
美音は感心せずにいられなかった。確かに山菜というのは、野菜に比べて断然手がかかる。同じような見てくれであっても、小松菜ならば茹でるだけですむが、赤ミズは皮を剥かなければならない。それをすることでしゃきしゃきの食感が得られるのだが、細い茎の皮を一本一本剥くのは大変な作業だ。しかも店で使うものだから量もそれなりにあって、今日は朝から馨とふたりがかりだった。
そんなに手のかかる山菜だからこそ、せめて味付けぐらいは……と塩昆布であえるだけに止めたのである。
「だと思った。君の言う『手抜き』はたいてい部分的なんだよね」
要はやけに嬉しそうに笑って言う。まるでからくりを見抜いてやったぞ、と言わんばかりの顔だった。
「見た目はすごく簡単そうに見えるけど、裏で随分手をかけてる。だからこそ旨いんだろうね。全編にわたり手抜き一辺倒、とかだったら旨いはずがないよ」
「あ、でも、素材がよければ……」
手をかけないほうが美味しいものだってあります、と続ける前に、要が口を挟んだ。
「その素材を探してくること自体が大変だろう?」
「それだってヒロシさんやミチヤさんが……」
野菜だって魚だって肉だって、商店街の人たちがとびっきりのものを届けてくれる。美音はそれを受け取って料理するだけなのだ。ちっとも大変じゃない。
「確かに出入りの店はよくしてくれるかもしれない。でもそれは君と君のお父さんが作ってきた信頼関係の結果だよ。考えようによっては、下拵えよりずっと手のかかることかもしれない」
その信頼関係に基づく確かな仕入れができないとしたら、きっと君は自ら市場なり産地なりに乗り込んで食材を探すだろう。要するに、手抜きに徹するなんて不可能だね、と要は断言する。
「その恩恵に与る身としては、いつまでもそうあってほしいけど、君は大変だろう。身体を壊しても困るし、あんまり頑張りすぎないほうがいいよ」
そんなにはっきり言葉にしないでほしい……
言葉が足りないと責められる男は多い。要にしても、つい最近までは本当に言葉が足りなくてよくわからない人だと思っていた。けれど、このところの彼はやたらと饒舌で、しかも人の琴線に触れるような言葉ばかりを選び出す。
『ぼったくり』の常連や下町の人たちは、心根は優しいけれど、言葉はぶっきらぼうだったり、足りなかったりする。そんな荒削りな表現に慣れている美音は、要のストレートな労いの言葉に戸惑うばかりだった。
「あ、ありがとうございます。気をつけます」
頭を下げた拍子に、魚の焼き網が目に入った。塩をしたサヨリにこんがりと焦げ目がつきつつある。あわててサヨリをひっくり返したあと、美音は冷蔵庫に向き直り、焼き魚に合う酒を選び始めた。
†
四月も終わりに近づいたある日、カウンターに座ったのはリョウだった。
「あの現場、もう取り壊し終わっちゃったんすね」
「そうね。ブルドーザーとかも残ってないから、整地まで終わったんじゃないかしら」
何かの加減で中止にでもなればいいと思っていたのにがっかりだ、とリョウはつまらなそうに言う。
「しょうがねえさ。始まった工事はそう簡単に止まりゃしねえよ。ま、一杯やんな」
相客のシンゾウは慰めるように言うと、ほどよく冷えた銀ラベルのビールをリョウのグラスに注いだ。ごくごくと中程まで呑んだあと、リョウはまた、あーあ……とため息をつく。
「そんなにため息ばっかりついてないで、これでもご覧くださいな」
そう言うと馨は本日のおすすめの品書きを差し出した。
「ほら、今日はリョウちゃんの大好物があるよ!」
気乗りしない様子で受け取ったリョウは、そこに書かれている料理名を見て歓声を上げた。
「うひょー鯛飯、やったー!! 俺、炊き込み飯系大好き! 美音さん……」
「わかってますって、大盛り、でしょ?」
「ぴんぽーん!!」
急に目を輝かせたリョウに、美音は、あのため息満載の姿はなんだったの、と思う。ふとシンゾウに目をやると、彼も苦笑いを浮かべていた。
「この町を心配してくれてるのかと思いきや、鯛飯ひとつでこれとはな」
「それとこれとは話が別っす!」
やがてリョウは、目一杯盛りあげられた鯛飯を元気よく掻き込み始めた。
が、すぐに、添えてあった山椒の芽を呑み込み損ねてむせてしまい、シンゾウに呆れられる。
「まったく、風情も何もあったもんじゃねえな。せっかく美音坊がいい出汁を使って上品に炊きあげてくれたってのに、台無しだぜ」
「のんびり食ってられないほど旨いんだからしょうがないっす。特にこの、飯がちょっと焦げたとこなんて最高! そもそも、俺に上品さなんて求めるほうが間違ってるっす!」
「ちょっとは努力しやがれ!」
シンゾウはそんな小言を言う。だが、瞬く間に器を空にしてくれるリョウは、料理に花丸をつけてくれているように思える。食べ終わって満足のため息を漏らすリョウを見ながら、美音は上品さなんてどうでもいいと微笑まずにいられなかった。
「……その後、モモコさんはどんな感じですか?」
リョウが大盛りの鯛飯を平らげて帰り、客がシンゾウだけになったところを見計らって、美音は話を切り出した。
「うん。美音坊にも心配かけたが、どうやらやっと重い腰を上げて帰る気になったようだ」
「それはそれは……」
帰る気持ちになったところをみると、家族の間でなにか解決に向かうような話し合いがなされたのだろう。美音はその内容が気になって仕方がなかった。
「家の中でぐらい弱音を吐かせてやらねえと、よそに飛んで出るぞ、って言ってやったんだ」
「よそに……って浮気するってこと?」
馨がぎょっとしたように言う。
「モモコはなあ、ちょっと安心しすぎてるんだ。ついでに、亭主を理想化しすぎてもいる」
自分が好きになって結婚した相手なのだから、ずっと素敵なままでいてほしい。そのためには素敵じゃないところは容赦なく指摘する。自分たちは相思相愛の夫婦なのだから、多少無遠慮な言葉を吐いても大丈夫……
そんな甘えがモモコの中にあるのではないか、とシンゾウは言う。
「でもさあ……素敵なままでいてほしいって当たり前の感情だと思うけど」
「それはそうなんだろうが、やっぱり物には言い方ってのがあるじゃねえか。ただでさえくよくよ悩んでる男相手に、とどめを刺すようなことを言ったんだと思うよ。あいつはそれについて何にも言わねえが、派手に夫婦げんかをやらかしたような気がする。それで帰りにくくなってるんじゃねえかって……」
モモコの夫から全然連絡が入ってこないのがその根拠らしい。今までなら、たとえ一泊二日の帰省であっても、夫のほうからシンゾウあてに『お世話になります』という電話があった。ところが、今回に限って音沙汰なし。滞在も長く、モモコの身体のことだって、カノンのことだって気になるはずなのにおかしすぎる、とシンゾウは説明した。
「なるほど……そう考えると納得がいきますね」
「親しき仲にも礼儀あり、って言うじゃないか。それがあんまり崩れすぎると、男は家を港と思えなくなる。最初はそれですんでも、そのうちよそに港がほしいと思うようになったって不思議じゃねえ」
「確かにそうかも……あたしも気をつけなきゃ……」
哲君がよそに行っちゃったら困る……と馨はちょっと泣きそうな顔になった。シンゾウは、気をつけてれば大丈夫だろうさ、なんて馨を慰めながら話を続ける。
「モモコは旦那にしゃんとしてほしくて、きつい言葉を使っちまったんだと思う。あの性格だから、しゃべってるうちにどんどんエスカレートしちまった可能性もある。旦那だって面白くなかったに違いねえよ」
モモコが、夫相手に言い募る様子が目に浮かぶ。なんでもできて自信たっぷりのモモコだけに、夫はさぞや傷つくことだろう。
「感情的にまくし立てたんじゃ、相手を心配する気持ちは伝わらねえ。家だから、女房相手だから吐いた弱音を、そんな風に叩きつぶしちゃいけねえよ」
「でも話を聞く限り、モモコさんの旦那さんって、けっこうへたれな感じだけど……」
馨は遠慮会釈のない感想を述べる。美音は、あんたはそういうところに気をつけないといけないんじゃないの? と心配してしまうが、馨は本人相手じゃなければいいとでも思っているらしい。あとでちょっとお小言だな、と思いながら美音はシンゾウに訊く。
「本当にそういう感じなんですか?」
「あの男は頑張り屋だよ。医者になれなかったことを悔やんでるのかもしれねえが、薬剤師の仕事を疎かになんてしてない。最新の知識もちゃんと仕入れてるし、たまに会うときは俺の経験談なんかも聞きたがる。失敗しても、同じことを繰り返さねえようにちゃんと気をつけてる。きっと今でも、外ではぱりっとしたいい男なんだよ」
「じゃなきゃ、あのモモコさんが好きになったりしないよね」
「ま、そういうことだな」
「でもさあ、それなら余計に、旦那さんが弱音を吐くのって聞きたくないかも。モモコさんにしてみれば、こんな人じゃなかったはずなのに……ってならない?」
「そのあたりが、今回のもめ事の原因なんだろうな」
「気持ちはわかりますけど、それじゃあ旦那さんも疲れちゃいますね……」
ふたりは薬剤師の国家資格取得を目指してずっと一緒に頑張ってきたと聞いた。モモコの夫は優秀で、モモコが教えを乞うことも多かったらしい。けれど、ひたすら頑張っていた学生時代のイメージを保ち続けるのは大変だろう。特に結婚した相手からそれを求められては、気を許せる場所がなくなってしまう。
「気を許してる相手だからこそ弱音が吐けるんだよね……ってことは、泣きごと言いまくりの哲君は……」
えへへ……と馨は嬉しそうに笑う。よかったな、とシンゾウも笑い返した。
「モモコさんは、シンゾウさんの話を聞いて帰る気になったんですね。よかった……」
そう言いながらも美音は、何となく腑に落ちなかった。何でもできて自信たっぷり、親にさえ泣きごとひとつ言わないモモコが、シンゾウの話を聞いただけで弱音を吐く人間の気持ちを理解するとは思えなかった。
「それがな……あいつも最初は納得しなかったんだ。結婚する前だってしてからだって同じ旦那だ、それなのに……って」
「じゃあどうして……?」
「モモコが言いたい放題できるのは安心してるからだろう、って言ってやった。彼氏ならいざ知らず、旦那なら何を言っても許してくれるって思ってるだろう。言いたい放題してストレス発散してるんじゃねえのか。そいつは形こそ違え、旦那が弱音を吐く気持ちと同じだぜって」
「……そうですね……」
どっちも同じ、家族に対する甘えだ、と言われればそのとおりだった。しかも、過ぎる言葉は頻繁な弱音以上に相手にとって負担なのだとまで言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「あー、それもわかる。さすがシンゾウさん!」
馨は感心して手放しでシンゾウを褒める。だが、シンゾウはなぜか急に居心地悪そうに、椅子の上でもぞもぞと身体を動かした。
「どうかしました?」
「それがよお……」
実は受け売りなんだ、とシンゾウは気まずそうに言う。
「タクのとーちゃんと話したときに、あんたも毎日忙しそうで大変だな、って言ったんだよ。あんまり疲れた顔してたからさ。ま、ここまで来たなら帰りに美音坊のとこでいい酒呑んで、旨いもの食って、ついでに愚痴でも吐いていきなってさ」
「あら、それは宣伝ありがとうございます」
要は相変わらず遅い時間にばかり現れる。でも、このところはあまり疲れた様子は見せていない。新しく任された仕事は大変だけど楽しい、とばかり言っていた。その要が、シンゾウにはそんなに疲れた様子を見せたのが美音には意外だった。
「いや、あからさまに疲れた、って感じじゃねえが、俺も商売だから何となくわかる。これは相当根詰めてるなあってな。で、もう夕方だったから、なんなら一緒に行くか? って誘ってみたんだ」
「え、でも……」
馨が記憶を探るように目を泳がせた。ここ数日、シンゾウと要が連れだって来たことなどなかったはずだ。
「ああ、きっぱり断られちまったんだ」
「あれー、勧誘失敗かあ……。つれないなあ、要さん。寄ってくれればいいのに」
「あいつな、工事のことでなんだかもめたばっかりだったらしい。このまま『ぼったくり』に行ったら愚痴吐きっぱなしになるから今日はやめておく、って言ってた」
「別に愚痴ぐらい聞くのに……うちはそういう店なんですから」
「俺もそう言ったんだよ。美音坊なら聞いてくれるぞ、って。だがな、今の気分だと、仕事相手を罵りまくりそうだから遠慮しておく、だとさ」
シンゾウが、それだって愚痴のうちだろう? と返すと、要はきっぱり言ったそうだ。
『おれってなんて無能なんだ、って嘆くだけならまだしも、あいつのせいで上手くいかない、とか言い出すのはみっともないですよ。人の悪口って、聞いて気持ちがいいものじゃありません。誰かを貶める言葉は、たとえ自分に向けられたものじゃなくても、気分をささくれ立たせる気がします。だから今日はパスさせてください』
せっかく誘ってもらったのに申し訳ありません、と頭を下げ、要は去っていったそうだ。
「確かに、きつい言葉ってのは誰の耳にもきつく聞こえると思ったね。モモコは愚痴ばっかりって言うけど、あいつにぽんぽん言われる旦那だってたまらねえだろう。人の悪口どころか、もろに自分への非難だからな。たとえ心配からくる叱咤激励にしたって、モモコの言葉は容赦なさすぎる。限度があるさ」
そのあと家に帰ったシンゾウは、その話をモモコにしたという。
家族だからって何を言ってもいいってもんじゃない。愚痴を吐くのも、不用意な言葉をぶつけるのも、甘えの一種だ。もしもお前が旦那の愚痴を聞きたくないと思うのなら、旦那だってお前のきつい言葉なんて聞きたくないだろう……
モモコは黙って考えていたあと、二階に上がっていったそうだ。おそらく夫に電話をかけに行ったのだろう。しばらくしてすっきりとした顔で下りてきたモモコは、そろそろ帰ることにする、と言ったらしい。
「やっぱりモモコさんってすごいです。悪いと思ったらすぐに謝れるんだから」
頑として自分の非を認めない人間もいる。けれどモモコは、シンゾウに言い聞かされたことで自分にも悪いところがあったと認め、すぐに謝った。それは決して簡単なことではない。
モモコにそれができるのは、おそらく小さいころからシンゾウやサヨがそのように育ててきたからだろう。間違ったら直す、迷惑をかけたら謝る、というシンゾウ夫婦の背中を、モモコはしっかり見て育ってきたに違いない。
美音がそんな感想を漏らすと、シンゾウはちょっとくすぐったそうな顔で言った。
「人間は間違うものさ。でも、そのあとどうするかで値打ちが決まるからな」
「ほんとだね。あたしも見習わなきゃ! これで一件落着。でもシンゾウさんもサヨさんも、寂しくなっちゃうね」
「こんな暮らしに慣れると、あとが大変だから、このあたりが頃合いだろうさ」
店番を代わってもらえるのは楽だからなあ、とシンゾウは笑う。それでも、どこかモモコが帰ってしまう寂しさが滲んでいて、美音は切なくなる。
「赤ちゃんを産みに帰ってくるの、楽しみだね!」
「楽しみばっかりじゃねえけどな、赤ん坊って大変だし」
「とか何とか言っちゃって~!」
ふたりのお孫さんを引き連れて町中見せて歩くんでしょ、と馨に突っ込まれ、よせやい! と言い返す。それでも、何ヶ月か先に実現するその光景を想像したらしく、シンゾウの目尻がわずかに下がった。
「モモコさんの件は無事解決。よかったね、お姉ちゃん。それにしても要さん、かっこいいね。漢字の漢って書いて『おとこ』って感じ」
シンゾウを見送ったあと、馨がそんな感想を漏らした。
愚痴も人の悪口もどれだけ言ってくれても構わない。それで少しでも楽になれるなら、ちゃんと全部聞く。
確かに、悪口を言う人はいい印象を与えない。けれど、普段から黙々と頑張っている人が、耐えかねたように漏らす悪口はちょっと違う。たかが呑み屋の店主にそこまで気を遣える要が、人の悪口を言いたくなったのは、それだけ相手がたまりかねるようなことをしたからだろう――
そう思えるほどには、要という客を理解しているつもりだった。それが彼自身に伝わっていなかったことが、美音にはとても寂しかった。
「そんないいかっこしなくても、ちゃんとわかってるのに……」
「かっこつけたいお年頃なんじゃない?」
うちの常連の中では若いほうだし、まだまだ見栄も張りたいんだよ、と馨は笑う。
「無理して全部呑み込まなくていいじゃない。外に出すのはきれいで優しい言葉ばっかり。そんなだからサヨリになっちゃうんだよ」
「サヨリって?」
「お腹の中が真っ黒なんだって、あの人。自分でそう言ってたわ」
「なにそれ!」
馨はそれを聞いたときの美音同様、盛大に笑いこけたあと、したり顔で続ける。
「でもまあ……サヨリの外見しか知らない人は、お腹の中があんなに真っ黒だってわかったらびっくりしちゃうよね。見せないほうがいいのかも……」
そう言うと馨は壁の時計を見上げ、いそいそと帰り支度を始めた。おそらく、急いで帰って哲に連絡でもするのだろう。
――おれだって人間だからたまには落ち込むし、うじうじもする。おれが本気で愚痴りだしたら目も当てられないよ。罵詈雑言吐きまくるかも。
以前、要はそう言っていた。それなのに、実際の彼はそういう思いを全部お腹に閉じ込めて、一生懸命きれいな外見を守ろうとしている。
モモコが言いたい放題になったり、モモコの夫が弱音を吐きまくったりするのは、お互いへの信頼があるからだ。その信頼に甘えすぎてはいけないというのは事実だし、シンゾウとの会話から推察するに、要もそう考えているらしい。けれど、弱いところや汚いところは一切見せません、言葉も姿もきれいなところだけご覧ください、というのはあまりにも無理のしすぎ、意地の張りすぎのように思えた。
美音は、意地っ張りなサヨリの姿を思い浮かべる。おそらく今日も、へとへとになるまで仕事をして、疲れ切っていることだろう。
彼にだって、本当の自分を見せられる相手が必要だ。お腹が真っ黒でも真っ白でも気兼ねなくさらけ出せる相手が……。要のために、どこかにそんな人がいてほしい。
そう願った瞬間、美音の心の中に微かな風が吹いた。その風の微妙な冷たさが、お前も意地っ張りなサヨリだよ……と囁いているようだった。
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