居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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4巻

4-2

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「まったく、あのお調子者は……」
「お調子者だって悩みがないわけじゃないもん」

 馨は憤然ふんぜんとしてモモコをかばう。きっと末っ子同士、気持ちがわかるのだろう。

「そいつは失礼した。だが、いったい何で……。あいつは亭主にべた惚れで、亭主さえいれば大丈夫だって言い張ってやがった。亭主のほうだってモモコを気に入ってくれてたし、俺たち夫婦も、これなら離れたところに出しても大丈夫だろうって……」
「そうだよね、モモコさん、誰にも負けないぐらいラブラブ夫婦になるんだって言ってたもんね」

 そのモモコさんが夫婦喧嘩、しかも実家に帰るほどって……と馨も首を捻っている。

「自分に自信がありすぎるのが問題なのかも……って言ってたわ」

 薬学部の入学試験は難しいと聞いている。モモコはそれを楽々突破して入学、国家試験にもすんなり通った。将来の伴侶も早々に決め、彼の親が営む病院で働くことになった。実家からは遠く離れているし、両親のことや薬局の今後も気になるけれど、それは仕方がない。おおむね順調な人生を歩んでいるとモモコ自身も思っていた。
 ところが、いざ結婚してみたら、同じ病院に勤める医者の大半が彼の一族だった。しかも夫自身、医学部を目指すもかなわず薬学部に転進したという過去があり、家族に対する劣等感が強い。
 仕事を始めたばかりのころは、失敗もたくさんしたし、身内だから余計に厳しく言われることも多かった。でもそれは、仕事に慣れて病院の役に立つうちに変わっていくだろうと思っていた。ところが、二年、三年と過ぎても夫が自分を卑下する気持ちは変わらず、むしろどんどん大きくなっていった。
 そのうち家族、特に夫の兄弟の伴侶たちが、薬剤師夫婦であるモモコたちを軽んじ始めた。最近では、本人が医者にならないのなら、せめて医者と結婚してくれればよかったのに、と嘆くようになってきた。

「うちの病院、お医者さんが足りないのよ。特に女医さんがほしいみたいで……」

 モモコの夫が、小児科とか産婦人科の女性医師と結婚してくれれば、うちの病院で働いてもらえたのに、とまで言われたらしい。
 そうなると、モモコだって面白くない。自分自身を否定されたも同然だからだ。

「彼には、薬剤師のどこが悪いのって言ったんだけどね……」

 夫は小さいころから医者の中で育ち、自分も医者になるとばかり思ってきた。それなのに医者になれなかった――その悔しさ、情けなさは、どうやっても払拭できない。親族が医者ばかりという状況がさらに拍車をかけ、夫はうつむくばかり。その状況にうんざりしているのだ、とモモコは言う。

「私はお父さんが町の人たちの身体を心配して相談に乗ったり、簡単にできる健康法をすすめたりする姿を見て育ってきたの。だから、薬剤師の果たす役割についてはよく知ってるし、誇りも持っているのよ。医師は病気や怪我を治す大事な仕事だけど、薬剤師だってそれに負けず劣らず立派な仕事なの。そのことを彼にもわかってもらいたいのに……」

 もちろん、町の薬局と大病院の院内薬局とでは認識が違うのかもしれないけれど……とモモコはもどかしそうに語った。


「モモコさん、すごく悔しそうでした。『うちは代々薬屋で、それを卑下したことなんて一度もない!』って」
「へえ……そうかい」

 シンゾウがわずかに頬を緩めた。
 薬剤師という職業を選んだ時点で、モモコが家業に否定的ではないことはわかっていた。それをはっきりと口に出されたことで確証を得た、といったところだろう。

「やっぱり何浪してでも医師を目指すんだった、って嘆かれると、ふざけるなって言い返したくなるそうです。だいたい、目の前に同じ薬剤師がいるのにその発言は何なの、私に対する配慮は全然ないの? って腹が立つって」
「それで急に帰ってきたってわけか……」

 これまでは、たまに帰ってくることがあってもせいぜい一泊二日。今回のように、しばらくお世話になるわ、なんて長期戦覚悟で乗り込んでくることなどなかった。しかも後顧こうこうれいなしを狙ってか、娘まで連れて……

「それでモモコさん、仕事は大丈夫なの?」

 先の見えない休暇ってありなの? と馨が心配そうな顔をする。確かに、いくら大病院で薬剤師が何人もいるといっても、休み続けるのは問題があるだろう。だが、それに関しては大丈夫らしい、とシンゾウがちょっと嬉しそうに言う。

「あいつ、言わなかったのか? 今、腹にふたり目がいるんだ」
「え!? そうなの!?」

 そんな話は一言も出なかった、と美音は目を見張る。馨は、わあー、じゃあまたこっちに帰ってきて産むのかな、楽しみ~と脳天気に喜んでいる。ひとり目のときは里帰り出産でこの町に帰ってきた。きっと今回もそうだろう、と期待しているらしい。

「まあ、そうなるだろうな。こっちで産むなら、一度はてもらわなきゃならないからって休みを取ってきたらしいし」
「やったー! じゃあそのときはカノンちゃんともいっぱい遊べるね」

 馨は動物も好きだが子どもも大好きだ。だが、あいにくこの町には幼児が少ない。たとえ一時的にでも、年寄りが多いこの町に子どもが増えるのは嬉しい、と大喜びしている。もちろんそれは、美音も同様だった。だが、それが理由で帰ってきたとわかっているなら、なぜシンゾウは、なんか理由がありそうだから話を聞いてみてくれないか、などと言ったのだろう。
 その疑問を口にした美音に、シンゾウは少しきまり悪そうに答えた。

「いや、俺じゃなくてサヨがさ……」

 戻ってきたモモコの様子をしばらく見ていた妻のサヨが、あの子ちょっと変だわ……と言い出したそうだ。
 きっと悩みがあるに違いない。でもあの子のことだから、私たちに心配かけたくなくて言い出せずにいるのだろう。なんとか探れないものかしら、と……

「母親って奴は恐ろしいね。ずーっと離れて暮らしてる娘の顔色を一発で読むんだからさ」

 そりゃあ亭主の悪行もすぐばれるってもんだわ、とシンゾウは苦笑いを浮かべる。美音から見れば、シンゾウは悪行などとは縁がなさそうに思える。でもそれは今となってはの話で、若いころはやんちゃだったのかもしれない。

「お母さんっていうのは、それだけ子どもを見てるんだろうね。ちょっと違ったところがあればすぐわかるぐらい……」

 馨が少し遠い目をしてそう言った。おそらく、亡くなった母に思いをせているのだろう。

「まあそうだろうな。父親のほうはてんでほったらかしだけどな」

 シンゾウは、今度は苦笑いではなく、はははっ! と元気よく笑った。美音と馨は顔を見合わせて、くすりと笑う。
 ほったらかしなんてとんでもない。やるべきことは充分にやっている。だからこそ、こんな風に茶化せるのだと姉妹にはちゃんとわかっていた。

「にしても……モモコの亭主にも困ったもんだな」
「自信のない男っていらいらするよね!」

 まったくさあ! と馨はちょっと鼻息を荒くする。

「おや? やけに厳しいねえ、馨ちゃん」
「だって、哲君もときどきそうなるんだもん! 俺なんか、俺なんかって言われたら、その俺のことが好きなあたしはどうなるの? って思わない?」
「なんでえ、ただの惚気のろけか」
「え……?」

 馨には、そんなつもりはまったくなかったのだろう。でも、聞いているほうにしてみれば、それは明らかに惚気。シンゾウに一刀両断されて当然だった。

「でも、モモコさんにも同じような気持ちがあるのかもしれないよ。薬剤師って仕事を軽んじられて面白くないのと同時に、旦那さんがそれに負けてるのも情けない、私が好きになった人なのに……って」
「あるかもなあ。モモコはあれでけっこう旦那に惚れてるし、必要以上に自信たっぷりのところがあるから、そうじゃない人間を見るといらいらもするだろう。ましてや自分が選んだ相手がそれじゃ」

 必要以上ということはないだろう、と美音は思う。
『男は外、女は家』の時代は遠く去ったとはいっても、女性が仕事を続けていくのはまだまだ楽ではない。モモコのように国家資格を持つ専門職にしても、いろいろ難しいことがあるだろう。女ながらに居酒屋のれんを守る美音にはなんとなくわかる。
 難しいあれこれに立ち向かうために、自信はあるに越したことはない。美音にしても、今日一日を何とか乗り切ろうと、精一杯胸を張っているのだ。
 でも、美音たち姉妹に母としての気持ちがわからないのと同様に、シンゾウにも働く女性であるモモコの気持ちを計りかねる部分があるのかもしれない。そう思った美音は、あえてそれについて語ることはしなかった。

「ワンマンで俺様すぎる男も面倒だけど、その逆もね」
「なにごともほどほどがいいってところだな」
「ほんとほんと」

 シンゾウと馨は何やら意気投合している。ふたりの会話を聞きながら、美音はなおも考え続ける。
 自信がありすぎても困るし、なさすぎても困る。でもその兼ね合いはとても難しい。ほどほどなんて気楽に言われても、当人にしてみればさっぱりわからないだろう。敵を作らずにすむように自信がないふりをして陰に隠れるか、敵をね返せるように虚勢を張るかのいずれかしかないのかもしれない。モモコにしても、なけなしの自信を精一杯大きくふくらませている可能性だってあるのだ。


「おいおい、美音坊、俺はそんなに食えねえよ」

 シンゾウの声ではっとして手元を見ると、そこにはひとり分には多すぎる量のサヨリが積み上がっていた。シンゾウが注文した天ぷらの下拵したごしらえで、開いたサヨリと大葉を重ねてくるくる巻いていたのだが、考え事をしていて作りすぎてしまった。

「ごめんなさい。確かに、ちょっと多かったですね」

 照れ笑いをしながら、美音は作りすぎた分を冷蔵庫にしまう。サヨリは旬の食材だし、揚げたての天ぷらを好む常連は多い。きっと誰かが注文してくれるだろう。
 串で留めたサヨリに薄く天ぷら粉をまぶし、さらに溶いた天ぷら粉にくぐらせてから油に泳がせる。
 じゅっ! という気持ちのいい音がしてサヨリの周りに大きな泡が立つ。真剣な眼差しでサヨリを見つめていた美音は、泡が小さくなって浮き上がってきたところで引き上げ、油を切った。

「おまたせしました」

 敷紙をのせた皿に移し、カウンター越しにシンゾウに渡す。


本来なら馨に運ばせるべきなのだが、揚げたてを食べてほしくてちょっとの時間を惜しんでしまう美音だった。

「塩と天つゆ、お好きなほうで、と言いたいところですが、できれば両方お試しください」

 きっぱりとそう言い切った美音に、シンゾウが笑い出した。

「どっちも旨いから、って言うんだろ? 美音坊も自信たっぷりだな。いやはや『女は強し』だな」
「自信なさそうにお料理を差し出す料理人なんて嫌でしょ?」
「ごもっとも。じゃあおすすめどおり、両方でいただくとするか」

 そう言いながらも、シンゾウは既にサヨリのひとつにレモンをしぼっている。手で持った串刺しのサヨリに塩をちょっとつけ、そのまま口に運ぶ。衣をかみ切るさくっという音が微かに聞こえた。
 サヨリの食感とレモンの酸味、そしてほどよい塩辛さを感じているのだろう、シンゾウが目を閉じて唸る。

「このかりっとした衣の中にある白身の柔らかさはどうしたもんだ! さくさくとふわふわが口の中で混じり合ってどうにもこたえられねえ!」

 しかもそこに大葉の香りまで加わって、もうどうしていいやら、とシンゾウはもんどりを打っている。挙げ句の果てに、なんてもんを出しやがるんだ! とまで……
 大葉とサヨリのコラボレーション。塩とレモンの相性なんて語られるまでもない。口の中いっぱいに広がる春の味わいを堪能しながら、シンゾウはしみじみと言う。

「春だなあ……春は本当に天ぷらの季節だなあ……」
「春は天ぷらの季節って……天ぷらはいつだって美味しいじゃない。天ぷらにできない食材なんて思いつかないよ。あたしなんて、無人島に何を持っていきますかってかれたら、天ぷら油って言っちゃいそう」

 それじゃあ生き残りは難しそうだな、とシンゾウに言われ、馨は口を尖らせている。そんな妹に呆れつつも、美音も天ぷらは春、というシンゾウの意見に賛成だった。

「春が旬の食材って、どれも天ぷらにぴったりですよね。野菜も魚も……」
「だろ? 山菜なんていい例だ。待ちに待った春、やっと芽吹いた山菜をとっとと取って揚げて食っちまうなんて人間もひどいもんだが、これだけ旨いとなあ……」
「あー山菜……確かに、そうだね。でも春になって生えた山菜が全部育ったらそれはそれで困るんだから、自然淘汰しぜんとうたってことでいいんじゃない?」
「おお、馨ちゃん、いいこと言った!」

 馨は、山菜と聞いただけで『天ぷらは春』派に転向したらしく、シンゾウと意気投合して喜んでいる。それを横目で見ながら、生えた山菜が全部育って困る人って誰だろう? と美音はちょっと悩んでしまった。山の管理をしている人、環境について考えている人……まあ、なんにしても、山も荒らさず、乱獲もせずに自然の恵みを享受するくらいなら支障ないだろう。
 塩とレモンでサヨリの天ぷらを堪能したシンゾウは、続いてもうひとつを天つゆの小鉢にひたした。

蕎麦そばは下のほうをちょっぴり、ってのがいきらしいが、天ぷらのつゆはどっぷりつけたって許されるよな」

 シンゾウは、衣が水分で湿りすぎないように急いで引き上げ、口に運ぶ。少し時間が経っているし、天つゆに浸したことで天ぷらの温度も下がっているので、頬張ったところで火傷やけどをする心配もない。衣を通じて天つゆの甘みがサヨリ全体に絡まり、塩とレモンのシャープさとはまったく違った味わいをかもし出す。同じサヨリの天ぷらなのに、添える調味料を変えるだけで別の料理のようになる、と常連たちはいつも喜んでくれていた。
 口の中全体で魚を味わいつつ『満寿泉』をまた一口。シンゾウはまさに春の味わいを満喫していた。


 悩みがない人なんていない。今だって、シンゾウの中にはモモコへの心配がある。その心配は美音から事情を聞いたことで、もっと大きくなったのかもしれない。でも、今、この一瞬だけは、それを忘れて料理を楽しんでくれている。
 シンゾウが家に帰ったあと、サヨにこの話をして、またふたりして心配のため息を重ねることはわかっている。だからこそ、たとえ一時でもうれいを晴らしてもらえてよかった。食が人をいやす役割は大きいと改めて思う美音だった。


     †


「要さんは、自信があるほうの人ですよね?」

 美音の質問に、要がぶほっと酒を噴きそうになった。
 シンゾウがカウンターにいる間に、他の常連たちが何人かやってきて、『ぼったくり』はいつもながらの和やかな雰囲気が続いた。それぞれが『春の味わい』を堪能して帰ったあと、引き戸を開けたのはいつもの閉店間際の客――要だった。
 客が一度にやってきて、その対応に追われている間はシンゾウの心配を忘れていられた。だが客の波が引き、馨も家に帰したあと、美音はやっぱりモモコのことが気になってしまった。
 ――お医者さんになりたかったのはわかるけど、もう薬剤師さんになってるんだからその道で頑張ろうって気持ちになれないのかしら。モモコさんは実家から遠く離れて、しかも旦那さんの一族に囲まれて、それでも頑張ってるじゃない。カノンちゃんもいるし、新しい家族も増えるんだから、もっとモモコさんを支えてあげてほしいのに……
 モモコの夫について、否定的な気持ちがふくれあがり、自分でも持て余しそうになっていた。そこに要が現れて、美音はつい、会ったこともないモモコの夫と要を比べてしまったのだ。


「なんだよ、それ。しかも『ですか?』じゃなくて『ですよね?』ってほとんど断定じゃないか」

 要の様子を見て、疲れているんだろうなと思うことはある。身体だけではなく、気持ちも大変みたいだな、と感じることも多々あった。けれどそれを本人から言い出したことはないし、美音には、この男が、アキやリョウのようにカウンターに突っ伏してしおれている姿なんて想像もできなかった。
 落ち込むことってありますか? と質問を重ねた美音に、要は呆れたように言う。

「あのねえ……おれだって人間だからたまには落ち込むし、うじうじもする。かっこつけて隠してるだけ。今だってさ……」

 何かあったんですか? と水を向けたほうがいいのだろうか。でも……と悩みつつ美音は、要の顔をじっくり見てしまった。

「新しい仕事はわからないことばっかり。慣れてないんだから当然だけど、教えてもらいたくても周りもみんな忙しい。自力で何とかしなきゃ、って夜遅くまで頑張ってみてもやっぱりわからない。しかも、ここはわかった、これでいける、と思ったことが全然見当違いだったり……もうね、情けなくなるよ」
「本当は、周りが忙しいからじゃなくて、教えてって言えないんじゃないですか? 教えてもらうなんてプライドに関わるから……」

 小首を傾げながらそんなことをいた美音に、要はちょっとやましそうな顔をした。

「ばれたか」

 まあおれも、昨日や今日会社に入った新人じゃないしね……と言いながら、要は美音が差し出した徳利とっくりをカウンター越しに猪口ちょこで受ける。
 美音は、シンゾウが冷酒で呑んだ『満寿泉吟醸』を今度はぬるかんにしていた。夜が更けて気温が下がってきたせいもあるが、珍しい山菜を味わってもらうには燗酒かんざけのほうがいいと思ったからだ。本日のもうひとつのおすすめ料理を小鉢に盛りつけながら、美音はさらに質問をした。

「それに、自分から名乗りをあげた仕事だから、泣きごとは言いたくない?」
「そのとおり。お見通しだな」
「大変ですねえ……。でも、ここは会社じゃないんですから、泣きごとぐらい、いくらでもどうぞ。仕事を教えてって言われても困りますけど」
「うーん……それもどうかなあ」

 燗酒をゆっくりと口の中で転がしながら、要は首を傾げる。

「来たときよりもちょっとだけ元気になって帰ってほしい、って言ったじゃないですか。泣きごとを言って元気になれるなら、いくらでもどうぞ。私、誰にも言いませんから」
「でも、おれが本気で愚痴ぐちりだしたら目も当てられないよ。罵詈雑言ばりぞうごん吐きまくるかも。何せおれ、そいつみたいだからさ」

 そう言いつつ要が目をやったのは、美音が塩焼きにするために取り出したサヨリだった。
 怪訝けげんな顔になった美音に、要は言う。

「真っ黒なんだろ、そいつの腹の中」

 あっと思った瞬間、吹き出した。確かにサヨリは、腹を開くと中が真っ黒だ。そのすんなりと美しい外見からは想像できないほどである。よりにもよってそんな魚に自分をたとえるなんて、と美音は笑いが止まらなくなってしまった。

「そこまで笑わなくても……」
「ごめんなさい。ちょっと変なツボに入っちゃったみたいで……。でも、いくらお腹の中が真っ黒でも大丈夫です」
「大丈夫って?」
「うちでは食べて美味しければそれが正義です。だからいくらでも腹黒丸出しで、罵詈雑言吐きまくってください」

 それはどうも、と要は軽く頭を下げた。だが要は、それ以上仕事の話をすることも、泣きごとを言うこともなかった。

「我慢できなくなったら、吐き出させてもらうことにするよ」

 そして彼は、小鉢の中のえ物を一箸口に入れる。

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