居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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3巻

3-2

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 夏のはじめに公園に捨てられていた五匹の子猫。まだ目も開いていない状態で、育つかどうか不安だったけれど、常連たちと美音姉妹の協力でなんとか五匹全部の命を繋いだ。
 そのあと子猫たちは一匹ずつ常連たちに引き取られた。
 ウメは腹の一部だけが茶色で残りが真っ黒な『クロ』。アキラは白茶ぶちの『ミク』。マサは茶色が多めの黒茶ブチで『チャタロウ』。同じく黒茶ブチを引き取ったアキは『マツジ』と名前をつけた。
 マツジなんて随分古風な、時代劇にでも出てきそうな名前だな……と思ったら、人気アイドルグループのとあるメンバーの愛称を途中で切ったらしい。

「さすがに全部そのままって恥ずかしいからさあ」

 と、アキは笑っていたが、ペットにお気に入りのアイドルの名前をつける人は多いし、美音にはそんなに恥ずかしいことだとは思えない。それを気にするアキがむしろ微笑ましかった。
 そして残りの一匹、一番小さくて弱っていた黒茶ブチを引き取ってくれたのはかなめだ。
 彼は秋の終わりの雨の夜、ふらりと『ぼったくり』に現れて、やがて常連のひとりとなった。『ぼったくり』の面々の悩み事にアドバイスをくれることも多いし、子猫騒動のときは友人だという獣医を紹介してくれた。みんなは美音と馨のおかげだと言ってくれるけれど、美音は五匹全員の命が守られたことの最大の功労者は要だと思っている。
 要が引き取った猫は『タク』と名付けられた。けれど、美音は名前の由来までは知らない。そのうちいてみようとは思うものの、いつも遅く現れ、ほかの客と顔を合わせることが少ない要とは、猫談義をする機会もない。なんとなく聞きそびれたまま今に至っていた。


「おかげさんで、クロは元気だよ。ミクちゃんはどうだい? 相変わらず恰幅かっぷくがいいのかい?」
「恰幅がいいって……それ、デブってことだろ?」
「トクさん、デブって言うなデブって!!」

 アキラが食ってかかる。愛猫をデブと言われていきり立つあたり、さすがは自他共に認める『ぼったくり』一の猫馬鹿である。

「デブは言い過ぎだけど、ミクは確かにちょっとヘルシーじゃないですねえ……もうちょっと餌を控えて運動させたほうがいいかも」

 しみじみ言うところをみると、カンジはちょくちょくミクを目にしているのだろう。

「カンジ、お前まで……」
「だってアキラさん、ミクが可愛いんでしょ? 病気とかになったらやばくないですか?」
「病気……」
「そうだよ。猫にだってメタボはあるんだからね!」

 馨にまで責められて、アキラはいよいよ居場所がないような顔になる。餌やおやつを欲しがるミクに抵抗できない――そんな自分に、飼い主として問題があることはわかっているようだ。

日中にっちゅう放りっぱなしだし、かわいそうでついついよお……。それに運動ったって、俺の部屋はワンルームで狭いし、外に出すのは……」
「それは駄目さ。昔ならともかく、今は猫がのんびり外に出られるご時世じゃない。家で飼うのが一番だよ」
「事故に遭ったり、野良猫に喧嘩ふっかけられて怪我してもかわいそうよね」
「美音さんの言うとおり。だから余計に運動不足になるんだよな……」
「だから餌をちょっと控えてさあ」
「ウメさん、皆まで言うな! わかってる! わかってるんだけど……あんなに可愛く餌をねだられちゃ……」
「だめだこりゃ」

 馨の一言で話が終わってしまいそうになる。ミクはアキラの飼い猫、それならアキラが好きにするしかない……
 だが、同じく猫を飼うものとして、ウメは許せなかったらしい。しばらく考えたあと、はっとしたように言った。

「そうだ! うちに連れてきなよ、うちは戸建てだからあんたんとこよりは広いだろうし、ミクもクロと一緒に駆け回ったら少しは運動になるんじゃないかい?」
「あ、それはいいかもー。いっそアキさんやマサさんにも声かけて猫会にしちゃったら?」
「猫会……」

 美音は、それはどうなの、と思いながら馨が口にした『猫会』という言葉をつぶやいた。
 家の中を猫が何匹も走り回ったら迷惑ではないだろうか。
 聞くところによると、クロは大人しい猫らしいし、ウメもしっかりしつけている。いくら家の中を自由に動き回っているとはいえ、ちゃんと限度はわきまえているだろう。でも、よその猫がみんな同じとは思えない。特にミクは、甘い飼い主のもとでいたずら放題に育っているのではないか。猫会なんて開いたら、猫たちは興奮していつもよりやんちゃになるかもしれない。それではウメが気の毒すぎる……
 美音はそう考えて、馨の提案に反対しようとした。けれどそれより先に、当のウメが賛成した。

「それはいい! 猫だってたまには兄弟に会いたいだろうし、あたしも賑やかなのは歓迎だよ」

 美音にしてみれば、猫に兄弟意識があるかどうか大いに疑問だった。
 一緒に暮らしているならまだしも、別々の飼い主に引き取られてからもう随分時間が経っている。猫は長く面倒を見てくれた飼い主でさえ、離れてしまえばすぐに忘れる生き物だと聞いた。
 親子や兄弟も同じで、再会したところで、それが自分の兄弟だなんてわからないのではないか。
 そんな美音の思いをよそに、アキラは早速ウメの提案に飛びついた。

「マジ!? ほんとに連れてっていい!?」
「ああ、いいよ。今度の休みにでも連れておいで!」
「あたしも行っていい!?」

 馨が乗り遅れてはならじ、とばかりに名乗りを上げる。生き物が大好きなのに飼うことが叶わなかった馨が、こんな機会を逃すはずがなかった。

「もちろん。よかったら、美音坊もおいでよ」
「え……私も?」
「美音坊と馨ちゃんは猫たちの命の恩人だ。大きくなったあの子たちを見たいだろ?」
「やったー! よかったね、お姉ちゃん。プチ猫カフェだよ!」

 その場でウメとアキラが相談して、次の日曜日にウメの家で猫会を開くことが決まった。
 アキラは、興味津々の様子なのに言い出せずにいるカンジを見て、こいつもいいっすか? とウメの了解を求める。

「もう、猫でも人でも来たいもんはみんなおいで! 出がらしでよければお茶ぐらい振る舞うよ」
「やっほー! じゃあ俺、アキさんにメール入れる!」

 アキラはスマホを取り出し、早速メールを打ち始めた。

「あたしはマサさんに声かけとくよ。そうだ、裏のアパートの早紀ちゃんも呼んでやろう」
「早紀ちゃん?」

 意外な名前が出てきて首を傾げた美音に、ウメはちょっと心配そうに言った。

「ここに来るときに見かけたんだけど、なんだかしょぼくれてたからさ。しかも制服のまんま」

 やっぱりウメさんもそれが気になったのか……と美音が思っていると、トクも首を傾げながら言う。

「早紀ちゃんって、時々この商店街で買い物してる女の子か?」
「そうそう。よくご存じだね、トクさん」
「商店街で買い物をする若い女の子は珍しいから目につくのさ。見かけるたびに家の手伝いかな、感心だな、って思ってた。そういや、俺も今日すれ違ったわ。いっつも元気に歩いてるのに、なんかとぼとぼ……って感じに見えたぜ」
「変ね……私が会ったときはいつもどおりだったのに」

 夕方、店の前を通っていったときは元気に声をかけてきた。それなのにウメたちが会ったときには、元気がなかったという。その間に何かがあったのだろうか……と美音はちょっと考え込む。

「まあ、あの年頃の女の子はいろいろあるよ。おおかた友達と仲違なかたがいでもしたんだろう。美音坊と馨ちゃんだってちっちゃいころはしょっちゅう喧嘩して、そっぽ向いたりくっついたりしてたじゃないか」

 五歳も離れていても、姉妹喧嘩というのはやっぱり起きる。同世代ならもっとだろう、というウメの言葉はそれなりに説得力があった。

「ま、あの子は生き物が好きだし、猫でも見たら元気になるだろうさ」
「そうだよ、猫は究極のいやし系だもん。猫と遊んで気分が変われば、元気が出るって。えーっと、アキラさんにマサさん、アキさん、あとは……」

 メンバーを数え上げていた馨はそこで言葉を切り、みんなの顔をうかがった。おそらくタクとその飼い主を思い浮かべたのだろう。

「タクのとーちゃんはねえ……」
「美音さん、要さんの連絡先って聞いてる?」

 聞いているわけがない。名前をたずねたことにすら自分で驚いたぐらいなのに、連絡先なんてくはずもなかった。
 ふるふると首を横に振った美音に、アキラはさもありなん、という顔で言った。

「タクは……欠席かな」
「しょうがないねえ……」
「でも、もし日曜までに、お店に来ることがあったら声だけはかけといてよ」

 要が前に現れたのは三日前の火曜日。おそらく、しばらく来ないだろう。第一、声をかけたとしても、わざわざ休みの日に猫会に参加したりしないのではないか……
 そんなことを思いながらも、美音はアキラの言葉に曖昧あいまいに頷いた。


     †


 週末までに要は現れず、タクは欠席となったものの、日曜日の午後、兄弟猫たちはウメの家の茶の間で再会を果たした。
 とはいっても美音の予想どおり、猫たちに、自分たちが同じ母親から生まれたという意識は皆無。それどころか、自分以外の猫が三匹もいるという状況に戸惑っているようだ。家の中で飼われ、他の猫に遭う機会など滅多にないのだから、当然と言えば当然だった。
 最初はそれぞれの飼い主から離れず、おっかなびっくりといった感じで周りを観察していた。そんな猫たちも、しばらくするとこの状況に慣れたのか、持ち前の好奇心であちこち探索を始め、やがて茶の間の外にまで進出するようになっていった。
 家主の飼い猫であるクロは、突然現れた珍客に迷惑しているように見えたが、通常営業を貫くことにしたらしい。いつもどおりにウメのそばで微睡まどろんでいたが、しばらくするとふっと目を覚ます。依然としてそこにいる客たちを『長っ尻だな』とでも言いたそうな目で見たあと、音もなく階段をのぼっていった。
 マツジが、おれもおれも……とばかりに追いかけていき、ちょっとした小競り合いが発生。
 クロにしてみれば『ついてくんな、わずらわしい!』といったところだろう。
 追ったり追われたり、無視したりちょっかい出したり……そんな様子が茶の間、いや家のあちこちで繰り広げられ、人間たちはそれを見てはいちいち歓声を上げた。


「はあ……こりゃまた壮観だねえ」

 ウメが湯呑みを載せたお盆を手に、やれやれ……と首を振った。
 ウメは台所にお茶をれに行き、戻ってきたところ。クロとマツジも茶の間に戻り、部屋の中には猫四匹と人間七人が勢揃いとなった。
 呆れたような口調でも目はしっかり細めているから、状況を楽しんでいることは間違いない。

「うわー、やめてチャタロウちゃん! 今は上ってこないでー」

 膝の上に既にクロがいるのに、さらにチャタロウによじ上られそうになった馨が、嬉しい悲鳴を上げた。


 馨は、暇を見つけてはウメのところに行ってクロと遊んでいるから、クロとはすっかり顔なじみ。我が物顔で馨の膝に収まっているクロを見て、チャタロウはどれどれ自分も……となった次第。

「チャタロウ! クロにちょっかい出すな! こっち来いって」

 マサがかけた声に、ウメが笑う。

「そりゃチャタロウだって、じいさんよりは若い娘の膝のほうがいいって」
「ウメ婆、なんてこと言いやがる! あんたんところのクロだって、馨ちゃんのほうがよかったんだろ?」

 見ろよ、気持ちよさそうじゃねえか……と、マサが鼻息を荒くしたとたん、クロは薄く目を開け、周りを見回した。馨の膝からついっと下りると、ぐいっと背伸びをし、ウメのほうに近づいていく。

「みゃあ……」

 足下で甘えるように鳴かれたウメは、ちょいとお待ち、と声をかけてお茶を配り終えると、縁側のいつもの場所にすとんと正座する。クロはすかさずウメの膝に上り、もぞもぞと体勢を整えたあと再び居眠りを始めた。

「あちゃー! やっぱ、あたしはただのピンチヒッターか!」
「残念ねえ、馨ちゃん」

 情けなさそうな馨にアキが同情を寄せ、マサは思わず吹き出す。

「なんでえ、クロ。おめえ熟女好みかよ!」
「マサさん、それ全然違うし、そもそもウメさん、熟女と言うには熟しすぎ……」
「なんだって!?」

 アキラが小声で入れた突っ込みに、ウメの鋭い視線が飛んでくる。

「気をつけな、若いの。ここいらの年寄りは、軒並のきなみ地獄耳なんだよ!」
「へいへい、失礼しやした!」

 まったくよお……と頭を掻くアキラに、カンジが注進に及ぶ。

「ア、アキラさん! やばいです! マツジがミクにコナかけてます!」
「なんだと!!」

 カンジの報告に、みんなが一斉にそちらに目をやった。
 ミクはしばらく前から『接待』で出された餌皿の前に陣取って、悠然とあたりを見回していた。
 生まれたときから兄弟より一回り大きかったが、甘い飼い主のおかげでさらに貫禄かんろくを増している。
 猫としては平均より少々小さめであるマツジとの体格差はかなりなもの。それにもかかわらず、マツジは果敢に、ミクにちょいちょいっと猫パンチをくらわせている。
 ミクはものすごく迷惑そうな顔になり、立ち上がって少し移動。けれど、マツジはしつこくついていって絡み続けた。
 アキは、大物に挑む『我が子』が頼もしいとばかりに、ニコニコ見守っている。ミクの迷惑顔はどんどん深くなっていった。

「やめろよ、マツの字。ミクがいやがってんじゃねえか!」

 アキラが見かねて止めに入ろうとした、まさにその瞬間、ミクは盛大にしっぽを膨らませ、「ふーっ!」と、荒く息を吐いた。
 威嚇いかくされたマツジは、あっという間にカーテンの裏に逃げ込む。アキが頭を抱えた。

「マツジー、あんた男でしょ? なんて情けないの!」
「ミク、おまえも、もうちょっとお嬢様らしくおしとやかにだなあ……」
「アキラさん、それは無理ってもんです。ミクは明らかにお嬢様じゃなくて女王様……」
「なんだと、この野郎!」

 アキラが声を高くしてカンジをにらみ付けた。しっぽがあったら、きっとさっきのミクみたいに盛大に膨らんでいただろう。カンジはマツジ同様、カーテンの裏に逃げ込んでしまった。

「もう、お前らずっとそこで仲良くしてろ!」

『ジ』つながりでけっこうじゃねえか、とアキラが毒づく。カーテンの上の方と下の方から顔を覗かせるカンジとマツジをみんなで笑っていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
 よっこらしょ、とウメが腰を上げ玄関に向かう。

「ああ、よくおいでだね。お友達も一緒? いいよいいよ、お入り」
「おじゃましまーす!」

 元気な挨拶のあと、茶の間に入ってきたのは早紀だった。同じぐらいの年齢の女の子が一緒にいる。なんとなく見覚えがあるから、おそらくこの間、制服姿の早紀と並んで歩いていた子だろう。

「こんにちは、早紀ちゃん!」
「美音さん、こんにちは!」
「あ、そうだ、この間は可愛いクッキーをありがとう。すごく美味しかったわ」
「お姉ちゃん……この間って、あれ随分前じゃない」

 うなぎのちらし寿司の作り方を教えたお礼に、早紀がクッキーを届けてくれたのは土用どよううしの日のすぐあとだ。今はもう冬になりかけているから『随分前』という馨の意見は正しい。
 けれど、商店街で見かけたり、この間みたいに店の前で会ったりしても、お互い自分の用を足すのに忙しく、ゆっくり話をする機会がなかったのだ。

「お礼を言うのに遅すぎるってことはないでしょ? 言わないよりずっといいわ」
「それはそうだけど……」

 タイミングってものがあるでしょ、と馨は言う。早紀が、姉妹のやり取りにあわてて口を挟む。

「でも、お世話になったのは私のほうなのに、美音さんがお礼なんて……」
「まあまあ、いいじゃないか。お互いに『ありがとう』でさ。まあ、そこらで場所を見つけてお座りよ。今、お茶でもれるからさ」

 ウメが上手にその場を収めて、早紀たちふたりをちゃぶ台の脇に座らせた。
 ふたりは早速、猫を目で追い始める。
 ウメに膝から下ろされたクロと、再び馨の膝の取り合いをしていたチャタロウが、早紀の様子をうかがっている。だが、チャタロウはそれ以上近寄らないし、早紀もただじっと猫を見ている。触ってみたいものの、逃げられるのも……といったところだろう。
 見かねたマサが、ついっと立っていってチャタロウを抱き上げた。

「ほらよ、チャタロウ。おめえは女好きだろう。若いお姉ちゃんに撫でてもらいな」

 目の前に差し出された黒茶ブチの猫を、早紀は目を輝かせて抱き取った。

「うわー温かーい! ほらほらリンちゃん、ちょっと撫でてみて!」
「ほんとだー。温かくて柔らかーい!!」

 ひとしきり猫をいじくり回し、はっと気が付いたように、早紀は友人を紹介した。

「あ、こちらは私と同じクラスのリンちゃんです。『社宅』に住んでる……」
「社宅……?」

 アキラが首を傾げた。この町に住んでいないアキラには、どこのことだか見当がつかなかったらしい。
 そんなアキラにマサが説明する。

「ちょっと行った先に、鉄鋼会社の社宅があるだろ?」

 昭和中期、日本が高度経済成長のまっただ中にあったころ、地方から働きに出てきた人のために社員住宅が造られた。この界隈には他にそういった社宅がないため、付近の住民はその鉄鋼会社の社員住宅を、ただ『社宅』と呼んでいる。アパートタイプの独身寮だけではなく、家族向けの戸建てもあり、リンもそこに住んでいるらしい。

「あー、あそこね。でもあそこ、最近随分と人が減ったよな?」
「俺たちが行くのも、取り外しばっかりです」

 カンジがアキラの発言を裏付けるように言う。ふたりの仕事は電化製品の取付だから、新しい住民が入れば、エアコンなどの工事をすることになる。だが、くだんの社宅では引っ越すための取り外しばかりで、ここのところ取付工事をやった記憶がない、とふたりは口を揃えた。

「そういえば、夜に電気がついてない家が増えた気がするわね……」
「実はそうなんです……」

 美音の指摘に、早紀はちょっと言葉を切ってリンをうかがった。リンが小さく頷いたのを確認してから、また話し始める。

「あの『社宅』もうすぐ閉鎖になるんです」
「あそこもか……」

 バブル崩壊のあと、急激な経営悪化で社宅を手放す企業が増えた。
 くだんの社宅は、それでも何とか最近まで持ちこたえていたのだけれど、利用する人がどんどん減っていった。同じ会社の人たちが一つのところに暮らす『社宅』という形態自体が、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
 そこに大きな震災があり、今度は老朽化した建物の安全性が危ぶまれることになった。結局、この鉄鋼会社も自社保有をやめて、借り上げ制度に移行することに決めたらしい。

「じゃあ……お友達も?」

 社宅を廃止するということは、そこに住んでいるリンの家族も引っ越すことになる。美音は、早紀にしては珍しく、断りなしに友達を連れてきた理由を察した。

「はい。リンちゃんちも、もうすぐ……」
「遠くへ?」
「そんなに遠くはないけど、学校はかわっちゃうんです」

 このあたりには賃貸物件自体が少ない。引っ越すにしても少し離れた場所になってしまう。学校がかわれば、今までみたいに会うことはできなくなる。
 だからウメに誘われたとき、早紀は嬉しい反面、迷いもしたのだろう。猫と遊べる機会と、残り少なくなった友達との時間。困った挙げ句、一緒に来てしまうことにした。駄目だと言われたら猫は諦めて、よそで遊ぶしかない。でもウメならきっと許してくれる……と信じてのことに違いない。

「早紀ちゃんが元気なかったのもそのせい?」
「あ……はい……そうなんです」

 猫会を開くと決めた翌日も、美音は早紀を見かけた。美音に気付いて挨拶はしたものの、なんとなく気にかかることがあるような、思い詰めたような顔で去っていった。その原因は友達が転校してしまうことにあったのだ。
 アキアカネが飛んでいたあの日、早紀はリンから引っ越すことを聞かされたという。
 仲良しの友達が引っ越してしまう前に、少しでも一緒に過ごしたい。着替える時間も惜しいほどで、本当はいけないとわかっていても、つい制服のままリンの家に行ってしまった。一緒にいる間はまだ元気でいられたけれど、帰り道でひとりになったら落ち込んでしまい、うつむきながら歩いていたところをウメやトクに見られたらしい。そのあとも、リンがいなくなってからのことを考えては暗い顔になって……
 ウメは早紀とリンをちょっと見比べたあと、大きく頷いた。

「ああ、そういうことかい。気がねするんじゃないよ。今日の我が家は千客万来。この上、ひとりやふたり増えたって変わりゃしない。まあ、気が済むまで遊んでいきな」
「ありがとう!」

 昔は息子のソウタが何人も友達を連れてきたもんだ。やんちゃ坊主がそこら中を走り回ってたことを思えば、大人と女の子ぐらいなんでもないさ、とウメは鷹揚おうような態度を示した。
 その日、人と猫でいっぱいになったウメの家からは、楽しげな笑い声が聞こえ続けていた。

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