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3巻
3-1
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猫の絆 人の絆
空の色がぐっと深まり、街路樹の色が緑から黄色、そして朱へと移っていく。
日中はまだ暑さを感じる日もあるけれど、もうエアコンがなくても凌げる。一年中で一番過ごしやすい季節の到来だった。
東京下町にある居酒屋『ぼったくり』。
物騒な店名は、『誰でも買えるような酒や、どこの家庭でも出てくるような料理で金を取るうちの店は、もうそれだけでぼったくりだ』という父の口癖から常連たちがつけてくれたものだ。命名にあわせて彼らから贈られた暖簾は、夕方が夜にかわりかけるころ、ひっそりと戸口にかけられる。店を大切に営んでいた両親が亡くなった今も――
『ぼったくり』店主、美音は暖簾を店の外に出し、何匹か群れをなして飛んでいく赤とんぼに目をやった。
「あ、アキアカネだ。やっと下りてきたんだね」
水を入れたじょうろを片手に出てきた妹の馨が、ほっとしたように言う。
今日は風が強いので打ち水でもして舞い上がる土埃を抑えようということらしいが、バケツと柄杓ではなく、じょうろというのがいかにも彼女らしい。馨は、そのほうがまんべんなく水を撒けていい、と言うのだが、美音から見ればいささか情緒に欠ける。
だが今は、その情緒のなさよりも、赤とんぼが飛んでいることに安心している様子のほうが気になった。しかも彼女は『下りてくる』と表現している。
「どうして? 赤とんぼなんて夏からずっと飛んでたでしょ?」
「ナツアカネはけっこう飛んでたんだけど、アキアカネは今日が初めてだよ。さっきのとんぼの中に、目まで赤いのは一匹もいなかったでしょ?」
ナツアカネのオスは目まで赤くなるらしいから、あれはきっとアキアカネの群れだよ、と馨は付け足した。
「あら……そうだった?」
「アキアカネって、夏の暑い間は山に行ってるんだって」
ナツアカネとアキアカネはまとめて赤とんぼと呼ばれることが多い。どちらも梅雨ごろから秋の終わりまで生息するとんぼだが、生まれてから死ぬまで平地で過ごすナツアカネと異なり、アキアカネは夏の間、暑さを避けるように山間部に移動する。だから夏の間に街中で見かける赤とんぼは、ナツアカネである。
本当にアキアカネが暑さを避けるために山に向かうのか、真偽のほどはわかっていないのだが、夏の盛りを過ぎ、気温が下がり始めたころ、平地に戻ってくることから『アキアカネは避暑に行く』というのが通説となっているらしい。
そんなとんぼについてのトリビアをちょっと自慢げに披露したあと、今年はアキアカネが下りてくるのが遅かった、と馨は言った。
「うんざりするような暑さだったから、このまま山から戻ってこないんじゃないかって心配してたんだよ。いや、よかったよかった」
空に映えるアキアカネの群れを見ないで冬を迎えるのは寂しい。何よりも、山では上手く繁殖できないのではないかと、心配していたのだと馨は言う。そして馨は飛んでいくアキアカネの群れに、発破をかけた。
「こんな街中にいないで、早く田んぼとか池のあるところに飛んでくんだよー!」
日頃は元気一杯で、ちょっとやんちゃが過ぎるように思えることもある馨だけれど、アキアカネを思いやる優しさがある。それでいて、道の端を伝うように歩いていた蟻が、いきなり降り注いだじょうろの水に慌てふためく様子に大笑いしたりもするのだから、我が妹ながら面白い。
逃げ惑う蟻に、ごめんごめん、なんて謝っている馨を見て笑っていた美音に、ちょうど歩いてきたふたり連れの女の子が声をかけた。
「美音さん、こんにちは!」
「ああ、早紀ちゃん。こんにちは。どこかにお出かけ?」
「はい。ちょっとお友達のおうちに」
「あらいいわね。でも、すぐに暗くなっちゃうから気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
軽く会釈して通り過ぎていく早紀を見送り、美音は首を傾げた。
「珍しいわね……制服のままなんて」
普段の早紀は、学校帰りに寄り道などしない。買い物にしても、友達と遊ぶにしても、一旦家に帰ってちゃんと着替えてくる。土用の丑の日が迫ったころ、制服のままで『スーパー呉竹』にいたことはあるが、あれは例外中の例外。鰻の値段が気になってならなかったからだろう。
その早紀が制服のままどこかに向かうなんて、何か特別な用事でもあるのだろうか。特に急いでいるようにも見えないけれど……
美音は少し気にしながらも、水を撒き終えた馨と一緒に店の中に戻った。
†
「馨ちゃん、俺にビール! こいつにはいつもの!」
「はいはい、ラドラーね」
引き戸を開けるなり、声を上げたのはアキラ。後ろから後輩のカンジも入ってきた。ふたりは電気製品取付会社に勤めている。今日も一日の仕事を終え、『ぼったくり』で一杯やろうとやってきたのだろう。
アキラは典型的な『とりビー』派。何が何でも一杯目はビールだ、と譲らない。一方、汗かきで酒に弱いカンジはビールをレモンソーダで割ったラドラーがお気に入り。ほんのり甘くて呑みやすく、三杯呑んでもビール一杯と同じぐらいのアルコール量にしかならない。
ふたりは上機嫌で飲み物を受け取って、早くも汗を掻き始めているグラスをかちんと合わせる。
「お疲れさん! 俺たち、今日もよく頑張ったよな!」
「うっす!」
それぞれがごくごくとグラスの中身を呑み始め、見事なぐらい同じタイミングで「ぷはーっ!!」と息を吐いた。
「ちきしょうめ、もう、どうにでもしやがれ! かい?」
隣に座っていたウメが、アキラが言おうとした台詞をさくっと横取りした。
ウメは父の代からの常連で、三日に一度現れては焼酎の梅割りを注文する。昔、芸者をしていたという彼女は「女は腹を冷やしちゃだめだ」が信条で、夏でも冬でもお湯割りを好む。
今日もしょっぱい『ぼったくり』自家製の梅干しを箸でつついて焼酎に馴染ませながら、ゆっくりとお湯割りを楽しんでいた。
「ひでえよ、ウメ婆!」
台詞を奪われたアキラが、恨めしそうにウメを見た。ウメはクスクスと笑いながら謝る。
「ごめんよ。あんまり気持ちよさそうだから、つい、ね。それに、あんたにその台詞はなんか似合わないよ。やっぱりトクさんぐらいじゃないと」
いろいろな経験をして酸いも甘いも噛み分けてこそ、真実味を帯びてくる台詞がある。若者が言う『どうにでもしやがれ』と年寄りの言う『どうにでもしやがれ』は重みが違う。年寄りに似合いの台詞を若いもんが粋がって使っても滑稽なだけだよ、とウメは主張した。
ウメの言葉にトクは自慢げに鼻を鳴らし、アキラの肩をぱんっと叩いて言う。
「ま、おめえはまだまだ修業不足。あと二十年もしたら俺みたいに『年季が入って』いい具合になるさ。それまでは大人しく『やべえ、旨すぎー!』とでも言ってな」
「リョウじゃあるまいし!」
いいじゃねえかよー何を言ったって、この国には言論の自由ってもんがあるだろ、とぶつぶつ言ったあと、アキラはカウンターの向こうの美音に声をかけた。
「美音さん、腹が減った。なんか旨いものいっぱい出して!」
「アキラ、美音坊が旨くないものを出したことがあるってえのか?」
「そうそう、この店では水一杯にしても不味いものは出てこないってご存じないのかい?」
「勘弁してくれよ。ふたりとも、今日は一段と……」
アキラは、自分をからかい続ける年寄りふたりにお手上げの様子だった。
年寄りの常連たちは時折、こんな風に若い常連にちょっかいを出して楽しむが、特にアキラはその的にされることが多かった。世の習いをあれこれわきまえていて、年長者を敬う気持ちもちゃんと持っているアキラは、『年寄りの遊び』への許容量も大きいと判断されているのだろう。
敵わねえ……とばかりにカウンターに突っ伏したアキラを見て、カンジが小さく笑った。
おそらく、自分に説教ばかりしている兄貴分のアキラが、ふたりがかりでやり込められているのがおかしかったに違いない。
アキラはそんなカンジを横目でじろりと睨み、軽くため息を漏らした。
「ちぇ。この店じゃ俺なんてまだまだひよっこだからなあ。やられっぱなしだぜ」
「とかなんとか言って、アキラさん、本当はこうやっていじられたくてここに来るんでしょ?」
「カンジ……」
クマのように大きな身体なのに、まるで子どもみたいに、にこにこと笑いながらカンジは言う。
アキラは仕事の腕も上がり、もう誰かに文句を言われることもない。むしろカンジたち後輩を指導することがもっぱらになっている。
だが、アキラ自身はそんな状況を、少々居心地が悪いと思っているようだ。
会社に入りたてのころみたいに、叱られることで成長したいと思う気持ちもある。誰からも叱られないというのは、楽なように見えるが、成長の機会を失うことでもある。たまには親身になってくれる誰かに叱られたい……
カンジは、アキラがそう感じているのではないかと想像したのだろう。そして、アキラが微かに頬を染めたところを見ると、どうやらそれは当たっていたらしい。
「まったく、お前まで……。今日はよっぽど日が悪いんだな」
そう言いながらもアキラは、本当は不快には思っていない。なんとなく笑みがこぼれる寸前に見える彼の表情がその証拠だ。ぶつぶつ言うのはアキラ特有の照れ隠し。その照れようが可愛らしくて、さらに年寄りたちを喜ばせているのを知らないのは本人ばかり。
困り事の相談は最優先。みんなして真剣に考えるけれど、難しい話がないときは純粋に楽しむ。悪のりしているように見えても、本当は相手のことを考えていて、お互いに構ったり構われたりしている。
常連たちは『ぼったくり』は居心地のいい店だと褒めてくれるけれど、その居心地のよさを作り上げているのは常連たち自身だった。
――私にできるのは、せいぜいみんなのお腹を満足させることぐらい。だから、せめてそこだけは一生懸命頑張らないと。
美音はそんなことを思いながら、年寄りふたりにいじられているアキラに品書きを差し出した。
「まあまあ、アキラさん、ご機嫌を直して『本日のおすすめ』でもご覧ください」
「おう! で、今日のおすすめはなんだ?」
美音から受け取った品書きに目をやったアキラが歓声を上げた。
「やったー! 牡蠣だー!!」
「旨えぞ、牡蠣フライ」
「酢のものもあっさりして美味しいよ」
トクとウメが同時に声をかける。だが、アキラはふたりの意見などまるで無視だった。
「俺は牡蠣は……」
「ベーコン巻き、レモンたっぷり! でしょ?」
「そのとおり! さすが美音さん! あ……でも……」
アキラは、隣のカンジにちょっと目をやったあと、ふたり分の生牡蠣を取り出した美音をためらうように見た。カンジはなぜか少し困った顔をしている。
「カンジさん、牡蠣は苦手?」
カンジは大きな身体を縮めて、申し訳なさそうに頭を下げる。
「牡蠣ってえのは、好き嫌いがはっきり分かれるな。だが、食わず嫌いなら一度試してみたらどうだ? なんなら俺の牡蠣フライ、食ってみるか? この酒と一緒にやればもっといいんだが……」
そう言ったあとトクは、ラドラーのグラスを抱えているカンジに、おめえは弱いしなあ……と苦笑いをする。そのとき、ちょうどトクにお代わりを注ごうと美音が出した瓶を見て、アキラが嬉しそうな声を上げた。
「あ、『あかとんぼ』だ! そうか、もうそんな時季かあ」
「お待たせしました。今年もひやおろしの季節です!」
「お、アキラ、おめえはビール党のくせにこの酒を知ってるのか?」
トクはちょっと不思議そうな顔をしてアキラを見た。外仕事でのどをからからにしてやってくるアキラは、一杯目はまずビール。日本酒や焼酎といった他の酒が嫌いというわけではないが、二杯目以降も、ビールを飲み続けることが多かった。そのアキラが日本酒に興味を示したのが解せなかったのだろう。その疑問に答えたのは馨だった。
「トクさん、アキラさんはこのお酒そのものよりも、名前とラベルがお気に入りなんだよ」
「馨ちゃん、その言い方は切ないぜ」
アキラは思いっきり不満の意を表明する。
『あかとんぼ』は栃木にある株式会社せんきんという蔵が造っている酒である。この蔵は酒に『かぶとむし』『線香花火』『雪だるま』といった風雅な名前をつけている。しかも、同じ酒でも、何種類かの異なるラベルがあるのだ。美音は毎年、季節に合わせてこの蔵の酒を仕入れるのだが、注文を出したあと、自分の手元にどんなラベルが届くかを楽しみにしていた。おそらくアキラも夏のカブトムシから秋の赤とんぼ、そして冬の雪だるまと変わっていく酒の名とラベルで季節を感じているのだろう。
ビール党とはいえ、日本酒の美味しさだってちゃんとわかっているアキラにしてみれば、名前とラベルだけがお気に入りと言われるのは心外に違いなかった。
「俺だってひやおろしの旨さは知ってるよ。特にこの酒、香りはなんかケーキかクッキーみたいな甘い感じなのに独特の酸味があるんだよ。そのバランスがなんとも言えねえ……」
と得意げに説明をするアキラを、トクが遮った。
「おめえが言ってるのは、これとはまた別の酒だな」
「え? ラベルが変わってるだけじゃねえのか」
まじまじとラベルを見ているアキラに、美音が説明する。
「これはね、今年の新製品なんですって。酸味がとてもすっきりしてるし、桃やぶどう、それにドライマンゴーやイチジクがまざったみたいな香りがすごく素敵なんですよ」
「ケーキじゃなくてミックスジュース系なのか」
「アキラさん、ミックスジュース系って……」
馨は呆れたように言うが、美音はアキラの表現は、いかにも彼らしくていいと思う。おそらくアキラはいくつかの果物が合わさったような香りだと言いたいのだろう。酒を表現するにはちょっと問題ありかもしれないが、あながち間違ってはいない。
「とにかく、ひやおろしはひやおろしだ! こいつが出てきたってことは、秋ももう本番だ!」
「確かにな」
きっぱりと言い切ったアキラに、トクは異存なし、と頷く。
酒瓶に貼られたラベルには『仙禽 あかとんぼ 秋上がり』と書かれている。春に造った酒を一夏寝かして出荷する『ひやおろし』は秋限定の酒であるが、この酒は名前に『秋上がり』と入れられているように、十月の声を聞いてから出荷される、まさに秋本番の酒だった。
「この酒は牡蠣フライ、しかもタルタルソースじゃなくて俺が好きな普通の中濃ソースをかけた奴にぴったりだ。多分他の揚げ物でも合うだろうな。酸味がレモンの代わりになるからかもしれない。だがまあ、おめえの呑んでるラドラーはレモンジュースも入ってるし、それはそれでいいかもな」
カンジにトクが説明する。
「へえ、ソースに合う日本酒か……それは珍しいっすね」
「牡蠣が苦手でも、美音坊の料理なら、案外、気に入るかもしれないぜ。ちょっと食ってみるか?」
と誘いをかけたトクを、アキラが慌てて止めた。
「ストップ! トクさん、悪いけどこいつ、アレルギー持ちなんだ。牡蠣は一発アウト。だから、勘弁してやって」
「ああ、そうか。そいつは悪かった」
トクはすぐさまカンジに謝る。カンジは、とんでもないっす、と手と首をぶんぶん振った。
後輩の苦手なものまでちゃんと覚えているアキラは、本当に面倒見のいい先輩なのだろう。カンジは口下手だから、俺が何とかしてやらないと……と思っているのかもしれない。
いい兄貴分だね、とウメに褒められ、まんざらでもなさそうな顔でアキラは言う。
「ということで、美音さん。こいつにはなんか別のもん出してやって」
「了解。じゃあ……」
冷蔵庫の中身を思い出しながら、カンジの顔を見た美音はうっかり吹き出しそうになる。
カンジの顔にはいつもどおり「肉・肉・肉!」と書いてあった。
「ベーコンとレモンがあるんだから、牡蠣の代わりに豚ヒレを巻きましょうか」
「あ、それ旨そう!」
カンジがぱーっと顔を輝かせる。美音はほっとして豚ヒレ肉を取り出した。
「お姉ちゃん、それ、あたしがやるよ」
馨が豚ヒレを引き取って一センチぐらいの厚みでそぎ切りにし始めた。牡蠣に比べれば豚ヒレは下拵えが断然楽なので馨に任せ、美音は牡蠣にとりかかる。
牡蠣を洗うのに片栗粉や塩水を使う方法もあるらしいけれど、美音はできる限り大根おろしを使う。牡蠣特有の生臭さを抑える効果を期待してのことである。洗うだけだから辛くても粗くても平気、とばかりに美音は大根をがりがりと摺りおろす。勢いよくおろした大根をボウルの中に入れた牡蠣にまぶし、汚れや滑りをとっていく。
「もったいないなあ……その大根おろしだけでどんぶり飯が食えそう……」
アキラはそんなことを言って嘆く。
「でもこの大根、ちょっと鬆が入っちゃってるから、そのまま食べても美味しくないのよ」
「え、なんでそんなものが紛れ込んだんだい? ヒロシのすっとこどっこいめ、これはひとつ……」
『ぼったくり』にそんな使い物にならない大根があるなんておかしい。八百源のヒロシがやらかしたのかい、とウメは今にも文句を言いに行きそうになる。
「違うんです。これはヒロシさんが厚意で下さったんです」
如何に目利きのヒロシとはいえ、箱単位で仕入れれば具合の悪いものも含まれる。見かけだけの問題なら値を下げて売ればいいが、明らかに不味いとわかっているものは店に出せない。八百屋のプライドに関わる、とヒロシは息巻く。今日も箱で仕入れた大根の中に、そんな一本が紛れ込んでいたらしく、八百源の前を通りかかった美音に声をかけてきたのだ。
「美音坊、近々牡蠣を商う予定はねえか?」
「あら、ちょうど明日あたり、おすすめに入れようと思ってたところなの。どうして?」
「八百屋の勘ってやつに引っかかってよ、ちょいと葉を折ってみたら鬆が入ってやがってさ。売りもんになんねえし、かといって捨てるのもなんだし……」
せめて牡蠣の掃除にでも使ってやってくれよ、と笑いながら、ヒロシは大きな大根を渡してくれたのだ。
「そうかい。それは悪いことを言った。いいとこあるね、さすがは町内会長だ」
「ほんとに。おかげで今日の牡蠣の仕上がりは上々です」
そういった細かい気配りができるからこそ、ヒロシは町内会長を任されているのだ。人によっては嫌がるような面倒な仕事を、何年も続けて引き受けてくれているヒロシには感謝してもしきれなかった。
ありがたいことだね、と言うウメに頷きながら、美音は掃除を終えた牡蠣をフライパンで煎る。軽く水分が飛んだあたりで火を止め、ベーコンを巻き付けて楊枝で留めたら下拵え完了である。
「お姉ちゃん、こっちもできたよ」
薄く塩胡椒した豚ヒレ肉にベーコンを巻き付け、牡蠣と同じく巻き終わりを楊枝で留めた馨が声をかけてくる。
「では、ご一緒に」
美音が軽く微笑むと、馨もにっこり笑って応え、姉妹は仲良く並んでコンロの前に立つ。
牡蠣は小さいフライパン、面積をとる豚ヒレ肉は大きめのフライパン。牡蠣は強火で、豚ヒレ肉は中までしっかり火を通したいのでちょっと弱火で……
姉妹がそれぞれ真剣な顔で料理する様を見ていたトクが、にやりと笑った。それに気付いたウメが怪訝な顔になる。
「なんだい、トクさん。急に笑ったりして気味が悪いね」
「いや、面白いなあと思ってさ」
「なにが?」
「同じベーコン巻きなのに、フライパンの大きさも焼き方も対照的。まるで美音坊と馨ちゃんみたいだなあって」
「ああ、そういうこと。確かにこのふたりは何もかも対照的だね。でも……」
「気のいい働き者ってところは同じだな!」
「アキラー!! 今あたしが言おうと……」
一番いい台詞を攫ったアキラにウメが不満の声を上げる。
アキラは涼しい顔で、さっきのお返しだーい、なんて笑いながら焼き上がった牡蠣のベーコン巻きを受けとった。添えてある鮮やかな黄色のレモンをぎゅっと絞り、楊枝をつまんでぱくり……
「おおーっ! 口ん中が海だぜー!」
強火でしっかり焦げ目がついたベーコンのかりっとした歯触りのあと、牡蠣の柔らかい食感がくる。乾煎りして水分を飛ばしたおかげで濃縮された牡蠣のエキスは、まさに『海のミルク』と呼ぶに相応しい味わいだった。
アキラは、美音が新たに注いだビールを一気に喉に流し込み、カウンターに突っ伏して足をばたばたさせる。
「くーーーーーーっ!」
「賑やかな男だな、おめえは。ちょっとは大人しく呑み食いしやがれ」
呆れたようにトクは言うが、美音はストレートなアキラの反応が嬉しくて仕方がない。
こういう大げさなぐらいのアキラの反応を見て、同じ料理を注文してくれる客がたくさんいるからだ。同じことを思ったらしい馨が、取りなすように言った。
「いいんだよ、アキラさん。もう、存分にばたばたしてて! アキラさんに釣られて注文してくれるお客さん、けっこう多いんだから!」
「確かにアキラさんを見てると、俺もちょっと食ってみたく……」
「やめとけ!」
「およしよ!」
「とんでもねえ!」
アキラ、ウメ、トクの三人が同時にカンジを止めた。馨は慌てて、焼き上がったばかりの豚ヒレのベーコン巻きを差し出す。
「はいはい、カンジさんはこっち!」
火が十分に通ったあと、最後に強火で仕上げたのでこちらもベーコンはカリカリ。ただし、中身は豚ヒレ肉だからボリューム満点。
カンジは受け取った皿をカウンターに置くなり、ベーコン巻きのひとつにかじり付いた。
「あっちー!!」
大声を上げ、慌ててラドラーをごくごくと呑む。じっくり焼かれた豚ヒレ肉は予想以上に熱を持っていたらしい。ラドラーで口の中を冷ましたカンジは、懲りもせずに熱々の豚ヒレベーコン巻きを口に入れる。ぱらぱらっと申し訳程度に振られた塩は、ベーコンの塩気に助けられてちょうどよい加減。さらに、脂気が少なくて焼いただけではつまらない味になりがちな豚ヒレ肉を、ベーコンがまろやかに仕上げている。
「厚めのベーコンを使ったから、脂がくどいようならレモンをたっぷり搾ってね」
「ぜんぜん!」
カンジの目は『俺はこれぐらいボリュームがあるほうが嬉しいです』と語っている。口に出さないのは、馨に返事をする間も惜しいかららしい。
大きくかじり取っては、あぐあぐと咀嚼してごくん。そしてまたラドラー……。カンジは絶え間なく口を動かし続けた。
それを見ていたトクが、また首を振る。
「おめえも落ち着きがないなあ……。アキラにそっくりだ」
「俺の弟分だから当然だ」
アキラは、なーっ、とばかりにカンジを見る。カンジも嬉しそうに頷く。
仕事でもそれ以外でも頼れる先輩。カンジにとってアキラは、本当の兄のような存在なのかもしれない。だからこそ、カンジは仕事を終えたあとも、こうやってアキラと一緒に過ごすのだろう。
「ま、仲がいいってのはけっこうなことだよ。本当の兄弟でもそうじゃなくても」
「兄弟って言えば、ウメさん、クロは元気?」
三つ目のベーコン巻きを吞み込んだアキラが訊ねた。
「なんだい唐突に……」
「いや、兄弟仲良くって聞いたら、急に思い出してさ。うちのミクとクロって兄弟じゃん」
「あ……そうか。そういやそうだったね」
空の色がぐっと深まり、街路樹の色が緑から黄色、そして朱へと移っていく。
日中はまだ暑さを感じる日もあるけれど、もうエアコンがなくても凌げる。一年中で一番過ごしやすい季節の到来だった。
東京下町にある居酒屋『ぼったくり』。
物騒な店名は、『誰でも買えるような酒や、どこの家庭でも出てくるような料理で金を取るうちの店は、もうそれだけでぼったくりだ』という父の口癖から常連たちがつけてくれたものだ。命名にあわせて彼らから贈られた暖簾は、夕方が夜にかわりかけるころ、ひっそりと戸口にかけられる。店を大切に営んでいた両親が亡くなった今も――
『ぼったくり』店主、美音は暖簾を店の外に出し、何匹か群れをなして飛んでいく赤とんぼに目をやった。
「あ、アキアカネだ。やっと下りてきたんだね」
水を入れたじょうろを片手に出てきた妹の馨が、ほっとしたように言う。
今日は風が強いので打ち水でもして舞い上がる土埃を抑えようということらしいが、バケツと柄杓ではなく、じょうろというのがいかにも彼女らしい。馨は、そのほうがまんべんなく水を撒けていい、と言うのだが、美音から見ればいささか情緒に欠ける。
だが今は、その情緒のなさよりも、赤とんぼが飛んでいることに安心している様子のほうが気になった。しかも彼女は『下りてくる』と表現している。
「どうして? 赤とんぼなんて夏からずっと飛んでたでしょ?」
「ナツアカネはけっこう飛んでたんだけど、アキアカネは今日が初めてだよ。さっきのとんぼの中に、目まで赤いのは一匹もいなかったでしょ?」
ナツアカネのオスは目まで赤くなるらしいから、あれはきっとアキアカネの群れだよ、と馨は付け足した。
「あら……そうだった?」
「アキアカネって、夏の暑い間は山に行ってるんだって」
ナツアカネとアキアカネはまとめて赤とんぼと呼ばれることが多い。どちらも梅雨ごろから秋の終わりまで生息するとんぼだが、生まれてから死ぬまで平地で過ごすナツアカネと異なり、アキアカネは夏の間、暑さを避けるように山間部に移動する。だから夏の間に街中で見かける赤とんぼは、ナツアカネである。
本当にアキアカネが暑さを避けるために山に向かうのか、真偽のほどはわかっていないのだが、夏の盛りを過ぎ、気温が下がり始めたころ、平地に戻ってくることから『アキアカネは避暑に行く』というのが通説となっているらしい。
そんなとんぼについてのトリビアをちょっと自慢げに披露したあと、今年はアキアカネが下りてくるのが遅かった、と馨は言った。
「うんざりするような暑さだったから、このまま山から戻ってこないんじゃないかって心配してたんだよ。いや、よかったよかった」
空に映えるアキアカネの群れを見ないで冬を迎えるのは寂しい。何よりも、山では上手く繁殖できないのではないかと、心配していたのだと馨は言う。そして馨は飛んでいくアキアカネの群れに、発破をかけた。
「こんな街中にいないで、早く田んぼとか池のあるところに飛んでくんだよー!」
日頃は元気一杯で、ちょっとやんちゃが過ぎるように思えることもある馨だけれど、アキアカネを思いやる優しさがある。それでいて、道の端を伝うように歩いていた蟻が、いきなり降り注いだじょうろの水に慌てふためく様子に大笑いしたりもするのだから、我が妹ながら面白い。
逃げ惑う蟻に、ごめんごめん、なんて謝っている馨を見て笑っていた美音に、ちょうど歩いてきたふたり連れの女の子が声をかけた。
「美音さん、こんにちは!」
「ああ、早紀ちゃん。こんにちは。どこかにお出かけ?」
「はい。ちょっとお友達のおうちに」
「あらいいわね。でも、すぐに暗くなっちゃうから気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
軽く会釈して通り過ぎていく早紀を見送り、美音は首を傾げた。
「珍しいわね……制服のままなんて」
普段の早紀は、学校帰りに寄り道などしない。買い物にしても、友達と遊ぶにしても、一旦家に帰ってちゃんと着替えてくる。土用の丑の日が迫ったころ、制服のままで『スーパー呉竹』にいたことはあるが、あれは例外中の例外。鰻の値段が気になってならなかったからだろう。
その早紀が制服のままどこかに向かうなんて、何か特別な用事でもあるのだろうか。特に急いでいるようにも見えないけれど……
美音は少し気にしながらも、水を撒き終えた馨と一緒に店の中に戻った。
†
「馨ちゃん、俺にビール! こいつにはいつもの!」
「はいはい、ラドラーね」
引き戸を開けるなり、声を上げたのはアキラ。後ろから後輩のカンジも入ってきた。ふたりは電気製品取付会社に勤めている。今日も一日の仕事を終え、『ぼったくり』で一杯やろうとやってきたのだろう。
アキラは典型的な『とりビー』派。何が何でも一杯目はビールだ、と譲らない。一方、汗かきで酒に弱いカンジはビールをレモンソーダで割ったラドラーがお気に入り。ほんのり甘くて呑みやすく、三杯呑んでもビール一杯と同じぐらいのアルコール量にしかならない。
ふたりは上機嫌で飲み物を受け取って、早くも汗を掻き始めているグラスをかちんと合わせる。
「お疲れさん! 俺たち、今日もよく頑張ったよな!」
「うっす!」
それぞれがごくごくとグラスの中身を呑み始め、見事なぐらい同じタイミングで「ぷはーっ!!」と息を吐いた。
「ちきしょうめ、もう、どうにでもしやがれ! かい?」
隣に座っていたウメが、アキラが言おうとした台詞をさくっと横取りした。
ウメは父の代からの常連で、三日に一度現れては焼酎の梅割りを注文する。昔、芸者をしていたという彼女は「女は腹を冷やしちゃだめだ」が信条で、夏でも冬でもお湯割りを好む。
今日もしょっぱい『ぼったくり』自家製の梅干しを箸でつついて焼酎に馴染ませながら、ゆっくりとお湯割りを楽しんでいた。
「ひでえよ、ウメ婆!」
台詞を奪われたアキラが、恨めしそうにウメを見た。ウメはクスクスと笑いながら謝る。
「ごめんよ。あんまり気持ちよさそうだから、つい、ね。それに、あんたにその台詞はなんか似合わないよ。やっぱりトクさんぐらいじゃないと」
いろいろな経験をして酸いも甘いも噛み分けてこそ、真実味を帯びてくる台詞がある。若者が言う『どうにでもしやがれ』と年寄りの言う『どうにでもしやがれ』は重みが違う。年寄りに似合いの台詞を若いもんが粋がって使っても滑稽なだけだよ、とウメは主張した。
ウメの言葉にトクは自慢げに鼻を鳴らし、アキラの肩をぱんっと叩いて言う。
「ま、おめえはまだまだ修業不足。あと二十年もしたら俺みたいに『年季が入って』いい具合になるさ。それまでは大人しく『やべえ、旨すぎー!』とでも言ってな」
「リョウじゃあるまいし!」
いいじゃねえかよー何を言ったって、この国には言論の自由ってもんがあるだろ、とぶつぶつ言ったあと、アキラはカウンターの向こうの美音に声をかけた。
「美音さん、腹が減った。なんか旨いものいっぱい出して!」
「アキラ、美音坊が旨くないものを出したことがあるってえのか?」
「そうそう、この店では水一杯にしても不味いものは出てこないってご存じないのかい?」
「勘弁してくれよ。ふたりとも、今日は一段と……」
アキラは、自分をからかい続ける年寄りふたりにお手上げの様子だった。
年寄りの常連たちは時折、こんな風に若い常連にちょっかいを出して楽しむが、特にアキラはその的にされることが多かった。世の習いをあれこれわきまえていて、年長者を敬う気持ちもちゃんと持っているアキラは、『年寄りの遊び』への許容量も大きいと判断されているのだろう。
敵わねえ……とばかりにカウンターに突っ伏したアキラを見て、カンジが小さく笑った。
おそらく、自分に説教ばかりしている兄貴分のアキラが、ふたりがかりでやり込められているのがおかしかったに違いない。
アキラはそんなカンジを横目でじろりと睨み、軽くため息を漏らした。
「ちぇ。この店じゃ俺なんてまだまだひよっこだからなあ。やられっぱなしだぜ」
「とかなんとか言って、アキラさん、本当はこうやっていじられたくてここに来るんでしょ?」
「カンジ……」
クマのように大きな身体なのに、まるで子どもみたいに、にこにこと笑いながらカンジは言う。
アキラは仕事の腕も上がり、もう誰かに文句を言われることもない。むしろカンジたち後輩を指導することがもっぱらになっている。
だが、アキラ自身はそんな状況を、少々居心地が悪いと思っているようだ。
会社に入りたてのころみたいに、叱られることで成長したいと思う気持ちもある。誰からも叱られないというのは、楽なように見えるが、成長の機会を失うことでもある。たまには親身になってくれる誰かに叱られたい……
カンジは、アキラがそう感じているのではないかと想像したのだろう。そして、アキラが微かに頬を染めたところを見ると、どうやらそれは当たっていたらしい。
「まったく、お前まで……。今日はよっぽど日が悪いんだな」
そう言いながらもアキラは、本当は不快には思っていない。なんとなく笑みがこぼれる寸前に見える彼の表情がその証拠だ。ぶつぶつ言うのはアキラ特有の照れ隠し。その照れようが可愛らしくて、さらに年寄りたちを喜ばせているのを知らないのは本人ばかり。
困り事の相談は最優先。みんなして真剣に考えるけれど、難しい話がないときは純粋に楽しむ。悪のりしているように見えても、本当は相手のことを考えていて、お互いに構ったり構われたりしている。
常連たちは『ぼったくり』は居心地のいい店だと褒めてくれるけれど、その居心地のよさを作り上げているのは常連たち自身だった。
――私にできるのは、せいぜいみんなのお腹を満足させることぐらい。だから、せめてそこだけは一生懸命頑張らないと。
美音はそんなことを思いながら、年寄りふたりにいじられているアキラに品書きを差し出した。
「まあまあ、アキラさん、ご機嫌を直して『本日のおすすめ』でもご覧ください」
「おう! で、今日のおすすめはなんだ?」
美音から受け取った品書きに目をやったアキラが歓声を上げた。
「やったー! 牡蠣だー!!」
「旨えぞ、牡蠣フライ」
「酢のものもあっさりして美味しいよ」
トクとウメが同時に声をかける。だが、アキラはふたりの意見などまるで無視だった。
「俺は牡蠣は……」
「ベーコン巻き、レモンたっぷり! でしょ?」
「そのとおり! さすが美音さん! あ……でも……」
アキラは、隣のカンジにちょっと目をやったあと、ふたり分の生牡蠣を取り出した美音をためらうように見た。カンジはなぜか少し困った顔をしている。
「カンジさん、牡蠣は苦手?」
カンジは大きな身体を縮めて、申し訳なさそうに頭を下げる。
「牡蠣ってえのは、好き嫌いがはっきり分かれるな。だが、食わず嫌いなら一度試してみたらどうだ? なんなら俺の牡蠣フライ、食ってみるか? この酒と一緒にやればもっといいんだが……」
そう言ったあとトクは、ラドラーのグラスを抱えているカンジに、おめえは弱いしなあ……と苦笑いをする。そのとき、ちょうどトクにお代わりを注ごうと美音が出した瓶を見て、アキラが嬉しそうな声を上げた。
「あ、『あかとんぼ』だ! そうか、もうそんな時季かあ」
「お待たせしました。今年もひやおろしの季節です!」
「お、アキラ、おめえはビール党のくせにこの酒を知ってるのか?」
トクはちょっと不思議そうな顔をしてアキラを見た。外仕事でのどをからからにしてやってくるアキラは、一杯目はまずビール。日本酒や焼酎といった他の酒が嫌いというわけではないが、二杯目以降も、ビールを飲み続けることが多かった。そのアキラが日本酒に興味を示したのが解せなかったのだろう。その疑問に答えたのは馨だった。
「トクさん、アキラさんはこのお酒そのものよりも、名前とラベルがお気に入りなんだよ」
「馨ちゃん、その言い方は切ないぜ」
アキラは思いっきり不満の意を表明する。
『あかとんぼ』は栃木にある株式会社せんきんという蔵が造っている酒である。この蔵は酒に『かぶとむし』『線香花火』『雪だるま』といった風雅な名前をつけている。しかも、同じ酒でも、何種類かの異なるラベルがあるのだ。美音は毎年、季節に合わせてこの蔵の酒を仕入れるのだが、注文を出したあと、自分の手元にどんなラベルが届くかを楽しみにしていた。おそらくアキラも夏のカブトムシから秋の赤とんぼ、そして冬の雪だるまと変わっていく酒の名とラベルで季節を感じているのだろう。
ビール党とはいえ、日本酒の美味しさだってちゃんとわかっているアキラにしてみれば、名前とラベルだけがお気に入りと言われるのは心外に違いなかった。
「俺だってひやおろしの旨さは知ってるよ。特にこの酒、香りはなんかケーキかクッキーみたいな甘い感じなのに独特の酸味があるんだよ。そのバランスがなんとも言えねえ……」
と得意げに説明をするアキラを、トクが遮った。
「おめえが言ってるのは、これとはまた別の酒だな」
「え? ラベルが変わってるだけじゃねえのか」
まじまじとラベルを見ているアキラに、美音が説明する。
「これはね、今年の新製品なんですって。酸味がとてもすっきりしてるし、桃やぶどう、それにドライマンゴーやイチジクがまざったみたいな香りがすごく素敵なんですよ」
「ケーキじゃなくてミックスジュース系なのか」
「アキラさん、ミックスジュース系って……」
馨は呆れたように言うが、美音はアキラの表現は、いかにも彼らしくていいと思う。おそらくアキラはいくつかの果物が合わさったような香りだと言いたいのだろう。酒を表現するにはちょっと問題ありかもしれないが、あながち間違ってはいない。
「とにかく、ひやおろしはひやおろしだ! こいつが出てきたってことは、秋ももう本番だ!」
「確かにな」
きっぱりと言い切ったアキラに、トクは異存なし、と頷く。
酒瓶に貼られたラベルには『仙禽 あかとんぼ 秋上がり』と書かれている。春に造った酒を一夏寝かして出荷する『ひやおろし』は秋限定の酒であるが、この酒は名前に『秋上がり』と入れられているように、十月の声を聞いてから出荷される、まさに秋本番の酒だった。
「この酒は牡蠣フライ、しかもタルタルソースじゃなくて俺が好きな普通の中濃ソースをかけた奴にぴったりだ。多分他の揚げ物でも合うだろうな。酸味がレモンの代わりになるからかもしれない。だがまあ、おめえの呑んでるラドラーはレモンジュースも入ってるし、それはそれでいいかもな」
カンジにトクが説明する。
「へえ、ソースに合う日本酒か……それは珍しいっすね」
「牡蠣が苦手でも、美音坊の料理なら、案外、気に入るかもしれないぜ。ちょっと食ってみるか?」
と誘いをかけたトクを、アキラが慌てて止めた。
「ストップ! トクさん、悪いけどこいつ、アレルギー持ちなんだ。牡蠣は一発アウト。だから、勘弁してやって」
「ああ、そうか。そいつは悪かった」
トクはすぐさまカンジに謝る。カンジは、とんでもないっす、と手と首をぶんぶん振った。
後輩の苦手なものまでちゃんと覚えているアキラは、本当に面倒見のいい先輩なのだろう。カンジは口下手だから、俺が何とかしてやらないと……と思っているのかもしれない。
いい兄貴分だね、とウメに褒められ、まんざらでもなさそうな顔でアキラは言う。
「ということで、美音さん。こいつにはなんか別のもん出してやって」
「了解。じゃあ……」
冷蔵庫の中身を思い出しながら、カンジの顔を見た美音はうっかり吹き出しそうになる。
カンジの顔にはいつもどおり「肉・肉・肉!」と書いてあった。
「ベーコンとレモンがあるんだから、牡蠣の代わりに豚ヒレを巻きましょうか」
「あ、それ旨そう!」
カンジがぱーっと顔を輝かせる。美音はほっとして豚ヒレ肉を取り出した。
「お姉ちゃん、それ、あたしがやるよ」
馨が豚ヒレを引き取って一センチぐらいの厚みでそぎ切りにし始めた。牡蠣に比べれば豚ヒレは下拵えが断然楽なので馨に任せ、美音は牡蠣にとりかかる。
牡蠣を洗うのに片栗粉や塩水を使う方法もあるらしいけれど、美音はできる限り大根おろしを使う。牡蠣特有の生臭さを抑える効果を期待してのことである。洗うだけだから辛くても粗くても平気、とばかりに美音は大根をがりがりと摺りおろす。勢いよくおろした大根をボウルの中に入れた牡蠣にまぶし、汚れや滑りをとっていく。
「もったいないなあ……その大根おろしだけでどんぶり飯が食えそう……」
アキラはそんなことを言って嘆く。
「でもこの大根、ちょっと鬆が入っちゃってるから、そのまま食べても美味しくないのよ」
「え、なんでそんなものが紛れ込んだんだい? ヒロシのすっとこどっこいめ、これはひとつ……」
『ぼったくり』にそんな使い物にならない大根があるなんておかしい。八百源のヒロシがやらかしたのかい、とウメは今にも文句を言いに行きそうになる。
「違うんです。これはヒロシさんが厚意で下さったんです」
如何に目利きのヒロシとはいえ、箱単位で仕入れれば具合の悪いものも含まれる。見かけだけの問題なら値を下げて売ればいいが、明らかに不味いとわかっているものは店に出せない。八百屋のプライドに関わる、とヒロシは息巻く。今日も箱で仕入れた大根の中に、そんな一本が紛れ込んでいたらしく、八百源の前を通りかかった美音に声をかけてきたのだ。
「美音坊、近々牡蠣を商う予定はねえか?」
「あら、ちょうど明日あたり、おすすめに入れようと思ってたところなの。どうして?」
「八百屋の勘ってやつに引っかかってよ、ちょいと葉を折ってみたら鬆が入ってやがってさ。売りもんになんねえし、かといって捨てるのもなんだし……」
せめて牡蠣の掃除にでも使ってやってくれよ、と笑いながら、ヒロシは大きな大根を渡してくれたのだ。
「そうかい。それは悪いことを言った。いいとこあるね、さすがは町内会長だ」
「ほんとに。おかげで今日の牡蠣の仕上がりは上々です」
そういった細かい気配りができるからこそ、ヒロシは町内会長を任されているのだ。人によっては嫌がるような面倒な仕事を、何年も続けて引き受けてくれているヒロシには感謝してもしきれなかった。
ありがたいことだね、と言うウメに頷きながら、美音は掃除を終えた牡蠣をフライパンで煎る。軽く水分が飛んだあたりで火を止め、ベーコンを巻き付けて楊枝で留めたら下拵え完了である。
「お姉ちゃん、こっちもできたよ」
薄く塩胡椒した豚ヒレ肉にベーコンを巻き付け、牡蠣と同じく巻き終わりを楊枝で留めた馨が声をかけてくる。
「では、ご一緒に」
美音が軽く微笑むと、馨もにっこり笑って応え、姉妹は仲良く並んでコンロの前に立つ。
牡蠣は小さいフライパン、面積をとる豚ヒレ肉は大きめのフライパン。牡蠣は強火で、豚ヒレ肉は中までしっかり火を通したいのでちょっと弱火で……
姉妹がそれぞれ真剣な顔で料理する様を見ていたトクが、にやりと笑った。それに気付いたウメが怪訝な顔になる。
「なんだい、トクさん。急に笑ったりして気味が悪いね」
「いや、面白いなあと思ってさ」
「なにが?」
「同じベーコン巻きなのに、フライパンの大きさも焼き方も対照的。まるで美音坊と馨ちゃんみたいだなあって」
「ああ、そういうこと。確かにこのふたりは何もかも対照的だね。でも……」
「気のいい働き者ってところは同じだな!」
「アキラー!! 今あたしが言おうと……」
一番いい台詞を攫ったアキラにウメが不満の声を上げる。
アキラは涼しい顔で、さっきのお返しだーい、なんて笑いながら焼き上がった牡蠣のベーコン巻きを受けとった。添えてある鮮やかな黄色のレモンをぎゅっと絞り、楊枝をつまんでぱくり……
「おおーっ! 口ん中が海だぜー!」
強火でしっかり焦げ目がついたベーコンのかりっとした歯触りのあと、牡蠣の柔らかい食感がくる。乾煎りして水分を飛ばしたおかげで濃縮された牡蠣のエキスは、まさに『海のミルク』と呼ぶに相応しい味わいだった。
アキラは、美音が新たに注いだビールを一気に喉に流し込み、カウンターに突っ伏して足をばたばたさせる。
「くーーーーーーっ!」
「賑やかな男だな、おめえは。ちょっとは大人しく呑み食いしやがれ」
呆れたようにトクは言うが、美音はストレートなアキラの反応が嬉しくて仕方がない。
こういう大げさなぐらいのアキラの反応を見て、同じ料理を注文してくれる客がたくさんいるからだ。同じことを思ったらしい馨が、取りなすように言った。
「いいんだよ、アキラさん。もう、存分にばたばたしてて! アキラさんに釣られて注文してくれるお客さん、けっこう多いんだから!」
「確かにアキラさんを見てると、俺もちょっと食ってみたく……」
「やめとけ!」
「およしよ!」
「とんでもねえ!」
アキラ、ウメ、トクの三人が同時にカンジを止めた。馨は慌てて、焼き上がったばかりの豚ヒレのベーコン巻きを差し出す。
「はいはい、カンジさんはこっち!」
火が十分に通ったあと、最後に強火で仕上げたのでこちらもベーコンはカリカリ。ただし、中身は豚ヒレ肉だからボリューム満点。
カンジは受け取った皿をカウンターに置くなり、ベーコン巻きのひとつにかじり付いた。
「あっちー!!」
大声を上げ、慌ててラドラーをごくごくと呑む。じっくり焼かれた豚ヒレ肉は予想以上に熱を持っていたらしい。ラドラーで口の中を冷ましたカンジは、懲りもせずに熱々の豚ヒレベーコン巻きを口に入れる。ぱらぱらっと申し訳程度に振られた塩は、ベーコンの塩気に助けられてちょうどよい加減。さらに、脂気が少なくて焼いただけではつまらない味になりがちな豚ヒレ肉を、ベーコンがまろやかに仕上げている。
「厚めのベーコンを使ったから、脂がくどいようならレモンをたっぷり搾ってね」
「ぜんぜん!」
カンジの目は『俺はこれぐらいボリュームがあるほうが嬉しいです』と語っている。口に出さないのは、馨に返事をする間も惜しいかららしい。
大きくかじり取っては、あぐあぐと咀嚼してごくん。そしてまたラドラー……。カンジは絶え間なく口を動かし続けた。
それを見ていたトクが、また首を振る。
「おめえも落ち着きがないなあ……。アキラにそっくりだ」
「俺の弟分だから当然だ」
アキラは、なーっ、とばかりにカンジを見る。カンジも嬉しそうに頷く。
仕事でもそれ以外でも頼れる先輩。カンジにとってアキラは、本当の兄のような存在なのかもしれない。だからこそ、カンジは仕事を終えたあとも、こうやってアキラと一緒に過ごすのだろう。
「ま、仲がいいってのはけっこうなことだよ。本当の兄弟でもそうじゃなくても」
「兄弟って言えば、ウメさん、クロは元気?」
三つ目のベーコン巻きを吞み込んだアキラが訊ねた。
「なんだい唐突に……」
「いや、兄弟仲良くって聞いたら、急に思い出してさ。うちのミクとクロって兄弟じゃん」
「あ……そうか。そういやそうだったね」
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