居酒屋ぼったくり

秋川滝美

文字の大きさ
上 下
1 / 228
1巻

1-1

しおりを挟む
 れんの向こう側






 居酒屋を始めるなら冬がいい――


 米のぎ汁の中で白くけていく大根ので具合を確かめながら、美音みねは父の言葉を思い返す。
 材質はあまりよくないけれどしっかりと磨き上げられたカウンターの内側で、大根の下拵したごしらえの合間に呟かれたその台詞セリフは、当時中学生だった美音にはちょっと不可解だった。
 何故冬なのか、とたずねた美音に、父は真面目な顔で答えた。

「だってな、美音。寒い中ずっと歩いてきて居酒屋の灯りが見えたら、つい足を止めたくなるだろう? うまそうな匂いが流れてきたら、そいつをさかな燗酒かんざけの一杯も流し込みたくなるのが人情ってものさ」

 寒風にさらされて冷え切った身体は、馴染なじみの店まで待ってくれない。通りすがりの新しい店でも覗いてみようか、って気になるじゃないか。
 父はやけに自信たっぷりに言い切った。
 そういうものだろうか、と首をかしげる美音に、田楽味噌でんがくみそをとろ火で練り上げていた母がこっそりささやく。
 お父さんって時々、何の根拠もないのに言い切るときあるよね……なんて。
 父は確固たる信念に基づいて、二月の終わり間近、こよみの上ではとっくに春だけれど気持ちとしてはまだまだ冬という時期に一国一城のあるじとなった。
 八人がけのカウンターと、座卓を二つ入れるのが精一杯の小上こあがり。全部で二十人も入れないような小さな店だったけれど、父と母にとっては大事な城だった。
 旨い酒と旨い料理、そして正直なあきない。居酒屋にとって必要なのはそれだけだ。他はあとからついてくる――と、美音にも大いに納得できる言葉を金科玉条きんかぎょくじょうに、両親は、いかにお客を満足させるかだけを追い求めた。
 冬に合わせて店を開いた父の狙いが当たったかどうかは定かではない。だが、開店してすぐの頃、ふらりと立ち寄ってくれた客の何割かは馴染みとなり、今も通い続けてくれている。

『居酒屋ぼったくり』
 それが、この店の屋号である。
 あまりにも物騒で、一見いちげんの客はれんの前で足を止めることすらためらうような店名だが、元からその名前だったわけではない。開店当時は別の、どこにでもあるような屋号だったのだ。
 父は、誰でも買えるような酒や、どこの家庭でも出てくるような料理で金を取るうちの店は、もうそれだけでぼったくりだ、と自嘲たっぷりに呟くのが常だった。
 最初は、「そんなこともないだろうさ」なんて、父の言葉を否定していた常連たちも、あんまり連日聞かされるものだから、もういっそ店名から『ぼったくり』にしてしまえ、それなら看板に偽りなしであんたも気が楽だろう、と言い出した。
 それどころか常連たちでお金を出し合って、新しい暖簾まで贈ったというのだから、父も父なら客も客である。
 全く客が入らなくて潰れても困る。でも、客が来すぎて自分たちが気軽に入れなくなっても困る。
 常連たちは「この物騒な名前が入った暖簾をくぐれるほど度胸のある奴なら、仲間にしてやってもいいぜ」なんて呵々大笑かかたいしょうしたそうだ。
 料理人としての腕は超一流だが、人あしらいが苦手でお世辞の一つも言えなかった父と、父の無骨さを覆い隠せるほど愛嬌あいきょうたっぷりだった母。
 二人が大切に営んでいた店には、客たちに贈られた物騒な名前が入った暖簾がかけられている。
 二人が亡くなり、娘たちが店を継いだ今も――


     †


 美音と妹のかおるが引き継いだ店『ぼったくり』は、商店街の中ほどに位置している。
 商店街とはいっても、昔ながらのこぢんまりしたもので、車が一台通り抜けるのがやっとの道幅しかない。
 それでも、八百屋やおや、肉屋、魚屋、酒屋、豆腐屋、クリーニング屋に薬局、そして人相手と動物相手の病院……と、日常生活に必要なあれこれは一通りここですませることができるとあって、近隣の住民はけっこう便利に使っていた。


 美音が歩いて十分ほどの距離にある自宅から、店に向かうのは午前九時半過ぎである。
 通勤通学の時間帯ならば商店街を通り抜ける人も多いが、午前中のこの時間は人影もまばら。
 シャッターが閉まった店ばかりの通りをのんびりと歩いている美音に、少し先から声がかかった。

「美音ぼう、おはようさん! 今日の注文、卵がずいぶん多いが間違いじゃねえよな?」

 肉屋を営むヨシノリだった。ちょうど店の前を掃除していたところらしく、ほうきとちりとりを持っている。見たところ掃除はもう終わったようだが、歩いてくる美音を見つけて近付くのを待っていてくれたのだろう。
 店を受け継いだばかりの頃、美音は単位を勘違いして鶏胸肉十枚でいいところを、十キロと書き込んでしまったことがあった。
 そのときも、こうやっていてくれたおかげで、大量の胸肉を持て余さずにすんだ。今では滅多にそんな間違いはしなくなったけれど、それでもいつもよりも注文量が多かったりすると、ヨシノリは店の前を通る美音に確認してくれるのだ。

「間違ってないわよ。今日はそれだけいるの。明日ぐらいからまた冷え込むんですって」
三寒四温さんかんしおんとはよく言ったもんだが、もう春も近いってのに、今年はずいぶん律儀に繰り返しやがるな。なるほど、それで卵ってわけだな。馴染なじみの連中がさぞかし喜ぶことだろうさ。にしても、やっぱり多い気がするが……」

 一人でどんどん話し続けるヨシノリに、美音は苦笑しながら答える。

「いいのよ。他にも使いたいことがあるから」
「了解。間違ってねえならいいんだ。今日は牛すじもいいのが入ってるから、おあつらえ向きだな! じゃあ、あとで届けるよ」
「よろしくお願いしまーす」

 店の奥に入るヨシノリを見送り、美音はまた歩き始めた。


     †


 からりと引き戸を開けて、常連客のひとりが入ってきた。
 みんなから『トク』と呼ばれているが、トクジなのかトクヤなのかはわからない。もしかしたら徳田とくだとかいう苗字なのかもしれない。
 美音は客の名前を正確に記憶したことがない。掛け売りをするような店ではないから、呼び名を覚えておけば十分。それがどんな字を書くのかよりも、顔を覚えることのほうがずっと大事だった。
 一見いちげんだった客が二度目に来てくれたときに、「また来てくれてありがとう」と迎えることは客商売の原則だ。
 ちゃんと覚えてますよ、と押しつけがましくない程度に伝える。それをいやがる客もいるからさじげんは大事だが、この店では馴染みとして迎えられることを喜ぶ客のほうが多かった。だから、客の顔や雰囲気は必死で頭に叩き込むが、名前は二の次。それでもなんら支障はなかった。
 でもこれ、言い訳よね。覚えられる人は名前までちゃんと覚えるもの……とちょっぴり自分を責めながら、美音はトクの注文を待つ。


「美音坊、今日は一番高い酒をくれ!」

 トクは工事現場で足場を組み立てる仕事をしている。この道に入って五十年だ、と聞いたことがあるから、おそらく七十近い年齢だろう。
 初めてこの店に来たとき、「高い酒がうまいことは多いが、安い酒が全部まずいわけではない。手頃な値段の酒の中にだって旨い酒はいくらでもある」という父の言葉に諸手もろてを挙げて賛成し、常連になってからも手頃な値段の酒を呑むことが多い。
 そのトクが、今日に限って『一番高い酒』と言うのには、何か理由わけがあるのだろうか。
 トクの注文にげんな顔をしている美音に、取り成すように先客のシンゾウが言った。

「トクさんがこんな顔してこんなこと言うのは、現場で何かあった証拠だ。じいさん、らししたくて仕方ないんだろう」

 商店街で薬局を営んでいるシンゾウも、トクと同じく開店当時からの常連である。薬だけでなく世の中のあれこれについて、知らないことはないのではないかと言われるほど博識で、町内のご意見番としてみんなに頼りにされている。
 酒についての造詣ぞうけいも深く、説明なしに注いだ酒でも、銘柄はおろか酒米さかまいまで当てられてしまう。
 美音は、たまにはシンゾウの知らない酒を出して、鼻を明かしてみたいものだと思っているが、そんな機会に恵まれたことはない。
 料理に関しても同様で、隠し味に使った調味料やほんの少しだけ紛れ込ませた食材を見事にぎ分けてしまう。その上、彼の注文はいつだって『おすすめ』重視で、どんな酒をどんな料理に合わせて出すかで、美音の力量を測ろうとする。いいときはたっぷり褒めてくれるけれど、その分、しくじったときは厳しい。
 店を引き継いだ頃は「美音坊、この取り合わせはねえよ。酒も料理も台無しだ」なんてけんもほろろに言われたことが何度もあった。
 けれど、経験の浅い美音が接客に戸惑うようなことがあったとき、助けの手を差し出してくれるのもシンゾウである。つまりシンゾウは、美音にとって一番手強てごわく、それでいて頼りにしている客だった。
 シンゾウの説明で、トクが『一番高い酒』を所望する理由がわかったものの、美音はちょっと困った顔になる。

「憂さ晴らし……じゃあ、『ぼったくり』の名に相応しく『いっちばーん高いお酒』でぱーっと、と言いたいところですが……」
「なんだ、美音坊。言いたいところですが、って」
「今日のおすすめには別なお酒のほうが合いそうなんです」

 そう言いながら美音は、トクに今日の品書きを渡した。
 品書きとはいっても、パソコンを使ってその日のおすすめ料理を印刷しただけの簡単なもので、美音の妹の馨が作っている。
 トクとシンゾウは、今日も馨が眉を寄せながら選んだイラストとともに記された料理名を眺めて、ほうっ……と嬉しそうな息を漏らす。


「おでんか。今日はかんの戻りって感じだからありがたいな」
「荒れた気持ちも湯気がいやしてくれそうだ。鍋の季節は終わりも近けぇが、最後の一踏ん張りってとこだな」

 もうあと半月もすれば桜が咲く。そうしたらおでんの季節も終わりだ、と少し寂しそうにトクは言う。だが、シンゾウは、ところがどっこい、と言葉を返した。

「最近は冷やしおでんとやらで、夏も頑張ってるらしいぞ」
「冷やしおでんだあ? 大根やら蒟蒻こんにゃくやらを冷やしちまうのかい? それはあんまり伝法でんぽうじゃねえか。俺はやっぱりおでんは熱々がいいがなあ」
「俺も同感だが、近頃は何でもかんでも一年中売りまくりたいらしい。うまいのかねえ、冷たいおでんは」
「けっこう美味おいしかったよ。夏おでん」

 そこに口を挟んだのは馨だった。そういえば馨は、昨年の夏に、レトルトパウチされた冷たいおでんを買い込んできた。一緒に食べようよ、と誘われてはしを伸ばしてみたが、冷たいながらも出汁だしをしっかり吸った大根やちくは意外に美味しかった。
 おでんは熱いものという概念にさえ囚われなければ、夏おでんのあっさりとした味わいは独特の清涼感をもたらし、けっこうおつなものだと思う。

「さすがは若いだけあってチャレンジャーだな、馨ちゃんは」
「研究熱心と言ってよ。新しい食べ物はとにかく試してみて、お店で出せないか考える。それって料理屋の基本じゃない」

 などと、いかにもまっとうなことを言っているが、美音から見れば馨はただの食いしん坊である。
 食べるのは大好きだけれど、それを生かしてどうのこうのということまでは考えていない。いや、全く考えないわけではないだろうけれど、少なくとも第一目的はそこにはない。ただ食べたいだけなのだ。
 そのことをよく知っている美音は、ついつい、なに言ってるんだか……という顔になってしまう。
 そんな美音の表情に気づいて、シンゾウが笑いを噛み殺す。トクは、そいつはお見それしました、なんて言っているが、おそらく彼も同じことを思っているのだろう。

「で、夏が来たら『ぼったくり』で冷たいおでんは出るのかい?」

 検討結果を聞かせてもらおうか、とシンゾウに言われ、とたんに馨は言葉に詰まる。
 あうう……と助けを求めるように美音をうかがう馨を見て、トクが盛大に笑った。

「無理すんじゃないよ、馨ちゃん」
「だよなあ。そういうのはお姉ちゃんの担当だって、俺たちはちゃんと知ってるぜ」
「うう……ばれたかあ。でも、たぶん冷たいおでんはうちでは無理……だよね?」
「おや、なんでだい? うまかったんじゃないのか?」

 シンゾウとトクが、夏おでんを出せない理由を求めて美音を見た。美音はちょっと考えたあと、首を横に振る。

「うちのおでんは、牛すじとか飛竜頭ひりょうずとかあぶらが出るものをたくさん入れるでしょ? 冷たいおでんを出すためには、あの脂を何とかしなきゃならないと思うの」

 肉やそのほかの種物たねものからたっぷり出る脂は、そのままうまみでもある。冷たくなれば固まってしまう脂を、旨みを程よく残して取り除くのは難しい。時間と手間をかければ不可能ではないのだろうが、おでん屋でもない美音は、そこまでして冷たいおでんを出したいとは思わなかった。
 美音の説明に、シンゾウが大きく頷いた。

「ま、夏には夏の旨いもんがあるんだから、無理して冬のもんをいじらなくてもいいさ。この店ではおでんは熱いもの。それでいいじゃないか」
「シンさんの言うとおりだ。ということで、熱いおでんをいただこうじゃねえの」
「はーい! じゃあ、お酒はどうします?」
「美音坊にお任せだ!」

 美音は、そう言われると思ってました、とばかりに頷き、ますの中に冷酒グラスを立てたものを二つ用意する。酒瓶を取り出し、あえてシンゾウに見せないようにラベルを裏側に回したまま、グラスにたっぷり注いだ。多少、いや、かなり升にこぼれるまで注ぐのは二人が常連だからというわけではない。吟味を重ねて、これぞと思って出すのだからたっぷり呑んでほしいという気持ちの表れである。

「お待たせしました」
「おでんもどうぞ」

 姉妹の声が重なって、カウンターの客二人の前にはなみなみと注がれた酒と、湯気が立ち上るおでんの皿が置かれた。
 酒が先か、おでんが先か、一瞬迷ったあと、シンゾウはグラスを持ち上げ、トクははしを取った。

「なんだよ、トクさん。まずは乾杯じゃないのか?」
「でも、この分厚い大根がどうにもこうにも食ってくれってよぉ。一口だけ先に……」
「確かに旨そうだけどな」

 シンゾウは苦笑いをしながら、持ち上げたグラスに口をつけるでもなく、トクが大根に手をつけるのを見守っている。はしで割った大根から新たな湯気が立ち上る。


そのまま口に入れたトクは目を白黒させ、慌てて酒を流し込んだ。

「この野郎! せっかく人が待ってやってるのに!」
「すまねえ、シンさん!」

 大根の熱さを酒で冷まし、トクは改めてグラスを掲げた。シンゾウはグラスの高さをまたほんの少し上げて、乾杯に応じる。

「まったくどうしようもないじいさんだな」
「まあ年寄りのやることだ、勘弁してくれよ」
「俺だって年寄りだ!」
「俺に比べりゃ若いさ」

 そこで二人は賑やかに笑って、それぞれのグラスとおでんの皿に注意を戻した。

「さて、この酒だが……」

 シンゾウはグラスの酒を一口ごくりと呑み下し、次の一口はゆっくりと口の中を転がす。舌だけでなく、口の中のすべてを使って味わい、銘柄を探り当てようとするいつものやり方だった。
 口に入れたときには冷たかった酒が、少しずつ温まっていく。シンゾウは黙って宙を睨んでいる。どうやら口の中の酒と、自分の記憶にある酒を照らし合わせているらしい。
 ゆっくりと呑み下して、また一口。そして、上目遣いにカウンターの向こうにいる美音を見る。

「香りが穏やかだな……呑んだあと、ほんのり立ちのぼってくる」
「柔らかい感じでしょう?」
「ああ。しかも米そのものの香りだ」
「お米で造ったお酒ですから」
「米の香りがちゃんと残ってて、それなのに重さがない」
「そうですねえ……」
「終わり際に酸味がきて、でもって、それがすっと消えて後口あとくちもさっぱり……」

 シンゾウとのやりとりが進むにつれて、美音の顔がどんどん悔しそうになる。
 どうやらシンゾウは、今日も酒の銘柄を見破ったらしい。この世にシンゾウが知らない酒なんてあるんだろうか……とちょっと絶望的な気分にさえなってしまう。
 そんな美音の様子を見て取ったトクが、ひやかした。

「お……またシンさんの勝ちかい?」
「まだわかりませんってば!」
「お姉ちゃん、もう諦めなよ。シンゾウさんには敵わないって」
「俺は美音坊が生まれるずーっと前から酒を呑んできたんだよ。あれこれ知ってて当然だ」
「それはそうでしょうけど……」
「まあ、年寄りに花を持たせてやりなよ。で、シンさん、今日の酒は?」
「そう、慌てなさんな」

 シンゾウはトクを押しとどめ、はし辛子からしをなすりつけたちくをがぶりとかじった。それからもう一度グラスの酒を口に含む。酒を口中に回すようにゆっくりと味わったあと、確信を得たとばかりに頷いた。

諏訪泉すわいずみ。しかもこれだけすっきりしていて、料理の邪魔をしないところをみると特別純米だな」

 美音ががっくりと首を垂れたのが正解の証拠だった。


『諏訪泉』は鳥取県八頭郡やずぐんにある諏訪酒造で造られている日本酒である。諏訪酒造は、安政六年(一八五九年)創業の老舗しにせの酒造会社で、「酒造りに天、つまりこれで完成、十分ということはない」という意味を表す「天のない酒造り」、そして「毎年が一年生」という二つの言葉を規範に掲げ、日々研鑽を続けている。
 水は鳥取砂丘に砂を運んだ千代川せんだいがわの伏流水を、何も手を加えず汲み上げたままで、仕込みから洗瓶せんびんにまで使用している。無味無臭、かつ非常に当たりの柔らかい井戸水は、山田錦やまだにしき玉栄たまざかえといった酒米さかまいとあいまって、この蔵が造る純米酒に真価を発揮させる。
 わけても『諏訪泉特別純米酒』は、米の四十五パーセントをぬかとして削り取るという贅沢な造り。さらに二夏を超える長い熟成期間によって、若い酒の荒々しさを抑え、優しい口当たりと純米酒ならではのうまみを引き出している。
 シンゾウの言うとおり、料理の邪魔をしないすっきりとした味わいだけに、和、洋、中と様々な料理を扱う『ぼったくり』のような居酒屋では重宝する酒だった。


「何でわかるんですか? このお酒、シンゾウさんに出したのは初めてのはずなのに……」

 驚き半分、悔しさ半分で美音はシンゾウに種明かしを求めた。

「わからいでか、と言いたいところだが、あっちこっちにヒントありだ」
「今日の決め手は何だったんだい?」
「色」

 シンゾウの答えを聞いて、トクは自分のグラスに目を戻した。シンゾウが吟味している間に、ずいぶん減ってしまった酒の色を確かめようと持ち上げる。美音はすっかり諦めの境地で、「本日のお品書き」を裏返してグラスの後ろにあてがった。
 紙の白さが、透明なグラスの中の酒の色をはっきりと浮き立たせる。

「おー黄色いな、この酒」
「お酒の場合は、山吹色やまぶきいろって言うんですって」
「山吹色って、もっとすごーく黄色くない?」

 グラスの中の酒の色を見て、馨が首を傾げた。
 美音だって、山吹色というのはもっとはっきりした黄色だと思っている。この酒の、まるでジャスミンティーのような淡く控えめな色を表すには無理があるような気がして、インターネットでもっとふさわしい色名を捜してみた。
 あっちこっちのサイトを巡り、美音が一番近いと思った色には『密陀僧みつだそう』という見慣れない名前が付けられていた。

「みつだそう? そんな言葉、聞いたことないよ」

 美音の説明に、馨はきょとんとしている。無理もない。『密陀僧』という言葉を聞いても、それが色を表すなんて思わない人のほうが多いだろう。それならば、はっきりと黄色がイメージできる『山吹色』を使ったほうがずっといい。

「なるほど、多少違和感があってもそのほうがわかりやすいね。でも、わざわざ色見本を調べたなんてお姉ちゃんらしいというか……面倒くさい性格……」
「うるさいわね! 気になったら調べるでしょ、特にお酒のことは見過ごせないの!」

 経験が足りない分は知識で補おう、というわけではないが、美音は酒や料理に関することはとことん調べることにしていた。
 馨にはしょっちゅう、そこまでやらなくても……と呆れられているが、仕事に関わることなのだから真剣になるのは当然だと思っている。

「はいはい。おかげさまで、私も勉強させていただいてます!」

 これ以上姉を怒らせたら大変だ、とおどけて敬礼する馨に、やれやれと苦笑しながら、美音は話を酒に戻した。

「ということで、このお酒は『山吹色』なんです」
「美音坊、あいわかった。それにしても、日本酒ってえのは、水みたいに無色透明だとばかり思ってたぜ」
「それはただの思い込みだな」

 グラスにそっと口を付け、酒を減らしたトクに、シンゾウは少し苦い顔で言った。
 穀物や果実を熟成させて造る酒には、元々色があるものだ。真っ白な米から造る日本酒といえども例外ではない。
 絞りたてならばほとんど色のない場合もあるが、熟成が進むにつれて色がついてくる。その自然な着色は、活性炭を使って濾過ろかすると失われてしまう。
 活性炭で濾過することにより酒は水のように透明になり、雑味ざつみが除かれ、すっきりとした味わいになる。淡麗たんれい辛口が好まれる現在は、活性炭による濾過が当たり前のようになっている。
 近年は酒本来の持ち味を大事にしたいと、活性炭濾過ろかをしない酒造りが復活する傾向にあるらしいが、それでもまだまだ少数派。諏訪泉のようはっきりと色が見て取れる酒は珍しい。必要最低限の濾過しかされていない証であった。

「この山吹色やまぶきいろだけではわからなかったかもしれない。酒の味だけでも、香りだけでもだめだ。だが、その三つが合わさったら、何となくわかる。でもって最後はその酒の瓶」
「え? だってこんな瓶、どこにでもあるじゃない」

 馨が、納得しがたい、という顔で言った。
 それもそのはず、日本酒の瓶は、おおむね茶色か緑。まれに透明に近い水色のものもあるが、その中でも茶色の瓶は一番多いのではないかと美音は思う。その一番よくある茶色の瓶から何がわかるというのだろう。

「瓶は同じさ。でもラベルが違う」
「うそっ! だって私、ちゃんと隠したのに!」

 見えないように、わざわざ手を添えてまで……と美音は、さっきの馨とそっくりの顔になる。シンゾウは、笑いをこらえきれない様子で、ちょっとその瓶を出してみな、と言い出した。

「こうやってな、ひっくり返すだろう? でもって、こう傾けると……」

 美音がグラスに注いだときと同じ仕草で、シンゾウは酒瓶を傾けた。それを見ていた美音は、あっと声を上げる。

「なんだ、ラベルがけちゃってたのね!?」

 瓶に貼られたラベルの表は隠されていても、裏からはっきり見える。そして、そのラベルには実に特徴的な二重丸が映し出されていた。

「この『泉』って字のデザイン、一度見たら忘れられないだろう? だから覚えてたんだ」
「シンゾウさん、ずるい!」
「なんだよ、シンさん。俺は『さすがはシンさん』って尊敬したのに!」
「悪い悪い。でも、諏訪泉だろうってとこまではわかったんだぜ。どの銘柄かちょっと迷っただけだ」
「でもラベルまでちゃんと覚えてるんだから、やっぱりシンゾウさんには敵わないわ」

 最後は美音がまとめて、美音対シンゾウの利き酒勝負は、今日もシンゾウに軍配が上がった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私に姉など居ませんが?

山葵
恋愛
「ごめんよ、クリス。僕は君よりお姉さんの方が好きになってしまったんだ。だから婚約を解消して欲しい」 「婚約破棄という事で宜しいですか?では、構いませんよ」 「ありがとう」 私は婚約者スティーブと結婚破棄した。 書類にサインをし、慰謝料も請求した。 「ところでスティーブ様、私には姉はおりませんが、一体誰と婚約をするのですか?」

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。