居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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おかわり! 3

おかわり! 3-2

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「だからごめんって……」
「そんなにこの町に戻ってきたくないの? それとも……私たちと一緒がいやとか……」
「そんなんじゃないよ。ただ、俺は大きいとこのほうが向いてるって思っただけ」

 そこで幹人は言葉を切った。切ったというよりも、続ける言葉が見つけられないのだ。なぜなら理由の半分が消え失せたことに気付いてしまったから……
 母は懐かしそうに過去を語った。しっかり子どもの成長に向き合い、その場にいなかった父とも情報や思い出を共有している姿を見ると、一緒にいることだけが重要なわけじゃないとわかる。
 思えば、子どものころのエピーソードで、父が知らないことなどなかった。夫婦間のコミュニケーションという最強のツールを使い、きちんと家族に向き合っていた。祖父母と行った旅先で寂しさを覚えたのも、普段から父や母が自分たちのことをしっかり考えてくれているとわかっていたからこそだ。まったくの放りっぱなしだったとしたら、寂しいなんて思うわけがない。
 なにより、休みを返上してまで診療していたのは、祖父や父がそうしたかったからだ。さもなければ、留守番電話をセットしないなんてあり得ない。
 幹人が望むのであれば、開院時間以外はません、と言い切って、留守番電話をセットすればいい。新しい知識や技術を得たいのであれば、休診にして学会や研究会に出ればいい。そうしたところで、この町の人たちは責めたりしないだろう。
 この町に戻りたくないとか、両親と働きたくないというのではない。ではなぜ、自分は大病院を目指すのか……
 原点に立ち返った疑問に、幹人は戸惑うばかりだった。


 母が診察室に戻ったあと、手持ち無沙汰ぶさたに湯飲みを洗っていると、インターホンが鳴った。
 宅配便でも届いたのだろうか、と思いながら出てみると、そこにいたのは同じ商店街にある『とう精肉店』の息子、ユキヒロだった。
 ユキヒロと幹人は同い年、中学までは同じ学校に通った幼なじみである。子どものころは毎日のように一緒に遊んだし、中学の部活も同じテニス部だった。高校は別々だったけれど、ふたりともテニスを続け、休みになると貸しコートで一緒にプレイを楽しみもした。
 ユキヒロは高校を卒業したあと『加藤精肉店』の跡継ぎとして店に入ったものの、幹人がこの町を離れたため、顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。
 ユキヒロがそこら中に響き渡りそうな声で言う。

「やっぱり帰ってたのか! そうならそうと一声かけてくれたっていいだろ!」
「さっき帰ってきたばっかりだよ。いや、おまえ、仕事中なんじゃ……」
「今、ちょうど客が途切れたんだ。ヒロシさんが、みっちゃんが通ったって言うから、慌てて飛んできた」

 おまえはいつだってとんぼ返りだから、とにかく顔だけでも見ようと思って、とユキヒロは照れたように笑った。

「ありがと。でも、今回はちょっとのんびりだよ。日曜までいられる」
「じゃあ一回ぐらい飯が食えるよな? 明日はどう?」
「たぶん大丈夫」
「やったー! じゃあ、また連絡する!」

 言うだけ言って、ユキヒロはさっさと帰っていった。
『加藤精肉店』は昔から一家揃って元気者だ。ユキヒロは数年前に結婚、しかも相手はかなり物静かな女性なので、少しは落ち着いたかと思いきや、まったく変わっていない。まあ、人間の性格なんてそう簡単に変わるものでもないか、と思いながら、幹人は洗剤まみれの湯飲みをゆすぎ始めた。


 ――そういえば、この店に入るのは初めてだな……
 物騒な名前が入った暖簾のれんを見上げて、幹人は思う。
 店の前なら何度となく通っているし、いとなんでいる姉妹もよく知っている。
 両親が急に亡くなり、当時はみんなが心配したものだが、しっかり跡を継いで店を繁盛させている。姉の美音みねは確か幹人の三、四歳上、妹のかおるに至っては年下なのに大したものだ、と思いながら引き戸を開けると、カウンター席に座っているユキヒロが見えた。

「お、来た来た!」

 まあ座れ、とばかりに、ユキヒロは自分の隣の椅子をぐいっと引く。
 同時に、おしぼりと箸、そして箸置きを持った女性がやってくる。そう、これが妹の馨だ。久しぶりに会ったけれど、きらきら光る目が子どものころと変わっていない。
 中学生のときラケットを持って通学するユキヒロを見て、馨もテニスを始めたそうだ。日曜日にユキヒロを捕まえては、テニスの手ほどきを受けている姿を覚えている。

「いらっしゃいませ! 久しぶりだね、みっちゃん!」
「ご無沙汰ぶさたです」
「ほんとご無沙汰。あんまり顔を見せてくれないから、帰ってきたって聞くなり押しかけて、無理やり約束を取り付けたんだ。ほんと、薄情なやつ」

 ユキヒロがぼやく。

「薄情って……。俺だって会いたかったけど、時間がなくてさ」
「仕方ないよ。みっちゃんはお医者さんだから忙しいもん。あ、飲み物はどうします?」

 馨が飲み物をたずねる。ユキヒロは……と見ると、彼の前にはグラスが置かれている。細かい泡とスライスレモンが見えるから、おそらく今流行のレモンチューハイだろう。

「えーっと……じゃあ俺もユキちゃんと同じのを……」
「でもこれ、ノンアルだよ? 『ぼったくり』特製濃厚レモンソーダ! レモンをハチミツに漬け込んで作った濃厚なシロップを、よく冷やしたサイダーで割った自慢の逸品!」
「なんでレモンソーダ? ユキちゃんって下戸げこ……じゃなかったよな。けっこう呑兵衛のんべえ……」
「呑兵衛って言うな! たまたま今日はそういう気分なだけ」

 みっちゃんは気にせず呑んでくれ、とユキヒロは言う。

「ユキちゃん、まさかどこか悪いところでも……」

 心配そうに訊ねる幹人に、ユキヒロは苦笑しつつ答えた。

「まったく……これだから医者は……。大丈夫、どこも悪くないよ。ただの休肝日」
「だったらなんで……」

 ユキヒロと約束したのは昨日だが、『ぼったくり』を指定してきたのは今日の午後だ。
 この商店街には居酒屋しかないけれど、数年前にできたショッピングモールの中にも飲食店はあるし、最寄りの駅まで出れば落ち着いて話せるレストランぐらいあるだろう。
 そんな幹人の疑問に、ユキヒロはあっさり答えた。

「おまえは呑むだろうし、たとえ酒を呑まなくても、美音さんなら許してくれると思ってさ」

 そう言って、ユキヒロはカウンターの向こうの美音を見た。
 これまた久しぶりに会う女店主は、にっこり笑ってうなずく。改めて見ると、ずいぶんきれいになったし、色気が出てきたような気がする。最近結婚したと聞いたから、おそらくそのせいだろう。

「うちは、大人でさえあれば大歓迎です。たまたま呑みたくない日でも、まるっきりの下戸でも。それに、幹人さんに会いたがってるのは、ユキヒロさんだけじゃありませんから」
「そうそう。ヒロシさんが触れ歩いちゃったから、みっちゃんが帰ってきたのを知ってる人はいっぱいいるの。でも、さすがに太田医院に押しかけるわけにはいかないし、ユキちゃんに聞いたら、今晩会うって言うじゃない? だったらうちにして、ってお願いしたんだよ。うちなら、みんなが気軽に入ってこられるから」
「誠に強引な客引きであった!」

 馨の言葉に、ユキヒロが昔の殿様みたいにこたえる。
 どっと笑い声が上がったところで、美音が言った。

「ごめんなさいね、勝手なことしちゃって。迷惑だったらあっちを使ってくれても……」

 そう言いながら目で示したのは、小上がりだった。あそこに上がって障子を閉めれば、中に誰がいるかはわからない。落ち着いてユキヒロとふたりきりで話せる、と言いたいのだろう。
 だが、幹人としては、そこまでしてふたりきりになる必要があるとは思えない。席を移らないことを決め、品書きに目を走らせる。

「さすがにふたりとも呑まないってのもなあ……」

 居酒屋の儲けの大半は飲み物によるもの、と聞いたことがある。だが、美音はまったく気にしない様子だし、馨も元気よく言う。

「そんなの気にしなくていいって! どうせ今日は、みっちゃんに会いたい人がいっぱい来て大繁盛の予定だから、呑みたいものを呑んで!」
「じゃあ、喉が渇いてるからビールを。そのあと、きりっと冷えた日本酒といこう」
「あ、みっちゃんってイケる口だったんだ! 太田先生は下戸げこなのにね」

 笑いながらビールを取りに行った馨に、美音がたしなめるように言う。

「太田先生は下戸じゃないわ。ただ、急患に備えて呑まずにいるだけ」
「そっか……普段からあたしたちのために我慢してくれてるんだね」
「そういうこと。もうね、感謝しかないわ」
「でもまあ、みっちゃんが戻ってきたら、太田先生もたまには酒が呑める。医者がふたりいれば、交代で待機できるもんな」

 いや、めでたい、とユキヒロは手を打ち鳴らす。高く響き渡る音が、胸に刺さるようだった。

「ビール、これでいいかしら?」

 そのとき、美音が少しためらいがちに声をかけてきた。示されたのは、象牙色に濃い青のロゴが入ったレトロな感じの缶ビールだ。
 居酒屋で缶ビールを出すことなんてあるのか、と驚いたものの、この界隈では『ぼったくり』は酒にも料理にもこだわる店として有名なので、店主のおすすめに間違いはないだろう。
 ところが、そこでユキヒロが口を挟んだ。

「おいおい、美音ちゃん。久しぶりの再会なんだぜ、せめて瓶ビールにしてくれよー」
「ごめんなさい。やっぱりそうよね……じゃあ……」

 店主はあっさり缶を引っ込めようとする。逆に気になった幹人は、大慌てで美音を止めた。

「ちょっと待って! あえてすすめてくれるんだから、それなりのわけがあるんだろ?」
「もちろんです」

 そこで美音は、すうーっと息を吸って説明を始めた。

「このビールは、アサヒビールさんが一九八六年に発売したものなんですが、缶タイプの製造は一九九三年で終了。それからあとは、飲食店におろす樽タイプのものだけに製造を絞り、お店に行かないと呑めないビールになっていたんです。それが、二〇二一年に復刻、普通のご家庭でも呑めるビールになりました。おかげでうちでも扱えるようになったんです」
「うちでもって……ここは居酒屋だろ? ビールがあるのは当たり前じゃないか」
「そうなんですけど、うちはビールサーバーを置かないので、樽タイプでは無理なんです。それにこの『マルエフ』、柔らかでまろやかな味わいを堪能できるんですよ」
「そうなんだ……でも『マルエフ』って珍しいネーミングだね」
「そこにも面白い逸話があるので、よければ調べてみてくださいね。――ということで、こちらでよろしいですか?」
「うん」
「じゃあさっそく」

 答えると、後ろから象牙色の缶とグラスが差し出された。
 目の前に置かれると同時にグラスが白く曇る。缶もグラスも思いっきり冷やされているらしい。
 ユキヒロが、ではでは……と缶ビールを開け、グラスに注いでくれた。

「じゃ、乾杯!」

 乾杯の間も惜しい、とばかりにグラスを口に運ぶ。きれいに立った泡を吸い込まんばかりの勢いでゴクゴクやる。驚くほど抵抗なく、ビールが喉を滑り落ちていく。飲み口はまろやかで、コクもある……

「あー旨いな、これ……。俺もアサヒビールは好きだけど、どっちかって言うと『スーパードライ』派なんだ。でも、両方あったら悩むぐらいだ」
「邪魔するよ! お、みっちゃん、もう来てたか!」

 そこに入ってきたのは、薬局をいとなむシンゾウだった。
 同じ町内にあること以上に、医者と薬屋は同業みたいなものということで、祖父も父もシンゾウとは親しく付き合っている。当然幹人も、子どものころからかわいがってもらっていた。

「お久しぶりです、シンゾウさん」
「まったくだ。もっとゆっくり帰ってこいよ、って言いたいとこだが、まあそうもいかんよな」

 医師免許は取ったとはいえ、一人前にはほど遠い。まだまだ勉強しなければならないことが山積みで、ゆっくり帰省する暇などないことぐらい、シンゾウはわかっているのだろう。

「そうなんです。親父たちには申し訳ないと思ってるんですけど……」
「ま、子どもなんざ、どこも似たようなもんだ。うちのモモコだって、頼りたいときとか困りごとを抱えたときぐらいしか戻ってこねえし」
「シンゾウさん、まずは座って!」

 馨にうながされ、シンゾウは幹人の隣に腰かけた。そして、幹人の前にある缶を見て歓声を上げる。

「『マルエフ』じゃねえか。いいの呑んでやがるな!」
「シンゾウさんも同じのにする?」
「もちろん。で、ユキヒロは?」
「レモンソーダ、いただいてます!」
「ノンアルとは珍しい。なんでまた……」

 そこでシンゾウは言葉を切り、しばらくユキヒロの顔を見たあと、軽くうなずいた。

「まあ、いいか。食い物は注文したか?」
「まだなんです。とりあえずみっちゃんが来るのを待って、と思って」
「そうか、そうか。呑まないならたっぷり食えよ。美音坊、こいつらになんか腹に溜まるものを作ってやってくれ」
「今、お肉を揚げますから、とりあえずこちらをどうぞ」


 そう言いながら美音が出したのは、ちくわの磯辺揚げだった。ユキヒロが嬉しそうに箸を割る。

「懐かしいなあ……。これ、給食でよく出てきた」
「そうだったな。すごいご馳走ってわけじゃないけど、献立にあると妙に嬉しかったっけ」

 そう言いながら幹人も箸を取り上げ、ちくわの磯辺揚げを口に運ぶ。揚げ立てならではの熱さと、かりっとした食感に思わず目尻が下がる。ここでぐっとビールを流し込めば完璧だとわかっていながら、ちくわだけを噛みしめる。とにかくほかの味を混ぜたくない、そんな磯辺揚げだった。

「なんだよ、みっちゃん。ここはぐーっとビールだろ? ま、俺はレモンソーダだけど」

 レモンソーダをごくごく飲んだユキヒロが、少々非難がましい口調で言う。一方、シンゾウは面白がっているような眼差しでたずねてくる。

「どうした、みっちゃん?」
「いや……なんか、ビールで流しちゃうのがもったいない気がして。給食は作ってから時間が経ってるから別にしても、よそで食った揚げ立てのともぜんぜん……。香りが段違いっていうか……」
「おー……聞いたか、美音坊。違いがわかる男がここにいたぜ」

 シンゾウに話しかけられ、美音がものすごく嬉しそうな顔になった。

「それ、青海苔あおのりを使ってるんです」
「磯辺揚げなんだから、青海苔を使うのは当たり前じゃないの?」
「と、思うだろ? それが違うんだなあ……」

 シンゾウが、幹人の目の前で人差し指を揺らす。くすりと笑って、美音が説明を続けた。

「一口に青海苔と言っても、今売られているものにはスジアオノリとアオサが混在してるんです。アオサは生産量も多くて使いやすいんですが、香りではスジアオノリにはかないません。磯辺揚げは青海苔が主役ですので、うちでは高知産のスジアオノリを使っています」

 ちょっとだけお高いんですけどね、なんて嘆きつつも、美音の嬉しそうな様子は崩れない。きっと幹人が香りの良さに気付いたことを喜んでいるのだろう。

「よかったなあ、美音坊。これで、これからもスジアオノリを使える。馨ちゃんも納得だな?」
「はいはい、わかりましたよ! うちに来るお客さんには、ちゃーんとスジアオノリとアオサの違いに気付く人がいる。だから、これからもお高いスジアオノリを使ってください!」
「どういうこと?」

 きょとんとしてたずねたユキヒロに、シンゾウが笑いを堪えながら説明する。

「スジアオノリってのは滅法香りがよくて旨いんだが、生産量が少ない分、値が張る。その点、アオサは海外からも入ってきてて安い。日が経って茶色くなっちまったのは論外だが、新しいものなら香りだってそこそこ。それならアオサでいいじゃねえか、って馨ちゃんは言うわけよ」
「なるほど。まあ、確かにそのほうが実入りは増えるな」

 ユキヒロが納得したようにうなずいた。だが、美音はきっぱりと言い切る。

「ちくわの磯辺揚げの原価なんて大したことないんです。それこそ『ぼったくり』料理の代名詞みたいなもの。青海苔あおのりぐらいちゃんとしたのを使わなきゃ、お客さんに申し訳ありません」
「……って言うのが、美音坊の意見。でもって、アオサだってちゃんと美味しい、申し訳ないなんて思うことない、ってのが、馨ちゃん。ここに姉妹戦争勃発ぼっぱつ
「シンゾウさん、私たち戦争なんてしてませんよ」
「ごめん、ごめん。言葉の綾だ。とにかく、ふたりの意見が食い違って、それならってんで、一時的にスジアオノリをアオサに替えてみたんだ。ところがどっこい、誰も気付かねえときたもんだ。まあ、俺は気付いたけどね」

 自慢げに言うシンゾウに、馨が即座に言い返した。

「シンゾウさんは例外! お酒だってお料理だって、シンゾウさんはごまかせっこないもん。でも、ほかに気付いた人がいないなら、アオサでいいって思ったのよ」

 アオサと言っても、美音が選んだのは三重県産の上等品だ。味はもちろん、香りにしてもかなりのものだった。だからこそ、シンゾウ以外の誰も気がつかなかった。それでも美音は、やはりスジアオノリを使いたいと主張した。値が張るから使わないと言っていたら、どんどん売れなくなって、そのうち誰も生産しなくなる。磯辺揚げにはスジアオノリを使いたいけれど、お味噌汁には断然アオサだ。それぞれにいいところがあるのだから、両方を使い分けていきたい、と言ったそうだ。

「というわけで、今でも『ぼったくり』の磯辺揚げはスジアオノリを使ってる。わかる人がいてよかったなーって話」
「そうだったんですか……」
「すげえな、みっちゃん。シンゾウさんとタメ張るなんて……。そうか、香りの違いかあ……」

 俺にはちょっと無理そうだ、とユキヒロはしょんぼりする。だが、そんなユキヒロに美音が言う。

「香りだけじゃなくて、スジアオノリとアオサは見た目も違うんですよ。細くて糸みたいなのがスジアオノリ、丸く広がるのがアオサ。青海苔はスジアオノリやアオサを乾燥させて砕いて作るんですけど、フレーク状になってるのはアオサです」
「なるほど、それなら俺にも見分けられる」

 ちょっとしたトリビアだな、とユキヒロは言う。

「ユキヒロ、またひとつ利口になったな。『ぼったくり』に来ると旨いものを飲み食いできるだけじゃなくて、知識も増える。美音坊は研究熱心だから、俺も勉強させてもらってる」
「またまた……シンゾウさんなんて、うちに来なくても知識も知恵もたっぷりでしょうに」
「なにせ俺のは昔取った杵柄きねづかが多い。日々鍛錬、温故知新おんこちしんだよ」
「でもそれってうちだけじゃありませんよ。この商店街のどのお店に行っても、いろんなことを教えてもらえます。シンゾウさんも『八百源』のヒロシさんも『魚辰うおたつ』のミチヤさんも、『加藤精肉店』のヨシノリさんだって例外じゃありません。お客さんたちだって!」

 美音の言葉に、馨もシンゾウも大きくうなずく。ユキヒロもひどく嬉しそうな顔で言う。

「それに、太田先生も獣医のしげる先生もいる。この町には知識と教養、それに経験が溢れかえってる」
「経験か……いいこと言うなあ、ユキヒロ……」
「跡取り世代もしっかりしてる、この町の将来は安泰、ってことだね!」
「馨ちゃんの言うとおり! 明るい未来に乾杯!」

 シンゾウの音頭で、カウンターの三人がグラスを合わせた。話している間にちくわの磯辺揚げはきれいさっぱりなくなっている。満を持したように登場したのは、フライがのった大皿だった。

「おや、豚カツかい?」
「いいえ、これはビーフカツです」
「ビーフカツ! それは贅沢だ!」
「ビーフカツだとーーー!」

 そこでまた引き戸が開き、入ってきたのはヒロシとミチヤのふたり連れだった。どうやら店の外までシンゾウの声が届いていたらしい。

「それはもしや、本日の『加藤精肉店』の目玉商品なんじゃねえのか?」

 ヒロシの言葉に、美音がこっくりうなずいた。

「そうですよ。おまけに、添えてあるキャベツは『八百源』さんの特売です」


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