居酒屋ぼったくり

秋川滝美

文字の大きさ
表紙へ
上 下
195 / 228
おかわり! 2

おかわり! 2-3

しおりを挟む

「これはいいわ! 卵の甘みと紅葉下ろしのピリ辛がベストマッチ。かけすぎなければ醤油も風味が上がって素敵」

 あなたも食べてみて、とすすめられ、シンゾウも早速口に運ぶ。サヨの言うとおり、出汁巻きと醤油を垂らした紅葉下ろしの組み合わせは抜群だった。

「大根下ろしはよくあるが、紅葉下ろしとはしゃれてるな」

 シンゾウの言葉に、ミチフミが頷きながら言う。

「玉子の黄色、大葉の緑、紅葉下ろしの赤でいろどりもきれいだしな。そうだ、今度『八百源やおげん』に大根のわきに鷹の爪を置いとけって言ってみたらどうだろ?」

 ミチフミは時々こんなふうに、よその店のあきない方まで考える。売り上げが落ちたと聞けば、一生懸命に原因を探り、挙げ句の果ては店に乗り込んで品物の並べ方まで検討する。絵も字も大して得意でもないのに、ポスターを作って貼り出したこともある。なにが言いたいのかさっぱりわからないポスターだったけれど、店主自身はとても喜んでいた。きっと、そこまで親身になってもらえたのが嬉しかったに違いない。
 腰の軽さと面倒見の良さは、ミチフミが長年町内会長を任されている理由でもある。だが、どう考えても、それで鷹の爪の売り上げが増えるとは思えなかった。

「大根と鷹の爪が並んでたって、紅葉下ろしを作るやつは少ねえだろ」

 売れねえよ、と断言するシンゾウに、サヨが異議を唱える。

「あらでも、煮物に入れてみようと思うかもしれないわよ? ピリ辛風の大根の煮物、おいしそうじゃない?」
「それは乙だ!」

 出汁巻だしまきの脇に添えられたほんの少しの紅葉もみじろしから、話がどんどん広がっていく。それは、この町内ではよく見られることだった。

「なんか……いいですね……」

 奈津美の口からそんな言葉が漏れた。
 客たちにげんそうに見つめられ、彼女は安堵そのものの表情で言う。

「話が尽きないって感じが、とっても素敵だなって。皆さん、とっても仲がよろしいんですね」
「仲がいいっちゃいいが、けんかするときは派手だぜ? こないだもこのふたりが言い合いになって、肉屋と魚屋でどっちも包丁仕事。刃傷にんじょう沙汰になるんじゃねえかってひやひや……」
「おまえ、そんな心配してたのか」

 シンゾウの言葉に、ミチフミが呆れ果てた顔になる。ヨシノリも苦笑まじりに言った。

「大事な商売道具をそんなことに使うはずねえだろ。それにあれは、言い合いじゃなくて話し合いだ」
「話し合いにしちゃあ、語気が荒かったぜ?」
「真剣に話し合ってたんだよ。この町の未来についてな」
「そうそう。真面目なんだよ、俺たちは」
「そうかよ。そりゃあ、失礼したな」

 けんかにしか見えなかったぜ、なんてだめ押しはしない。あまりしつこいと、また『話し合い』が始まりかねない。店の中から、怒鳴り合いみたいな声が聞こえてきたら、入ろうとしていた客がいたとしても逃げ出してしまうだろう。営業妨害は御法度ごはっとだった。
 出汁巻きは抜群、さて次は……とカウンターの向こうに目をやる。同じように健吾の手元を見たミチフミが、声を上げた。

「あ、そのホタルイカは俺のとこのだろ!」
「はい。生のホタルイカなんてなかなか手に入らないので、本当に助かりました」
「生!?」

 サヨが頓狂とんきょうな声を上げて、カウンターの向こうを覗き込んだ。確かに、健吾がボウルに移そうとしているホタルイカは、濃い飴色。スーパーでよく見る茹で上げた紫色とは全然違う色合いだった。

「生のホタルイカって初めて見たよ。へえ……」

 シンゾウの言葉に、ミチフミが自慢げに言う。

「うちでも普段扱うのは茹でたのばっかり。だが、どうしてもって頼まれて特別に手配したんだ」
「お手数をおかけしました」

 深々と健吾が頭を下げる。そして、すぐに身を起こして、衣を絡めたホタルイカを油に泳がせた。

「ホタルイカの天ぷらか……いいねえ……」

 ミヤマもヨシノリもよだれを垂らさんばかりになっている。遅れてきた三人は、品書きも見ずにビールを注文してしまったが、天ぷらならビールにもぴったりだ。おそらく揚げたての天ぷらは、みんなで分けることになる。いったいいくつ俺の口に入ることやら……と心配になったが、揚げられているホタルイカの数は思ったよりはるかに多い。これなら取り合いにはならないだろう。
 あっという間に天ぷらができあがった。よその店なら二人前ぐらいはありそうな量だ。
 期待たっぷりに見つめられ、シンゾウはとりあえず自分とサヨにひとつずつ取ったあと、ヨシノリたちに皿を回した。

「ほらよ、おすそわけだ」
「待ってました!」

 こういうときにまったく遠慮しないのが、長い付き合いのあかしだ。それでなくとも、ひとつの料理をみんなで分け合うのは悪くない。明らかに旨いとわかっているならなおさらである。
 早く俺にも皿を回せ、と騒いでいる三人を尻目に、シンゾウは揚げたてのホタルイカを食べてみることにした。天つゆも塩も添えられていないが……と健吾を見ると、そのままどうぞ、と言うので、なにもつけずに口に運ぶ。

「あ、下味がついてるんだな。醤油につけ込んだのか……」
沖漬おきづけだよ。獲ったはしから醤油に突っ込むんだ。けっこうな珍味だぞ」

 ミチフミが自慢げに言う。普通のイカならまだしも、ホタルイカに沖漬けがあるなんて初めて知った。どうりで『特別に手配』なんて言うはずである。

「ホタルイカの沖漬けは手に入らないか、っていうから、てっきりそのまま出すのかと思ってたら、天ぷらにするとはね。恐れ入ったぜ」
「ほんと、いい味加減だわ。茹でたホタルイカではこうはいかないわね」
「本当は味もつけないそのままのホタルイカがいいんですけど、さすがに富山から東京まで運ぶとなると鮮度が落ちます。それならいっそ沖漬けを使ったほうがいいと思ったんです」
「大正解だ。こいつは酒がとまらない。うちでもやってみるかな……」

 仕入れた沖漬けがまだ残っている、揚げるだけなら家でもできそうだ、と言ったミチフミはすぐさまヨシノリに叱られた。

「おまえな、居酒屋に来てなんてことを言うんだ。そんなに簡単なもんじゃねえだろ!」
「あ、やっぱりコツとかあるか……粉も特別とか?」

 上目遣いに健吾を見る。苦笑して受け流すと思った彼は、これまた真面目な顔で答えた。

「コツなんてありません。衣もそこらの天ぷら粉で大丈夫ですから、ぜひやってみてください」
「おいおい大将、そんなに簡単に言うなよ」

 そんなわけないだろ、とヨシノリが突っ込みを入れる。一連のやりとりを聞いていた奈津美が、お手上げとばかり天井を仰いだ。

「この人、自分からお客さんに話しかけることは滅多にないんですけど、訊かれたことにはほいほい答えちゃうんです。レシピも秘訣も全部ご開帳。うち……こんなのでやってけるかしら……」

 その言葉でまた客は大笑い。開店日、初めての客ばかりとは思えない盛り上がりとなった。


 その後、さんざん飲み食いした五人は、いざ支払いとなって驚愕した。値段が高すぎるのではなく、その逆。本当に『こんなのでやっていけるか』と首を傾げたくなる数字だった。

「こんな値段でいいのか? あ、開店サービスってやつか」

 ミチフミは勝手に納得しているが、奈津美によるとこれが通常の値段らしい。そこに健吾の説明が加わった。

「うちで出すのは、家でも簡単に作れるような料理ばかりです。ただでさえぼったくりみたいなものなのに、これ以上の値段を付けたらお客さんが来てくれません」
「そんなぼったくりは聞いたことねえよ!」

 シンゾウにそう言われても、健吾は平然としている。おそらくこれからもずっとこんな値段でやっていくつもりなのだろう。
 酒の品揃えや蘊蓄うんちくは素晴らしいし、料理もお見事。女将おかみは愛嬌たっぷりで、たまに大将をやり込めるのも面白い。ぜひともまた来たいと思う。だが、こんな店は客が少なければあっという間に潰れてしまう。せっせと通い続けるしかない――そこまで考えたところで、シンゾウは苦笑した。
 ――客にこんなふうに思わせた時点で、大将の勝ちだ。仕入れは徹底して地元、というかこの商店街からと決めているようだから、町の人たちだって快く受け入れるはず。現に、今ここにいる客たちは、すでにこのあるじ夫婦と昔からの知り合いみたいな気がしていそうだ。俺はこれから何度もこの店に来るだろうし、一度でも来た客は同じように思うだろう。たぶん、潰れる心配はないな……というか、下手に宣伝したら満員御礼で俺が入れなくなるかもしれない。そいつはちょっと、いやかなり困りものだな……
 数枚の千円札で支払いを終えたシンゾウは、そんなことを考えていた。


     †


 シンゾウ夫婦が『久保田』を訪れてから二日後、裏通りに住むウメが『山敷薬局』にやってきた。
 ウメはシンゾウと似たり寄ったりの年齢で、もともとは芸者をしていたと聞いている。駅から遠いし、車も持っていないため、買い物はほとんどこの商店街で済ませていた。
 今日は常備している風邪薬がなくなって補充に来たのだが、支払いを終えたウメは『久保田』についてたずねてきた。

「新しい居酒屋ができたみたいだけど、もう行ってみたかい?」
「ああ、開店早々行ってみた。酒は揃ってるし、料理も気が利いてる。その上、値段は良心的。女将おかみは元気いっぱいだが、大将はしゃべりすぎないからバランスもいい。一緒に行った連中は、みんな気に入ったみたいだぜ」
「どんな面子メンツだい?」
「『魚辰』と『加藤精肉店』と『ミヤマ』、あとうちのかみさん」
「そりゃ賑やかだね。にしても、シンさんが『酒が揃ってる』って言うところを見ると、もっぱら日本酒ってことか……。それだとあたしはちょっと……」
「そうか……ウメさんは焼酎しょうちゅう党だったな」

 シンゾウに言われ、ウメはこっくり頷いた。
 ウメは酒もけっこう『いける口』なのだが、日本酒はあまりたしなまない。苦手というよりも、酒を呑むなら焼酎、それも梅干しを入れて呑む『梅割り』と決めているらしい。悪酔いしないし、ほんのり染み出す梅干しの塩気がたまらないそうだ。

「日本酒に力を入れている店なんだろ? 『梅割り』ばっかりってのも申し訳ないし」

 ウメは、そんなことを言って肩を落とした。

「あそこは、そんなこと気にしないと思うけどなあ……。なんかこう、客の好みってやつを大事にしてくれそうな……」
「そうかい? でも……」

 ウメはやっぱり浮かない顔で、あたしはやめとくよ、としか言わない。普段ならシンゾウも深追いしないのだが、今日に限っては別だった。

「まあそう言わず、一度覗いてやってくれよ。なんなら、俺が一緒に行ってもいい。俺が日本酒を引き受ければ、ウメさんが焼酎でも大丈夫だろ」
「シンさんがそこまで言うなんて珍しい。よっぽど気に入ったんだね」
「まあな。何度か話をしてみたが、いい夫婦なんだ。前にあった店みたいに、あっという間に潰れるのは忍びない。なんとか客をつけてやりてえんだ」

 だまされたと思って、と何度も誘われ、とうとうウメは首を縦に振った。

「じゃあ、行ってみようかね……」
「そうこなくっちゃ! じゃあ、俺も……」
「いやいや、シンさんに迷惑をかけるわけにはいかない。気が変わらないうちに行ってみるよ」

 そう言いながら、ウメは壁に掛かっていた時計を見上げる。針は午後五時半の少し手前、そろそろ『久保田』が店を開ける時分だった。

「中年女のひとり客をどうさばくか確かめるって手もあるか……」
「中年は余計だよ!」

 耳ざとく聞きつけた言葉に言い返し、ウメは風邪薬を手提げにしまって出ていった。おそらくその足で『久保田』に向かうのだろう。
 ――ウメさんは来なくていいと言ったけど、やっぱり気になる。店を閉め次第行ってみよう。
 そしてシンゾウは、少しずつ店じまいの支度を始める。ウメのことが気になるのはもちろんだが、それ以上に、またあの店に行きたいという気持ちが大きいことはわかっていた。


「邪魔するよ」

 勢いよく引き戸を開けて入ってみると、カウンターにいるのはウメひとりだった。
 湯気が立つグラスを両手で大事そうに抱えているところをみると、ウメは無事に大好物にありつけたようだ。

「シンゾウさん! いらっしゃいませ!」

 満面の笑みで奈津美が迎えてくれた。カウンターの向こうで、健吾もぺこりと頭を下げる。
 ウメは申し訳なさと嬉しさを半々に浮かべた顔で言う。

「おや、来たのかい。ひとりで平気だって言ったのに」
「俺が来たかっただけだ。隣、いいかい?」
「もちろんだよ」

 ウメの答えを聞くやいなや、奈津美が箸を置いて椅子を引く。すぐに戻って、熱々のおしぼりと突き出しの小鉢を持ってきた。

「よかったな。『梅割り』がちゃんとあって」
「あったどころか……。まあ、この梅をごらんよ」

 ウメが得意げにグラスを示す。覗いてみると、沈んでいるのは驚くほど大きな梅干しだった。

「へえ……立派な梅だな」
「だろ? しかもこれ、自家製だってさ。果肉はたっぷりだし、塩気もばっちり。『梅割り』にはもってこいの梅干しだよ。あんまり美味しくておかわりしちまった」
「おいおい、いくら焼酎しょうちゅうでも呑みすぎは身体に毒だぜ」
「わかってるよ。それに、ちゃんと食べながら呑んでるから心配ない」

 そう言われて見ると、ウメの前には小鉢がひとつと、皿が一枚置かれていた。どちらも空っぽ、確かに『食べながら呑んでる』ようだ。

「で、その皿にはなにが入ってたんだい?」

 おしぼりを使いながら訊いてみたが、ウメはちょうどグラスに口をつけたところ。代わりに奈津美が答えてくれた。

「突き出しの小松菜のしらすえと、銀鮭のバター焼きです」
「そりゃいいな」
「突き出しで青野菜が取れるのはありがたいし、しらすでカルシウムもばっちり。鮭も、バター焼きは大好きだからつい頼んじまったけど、もたれるかもって心配してたんだ。でも、ちょうどいい具合だった。幾分、バターを控えてくれたんじゃないかねえ……」

 ウメはそう言ってカウンターの向こうの健吾を見た。シンゾウにも、答えを待つように見つめられ、やむを得ないといったふうに口を開く。

「はじめにオリーブオイルで焼いて、仕上げにバターを少し落としました。それだと少しのバターで風味はしっかり残せますから」
「オリーブオイルは身体にいいからな。もとからそうやって料理してたのか?」
「いえ……普段は最初からバターを使います」
「じゃあ、ウメさんに合わせてくれたってことか……」
「ひとり言が聞こえてしまって……」

 どうやらウメは、知らず知らずのうちに『バター焼きは食べたいけど胃にもたれるし、でも……』と呟いていたようだ。さらに『ええい、こんな「梅割り」にお目にかかれたんだから、多少胸焼けしたっておつりがくる!』とまで言ったそうだ。

「まいった。あたし、声に出しちまってたのかい!」

 恥じ入るウメに、健吾は至って真面目に答えた。

「いいんですよ。そうやって口に出していただけば、こちらも加減しやすくなりますから」

 胸焼けをおそれているとわかれば、バターを控えてオリーブオイルにすることができる。えいやっと食べて、あとで具合が悪くなるのはいたたまれない、と言うのだ。

「もっともだ。にしても……銀鮭か……いいな」
「絶品だったよ。シンさんももらったらどうだい?」
「うーん……だが俺は、バターたっぷりが好みなんだよ。となると、ウメさん同様の問題が出てくる」
「でしたら、量を減らしましょうか?」

 健吾はしれっとそんな台詞せりふを口にした。

「減らすって……」
「半分に切ってお出しします。それなら大丈夫でしょう?」
「確かに……いや、でもそんなことは……」

 残った半分の処遇に困る。店にとって損にしかならないことを頼むわけにはいかない、と固辞するシンゾウに、今度は奈津美が言った。

「いいんですよ。残った分の使いようなんていくらでもあります。うちはお客様に、食べたいものを食べたいように食べていただきたいんです。料理方法も、味付けの濃淡も、量についてもいくらでも加減しますから、気軽におっしゃってください」

 マニュアルなんてあってないようなもの。融通ゆうずうが利くのが個人営業の小さな店の利点だと、夫婦は口を揃える。ここまで言ってくれるなら、と安心して頼んだ銀鮭のバター焼きは、濃厚で塩加減もばっちりだ。普段はレモンはあまり使わないが、途中で奈津美にすすめられてしぼってみたら、まったりとしたバターの味がたちまち爽やかに変わり、あっという間に食べ終えてしまった。

「これなら減らしてもらう必要はなかったな」
「もう一度お焼きしましょうか?」
「いやいや、それよりはなにか別のものを……」

 ウメの様子が気になって見に来た。大丈夫そうならさっさと退散するつもりだったから、飲み物もビールの小瓶にした。突き出しと銀鮭のバター焼きを食べたら帰ろうと思っていたのに、バターに食欲を刺激され、腰を落ち着けたくなってしまう。それ以上に、細やかな心遣いに感銘を受け、健吾の料理をもっと知りたいという気持ちが高まってしまったのだ。もっと言えば、その料理に彼がどんな酒を合わせるのかまで……
 ――無愛想すぎて客を逃がしまくるのかと思いきや、なかなかどうして商売上手。あなどれねえ男だな、まったく……
 そんなことを考えながら、残ったビールをくいっと空ける。グラスを置くか置かないかのうちに、ウメが品書きを渡してきた。

「ほら、シンさん。あんたの大好きな日本酒がよりどりみどりだよ」
「おう」

 品書きには、この前来たときとは違う銘柄が入っている。たった三日しか経っていないのに、と半ば驚愕して健吾を見ると、彼は心底嬉しそうに言った。

「ここは日本酒好きな方が多い町ですね。おかげで瓶が空くのが早いんです。味が変わらないうちに呑みきっていただけるのは、居酒屋冥利みょうりに尽きます」
「とかなんとか言っちゃって、本当はちょっと残念なくせに」
「おや女将おかみさん、残念ってどういうことだい?」

 ウメにたずねられ、奈津美はけらけら笑いながら答えた。

「この人、味が変わりそうになったら自分で呑んじゃおうって魂胆こんたんだったんです。それなのに、どんどん売れちゃって、全然自分の口に入らないんです」
「あははっ! そりゃあご愁傷しゅうしょうさまだね。なんなら一杯おごろうか?」

 呑み屋で店員に奢るのは珍しいことではない。それほど呑みたいのなら、とウメも思ったのだろう。ところが健吾は、あっさり首を横に振った。

「いえ、そういうのは……」
「おや、そうかい。なかなかお堅いんだね」

 ウメの唇が心持ちとがった。せっかくの申し出を断られ、気分を害したのだろう。慌てたように奈津美が言う。

「ごめんなさい。うちの人、お酒はものすごく好きですけど、仕事中は絶対に呑まないんです。包丁を使うし、味覚も鈍るからって。それに先々のこともあるので……」
「先々ってのは?」

 依然としてウメの口角は下がったまま、口を開くこともない。やむなくシンゾウが話を引き取った。

「実はうちには娘がいて、いずれは店を継ぎたいって言ってるんです」
「娘って、まだ保育園じゃねえのか?」

 夫婦で挨拶回りの相談に来たとき、保育園の参観日の話が出ていた。保育園に通うような小さな子どもが、店を継ぐなんて言うだろうか。言ったとしても、真に受けるのは……と考えたが、どうやらその子以外にも娘がいるらしい。

「保育園に行ってるのは下、店を継ぎたいと言ってるのは上の娘なんです。とはいっても、こっちもまだ小学生なんですけどね。それでも、料理に興味があるのは本当らしくて、家でもせっせと練習してます。だから、もし本気なら残してやりたいなって」
「それはわからないでもないが、店を継がせるのと、仕事中は酒を呑まないってのはどうつながるんだい?」
「お客様にお酒をご馳走になるのが当たり前の店にしたくないんです。この人はけっこうな酒豪ですから、多少呑んだところでどうってことないかもしれませんが、娘はどうだかわかりません。お客様方を前にして失礼なのは承知で言えば、酔わせてどうにかしよう、なんてらちなことを考えるお客様が出てこないとも限らないでしょう?」

 それぐらいなら、とにかく『店員は呑まない』という看板を掲げてしまおう。そういう店として定着させておけば、娘が継いだときにも困ることにはならないはずだ。それが、店を開くにあたって夫婦が相談して決めたことだという。

「とんでもない親ばかですけど……」

 そう言って奈津美は自嘲する。健吾は例によって、余計なことを言いやがって、と言わんばかりの顔だが、内心では説明してくれた妻に感謝しているような気がした。
 ウメはウメで、感心したように言う。

「よーくわかった。あたしには娘はいないけど、もしいたとしたらあんた方と同じように思ったに違いないよ。いつになるかわからない、本当に継ぐかどうかすらわからなくても今から準備しておく。見上げた心がけだ!」
「まったくだ。じゃあ俺たちは、ちゃんと娘さんが引き継げるようにこの店を繁盛させないとな。ってことで大将、酒とさかな見繕みつくろってくれ」

 健吾は一瞬考えたあと、冷蔵庫を開ける。夫が取り出した食材を見て、奈津美が酒用の冷蔵庫に向かう。言葉を交わさなくても、合わせる酒がわかっているのだろう。

女将おかみさん、あたしにもおかわり!」
「はーい。梅割り一丁、いただきました!」

 少々お待ちくださいねーと歌うような調子で言いながら、奈津美が酒を運んでくる。
 どこの酒蔵さかぐらの、どんな酒だろう。願わくは、知っている酒であってほしい。そうすれば、先んじて語ることで健吾の鼻を明かせる。だが、未知の酒に出会う喜びも捨てがたい。これまで数多あまたの酒を呑んできたが、世の中にはまだまだ知らない酒がある。この店主が選んだ酒なら間違いはないだろうし、説明を聞くのも楽しい。
 ――酒知識で頭の押さえ合いか。この大将は、けっこう負けん気も強そうだ。さぞや楽しいことだろう。この店とは長い付き合いになりそうだぜ……
 勝っても負けても満足、こんな勝負は珍しい。シンゾウは、満足の息を漏らしながら、近づいてくる奈津美を待った。
 その後、シンゾウは健吾の料理と彼がすすめる酒を堪能し、ウメと並んで店を出た。少し歩いたところで振り返ると、見送ってくれている奈津美の頭上で暖簾のれんが風にそよいでいる。
 臙脂色えんじいろの暖簾には『久保田』という文字がある。だが、そのときのシンゾウは、予想もしていなかった。この暖簾が常連の提案で別のものに掛け替えられ、二十年近い時をかけて知る人ぞ知る店になった挙げ句、突然夫婦揃って世を去るなんて……


しおりを挟む
表紙へ

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私に姉など居ませんが?

山葵
恋愛
「ごめんよ、クリス。僕は君よりお姉さんの方が好きになってしまったんだ。だから婚約を解消して欲しい」 「婚約破棄という事で宜しいですか?では、構いませんよ」 「ありがとう」 私は婚約者スティーブと結婚破棄した。 書類にサインをし、慰謝料も請求した。 「ところでスティーブ様、私には姉はおりませんが、一体誰と婚約をするのですか?」

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。