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おかわり! 2
おかわり! 2-2
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そのままミチフミを加えた四人で商店街を回り、その日のうちに挨拶を終えることができた。驚いたのは、女が持っていた手提げ袋からちゃんと挨拶用の品が出てきたことだ。
「用意がいいな……」
裏手のアパートや一軒家まで挨拶に行くべきかどうかを訊ねに来たのだから、挨拶用の品もこれから準備するとばかり思っていた。だが、驚くシンゾウに、夫婦はもともと商店街の挨拶は今日のうちに済ませるつもりだったと告げた。しかも手提げ袋から出てきたのは、引っ越し挨拶に使われがちな手ぬぐいや洗剤ではなく、二十センチぐらいの細長い包み、中身は太字と細字のサインペンだそうだ。
「お店をやっていらっしゃる方ばかりだから、サインペンなら使っていただけるかなって。これ、ものすごく書きやすいって文房具屋さんのおすすめだったんです。あ、お店をやっていらっしゃらない方へのご挨拶はこれとは別に用意するつもりですけど」
まとめて買ったら値段もずいぶん安くしてもらえた、と女は嬉しそうに言う。ミチフミがすかさず訊ねた。
「文房具屋って、もしかしてミヤマさんで?」
「はい。これからお世話になるんですから、少しでも売り上げに協力させていただかなきゃ、と思いまして」
「やっぱり……包み紙に見覚えがあると思ったんだ。にしても、いい心がけだ!」
ますます気に入った、とミチフミは大喜びで言う。
「気が利く嫁さんじゃねえか。こういう人が女将なら、店は繁盛間違いなしだ。な、薬屋、おまえもそう思うだろ?」
「ああ。開店するのが楽しみだよ。で、ご亭主、開店はいつごろの予定だ?」
「できれば寒いうち……なんとか二月中には開けたいと思ってます」
「そうか。じゃあ、日が決まったら知らせてくれよ。俺たちもできる限り宣伝するし」
「もちろんです。よろしくお願いします!」
女が元気に頭を下げた。男も無言でそれに倣う。
無口だが魚を下ろすのに難儀している若者に手ほどきをするばかりか、『証拠隠滅』と失敗作まで買い上げる。きっと自分が修業したときの気持ちを忘れずにいるのだろう。この年で店を持つだけの資金を蓄えられるほどだから腕のいい職人だろうし、修業中の気持ち、すなわち初心を忘れていないとしたら、さぞや丁寧な料理を作るに違いない。そこにおしゃべり上手で気配りのある女将までいる。このふたりがどんな酒を選び、どんな料理を出してくるのか楽しみでならない。
シンゾウは、開店が待ちきれない気持ちだった。
†
二月に入るなり、居酒屋の工事が始まった。
とはいっても、大がかりなものではなく、看板や厨房の設備を少しいじる程度らしい。もともと建ててから二年ほどしか経っていないし、傷んでいるところもなかったのだろう。工事は一週間もしないうちに終わり、夫婦がまた『山敷薬局』にやってきた。
女が嬉しそうに言う。
「開店の日が決まりました。二月二十二日です」
「二月二十二日……そいつはまた、二揃いだな」
「調べてみたらお日柄もいいし、覚えやすいかなーって」
「確かにな。そうか、二月二十二日か……で、今更なんだが店の名前は?」
そこで夫婦は唖然としたように顔を見合わせた。今の今まで、店の名前を教えていなかったことに気づかずにいたのだろう。慌てた様子で男がポケットに手を入れた。
「これを……」
そう言いながら差し出したのは一枚の名刺。真っ白な紙に『居酒屋久保田』、『店主 久保田健吾』という文字、そして店の住所と電話番号が書かれていた。
「久保田健吾の店だから『居酒屋久保田』……なんていうか、まんまだな」
「すみません……もうちょっと凝ったほうがいいのかもしれませんが、思いつかなくて」
男、いや健吾が恥ずかしそうに言う。シンゾウは慌てて答えた。
「いやいや、悪く言ってるわけじゃねえ。むしろ、シンプルでいい名前だと思う。変に凝りまくられてもうちの商店街じゃ浮いちまうし」
「そうですか……ならよかった」
「うん。いい名前だよ、『久保田』も『健吾』さんも」
「あ、ありがとうございます」
思いがけず名前を褒められて、健吾はさらに恥ずかしそうにしている。さらに、どういうつもりか姓名判断まで持ち出した。
「俺の名前って、総画が大吉で家庭運もすごくいいんですが、仕事運が大凶なんです。これから店を開くっていうのに、ちょっと心配です」
「あー仕事運なあ……実は俺もあんまりよくねえって言われたことがあるな」
「そうなんですか?」
「ああ。おまえさんと同じ、総画はいいが仕事運は凶だそうだ。でもまあ、そんなの気にすることねえよ。なんだかんだ言っても、俺もまだ店を潰しちゃいねえ。あ、でも……」
そこでシンゾウは、女の顔をじっと見た。
「なんでしょう?」
「いや、実はうちはかみさんの仕事運が大吉なんだ。もしかしたらなんとかやってるのはそのおかげかもしれない。それで……」
「私の仕事運が気になった、ってことですか。うふふ……」
そこで女は、ものすごく嬉しそうに言った。
「私の名前は奈津美っていうんですけど、この人とは逆で総画は凶、仕事運は吉だそうです。だから、プラマイゼロ。きっとなんとかなります」
「おまえは本当に脳天気だな……」
ぼそりと呟いた健吾を、奈津美が睨むように見た。あなたみたいな頑固一徹には、これぐらい脳天気じゃないとつきあいきれないのよ、なんて言い返され、健吾はぐうの音も出なくなっている。
確かにこのふたりは『プラマイゼロ』、お互いの欠点を補い合えるいい夫婦だった。
「ま、新しい町に来て新しい店を開くんだから、どっちみちゼロからの出発だ。せいぜい気張ってくれ。二十二日には必ず顔を出させてもらうよ。町内会長と他にも二、三人声をかけてな」
「よろしくお願いします」
そしてふたりは深々と頭を下げて帰っていった。
待ちに待った二月二十二日午後六時半、シンゾウは『久保田』に向かった。
店の前にずらりと並んだ花環から、せっせと花を抜いて配っているのは妻のサヨだった。
せっかく送られた花環を台無しにするなんて、とシンゾウは慌てて妻に声をかける。
「おいサヨ!」
「あら、あなた。お店はどうしたの?」
「今日は早じまいだ。新規開店で客が入らなきゃ気の毒だろ。それより、おまえはなにをやってるんだ?」
「ああ、これ? 奈津美さんのご実家のほうでは、開店祝いのお花を皆さんに配る習わしがあるんですって。『花ばい』って言うそうよ。お花が早くなくなればなくなるほど、お店が繁盛するらしいわ」
「だから配りまくってるってことか?」
「そう。このあたりでは誰も『花ばい』なんて知らないから、全然減らなくて奈津美さんが困ってたのよ。それで私が一役買うことにしたの。あ、タミさん、お花はいかが?」
そう言いながらサヨは、通りかかったクリーニング屋の店主にすかさず花を渡す。確かタミは完璧な下戸、酒は一滴も受け付けないと言っていた。そんな相手に花を配らなくても、と思ったが、『花ばい』というのは将来の客を見込んで渡すものではないらしい。大事なのは、とにかく『早く』花環を空っぽにすること、と説明しながら、サヨはせっせと花を抜いては道行く人に渡し続ける。
ぼうっと見ているわけにもいかず、シンゾウも手伝うことにした。
シンゾウが加わってしばらくしたころ、暖簾を掻き分けて奈津美が出てきた。残り数本になった花環を見て嬉しそうな声を上げる。
「もうこんなに……大変だったでしょう? ありがとうございました!」
「いいのよ。お花って買うとけっこう高いから、皆さん、喜んで持って帰ってくださったわ。それに、お花を配るなんて滅多にできない経験ですもの。楽しかったわ」
「だといいんですけど……。シンゾウさんまで手伝ってくださったんですね」
「とんだ花売り爺だよ」
「爺だなんて……」
全然そんな年じゃないでしょう? とクスリと笑ったあと、奈津美はふたりを店内に誘った。
「中で一杯呑んでいってくださいな。夫もお礼をしなきゃって言ってますし」
「礼なんていらないけど、俺はもともと呑みに来たんだから邪魔するよ。おめえはどうする?」
「もちろんお邪魔するわ。『久保田』のお客第一号は私たちよ」
「第一号って……」
開店してから小一時間は過ぎている。その間、誰も来ていないのか、と驚きながら入ってみると、確かに店内に客はひとりもいなかった。
「おいおい、なんだいこの風通しのいい店は!」
精一杯明るい調子で発した言葉は功を奏さず、返ってきたのは健吾の辛そうな声だった。
「すみません……開店日なのにこの有様です……」
「本当に誰も来てねえのかよ」
「はい。さっぱりです」
「せめて『サクラ』を呼んでおくとか、考えなかったのか?」
「ちょっとあなた、『サクラ』はないでしょ」
サヨがシンゾウの袖を引っ張って注意してくる。だが、シンゾウにしてみれば『サクラ』は悪いものではない。とりわけ開店日は、友人知人を総動員してでも店を一杯にして『繁盛している感』を見せるべきだと思っている。そうやって仲間を呼べる人望も、店主の魅力のひとつだと考えているぐらいだった。
「駆けつけてくれる仲間もいねえのかよ……」
「そうじゃないんです!」
そこに聞こえてきたのは、出会ってから初めて聞く奈津美の怒りを含んだ声だった。すかさず健吾が止める。
「奈津美、おまえは黙ってろ!」
「だって!」
「だって、じゃねえ。来てくれる人がいない、ってのは本当のことじゃないか」
「本当だけど、ちゃんと理由があるじゃない!」
「えーっと……おふたりさん。もしよければ、その理由ってやつを聞かせてくれねえか?」
気になってならん、と言うシンゾウに、奈津美は勢い込んで話し始めようとした。そこでまた、健吾が止める。ただし、今度は話させないためではなく、シンゾウとサヨを座らせるためだった。
「とりあえず座ってください。奈津美、おふたりに飲み物を……」
「あ、ごめんなさい! なにを呑まれますか?」
奈津美は大慌てで品書きを差し出す。開いてみると、そこにはずらりと酒の名前が並んでいた。
「すごい品揃えだな……こいつはちょいと度肝を抜かれたぜ」
「ほんと……」
サヨも唖然としている。
シンゾウは昔から酒好き、とりわけ日本酒には目がない。大抵の銘柄なら、味や香りは言うまでもなく、どこで造られた酒なのか、手に入れやすいか否かぐらいは判断できる。夫の影響で、サヨもかなり酒の銘柄には詳しくなった。そんな夫婦が息を呑むような銘柄が、品書き一面に書き込まれているのだ。
「言っちゃあなんだが、こんな品揃えは期待すらしてなかった。せいぜいビールと地酒が二、三種類あれば御の字だと思ってたんだ。いやあ、これは嬉しい……おや? 生ビールがないな……」
居酒屋に入るなり『生ビール!』と叫ぶ客は多い。特に夏はそんな客の割合がぐっと上がるだろう。もしかしたら、今は冬だから生ビールは扱わず、日本酒に特化しているのかもしれない。
だが、そんな考えは健吾の言葉であっさり否定された。
「すみません。うち、生ビールは扱わないんです」
「夏でも?」
「はい。俺は日本酒の管理と料理で手一杯なんです。とてもじゃないけどビールサーバーまで手が回らなくて……」
力不足ですみません、と健吾は頭を下げる。真新しい和帽子の白さが目に沁みるようだった。
「なるほど……そいつはなんとも潔いな」
「ビールサーバーの管理は大変だって聞いたことがあるわ。いい加減なことをしてなにかあったら大変だものね。うん、私はそういうのってすごくいいと思う」
サヨは何度も頷きながら、品書きに目を走らせる。だがあまりにも多すぎて、どれを選んでいいかわからないらしい。かく言うシンゾウも目移りして決められない。
困り果てて顔を上げると、健吾がこちらを見ていた。
「『全部です』って言われるのは覚悟で訊くが、なにかおすすめってのはあるかい?」
「基本的には酒を料理に合わせるか、料理に酒を合わせるか、になりますが……とりあえず突き出しに合いそうな酒ってことでよろしいでしょうか?」
「ああ、それでいいよ」
「では金沢の……」
健吾が銘柄を告げる前に奈津美が動いた。
酒が入っているらしき冷蔵庫の扉を開け、迷いもなく瓶を取り出す。奈津美が手にした瓶を見て軽く頷いた健吾は、小鉢に突き出しを盛り付け始めた。
「あ……」
健吾の手元を見ていたサヨが、ぱっと顔を輝かせた。
小鉢にたっぷり盛り付けられたのは、三センチぐらいのぶつ切りにされた葱だった。焦げ目が見えるから、炙ってから醤油だれに漬け込んだのだろう。葱が大好物のサヨには嬉しい突き出しに違いない。
背後からグラスと枡、カウンターの向こうから小鉢が出された。ほぼ同時といっていいタイミングに、息が合った夫婦だなと感じさせられる。
最初に感じたのは、小鉢から立ち上る胡麻の香りだった。
「あら……胡麻油を使っているのね」
さらにサヨは大喜び。味も香りも身体にいいことまで含めて、胡麻油もサヨのお気に入りだった。
「お葱を胡麻油を引いたフライパンで焦がして、醤油と味醂を合わせたタレに漬け込んでいます。簡単ですから、おうちでも作れますよ。今日はしっかり焼いてくったりさせましたが、さっと焼いて歯ごたえを残すのも乙です」
健吾はすらすらと説明する。いくら簡単な料理とはいえ、こんなに惜しげもなく作り方を披露していいものか。それ以上に、普段はあれほど口が重い男が、料理についてならこんなに話すのか、とシンゾウはびっくりしてしまった。
さらに驚かされたのは、酒の説明だった。健吾は、奈津美がふたつのグラスに酒を注ぎ終わるのを待ちかねたように言う。
「『加賀鶴 純米吟醸 金沢』です」
その一言で、彼の日本酒についての造詣の深さがわかった。なぜなら、居酒屋で酒を出すときに、ここまで正確に銘柄を口にすることは稀だからだ。シンゾウはあちこちで酒を呑んでいるが、銘柄を告げられるにしても一部、この酒の場合ならせいぜい『加賀鶴』、あるいはラベル中央にでかでかと書かれた『金沢』だろう。それなのに健吾は、流れるように『加賀鶴 純米吟醸 金沢』と言った。
酒は使う米や麹の種類、どこまで米を削るか、出荷前に火を入れるかどうか、醸造用アルコールを添加するか否か……などによって、仕上がりが異なる。同じブランドであっても、ぜんぜん味わいが違うというのはよくあることなのだ。酒の名をきちんと告げるのは、それをわきまえている証拠であり、酒への敬意の表れだ。
さらに、驚いているシンゾウをそっちのけで蔵元の紹介が始まった。
「これを造っているのは金沢市にある、やちや酒造。天正十一年に、神谷内屋仁右衛門が加賀藩主を拝命した前田利家公専用の酒を造るために、尾張から移住してきたのが始まりです。寛永五年に前田家から『谷内屋』という屋号と『加賀鶴』という酒の名を授かり、今に至ります。『加賀鶴 純米吟醸 金沢』は少し辛口で後味がきれいなので、和食はもちろん洋食にもよく合います。揚げ物やムニエルなどもおすすめです」
「確かに、この酒なら多少こってりめの料理でも合うだろうな……」
健吾の目がわずかに見開かれた。シンゾウの言葉から、この酒を知っていることを読み取ったのだろう。もちろんシンゾウはこの酒を呑んだことがある。伊達に長く酒を嗜んでいるわけではないのだ。ただ蔵元のことまでは知識は及ばず、健吾の説明に感心するばかりだった。
「大将、プロ相手にこんなことを言うのは失礼かもしれんが、ずいぶん詳しいな。こんなにすらすら蔵元についてまで語られるとは思わなかった」
おそらくこの間のように照れた笑みを浮かべるだろう、と思った。だが、シンゾウの予想に反して彼は至って真面目な顔で言った。
「酒は蔵元や蔵人あってこそのものです。大変な努力と研鑽の上に生まれるのが酒。でも、蔵元の想いまで汲みながら酒を呑む人はとても少ないんです。俺は、その蔵元がどこにあって、どういう歴史を経てきたかまでお客様に伝えたい。自分勝手な思い込みですけど、そういった情報をほんの少しでも伝えることで、酒の味がまた少し上がるような気がするんです」
「……見上げたもんだな」
シンゾウにまじまじと見つめられ、健吾は今度こそ照れ笑いを浮かべた。そして、また俯いて手を動かし始める。やはり彼は、ほとんど客と話をしないタイプの料理人らしい。話しかけられれば答えはするが、ここまで饒舌になるのは、料理や酒の説明だけなのだろう。
「このお葱、ものすごくあなた好みよ」
早く食べてみなさいよ、とサヨに促され、シンゾウは箸を手に取った。ぶつ切りの葱を挟んだだけで、柔らかさが伝わってくる。薬屋という職業柄、健康には気を遣っているし、歯の衰えを感じる年齢ではない。きんぴらゴボウにしても歯ごたえがあるもののほうが好みだが、葱だけはしっかり火が通っているほうがいい。加熱によって引き出される甘みがたまらないのだ。
「なんとも言えない甘みだ。胡麻油がいい仕事をしてるし、タレの加減もちょうどいい。これは酒がすすむ」
「よろしければ、もう少し……」
「あなた!」
そこで奈津美が小さく咎めた。健吾が、葱の入っているプラスティック容器に伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。奈津美の口から、もう……という声が漏れたとたん、サヨが笑い出した。
「大将、突き出しのおかわりなんてさせてたら、商売あがったりよ。ご心配なく、ちゃんと別のお料理を注文するわ。突き出しがこれなら、他も期待大よ」
「まったくだ。お、『おすすめ』の品書きがあるのか」
壁のホワイトボードに『本日のおすすめ』が書かれていた。焼き物、煮物、揚げ物に加えて、蒸し物もある。食材も肉、魚、卵、野菜と多彩だった。
「私は出汁巻きにするわ」
「じゃあ俺はホタルイカの天ぷら」
出汁巻きと天ぷらは腕の差が出やすい料理だ。他にもメニューはあるのに、あえてこの二品を頼むのは、ちょっと意地が悪いかもしれない。だが、健吾は何食わぬ顔で四角い玉子焼き用のフライパンを火にかける。使い込まれて鈍く光るフライパンが『まかせとけ』と言っているようだった。
卵液を二度、三度と流し込む。もう少しで焼き上がり、というところで、引き戸が勢いよく開いた。
「すまねえ、遅くなった! お、サヨさんも一緒か。お疲れさん」
そう言いながら入ってきたのはミチフミ、後ろに肉屋のヨシノリと文房具屋のミヤマがいた。
「お疲れさま。先に始めさせてもらってるわ。それにしても、ミチフミさんが遅れるなんて珍しいわね」
ミチフミはせっかちな質で、早め早めに行動する。町内の会合でも、早く来すぎることはあっても遅れたことはなかった。今日は六時前後に『久保田』で、と約束していたのに、今はもう七時近い。サヨに、珍しいと言われるのも無理はなかった。
そこで頭を下げたのは、ミヤマだった。
「『魚辰』さんのせいじゃない。うちが遅かったんだ。店の閉め際に、ちょっと待ってくれって電話が来て……」
「子どもさん?」
「ああ。明日図工で粘土がいるのに、買い忘れてたって」
いつもなら妻に任せられるけれど、今日に限って出かけていた。閉店時刻は過ぎていたが、学校で必要なものが揃わないのは気の毒だということで、子どもが来るのを待っていたそうだ。
「このふたりには先に行ってくれって言ったんだけど……」
「店は逃げねえし、開店早々は大賑わいかもしれねえから、多少ずらしたがいいかもって思ってな」
そう言いながらミチフミは店内を見回す。もちろん、埋まっているのはシンゾウとサヨの席だけだ。そこでシンゾウは、『サクラ』についての話が途中だったことを思い出した。
「そういや女将さん、『サクラ』を呼ばなかったわけって……?」
健吾に訊いても答えそうにない。あえて奈津美に訊ねると、彼女は堰を切ったように話し始めた。
「今日、開店したのはうちだけじゃないんです。実は私たち、ここに来る前は同じ店で働いていたんですけど、その店で修業していた人も今日、新宿で店を開きました。それで仲間はみんなそっちのほうに……」
「仕方がないだろ。俺の人望がないってことだ」
「なに言ってるのよ! あの人は最初、三月に入ってから開店する予定だったのよ? それをあえてうちと同じ日にした。嫌がらせに決まってるわ。あなたのほうがみんなに慕われてたし、腕だって確かだからって僻んでたのよ」
「それでも、どっちに行くかはあいつらの自由だ」
嫌がらせをされるのも、二者択一で選ばれなかったのも、全部俺のせいだ、と健吾は言う。だが、奈津美は全然納得しなかった。
「嘘ばっかり。私、知ってるのよ。本当はみんな、うちに来てくれるつもりだったのに、今度はおまえたちが嫌がらせをされかねないからって、みんなをあっちに行かせたんでしょ。あの人は大きな料亭の息子だし、執念深いところもあるから、あとあと差し障りが出るかもって……」
「おまえ、どこから……」
「みんなが連絡してきてくれたわ。『ごめんなさい、お言葉に甘えます。次の休みには必ず行きますから』って」
「あいつら……」
ぶすっとした口調ながらも、出汁巻きを切り分ける健吾の口角がわずかに上がっている。
開店日に仲間がひとりも来なければ、きっと心配するに違いない。それを払拭するために、事情を知らないだろう奈津美に連絡をした。そんな仲間の気遣いが嬉しかったに違いない。
奈津美は夫の表情を確かめ、ほっとしたようにミチフミたちに言った。
「ごめんなさい。余計なことをお聞かせしました。でも、そんなわけで、お席はたくさんあるんですよ」
どうぞ、どうぞ、と椅子を引き、三人を次々と座らせる。ちょうどそこに、出汁巻きができあがった。
「こっちから失礼します」
カウンター越しに出された皿を見た瞬間、ヨシノリが息を呑んだ。
「ピカピカじゃねえか! これ、うちの卵だよな?」
「はい。いい卵を納めていただけたおかげです。黄身がすごく大きくて、色も味も濃厚、最高の品です。冷めないうちにどうぞ」
皿に敷かれた大葉の緑で、出汁巻きの黄色がさらに冴える。黄身の色の濃淡で栄養価に差はないと聞いたが、それでもやはり白っぽい玉子焼きは興ざめだ。その点、この出汁巻きは素晴らしい。
脇に添えられた紅葉下ろしを横目に、まずは一口……とサヨが出汁巻きの一切れを箸で割った。そのまま頬張るには大きすぎたのだろう。
割り口からじわり……と出汁が染み出す。これほどの出汁を含ませているのに、こんなにきっちり巻き上げるのは至難の業だ。やはりこの大将の腕は俺の見込みどおりだった、とシンゾウは嬉しくなってしまった。
「ほんのり甘い……」
「甘みが強すぎるようでしたら、紅葉下ろしをご一緒に。なんなら、ちょっぴりお醤油を垂らしても……」
奈津美にすすめられ、サヨは醤油差しに手を伸ばした。とはいえ、サヨが甘い出汁巻きが嫌いというわけではない。家で作る玉子焼きも、かなり甘いのだ。おそらく、せっかく店に来たのだからいろいろな食べ方を試してみよう、と思っただけだろう。
ところが、口に入れてもぐもぐと噛んだとたん、サヨの目の色が変わった。
「用意がいいな……」
裏手のアパートや一軒家まで挨拶に行くべきかどうかを訊ねに来たのだから、挨拶用の品もこれから準備するとばかり思っていた。だが、驚くシンゾウに、夫婦はもともと商店街の挨拶は今日のうちに済ませるつもりだったと告げた。しかも手提げ袋から出てきたのは、引っ越し挨拶に使われがちな手ぬぐいや洗剤ではなく、二十センチぐらいの細長い包み、中身は太字と細字のサインペンだそうだ。
「お店をやっていらっしゃる方ばかりだから、サインペンなら使っていただけるかなって。これ、ものすごく書きやすいって文房具屋さんのおすすめだったんです。あ、お店をやっていらっしゃらない方へのご挨拶はこれとは別に用意するつもりですけど」
まとめて買ったら値段もずいぶん安くしてもらえた、と女は嬉しそうに言う。ミチフミがすかさず訊ねた。
「文房具屋って、もしかしてミヤマさんで?」
「はい。これからお世話になるんですから、少しでも売り上げに協力させていただかなきゃ、と思いまして」
「やっぱり……包み紙に見覚えがあると思ったんだ。にしても、いい心がけだ!」
ますます気に入った、とミチフミは大喜びで言う。
「気が利く嫁さんじゃねえか。こういう人が女将なら、店は繁盛間違いなしだ。な、薬屋、おまえもそう思うだろ?」
「ああ。開店するのが楽しみだよ。で、ご亭主、開店はいつごろの予定だ?」
「できれば寒いうち……なんとか二月中には開けたいと思ってます」
「そうか。じゃあ、日が決まったら知らせてくれよ。俺たちもできる限り宣伝するし」
「もちろんです。よろしくお願いします!」
女が元気に頭を下げた。男も無言でそれに倣う。
無口だが魚を下ろすのに難儀している若者に手ほどきをするばかりか、『証拠隠滅』と失敗作まで買い上げる。きっと自分が修業したときの気持ちを忘れずにいるのだろう。この年で店を持つだけの資金を蓄えられるほどだから腕のいい職人だろうし、修業中の気持ち、すなわち初心を忘れていないとしたら、さぞや丁寧な料理を作るに違いない。そこにおしゃべり上手で気配りのある女将までいる。このふたりがどんな酒を選び、どんな料理を出してくるのか楽しみでならない。
シンゾウは、開店が待ちきれない気持ちだった。
†
二月に入るなり、居酒屋の工事が始まった。
とはいっても、大がかりなものではなく、看板や厨房の設備を少しいじる程度らしい。もともと建ててから二年ほどしか経っていないし、傷んでいるところもなかったのだろう。工事は一週間もしないうちに終わり、夫婦がまた『山敷薬局』にやってきた。
女が嬉しそうに言う。
「開店の日が決まりました。二月二十二日です」
「二月二十二日……そいつはまた、二揃いだな」
「調べてみたらお日柄もいいし、覚えやすいかなーって」
「確かにな。そうか、二月二十二日か……で、今更なんだが店の名前は?」
そこで夫婦は唖然としたように顔を見合わせた。今の今まで、店の名前を教えていなかったことに気づかずにいたのだろう。慌てた様子で男がポケットに手を入れた。
「これを……」
そう言いながら差し出したのは一枚の名刺。真っ白な紙に『居酒屋久保田』、『店主 久保田健吾』という文字、そして店の住所と電話番号が書かれていた。
「久保田健吾の店だから『居酒屋久保田』……なんていうか、まんまだな」
「すみません……もうちょっと凝ったほうがいいのかもしれませんが、思いつかなくて」
男、いや健吾が恥ずかしそうに言う。シンゾウは慌てて答えた。
「いやいや、悪く言ってるわけじゃねえ。むしろ、シンプルでいい名前だと思う。変に凝りまくられてもうちの商店街じゃ浮いちまうし」
「そうですか……ならよかった」
「うん。いい名前だよ、『久保田』も『健吾』さんも」
「あ、ありがとうございます」
思いがけず名前を褒められて、健吾はさらに恥ずかしそうにしている。さらに、どういうつもりか姓名判断まで持ち出した。
「俺の名前って、総画が大吉で家庭運もすごくいいんですが、仕事運が大凶なんです。これから店を開くっていうのに、ちょっと心配です」
「あー仕事運なあ……実は俺もあんまりよくねえって言われたことがあるな」
「そうなんですか?」
「ああ。おまえさんと同じ、総画はいいが仕事運は凶だそうだ。でもまあ、そんなの気にすることねえよ。なんだかんだ言っても、俺もまだ店を潰しちゃいねえ。あ、でも……」
そこでシンゾウは、女の顔をじっと見た。
「なんでしょう?」
「いや、実はうちはかみさんの仕事運が大吉なんだ。もしかしたらなんとかやってるのはそのおかげかもしれない。それで……」
「私の仕事運が気になった、ってことですか。うふふ……」
そこで女は、ものすごく嬉しそうに言った。
「私の名前は奈津美っていうんですけど、この人とは逆で総画は凶、仕事運は吉だそうです。だから、プラマイゼロ。きっとなんとかなります」
「おまえは本当に脳天気だな……」
ぼそりと呟いた健吾を、奈津美が睨むように見た。あなたみたいな頑固一徹には、これぐらい脳天気じゃないとつきあいきれないのよ、なんて言い返され、健吾はぐうの音も出なくなっている。
確かにこのふたりは『プラマイゼロ』、お互いの欠点を補い合えるいい夫婦だった。
「ま、新しい町に来て新しい店を開くんだから、どっちみちゼロからの出発だ。せいぜい気張ってくれ。二十二日には必ず顔を出させてもらうよ。町内会長と他にも二、三人声をかけてな」
「よろしくお願いします」
そしてふたりは深々と頭を下げて帰っていった。
待ちに待った二月二十二日午後六時半、シンゾウは『久保田』に向かった。
店の前にずらりと並んだ花環から、せっせと花を抜いて配っているのは妻のサヨだった。
せっかく送られた花環を台無しにするなんて、とシンゾウは慌てて妻に声をかける。
「おいサヨ!」
「あら、あなた。お店はどうしたの?」
「今日は早じまいだ。新規開店で客が入らなきゃ気の毒だろ。それより、おまえはなにをやってるんだ?」
「ああ、これ? 奈津美さんのご実家のほうでは、開店祝いのお花を皆さんに配る習わしがあるんですって。『花ばい』って言うそうよ。お花が早くなくなればなくなるほど、お店が繁盛するらしいわ」
「だから配りまくってるってことか?」
「そう。このあたりでは誰も『花ばい』なんて知らないから、全然減らなくて奈津美さんが困ってたのよ。それで私が一役買うことにしたの。あ、タミさん、お花はいかが?」
そう言いながらサヨは、通りかかったクリーニング屋の店主にすかさず花を渡す。確かタミは完璧な下戸、酒は一滴も受け付けないと言っていた。そんな相手に花を配らなくても、と思ったが、『花ばい』というのは将来の客を見込んで渡すものではないらしい。大事なのは、とにかく『早く』花環を空っぽにすること、と説明しながら、サヨはせっせと花を抜いては道行く人に渡し続ける。
ぼうっと見ているわけにもいかず、シンゾウも手伝うことにした。
シンゾウが加わってしばらくしたころ、暖簾を掻き分けて奈津美が出てきた。残り数本になった花環を見て嬉しそうな声を上げる。
「もうこんなに……大変だったでしょう? ありがとうございました!」
「いいのよ。お花って買うとけっこう高いから、皆さん、喜んで持って帰ってくださったわ。それに、お花を配るなんて滅多にできない経験ですもの。楽しかったわ」
「だといいんですけど……。シンゾウさんまで手伝ってくださったんですね」
「とんだ花売り爺だよ」
「爺だなんて……」
全然そんな年じゃないでしょう? とクスリと笑ったあと、奈津美はふたりを店内に誘った。
「中で一杯呑んでいってくださいな。夫もお礼をしなきゃって言ってますし」
「礼なんていらないけど、俺はもともと呑みに来たんだから邪魔するよ。おめえはどうする?」
「もちろんお邪魔するわ。『久保田』のお客第一号は私たちよ」
「第一号って……」
開店してから小一時間は過ぎている。その間、誰も来ていないのか、と驚きながら入ってみると、確かに店内に客はひとりもいなかった。
「おいおい、なんだいこの風通しのいい店は!」
精一杯明るい調子で発した言葉は功を奏さず、返ってきたのは健吾の辛そうな声だった。
「すみません……開店日なのにこの有様です……」
「本当に誰も来てねえのかよ」
「はい。さっぱりです」
「せめて『サクラ』を呼んでおくとか、考えなかったのか?」
「ちょっとあなた、『サクラ』はないでしょ」
サヨがシンゾウの袖を引っ張って注意してくる。だが、シンゾウにしてみれば『サクラ』は悪いものではない。とりわけ開店日は、友人知人を総動員してでも店を一杯にして『繁盛している感』を見せるべきだと思っている。そうやって仲間を呼べる人望も、店主の魅力のひとつだと考えているぐらいだった。
「駆けつけてくれる仲間もいねえのかよ……」
「そうじゃないんです!」
そこに聞こえてきたのは、出会ってから初めて聞く奈津美の怒りを含んだ声だった。すかさず健吾が止める。
「奈津美、おまえは黙ってろ!」
「だって!」
「だって、じゃねえ。来てくれる人がいない、ってのは本当のことじゃないか」
「本当だけど、ちゃんと理由があるじゃない!」
「えーっと……おふたりさん。もしよければ、その理由ってやつを聞かせてくれねえか?」
気になってならん、と言うシンゾウに、奈津美は勢い込んで話し始めようとした。そこでまた、健吾が止める。ただし、今度は話させないためではなく、シンゾウとサヨを座らせるためだった。
「とりあえず座ってください。奈津美、おふたりに飲み物を……」
「あ、ごめんなさい! なにを呑まれますか?」
奈津美は大慌てで品書きを差し出す。開いてみると、そこにはずらりと酒の名前が並んでいた。
「すごい品揃えだな……こいつはちょいと度肝を抜かれたぜ」
「ほんと……」
サヨも唖然としている。
シンゾウは昔から酒好き、とりわけ日本酒には目がない。大抵の銘柄なら、味や香りは言うまでもなく、どこで造られた酒なのか、手に入れやすいか否かぐらいは判断できる。夫の影響で、サヨもかなり酒の銘柄には詳しくなった。そんな夫婦が息を呑むような銘柄が、品書き一面に書き込まれているのだ。
「言っちゃあなんだが、こんな品揃えは期待すらしてなかった。せいぜいビールと地酒が二、三種類あれば御の字だと思ってたんだ。いやあ、これは嬉しい……おや? 生ビールがないな……」
居酒屋に入るなり『生ビール!』と叫ぶ客は多い。特に夏はそんな客の割合がぐっと上がるだろう。もしかしたら、今は冬だから生ビールは扱わず、日本酒に特化しているのかもしれない。
だが、そんな考えは健吾の言葉であっさり否定された。
「すみません。うち、生ビールは扱わないんです」
「夏でも?」
「はい。俺は日本酒の管理と料理で手一杯なんです。とてもじゃないけどビールサーバーまで手が回らなくて……」
力不足ですみません、と健吾は頭を下げる。真新しい和帽子の白さが目に沁みるようだった。
「なるほど……そいつはなんとも潔いな」
「ビールサーバーの管理は大変だって聞いたことがあるわ。いい加減なことをしてなにかあったら大変だものね。うん、私はそういうのってすごくいいと思う」
サヨは何度も頷きながら、品書きに目を走らせる。だがあまりにも多すぎて、どれを選んでいいかわからないらしい。かく言うシンゾウも目移りして決められない。
困り果てて顔を上げると、健吾がこちらを見ていた。
「『全部です』って言われるのは覚悟で訊くが、なにかおすすめってのはあるかい?」
「基本的には酒を料理に合わせるか、料理に酒を合わせるか、になりますが……とりあえず突き出しに合いそうな酒ってことでよろしいでしょうか?」
「ああ、それでいいよ」
「では金沢の……」
健吾が銘柄を告げる前に奈津美が動いた。
酒が入っているらしき冷蔵庫の扉を開け、迷いもなく瓶を取り出す。奈津美が手にした瓶を見て軽く頷いた健吾は、小鉢に突き出しを盛り付け始めた。
「あ……」
健吾の手元を見ていたサヨが、ぱっと顔を輝かせた。
小鉢にたっぷり盛り付けられたのは、三センチぐらいのぶつ切りにされた葱だった。焦げ目が見えるから、炙ってから醤油だれに漬け込んだのだろう。葱が大好物のサヨには嬉しい突き出しに違いない。
背後からグラスと枡、カウンターの向こうから小鉢が出された。ほぼ同時といっていいタイミングに、息が合った夫婦だなと感じさせられる。
最初に感じたのは、小鉢から立ち上る胡麻の香りだった。
「あら……胡麻油を使っているのね」
さらにサヨは大喜び。味も香りも身体にいいことまで含めて、胡麻油もサヨのお気に入りだった。
「お葱を胡麻油を引いたフライパンで焦がして、醤油と味醂を合わせたタレに漬け込んでいます。簡単ですから、おうちでも作れますよ。今日はしっかり焼いてくったりさせましたが、さっと焼いて歯ごたえを残すのも乙です」
健吾はすらすらと説明する。いくら簡単な料理とはいえ、こんなに惜しげもなく作り方を披露していいものか。それ以上に、普段はあれほど口が重い男が、料理についてならこんなに話すのか、とシンゾウはびっくりしてしまった。
さらに驚かされたのは、酒の説明だった。健吾は、奈津美がふたつのグラスに酒を注ぎ終わるのを待ちかねたように言う。
「『加賀鶴 純米吟醸 金沢』です」
その一言で、彼の日本酒についての造詣の深さがわかった。なぜなら、居酒屋で酒を出すときに、ここまで正確に銘柄を口にすることは稀だからだ。シンゾウはあちこちで酒を呑んでいるが、銘柄を告げられるにしても一部、この酒の場合ならせいぜい『加賀鶴』、あるいはラベル中央にでかでかと書かれた『金沢』だろう。それなのに健吾は、流れるように『加賀鶴 純米吟醸 金沢』と言った。
酒は使う米や麹の種類、どこまで米を削るか、出荷前に火を入れるかどうか、醸造用アルコールを添加するか否か……などによって、仕上がりが異なる。同じブランドであっても、ぜんぜん味わいが違うというのはよくあることなのだ。酒の名をきちんと告げるのは、それをわきまえている証拠であり、酒への敬意の表れだ。
さらに、驚いているシンゾウをそっちのけで蔵元の紹介が始まった。
「これを造っているのは金沢市にある、やちや酒造。天正十一年に、神谷内屋仁右衛門が加賀藩主を拝命した前田利家公専用の酒を造るために、尾張から移住してきたのが始まりです。寛永五年に前田家から『谷内屋』という屋号と『加賀鶴』という酒の名を授かり、今に至ります。『加賀鶴 純米吟醸 金沢』は少し辛口で後味がきれいなので、和食はもちろん洋食にもよく合います。揚げ物やムニエルなどもおすすめです」
「確かに、この酒なら多少こってりめの料理でも合うだろうな……」
健吾の目がわずかに見開かれた。シンゾウの言葉から、この酒を知っていることを読み取ったのだろう。もちろんシンゾウはこの酒を呑んだことがある。伊達に長く酒を嗜んでいるわけではないのだ。ただ蔵元のことまでは知識は及ばず、健吾の説明に感心するばかりだった。
「大将、プロ相手にこんなことを言うのは失礼かもしれんが、ずいぶん詳しいな。こんなにすらすら蔵元についてまで語られるとは思わなかった」
おそらくこの間のように照れた笑みを浮かべるだろう、と思った。だが、シンゾウの予想に反して彼は至って真面目な顔で言った。
「酒は蔵元や蔵人あってこそのものです。大変な努力と研鑽の上に生まれるのが酒。でも、蔵元の想いまで汲みながら酒を呑む人はとても少ないんです。俺は、その蔵元がどこにあって、どういう歴史を経てきたかまでお客様に伝えたい。自分勝手な思い込みですけど、そういった情報をほんの少しでも伝えることで、酒の味がまた少し上がるような気がするんです」
「……見上げたもんだな」
シンゾウにまじまじと見つめられ、健吾は今度こそ照れ笑いを浮かべた。そして、また俯いて手を動かし始める。やはり彼は、ほとんど客と話をしないタイプの料理人らしい。話しかけられれば答えはするが、ここまで饒舌になるのは、料理や酒の説明だけなのだろう。
「このお葱、ものすごくあなた好みよ」
早く食べてみなさいよ、とサヨに促され、シンゾウは箸を手に取った。ぶつ切りの葱を挟んだだけで、柔らかさが伝わってくる。薬屋という職業柄、健康には気を遣っているし、歯の衰えを感じる年齢ではない。きんぴらゴボウにしても歯ごたえがあるもののほうが好みだが、葱だけはしっかり火が通っているほうがいい。加熱によって引き出される甘みがたまらないのだ。
「なんとも言えない甘みだ。胡麻油がいい仕事をしてるし、タレの加減もちょうどいい。これは酒がすすむ」
「よろしければ、もう少し……」
「あなた!」
そこで奈津美が小さく咎めた。健吾が、葱の入っているプラスティック容器に伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。奈津美の口から、もう……という声が漏れたとたん、サヨが笑い出した。
「大将、突き出しのおかわりなんてさせてたら、商売あがったりよ。ご心配なく、ちゃんと別のお料理を注文するわ。突き出しがこれなら、他も期待大よ」
「まったくだ。お、『おすすめ』の品書きがあるのか」
壁のホワイトボードに『本日のおすすめ』が書かれていた。焼き物、煮物、揚げ物に加えて、蒸し物もある。食材も肉、魚、卵、野菜と多彩だった。
「私は出汁巻きにするわ」
「じゃあ俺はホタルイカの天ぷら」
出汁巻きと天ぷらは腕の差が出やすい料理だ。他にもメニューはあるのに、あえてこの二品を頼むのは、ちょっと意地が悪いかもしれない。だが、健吾は何食わぬ顔で四角い玉子焼き用のフライパンを火にかける。使い込まれて鈍く光るフライパンが『まかせとけ』と言っているようだった。
卵液を二度、三度と流し込む。もう少しで焼き上がり、というところで、引き戸が勢いよく開いた。
「すまねえ、遅くなった! お、サヨさんも一緒か。お疲れさん」
そう言いながら入ってきたのはミチフミ、後ろに肉屋のヨシノリと文房具屋のミヤマがいた。
「お疲れさま。先に始めさせてもらってるわ。それにしても、ミチフミさんが遅れるなんて珍しいわね」
ミチフミはせっかちな質で、早め早めに行動する。町内の会合でも、早く来すぎることはあっても遅れたことはなかった。今日は六時前後に『久保田』で、と約束していたのに、今はもう七時近い。サヨに、珍しいと言われるのも無理はなかった。
そこで頭を下げたのは、ミヤマだった。
「『魚辰』さんのせいじゃない。うちが遅かったんだ。店の閉め際に、ちょっと待ってくれって電話が来て……」
「子どもさん?」
「ああ。明日図工で粘土がいるのに、買い忘れてたって」
いつもなら妻に任せられるけれど、今日に限って出かけていた。閉店時刻は過ぎていたが、学校で必要なものが揃わないのは気の毒だということで、子どもが来るのを待っていたそうだ。
「このふたりには先に行ってくれって言ったんだけど……」
「店は逃げねえし、開店早々は大賑わいかもしれねえから、多少ずらしたがいいかもって思ってな」
そう言いながらミチフミは店内を見回す。もちろん、埋まっているのはシンゾウとサヨの席だけだ。そこでシンゾウは、『サクラ』についての話が途中だったことを思い出した。
「そういや女将さん、『サクラ』を呼ばなかったわけって……?」
健吾に訊いても答えそうにない。あえて奈津美に訊ねると、彼女は堰を切ったように話し始めた。
「今日、開店したのはうちだけじゃないんです。実は私たち、ここに来る前は同じ店で働いていたんですけど、その店で修業していた人も今日、新宿で店を開きました。それで仲間はみんなそっちのほうに……」
「仕方がないだろ。俺の人望がないってことだ」
「なに言ってるのよ! あの人は最初、三月に入ってから開店する予定だったのよ? それをあえてうちと同じ日にした。嫌がらせに決まってるわ。あなたのほうがみんなに慕われてたし、腕だって確かだからって僻んでたのよ」
「それでも、どっちに行くかはあいつらの自由だ」
嫌がらせをされるのも、二者択一で選ばれなかったのも、全部俺のせいだ、と健吾は言う。だが、奈津美は全然納得しなかった。
「嘘ばっかり。私、知ってるのよ。本当はみんな、うちに来てくれるつもりだったのに、今度はおまえたちが嫌がらせをされかねないからって、みんなをあっちに行かせたんでしょ。あの人は大きな料亭の息子だし、執念深いところもあるから、あとあと差し障りが出るかもって……」
「おまえ、どこから……」
「みんなが連絡してきてくれたわ。『ごめんなさい、お言葉に甘えます。次の休みには必ず行きますから』って」
「あいつら……」
ぶすっとした口調ながらも、出汁巻きを切り分ける健吾の口角がわずかに上がっている。
開店日に仲間がひとりも来なければ、きっと心配するに違いない。それを払拭するために、事情を知らないだろう奈津美に連絡をした。そんな仲間の気遣いが嬉しかったに違いない。
奈津美は夫の表情を確かめ、ほっとしたようにミチフミたちに言った。
「ごめんなさい。余計なことをお聞かせしました。でも、そんなわけで、お席はたくさんあるんですよ」
どうぞ、どうぞ、と椅子を引き、三人を次々と座らせる。ちょうどそこに、出汁巻きができあがった。
「こっちから失礼します」
カウンター越しに出された皿を見た瞬間、ヨシノリが息を呑んだ。
「ピカピカじゃねえか! これ、うちの卵だよな?」
「はい。いい卵を納めていただけたおかげです。黄身がすごく大きくて、色も味も濃厚、最高の品です。冷めないうちにどうぞ」
皿に敷かれた大葉の緑で、出汁巻きの黄色がさらに冴える。黄身の色の濃淡で栄養価に差はないと聞いたが、それでもやはり白っぽい玉子焼きは興ざめだ。その点、この出汁巻きは素晴らしい。
脇に添えられた紅葉下ろしを横目に、まずは一口……とサヨが出汁巻きの一切れを箸で割った。そのまま頬張るには大きすぎたのだろう。
割り口からじわり……と出汁が染み出す。これほどの出汁を含ませているのに、こんなにきっちり巻き上げるのは至難の業だ。やはりこの大将の腕は俺の見込みどおりだった、とシンゾウは嬉しくなってしまった。
「ほんのり甘い……」
「甘みが強すぎるようでしたら、紅葉下ろしをご一緒に。なんなら、ちょっぴりお醤油を垂らしても……」
奈津美にすすめられ、サヨは醤油差しに手を伸ばした。とはいえ、サヨが甘い出汁巻きが嫌いというわけではない。家で作る玉子焼きも、かなり甘いのだ。おそらく、せっかく店に来たのだからいろいろな食べ方を試してみよう、と思っただけだろう。
ところが、口に入れてもぐもぐと噛んだとたん、サヨの目の色が変わった。
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