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おかわり! 2
おかわり! 2-1
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無口な店主
平成四年一月四日の朝、シンゾウはいつもどおりに散歩に出た。
シンゾウは東京下町のとある商店街で『山敷薬局』を営んでおり、客はもっぱら近隣、この商店街に店を構える人や裏通りの住人である。
薬を売りたいのは山々だけれど、それ以前に元気でいてほしい。健やかな日常を保つために、治療よりも予防に力を注ぐ、というのが『山敷薬局』の経営方針である。だからこそシンゾウは日々近所を歩き、住人たちの健康観察に勤しんでいた。
――おや? ここ、新しい店が入るのかな……
シンゾウが足を止めたのは、商店街の中程に位置する空き店舗の前だった。
閉めっぱなしだった戸口が開放され、中から人の声がする。そっと覗いてみると、書類を持った男と四十歳前後と思しき夫婦がいる。おそらく男は不動産屋で、夫婦者は店を開きたくて物件を探しているところなのだろう。
ここは以前、居酒屋だった。シンゾウも一度入ったことがあるが、ビール一杯にしてもけっして安くはない値段だった上に、出てくるのは冷凍食品のほうがましだと思うような料理ばかり……うんざりして、それきり足が向かなかった。
この商店街には他に居酒屋どころか、飲食店すらない。だからこそ店主は、それでも客が来ると思ったようだが、駅から離れた商店街で、そんな強気な商売が通用するはずがない。長くは持たないという予想は見事に的中し、二年も経たないうちに潰れてしまったのだ。
それからすぐに『テナント募集中』と書かれた紙が貼られたが、これまで借り主が決まる様子はなかった。商店街の真ん中に空き店舗があるのは見栄えがよくない。どんな店でもとりあえず埋まってほしい。そして、できれば居酒屋であってほしい。
実はシンゾウは、かなりの酒好きだ。家で呑むのもいいが、たまには店で杯を傾けたい。となると、近場に気軽に寄れる居酒屋ができるのは大歓迎なのだ。
とはいえ、いつまでも覗き込んでいるわけにはいかない。成り行きが気になりつつも、シンゾウは再び歩き出した。
空き店舗に夫婦者が来ていたのを見てから半月ほどしたある日、男がひとり『山敷薬局』に入ってきた。冷蔵ケースから栄養ドリンクを一本取り出し、レジに持ってくる。
「飲んでいかれますか?」
ふらっと入ってきた客が一本だけ栄養ドリンクを買った場合は、その場で飲むことが多い。持ち運ぶのは面倒だし、ゴミを捨てていけて便利だからだろう。
当然この男もそうするだろうと思ったが、彼は意外にも首を左右に振った。
「いえ……持ち帰ります」
「じゃあ、袋にお入れしますね」
そこで男の顔に目をやったシンゾウは、ついまじまじと見つめてしまった。なんだか見覚えがある気がしたのだ。数秒考えて、はっとした。
――この前、空き店舗を見に来てたやつじゃねえか……ってことは、決まったのか?
そう考えながら、数枚の百円玉と引き替えに栄養ドリンクを渡す。男は軽く会釈して袋を受け取り、そのまま店を出ていった。
もしもあの店を借りるのであれば、新しいご近所さんになる。挨拶のひとつもしておきたいとは思ったけれど、どうして事情を知っているのだと不審がられるに違いない。覗き見が趣味だと思われるのも嫌なので、そのまま見送るしかなかった。
それから十分後、今度は女がやってきた。もちろん、さっきの男と一緒に店を見に来ていた女だ。
女は冷蔵ケースではなくペットボトルが並んでいる棚に向かい、お茶を一本持ってきた。
おそらく今日もあの空き店舗を見に来たのだろうけれど、ふたりで来ておきながら別々に飲み物を買いに来るのは珍しい。相手の飲み物の心配もできないほど気が利かない男なのだろうか。それでは店を構えたところで、上手くいきっこない……と心配になってしまった。
ところが、そんなシンゾウをよそに、支払いを済ませた女は至って気軽に話しかけてきた。
「ちょっとお訊ねしたいことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「この先にある空き店舗、前はどんなふうだったかご存じですか?」
「どんなふう、というと?」
「お店を閉めた事情とか……」
「え……?」
思わずぎょっとしたシンゾウに、女は慌てて説明を加えた。
「すみません。唐突すぎましたね。実は私、あのお店を借りようかと思ってるんです。で、居酒屋を始めようと思ってるんですけど、不動産屋さんの話によると、前も居酒屋だったみたいで……」
「ああ、なるほど……同じ居酒屋をやる身としては、前の店が閉めた事情を知りたいんですね?」
「そうなんです!」
――ははあ……さては、さっき来た旦那も同じことを訊きたかったんだな。ところが、訊き出せずに戻っちまって、やむを得ずかみさんが登場ってことか……
確かに、どう見ても訊き込みには向かないタイプだった。世間話からそれとなく、というのも、このかみさんみたいに単刀直入に、というのも無理だろう。しゃべるのが苦手すぎると、客商売は難しいだろうに……
そんなことを考えつつ、シンゾウは前の居酒屋の様子を女に教えた。良心的とは言えない価格と冷凍食品以下の料理のせいで、客が定着しなかったのだろう、という推測に、女はほっとしたように頷いた。
「じゃあ、ヤクザともめたとか、食中毒とかじゃないんですね?」
「それはありませんね。このあたりはわりと治安がいいんです。ヤクザもチンピラも見かけませんし、食中毒を出したって話も聞きません。単に前の店主のやり方が下手だっただけでしょう」
「よかった……。同じ居酒屋をやる以上、前の店が変なことをやってたら影響を受けちゃうかな、って心配だったんです」
「影響……? それは大丈夫でしょう。店の名前だって変えますよね?」
「もちろん。でも、居酒屋って案外『あのあたりにある店』ぐらいの認識で、店名まで覚えていないこともあるでしょう? 『商店街の真ん中ぐらいにある居酒屋だろ? 前に食中毒を出したよな?』なんて言われちゃったら嫌だなーって」
「なるほど……しっかりしてますね。旦那さんとは……おっと……」
口が滑ったとはこのことだ。日頃から妻にも、あなたは辛辣すぎる、正しければなにを言ってもいいわけではない、と叱られるぐらいだ。ましてや、よその店主をどうこう言うのは大問題である。
ところが、慌てて頭を下げまくったシンゾウに、女は呵々大笑だった。
「そんなに謝らなくても大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる?」
「ええ。うちの人、本当に口が重くて、誤解されることも多くて……。あ、でも、考え方はしっかりしてるんですよ。前の店の様子を調べなきゃ、って言い出したのもあの人なんです」
「そうだったんですか……。いや、それにしたって失礼すぎました」
「いいんですって。私はむしろ安心しました。ご近所に、こんなにはっきり言ってくださる方がいるのは嬉しいです」
「煙たくないですか?」
「ぜんぜん。私たちが変なことをやってたら、きっと注意してもらえるだろうなって思えます」
「そいつはどうも……」
「この話をしたら、きっと夫はあのお店を借りることにすると思います。そうしたらご近所さんになります。よろしくお願いしますね」
女は深々と頭を下げて、店を出ていった。
一月末の昼下がり、前は別々に買い物に来た夫婦が今度は揃って現れた。
男はスーツではなく襟のあるシャツにジャケット姿だったが、前に来たときよりは明らかに改まった服装に、シンゾウは思わず笑みを浮かべた。
「お決まりになりましたか?」
男は無言で頭を下げただけ、口を開いたのはやはり女のほうだった。
「おかげさまで。これから少し手を入れて、それが終わり次第店を開けたいと思います」
「それはよかった。楽しみにしていますよ」
「ありがとうございます。それで、工事が入るとうるさくなるので、近隣の方にご挨拶に上がりたいんですが、どこまでお伺いしたらいいのかわからなくて……」
「挨拶なら工事屋がするんじゃないですか?」
「もちろん工事屋さんは行かれるでしょうけれど、店を開いてお世話になるのは私たちですから、やっぱり私たちもご挨拶したほうがいい、ってこの人が……」
そう言いながら、女は男を見た。
――なるほど、いつもこうやってフォローしてるってわけか……
実際に男の考えかどうかはわからない。まるきり嘘だとは思わないが、ふたり一緒に考えた可能性は高い。それでも男の手柄にすることで、男の印象がぐっと上がる。なかなか見事な采配だった。
「そうですか。そうした意味での挨拶なら、できれば全部の店に……」
「あ、お店はもちろん全部回らせていただくつもりです。お聞きしたいのは、それ以外にも伺ったほうがいいところがあるかどうかなんです」
「それ以外?」
「裏手にアパートが一棟と、お店をやられていないお宅が何軒かありますよね?」
立地から考えて、この商店街の利用者である可能性は高そうだ。やはり一声かけておくべきだと思うが、人によっては煩わしいと思うかもしれない、と女は言う。
あまりにも心配そうな様子に、シンゾウは思わず顔をほころばせてしまった。
「そこは気にしなくて大丈夫です。この町は、今時珍しいぐらい付き合いが深いんです。商いをしている人間もそうじゃない人間もツーカー。むしろあんた方のほうが煩わしく思うかもしれません」
「ツーカーですか……。古くから住んでいらっしゃる方ばかりなんでしょうね……。私たち、ちゃんと受け入れていただけるでしょうか……」
「馬鹿なこと言うなよ」
そこで初めて男が口を開いた。眉間には深く皺が寄っている。
また女が代弁するのかと思いきや、彼女は黙って男の言葉を待っている。男はちらりと女を見たあと、思い切ったように話し始めた。
「俺たち、この商店街で何度も買い物をしてみただろ。こちらはもちろん、八百屋だって魚屋だって肉屋にだって行ってみた。みんな気持ちのいい商いをしていたじゃないか」
「そうだったわね。八百屋さんは、持ち帰るのが大変だからお葱や大根を切ってあげようか、って言ってくださったし、魚屋さんはアラがあるからよかったら持っていくかって訊いてくださった」
「肉屋が秤にのせたのは、頼んだ量ぴったりだった。あれはすごい技だ」
「びっくりしたわよね。にもかかわらず、あとからお肉をちょっと足してくれた。おまけだよ、って……。私たち、お馴染みでもなんでもないのに……」
「な? しかも値段が変わらないように値札シールを打ち出したあとで、だぞ。ああいう商いをする人たちが、新参者だからって仲間はずれにするわけがない。俺たちがちゃんとしてさえいれば、受け入れてくれるさ」
「そのとおり!」
シンゾウは思わずレジカウンターを手で打った。
客を分け隔てしない――頭ではわかっていても、実行しづらいことだ。ついつい馴染みの客には親切にしたくなるし、一見さんには一線引きたくなるのが人というものだ。にもかかわらず、この商店街では平等な接客ができている。それが喜ばしいのはもちろん、それ以上に、接客を見た男が「仲間はずれになんてするわけがない」と断言してくれたのが嬉しかった。
しかも、男は「俺たちがちゃんとしてさえいれば」と前提条件までつけた。まさに、前に女が言っていたとおり、口が重くて誤解を受けやすいが考え方はしっかりしていると思える男だった。
「この町なら大丈夫、あんた方なら大丈夫。そう言わせてもらうよ」
言わせてもらいます、ではなく、言わせてもらうよ――ほんの少し砕けた口調にシンゾウは、自分がすでにこの夫婦を『この町の住人』として受け入れたことを感じる。そして彼らがよりスムーズに仲間入りができるよう、あれこれ手助けしてやろうという気持ちになった。
「できれば挨拶回りは裏通りまで行ったほうがいい。とはいえ、一軒家はほとんどが年寄りだから夜が早いし、アパートは共働きが多くて昼間は留守がち……こいつはちょいと面倒だな。間を取って夕方ぐらいに回るしかねえか」
そんなシンゾウの言葉に夫婦は顔を見合わせたあと、女がためらいがちに言った。
「夕方って、どちらもお忙しいでしょう? ご挨拶に上がって迷惑をおかけするのはちょっと違う気がします。やっぱりお昼と夜に分けて伺うことにします」
「そりゃあ、そのほうがいいには違いねえが……」
この商店街は駅から遠い。何度も来るのは大変だろう、と心配すると、女はにっこり笑って答えた。
「大丈夫です。実は私たち、この近くに住むことにしたんです。引っ越したあとなら、昼でも夜でも……」
「近くに住むって、このあたりのアパートって言えばあそこぐらいだが、空きはないはずだし……」
「アパートじゃなくて一軒家です。近くと言っても、歩いて十分ぐらいはかかりますけど」
「一軒家……もしかして二階建て、瓦屋根の?」
「たぶん、それです。これまで住んでいた方が近々養護施設に入るそうで、そのあとに……」
そういえば、少し離れたところに古い家があった。年寄りがひとりで住んでいたが、足腰が立たなくなる前に養護施設に入りたがっていると聞いた覚えがある。他に空き家はないし、きっとあの家のことだろう。借りたのか買ったのかはわからないが、この商店街に通ってくるには便利に違いない。
「そうか。なら大丈夫だな……。となると、あんた方は職場も住まいもこの町内ってことか」
「そうなんですよ。だからこそ、ご挨拶はしっかりと思って……」
「なるほどな。じゃあ、とりあえず『魚辰』に面通しからだな。おーい、サヨ!」
シンゾウは店の奥に声をかける。すぐに妻のサヨが出てきた。
「はいはい、なんでしょ? あら、もうご挨拶回り?」
サヨは夫婦者に軽く会釈した。夫婦もぺこりと頭を下げる。『挨拶回り』と言うところを見ると、事情はわかっているのだろう。もしかしたら、シンゾウが不在のときに買い物に来たのかもしれない。こいつは話が早い、とシンゾウは白衣を脱ぎながら言った。
「ちょいと『魚辰』に行ってくるから、店番頼む」
「はいはい。ミチフミさんによろしくね」
『魚辰』の店主、ミチフミは現在の町内会長である。この町で商売をするにしても、住むにしても、ミチフミに紹介しておくほうがいい。目下、息子のミチヤを仕込むのにてんやわんやではあるが、もともと気のいい男だから、あれこれ便宜を図ってくれるだろう。
「お、薬屋じゃねえか。昼間っから珍しいな」
『魚辰』の前に着くか着かないかのうちに、威勢のいい声が飛んできた。
胸から下をすっぽり覆うゴムの前掛けに長靴、『魚屋でござい』と言わんばかりの姿で話しかけてきたのは店主のミチフミだ。店頭に息子はいないから、おそらく奥で魚を捌く練習でもしているのだろう。
「こんにちは、ミチフミさん。今日はちょっと紹介したい人がいて」
「紹介? なんだよ改まって」
そう言いながらシンゾウの後ろを見たミチフミは、小さく「お……」と声を上げた。夫婦は揃って頭を下げる。
「これが、うちの町内会長だ。気はちょいと短けえが、面倒見はいい。困ったことがあったらこの人に言えばいい。で、こっちは……」
そこで夫婦を紹介しようとしたシンゾウは、まだふたりの名前を知らないことに気づいて苦笑した。気配を察したのか、女がすかさず自己紹介を始める。
「今度、この先のお店をお借りすることになった久保田と申します」
「あーはいはい。不動産屋から聞いてる。居抜きで居酒屋をやるってご夫婦だな?」
「そうなんです。よろしくお願いしますね」
「こっちこそよろしくな」
そこで夫婦は、また揃って頭を下げた。
「でもって、家は高木さんのあとに入るんだってさ」
シンゾウの言葉に、ミチフミは急にしんみりして呟くように言った。
「高木さんか……。そういや、前に来たときに近々ここを離れるって言ってた。長い付き合いだから、寂しくなるな……」
「でもまあ、本人の望みどおり元気なうちに引っ越せるんだから、よかっただろう」
「だな。別れがあれば出会いもある、それが人生ってもんだ。そうか、『久保田さん』だな。覚えとくよ」
ミチフミがそう言いながらふたりの顔を見ているところに、奥から息子のミチヤが出てきた。
「親父、サバ終わったぜ」
「そうか。やけに早いな……見せてみろ」
ミチフミはふんぞり返って奥に入っていく。すぐに大きな声が聞こえた。
「てめえ、何度言えばわかるんだ! 早けりゃいいってもんじゃねえぞ! こんな『ぐだぐだ』が売りもんになるか!」
「そんなこと言ったって、サバは初めてなんだからしょうがねえだろ!」
「サバは初めてでも、アジはやったことあるだろ。この間のアジはけっこうまともだった。アジがこれぐらい捌ければ、サバを任せて大丈夫だろうと思ったのに」
ぶつぶつ言いながらミチフミが戻ってくる。後ろをついてきたミチヤが、夫婦の顔を見て目を輝かせた。
「あ……どうも! この間はありがとうございました!」
さっきまで不満たらたらだった口調もどこへやら、元気いっぱいに挨拶をする。
もちろんミチフミは怪訝な顔、シンゾウもおそらく同じような表情になっているだろう。まさかミチヤがこの夫婦を知っているなんて思いもしなかった。
「この間? どういうことだ?」
「俺がひとりで店番してたときに、この人が来て……」
「いらっしゃった、だろ。このトンチキ! それで?」
夫婦に向かって頭を下げ、ミチヤはまた話し始めた。
「やけにきれいに仕上がってると思ったら、この方に教えてもらったってわけか」
ミチフミは頭を左右に振り、呆れきった様子だ。
さっきこの夫婦は、商店街のあちこちで買い物をしてみたと言っていた。魚屋にも寄ったと聞いていたが、シンゾウも、まさか魚屋の跡取り息子にアジの捌き方を指南していたとは思ってもみなかった。
「この方たちっていうか、旦那さんだけど。俺が店番がてらアジの練習をしてるとこに通りかかって……たぶん、俺が四苦八苦してるのを見かねたんだと思う」
「そんなことがあったの?」
女が驚いたように言ったところを見ると、夫婦が揃って買い物をしたのとは別の日の出来事なのだろう。そんなに頻繁に商店街を訪れていたのか、とシンゾウはびっくりしてしまった。もちろん、ミチフミもまじまじと男を見ている。ふたりにじっと見つめられ、男が重い口を開いた。
「いや……商店街って休みと平日、昼と夜でも様子が違うから、両方見ておきたいと思って時間を変えて何度か来てみたんです。確かあのときは土曜の昼過ぎ、俺ひとりでした」
「……あ、もしかして参観日のとき?」
「そう。おまえは保育園に行ってた。その間にちょっと見てくるか、って……」
夫婦の会話から子どもがいることがわかる。しかも保育園に行くような小さな子どもだ。
子どもが増えるのは賑やかでいいな、などと思いながら、シンゾウは話に耳を傾けていた。
「もう……土曜日の商店街の様子が見たかったのなら、そう言ってくれればよかったのに。私、せっかくの参観日なのに、なんで一緒に来てくれないの、って怒ってたのよ」
「参観日ってなんか苦手なんだ……。それで、この商店街に来てふらふらしてたら、店先でこの子が包丁持ったまま固まってて、これじゃあアジが傷んじまうって、つい……」
もともとお節介焼きではない。ただただ魚をだめにするのが忍びなく声をかけてしまった、と男は照れくさそうにしている。余計なことだったなら申し訳ない、とまで……
それを聞いたミチヤは慌てて言った。
「ぜんぜんだよ! あのときのアジはぴかぴかですごくいいものだったんだ。そのせいで、包丁を入れる度胸が出なくて固まってた。こんなの俺が捌いていいもんじゃねえって……。そこに『さっさとウロコを取っちゃいな。睨めっこしてる間にも鮮度は落ちるよ』って声が聞こえて、ああ、そうか、やらなきゃって……」
親父みたいにでかい声でもなければ、叱る口調でもない。ウロコの次はゼイゴを取る、そのあと頭を落として……と、ただ淡々と次にすることを教えてくれた。練習していたのは三枚下ろしで、最初は骨に身がたくさん残ってしまったが、力加減を教わりながら二匹、三匹と捌いていくうちにどんどん上手くなって、十匹目にはかなりきれいに下ろすことができたのだ、とミチヤは嬉しそうに語った。
「その上、ぐちゃぐちゃになっちまったのをまとめて買ってくれた。『証拠隠滅だ』って……。おかげで、残ったのはきれいに下ろせたアジばっかり。珍しく親父にも褒められた。な、親父?」
ミチヤに顔を覗き込まれ、ミチフミは渋々のように頷く。
「確かに。二、三匹しか下ろしてねえにしては上手くできてた」
「だろ? あれで自信がついたんだ。もうアジは大丈夫、って。でもサバはアジよりでかいし、身も柔らかくて、やっぱりぐちゃぐちゃになっちまった」
さっきまで浮かんでいた誇らしげな表情はどこへやら、ミチヤは捌いたばかりのサバを見て、しょんぼりと肩を落とす。男は、そんなミチヤを力づけるように言った。
「大丈夫だ。アジが下ろせればサバもいける。さっき親父さんも言ってたけど、魚なんてどれも似たようなもんだ。サバはゼイゴがない分、アジより一手間少なくてすむぐらいだよ」
「そっか……確かにウロコを取って、頭を落として、内臓を出すのは同じだね」
「そのあと二枚か三枚に下ろす。必要なら皮を引く。基本はそれだけだ」
まあ、カレイやヒラメはちょっと違うし、ウナギやナマズは別物だけどな、と男は口の端だけで笑った。素直に頷くミチヤを見て、ミチフミが不満そうに言う。
「おいミチヤ、それは俺が散々っぱら教えたことだろ!」
「だーかーらー! 親父みたいにがみがみ言われたら耳を素通りしちまうんだよ!」
「悪かったな! 元はと言えば、おまえの呑み込みが悪いからじゃねえか!」
「おいおい、久保田さんたちの前だ、そこらでやめとけよ」
やむなく割って入ったシンゾウの言葉に我に返ったのか、ミチフミは恥ずかしそうに耳の後ろを掻いた。
「申し訳ねえ。とにかく息子が世話になりました」
「いいえ……自分の子を仕込むのは特別な苦労があるでしょうから……」
「お……」
わかってるね、とミチフミは目尻を下げる。
どうやら町内会長は、この新しい住人を気に入ったらしい。馬が合わないからといって嫌がらせをするような質ではないけれど、気に入るに越したことはない。
まずはよかった、と安堵したシンゾウは、ついでに他の店も回ることにした。気分はまさしく『乗りかかった舟』だ。
平成四年一月四日の朝、シンゾウはいつもどおりに散歩に出た。
シンゾウは東京下町のとある商店街で『山敷薬局』を営んでおり、客はもっぱら近隣、この商店街に店を構える人や裏通りの住人である。
薬を売りたいのは山々だけれど、それ以前に元気でいてほしい。健やかな日常を保つために、治療よりも予防に力を注ぐ、というのが『山敷薬局』の経営方針である。だからこそシンゾウは日々近所を歩き、住人たちの健康観察に勤しんでいた。
――おや? ここ、新しい店が入るのかな……
シンゾウが足を止めたのは、商店街の中程に位置する空き店舗の前だった。
閉めっぱなしだった戸口が開放され、中から人の声がする。そっと覗いてみると、書類を持った男と四十歳前後と思しき夫婦がいる。おそらく男は不動産屋で、夫婦者は店を開きたくて物件を探しているところなのだろう。
ここは以前、居酒屋だった。シンゾウも一度入ったことがあるが、ビール一杯にしてもけっして安くはない値段だった上に、出てくるのは冷凍食品のほうがましだと思うような料理ばかり……うんざりして、それきり足が向かなかった。
この商店街には他に居酒屋どころか、飲食店すらない。だからこそ店主は、それでも客が来ると思ったようだが、駅から離れた商店街で、そんな強気な商売が通用するはずがない。長くは持たないという予想は見事に的中し、二年も経たないうちに潰れてしまったのだ。
それからすぐに『テナント募集中』と書かれた紙が貼られたが、これまで借り主が決まる様子はなかった。商店街の真ん中に空き店舗があるのは見栄えがよくない。どんな店でもとりあえず埋まってほしい。そして、できれば居酒屋であってほしい。
実はシンゾウは、かなりの酒好きだ。家で呑むのもいいが、たまには店で杯を傾けたい。となると、近場に気軽に寄れる居酒屋ができるのは大歓迎なのだ。
とはいえ、いつまでも覗き込んでいるわけにはいかない。成り行きが気になりつつも、シンゾウは再び歩き出した。
空き店舗に夫婦者が来ていたのを見てから半月ほどしたある日、男がひとり『山敷薬局』に入ってきた。冷蔵ケースから栄養ドリンクを一本取り出し、レジに持ってくる。
「飲んでいかれますか?」
ふらっと入ってきた客が一本だけ栄養ドリンクを買った場合は、その場で飲むことが多い。持ち運ぶのは面倒だし、ゴミを捨てていけて便利だからだろう。
当然この男もそうするだろうと思ったが、彼は意外にも首を左右に振った。
「いえ……持ち帰ります」
「じゃあ、袋にお入れしますね」
そこで男の顔に目をやったシンゾウは、ついまじまじと見つめてしまった。なんだか見覚えがある気がしたのだ。数秒考えて、はっとした。
――この前、空き店舗を見に来てたやつじゃねえか……ってことは、決まったのか?
そう考えながら、数枚の百円玉と引き替えに栄養ドリンクを渡す。男は軽く会釈して袋を受け取り、そのまま店を出ていった。
もしもあの店を借りるのであれば、新しいご近所さんになる。挨拶のひとつもしておきたいとは思ったけれど、どうして事情を知っているのだと不審がられるに違いない。覗き見が趣味だと思われるのも嫌なので、そのまま見送るしかなかった。
それから十分後、今度は女がやってきた。もちろん、さっきの男と一緒に店を見に来ていた女だ。
女は冷蔵ケースではなくペットボトルが並んでいる棚に向かい、お茶を一本持ってきた。
おそらく今日もあの空き店舗を見に来たのだろうけれど、ふたりで来ておきながら別々に飲み物を買いに来るのは珍しい。相手の飲み物の心配もできないほど気が利かない男なのだろうか。それでは店を構えたところで、上手くいきっこない……と心配になってしまった。
ところが、そんなシンゾウをよそに、支払いを済ませた女は至って気軽に話しかけてきた。
「ちょっとお訊ねしたいことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「この先にある空き店舗、前はどんなふうだったかご存じですか?」
「どんなふう、というと?」
「お店を閉めた事情とか……」
「え……?」
思わずぎょっとしたシンゾウに、女は慌てて説明を加えた。
「すみません。唐突すぎましたね。実は私、あのお店を借りようかと思ってるんです。で、居酒屋を始めようと思ってるんですけど、不動産屋さんの話によると、前も居酒屋だったみたいで……」
「ああ、なるほど……同じ居酒屋をやる身としては、前の店が閉めた事情を知りたいんですね?」
「そうなんです!」
――ははあ……さては、さっき来た旦那も同じことを訊きたかったんだな。ところが、訊き出せずに戻っちまって、やむを得ずかみさんが登場ってことか……
確かに、どう見ても訊き込みには向かないタイプだった。世間話からそれとなく、というのも、このかみさんみたいに単刀直入に、というのも無理だろう。しゃべるのが苦手すぎると、客商売は難しいだろうに……
そんなことを考えつつ、シンゾウは前の居酒屋の様子を女に教えた。良心的とは言えない価格と冷凍食品以下の料理のせいで、客が定着しなかったのだろう、という推測に、女はほっとしたように頷いた。
「じゃあ、ヤクザともめたとか、食中毒とかじゃないんですね?」
「それはありませんね。このあたりはわりと治安がいいんです。ヤクザもチンピラも見かけませんし、食中毒を出したって話も聞きません。単に前の店主のやり方が下手だっただけでしょう」
「よかった……。同じ居酒屋をやる以上、前の店が変なことをやってたら影響を受けちゃうかな、って心配だったんです」
「影響……? それは大丈夫でしょう。店の名前だって変えますよね?」
「もちろん。でも、居酒屋って案外『あのあたりにある店』ぐらいの認識で、店名まで覚えていないこともあるでしょう? 『商店街の真ん中ぐらいにある居酒屋だろ? 前に食中毒を出したよな?』なんて言われちゃったら嫌だなーって」
「なるほど……しっかりしてますね。旦那さんとは……おっと……」
口が滑ったとはこのことだ。日頃から妻にも、あなたは辛辣すぎる、正しければなにを言ってもいいわけではない、と叱られるぐらいだ。ましてや、よその店主をどうこう言うのは大問題である。
ところが、慌てて頭を下げまくったシンゾウに、女は呵々大笑だった。
「そんなに謝らなくても大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる?」
「ええ。うちの人、本当に口が重くて、誤解されることも多くて……。あ、でも、考え方はしっかりしてるんですよ。前の店の様子を調べなきゃ、って言い出したのもあの人なんです」
「そうだったんですか……。いや、それにしたって失礼すぎました」
「いいんですって。私はむしろ安心しました。ご近所に、こんなにはっきり言ってくださる方がいるのは嬉しいです」
「煙たくないですか?」
「ぜんぜん。私たちが変なことをやってたら、きっと注意してもらえるだろうなって思えます」
「そいつはどうも……」
「この話をしたら、きっと夫はあのお店を借りることにすると思います。そうしたらご近所さんになります。よろしくお願いしますね」
女は深々と頭を下げて、店を出ていった。
一月末の昼下がり、前は別々に買い物に来た夫婦が今度は揃って現れた。
男はスーツではなく襟のあるシャツにジャケット姿だったが、前に来たときよりは明らかに改まった服装に、シンゾウは思わず笑みを浮かべた。
「お決まりになりましたか?」
男は無言で頭を下げただけ、口を開いたのはやはり女のほうだった。
「おかげさまで。これから少し手を入れて、それが終わり次第店を開けたいと思います」
「それはよかった。楽しみにしていますよ」
「ありがとうございます。それで、工事が入るとうるさくなるので、近隣の方にご挨拶に上がりたいんですが、どこまでお伺いしたらいいのかわからなくて……」
「挨拶なら工事屋がするんじゃないですか?」
「もちろん工事屋さんは行かれるでしょうけれど、店を開いてお世話になるのは私たちですから、やっぱり私たちもご挨拶したほうがいい、ってこの人が……」
そう言いながら、女は男を見た。
――なるほど、いつもこうやってフォローしてるってわけか……
実際に男の考えかどうかはわからない。まるきり嘘だとは思わないが、ふたり一緒に考えた可能性は高い。それでも男の手柄にすることで、男の印象がぐっと上がる。なかなか見事な采配だった。
「そうですか。そうした意味での挨拶なら、できれば全部の店に……」
「あ、お店はもちろん全部回らせていただくつもりです。お聞きしたいのは、それ以外にも伺ったほうがいいところがあるかどうかなんです」
「それ以外?」
「裏手にアパートが一棟と、お店をやられていないお宅が何軒かありますよね?」
立地から考えて、この商店街の利用者である可能性は高そうだ。やはり一声かけておくべきだと思うが、人によっては煩わしいと思うかもしれない、と女は言う。
あまりにも心配そうな様子に、シンゾウは思わず顔をほころばせてしまった。
「そこは気にしなくて大丈夫です。この町は、今時珍しいぐらい付き合いが深いんです。商いをしている人間もそうじゃない人間もツーカー。むしろあんた方のほうが煩わしく思うかもしれません」
「ツーカーですか……。古くから住んでいらっしゃる方ばかりなんでしょうね……。私たち、ちゃんと受け入れていただけるでしょうか……」
「馬鹿なこと言うなよ」
そこで初めて男が口を開いた。眉間には深く皺が寄っている。
また女が代弁するのかと思いきや、彼女は黙って男の言葉を待っている。男はちらりと女を見たあと、思い切ったように話し始めた。
「俺たち、この商店街で何度も買い物をしてみただろ。こちらはもちろん、八百屋だって魚屋だって肉屋にだって行ってみた。みんな気持ちのいい商いをしていたじゃないか」
「そうだったわね。八百屋さんは、持ち帰るのが大変だからお葱や大根を切ってあげようか、って言ってくださったし、魚屋さんはアラがあるからよかったら持っていくかって訊いてくださった」
「肉屋が秤にのせたのは、頼んだ量ぴったりだった。あれはすごい技だ」
「びっくりしたわよね。にもかかわらず、あとからお肉をちょっと足してくれた。おまけだよ、って……。私たち、お馴染みでもなんでもないのに……」
「な? しかも値段が変わらないように値札シールを打ち出したあとで、だぞ。ああいう商いをする人たちが、新参者だからって仲間はずれにするわけがない。俺たちがちゃんとしてさえいれば、受け入れてくれるさ」
「そのとおり!」
シンゾウは思わずレジカウンターを手で打った。
客を分け隔てしない――頭ではわかっていても、実行しづらいことだ。ついつい馴染みの客には親切にしたくなるし、一見さんには一線引きたくなるのが人というものだ。にもかかわらず、この商店街では平等な接客ができている。それが喜ばしいのはもちろん、それ以上に、接客を見た男が「仲間はずれになんてするわけがない」と断言してくれたのが嬉しかった。
しかも、男は「俺たちがちゃんとしてさえいれば」と前提条件までつけた。まさに、前に女が言っていたとおり、口が重くて誤解を受けやすいが考え方はしっかりしていると思える男だった。
「この町なら大丈夫、あんた方なら大丈夫。そう言わせてもらうよ」
言わせてもらいます、ではなく、言わせてもらうよ――ほんの少し砕けた口調にシンゾウは、自分がすでにこの夫婦を『この町の住人』として受け入れたことを感じる。そして彼らがよりスムーズに仲間入りができるよう、あれこれ手助けしてやろうという気持ちになった。
「できれば挨拶回りは裏通りまで行ったほうがいい。とはいえ、一軒家はほとんどが年寄りだから夜が早いし、アパートは共働きが多くて昼間は留守がち……こいつはちょいと面倒だな。間を取って夕方ぐらいに回るしかねえか」
そんなシンゾウの言葉に夫婦は顔を見合わせたあと、女がためらいがちに言った。
「夕方って、どちらもお忙しいでしょう? ご挨拶に上がって迷惑をおかけするのはちょっと違う気がします。やっぱりお昼と夜に分けて伺うことにします」
「そりゃあ、そのほうがいいには違いねえが……」
この商店街は駅から遠い。何度も来るのは大変だろう、と心配すると、女はにっこり笑って答えた。
「大丈夫です。実は私たち、この近くに住むことにしたんです。引っ越したあとなら、昼でも夜でも……」
「近くに住むって、このあたりのアパートって言えばあそこぐらいだが、空きはないはずだし……」
「アパートじゃなくて一軒家です。近くと言っても、歩いて十分ぐらいはかかりますけど」
「一軒家……もしかして二階建て、瓦屋根の?」
「たぶん、それです。これまで住んでいた方が近々養護施設に入るそうで、そのあとに……」
そういえば、少し離れたところに古い家があった。年寄りがひとりで住んでいたが、足腰が立たなくなる前に養護施設に入りたがっていると聞いた覚えがある。他に空き家はないし、きっとあの家のことだろう。借りたのか買ったのかはわからないが、この商店街に通ってくるには便利に違いない。
「そうか。なら大丈夫だな……。となると、あんた方は職場も住まいもこの町内ってことか」
「そうなんですよ。だからこそ、ご挨拶はしっかりと思って……」
「なるほどな。じゃあ、とりあえず『魚辰』に面通しからだな。おーい、サヨ!」
シンゾウは店の奥に声をかける。すぐに妻のサヨが出てきた。
「はいはい、なんでしょ? あら、もうご挨拶回り?」
サヨは夫婦者に軽く会釈した。夫婦もぺこりと頭を下げる。『挨拶回り』と言うところを見ると、事情はわかっているのだろう。もしかしたら、シンゾウが不在のときに買い物に来たのかもしれない。こいつは話が早い、とシンゾウは白衣を脱ぎながら言った。
「ちょいと『魚辰』に行ってくるから、店番頼む」
「はいはい。ミチフミさんによろしくね」
『魚辰』の店主、ミチフミは現在の町内会長である。この町で商売をするにしても、住むにしても、ミチフミに紹介しておくほうがいい。目下、息子のミチヤを仕込むのにてんやわんやではあるが、もともと気のいい男だから、あれこれ便宜を図ってくれるだろう。
「お、薬屋じゃねえか。昼間っから珍しいな」
『魚辰』の前に着くか着かないかのうちに、威勢のいい声が飛んできた。
胸から下をすっぽり覆うゴムの前掛けに長靴、『魚屋でござい』と言わんばかりの姿で話しかけてきたのは店主のミチフミだ。店頭に息子はいないから、おそらく奥で魚を捌く練習でもしているのだろう。
「こんにちは、ミチフミさん。今日はちょっと紹介したい人がいて」
「紹介? なんだよ改まって」
そう言いながらシンゾウの後ろを見たミチフミは、小さく「お……」と声を上げた。夫婦は揃って頭を下げる。
「これが、うちの町内会長だ。気はちょいと短けえが、面倒見はいい。困ったことがあったらこの人に言えばいい。で、こっちは……」
そこで夫婦を紹介しようとしたシンゾウは、まだふたりの名前を知らないことに気づいて苦笑した。気配を察したのか、女がすかさず自己紹介を始める。
「今度、この先のお店をお借りすることになった久保田と申します」
「あーはいはい。不動産屋から聞いてる。居抜きで居酒屋をやるってご夫婦だな?」
「そうなんです。よろしくお願いしますね」
「こっちこそよろしくな」
そこで夫婦は、また揃って頭を下げた。
「でもって、家は高木さんのあとに入るんだってさ」
シンゾウの言葉に、ミチフミは急にしんみりして呟くように言った。
「高木さんか……。そういや、前に来たときに近々ここを離れるって言ってた。長い付き合いだから、寂しくなるな……」
「でもまあ、本人の望みどおり元気なうちに引っ越せるんだから、よかっただろう」
「だな。別れがあれば出会いもある、それが人生ってもんだ。そうか、『久保田さん』だな。覚えとくよ」
ミチフミがそう言いながらふたりの顔を見ているところに、奥から息子のミチヤが出てきた。
「親父、サバ終わったぜ」
「そうか。やけに早いな……見せてみろ」
ミチフミはふんぞり返って奥に入っていく。すぐに大きな声が聞こえた。
「てめえ、何度言えばわかるんだ! 早けりゃいいってもんじゃねえぞ! こんな『ぐだぐだ』が売りもんになるか!」
「そんなこと言ったって、サバは初めてなんだからしょうがねえだろ!」
「サバは初めてでも、アジはやったことあるだろ。この間のアジはけっこうまともだった。アジがこれぐらい捌ければ、サバを任せて大丈夫だろうと思ったのに」
ぶつぶつ言いながらミチフミが戻ってくる。後ろをついてきたミチヤが、夫婦の顔を見て目を輝かせた。
「あ……どうも! この間はありがとうございました!」
さっきまで不満たらたらだった口調もどこへやら、元気いっぱいに挨拶をする。
もちろんミチフミは怪訝な顔、シンゾウもおそらく同じような表情になっているだろう。まさかミチヤがこの夫婦を知っているなんて思いもしなかった。
「この間? どういうことだ?」
「俺がひとりで店番してたときに、この人が来て……」
「いらっしゃった、だろ。このトンチキ! それで?」
夫婦に向かって頭を下げ、ミチヤはまた話し始めた。
「やけにきれいに仕上がってると思ったら、この方に教えてもらったってわけか」
ミチフミは頭を左右に振り、呆れきった様子だ。
さっきこの夫婦は、商店街のあちこちで買い物をしてみたと言っていた。魚屋にも寄ったと聞いていたが、シンゾウも、まさか魚屋の跡取り息子にアジの捌き方を指南していたとは思ってもみなかった。
「この方たちっていうか、旦那さんだけど。俺が店番がてらアジの練習をしてるとこに通りかかって……たぶん、俺が四苦八苦してるのを見かねたんだと思う」
「そんなことがあったの?」
女が驚いたように言ったところを見ると、夫婦が揃って買い物をしたのとは別の日の出来事なのだろう。そんなに頻繁に商店街を訪れていたのか、とシンゾウはびっくりしてしまった。もちろん、ミチフミもまじまじと男を見ている。ふたりにじっと見つめられ、男が重い口を開いた。
「いや……商店街って休みと平日、昼と夜でも様子が違うから、両方見ておきたいと思って時間を変えて何度か来てみたんです。確かあのときは土曜の昼過ぎ、俺ひとりでした」
「……あ、もしかして参観日のとき?」
「そう。おまえは保育園に行ってた。その間にちょっと見てくるか、って……」
夫婦の会話から子どもがいることがわかる。しかも保育園に行くような小さな子どもだ。
子どもが増えるのは賑やかでいいな、などと思いながら、シンゾウは話に耳を傾けていた。
「もう……土曜日の商店街の様子が見たかったのなら、そう言ってくれればよかったのに。私、せっかくの参観日なのに、なんで一緒に来てくれないの、って怒ってたのよ」
「参観日ってなんか苦手なんだ……。それで、この商店街に来てふらふらしてたら、店先でこの子が包丁持ったまま固まってて、これじゃあアジが傷んじまうって、つい……」
もともとお節介焼きではない。ただただ魚をだめにするのが忍びなく声をかけてしまった、と男は照れくさそうにしている。余計なことだったなら申し訳ない、とまで……
それを聞いたミチヤは慌てて言った。
「ぜんぜんだよ! あのときのアジはぴかぴかですごくいいものだったんだ。そのせいで、包丁を入れる度胸が出なくて固まってた。こんなの俺が捌いていいもんじゃねえって……。そこに『さっさとウロコを取っちゃいな。睨めっこしてる間にも鮮度は落ちるよ』って声が聞こえて、ああ、そうか、やらなきゃって……」
親父みたいにでかい声でもなければ、叱る口調でもない。ウロコの次はゼイゴを取る、そのあと頭を落として……と、ただ淡々と次にすることを教えてくれた。練習していたのは三枚下ろしで、最初は骨に身がたくさん残ってしまったが、力加減を教わりながら二匹、三匹と捌いていくうちにどんどん上手くなって、十匹目にはかなりきれいに下ろすことができたのだ、とミチヤは嬉しそうに語った。
「その上、ぐちゃぐちゃになっちまったのをまとめて買ってくれた。『証拠隠滅だ』って……。おかげで、残ったのはきれいに下ろせたアジばっかり。珍しく親父にも褒められた。な、親父?」
ミチヤに顔を覗き込まれ、ミチフミは渋々のように頷く。
「確かに。二、三匹しか下ろしてねえにしては上手くできてた」
「だろ? あれで自信がついたんだ。もうアジは大丈夫、って。でもサバはアジよりでかいし、身も柔らかくて、やっぱりぐちゃぐちゃになっちまった」
さっきまで浮かんでいた誇らしげな表情はどこへやら、ミチヤは捌いたばかりのサバを見て、しょんぼりと肩を落とす。男は、そんなミチヤを力づけるように言った。
「大丈夫だ。アジが下ろせればサバもいける。さっき親父さんも言ってたけど、魚なんてどれも似たようなもんだ。サバはゼイゴがない分、アジより一手間少なくてすむぐらいだよ」
「そっか……確かにウロコを取って、頭を落として、内臓を出すのは同じだね」
「そのあと二枚か三枚に下ろす。必要なら皮を引く。基本はそれだけだ」
まあ、カレイやヒラメはちょっと違うし、ウナギやナマズは別物だけどな、と男は口の端だけで笑った。素直に頷くミチヤを見て、ミチフミが不満そうに言う。
「おいミチヤ、それは俺が散々っぱら教えたことだろ!」
「だーかーらー! 親父みたいにがみがみ言われたら耳を素通りしちまうんだよ!」
「悪かったな! 元はと言えば、おまえの呑み込みが悪いからじゃねえか!」
「おいおい、久保田さんたちの前だ、そこらでやめとけよ」
やむなく割って入ったシンゾウの言葉に我に返ったのか、ミチフミは恥ずかしそうに耳の後ろを掻いた。
「申し訳ねえ。とにかく息子が世話になりました」
「いいえ……自分の子を仕込むのは特別な苦労があるでしょうから……」
「お……」
わかってるね、とミチフミは目尻を下げる。
どうやら町内会長は、この新しい住人を気に入ったらしい。馬が合わないからといって嫌がらせをするような質ではないけれど、気に入るに越したことはない。
まずはよかった、と安堵したシンゾウは、ついでに他の店も回ることにした。気分はまさしく『乗りかかった舟』だ。
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