居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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おかわり!

おかわり!-3

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「みたいだね。それで、もうひとりの先輩――山川さんっていうんだけど、その人が俺のことを紹介してくれて、この店に連れてきてくれたんだ」
「山川さんって、育也の上司の人なの?」
「いや、部署は違うし、仕事の絡みはほとんどない。慰安旅行のバスでたまたま隣同士になったんだ。いろいろ話してるうちに気に入ってもらえたらしくて、なにかとお世話になってる。それで、どうせろくなもの食ってないんだろ、いい店を知ってるから連れていってやるって。ついでにそのとき、これは俺が書いたんだって富田さんがレビューを見せてくれた」

 察するところ、富田というのが『ケンさん』なのだろう。そういえば、レビュー記事のユーザー名も『ケン』になっていた。店の人間ではないかと疑っていたが、常連のひとりだったとは……
 ま、当たらずといえども遠からずよね、と思っていると、店主が困ったように言う。

「ちょっと褒めすぎですよね、あの記事。恥ずかしいです」
「別にいいじゃない。あれってあくまでも個人の感想だし」

 それに嘘じゃないし、と言う育也に、店主の妹も加勢する。

「そうそう。なんといってもケンさんは、手羽先スペシャルの大ファンだもの。手羽先スペシャルがある日にケンさんが来て、注文しなかったことなんてないじゃない。あれでも抑えて書いたほうだと思うよ」
「いいなあ……そんなに遭遇率が高いなんて」

 そこでオーブントースターが焼き上がりを知らせ、店主が手羽先を取り出した。すかさず妹がお盆を抱えてカウンターを回り込む。

「お待たせしました、手羽先スペシャルです!」

 目の前に皿が置かれるやいなや、育也が叫んだ。

「馨ちゃん、ビール! 今すぐ!」
「はーい!」

 だが、その返事よりも早く、店主が冷蔵庫からグラスとビール瓶を取り出していた。外に出したとたん白く曇ったグラスを育也に渡し、素早く栓を抜いてビールを注ぐ。流れるような動作、しかもビールの泡は多すぎず少なすぎず、見事な塩梅あんばいだった。

「これこれ! 同じビールでも美音さんに注いでもらうと全然違うんだよな!」

 既に減ってしまっている朋香のグラスに軽くぶつけて乾杯したあと、育也はビールをグビグビ半分程まで呑んだ。

「あー旨い! さてさて、手羽先……。熱いから気を付けろよ」

 自分より先に朋香の取り皿にひとつ入れてくれるところが、育也の優しさだ。同い年の恋人が頼りないように思える日もあるけれど、彼は思いやりに富んでいて、どんな愚痴にも真剣に耳を傾け共感してくれる。勝ち気で、なにかとストレスを受けやすい接客業についている自分にはぴったりの相手だ。
 もしかしたら、度量の大きさは彼のほうが上かもしれないが、それに甘えてばかりじゃだめだ。きつい言葉を使って愛想を尽かされないように気を付けなくては……
 いつにない自省に、久しぶりのデートでちょっと感傷的になっているのかな、と苦笑しつつ、朋香はおしぼりで手をぬぐう。そして、育也にならって手羽先を手づかみでがぶりとやった。

「あつっ!」
「だから熱いって言っただろ。大丈夫か?」

 慌てて生姜しょうがレモンサワーをごくごく呑む朋香に、育也が心配そうに声をかけてきた。無言で頷きながらも、また手羽先を一口かじる。
 タバスコの辛さが、熱を通したことで和らげられている。ほのかな辛さと醤油しょうゆの香ばしさに粉末のガーリックがベストマッチ、続け様に何本でも食べたくなってしまう。あのレビュー記事は嘘でもヤラセでもないと実感させられる味だった。


 しばらく手羽先を堪能し、最後の一本が消えたタイミングで、夏野菜の煮浸しが運ばれてきた。
 手の平サイズの中深皿ちゅうぶかざらにナスの紺、カボチャの黄、オクラの緑、パプリカの赤……とトロピカルな色合いが並び、間に紛れているミョウガの薄桃色の優しさを引き立てている。絵のような一皿に、どれかを食べてバランスを崩すことが残念にすら思える。
 けれど、食べるために供されたのだから……と、意を決してナスをひとつ口に運んだ。
 じゅわり……
 ナスからにじみ出た煮汁が口の中に広がる。少し甘めな味付けで、ナスのとろけるような食感とてっぺんに添えられていた白髪葱しらがねぎのしゃりしゃりとした歯触りの対比が見事だ。ふわりと漂うのは胡麻ごまの香り、きっと胡麻油を使っているのだろう。

「さっきの手羽先は熱々だったけど、こっちはしっかり冷えてるのね」
「冷たい料理は夏のご馳走だな」

 最高、と言い合いながら、ふたりはそれぞれの飲み物をせっせと減らす。もうあと少し……というところで店主から声がかかった。

「おふたりとも、お飲み物のおかわりはいかがですか?」
「うーんと……ちゅうハイ……いや、やっぱり今日はトモもいるし、日本酒を試してみるかな」
「わあ、イクヤさん、とうとう日本酒デビューだね!」

 店主の妹が嬉しそうに言った。一方、店主は少し心配そうな顔をしている。
 いろいろ書かれていたレビューによると、この店の『売り』のひとつは日本酒の品揃えらしいのに、と怪訝けげんに思っていると、育也が理由を説明してくれた。

「実は俺、会社の人と呑むときはビールや酎ハイがせいぜいで、日本酒は呑んだことがないんだ」
「え、そうなの? だって私といるときは……」

 学生時代からの付き合いだから、ふたりで呑みに行ったことは数限りなくある。二十歳になったばかりのころは別にして、ここ数年は日本酒を呑む機会も増えてきていたのだ。だから、会社の人とは日本酒を呑まないと言われると、首を傾げざるを得なかった。
 育也は、朋香の反応を見てさもありなんという顔をする。

「日本酒って、本当にいろいろあるだろ? で、俺はけっこう好みもはっきりしてるし、これは違うなーって思うこともある。そんなとき、トモがいれば『よろしく』って呑んでもらえるけど、会社の人相手にそんなことは頼めない。好みじゃない酒にあたっちゃったら嫌だな、と思ったら、やっぱり日本酒はやめとくか、ってなっちゃうんだよ」
「育也、それって、私ならどんなお酒でもほいほい呑み干す、ものすごい呑兵衛のんべえって言ってるようなものじゃない」
「誰もそんなこと言ってないじゃないか。トモはどんな酒でも幅広く楽しめるタイプ、でもって俺はトモに絶大の信頼感を持ってるってだけだよ」
「ものは言いようね」

 苦笑いでそう言ったあと、ふと見ると、店主姉妹が珍しいものでも見るような目を育也に向けていた。

「イクヤさん、ヤマちゃんやケンさんといるときとは全然違うんだね」

 これが『素』のイクヤさんかーと、妹は目を丸くしている。だが、さすがに店主は特に突っ込むことなく、育也にたずねた。

「お料理、他にもなにかお作りしましょうか?」

 手羽先は完食、夏野菜の煮浸しもミョウガとオクラがひとつ残っているだけだ。飲み物を追加するなら、さかなもほしい。そこでふたりは、『本日のおすすめ』を覗き込んだ。

「この中で、今日一番のおすすめはどれかしら?」
「うわ、それをくか……」
「え、だめなの?」
「だってそうだろ。店の人にそんなこと訊いたって『全部です』としか答えようがないじゃないか」

 注文を決めかねて『おすすめ』を訊ねたとき、苦虫を噛み潰したような顔で『全部だよ』と答える店主がいる。すすめられないようなものを品書きに載せるわけがない、と言いたいのだろう。
 けれど、朋香はそれでもやっぱり順番があると思っている。だからこそ訊ねるわけだが、育也に言わせれば愚問中の愚問、なおかつ失礼きわまりない質問らしい。
 だが、そんな朋香の『愚問』に店主は気分を害した様子もない。

「訊きたくなる気持ちはよくわかります。それに、おっしゃるとおり、おすすめの順番ってやっぱりあるんですよ」

 そして店主は、いとも簡単に『今日のピカイチ』を教えてくれた。

「今日一番のおすすめは『肉じゃが』です」
「え……肉じゃが……」

 ――そんなの家でも食べられる。肉じゃがはおふくろの味の代表みたいに言われているけれど、案外簡単な料理だし、私にだって作れる。
 そんな思いが顔に出ていたのか、店主はくすりと笑って付け加えた。

「肉じゃがとはいっても、今日のは、塩味なんです」
「肉じゃがなのに、塩味なの?」
「はい。ジャガイモとタマネギと豚バラ肉を塩味で煮込んであります。正直に言えば、ご飯のおかずにはちょっと物足りないかなと感じるかもしれません。でも、お酒のおつまみにはちょうどいいんですよ」
「豚肉なんだ……」
「ええ。うちでは、醤油しょうゆ味のときは牛肉を使うことが多いんですけど、塩味のときは豚です。塩で煮込んだ豚肉ってすごく美味しいんですよ」

 お試しになりますか? と店主に微笑まれ、朋香はこっくり頷いた。
 塩味の肉じゃがなんて食べたことがない。もちろん、他に出している店も知らない。それに朋香は普段、肉じゃがには牛肉を使っている。塩味の豚肉バージョンを食べてみて気に入れば、料理のバリエーションをひとつ増やせるのだ。なにより豚肉は牛肉よりリーズナブルだ、試してみない手はなかった。

「では、ご用意しますのでしばらくお待ちを。その間にお酒を……」

 店主は、小鍋に一皿分の肉じゃがを移して火にかけたあと、冷蔵庫から酒瓶を取り出した。
 ラベルには『涼々りょうりょう』という字が見える。いかにも夏らしい……と思っていると育也も同じように感じたらしく、嬉しそうな声を上げる。

「なんかこれ、夏っぽくていいね」
「はい、夏限定のお酒です。この『開運かいうん 特別純米 涼々』は静岡の土井酒どいしゅ造場ぞうじょうさんが造っているお酒なんですけど、さっぱりして呑みやすい上に、お米の美味しさがたっぷり詰まってるんです。塩味の肉じゃがのあっさりした味にもぴったりです。日本酒をあまり呑まれない方は、日本酒ってアルコール感が強くて苦手だっておっしゃることもあるんですが、このお酒なら大丈夫。すいすい呑めちゃいます」

 説明しながらも店主の手は止まることなく、『すいすい呑めちゃいます』と言い終わると同時に、グラスに酒を注ぎ終えた。枡にまでたっぷり溢れさせた酒を、流れるような仕草でカウンターにのせ、にっこり笑って片手で示す。

「『開運 特別純米 涼々』です。どうぞ」

 ふたり同時に手を伸ばし、そっと目の前に下ろす。なみなみと酒が入っているが、グラスは枡の中に立てられているから、零れたところで支障はない。それでも、恐る恐るになってしまうのが不思議だと思いつつ、隣の育也に目配せをした。とはいっても大した意味はなく、ただの乾杯代わりだ。わざわざしずくが垂れるとわかっているグラスを合わせる必要はない。もちろん、育也もそれはわかっているから、最小限の会釈えしゃくこたえ、これまた同時にグラスに口をつけた。

「あ……軽い」

 思わず漏れた一言に、育也が苦笑する。

「仮にも日本酒を呑んで、一言目の感想が『軽い』かよ!」
「え、でもこれ、本当にすいすいいけちゃう感じじゃない?」
「まあ確かに……日本酒を呑み慣れない俺でも全然抵抗ない」
「でしょ? 『生』ならこういう感じも多いけど、これはそうじゃないわよね?」
「はい。生酒なまざけじゃありません」
「ってことは、ちゃんと冷蔵庫に入れておけば味もそんなに変わらない?」
「まったく変わらないということはありませんが、ある程度は……」
「それは嬉しいな」

 そこで育也は、改めてカウンターの向こうに置かれた酒瓶を見た。きっと銘柄を覚えてあとで手に入れるつもりだろう。
 気に入った日本酒に出会っても、家用に買うのはためらわれる。毎日晩酌をするわけではない人間であればなおさら、呑み切るのに時間がかかる日本酒は二の足を踏むだろう。『生酒』は日本酒に不慣れな人間にも呑みやすいが、味が変わりやすい。だが、この『開運 特別純米 涼々』は生酒ではないから多少ゆっくり呑んでも大丈夫……育也はそう考えたに違いない。

「イクヤさん、写真を撮っていけば? このお酒、四合入りの瓶もあるし」

 夏が終われば買えなくなってしまうが、今なら通販でも手に入る、と店主の妹にすすめられ、育也は早速スマホを取り出した。
 パシャリ、と正面からラベルを撮ったのを確認し、店主が後ろ側のラベルをこちらに向けてくれる。

「よろしければこちらも。お酒の名前ってけっこう似たものがたくさんありますし、蔵の名前がわかってるほうが探しやすいですから」
「ありがと」

 そして育也は蔵元や正確な酒の名前が記載された後ろ側のラベルをカメラに収め、安心したようにスマホをしまった。

「よし。この酒なら俺にも呑めるし安心、安心」
「安心、安心って、安心じゃなかったことがあるの?」
「うん。前に取引先の人と呑んだとき、うっかり、最近ちょっと日本酒に興味が……みたいなことを言っちゃったことがあるんだ。そしたらその人も日本酒党だったらしくて、大喜び」
「よかったじゃない」

 取引相手なら、そういった意気投合はプラス材料だ。仕事の合間に日本酒談義をすればコミュニケーションが促進され、仕事もスムーズに運ぶだろう。
 けれど育也は、ちょっと困った顔で言う。

「日本酒談義で終わればよかったんだけど、次にその人の会社に行ったとき、これを呑んでみろって酒を渡されちゃったんだ。なんでも俺がアポを入れたあと、わざわざ買いに行ってくれたらしい」
「いい人じゃない」
「まあね。わざわざ用意してくれたのに断るわけにもいかないし、ありがたくもらって帰った。でも呑んでみたらあんまり好きなタイプじゃなくて、結局トモに呑んでもらった」
「あ、もしかしてあの山廃やまはい?」
「だったっけ? 茶色い瓶でけっこう酸味がある……」
「間違いないわ。あれは確か……」

 朋香が口にした銘柄を聞いて、店主はさもありなんという様子で言った。

「かなり重い飲み口の、しっかりしたお酒です。濃厚な味付けのお料理にはぴったりですし、日本酒がお好きな方からは人気もあります。でも、日本酒に慣れていない上におつまみがなかったり、乾き物だったりするとちょっと辛いかもしれませんね」
「だよね。俺の家にここみたいな上等なさかながあるわけないし、柿ピーやさきいか相手に呑もうとしたんだよ。で、惨敗してトモ任せ」
「やけに感想を詳しくいてくると思ったら、そういうわけだったのね」

 育也は、朋香の感想を自分のものとして取引相手に伝えたらしい。おかげで相手も喜んでくれて面目をほどこしたが、それ以来日本酒を自宅用に買うことが恐くなったという。

「居酒屋なら味が合わなくてもせいぜい一合だけど、自宅用に買うと大きな瓶になっちゃうし、毎度毎度トモに呑ませるわけにもいかないだろ?」
「なんで? 別にいいわよ、私は」
「トモにだって好きな酒があるじゃないか。俺が酒を押しつけたら好きなのが呑めなくなるよ。いくら酒が好きな人だって、酒ならなんでもいいってわけじゃないし」

 むしろ酒が好きで、酒をよく知っていればいるほど、好きなタイプが明確になる。外で呑むときはお試し感覚もありだが、家ではお気に入りの銘柄をゆっくり味わいたいのではないか、と育也は言うのだ。
 店主姉妹も大きく頷いている。

「イクヤさんのおっしゃるとおりです。お店で呑むお酒は一杯ですみますが、家用に買うのは少なくても四合。今は小さな瓶やカップ酒も豊富になってはきましたが、それでも全体から見ればごく一部ですものね」
「お試しは外呑みに任せて、家ではお気に入りをじっくり……正論だよ、イクヤさん。プレゼントでも、お酒が好きな人だからお酒っていうのは、ちょっと違うのかもね」
「そうかなあ……」

 朋香は育也の意見には賛同しかねた。彼が、朋香の好みを気にしてくれるのは嬉しいけれど、プレゼントというのは呑んだことがない酒を知る絶好の機会だ。それまでのお気に入りはさておき、『新しいお気に入り』を作りたいと考える呑兵衛のんべえはたくさんいるはず。かくいう朋香もそのひとりだった。

「人からいただいたお酒がすごく気に入ることだってあるでしょ? 世の中に知らないお酒なんていくらでもあるんだもの。知ってても、自分じゃ買わないってお酒も。挑戦なきところに成功なし。ばんばん買って、合わなかったらどんどん回してちょうだい」

 私にお任せあれ、と胸元を叩く朋香に、育也は呆れた目を向けた。

「なんだそれ。せっかく人が気を遣ってやってるのに……」
「ありがと。でも気にしないで。よっぽど合わなかったらお料理に使うし」
「とか言って……」

 四合瓶や一升瓶の日本酒を使い切るほど料理なんてしないだろ、と育也は突っ込んでくる。確かに、毎日料理をする人であってもその量の酒を使い切るのは大変だろう。

「まあ大丈夫よ。呑みたくないほど合わないお酒なんて滅多にないもん。ただし、よっぽど保管方法が悪くて味が変わり果てちゃってない限り、だけど」

 以前、やはり頂き物の日本酒が合わなかったことがあった。しかも冷蔵庫は一杯で入らない。早く呑まなければ……と思いながらも、仕事が忙しくていつの間にか日が過ぎてしまった。ふと気付いて呑んでみたら、前にはなかった嫌な酸味……。もともと合わない上に、変質した酒など呑めたものではなく、やむなく捨てたことがあった。

「捨てちゃったんですか……」

 店主が痛ましげ……いや、むしろ悲しそうと言うべき口調になった。酒をあきなうものとして、捨てられるというのは最悪の事態なのだろう。

「そうなの。私も申し訳ないとは思ったんだけど、呑むに呑めなくて……」

 そこで口を開いたのは店主の妹だった。

「だったらお風呂に入れればよかったのに」
「風呂……あ、酒風呂か! 確かにそれはいいかも。それなら多少味が変わっててもイケるし、トモは強いからドボドボ入れても平気だし」
「お風呂ねえ……。まあ、捨てるよりいいか……」
「化粧水を作るって手もあるよ」

 日本酒に精製水とグリセリンを入れると化粧水ができる。精製水もグリセリンもドラッグストアで簡単に買えるし、無添加だから肌が弱くて市販の化粧品が合わない人には打ってつけだと彼女は説明してくれた。

「化粧水! それはいいわね」

 朋香自身、肌は強いほうだが、同僚や友人には敏感肌の人がいる。ときどき泊まりに来ることもあるから、試しに使ってもらって、大丈夫そうならプレゼントすることもできる。口に合わない日本酒の使い方としては、けっこういいのでは、と朋香は思う。それでも、呑むために作られたものだからできれば呑みたいという思いは残った。

「とはいっても、よっぽどじゃないと化粧水にはしないかな。類友じゃないけど、私の友だちも呑兵衛のんべえが多いから『酒は呑むべし!』って怒られそうだし」

 朋香の言葉を聞いて、店主が本当に嬉しそうに微笑んだ。

「合わないと思うお酒でも、呑む温度やおつまみによっては美味しく感じることもあります。いろいろお試しくださいね」

 その言葉に、再利用は苦肉の策、まずは呑むことを考えてほしいという店主の思いが溢れていた。
 ――この人、本当にお酒が好きなんだ。私みたいにただの呑兵衛じゃなくて、お酒の美味しさを伝えたいって気持ちがすごく強い。だからこそ、家でも作れるような素材ばっかりで料理を作るし、趣向をらしたとしても、惜しげもなく秘訣を教えてくれるんだわ。店でも家でもいい、とにかくお酒を楽しんでって……。こんな店なら『ぼったくり』なんて物騒な名前でも、お客さんはつくに決まってる……っていうより、これぐらい近寄りがたい名前にしておかなきゃ、お客さんが溢れかえっちゃって大変だわ……

「お待たせしました」

 そんなことをぼんやり考えていた朋香は、店主の声で我に返った。
 すかさず、店主の妹が肉じゃがの鉢を運んでくる。早速ジャガイモを口に運び、涼やかな酒を追いかけさせた。ジャガイモの塩味と酒のほんのりした甘みがベストマッチで、ため息しか出てこない。しばらく肉じゃがと酒を楽しんだあと、朋香はしみじみ呟いた。

「ここに来られてよかった……」

 この店にだって、何も知らずに入ってくる猛者もさはいるだろう。物騒な名前に、少し及び腰になりながら、あるいは挑戦的な面持ちで。それでも、こんな料理や酒でもてなされれば、あっという間にファンになってしまう。それに料理や酒だけではなく、随所随所に店主姉妹の心遣いが感じられた。
 育也がにやりと笑って言う。

「だろ? 絶対気に入ると思ったんだ。ま、紹介してくれた先輩に感謝だな」

 誰かの紹介で、恐い店じゃないとわかっていれば、物騒な名前の暖簾のれんをくぐることは難しくない。それが、信頼に足る人物であればなおさらである。でも、紹介するほうだって相手を選ぶだろう。
 店の雰囲気を壊したり、迷惑をかけたりしないと信じられる相手にしか、紹介しないに決まっている。育也は先輩からそれだけの信頼を得ている――そう考えると、自然と笑みが零れた。

「なに、その笑い?」
「別に。本当にありがたいなーって。あ、お酒、もう一杯いただける?」
「はい、ただいま」

 店主が冷蔵庫を開け、酒瓶を取り出した。まるでお気に入りの宝石をジュエリーボックスから取り出すような仕草で……
 店主の様子を見ればわかる。この店は、酒や料理に全力を注いでいる。それが、この店の客を大事にするやり方なのだ。だからこそ、客もこの『ぼったくり』という店を大事に思い、守ろうとするのだろう。
 育也が自分にこの店を教えてくれたこと、温かく迎えられたこと、これから自分もこの店の常連のひとりになれそうなこと――全てに感謝しつつ、朋香は二杯目の『開運 特別純米 涼々』を待っていた。


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