居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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11巻

11-3

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 宴席では、往々にして話が弾んで料理が置き去りになる。焼き物も、冷めても美味しく食べられるように、と塩焼きではなく照り焼きにしたけれど、冷めないうちにそれぞれの胃袋に収まった。
 予想よりもずっと速いペースで空になっていく皿に、美音はまたひとつ安心を得る。
 ――よく食べる人たちで本当によかった。品数が多くなれば、どうしても総量が増える。小食な人ばかりだと、あっちこっちでお料理が残ってしまう。それは料理人にとって、なにより悲しいことだもの……
 次々と空になっていく皿を見ながら、美音はそんなことを思っていた。


「美音、そろそろ串揚げにいったらどう?」

 要がはいの酒をぐいっと呑み干して言った。
 献立の相談をしたため、彼はある程度どんな料理が出てくるか知っている。しかも、要は串揚げが相当好きらしい。
 一品ぐらい熱々のものを出したい。鍋料理でもいいが、ボリュームがありすぎてメインになってしまうし……と悩んだ美音に、じゃあ、串揚げは? と提案したのは馨だ。串揚げなら、それぞれのお腹に合わせて食べられるし、いろいろ具材を用意すれば好き嫌いにも対応しやすい、なによりあの人数となると、鍋ひとつでは足りなくなるのではないか、と言うのだ。
 そのとおりだと思ったものの、場所は要の家、しかも使われるのはおそらく客間だろう。台所でさえ、油で汚れるのを嫌う人は多い。ましてや客間である。揚げ物が許されるかどうか、大いに疑問だった。
 ところが馨は、あっけらかんと言った。いてみればいいじゃん、と……。それどころか、さっさとスマホを取り出して、要に連絡してしまった。

『お料理に串揚げを入れたいんですけど、お部屋は大丈夫ですか?』

 返ってきたメッセージは至ってシンプルだった。

『串揚げは大好物。是非!』

 ほらね、と馨は得意そうに言ったが、美音にしてみればそれはあくまでも要の意見、八重がどう考えるかのほうが大事だ。馨をせっついて八重の意向を確認してみたが、それに対する返事もこれまた短いものだった。

『なんでもやって、美味しいものは大好き、とのこと』

 本当だろうか……と疑いながらも、要は『絶対串揚げ!』と猛プッシュしてくるし、馨の言うとおり串揚げは融通ゆうずうがきく。一か八かの気分で、美音は献立に串揚げを入れた。
 準備を始めるにあたって、美音は恐る恐る八重に、本当に串揚げでいいのか、と訊ねてみた。返ってきたのは「もちろん。揚げたての串揚げを家で食べられるなんて素敵じゃない?」という言葉だった。その喜びようからして、油問題など気にも留めていないことがわかり、ほっとしたのだった。
 そんな経緯で決定された串揚げだったが、初っ端から出す料理ではない。それがわかっていただけに、要もじりじりしながら待っていたのだろう。そろそろ……というのは、空になった皿を確認しての提案だった。

「そうですね。じゃあ、用意します」

 言うか言わないかのうちに馨が台所に向かった。慌てて美音も立ち上がり、彼女に続く。カセットコンロと天ぷら鍋、衣をつけて揚げるだけにしてある食材が入ったバットを運ぼうとしていると、香織が空いた皿を下げてきてくれた。後ろには、彼女以上にたくさんの皿を持った要がいる。

「串揚げですって? 楽しみだわ」
「準備OK、コンロを置く場所は確保してきたよ」
「ありがとうございます」

 ふたりに深々と頭を下げる。だが、頭を上げたときにはもう要は天ぷら鍋とコンロを持って去ったあとだった。

「要さん、どれだけ串揚げが食べたいのよ」

 馨は噴き出し、香織もくすくす笑っている。
 要はカセットコンロを置くなり火をつけて、油を温め始めているに違いなかった。

「急ぎましょう」

 美音は食材が入ったバットを馨に渡し、自分は調味料を運ぶ。手ぶらで戻るのもなんだし……と手伝ってくれた香織が、種類の多さに目を見張った。

「こんなにたくさんあるのね……」

 塩はもちろん、ソースは中濃とウスターの両方。味噌ダレ、梅ダレ、オーロラソース、わさび塩に抹茶塩まっちゃじお、馨が面白がって作ったカレー塩もある。櫛形くしがたに切ったレモン、レモンと相性がいい醤油しょうゆも用意した。

「お好きな味で召し上がってくださいね」

 美音の言葉で、串揚げが始まった。
 玉葱たまねぎが甘いだの、海老えびがぷりぷりだの、このササミには紫蘇しそが巻いてあるのね、なんて分析もまじり、場が一気に賑やかになる。
 衣をつければ見た目はどれも似たり寄ったり、中身は想像するしかない串揚げは、ある意味びっくり箱だ。童心に返ってはしゃぎたくなるものなのかもしれない。
 要は揚がるはしから次々手を伸ばすし、怜もそれにならう。香織いわく『お子様舌』だけあって、やはり煮物や魚よりも串揚げが気に入ったのだろう、とのことだった。
 串揚げが始まった時点で、怜は飲み物をビールに変えた。
 銘柄は『アサヒスーパードライ』。出ては消え、消えては出る、が激しいビール業界において、発売されてから三十年以上、ビール党の絶大な支持を保っている商品だ。日本におけるドライビールの先駆け、ドライ戦争の発端となった銘柄であるが、怜はこれ以上に素晴らしいビールはないと言う。

「もともとビールの種類は多いし、今は旨い地ビールもたくさん出てる。でも、いくら旨くても呑みたいと思ったときに手に入らないようじゃ意味がない。その点、このビールはコンビニでもスーパーでも、どうかすると自販機ですら買える。値段だって良心的だ」

 他社メーカーから出されているものでも、怜の言う条件を満たすものはあるだろう。けれど、彼にとっては『アサヒスーパードライ』こそが珠玉、ここまで惚れ込まれれば、メーカー冥利に尽きるのではないか。
 何でも選べる状態にあってなお、ひとつの銘柄を呑み続ける。それは、日々知らない銘柄、旨い酒を探し続ける美音とは対極の姿勢だ。だが美音のそれは居酒屋の店主であるが故の特性で、客とは立場が異なる。怜のように『究極の一銘柄』を持てるのは幸せなことだ。
 美音は、満足そうにグラスを傾ける怜を見ながら、酒を扱う者として、客が『究極の一銘柄』を見つける手伝いができたらいいな……なんてぼんやり思っていた。
 一方、要は『久保田 千寿』の最後の一滴まで大事に呑み終え、大満足のため息とともに『大多喜城おおたきじょう 純米吟醸』へと移った。
 封を切り、まずは……と松雄のはいに注ぐ。早速、ぐびり、とやった松雄が感に堪えかねたような声を漏らした。

「呑んだことがない酒だが、これはなかなかどうして……」

 それを聞いた美音は、鏡を見なくても自分が満面の笑みを浮かべていることがわかった。料理と同じぐらい、持参した酒を気に入ってもらえたことが嬉しかった。


「兄貴、それはおれの海老えびだ!」
「お前はさっき、俺のチーズはんぺんを食っただろう!」

 油の入った鍋を前にして、兄弟喧嘩が始まった。
 その様子を見て、紀子が笑い出す。

「子どもじゃあるまいし、あなたたち、いったいいくつになったのよ!」

 八重は苦笑しつつ、芝居がかった仕草で紀子に詫びる。

「すみませんお義母様。佐島家の跡取りをこんな馬鹿者に育ててしまいました……」

 香織は香織で面白がっている顔、かつ少々残念そうに美音に囁いてくる。

「私たち、その『馬鹿者』に人生を預けちゃったのね……。困ったわ、どうしましょう?」

 どうしましょうって言われても……と、困っていると、馨が代わりに答えた。

「でも、お姉ちゃんはまだキャンセルできるよね?」
「美音! キャンセルはなし! 絶対なしだ!!」

 真剣そのものの要の声に、それまで賑やかに騒いでいた佐島家の人たちが一斉に話を止める。
 さすがに悪のりしすぎたと悟ったのか、慌てて馨が謝った。

「要さん、地獄耳……ってか、ごめんなさい! 悪い冗談でした」

 しきりに頭を下げる馨、静まりかえる客間……
 どうしよう、これまでずっと和やかだったのに……と思っていると、松雄が静かに盃を置き、香織を見た。続いて、美音を……

「なあ、香織さん、それから美音さんも。怜は確かにぼんぼんで甘ったれだし、要はその逆方向に大馬鹿者だ」
「ぼんぼんで甘ったれ……」
「誰が大馬鹿者だよ……」

 松雄は、恨めしげな顔をしている怜と要をまるっきり無視して話し続ける。

「でもなあ……こいつらふたりとも今はこんなだが、根は悪くないし、見所もまったくないこともない。あと二十年ぐらいしたらいっぱしの男になるはずだ。ここはひとつ、長い目で見てやってくれないか」

 松雄に真剣な顔で言われ、美音は恐縮して頷いた。もちろん香織も同様だ。これでこの場は収まる、一件落着……と安堵したとき、馨がまた口を開いた。

「二十年って、ちょっと長すぎない? もう少し急いだほうが……」

 貫禄たっぷりの松雄の言葉に、これからなにとぞよろしく、という名場面だったのに、松雄は呑んでいた酒を噴くし、怜と要はさらに情けなさそうな顔……。そして、佐島家の女性たちは揃って大笑いしている。ぶち壊しもいいところである。
 それなのに、馨はさらに言葉を重ねる。最早、あえて『ドツボ』にまりにいっているようにしか思えなかった。

「えーっと、あの……あの……あ、そうだ! たとえ要さんが二十年育成コースでも、お姉ちゃんは、あたしみたいなのが妹だってこと以外に大して欠点はありません。だから大丈夫だと思います。これからのふたりをよろしくお願いします!」
「馨の馬鹿!!」

 たまらず上げた美音の悲鳴のような声で、今度こそ全員が爆笑した。
 息ができないほど笑ったあと、ようやく話せるようになった八重が言う。

「はいはい、わかったわ。馨さんもよろしくね」
「ふたりは大丈夫。それにしても馨さんは楽しい人ね」
「ぜひまた、ご一緒しましょう」

 紀子、香織も次々と馨に声をかけてくれた。場の雰囲気はまた賑やかで楽しいものに戻り、美音がほっとする中、新たな料理が出された。
 紀子が作った巾着煮きんちゃくに、香織の塩味のしっかりきいたハンバーグ、そして八重のササミのたたきである。どれも見るからに美味しそうだ。
 自分以外が作ったもの、特に家庭料理を食べる機会など滅多にない美音は興味きょうみ津々しんしん、熱心に作り方や味付けのこつを訊ねる。
 油揚げの中に野菜や餅、卵を入れた巾着煮きんちゃくには美音もよく作るし、おでんの具にもする。だが、それをコンソメで煮込むなんて初めてだったし、タネ自体にこんなにはっきりと味がつけてあるハンバーグも食べたことがなかった。
 薄めのコンソメで煮込んだ巾着は優しい味わい、塩味のハンバーグはケチャップを付けると味のバランスがとてもいい。『お子様嗜好しこう』の怜でなくても、癖になりそうだ。
 八重のササミのたたきは、鶏のササミにさっと火を通してスライスしたものだが、正直に言えば少々安全性が危惧される。だが、そんな心配を察したかのように八重が説明してくれた。

「このササミ、鶏の専門店で『生食用』って書いてあるのを買ったのよ。お料理としてはすごく簡単なのに、とっても美味しいの。最近『生食用』が品薄だから、お店にあってよかったわ」
「あ、そうなんですか。よかった、実はちょっと心配してたんです」

 香織がほっとしたように言うと、八重はさもありなんと頷く。

「でしょ? 美音さんもプロだからそのあたりは絶対に気になると思って」

 そして八重は、大丈夫ですからね、と美音ににっこり笑った。
 ――素敵な人たち、なんていい家族なんだろう……
 美音は心底そう思った。
 美音が作った料理を散々食べたあとでも、慣れ親しんだ妻や母の料理が出てきた瞬間、目を輝かせる。身体だけでなく、気持ちの上でも、安心して料理を味わえるように配慮する。そこには、お互いに対する思いやりが満ち溢れていた。
 こんな家族だからこそ、いったん道を外れかけた要であってもちゃんと戻ってこられた。
 なにかがあったらこの家族のところに戻れる、みんなが助けてくれると信じられれば、どんな困難にも立ち向かえる。
 佐島家の男性、いや女性も含めて、おそらく一筋縄ではいかない人ばかりだ。それでもお互いに支え合って生きてきたし、これからも生きていくのだろう。
 ――私と要さんもそんな関係でありたい。足りないところを補い合って、末永くともに歩いていきたい……
 美音がしみじみとそんなことを考えていると、要がひどく不満そうな声を出した。

「ササミのたたきは旨いし、この肉は安全。でも、母さん! これって別におれが特別好きな料理じゃないよね!」 

 聞いたとたん怜と香織、そして紀子までも爆笑した。
 そういえば、要の好物がササミのたたきだなんて聞いたことがなかった。自分が知らなかっただけだと思っていたけれど、要が異議を唱えるところをみると、本当に好物ではないのだろう。それにしても不思議だ。普段であれば、たとえ自分の好物じゃなかったとしても、こんな場面で文句を言うことなどないのに……
 戸惑いつつ八重をうかがってみても、彼女は余裕たっぷりの笑みを浮かべているだけで、説明しようともしない。代わりに口を開いたのは怜だった。

「要の好物は、ササミのたたきじゃない。でも母さんはササミのたたきを作った。なぜならそれは、おまえより大事な奴の好物だからだ」
「どういうことですか?」

 狐につままれたような顔になった美音に、ようやく八重が説明してくれた。

「当たり前でしょう。みんな好きな人のために料理を作っているのに、どうして私だけが息子の好物を作らなきゃならないの?」
「ごめんなさい!」

 美音はすごい勢いで深々と頭を下げた。
 正直に言えば、美音は要が普段どんなものを食べているか、どんな味付けが好みなのか知りたかっただけだ。紀子や香織は半ば付け足し、彼女らに要の嗜好しこうはわからないだろうから、夫たちのためにと頼んだのだ。けれど、八重にしてみれば、自分だけ息子の好物を作るなんて、面白くなかったのだろう。
 慌てて謝る美音を、いいの、いいの、となだめながら八重は言葉を足した。

「実際、私の夫はとっくに亡くなってるし、私が食事を作っている相手は要だけだから、この子の好きなものを、って美音さんが言うのは当然。でも、本音を言えば、私だって好きな殿方のために料理を作りたいって気持ちがあったの。それで作ったのがこの料理、ってわけ」
「本当にごめんなさい。じゃあ、ササミのたたきは、要さんのお父様がお好きだった料理なんですね」

 八重の好きな人だというからには、亡くなった夫に違いない。だが、美音の言葉に返ってきたのは、さらに不満そうな要の声だった。

「親父だったら、まだ許せるけどね!」

 要は、もうこれ以上ないというぐらいむくれている。
 それまでずっと笑い続けていた香織が、見かねたように理由を話してくれた。

「美音さん、これってね、佐島家に代々伝わる飼い猫のご馳走なのよ。お利口さんにしていた猫はご褒美にササミのたたきをもらえるの。お義母様って、なんてウイットに富んでるのかしら。最高だわ!」
「えー! ってことは、タクなの!?」

 馨が頓狂とんきょうな声を上げた。だが、八重は涼しい顔でタクにササミを一切れ食べさせる。
 そういえば今日、タクはずっと八重の側にいた。
 八重が忙しそうにしているのをじっと見ていたり、足下にまとわりついたり……。見慣れない人たちがうろうろする中で、聞き慣れない音がするたびに八重のもとにぴゅーっと走っていく。たとえそこに要がいても、見事に素通りだった。
 とはいえ、客たちに悪さをすることは一切なかったから、お利口さんな猫としてご褒美をもらう資格は十分だろう。

「あーもうわかったよ。母さんは、おれよりタクが大事なんだね!」
「あたりまえじゃない。私がいつまでもおまえにまとわりついて、息子大事息子大事、なんて言ってたら、美音さんが困るでしょ」
「だからってタクのほうが上って……」
「欲張るんじゃない。おまえにはもう美音さんがいる。美音さんなら、猫よりもおまえを大事にしてくれるさ……たぶん」

 とうとう松雄にまでからかわれ、要はがっくりこうべを垂れた。タクは我関せずと優雅に毛繕けづくろいをしている。もちろん、タクがいるのは八重の脇だ。
 みんなの注目を浴びたせいか、タクがちょっと不安そうに八重を見上げ、ニャーと鳴く。その声に気付き、要もタクを見た。

「やっぱりタクは、ここに残したほうがよさそうだな」

 要は、タクは自分が連れて帰った猫だし、責任を持って飼うつもりだったのだろう。
 それに、タクとその兄弟にまつわるあれこれが、結果として自分と美音を近づけてくれることになった。だからこそ、なんとかして自分たちのそばに置けないかと考えたのだ。
 でもそれはあくまでも自分たちの勝手な思いだ。普段から世話をしているのは八重だし、彼女の気持ちや、飲食店である『ぼったくり』の上で暮らす不自由さまでもあわせて考えれば、タクはこのまま八重と暮らしたほうが幸せかもしれない。
 美音も要も、長らくタクをどうするかについて悩んでいたが、ようやく結論が出たようだった。

「母さん、タクはここに置いていくよ。タクにとってもそのほうがよさそうだ。タクのこと、頼めるかな?」
「でも要、おまえはそれで本当にいいの?」
「うん。むしろ、面倒をかけてごめん。できるだけちょくちょく会いに行くようにする」

 おそらく八重も、要は要なりにタクをかわいがっていることがわかっていたはずだ。
 だから、結婚して家を出るにあたって、タクとの別れを覚悟していた。寂しいけれど仕方がないことだとあきらめようとしていたのだろう。それだけに、タクを頼むと言われて戸惑いつつも、喜びが隠せない様子だった。

「わかったわ。タクのことは任せて。おまえと思って大事にするわ」
「やめなよ、母さん。要だと思ったら逆にぞんざいに扱いそうだよ」
「兄貴、なんてひどいことを! おれってかわいそうすぎる!」

 要は散々嘆いているが、美音は、八重という人はどこまでも賢い人だと思う。
 婚約者が家族に挨拶に来た。当人から「要さんの一番好きな料理を作って」とわれたところで、言葉どおりに「これがあの子のお気に入り!」なんていそいそと作ってしまったら、いかにも母子密着の証明みたいに見えるし、うっかり「やっぱり母さんの料理が一番」なんて言い出した日には目も当てられない。
 美音はそんなことで機嫌を損ねたりしないつもりだが、いざ目の前でそんな場面が展開されたら、本当に冷静でいられるかはわからない。世間ではおふくろの味にこだわる夫と新妻のバトルなんてよく聞く話だからだ。
 その危険性を見事に潰した上に、もう私の興味はお前じゃなくて猫なのよ、なんて匂わせる。まるで、おまえはさっさと美音さんのところにお行き、と追い立てるように……
 見事な子離れだ、と感心するばかりだった。
 それにしても……と、美音は要をそっとうかがう。
 一族最年少の宿命として家族みんなにいじられていじけきっている要は、それはそれで珍しいし可愛いとすら思うけれど、やはり自分の恋人にはご機嫌でいてほしい。
 そこで美音はそっと席を立ち、空いた皿を台所に運ぶ。もちろん目的は皿を下げることだけではなかった。
 これでご機嫌が直るといいな……と思いながら、美音は行平鍋ゆきひらなべに昆布とかつお出汁だしを入れて火にかけた。


「はい、要さん」

 客間に戻った美音は、依然としてやさぐれていた要に声をかけた。
 お盆の上にあるのは行平鍋と木の椀、漬け物を入れた小皿である。彼の目の前にお盆を置き、蓋を取る。中を覗き込んだ要が、歓声を上げた。

きのこ雑炊だ!」

 沸いた出汁に味をつけ、シメジと椎茸、そしてご飯を入れる。煮上がりを待って卵をとき入れ、あおねぎを散らせば茸雑炊の出来上がり……。簡単そのものだけれど、ふたりにとっては思い出深い料理である。


 初めて要が『ぼったくり』を訪れた日、冷たい雨の中、帰宅しようとした要に出した一椀のきのこ雑炊。カウンターのあちらとこちらに分かれてすすり込んだあの温かさ、そして沈黙の心地よさ……
 彼は覚えていてくれるだろうか、と思いつつ作った茸雑炊だったが、そんな心配は無用だったらしい。

「懐かしいな……あの日も出してくれたよね」

 そんな言葉とともに、優しい眼差しを向けたあと、要はそれまでのいじけっぷりはどこへ行ったのか、と思うほど嬉しそうに箸を取った。
 ――タクがいなくても、誰がいなくても、私がいるじゃないですか……
 美音が雑炊に込めたそんな思いは、ちゃんと要に伝わったようだ。その証拠に、かなりの量があったはずの茸雑炊を、要はひとりで平らげ、うらやましそうに見ている家族たちに一口も譲ろうとはしなかった。
 美音の思いは全部おれのもの、そう宣言しているような態度に、美音は嬉しい反面ちょっと苦笑してしまったけれど……
 いずれにしても、一族の顔合わせは無事終わり、タクの処遇も決まった。
 増改築工事や結婚式の目処めども立ち、ふたりの新しい暮らしは順調なスタートを切れそうだった。

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