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10巻
10-3
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†
要が『ぼったくり』を訪れたのは馨と会った二日後、例によって遅い時間だった。
要が椅子に腰掛けるなり、美音は鶏の腿肉と大根の煮物が入った小鉢を目の前に置く。大根も鶏肉も薄茶色で地味になりがちな一皿に、インゲンの鮮やかな緑が命を吹き込んでいる。湯気が上がっているところを見ると、要の到着を見越して温め直してあったのだろう。
「寒くなって、大根が美味しくなってきました。特に今日は、『八百源』さんがすごくいいのを入れてくれたんです」
美音は心底嬉しそうに言いながら、冷蔵庫から出した酒を器に注いだ。ガラスではなく陶器に注がれたことに驚いていると、説明が始まった。
「このお酒はガラスの器に入れると渋みや酸味がちょっと強めに出がちなんです。でも陶器だと甘みが立ってきて、味付けが濃いめの煮物にぴったりになります」
銘柄は『遊穂 純米吟醸』、石川県羽咋市にある御祖酒造株式会社による酒だそうだ。
山田錦と美山錦という二種類の酒米を用い、濃厚な味わいを保ちつつ、キレと軽快な飲み口を損なわないこの酒は、日本のみならず海外にもファンが多いという。
「この銘柄は、ぬる燗を喜ばれる方も多いんですが、冷やしてもすごく美味しいんです。特に今日は大根がすごく熱いし、鶏の腿肉を炊き合わせたので……」
美音の話を聞きながら、要は大きめに割った大根を口に入れる。直後、あまりの熱さに目を白黒させ、グラスの酒をがぶりと呷った。
「大丈夫ですか?」
美音は心配そうに顔を覗き込んでくるが、目の底に隠しきれない喜びがあった。おそらく、冷酒で出した狙いが当たって嬉しいのだろう。
「大根の熱ってちょっと凶暴ですよね」
「なにもここまで熱くならなくてもいいじゃないか、とは思うけど、やっぱり冬の大根は格別だし、冬の熱い料理も格別だ」
苦笑いしながら酒で口の中を冷やし、要は次の大根を口に運んだ。あらかじめふうふうと吹いたおかげで、落ち着いて味わうことができる。添えられた辛子が、大根に染みた鶏の脂の甘みと醤油の風味を引き立てていた。
「いつもながら、酒のチョイスも見事だな。この控えめな酸味が素晴らしい。鶏の脂ってすごく旨いんだけど、どうかすると口の中に残るときがある。でも……」
「このお酒の酸味がすっきりさせてくれる、でしょ?」
「そのとおり。それに、おでんでも、ふろふきでもない、普通の大根の煮物に、辛子をつけてもいいんだな……」
「だって、豚の角煮にも辛子を添えるでしょ? 鶏肉の煮物だって同じようなものじゃないですか。あ、でも、もっと薄味に仕上げたときは、ゆず胡椒がおすすめです」
「ほんと、君ときたら……というか、この店は何でもありだな」
ぶつぶつ言っている要に、美音は悪戯を見つかった子どものような表情になる。店主と客を越えた親しげな眼差しに満足を覚えた瞬間、今日はしなければならない話があったことを思い出した。
――危ない、危ない。いつもどおり、呑んで食っておしまいになるところだった。
ハロウィンでプロポーズのやり直しをして以来、要は何度も結婚についての具体的な相談をしようとした。だが、そのたびにこんなふうに酒と肴に気を逸らされ、そのままになってしまったのだ。
もしこれが美音の作戦だとしたら、この魔女は本当に手に負えないとしか言いようがない。
けれど、さすがに今日という今日はそういうわけにはいかない。心配のあまり、相談に来た馨のためにも一歩でも話を進める必要があった。
酒と食の共存関係を象徴するような組み合わせに、うっかり本題を忘れそうになった自分を戒めつつ、要は『ぼったくり』の増築について話し始めた。
「ここに住むっていうのはどうかな?」
美音は一瞬きょとんとし、次いではっとして訊ね返した。
「もしかしたら、それ、結婚してからの住まいの話ですか?」
「もちろん。家と店が近ければ君は楽だろうし、馨さんだって引っ越ししなくてすむ」
「無理ですよ」
奥に着替え兼休憩用のスペースがあるにはあるが、住むことはおろか、横になることすら難しい、と美音は言い切った。要はそれはわかってる、と返し、さらに説明を進める。
「今のままならね。でも、この店は平屋なんだから増築するって手があるじゃないか」
「その間、お店休むんですか?」
あまりにも予想どおりの反応にやれやれと思いながら、要は箸を置いた。背筋をぴんと伸ばし、おもむろに頭を下げる。
「休業になるのは申し訳ない。でも、最短最速でなんとかする」
「そんなこと言われても、増築っていろいろ手間がかかるし、この店を住めるようにするとなると、下手すると新築かそれ以上に時間がかかっちゃうんじゃないですか?」
狭い平屋の上に増築する工事は難しいと聞いている。特にこの店は昔の基準で建てられている建物だから、いじるとなったらあれこれ問題も山積みで何ヶ月もかかりかねない。その間ずっと『ぼったくり』を休むことなんてできない――と美音は心配する。さらに、はっとしたように言った。
「もしかして、全部壊して建て直すとか……?」
そんなの嫌です、と美音は全力で抗議を始めようとした。
『ぼったくり』は美音の両親が苦労して手に入れ、育て、美音と馨が引き継いだ店だ。彼らがどれほど大事にしてきたかを、要もちゃんとわかっている。全部壊して建て直すなんてありえないし、そんなことをすると思われたこと自体が心外だった。
けれど、美音にしてみればあまりにも寝耳に水の話だし、工期を縮めるためにはそれぐらいしないと無理だと考えたとしても責められない。
とにかく美音にとってこの店は命なのだ、と再確認し、要はなんとか美音を安心させようと努めた。
「心配しないで。全部壊したりしないから」
「だとしたら、やっぱり何ヶ月もかかっちゃいます」
「二ヶ月」
「え?」
「佐島建設の総力を挙げて、なにがなんでも六十日で仕上げる」
これが漫画であったならば、こめかみから汗がつつーっと流れていただろう。美音の表情はそう表現したくなるほどだった。おそらく、そんな短い期間では無理だという気持ちと、そうであってほしいという気持ちがせめぎ合い、その上に、実現するためにこの人はなにをやらかすつもりだろう、という恐れが加わっている。
「総力とか挙げなくていいですから!」
やがて身を乗り出すようにして言った台詞には、自分の店のために、周りを巻き込んで大騒動なんて論外だ、という思いが溢れていた。
「いや……あの、私、普通の増築工事がどれぐらい時間がかかるものなのかも知りませんけど、やっぱり二ヶ月とかじゃ無理だと……」
「大丈夫。おれはこれでもその道のプロだよ。そのおれが二ヶ月と言ったら二ヶ月なんだ。何ならもう二、三日ぐらいなら繰り上げ……」
「け、けっこうです! それぐらいならきっと、皆さんも待ってくださいます!」
「だよね。常連たちはこの店を熱愛してる。それぐらいで離れたりしないよ」
「これぐらいで離れてしまうなら、この間の鰻の賞味期限切れ騒動でとっくに見限られてるはずです。――でも、工期に間に合わせるために、職人さんたちに無理をさせることになるんじゃないですか?」
『ぼったくり』にはトクやマサ、アキラといった職人の客も多い。無理な注文に苦労している姿は何度も見てきた。それだけに、たとえ見ず知らずの職人たちであっても、大変な思いはしてほしくない、と美音は言い張った。
「要さんに追い立てられて、昼夜も問わず突貫工事、とかあり得ませんから」
「わかってるよ。そこまで無理はしなくても大丈夫。人をたくさん使えばなんとかなる」
「そうですか……じゃなくて!!」
そこでまた、美音は大声を出した。
「問題はそんなことじゃありませんでした! ごめんなさい、要さん。やっぱり無理です。私にも馨にもそんなお金はないし、借りようにも……」
なんとまあよく似た姉妹だ。二人揃って同じ言い方をするなんて……と、要は笑い出したくなった。もちろん、その懸念に対する要の反応だって同じだ。
「ご心配なく。おれだって住むんだから、おれが工面する。もっとも、おれもここに住んでいいって、君が言ってくれるなら、だけどね」
「それはもちろん……でも、やっぱり……」
「費用はどうにでもなる。問題は、君と馨さんの気持ちだよ。おれとしては、君とおれがここに、今の家に馨さんが住むことにしたほうが、いろいろうまくいくと思う。馨さんが結婚しても、そのまま住み続けられるし」
そこで要は、美音の家族の気持ちを代弁する形で言葉を連ねた。
「馨さんはきっと、自分が家を出れば今の家におれたちが住める、って考えてると思う。もしかしたら部屋を探し始めてるかもしれない。でも、おれは、おれたちのために馨さんにそんな犠牲は払ってほしくない。馨さんだって、君と同じぐらいこの町から離れたくないって思ってるだろうしね。なにより、君たちふたりに家と店を残したご両親の気持ちを考えたら、君が店を、馨さんが家を受け継ぐのが一番なんじゃないかと思う」
これにはさすがの美音も反論できなかったとみえて、渋々といった様子で首を縦に振りかけた。ところが、何を思ったか途中で動きを止め、なにかを考え始める。
「どうしたの? まだなにか気になることでも?」
工期も費用も家族の気持ちまでも考慮した計画に瑕疵があるとは思えないし、要は、美音が新たな問題を持ち出してきても論破するつもりだった。だが、次に美音の口から出てきたのは美音や家族ではなく、要自身に関わる問題だった。
「要さんがここに住むとしたら、八重さんはどうなるんですか? 私には八重さんをひとりになんてできません」
必死な面持ちで訴える美音に、要は確かめるように訊いた。
「それが君の最後の気がかり?」
「最後? ええ……まあ……そうですね」
「じゃあ問題ない。それは解決済み」
要は、以前から美音が母のことを気にしているのは知っていた。
この近くに借りられる物件はない。当初、ふたりが結婚した場合、おそらく今要が住んでいる八重の家、あるいは学生時代に使っていたマンションのどちらかに住むことになるだろうと考えていた。ふたつの候補を考えたとき、要のマンションのほうがわずかなりとも『ぼったくり』に近い。八重の家では通勤に一時間近くかかってしまうのだ。かといって、マンションに居を構えた場合、八重はひとりになってしまう――美音が結婚についての具体的な話を進めようとしないのは、そんな懸念からではないかと要は思っていたのである。
美音の気持ちは嬉しかったし、なんとかうまく納める方法はないかと考え続けてきた。だからこそ『ぼったくり』の増築を考えついた日、家に帰るなり、母の気持ちを確かめもしたのである。
「お袋のことは心配ない。むしろ、夜中まで帰ってこない息子を心配しなくてすむようになってありがたいってさ」
美音の懸念について聞かされた八重は驚き、美音に、その気遣いだけで十分、それ以上思い煩わないでくれ、と伝えるよう要に頼んだ。ふたりが相談して好きな場所に住めばいいし、それが店の上ならなおさらいい。美音の負担が最小限に止められるだろう、と喜んでくれたのだ。
「お袋ときたら、ひどい言いようだったんだぞ。『やっと重い腰を上げたのね! おまえがぼやぼやしてるうちに、美音さんが我に返って逃げ出したらどうしようって心配してたのよ』だってさ」
「我に返って……って」
「とんでもないよな。思わず、『おれが美音をだまくらかしたような言い方はやめてくれ』って言ったら、『あら違うの?』なんて真顔で言われた」
絶句した要をひとしきり笑ったあと、さらに八重は言った。
新婚ほやほやの邪魔なんてしたくないし、この先心配なことが出てきたら佐島の三食昼寝付きの家に帰るなり、お前たちのところに転がり込むなりするから、そのときはよろしく――と。
そして八重は、要が『ぼったくり』の上に住むとしたら、自分も時々店を訪れられる。それはそれでとても楽しみだ、と喜んだのである。
「ほんとにそれでいいんでしょうか……」
話を聞いた美音は、かなり戸惑っていた。けれど、最後には、本当に何かあったらすぐに相談してもらってくださいね、と何度も念を押し、『ぼったくり』を増築することを受け入れた。おそらく他に方法はないし、八重がそう言ってくれている以上、甘えるしかないと思ったのだろう。
これでよし――
要は、そう思って酒のおかわりを注文しようとした。ところが美音はまた思案顔である。やむなく要は、水を向けてみることにした。
「まだなにかあるの?」
美音はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「要さんはお金持ちなんですか?」
一瞬、何が訊きたいのかわからなかった。怪訝な顔をする要に、美音は改めて訊ねる。
「要さんのお家がお金持ちだってことは知ってます。でも、要さん自身は? 『ぼったくり』の増築にかかるお金は、要さんのお家じゃなくて、要さん自身が稼いだり、借りたりするものですか?」
「美音……」
金に名前が書いてあるわけじゃない。誰が稼いだものであっても、使う権利が与えられているなら使えばいい。美音に知り合う前の要だったら、こんな質問は笑い飛ばしただろう。
けれど、今の要には、『自分の責任の範疇か否か』が美音にとっていかに大切なことなのか十分理解していた。おそらく美音は、この店に手を入れるなら自分の稼いだもので、と思っていたに違いない。
だが、事実上それは不可能だ。特に、今すぐと言われれば無理に決まっている。要が払うと言うから渋々了承したものの、いざとなったら出所が気になってきた。要本人が工面したものではなく、佐島家から流れてくるものだとしたら受け入れがたい。それが美音の本心だろう。
「大丈夫だよ」
要は、できるだけ美音を安心させられるよう、満面の笑みで答えた。
「おれはちゃんと会社に貢献して、けっこういい給料をもらってる。で、どこかの居酒屋で連日ぼったくられる以外は浪費もしない。そもそもそんな時間はないんだ。だから心配ない。ご両親から受け継いだとはいえ、この店は君が何年も頑張ったうえで自分の城にしたものだし、これからはおれと君の住まいになる。その出発点を他の人間に頼ったりしないよ」
「連日ぼったくられる……」
美音は、ちょっと口をとがらせながらも、安堵の表情を浮かべた。
「よかった……。君だってこの店を親からもらっただろう、って言われたらどうしようと思いました」
「それぐらいはわかってるよ。何もかも全て、は無理にしても、できるだけふたりの力でやっていこうとおれは思ってる」
「ありがとうございます。でも、費用はちゃんと会社に払ってくださいね」
「社員割引以上には値切らないよ」
「あるんですか? 社員割引?」
「そりゃあるよ。でも兄貴たちは使えないけどな」
「なんでですか?」
「役員以上は社員じゃないから」
「へえ……そうなんですか。よかったあ、要さんが平社員で」
平社員を喜ぶのは珍しい。なにより、少なくとも自分は平よりは少し上だ、と要は心の中で苦笑いをする。
だが、要が会社でどんな地位にいようと美音は構わないらしい。いっそ会社に言って、平社員に戻してもらおうか。そうすればもう少し仕事が減って、早く帰れるようになるかもしれない。
なんとか役員クラスに取り立ててもっと便利に使おうと躍起になっているクソ爺や兄貴はものすごく怒るだろうけれど……
困り果てる祖父と兄を思い浮かべ、要は溜飲が下がる思いだった。
「ということで、『ぼったくり』増築計画発動、でいいね?」
「よろしくお願いします」
「で、工事をやってる二ヶ月の間に、あれこれ片付けるから」
「あれこれ? 家の片付けですか?」
それは増築に入る前にやるべきことじゃないんですか、と美音は首を傾げた。要は本日何度目かの『やれやれ』である。
「ここを増築するのはなんのため?」
「もちろん住むためです」
「誰が?」
「要さんと私?」
「だよね。おれたちは結婚してここに住む。結婚そのものは紙切れ一枚で済む話なんだけど、この日本って国は、非常に面倒くさいことに、届けを出す以上にイベントを大事にするらしい」
ふんふんと聞いているにもかかわらず、美音は依然として要の言わんとするところをわかっていないらしい。とうとうしびれを切らした要は、お得意の直球勝負に出ることにした。
「というわけで、結婚にあたっては結婚式が必要。『ぼったくり』を増築している間に、式を挙げてついでに新婚旅行を楽しもう、って話」
わかった? と訊ねられ、美音はこくこくと頷いた。
「ならよかった。結婚式はなしでも構わないといえば構わないんだけど、それはそれでかなり面倒なことになる。うちは親類縁者の数も多いし、挨拶しないと文句を言う奴ばっかり。というわけで、さっさと結婚式を済ませてしまおう」
「さっさと……?」
その一言で、要は『しまった!』と声を上げそうになった。
佐島家三代続きの黒歴史プロポーズで痛い目を見たばかりなのに、またこんな言い方をしてしまった。
これが八重の耳に入ったら、ペナルティとして今度はドイツよりもずっと交通の便の悪いところに飛ばされかねない。しかも、美音の様子を見る限り、ご注進に及ばれる可能性は大だった。
これはまずい、と悟った要は、すぐに『正しい』理由を持ち出した。
「君のことだから結婚式なんて面倒だし、お金のことも気になるかもしれない。でも、おれはどうしても君の花嫁姿が見たい。普段の飾らない君も大好きだけど、おれのためだけに、これ以上ないってぐらい着飾った君が見たいんだ。でもって、これがおれの奥さんだ、おれのだから誰も触るんじゃないぞ! って世界中に宣言したい」
「いや、あの、それこそ必要ありません。私に手を出す人なんていませんから……あ、要さんを除いてですけど」
そう言ったあと美音は、いきなりしゃがみ込んだ。そのまま流しの下をごそごそやり、顔を上げようとしない。おそらく、会話の甘ったるさに耐えがたくなったのだろう。きっと顔も赤くなっているに違いない。
いつだったかの朝、トマト以上ケチャップ以下の赤さに染まっていた美音が思い出された。それと同時に、この店の上に住むというアイデアの秀逸さを再認識する。
もとより美音にはファンが多い。常連ばかりではなく、商店街や近隣の人々まで含めれば相当な数に上るはずだ。美音にちょっかいをかけようとする輩がいないとも限らない。そんな人はいないと美音は言い張るが、要にしてみれば、己を知らないにもほどがある! と叫びたいぐらいだった。
いずれにしても、大規模な増築がおこなわれれば、その理由について取りざたされるに決まっているし、自ずと美音の結婚も知れ渡るだろう。さらに、毎日ここに戻ってくる亭主がいるのだから、美音に懸想する人間がいたとしても迂闊なことはできないはずだ。
そこでようやく美音が立ち上がった。手には一升瓶があり、ラベルには『醉心』という文字が見える。この酒なら要も知っている。確か、日本画家の横山大観が愛飲したと言われる銘柄のはずだ。
薄く赤みの残る顔で美音は、徳利に酒を注ぐ。
「『醉心』か……好きな酒だ」
「ご存じですか?」
「ああ。広島の酒だよね?」
「ええ、広島県三原市にある株式会社醉心山根本店が造ってます。これは『醉心 軟水の辛口 純米酒』というお酒で、仕込み水が軟水なので、口当たりがすごく良いんです」
「確かに。そういえば前に呑んだときも、燗酒だったな……」
「でしょうね。このお酒はぬる燗にすると香りが立つし、味もものすごく膨らみます。もちろん冷酒や常温でも美味しいんですけど、寒いときはやっぱりお燗がおすすめです」
酒の説明をしているうちに美音の赤らんだ頬はすっかり元通りになる。さすがだな、と思いつつも寂しさが隠せない。それでも視線は美音の手元に釘付け、この酒に合わせてどんな料理を出してくれるのかが気になってならない。どっちもどっちだな、なんて苦笑いが浮かんだ。
「はい、どうぞ」
渡された猪口を受け取り、美音が酒を注いでくれるのを待つ。注がれた酒の、熱燗とは違うほんのりとした温もりを喜びつつ口に運ぶと、すっきりとした辛さと程よい旨みが広がった。
程なく目の前に出されたのは、ひとり用の土鍋。底には出汁昆布が敷かれ、豆腐の角切りと斜めに切られた葱が揺れている。黒褐色の昆布と真っ白な豆腐のコントラストが美しかった。
「湯豆腐か……いいね、シンプルで」
早速添えられた豆腐すくいでとんすいに取る。先ほどの大根に懲りて、舌を焼かれないよう気をつけながら食べてみた要は、予想外の味に目を見張った。
「あれ……すっぱくない……」
とんすいにあらかじめ合わせ調味料が入っていたから、ポン酢だと思い込んでいた。だが、柑橘類独特の酸味が一切ない。ただただ醤油の旨みだけが伝わってくるのだ。
嬉しそうに笑って美音が言う。
「ポン酢だと思ったでしょう?」
「うん、てっきり……。でも、ただの醤油でもないよね?」
「実はこれ、出汁醤油なんです」
だし汁に醤油とみりん、酒を加えて火にかけ、追い鰹をしただけ。家にある調味料で簡単に作れるし、豆腐や酒の味を邪魔することもない、と美音は自慢げだった。
「なるほどねえ……確かに、しみじみ旨いよ、これ」
「でしょう? 夏の暑いときはポン酢の酸味が嬉しいですけど、寒いときはこういう優しい味も乙だと思うんです。あ、あとで卵の黄身を落としますか?」
「え、湯豆腐に?」
「じゃなくて、タレのほうに。コクとボリュームが出ていいっておっしゃる常連さんもいらっしゃるんですよ」
「へえ……じゃあ、試してみようかな」
要の答えに、美音は早速卵を割り、黄身だけをタレの器にそっと移した。
地域にもよるが、蕎麦のつゆにウズラの卵を落とす食べ方を好む人は多い。あれと似たようなものだろうか、と思いつつ黒褐色とオレンジに近い黄色が混ざり合ったタレを豆腐に絡める。ウズラよりも卵黄が大きい分、甘みがしっかり伝わってきて、タレの濃い味とのバランスが絶妙だった。
「すごいなこれ……。もちろん、豆腐そのものの旨さがあってのことだろうけど……」
「戸田さんのお豆腐なんですよ。湯豆腐にはやっぱり戸田さんじゃないと」
あわや入院かと思われた『豆腐の戸田』の若嫁マリは、姑のショウコが作った栗きんとんでなんとか重いつわりを乗り切った。無理のない範囲でなら、という医者の許可も下り、再び店に立つようにもなった。今日も美音は、マリの元気な笑顔を見に『豆腐の戸田』に立ち寄り、湯豆腐用に極上の豆腐を買ってきたのだ。
「そうかあ……よかったね、元気になって」
「ええ。あれだけ駄目だった豆乳の匂いも、もう全然平気なんですって。人間の身体って本当に不思議ですね」
やっぱり気の持ちようなのかしら……と美音が呟く。
確かに、気の持ちようというのはあるのかもしれない。そしてそれは、重いつわりに限ったことではない。
これまで要は、美音をカウンターの向こうから引っ張り出すのに四苦八苦していた。このカウンターが城壁のように思えたことまであったのだ。だがここに住むと決めた今、カウンターは城壁としての役割を終えた。
『ぼったくり』は美音が譲り受け、育ててきた城だ。それは紛れもない事実である。けれど、要自身がここに住むことで、城は美音だけのものではなくなる。城壁の中に引きこもられ、やきもきする必要はなくなるのだ。
どんな堅牢な城だろうと、中に入り込んだらこっちの勝ち――
湯豆腐を肴に燗酒を堪能しながら、要は満面の笑みを浮かべていた。
要が『ぼったくり』を訪れたのは馨と会った二日後、例によって遅い時間だった。
要が椅子に腰掛けるなり、美音は鶏の腿肉と大根の煮物が入った小鉢を目の前に置く。大根も鶏肉も薄茶色で地味になりがちな一皿に、インゲンの鮮やかな緑が命を吹き込んでいる。湯気が上がっているところを見ると、要の到着を見越して温め直してあったのだろう。
「寒くなって、大根が美味しくなってきました。特に今日は、『八百源』さんがすごくいいのを入れてくれたんです」
美音は心底嬉しそうに言いながら、冷蔵庫から出した酒を器に注いだ。ガラスではなく陶器に注がれたことに驚いていると、説明が始まった。
「このお酒はガラスの器に入れると渋みや酸味がちょっと強めに出がちなんです。でも陶器だと甘みが立ってきて、味付けが濃いめの煮物にぴったりになります」
銘柄は『遊穂 純米吟醸』、石川県羽咋市にある御祖酒造株式会社による酒だそうだ。
山田錦と美山錦という二種類の酒米を用い、濃厚な味わいを保ちつつ、キレと軽快な飲み口を損なわないこの酒は、日本のみならず海外にもファンが多いという。
「この銘柄は、ぬる燗を喜ばれる方も多いんですが、冷やしてもすごく美味しいんです。特に今日は大根がすごく熱いし、鶏の腿肉を炊き合わせたので……」
美音の話を聞きながら、要は大きめに割った大根を口に入れる。直後、あまりの熱さに目を白黒させ、グラスの酒をがぶりと呷った。
「大丈夫ですか?」
美音は心配そうに顔を覗き込んでくるが、目の底に隠しきれない喜びがあった。おそらく、冷酒で出した狙いが当たって嬉しいのだろう。
「大根の熱ってちょっと凶暴ですよね」
「なにもここまで熱くならなくてもいいじゃないか、とは思うけど、やっぱり冬の大根は格別だし、冬の熱い料理も格別だ」
苦笑いしながら酒で口の中を冷やし、要は次の大根を口に運んだ。あらかじめふうふうと吹いたおかげで、落ち着いて味わうことができる。添えられた辛子が、大根に染みた鶏の脂の甘みと醤油の風味を引き立てていた。
「いつもながら、酒のチョイスも見事だな。この控えめな酸味が素晴らしい。鶏の脂ってすごく旨いんだけど、どうかすると口の中に残るときがある。でも……」
「このお酒の酸味がすっきりさせてくれる、でしょ?」
「そのとおり。それに、おでんでも、ふろふきでもない、普通の大根の煮物に、辛子をつけてもいいんだな……」
「だって、豚の角煮にも辛子を添えるでしょ? 鶏肉の煮物だって同じようなものじゃないですか。あ、でも、もっと薄味に仕上げたときは、ゆず胡椒がおすすめです」
「ほんと、君ときたら……というか、この店は何でもありだな」
ぶつぶつ言っている要に、美音は悪戯を見つかった子どものような表情になる。店主と客を越えた親しげな眼差しに満足を覚えた瞬間、今日はしなければならない話があったことを思い出した。
――危ない、危ない。いつもどおり、呑んで食っておしまいになるところだった。
ハロウィンでプロポーズのやり直しをして以来、要は何度も結婚についての具体的な相談をしようとした。だが、そのたびにこんなふうに酒と肴に気を逸らされ、そのままになってしまったのだ。
もしこれが美音の作戦だとしたら、この魔女は本当に手に負えないとしか言いようがない。
けれど、さすがに今日という今日はそういうわけにはいかない。心配のあまり、相談に来た馨のためにも一歩でも話を進める必要があった。
酒と食の共存関係を象徴するような組み合わせに、うっかり本題を忘れそうになった自分を戒めつつ、要は『ぼったくり』の増築について話し始めた。
「ここに住むっていうのはどうかな?」
美音は一瞬きょとんとし、次いではっとして訊ね返した。
「もしかしたら、それ、結婚してからの住まいの話ですか?」
「もちろん。家と店が近ければ君は楽だろうし、馨さんだって引っ越ししなくてすむ」
「無理ですよ」
奥に着替え兼休憩用のスペースがあるにはあるが、住むことはおろか、横になることすら難しい、と美音は言い切った。要はそれはわかってる、と返し、さらに説明を進める。
「今のままならね。でも、この店は平屋なんだから増築するって手があるじゃないか」
「その間、お店休むんですか?」
あまりにも予想どおりの反応にやれやれと思いながら、要は箸を置いた。背筋をぴんと伸ばし、おもむろに頭を下げる。
「休業になるのは申し訳ない。でも、最短最速でなんとかする」
「そんなこと言われても、増築っていろいろ手間がかかるし、この店を住めるようにするとなると、下手すると新築かそれ以上に時間がかかっちゃうんじゃないですか?」
狭い平屋の上に増築する工事は難しいと聞いている。特にこの店は昔の基準で建てられている建物だから、いじるとなったらあれこれ問題も山積みで何ヶ月もかかりかねない。その間ずっと『ぼったくり』を休むことなんてできない――と美音は心配する。さらに、はっとしたように言った。
「もしかして、全部壊して建て直すとか……?」
そんなの嫌です、と美音は全力で抗議を始めようとした。
『ぼったくり』は美音の両親が苦労して手に入れ、育て、美音と馨が引き継いだ店だ。彼らがどれほど大事にしてきたかを、要もちゃんとわかっている。全部壊して建て直すなんてありえないし、そんなことをすると思われたこと自体が心外だった。
けれど、美音にしてみればあまりにも寝耳に水の話だし、工期を縮めるためにはそれぐらいしないと無理だと考えたとしても責められない。
とにかく美音にとってこの店は命なのだ、と再確認し、要はなんとか美音を安心させようと努めた。
「心配しないで。全部壊したりしないから」
「だとしたら、やっぱり何ヶ月もかかっちゃいます」
「二ヶ月」
「え?」
「佐島建設の総力を挙げて、なにがなんでも六十日で仕上げる」
これが漫画であったならば、こめかみから汗がつつーっと流れていただろう。美音の表情はそう表現したくなるほどだった。おそらく、そんな短い期間では無理だという気持ちと、そうであってほしいという気持ちがせめぎ合い、その上に、実現するためにこの人はなにをやらかすつもりだろう、という恐れが加わっている。
「総力とか挙げなくていいですから!」
やがて身を乗り出すようにして言った台詞には、自分の店のために、周りを巻き込んで大騒動なんて論外だ、という思いが溢れていた。
「いや……あの、私、普通の増築工事がどれぐらい時間がかかるものなのかも知りませんけど、やっぱり二ヶ月とかじゃ無理だと……」
「大丈夫。おれはこれでもその道のプロだよ。そのおれが二ヶ月と言ったら二ヶ月なんだ。何ならもう二、三日ぐらいなら繰り上げ……」
「け、けっこうです! それぐらいならきっと、皆さんも待ってくださいます!」
「だよね。常連たちはこの店を熱愛してる。それぐらいで離れたりしないよ」
「これぐらいで離れてしまうなら、この間の鰻の賞味期限切れ騒動でとっくに見限られてるはずです。――でも、工期に間に合わせるために、職人さんたちに無理をさせることになるんじゃないですか?」
『ぼったくり』にはトクやマサ、アキラといった職人の客も多い。無理な注文に苦労している姿は何度も見てきた。それだけに、たとえ見ず知らずの職人たちであっても、大変な思いはしてほしくない、と美音は言い張った。
「要さんに追い立てられて、昼夜も問わず突貫工事、とかあり得ませんから」
「わかってるよ。そこまで無理はしなくても大丈夫。人をたくさん使えばなんとかなる」
「そうですか……じゃなくて!!」
そこでまた、美音は大声を出した。
「問題はそんなことじゃありませんでした! ごめんなさい、要さん。やっぱり無理です。私にも馨にもそんなお金はないし、借りようにも……」
なんとまあよく似た姉妹だ。二人揃って同じ言い方をするなんて……と、要は笑い出したくなった。もちろん、その懸念に対する要の反応だって同じだ。
「ご心配なく。おれだって住むんだから、おれが工面する。もっとも、おれもここに住んでいいって、君が言ってくれるなら、だけどね」
「それはもちろん……でも、やっぱり……」
「費用はどうにでもなる。問題は、君と馨さんの気持ちだよ。おれとしては、君とおれがここに、今の家に馨さんが住むことにしたほうが、いろいろうまくいくと思う。馨さんが結婚しても、そのまま住み続けられるし」
そこで要は、美音の家族の気持ちを代弁する形で言葉を連ねた。
「馨さんはきっと、自分が家を出れば今の家におれたちが住める、って考えてると思う。もしかしたら部屋を探し始めてるかもしれない。でも、おれは、おれたちのために馨さんにそんな犠牲は払ってほしくない。馨さんだって、君と同じぐらいこの町から離れたくないって思ってるだろうしね。なにより、君たちふたりに家と店を残したご両親の気持ちを考えたら、君が店を、馨さんが家を受け継ぐのが一番なんじゃないかと思う」
これにはさすがの美音も反論できなかったとみえて、渋々といった様子で首を縦に振りかけた。ところが、何を思ったか途中で動きを止め、なにかを考え始める。
「どうしたの? まだなにか気になることでも?」
工期も費用も家族の気持ちまでも考慮した計画に瑕疵があるとは思えないし、要は、美音が新たな問題を持ち出してきても論破するつもりだった。だが、次に美音の口から出てきたのは美音や家族ではなく、要自身に関わる問題だった。
「要さんがここに住むとしたら、八重さんはどうなるんですか? 私には八重さんをひとりになんてできません」
必死な面持ちで訴える美音に、要は確かめるように訊いた。
「それが君の最後の気がかり?」
「最後? ええ……まあ……そうですね」
「じゃあ問題ない。それは解決済み」
要は、以前から美音が母のことを気にしているのは知っていた。
この近くに借りられる物件はない。当初、ふたりが結婚した場合、おそらく今要が住んでいる八重の家、あるいは学生時代に使っていたマンションのどちらかに住むことになるだろうと考えていた。ふたつの候補を考えたとき、要のマンションのほうがわずかなりとも『ぼったくり』に近い。八重の家では通勤に一時間近くかかってしまうのだ。かといって、マンションに居を構えた場合、八重はひとりになってしまう――美音が結婚についての具体的な話を進めようとしないのは、そんな懸念からではないかと要は思っていたのである。
美音の気持ちは嬉しかったし、なんとかうまく納める方法はないかと考え続けてきた。だからこそ『ぼったくり』の増築を考えついた日、家に帰るなり、母の気持ちを確かめもしたのである。
「お袋のことは心配ない。むしろ、夜中まで帰ってこない息子を心配しなくてすむようになってありがたいってさ」
美音の懸念について聞かされた八重は驚き、美音に、その気遣いだけで十分、それ以上思い煩わないでくれ、と伝えるよう要に頼んだ。ふたりが相談して好きな場所に住めばいいし、それが店の上ならなおさらいい。美音の負担が最小限に止められるだろう、と喜んでくれたのだ。
「お袋ときたら、ひどい言いようだったんだぞ。『やっと重い腰を上げたのね! おまえがぼやぼやしてるうちに、美音さんが我に返って逃げ出したらどうしようって心配してたのよ』だってさ」
「我に返って……って」
「とんでもないよな。思わず、『おれが美音をだまくらかしたような言い方はやめてくれ』って言ったら、『あら違うの?』なんて真顔で言われた」
絶句した要をひとしきり笑ったあと、さらに八重は言った。
新婚ほやほやの邪魔なんてしたくないし、この先心配なことが出てきたら佐島の三食昼寝付きの家に帰るなり、お前たちのところに転がり込むなりするから、そのときはよろしく――と。
そして八重は、要が『ぼったくり』の上に住むとしたら、自分も時々店を訪れられる。それはそれでとても楽しみだ、と喜んだのである。
「ほんとにそれでいいんでしょうか……」
話を聞いた美音は、かなり戸惑っていた。けれど、最後には、本当に何かあったらすぐに相談してもらってくださいね、と何度も念を押し、『ぼったくり』を増築することを受け入れた。おそらく他に方法はないし、八重がそう言ってくれている以上、甘えるしかないと思ったのだろう。
これでよし――
要は、そう思って酒のおかわりを注文しようとした。ところが美音はまた思案顔である。やむなく要は、水を向けてみることにした。
「まだなにかあるの?」
美音はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「要さんはお金持ちなんですか?」
一瞬、何が訊きたいのかわからなかった。怪訝な顔をする要に、美音は改めて訊ねる。
「要さんのお家がお金持ちだってことは知ってます。でも、要さん自身は? 『ぼったくり』の増築にかかるお金は、要さんのお家じゃなくて、要さん自身が稼いだり、借りたりするものですか?」
「美音……」
金に名前が書いてあるわけじゃない。誰が稼いだものであっても、使う権利が与えられているなら使えばいい。美音に知り合う前の要だったら、こんな質問は笑い飛ばしただろう。
けれど、今の要には、『自分の責任の範疇か否か』が美音にとっていかに大切なことなのか十分理解していた。おそらく美音は、この店に手を入れるなら自分の稼いだもので、と思っていたに違いない。
だが、事実上それは不可能だ。特に、今すぐと言われれば無理に決まっている。要が払うと言うから渋々了承したものの、いざとなったら出所が気になってきた。要本人が工面したものではなく、佐島家から流れてくるものだとしたら受け入れがたい。それが美音の本心だろう。
「大丈夫だよ」
要は、できるだけ美音を安心させられるよう、満面の笑みで答えた。
「おれはちゃんと会社に貢献して、けっこういい給料をもらってる。で、どこかの居酒屋で連日ぼったくられる以外は浪費もしない。そもそもそんな時間はないんだ。だから心配ない。ご両親から受け継いだとはいえ、この店は君が何年も頑張ったうえで自分の城にしたものだし、これからはおれと君の住まいになる。その出発点を他の人間に頼ったりしないよ」
「連日ぼったくられる……」
美音は、ちょっと口をとがらせながらも、安堵の表情を浮かべた。
「よかった……。君だってこの店を親からもらっただろう、って言われたらどうしようと思いました」
「それぐらいはわかってるよ。何もかも全て、は無理にしても、できるだけふたりの力でやっていこうとおれは思ってる」
「ありがとうございます。でも、費用はちゃんと会社に払ってくださいね」
「社員割引以上には値切らないよ」
「あるんですか? 社員割引?」
「そりゃあるよ。でも兄貴たちは使えないけどな」
「なんでですか?」
「役員以上は社員じゃないから」
「へえ……そうなんですか。よかったあ、要さんが平社員で」
平社員を喜ぶのは珍しい。なにより、少なくとも自分は平よりは少し上だ、と要は心の中で苦笑いをする。
だが、要が会社でどんな地位にいようと美音は構わないらしい。いっそ会社に言って、平社員に戻してもらおうか。そうすればもう少し仕事が減って、早く帰れるようになるかもしれない。
なんとか役員クラスに取り立ててもっと便利に使おうと躍起になっているクソ爺や兄貴はものすごく怒るだろうけれど……
困り果てる祖父と兄を思い浮かべ、要は溜飲が下がる思いだった。
「ということで、『ぼったくり』増築計画発動、でいいね?」
「よろしくお願いします」
「で、工事をやってる二ヶ月の間に、あれこれ片付けるから」
「あれこれ? 家の片付けですか?」
それは増築に入る前にやるべきことじゃないんですか、と美音は首を傾げた。要は本日何度目かの『やれやれ』である。
「ここを増築するのはなんのため?」
「もちろん住むためです」
「誰が?」
「要さんと私?」
「だよね。おれたちは結婚してここに住む。結婚そのものは紙切れ一枚で済む話なんだけど、この日本って国は、非常に面倒くさいことに、届けを出す以上にイベントを大事にするらしい」
ふんふんと聞いているにもかかわらず、美音は依然として要の言わんとするところをわかっていないらしい。とうとうしびれを切らした要は、お得意の直球勝負に出ることにした。
「というわけで、結婚にあたっては結婚式が必要。『ぼったくり』を増築している間に、式を挙げてついでに新婚旅行を楽しもう、って話」
わかった? と訊ねられ、美音はこくこくと頷いた。
「ならよかった。結婚式はなしでも構わないといえば構わないんだけど、それはそれでかなり面倒なことになる。うちは親類縁者の数も多いし、挨拶しないと文句を言う奴ばっかり。というわけで、さっさと結婚式を済ませてしまおう」
「さっさと……?」
その一言で、要は『しまった!』と声を上げそうになった。
佐島家三代続きの黒歴史プロポーズで痛い目を見たばかりなのに、またこんな言い方をしてしまった。
これが八重の耳に入ったら、ペナルティとして今度はドイツよりもずっと交通の便の悪いところに飛ばされかねない。しかも、美音の様子を見る限り、ご注進に及ばれる可能性は大だった。
これはまずい、と悟った要は、すぐに『正しい』理由を持ち出した。
「君のことだから結婚式なんて面倒だし、お金のことも気になるかもしれない。でも、おれはどうしても君の花嫁姿が見たい。普段の飾らない君も大好きだけど、おれのためだけに、これ以上ないってぐらい着飾った君が見たいんだ。でもって、これがおれの奥さんだ、おれのだから誰も触るんじゃないぞ! って世界中に宣言したい」
「いや、あの、それこそ必要ありません。私に手を出す人なんていませんから……あ、要さんを除いてですけど」
そう言ったあと美音は、いきなりしゃがみ込んだ。そのまま流しの下をごそごそやり、顔を上げようとしない。おそらく、会話の甘ったるさに耐えがたくなったのだろう。きっと顔も赤くなっているに違いない。
いつだったかの朝、トマト以上ケチャップ以下の赤さに染まっていた美音が思い出された。それと同時に、この店の上に住むというアイデアの秀逸さを再認識する。
もとより美音にはファンが多い。常連ばかりではなく、商店街や近隣の人々まで含めれば相当な数に上るはずだ。美音にちょっかいをかけようとする輩がいないとも限らない。そんな人はいないと美音は言い張るが、要にしてみれば、己を知らないにもほどがある! と叫びたいぐらいだった。
いずれにしても、大規模な増築がおこなわれれば、その理由について取りざたされるに決まっているし、自ずと美音の結婚も知れ渡るだろう。さらに、毎日ここに戻ってくる亭主がいるのだから、美音に懸想する人間がいたとしても迂闊なことはできないはずだ。
そこでようやく美音が立ち上がった。手には一升瓶があり、ラベルには『醉心』という文字が見える。この酒なら要も知っている。確か、日本画家の横山大観が愛飲したと言われる銘柄のはずだ。
薄く赤みの残る顔で美音は、徳利に酒を注ぐ。
「『醉心』か……好きな酒だ」
「ご存じですか?」
「ああ。広島の酒だよね?」
「ええ、広島県三原市にある株式会社醉心山根本店が造ってます。これは『醉心 軟水の辛口 純米酒』というお酒で、仕込み水が軟水なので、口当たりがすごく良いんです」
「確かに。そういえば前に呑んだときも、燗酒だったな……」
「でしょうね。このお酒はぬる燗にすると香りが立つし、味もものすごく膨らみます。もちろん冷酒や常温でも美味しいんですけど、寒いときはやっぱりお燗がおすすめです」
酒の説明をしているうちに美音の赤らんだ頬はすっかり元通りになる。さすがだな、と思いつつも寂しさが隠せない。それでも視線は美音の手元に釘付け、この酒に合わせてどんな料理を出してくれるのかが気になってならない。どっちもどっちだな、なんて苦笑いが浮かんだ。
「はい、どうぞ」
渡された猪口を受け取り、美音が酒を注いでくれるのを待つ。注がれた酒の、熱燗とは違うほんのりとした温もりを喜びつつ口に運ぶと、すっきりとした辛さと程よい旨みが広がった。
程なく目の前に出されたのは、ひとり用の土鍋。底には出汁昆布が敷かれ、豆腐の角切りと斜めに切られた葱が揺れている。黒褐色の昆布と真っ白な豆腐のコントラストが美しかった。
「湯豆腐か……いいね、シンプルで」
早速添えられた豆腐すくいでとんすいに取る。先ほどの大根に懲りて、舌を焼かれないよう気をつけながら食べてみた要は、予想外の味に目を見張った。
「あれ……すっぱくない……」
とんすいにあらかじめ合わせ調味料が入っていたから、ポン酢だと思い込んでいた。だが、柑橘類独特の酸味が一切ない。ただただ醤油の旨みだけが伝わってくるのだ。
嬉しそうに笑って美音が言う。
「ポン酢だと思ったでしょう?」
「うん、てっきり……。でも、ただの醤油でもないよね?」
「実はこれ、出汁醤油なんです」
だし汁に醤油とみりん、酒を加えて火にかけ、追い鰹をしただけ。家にある調味料で簡単に作れるし、豆腐や酒の味を邪魔することもない、と美音は自慢げだった。
「なるほどねえ……確かに、しみじみ旨いよ、これ」
「でしょう? 夏の暑いときはポン酢の酸味が嬉しいですけど、寒いときはこういう優しい味も乙だと思うんです。あ、あとで卵の黄身を落としますか?」
「え、湯豆腐に?」
「じゃなくて、タレのほうに。コクとボリュームが出ていいっておっしゃる常連さんもいらっしゃるんですよ」
「へえ……じゃあ、試してみようかな」
要の答えに、美音は早速卵を割り、黄身だけをタレの器にそっと移した。
地域にもよるが、蕎麦のつゆにウズラの卵を落とす食べ方を好む人は多い。あれと似たようなものだろうか、と思いつつ黒褐色とオレンジに近い黄色が混ざり合ったタレを豆腐に絡める。ウズラよりも卵黄が大きい分、甘みがしっかり伝わってきて、タレの濃い味とのバランスが絶妙だった。
「すごいなこれ……。もちろん、豆腐そのものの旨さがあってのことだろうけど……」
「戸田さんのお豆腐なんですよ。湯豆腐にはやっぱり戸田さんじゃないと」
あわや入院かと思われた『豆腐の戸田』の若嫁マリは、姑のショウコが作った栗きんとんでなんとか重いつわりを乗り切った。無理のない範囲でなら、という医者の許可も下り、再び店に立つようにもなった。今日も美音は、マリの元気な笑顔を見に『豆腐の戸田』に立ち寄り、湯豆腐用に極上の豆腐を買ってきたのだ。
「そうかあ……よかったね、元気になって」
「ええ。あれだけ駄目だった豆乳の匂いも、もう全然平気なんですって。人間の身体って本当に不思議ですね」
やっぱり気の持ちようなのかしら……と美音が呟く。
確かに、気の持ちようというのはあるのかもしれない。そしてそれは、重いつわりに限ったことではない。
これまで要は、美音をカウンターの向こうから引っ張り出すのに四苦八苦していた。このカウンターが城壁のように思えたことまであったのだ。だがここに住むと決めた今、カウンターは城壁としての役割を終えた。
『ぼったくり』は美音が譲り受け、育ててきた城だ。それは紛れもない事実である。けれど、要自身がここに住むことで、城は美音だけのものではなくなる。城壁の中に引きこもられ、やきもきする必要はなくなるのだ。
どんな堅牢な城だろうと、中に入り込んだらこっちの勝ち――
湯豆腐を肴に燗酒を堪能しながら、要は満面の笑みを浮かべていた。
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