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10巻
10-2
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『――ということで、要さん。私どうしたらいいと思います?』
馨からの長いメールは、そんな一文で結ばれていた。
要は、あまりにも馨らしい文章に噴き出しそうになった。メールを読んだのが会社でなければ、盛大に笑い出していたことだろう。
美音と馨は月に二度おこなわれる町内会主催の公園掃除に、交替で出席している。メールを読む限り、今週は馨の番だったようだ。
遅々として進まぬ、どころかまったく始まる気配さえ見えない結婚の準備にしびれを切らした馨は、なんとかならないかと町内のご意見番に相談した。さらに、姉が結婚したあとの自分の身の振り方についても考えてみたが、いいアイデアは浮かばなかった。姉に迷惑はかけたくないし、なんとか上手くいく方法はないか、というのがメールの主旨である。
しかも、どこから引っ張り出したのか、巨大な下駄のスタンプまで添えられている。
――下駄を預けるってことか……。これぞ、『下の子気質』だな。
静まりかえったオフィスで、笑いを堪えつつ要は考える。
生まれたときからずっと、しっかりもののお姉ちゃんに庇われてきた純正の『下の子気質』。
美音と馨は姉妹の仲もすこぶる良かったに違いない。要のように、兄の怜に対してひねくれた思いを抱くこともなく、馨はただただかわいがられ、面倒を見てもらって育った。馨がとても甘え上手で、誰とでもすぐに打ち解けるのはそのせいだろう。明確に境界を設け、なかなか本心をさらけ出さない美音とは対照的な妹だった。これが美音であれば、絶対にこんなメールは寄越さない。ひとりで延々と悩み続けるに違いない。
『ぼったくり』にはちょくちょく出入りしているし、早めの時間に足を運べば馨に会うことも可能だ。けれど、妹が自分の恋人にこんなメールを打ったと知ったら、美音は馨の首を絞めかねない。
さすがにそれは気の毒、ということで、要は美音の目に触れないところで馨に会うことにした。
『ぼったくり』で働く馨を夜に呼び出すことは難しい。かといって、昼間は自分が仕事をしている。
思案の末、要は昼食時なら会えるかもしれないと思いついた。早速メールで確認したところ、すぐに返信が来て、ふたりのランチミーティングは三日後の正午からと決まったのだった。
要が会合の場に選んだのは、とある老舗料亭だった。その店なら馨が出てくるのに交通の便も悪くないし、何より個室がある。他人の目を気にせずに話ができるだろう、と考えてのことである。
ちょうどその日、要は店の近くの現場で打ち合わせの予定が入っていた。そのため、時間に遅れることはないと考えていたのだが、あいにく打ち合わせが長引き、要が到着したのは正午を十分ほど過ぎた時刻だった。
馨は既に部屋に通されていて、要が着くなり頭を下げてくる。
「ごめんなさい。お忙しいのに」
「いや、ぜんぜん。こっちこそ、待たせて悪かった」
そこで要は、お茶を運んできた仲居にふたり分の昼懐石を注文した。馨に注文を訊くべきか一瞬迷ったものの、どのみちこの店のランチタイムは、昼懐石か天丼、あるいは刺身定食ぐらいしか出さないし、昼懐石はこの店の売りでもある。料理に携わる仕事をしている馨なら、昼懐石を選ぶだろうと考えてのことだった。
案の定、馨は注文に関しては異議を唱えず、神妙な顔でおしぼりを使っている。
『ぼったくり』界隈ではかなり若いほう、かつ盛り上げ役の馨は、普段から賑やかな言動が目立つ。それなのに今日に限ってこんなに落ち着いている。場所が変われば、こうも変わるものか、と不思議になるほどだった。
とはいえ、馨はすでに二十代後半だ。TPOぐらいわきまえていて当然だし、落ち着きすぎるほど落ち着いている姉の手前、道化を引き受けざるを得なくなっているのかもしれない。
「で、あたし、どうしたらいいと思います?」
馨のあまりにも単刀直入な質問に、要はまた笑い出しそうになる。なんという両極端な、それでいて、目の前の問題をなんとかして解決しようという姿勢そのものはとても似ている姉妹だった。
「君はどうしたいの?」
まずは本人の希望を聞き、それが叶えられるかどうか、叶えるために何をどうすればいいか考える。それは、日常生活のみならず、仕事にも共通する要のやり方だった。
どうしたいって訊かれてもなあ……
馨は、半ば困惑して向かいに座る男に目を向けた。
『ぼったくり』に来るとき、彼はいつもワイシャツにネクタイ、作業服の上衣というスタイルだ。けれど今日は、ビジネススーツをきちんと着こなしている。おそらく、老舗料亭という場所を考えてスーツにしたのだろう。
お茶を運んできてくれた仲居さんへの対応も無礼とかぞんざいといった言葉からはほど遠く、そつがないとしか言いようがない。ただ、そんな姿からはあまりにも隙というものが窺えず、彼にとって『ぼったくり』がどれほどリラックスできる場所なのかを痛感させられた。
姉は普段から、要さんは『ぼったくり』だけではなく、この町自体にそぐわない、掃き溜めに鶴もいいところだ、と言っている。それでも馨としては、子猫の治療費の支払いや大間抜けなプロポーズの話を聞く限り、『ぼったくり』界隈の住民とどっこいどっこいじゃないかと思っていたのだ。
けれど、こうやってそこら中から『高級』という文字が浮かび上がってきそうな店にいる要は、まったく違和感がなく、姉の言うことはやはり正しいような気がしてきた。
確かにこの人は佐島のお坊ちゃまなのだ。よくぞまあ、こんな人がうちの店の常連になったものだ、と改めて感心してしまう。
その隙のないお坊ちゃまに、面と向かって『君はどうしたいの?』なんて訊かれても、即答なんてできない。それがわかっているぐらいなら、こんな会合必要ないでしょ、と言い返したくなるほどだった。
答えを見つけられずに困っていると、要はふっと笑って質問を変えた。
「じゃあ、イエスかノーで答えられるようにしようか。おれたちと一緒に住むのはどう?」
「ノー。勘弁してほしいです」
おそらく本人たちは無自覚なのだろうが、馨にしてみれば、このふたりのやりとりは甘ったるすぎる。このふたりと一緒に暮らしたら、全身砂糖まみれで、あっという間に『馨の甘露煮』の出来上がりだ。正直、まっぴらごめんだった。
『まっぴらごめん』という思いは、ストレートに顔に出ていたらしく、要は苦笑しつつ両手を上げて、馨を宥めた。
「わかったわかった。じゃあ、次の質問だ。君はあの町から出たくはないよね?」
「はい。でも、そんなの無理だし……」
「どうして?」
要は、まるで天然そのものの姉みたいに小首を傾げて問い返した。
「住む場所がありません。あの町には賃貸物件が少ないし、その数少ない賃貸も空き部屋なんてまったくありません。治安がいいし、商店街も近くて便利なので、多少駅から遠くても住みたがる人が多いんです。新しいショッピングセンターができたせいで、さらに人気が上がったみたいだし、入れ替わりだって滅多にないんです」
要は、早速届いた料理に箸をつけつつ、馨の話を聞いている。昼休みを使っていることはわかっているし、仕事に差し障りがあっては大変だと思った馨は、自分も食べ始めることにした。
冷めないうちに、と蓋を取ったお椀から濃く引かれた出汁の香りが立ち上る。次いで馨は、かわいらしい手鞠麩に目を奪われた。難しい相談事を持ち込んでおいて、本題そっちのけで食べ物に見入ってしまうなんて、自分は案外姉に似ているのかもしれないと思う。
要は、出汁の香りと手鞠麩にため息を漏らした馨を、クスクス笑う。「そっくりだね」という声が聞こえたところを見ると、同じように感じているのだろう。
香りから感じた期待をまったく裏切らないすまし汁を味わったあと、馨はまた話し始めた。
「そういうわけで、あの町内に住むことは無理なんです。駅裏の古いマンションかアパートならなんとかなるかもしれませんけど……」
「あの辺はあんまりおすすめとは言えないな。家賃は手頃かもしれないけど、強度面がかなり心配だ。耐震補強をやった気配もないし、それぐらいならうちが建てた表のマンションのほうがずっといい」
分譲が多い建物だが、いくつかは賃貸物件もあったはずだ、と要は言う。
馨だってそれぐらいのことは知っていたが、建物がしっかりしている上に駅の真ん前という物件が借りられるわけがなかった。
「そりゃそうでしょうけど、あそこの家賃はきっとすごく高いんでしょう? あたしには払えません」
「うーん……」
要がもろに困った顔になった。
その理由は明白だ。どうせ彼のことだから、それぐらい自分が……とかなんとか言おうとしたに違いない。そして、次の瞬間、それを言ったら馨や美音がどう考えるかに思い至り、言うに言えなくなったに決まっている。
要が、美音と馨の財布事情を知っているとは思えない。けれど、彼はやり手のサラリーマンらしいし、『ぼったくり』なんて名ばかりの居酒屋がどの程度利益を上げているかの見当ぐらいつけられるだろう。それをふたりでどう分けていたところで、駅前の立派なマンションの家賃なんて払えるわけがない。そもそも、住居費なんて今までずっとゼロできたのだから、どんな金額だって負担が増えることになってしまうのだ。
それでも、『おれには余裕があるから払う』なんて口に出した日には、姉は烈火のごとく怒るだろう。
「本当に君たちはよく似ているし、おれが今まで見てきた人たちとあまりにも違いすぎて面食らうよ」
要は言外に『すぐに兄妹になる仲なんだから、もう少し頼ってくれても』と匂わせてくる。だが、それに甘えることはできないし、馨自身、したくなかった。
要は、焼きたてで運ばれてきたサワラの西京漬けを箸でほぐしている。そのいかにも育ちの良さそうな箸使いを見ながら、馨は言った。
「家賃ならおれが……とかは、絶対言わないでくださいね」
「やっぱりだめかな」
馨は西京漬けに添えてあったハジカミを囓り、少し甘すぎる西京味噌の後味を消しながら答えた。
「駄目に決まってるでしょ? お姉ちゃん、『激おこぷんぷん丸』になっちゃいますよ」
要が『激おこぷんぷん丸』なんて言葉を知っているとは思えない。なにせ語源もはっきりしない、いわゆる『ギャル語』なのだ。それでも、美音の怒りを表現しているということぐらいはわかってくれるだろう。案の定、要はすんなり頷いた。
「『激おこ』かあ……それは困るな」
「お姉ちゃんは、水商売への負い目が馬鹿みたいに大きいんです。誰かにお金を出してもらうなんて、まるでパトロンみたいだってぎゃあぎゃあ言うに決まってます。ましてや、要さんがあたしの家賃を払うなんてことになったら、『馨を囲う気なの!』とか、仁王立ちで怒鳴りますよ」
「あの子猫のときみたいに?」
「あんなもんじゃすみません」
あのとき要は、特に深い考えもなく子猫の医者代を支払ったのだろう。おかげで味わうことになった苦い思いを忘れているとは思えない。
一度限り、しかも拾った子猫にかかった病院代ですらああだったのだから、血を分けた妹の毎月かかる家賃となったら、どれほど怒るかは火を見るより明らかだった。
要は、最大級の苦笑いを浮かべている。まっぴらごめんと顔に書いてあった。
「あれは勘弁してもらいたいな」
「でしょう? 本音を言えば、あたしはありがたく頂戴したい気持ちもありますが、お姉ちゃんに滅多切りにされるのは嫌です」
「そうか……じゃあ、どうしようね?」
「それを相談しに来たんじゃないですか」
大人の知恵を貸してください、という思いを込めて、馨は真っ直ぐに要を見つめた。
要はちょっと途方に暮れた気分だった。
馨は、お金はいらないから知恵だけ頂戴、といった様子で、揚げたての天ぷらにかぶりついている。端っこにちょっと塩を付けたキスがさくっと音を立てて馨の口の中に消えた。
若いだけあって食べ方も豪快、スピードも気持ちがいいほどだった。
馨に釣られるようにけっこうなスピードで食事を進めながら、要は頭の中で状況を整理する。
まず美音の希望。言うまでもなく、彼女はあの町を離れたくないと思っている。それに、要自身があの町と関わっていたいし、あの町に住んでいる美音が好きなのだ。
『ぼったくり』の女将という仕事を続ける上でも、徒歩で通える距離は望ましいし、通勤に時間を取られるなんてもっての外だ。できることなら、通勤時間なんてゼロにしてやりたいほどだった。
「あ……そうか!」
思わず、大きな声が出た。
馨は怪訝そうな目で見てくるが、かまっていられない。要はたった今浮かんだアイデアを、実現する方法を考え出すことで頭がいっぱいだった。そしてほどなく、その方法を思いつく。
「通勤時間がもったいない。それなら、ゼロにしちゃえばいいんだ」
「ふぁ?」
あまりにも唐突な台詞だったのか、馨は大きなエビ天を口に入れてもぐもぐしながら、間の抜けた返事をした。
「『ぼったくり』は平屋だよね?」
「え、ええ。いつもご覧になってるとおりですけど?」
続いて小さく、見てわからなきゃ聞いてもわからん、なんて、マサあたりが言いそうな台詞が聞こえる。それには応えず、要は話の先を急いだ。
「あの商店街は店舗併用住宅、つまり店の上に住んでる人が大半だけど、『ぼったくり』もそうすればいいんじゃないかな。今の平屋の上に、住まいを増築するっていうのはどうだろう?」
なんでも、『ぼったくり』の店舗は商いが上手くいかずに閉店してしまった居酒屋を、美音の両親が買い取ったものらしい。
美音によると、最初は借りていたそうだが、何年かしてから買い取ってくれないかという話が出てきたそうだ。美音の父親は相当悩んだらしいが、破格の値段だったし、このまま賃料を払い続けるよりは……ということで、清水の舞台から飛び降りるつもりで買い取ったのだという。
あの町は駅から離れているため、駅に行くにはバスに乗るしかない。居酒屋は夜遅くまで営業する商いだし、店を閉めたあとも片付けやら翌日の仕込みやらもある。最終バスに間に合わないことも多々あるはずだ。店の上に住むことができない建物はどうしたって不便になる。借りるならまだしも、買うとなったら二の足を踏むに違いない。ところが、その時点で既に美音の両親は町内に家を構えていて帰る足の心配はなかった。店一軒の価格としては破格も破格。その理由が交通の便と店舗にしか使えない平屋だということなら買うしかない、と判断したそうだ。
とはいえ、なんとか買い取ったもののそのための借金は重く、それ以上お金をかけて手を入れることなど考えられなかった。加えて、家は別にあるのだからわざわざ住めるようにする理由もない。
それが、周り中が店舗併用住宅である中、なぜ『ぼったくり』だけが平屋のままなのか、という要の問いに対する美音の答えだった。
それならば、『ぼったくり』の上に住居を増築し、美音と要はそこに住めばいい。美音は通勤時間がゼロになるし、馨もこの町から離れずにすむ。
起死回生の逆転ホームランだ、と要は自画自賛してしまった。
「ってことで、おれたちが『ぼったくり』に引っ越せばいいと思うんだ」
「いや……要さん、それはちょっと……」
「え、だめ? なにか問題があるのかな?」
いとも簡単にそんなことを言う要に、馨は唖然としてしまった。
美音が『ぼったくり』の上に住み、自分は今の家に残る。確かに、それで万事解決だ。
いつか馨が結婚したとしても、あの家なら十分暮らしていける。哲だって喜んでくれそうだ。
なんといっても住居費がゼロなのだから、こんなにありがたい話はない。
だが、建物に手を入れるにはお金がかかる。内装をちょっと弄るだけでも、六桁を超えるお金がかかってしまう。ましてや、今、要が持ち出したのはと内装云々ではなく、増築なのだ。
今はふたりだとしても、将来家族が増える可能性を考えれば、部屋数だって設備だってそれ相応のものが必要だ。どうかすると、今ある部分より建て増し部分のほうが大きくなりかねない。補強だの何だの言いだしたら、家一軒建てるのと大差ないのではないか。
姉はそもそも締まり屋だし、仕事ばかりでお金なんて使う暇はなかった。それなりに蓄えはあるはずだが、家一軒建てるほどとは思えない。もちろん、馨自身、じゃあこれを足しにして、なんて差し出せるようなお金もない。
「いいアイデアだとは思うんですけど……」
アイデアは素晴らしいのに先立つものがない。悩ましいというか、悔しくなるレベルの話にすっかり食欲が失せ、馨はとうとう箸を置いてしまった。
それなのに、要は何食わぬ顔で訊ねてくる。
「もしかして、お金のことを心配してる?」
「はい。だって、お姉ちゃんもあたしもそんなお金はないし、借りようにも……」
三十そこそこの娘、しかも自分たちは会社勤めもしたことがない。社会的信用という意味では底辺に近い自分たちに、お金を貸してくれる人なんていないだろう。銀行だって門前払いされるに決まっている。
馨の話を聞いた要は、明らかに落胆している様子だった。せっかくのアイデアを生かせないのだから無理もない。ところが、あまりにも申し訳なくて謝ろうとした馨を、要は片手で制した。
「ごめんなさい、っていうのはなしだよ。これはそういう話じゃないんだ」
「……ていうと?」
そこで要は、肺が空っぽになるほど深いため息をつき、心底つまらなそうに言った。
「君たち姉妹は、本当におれをなんだと思ってるんだろうねえ」
「はい?」
「おれさあ、自分で言うのもなんだけど、これでも会社ではそこそこ評価されてるし、給料だってけっこうもらってる。貯金もそれなりにはあるし、銀行からも借りようと思えば借りられるはず。自分が住む家にかかる金ぐらいなんとかできるよ」
君が住む家の家賃じゃないなら、美音も文句は言わないだろう。たとえ言ったとしても、おれがおれの住む環境を整えてどこが悪いって言い返すけどね、と要は笑った。
「それでもぶつぶつ言ったら、君はおれをヒモにする気か、って言うことにする」
「ヒ、ヒモ……」
馨は、そう言われたときの美音の顔が目に浮かびそうだった。
文句はいくらでも言いたいだろうに、つけいる隙がまったくない。というか、聞く耳持たないままに突っ走りそうなこの男に、ため息を連発することだろう。
目の前の男はこれが一番手っ取り早くて、みんなの希望に添う方法だと確信しているように見える。もはや、要を止められるものなんてない。それこそ、佐島建設創始者一族として、持てる伝手やらコネやら全部使って、あっという間に工事を終わらせ、さあ住むぞ、とばかりに乗り込んでくるに違いない。
「そんな感じでどうかな?」
要は、満足そうに馨に確認を取ってくる。
早急に姉に提案して、可及的速やかに増築を進めるつもりだから、協力をよろしく、ということだろう。うまくいくかどうかはわからないが、それこそダメ元である。なにより、不利益は一切ないのだから乗っかるしかない、というのが、馨の正直な感想だった。
「あたしにとっては、すごくありがたいお話です。お姉ちゃんがなんて言うかは、わかりませんけど……」
美音なら、増築なんて嫌だ、その間お店を休むなんてとんでもないと、言い出しかねない。さらにもうひとつ、美音が気にしていることが頭をちらつく。八重の問題を解決しない限り、姉がこの計画に頷くこともないだろう。要がそれらをどう乗り越えていくのかとても興味深かった。
要は多少の融通は利くから時間なんて気にしなくてもいい、と言ってくれたが、さすがにそうはいかない。要は近い将来、義兄になる人だ。自分が原因で『時間にルーズ』なんてレッテルを貼られたくない。その一念で、馨はせっせと料理を平らげ、ふたりはなんとか『長めの昼休み』程度の時間で食事を終えた。
今日の会合はおおむね成功だ。あとはこの人のお手並み拝見、ということで、馨は意気揚々と帰宅した。
『――ということで、要さん。私どうしたらいいと思います?』
馨からの長いメールは、そんな一文で結ばれていた。
要は、あまりにも馨らしい文章に噴き出しそうになった。メールを読んだのが会社でなければ、盛大に笑い出していたことだろう。
美音と馨は月に二度おこなわれる町内会主催の公園掃除に、交替で出席している。メールを読む限り、今週は馨の番だったようだ。
遅々として進まぬ、どころかまったく始まる気配さえ見えない結婚の準備にしびれを切らした馨は、なんとかならないかと町内のご意見番に相談した。さらに、姉が結婚したあとの自分の身の振り方についても考えてみたが、いいアイデアは浮かばなかった。姉に迷惑はかけたくないし、なんとか上手くいく方法はないか、というのがメールの主旨である。
しかも、どこから引っ張り出したのか、巨大な下駄のスタンプまで添えられている。
――下駄を預けるってことか……。これぞ、『下の子気質』だな。
静まりかえったオフィスで、笑いを堪えつつ要は考える。
生まれたときからずっと、しっかりもののお姉ちゃんに庇われてきた純正の『下の子気質』。
美音と馨は姉妹の仲もすこぶる良かったに違いない。要のように、兄の怜に対してひねくれた思いを抱くこともなく、馨はただただかわいがられ、面倒を見てもらって育った。馨がとても甘え上手で、誰とでもすぐに打ち解けるのはそのせいだろう。明確に境界を設け、なかなか本心をさらけ出さない美音とは対照的な妹だった。これが美音であれば、絶対にこんなメールは寄越さない。ひとりで延々と悩み続けるに違いない。
『ぼったくり』にはちょくちょく出入りしているし、早めの時間に足を運べば馨に会うことも可能だ。けれど、妹が自分の恋人にこんなメールを打ったと知ったら、美音は馨の首を絞めかねない。
さすがにそれは気の毒、ということで、要は美音の目に触れないところで馨に会うことにした。
『ぼったくり』で働く馨を夜に呼び出すことは難しい。かといって、昼間は自分が仕事をしている。
思案の末、要は昼食時なら会えるかもしれないと思いついた。早速メールで確認したところ、すぐに返信が来て、ふたりのランチミーティングは三日後の正午からと決まったのだった。
要が会合の場に選んだのは、とある老舗料亭だった。その店なら馨が出てくるのに交通の便も悪くないし、何より個室がある。他人の目を気にせずに話ができるだろう、と考えてのことである。
ちょうどその日、要は店の近くの現場で打ち合わせの予定が入っていた。そのため、時間に遅れることはないと考えていたのだが、あいにく打ち合わせが長引き、要が到着したのは正午を十分ほど過ぎた時刻だった。
馨は既に部屋に通されていて、要が着くなり頭を下げてくる。
「ごめんなさい。お忙しいのに」
「いや、ぜんぜん。こっちこそ、待たせて悪かった」
そこで要は、お茶を運んできた仲居にふたり分の昼懐石を注文した。馨に注文を訊くべきか一瞬迷ったものの、どのみちこの店のランチタイムは、昼懐石か天丼、あるいは刺身定食ぐらいしか出さないし、昼懐石はこの店の売りでもある。料理に携わる仕事をしている馨なら、昼懐石を選ぶだろうと考えてのことだった。
案の定、馨は注文に関しては異議を唱えず、神妙な顔でおしぼりを使っている。
『ぼったくり』界隈ではかなり若いほう、かつ盛り上げ役の馨は、普段から賑やかな言動が目立つ。それなのに今日に限ってこんなに落ち着いている。場所が変われば、こうも変わるものか、と不思議になるほどだった。
とはいえ、馨はすでに二十代後半だ。TPOぐらいわきまえていて当然だし、落ち着きすぎるほど落ち着いている姉の手前、道化を引き受けざるを得なくなっているのかもしれない。
「で、あたし、どうしたらいいと思います?」
馨のあまりにも単刀直入な質問に、要はまた笑い出しそうになる。なんという両極端な、それでいて、目の前の問題をなんとかして解決しようという姿勢そのものはとても似ている姉妹だった。
「君はどうしたいの?」
まずは本人の希望を聞き、それが叶えられるかどうか、叶えるために何をどうすればいいか考える。それは、日常生活のみならず、仕事にも共通する要のやり方だった。
どうしたいって訊かれてもなあ……
馨は、半ば困惑して向かいに座る男に目を向けた。
『ぼったくり』に来るとき、彼はいつもワイシャツにネクタイ、作業服の上衣というスタイルだ。けれど今日は、ビジネススーツをきちんと着こなしている。おそらく、老舗料亭という場所を考えてスーツにしたのだろう。
お茶を運んできてくれた仲居さんへの対応も無礼とかぞんざいといった言葉からはほど遠く、そつがないとしか言いようがない。ただ、そんな姿からはあまりにも隙というものが窺えず、彼にとって『ぼったくり』がどれほどリラックスできる場所なのかを痛感させられた。
姉は普段から、要さんは『ぼったくり』だけではなく、この町自体にそぐわない、掃き溜めに鶴もいいところだ、と言っている。それでも馨としては、子猫の治療費の支払いや大間抜けなプロポーズの話を聞く限り、『ぼったくり』界隈の住民とどっこいどっこいじゃないかと思っていたのだ。
けれど、こうやってそこら中から『高級』という文字が浮かび上がってきそうな店にいる要は、まったく違和感がなく、姉の言うことはやはり正しいような気がしてきた。
確かにこの人は佐島のお坊ちゃまなのだ。よくぞまあ、こんな人がうちの店の常連になったものだ、と改めて感心してしまう。
その隙のないお坊ちゃまに、面と向かって『君はどうしたいの?』なんて訊かれても、即答なんてできない。それがわかっているぐらいなら、こんな会合必要ないでしょ、と言い返したくなるほどだった。
答えを見つけられずに困っていると、要はふっと笑って質問を変えた。
「じゃあ、イエスかノーで答えられるようにしようか。おれたちと一緒に住むのはどう?」
「ノー。勘弁してほしいです」
おそらく本人たちは無自覚なのだろうが、馨にしてみれば、このふたりのやりとりは甘ったるすぎる。このふたりと一緒に暮らしたら、全身砂糖まみれで、あっという間に『馨の甘露煮』の出来上がりだ。正直、まっぴらごめんだった。
『まっぴらごめん』という思いは、ストレートに顔に出ていたらしく、要は苦笑しつつ両手を上げて、馨を宥めた。
「わかったわかった。じゃあ、次の質問だ。君はあの町から出たくはないよね?」
「はい。でも、そんなの無理だし……」
「どうして?」
要は、まるで天然そのものの姉みたいに小首を傾げて問い返した。
「住む場所がありません。あの町には賃貸物件が少ないし、その数少ない賃貸も空き部屋なんてまったくありません。治安がいいし、商店街も近くて便利なので、多少駅から遠くても住みたがる人が多いんです。新しいショッピングセンターができたせいで、さらに人気が上がったみたいだし、入れ替わりだって滅多にないんです」
要は、早速届いた料理に箸をつけつつ、馨の話を聞いている。昼休みを使っていることはわかっているし、仕事に差し障りがあっては大変だと思った馨は、自分も食べ始めることにした。
冷めないうちに、と蓋を取ったお椀から濃く引かれた出汁の香りが立ち上る。次いで馨は、かわいらしい手鞠麩に目を奪われた。難しい相談事を持ち込んでおいて、本題そっちのけで食べ物に見入ってしまうなんて、自分は案外姉に似ているのかもしれないと思う。
要は、出汁の香りと手鞠麩にため息を漏らした馨を、クスクス笑う。「そっくりだね」という声が聞こえたところを見ると、同じように感じているのだろう。
香りから感じた期待をまったく裏切らないすまし汁を味わったあと、馨はまた話し始めた。
「そういうわけで、あの町内に住むことは無理なんです。駅裏の古いマンションかアパートならなんとかなるかもしれませんけど……」
「あの辺はあんまりおすすめとは言えないな。家賃は手頃かもしれないけど、強度面がかなり心配だ。耐震補強をやった気配もないし、それぐらいならうちが建てた表のマンションのほうがずっといい」
分譲が多い建物だが、いくつかは賃貸物件もあったはずだ、と要は言う。
馨だってそれぐらいのことは知っていたが、建物がしっかりしている上に駅の真ん前という物件が借りられるわけがなかった。
「そりゃそうでしょうけど、あそこの家賃はきっとすごく高いんでしょう? あたしには払えません」
「うーん……」
要がもろに困った顔になった。
その理由は明白だ。どうせ彼のことだから、それぐらい自分が……とかなんとか言おうとしたに違いない。そして、次の瞬間、それを言ったら馨や美音がどう考えるかに思い至り、言うに言えなくなったに決まっている。
要が、美音と馨の財布事情を知っているとは思えない。けれど、彼はやり手のサラリーマンらしいし、『ぼったくり』なんて名ばかりの居酒屋がどの程度利益を上げているかの見当ぐらいつけられるだろう。それをふたりでどう分けていたところで、駅前の立派なマンションの家賃なんて払えるわけがない。そもそも、住居費なんて今までずっとゼロできたのだから、どんな金額だって負担が増えることになってしまうのだ。
それでも、『おれには余裕があるから払う』なんて口に出した日には、姉は烈火のごとく怒るだろう。
「本当に君たちはよく似ているし、おれが今まで見てきた人たちとあまりにも違いすぎて面食らうよ」
要は言外に『すぐに兄妹になる仲なんだから、もう少し頼ってくれても』と匂わせてくる。だが、それに甘えることはできないし、馨自身、したくなかった。
要は、焼きたてで運ばれてきたサワラの西京漬けを箸でほぐしている。そのいかにも育ちの良さそうな箸使いを見ながら、馨は言った。
「家賃ならおれが……とかは、絶対言わないでくださいね」
「やっぱりだめかな」
馨は西京漬けに添えてあったハジカミを囓り、少し甘すぎる西京味噌の後味を消しながら答えた。
「駄目に決まってるでしょ? お姉ちゃん、『激おこぷんぷん丸』になっちゃいますよ」
要が『激おこぷんぷん丸』なんて言葉を知っているとは思えない。なにせ語源もはっきりしない、いわゆる『ギャル語』なのだ。それでも、美音の怒りを表現しているということぐらいはわかってくれるだろう。案の定、要はすんなり頷いた。
「『激おこ』かあ……それは困るな」
「お姉ちゃんは、水商売への負い目が馬鹿みたいに大きいんです。誰かにお金を出してもらうなんて、まるでパトロンみたいだってぎゃあぎゃあ言うに決まってます。ましてや、要さんがあたしの家賃を払うなんてことになったら、『馨を囲う気なの!』とか、仁王立ちで怒鳴りますよ」
「あの子猫のときみたいに?」
「あんなもんじゃすみません」
あのとき要は、特に深い考えもなく子猫の医者代を支払ったのだろう。おかげで味わうことになった苦い思いを忘れているとは思えない。
一度限り、しかも拾った子猫にかかった病院代ですらああだったのだから、血を分けた妹の毎月かかる家賃となったら、どれほど怒るかは火を見るより明らかだった。
要は、最大級の苦笑いを浮かべている。まっぴらごめんと顔に書いてあった。
「あれは勘弁してもらいたいな」
「でしょう? 本音を言えば、あたしはありがたく頂戴したい気持ちもありますが、お姉ちゃんに滅多切りにされるのは嫌です」
「そうか……じゃあ、どうしようね?」
「それを相談しに来たんじゃないですか」
大人の知恵を貸してください、という思いを込めて、馨は真っ直ぐに要を見つめた。
要はちょっと途方に暮れた気分だった。
馨は、お金はいらないから知恵だけ頂戴、といった様子で、揚げたての天ぷらにかぶりついている。端っこにちょっと塩を付けたキスがさくっと音を立てて馨の口の中に消えた。
若いだけあって食べ方も豪快、スピードも気持ちがいいほどだった。
馨に釣られるようにけっこうなスピードで食事を進めながら、要は頭の中で状況を整理する。
まず美音の希望。言うまでもなく、彼女はあの町を離れたくないと思っている。それに、要自身があの町と関わっていたいし、あの町に住んでいる美音が好きなのだ。
『ぼったくり』の女将という仕事を続ける上でも、徒歩で通える距離は望ましいし、通勤に時間を取られるなんてもっての外だ。できることなら、通勤時間なんてゼロにしてやりたいほどだった。
「あ……そうか!」
思わず、大きな声が出た。
馨は怪訝そうな目で見てくるが、かまっていられない。要はたった今浮かんだアイデアを、実現する方法を考え出すことで頭がいっぱいだった。そしてほどなく、その方法を思いつく。
「通勤時間がもったいない。それなら、ゼロにしちゃえばいいんだ」
「ふぁ?」
あまりにも唐突な台詞だったのか、馨は大きなエビ天を口に入れてもぐもぐしながら、間の抜けた返事をした。
「『ぼったくり』は平屋だよね?」
「え、ええ。いつもご覧になってるとおりですけど?」
続いて小さく、見てわからなきゃ聞いてもわからん、なんて、マサあたりが言いそうな台詞が聞こえる。それには応えず、要は話の先を急いだ。
「あの商店街は店舗併用住宅、つまり店の上に住んでる人が大半だけど、『ぼったくり』もそうすればいいんじゃないかな。今の平屋の上に、住まいを増築するっていうのはどうだろう?」
なんでも、『ぼったくり』の店舗は商いが上手くいかずに閉店してしまった居酒屋を、美音の両親が買い取ったものらしい。
美音によると、最初は借りていたそうだが、何年かしてから買い取ってくれないかという話が出てきたそうだ。美音の父親は相当悩んだらしいが、破格の値段だったし、このまま賃料を払い続けるよりは……ということで、清水の舞台から飛び降りるつもりで買い取ったのだという。
あの町は駅から離れているため、駅に行くにはバスに乗るしかない。居酒屋は夜遅くまで営業する商いだし、店を閉めたあとも片付けやら翌日の仕込みやらもある。最終バスに間に合わないことも多々あるはずだ。店の上に住むことができない建物はどうしたって不便になる。借りるならまだしも、買うとなったら二の足を踏むに違いない。ところが、その時点で既に美音の両親は町内に家を構えていて帰る足の心配はなかった。店一軒の価格としては破格も破格。その理由が交通の便と店舗にしか使えない平屋だということなら買うしかない、と判断したそうだ。
とはいえ、なんとか買い取ったもののそのための借金は重く、それ以上お金をかけて手を入れることなど考えられなかった。加えて、家は別にあるのだからわざわざ住めるようにする理由もない。
それが、周り中が店舗併用住宅である中、なぜ『ぼったくり』だけが平屋のままなのか、という要の問いに対する美音の答えだった。
それならば、『ぼったくり』の上に住居を増築し、美音と要はそこに住めばいい。美音は通勤時間がゼロになるし、馨もこの町から離れずにすむ。
起死回生の逆転ホームランだ、と要は自画自賛してしまった。
「ってことで、おれたちが『ぼったくり』に引っ越せばいいと思うんだ」
「いや……要さん、それはちょっと……」
「え、だめ? なにか問題があるのかな?」
いとも簡単にそんなことを言う要に、馨は唖然としてしまった。
美音が『ぼったくり』の上に住み、自分は今の家に残る。確かに、それで万事解決だ。
いつか馨が結婚したとしても、あの家なら十分暮らしていける。哲だって喜んでくれそうだ。
なんといっても住居費がゼロなのだから、こんなにありがたい話はない。
だが、建物に手を入れるにはお金がかかる。内装をちょっと弄るだけでも、六桁を超えるお金がかかってしまう。ましてや、今、要が持ち出したのはと内装云々ではなく、増築なのだ。
今はふたりだとしても、将来家族が増える可能性を考えれば、部屋数だって設備だってそれ相応のものが必要だ。どうかすると、今ある部分より建て増し部分のほうが大きくなりかねない。補強だの何だの言いだしたら、家一軒建てるのと大差ないのではないか。
姉はそもそも締まり屋だし、仕事ばかりでお金なんて使う暇はなかった。それなりに蓄えはあるはずだが、家一軒建てるほどとは思えない。もちろん、馨自身、じゃあこれを足しにして、なんて差し出せるようなお金もない。
「いいアイデアだとは思うんですけど……」
アイデアは素晴らしいのに先立つものがない。悩ましいというか、悔しくなるレベルの話にすっかり食欲が失せ、馨はとうとう箸を置いてしまった。
それなのに、要は何食わぬ顔で訊ねてくる。
「もしかして、お金のことを心配してる?」
「はい。だって、お姉ちゃんもあたしもそんなお金はないし、借りようにも……」
三十そこそこの娘、しかも自分たちは会社勤めもしたことがない。社会的信用という意味では底辺に近い自分たちに、お金を貸してくれる人なんていないだろう。銀行だって門前払いされるに決まっている。
馨の話を聞いた要は、明らかに落胆している様子だった。せっかくのアイデアを生かせないのだから無理もない。ところが、あまりにも申し訳なくて謝ろうとした馨を、要は片手で制した。
「ごめんなさい、っていうのはなしだよ。これはそういう話じゃないんだ」
「……ていうと?」
そこで要は、肺が空っぽになるほど深いため息をつき、心底つまらなそうに言った。
「君たち姉妹は、本当におれをなんだと思ってるんだろうねえ」
「はい?」
「おれさあ、自分で言うのもなんだけど、これでも会社ではそこそこ評価されてるし、給料だってけっこうもらってる。貯金もそれなりにはあるし、銀行からも借りようと思えば借りられるはず。自分が住む家にかかる金ぐらいなんとかできるよ」
君が住む家の家賃じゃないなら、美音も文句は言わないだろう。たとえ言ったとしても、おれがおれの住む環境を整えてどこが悪いって言い返すけどね、と要は笑った。
「それでもぶつぶつ言ったら、君はおれをヒモにする気か、って言うことにする」
「ヒ、ヒモ……」
馨は、そう言われたときの美音の顔が目に浮かびそうだった。
文句はいくらでも言いたいだろうに、つけいる隙がまったくない。というか、聞く耳持たないままに突っ走りそうなこの男に、ため息を連発することだろう。
目の前の男はこれが一番手っ取り早くて、みんなの希望に添う方法だと確信しているように見える。もはや、要を止められるものなんてない。それこそ、佐島建設創始者一族として、持てる伝手やらコネやら全部使って、あっという間に工事を終わらせ、さあ住むぞ、とばかりに乗り込んでくるに違いない。
「そんな感じでどうかな?」
要は、満足そうに馨に確認を取ってくる。
早急に姉に提案して、可及的速やかに増築を進めるつもりだから、協力をよろしく、ということだろう。うまくいくかどうかはわからないが、それこそダメ元である。なにより、不利益は一切ないのだから乗っかるしかない、というのが、馨の正直な感想だった。
「あたしにとっては、すごくありがたいお話です。お姉ちゃんがなんて言うかは、わかりませんけど……」
美音なら、増築なんて嫌だ、その間お店を休むなんてとんでもないと、言い出しかねない。さらにもうひとつ、美音が気にしていることが頭をちらつく。八重の問題を解決しない限り、姉がこの計画に頷くこともないだろう。要がそれらをどう乗り越えていくのかとても興味深かった。
要は多少の融通は利くから時間なんて気にしなくてもいい、と言ってくれたが、さすがにそうはいかない。要は近い将来、義兄になる人だ。自分が原因で『時間にルーズ』なんてレッテルを貼られたくない。その一念で、馨はせっせと料理を平らげ、ふたりはなんとか『長めの昼休み』程度の時間で食事を終えた。
今日の会合はおおむね成功だ。あとはこの人のお手並み拝見、ということで、馨は意気揚々と帰宅した。
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