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10巻
10-1
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自分たちの城
暮れも近づいた十二月第一日曜日の朝、東京下町にある『山敷薬局』の店内では、店主シンゾウを含めた近隣住民たちが難しい顔を突き合わせていた。
事の発端は、定例となっている町内会の公園掃除で、馨がシンゾウに相談を持ちかけたことだ。
ちなみに、馨は『山敷薬局』と同じ商店街にある居酒屋『ぼったくり』の店主美音の妹である。
美音が恋人の要からプロポーズされ、すったもんだの末に結婚を決めたのは十月末のことだった。それから一ヶ月以上が過ぎたというのに、未だに姉からその後についての話が一切出てこない。普通なら、喜び勇んで結婚式の準備にとりかかるだろうし、要が忙しくて相談する暇がないにしても、衣装をどうしようとか、誰を呼ぼうとかの話が姉の口から漏れてきてもよさそうなものだ。
特に衣装については、デートの際のコーディネイトまで馨に頼り切りの美音が、何のアドバイスも求めてこないなんてあり得ない。
とはいえ馨としても、自分が口を出すことではないということぐらいわかっていた。だからこそ、これまで姉の様子をじりじりしながら見守っていたのだ。ところが、一ヶ月以上経ってもまったく進展が見られない。
もしかしたら姉は結婚式自体を考えていないのではないか、と不安になった馨は、『ぼったくり』の常連たちに相談してみることにした。
タイミングを計るのは難しかったが、幸い思い立ってすぐの日曜日が町内の公園掃除にあたっていた。公園掃除は美音と交代で出席していて、今週は馨の当番になる。当然姉はその場にいないから、相談をするにはうってつけなのだ。
掃除がある日、シンゾウはいつも早めに公園に来る。そのことを知っていた馨は、自分も一番で公園に駆けつけ、現状報告を兼ねた相談をしてみた。話を聞いたシンゾウは、続いてやってきたマサとウメに声をかけ、掃除が終わったあと『山敷薬局』で対策を練ることになったのである。
お疲れさん、まあ茶でも……と、三人に店内の冷蔵庫にあったペットボトルのお茶をすすめたあと、シンゾウは早速本題を持ち出した。
「美音坊の結婚式のことだが……」
「何事かと思ったら、その話かい。シンさんの口から出たってことは、いよいよ段取りが決まって、町内でどうやって祝うかって話だな?」
すっかり勘違いしたマサが、嬉しそうに言う。ウメはウメで、生きてるうちに美音坊の花嫁姿が拝めるなんて、となにやら感慨深げにしている。シンゾウは慌てて、馨に今日集まった趣旨を説明するよう促した。
「……というわけで、ちっとも進んでないの。さすがに、ちょっとまずいんじゃないかと思うのよね……」
「美音坊は仕事はテキパキするけど、自分のことになったらものすごくのんびり屋だからねえ」
そこでウメは、壁に掛かっていたカレンダーを見てため息をつく。
「もうすぐ年が変わっちまう。いくらなんでも、ちょっとは考えないと……」
ところがマサは、至って気楽な発言をする。
「でもよお……今時はジミ婚ってやつが流行らしいし、肉屋の息子も披露宴はしなかっただろ? 美音坊も同じように考えてるのかもしれねえぜ」
「いや、マサさん、それはちょっとまずいよ。お姉ちゃんはそれでよくても、相手は要さんだよ?」
「馨ちゃんの言うとおりだね。肉屋ならヨシノリさんがユキちゃん夫婦を引き連れて町内行脚で済むだろうけど、佐島建設の息子じゃそうはいかない」
「とはいっても、美音坊のことだから『結婚式なんてお金がかかるし……』とかなんとか言いかねねえぞ」
結婚式は女の夢なんて考えから、一番遠いのが美音坊だ、とマサは断言した。誰もがそれに頷いたあと、ウメがしみじみ言う。
「なんだろうねえ、あの締まり屋ぶりは。あんな上物を捕まえたんだから、ぱーっと派手にやればいいものを……」
「ウメ婆、あんたは『捕まえた』って言うけど、俺にはどっちかっていうと逆に見えるよ」
そう言いながら、シンゾウはこれまでのふたりの経緯を思い返してみた。
シンゾウから見ると、要は、自分からは何ひとつ仕掛けていないように見えて、その実、全部計算の上だったようにしか思えない。
公園に捨てられていた子猫の処遇に始まり、一緒に電器屋に行ったこと、その帰りに自分の家に連れていって母親に会わせたこと、店が休みの日ではなくわざわざ閉店後という遅い時間にバーに連れ出したことなどは馨から聞かされた。その結果、頭に浮かんだのは『深謀遠慮』という文字だった。
もちろん、それらがすべて要の計算に基づくものであったとしても、美音の反応がことごとく予想外で、さらに彼の母親の介入もあった結果、早いんだか遅いんだかという展開になったことは確かである。
とはいえ、シンゾウの目には、要と美音が思い合っていることは明白だったし、いつかは夫婦になると思っていた。だからこそ、プロポーズをやり直したあとは、すぐさま結婚式や新居について検討し始めるだろうと考えていたのだ。たとえ美音が二の足を踏んでも、要が怒濤のごとく、結婚に向けて突き進むに違いないと……
それなのに、今もって何ひとつ進まず、話題にすら上ってこない。最早、美音を捕まえることに全力を使い切り、結婚式のことまで考える気力が残っていないのでは? と心配になるほどだった。
「ま、俺が見たとこ、美音坊は何にも考えちゃいなかった。こと色恋沙汰に関して、あの子に手練手管を期待するのは無理ってもんだ。そこは芸者で鳴らしたウメ婆とは同列に語れねえ。仕掛けたのはタクのとーちゃんのほうだね。どっちにしても、美音坊は美音坊で考えがあるのかもしれねえ」
シンゾウの意見に、マサはマサで頷く。
「かもなあ……。もしかしたら、要さんのほうは、やいのやいの言ってるのかもしれねえ。それを美音坊が……」
「きっと店のこととか、あたしのこととか、あれだとか、これだとか、散々理屈をこねくり回して待たせてるんだ……あーもう、面倒くさい!」
さっさとお嫁に行っちゃえ! と馨はやけくそのように叫ぶ。ウメは、そんな馨にくすりと笑いながら言う。
「それはそれで寂しいくせに。とはいえ、もしそれが本当だとしても、長すぎた春って言葉もあるし、待たせすぎはやっぱりよくないと思うねえ……」
ウメは、あの男、随分猫を被ってるけど、本当はとんでもなくやんちゃなんじゃないかい? 大丈夫なのかい、美音坊は? なんて心配まで始めてしまう。
ところが馨は、心配そうにするウメに笑いながら答えた。
「平気だよ。猫を被ってるのはお姉ちゃんも同じだもん。猫かぶり同士でうまくやってくんじゃない? お互いに被ってる猫の種類までちゃんとわかってるよ、あのふたりは」
「おやそうかい。そりゃけっこうなこった。猫かぶりふたりにタクが入って新居は猫だらけだね、騒がしいことだ」
「あーそう、その新居が問題なんだ」
そこで、シンゾウが、馨の顔をちらりと見た。
「プライバシーの侵害って騒がれそうだが、ちょいと言わせてもらうよ?」
「いや、それ、あまりにも今さらだし」
この町内会、特に『ぼったくり』の常連たちは丸ごとひとつの家族のようなものだ。しかも今は、相談を持ちかけたのは自分のほうなのだから、という馨の言葉に頷き、シンゾウは口を開いた。
「あのふたり、そもそもどこに住む気でいるんだ? どうせタクのとーちゃんのことだから、どこかにでかい家があるんだろう?」
「そうみたい。お母さんが住んでる家もあるし、学生時代に使ってたマンションもあるんだって。たぶん、そのマンションでもふたりで住むには十分なんじゃないかなあ……」
美音自身が将来の住まいについて語ったわけではないらしい。ただ、要が『ぼったくり』に訪れたときに出てきた話から、馨は間取りや広さを推測し、新居に相応しいかどうかを考えたそうだ。
なんとも姉思いの妹ではあるが、そこまでしなければならないほど美音がのんびりしているということなのかもしれない。
いずれにしても新居の候補地は現時点でふたつあり、いずれもこの町ではない。その事実に、一同が軽くため息をついた。
「どっちを選ぶにしても、この町を出てくってことか……」
『寂しい』という言葉を口にしたかっただろうに、マサはあえてそれをしない。美音の結婚に水を差してはならないという気持ちが、彼の表情に溢れていた。シンゾウも同じ気持ちだったし、おそらくウメも共感しているだろう。
ところが馨は、そんな三人に小首を傾げつつも再び口を開いた。
「いきなりお姑さんと同居っていうのはパスしたいだろうし、やっぱりマンションのほうがいいんじゃないかと思うんだよね。で、お姉ちゃんにもそう言ったんだけど、なんだか煮え切らないのよ」
「というと?」
「マンションからここまでけっこう時間がかかるみたいで、通ってくることを考えると決めきれないみたい」
「だろうねえ……。美音坊は、先代の墓をどうするって話になったときも、ずっとこの町で『ぼったくり』を守っていくって言ってた。あたしらが慌てて、先のことはわからないんだからって止めたぐらいだ。結婚も、この町を出ることも、考えたこともなかっただろうさ」
シンゾウも、美音に店を閉めるという考えが微塵もないことはありがたいと思う。けれど、それが本当に美音のためになるのかというとかなり疑問だ。かといって、本人の気持ちを無視して町の外に追いやることなどできるわけがなかった。
「美音坊は、なんとかこの町に住めないかって考えてくれてるんだろうけど、やっぱりそれは無理な相談だよ」
いくら考えても打開策は浮かばない。それで美音は、結婚の話自体を進められずにいるのではないか、というのがウメの推測だった。
「とにかくこの町を出たくない、か……」
「美音坊の気持ちは嬉しいけどねえ……」
そんな言葉を交わすマサとウメの顔には、喜びと困惑が入りまじっている。
『ぼったくり』を続ける限り、美音は毎日ここに通ってくる。それがわかっていても、美音がこの町の住民でなくなるのは寂しい。それが町内会メンバーとしての正直な気持ちだろう。
このまま困った顔を突き合わせていても仕方がない。ということで、シンゾウはとりあえずもうひとりの当事者について訊いてみることにした。
「ところで、それについてタクのとーちゃんはなんて言ってるんだ? まさか意見が割れて大喧嘩、なんてことになってねえだろうな?」
周囲がやきもきしまくる中、ようやくまとまったふたりが、家の問題で喧嘩別れなんてことになったら、目も当てられない。シンゾウは、それぐらいなら、この町のことなんざ諦めろ、とどやしつけてでも要のもとに送り込みたい気分だった。
ところが馨は、その心配はない、と笑顔で答えた。
「要さんは大丈夫。ちゃんと確かめたし」
いつまでも煮え切らない姉にしびれを切らし、馨はこっそり要に確認してみたらしい。要もSNS内の『ぼったくりネット』のメンバーだったから、連絡は取りやすかったという。
住居問題で美音が悩んでいるらしいと知らされた要は、あっさり答えたそうだ。
「要さんも、お姉ちゃんはこの町に住んだほうがいいって考えてくれてた。それどころか、前からお姉ちゃんにはそう言ってくれてたみたい。で、あたしは意気揚々とお姉ちゃんのところに行ったわけ。なんにも問題はないじゃない、この町に住みなよ、って。そしたら……」
今の家でもいい、近所に新しい住まいを探してもいい、とにかくこの町に住もう、と要は言ってくれた。それならその言葉に甘えればいいではないか、と馨は美音に言ったそうだ。
美音も最初は、馨が勝手に連絡を取ったことに文句を言いながらも、要の意見を聞いて嬉しそうにしていた。けれど、これなら大丈夫、と馨が安心しかけた矢先、美音はやっぱり眉根を寄せたという。
「すごくありがたいけど、要さんに申し訳なさすぎる。なにより住むところがない。あんたを追い出すわけにはいかないし、一緒に住むのは要さんにもあんたにも悪すぎる、とかなんとか、うだうだうだうだうだうだ……」
『うだ』を山ほど連ねたあと、馨は大声で「めんどくさーい!」と叫んだ。
「もうね、公園にテントでも張って住め! とか言いたくなっちゃったよ」
「いや、馨ちゃん、いくらなんでもそれは……」
ウメは呆れた顔になり、マサは「そこらの植え込み、ちょいと刈り込んで場所を作ってくるか?」なんて冗談を言う。マサは植木職人だからそれぐらい朝飯前だろうが、明らかに法に触れるし、美音たちにしても新婚生活がテントから始まるなんてまっぴらだろう。
「テントは勘弁してやってくれよ。だが、実際問題、住むところがないってのは本当だよな」
そう言うと、シンゾウは半分だけ開けられたシャッターから外を窺うようにした。
ここは商店街だから、住民の大半は店の二階に居を構えている。賃貸物件といえば、『ぼったくり』の裏にあるアパートぐらいのものだ。だが、そのアパートも現在満室だし、この先住民が入れ替わるかどうかはわからない。新しいマンションが建つ予定もない。空き地がないのだから当然である。
「住みたくても住めない。諦めるしかないのかねえ……。あ、うちは部屋が余ってるし、何なら……」
「なんで新婚早々ウメ婆と一緒に住まなきゃなんねえんだよ。おかしすぎるだろう!」
即座にマサに突っ込まれ、ウメはすんなり頷いた。
「だよねえ。夫婦水入らずならまだしも、赤の他人と同居したって聞いたら、さすがに要さんのお母さんが黙っちゃいないだろうね」
「あーそれそれ、それもお姉ちゃんの『うだうだ』のうちのひとつなんだ」
そこで馨が持ち出したのは、要の母である八重の話だった。
「お姉ちゃんは、八重さんがひとりになっちゃうのが心配なんだって」
要はもともと同じ佐島家の敷地内に建っている二軒のうちの一軒に暮らしていた。片方には祖父母、もう片方には母と兄、そして要が住んでいたのだが、大学進学を機に要はマンションでひとり暮らしを始めたという。
しばらくその状態が続いたのち、要の大学院卒業と前後して兄が結婚、母親は新婚夫婦に家を譲って外に出た。夫はとっくに亡くなっていたし、新婚夫婦と住むよりは、小さな家にひとり暮らしのほうが気楽だと考えたらしい。それを聞いた要は、八重がひとりになるのが心配で、母の新居に移った。当初八重は、せっかくひとりになれたのに、なんて言ったそうだが、先般のように体調を崩すこともあり、要がいてくれたのはやはりありがたかったようだ。
要が結婚してこの町に住むとなると、八重はひとりになってしまう。美音はそれを心配しているのだろう。
「要さんが八重さんをひとりにさせたくないのはわかってるし、お姉ちゃんだって、お姑さんなんてどうでもいいなんて人じゃない。かといって、八重さんにまでここに住んでくれなんて言えっこないし」
かくして話はちっとも進まず、年の瀬は目の前、というのが今の状況なのだ、と馨は嘆いた。
「お姉ちゃん、昨日も『このままじゃ駄目かなあ……』って呟いてた」
『このまま』ということは、結婚もせず、一緒にも住まず、ただ閉店時間間近の『ぼったくり』に要が通ってくるだけの状態のことか、と馨は頭を抱えてしまったそうだ。
休日に一緒に出かけることがないとは言わないが、要は忙しいし、美音は連休なんて年に一、二度しか取れない客商売である。旅行はおろか、外で会うことすら難しい現状で、さすがにそれは……とシンゾウも呆れてしまった。
「いくらなんでも、タクのとーちゃんが気の毒すぎる」
「だよな。ただでさえ、あっちはじりじりしてるはずだぜ。いつまで待たすんだ! って。その挙げ句、もういいや、とかなったらどうするんだ!」
シンゾウの言葉であらぬ心配を始めたマサに対し、ウメは冷静だった。
「そんな心配はいらないよ。あの『天然』の美音坊相手にめげずに頑張ってきた男だ。今更、逃げ出したりしないさ」
「あたしもそう思う。もう待てないってなったら全部自分で段取りつけて、さあ行くぞ、ってお姉ちゃんをかっ攫っていきそう」
その場にいた四人が四人ともその様子を頭に描いた。
いざとなったら要は、被っていた猫をかなぐり捨てて、家から式から全部手配して、あれよあれよという間に美音を自分の家族にしてしまいそうだ。
「要さんは、やんちゃだけど辛抱強い。いざとなったら行動力もある。だから、上物だって言うんだよ。ただまあ、できれば『合意の上』であってほしいけどね」
「合意ったってなあ……美音坊はあれでかなり頑固だし……。それに、馨ちゃんのこともある」
そこでシンゾウはいったん言葉を切り、馨を見た。
美音の結婚は、馨の生活にも大きな影響を与える。そのあたりをどう考えているのか、一度確認しておきたいが、今、訊ねて大丈夫だろうか……
そんなシンゾウの眼差しに、馨はやるせなさそうな目になって言った。
「やっぱりお姉ちゃん、あたしのことも気にしてるんだよね……?」
「まず、間違いねえな。それで、馨ちゃんは、もしもあのふたりが一緒になったらどうするつもりだい?」
「要さんのおっかさんの心配してる場合じゃねえな」
馨だってひとりぼっちだとマサは心配する。もちろんシンゾウも、おそらくウメも同じだろう。
両親が亡くなったあと、馨にとって美音は姉であると同時に、父であり母でもあった。
その美音が結婚したあと、馨はひとりで大丈夫なのかと……
マサはいとも簡単に言う。
「一緒に住んじまえよ。そしたら美音坊の心配も……」
「マサさん、あたし、ラブラブ全開に違いないふたりと一緒に住む根性なんてないよ」
「そうか、そうだよなあ……」
当然予想内の答えだと頷いたものの、シンゾウの心配はさらに募る。
「美音坊、もしかしたら馨ちゃんが家を出るまで、結婚しないつもりじゃねえだろうな?」
「前はそんなことも言ってた。あんたをお嫁に出すまでは、気が気じゃないから結婚なんてできないって……」
姉妹の間でその話が出たのは、馨が哲と付き合い始めたばかりのころのことだった。
それまでも彼氏は絶えずいたものの、年齢からして結婚を考えるような関係ではなかった。だが、哲の場合は、馨自身がいつかは……と不確かながらも未来図を描いていた。だからこそ、自分より五歳も年上の姉の将来が気になって、結婚について訊ねてみた。その結果、返ってきたのは『あんたをお嫁に出すまでは』という言葉だったのだ。
「家のこと、八重さんのこと、あたしのこと……。これじゃあ、お姉ちゃん、いつになったら結婚できるのやら……」
「こりゃ、美音坊の結婚話をせっつくより、『もうちょっと待ってて』の兄さん――哲くんっていったかね、あの子を連れてきて説教するほうが早いような気がする」
ウメにそんなことを言われて、馨は大慌てで手を左右に振った。
「やめて! そんなことされたらあたし、困っちゃう!」
「冗談だよ。あの兄さんの年じゃあ、まだ踏ん切りつかないだろうよ。余計なことして話が壊れたら、それこそ美音坊が嫁に行けなくなる」
「あ、ウメさんひどい。あたしの結婚は、お姉ちゃんのためだけなの?」
「そんなわけないだろ。美音坊も馨ちゃんも大事なうちの娘たちだからね。ちゃんと幸せになってほしいって思ってるよ」
「そうそう。うちの町内会が先代から預かった大事な娘たち。だからこそ、ここいらの住民は躍起になるってわけだ」
ウメやマサはときどき冗談の真ん中にそんな台詞を紛れ込ませる。それはきっと、思いやりの気持ちを真っ直ぐに伝えるのが照れくさいからに違いない。
ふたりの思いやりに触れ、ちょっと泣きそうになってしまった馨を見ながら、シンゾウはしみじみ思う。
この町内の皆は、結局こんな連中ばかりなのだ。厳しくて口やかましいところもあるけれど、心の底はとても優しくて、いつだって誰かのことを心配している。だからこそ、美音もここを離れたくないと思うのだろう。馨も同じだ。姉を送り出すためには、自分が自立する必要があると薄々わかっていても、この町を出ることが心細くてならないに違いない。
「本当はわかってるんだ。あたしがどこかにアパートでも借りれば、お姉ちゃんたちはあの家に住める。でも……あたしは結婚したらきっとこの町にはいられない。だからよけいに、それまではなんとかって思っちゃう。我が儘だよね……」
「あたしは我が儘だとは思わないよ。なにより、そんなことしたって美音坊は喜ばない。馨ちゃんをひとりにするだけでも嫌だろうに、その上、この町からも遠ざけるなんてこと、するわけがない」
怒ったような口調に、ウメの苛立ちが感じられた。そこには、助けてやりたいのに何もできないもどかしさが込められていた。
「美音坊たちと一緒に住むわけにはいかない。結婚にもちょいと早い。なにより、借りようにも物件がねえ……ほんと、困ったもんだな」
マサが途方に暮れたように言った。
「要さんね、お姉ちゃんに言ったんだって。『君がいる場所が俺の家。それがどこにあっても関係ない』って……」
そこでマサはヒューッと短く口笛のような息を吐き、ウメは両手を叩いて喜ぶ。うんうんと頷くばかりになってしまったシンゾウに、馨は羨ましそうに言う。
「かっこいいよねえ、要さん。普通なら、リップサービスでしょ、ってなるのに、あの人の場合は本気でそう思ってるみたいだもん」
実際問題、『言うは易く、おこなうは難し』の典型例だろうに、要という男はきっと何でもないことのように、美音のいる場所を自分の居場所とするのだろう。そこまで想われれば、女冥利に尽きる、と馨は言うのだ。
「まあ、馨ちゃんの気持ちもよくわかるし、美音坊の気持ちもわかる。美音坊が、要さんのおっかさんを心配するのももっともだ。でも、どっかで踏ん切らないと、美音坊自身が幸せを逃がしちまうよ。かといって……」
ウメは困惑顔でシンゾウを見た。このままこうしていても仕方がない、ということで、シンゾウはいったん解散することにした。
「今日のところはここまでだ。なに、心配しなくても、きっと手はある。みんなで知恵を絞ろう。三人寄れば文殊の知恵っていうが、三人で駄目なら四人でも五人でも頭を寄せ合えばなんとかなるさ」
シンゾウの言葉に、馨も大きく頷いた。
「うん。あたしも一度、要さんときちんと話をしてみる。お姉ちゃん、あのままじゃどうにもなんないし、もしかしたら思ってることをちゃんと伝えてないかもしれない。お姉ちゃんはこれこれこういうことで悩んでますけどーって投げてみたら、要さんなら案外さらっと解決してくれるかも」
「確かにあの人なら、ぱぱぱっとなんとかしてくれそうだ」
そうだそうだ、とウメもマサもほっとしたような顔になる。一方、シンゾウの心中は複雑だ。
これまで、町内の困りごとの大半は自分が中心になって解決してきた。それなのに、美音の問題にはこれといった解決策を示してやれない。せっかく馨が頼ってきてくれたというのに、何という不甲斐なさだ、と情けなくなってくるのだ。
ところが、そんなシンゾウの様子を見て、馨が深々と頭を下げた。
「シンゾウさん、それからウメさんもマサさんも、今日は本当にありがとう」
「いや、俺たちは何の役にも……」
「ううん。こうやって場所を移して、時間を取って一生懸命に考えてもらえただけで十分だよ。今まであたしたちがやってこれたのは、シンゾウさんたちがいてくれたからこそだし、ものすごく幸せ者だと思ってる」
「やだよ、馨ちゃん。何を改まって……」
「だって、ウメさん。こんなときじゃないと言えないじゃない」
「馨ちゃん……」
「あたし、決めた。心配してくれたみんなのためにも、お姉ちゃんには幸せになってもらうし、あたしもちゃんと自分が納得できる方法を探す!」
「おう。その意気だ。でもな、うんと遠くに引っ越すってのは勘弁してくれよ。俺たちも寂しくなっちまうからな」
そう言うとマサは、わざとらしく鼻を啜った。さらにウメは、また自分の家の空き部屋のことを持ち出す。
「いざとなったら、うちにおいでよ。新婚夫婦は無理でも、馨ちゃんひとりなら平気だろ? お嫁にいくまでの間、あたしとクロと一緒に住めばいいさ」
「うわー心強い、ありがとうウメさん。でも、そんなことしたらまたお姉ちゃんがギャーギャー騒ぎそう」
「だな。きっと美音坊、よそ様にご迷惑をかけてまで、お嫁にいこうなんて思いません! なんて目を三角にするぜ」
マサは指を目尻にあてて吊り上げる。そんな仕草に一同が大笑いし、気の重いまま終わりそうだった話し合いはなんとか明るい雰囲気で散会した。
暮れも近づいた十二月第一日曜日の朝、東京下町にある『山敷薬局』の店内では、店主シンゾウを含めた近隣住民たちが難しい顔を突き合わせていた。
事の発端は、定例となっている町内会の公園掃除で、馨がシンゾウに相談を持ちかけたことだ。
ちなみに、馨は『山敷薬局』と同じ商店街にある居酒屋『ぼったくり』の店主美音の妹である。
美音が恋人の要からプロポーズされ、すったもんだの末に結婚を決めたのは十月末のことだった。それから一ヶ月以上が過ぎたというのに、未だに姉からその後についての話が一切出てこない。普通なら、喜び勇んで結婚式の準備にとりかかるだろうし、要が忙しくて相談する暇がないにしても、衣装をどうしようとか、誰を呼ぼうとかの話が姉の口から漏れてきてもよさそうなものだ。
特に衣装については、デートの際のコーディネイトまで馨に頼り切りの美音が、何のアドバイスも求めてこないなんてあり得ない。
とはいえ馨としても、自分が口を出すことではないということぐらいわかっていた。だからこそ、これまで姉の様子をじりじりしながら見守っていたのだ。ところが、一ヶ月以上経ってもまったく進展が見られない。
もしかしたら姉は結婚式自体を考えていないのではないか、と不安になった馨は、『ぼったくり』の常連たちに相談してみることにした。
タイミングを計るのは難しかったが、幸い思い立ってすぐの日曜日が町内の公園掃除にあたっていた。公園掃除は美音と交代で出席していて、今週は馨の当番になる。当然姉はその場にいないから、相談をするにはうってつけなのだ。
掃除がある日、シンゾウはいつも早めに公園に来る。そのことを知っていた馨は、自分も一番で公園に駆けつけ、現状報告を兼ねた相談をしてみた。話を聞いたシンゾウは、続いてやってきたマサとウメに声をかけ、掃除が終わったあと『山敷薬局』で対策を練ることになったのである。
お疲れさん、まあ茶でも……と、三人に店内の冷蔵庫にあったペットボトルのお茶をすすめたあと、シンゾウは早速本題を持ち出した。
「美音坊の結婚式のことだが……」
「何事かと思ったら、その話かい。シンさんの口から出たってことは、いよいよ段取りが決まって、町内でどうやって祝うかって話だな?」
すっかり勘違いしたマサが、嬉しそうに言う。ウメはウメで、生きてるうちに美音坊の花嫁姿が拝めるなんて、となにやら感慨深げにしている。シンゾウは慌てて、馨に今日集まった趣旨を説明するよう促した。
「……というわけで、ちっとも進んでないの。さすがに、ちょっとまずいんじゃないかと思うのよね……」
「美音坊は仕事はテキパキするけど、自分のことになったらものすごくのんびり屋だからねえ」
そこでウメは、壁に掛かっていたカレンダーを見てため息をつく。
「もうすぐ年が変わっちまう。いくらなんでも、ちょっとは考えないと……」
ところがマサは、至って気楽な発言をする。
「でもよお……今時はジミ婚ってやつが流行らしいし、肉屋の息子も披露宴はしなかっただろ? 美音坊も同じように考えてるのかもしれねえぜ」
「いや、マサさん、それはちょっとまずいよ。お姉ちゃんはそれでよくても、相手は要さんだよ?」
「馨ちゃんの言うとおりだね。肉屋ならヨシノリさんがユキちゃん夫婦を引き連れて町内行脚で済むだろうけど、佐島建設の息子じゃそうはいかない」
「とはいっても、美音坊のことだから『結婚式なんてお金がかかるし……』とかなんとか言いかねねえぞ」
結婚式は女の夢なんて考えから、一番遠いのが美音坊だ、とマサは断言した。誰もがそれに頷いたあと、ウメがしみじみ言う。
「なんだろうねえ、あの締まり屋ぶりは。あんな上物を捕まえたんだから、ぱーっと派手にやればいいものを……」
「ウメ婆、あんたは『捕まえた』って言うけど、俺にはどっちかっていうと逆に見えるよ」
そう言いながら、シンゾウはこれまでのふたりの経緯を思い返してみた。
シンゾウから見ると、要は、自分からは何ひとつ仕掛けていないように見えて、その実、全部計算の上だったようにしか思えない。
公園に捨てられていた子猫の処遇に始まり、一緒に電器屋に行ったこと、その帰りに自分の家に連れていって母親に会わせたこと、店が休みの日ではなくわざわざ閉店後という遅い時間にバーに連れ出したことなどは馨から聞かされた。その結果、頭に浮かんだのは『深謀遠慮』という文字だった。
もちろん、それらがすべて要の計算に基づくものであったとしても、美音の反応がことごとく予想外で、さらに彼の母親の介入もあった結果、早いんだか遅いんだかという展開になったことは確かである。
とはいえ、シンゾウの目には、要と美音が思い合っていることは明白だったし、いつかは夫婦になると思っていた。だからこそ、プロポーズをやり直したあとは、すぐさま結婚式や新居について検討し始めるだろうと考えていたのだ。たとえ美音が二の足を踏んでも、要が怒濤のごとく、結婚に向けて突き進むに違いないと……
それなのに、今もって何ひとつ進まず、話題にすら上ってこない。最早、美音を捕まえることに全力を使い切り、結婚式のことまで考える気力が残っていないのでは? と心配になるほどだった。
「ま、俺が見たとこ、美音坊は何にも考えちゃいなかった。こと色恋沙汰に関して、あの子に手練手管を期待するのは無理ってもんだ。そこは芸者で鳴らしたウメ婆とは同列に語れねえ。仕掛けたのはタクのとーちゃんのほうだね。どっちにしても、美音坊は美音坊で考えがあるのかもしれねえ」
シンゾウの意見に、マサはマサで頷く。
「かもなあ……。もしかしたら、要さんのほうは、やいのやいの言ってるのかもしれねえ。それを美音坊が……」
「きっと店のこととか、あたしのこととか、あれだとか、これだとか、散々理屈をこねくり回して待たせてるんだ……あーもう、面倒くさい!」
さっさとお嫁に行っちゃえ! と馨はやけくそのように叫ぶ。ウメは、そんな馨にくすりと笑いながら言う。
「それはそれで寂しいくせに。とはいえ、もしそれが本当だとしても、長すぎた春って言葉もあるし、待たせすぎはやっぱりよくないと思うねえ……」
ウメは、あの男、随分猫を被ってるけど、本当はとんでもなくやんちゃなんじゃないかい? 大丈夫なのかい、美音坊は? なんて心配まで始めてしまう。
ところが馨は、心配そうにするウメに笑いながら答えた。
「平気だよ。猫を被ってるのはお姉ちゃんも同じだもん。猫かぶり同士でうまくやってくんじゃない? お互いに被ってる猫の種類までちゃんとわかってるよ、あのふたりは」
「おやそうかい。そりゃけっこうなこった。猫かぶりふたりにタクが入って新居は猫だらけだね、騒がしいことだ」
「あーそう、その新居が問題なんだ」
そこで、シンゾウが、馨の顔をちらりと見た。
「プライバシーの侵害って騒がれそうだが、ちょいと言わせてもらうよ?」
「いや、それ、あまりにも今さらだし」
この町内会、特に『ぼったくり』の常連たちは丸ごとひとつの家族のようなものだ。しかも今は、相談を持ちかけたのは自分のほうなのだから、という馨の言葉に頷き、シンゾウは口を開いた。
「あのふたり、そもそもどこに住む気でいるんだ? どうせタクのとーちゃんのことだから、どこかにでかい家があるんだろう?」
「そうみたい。お母さんが住んでる家もあるし、学生時代に使ってたマンションもあるんだって。たぶん、そのマンションでもふたりで住むには十分なんじゃないかなあ……」
美音自身が将来の住まいについて語ったわけではないらしい。ただ、要が『ぼったくり』に訪れたときに出てきた話から、馨は間取りや広さを推測し、新居に相応しいかどうかを考えたそうだ。
なんとも姉思いの妹ではあるが、そこまでしなければならないほど美音がのんびりしているということなのかもしれない。
いずれにしても新居の候補地は現時点でふたつあり、いずれもこの町ではない。その事実に、一同が軽くため息をついた。
「どっちを選ぶにしても、この町を出てくってことか……」
『寂しい』という言葉を口にしたかっただろうに、マサはあえてそれをしない。美音の結婚に水を差してはならないという気持ちが、彼の表情に溢れていた。シンゾウも同じ気持ちだったし、おそらくウメも共感しているだろう。
ところが馨は、そんな三人に小首を傾げつつも再び口を開いた。
「いきなりお姑さんと同居っていうのはパスしたいだろうし、やっぱりマンションのほうがいいんじゃないかと思うんだよね。で、お姉ちゃんにもそう言ったんだけど、なんだか煮え切らないのよ」
「というと?」
「マンションからここまでけっこう時間がかかるみたいで、通ってくることを考えると決めきれないみたい」
「だろうねえ……。美音坊は、先代の墓をどうするって話になったときも、ずっとこの町で『ぼったくり』を守っていくって言ってた。あたしらが慌てて、先のことはわからないんだからって止めたぐらいだ。結婚も、この町を出ることも、考えたこともなかっただろうさ」
シンゾウも、美音に店を閉めるという考えが微塵もないことはありがたいと思う。けれど、それが本当に美音のためになるのかというとかなり疑問だ。かといって、本人の気持ちを無視して町の外に追いやることなどできるわけがなかった。
「美音坊は、なんとかこの町に住めないかって考えてくれてるんだろうけど、やっぱりそれは無理な相談だよ」
いくら考えても打開策は浮かばない。それで美音は、結婚の話自体を進められずにいるのではないか、というのがウメの推測だった。
「とにかくこの町を出たくない、か……」
「美音坊の気持ちは嬉しいけどねえ……」
そんな言葉を交わすマサとウメの顔には、喜びと困惑が入りまじっている。
『ぼったくり』を続ける限り、美音は毎日ここに通ってくる。それがわかっていても、美音がこの町の住民でなくなるのは寂しい。それが町内会メンバーとしての正直な気持ちだろう。
このまま困った顔を突き合わせていても仕方がない。ということで、シンゾウはとりあえずもうひとりの当事者について訊いてみることにした。
「ところで、それについてタクのとーちゃんはなんて言ってるんだ? まさか意見が割れて大喧嘩、なんてことになってねえだろうな?」
周囲がやきもきしまくる中、ようやくまとまったふたりが、家の問題で喧嘩別れなんてことになったら、目も当てられない。シンゾウは、それぐらいなら、この町のことなんざ諦めろ、とどやしつけてでも要のもとに送り込みたい気分だった。
ところが馨は、その心配はない、と笑顔で答えた。
「要さんは大丈夫。ちゃんと確かめたし」
いつまでも煮え切らない姉にしびれを切らし、馨はこっそり要に確認してみたらしい。要もSNS内の『ぼったくりネット』のメンバーだったから、連絡は取りやすかったという。
住居問題で美音が悩んでいるらしいと知らされた要は、あっさり答えたそうだ。
「要さんも、お姉ちゃんはこの町に住んだほうがいいって考えてくれてた。それどころか、前からお姉ちゃんにはそう言ってくれてたみたい。で、あたしは意気揚々とお姉ちゃんのところに行ったわけ。なんにも問題はないじゃない、この町に住みなよ、って。そしたら……」
今の家でもいい、近所に新しい住まいを探してもいい、とにかくこの町に住もう、と要は言ってくれた。それならその言葉に甘えればいいではないか、と馨は美音に言ったそうだ。
美音も最初は、馨が勝手に連絡を取ったことに文句を言いながらも、要の意見を聞いて嬉しそうにしていた。けれど、これなら大丈夫、と馨が安心しかけた矢先、美音はやっぱり眉根を寄せたという。
「すごくありがたいけど、要さんに申し訳なさすぎる。なにより住むところがない。あんたを追い出すわけにはいかないし、一緒に住むのは要さんにもあんたにも悪すぎる、とかなんとか、うだうだうだうだうだうだ……」
『うだ』を山ほど連ねたあと、馨は大声で「めんどくさーい!」と叫んだ。
「もうね、公園にテントでも張って住め! とか言いたくなっちゃったよ」
「いや、馨ちゃん、いくらなんでもそれは……」
ウメは呆れた顔になり、マサは「そこらの植え込み、ちょいと刈り込んで場所を作ってくるか?」なんて冗談を言う。マサは植木職人だからそれぐらい朝飯前だろうが、明らかに法に触れるし、美音たちにしても新婚生活がテントから始まるなんてまっぴらだろう。
「テントは勘弁してやってくれよ。だが、実際問題、住むところがないってのは本当だよな」
そう言うと、シンゾウは半分だけ開けられたシャッターから外を窺うようにした。
ここは商店街だから、住民の大半は店の二階に居を構えている。賃貸物件といえば、『ぼったくり』の裏にあるアパートぐらいのものだ。だが、そのアパートも現在満室だし、この先住民が入れ替わるかどうかはわからない。新しいマンションが建つ予定もない。空き地がないのだから当然である。
「住みたくても住めない。諦めるしかないのかねえ……。あ、うちは部屋が余ってるし、何なら……」
「なんで新婚早々ウメ婆と一緒に住まなきゃなんねえんだよ。おかしすぎるだろう!」
即座にマサに突っ込まれ、ウメはすんなり頷いた。
「だよねえ。夫婦水入らずならまだしも、赤の他人と同居したって聞いたら、さすがに要さんのお母さんが黙っちゃいないだろうね」
「あーそれそれ、それもお姉ちゃんの『うだうだ』のうちのひとつなんだ」
そこで馨が持ち出したのは、要の母である八重の話だった。
「お姉ちゃんは、八重さんがひとりになっちゃうのが心配なんだって」
要はもともと同じ佐島家の敷地内に建っている二軒のうちの一軒に暮らしていた。片方には祖父母、もう片方には母と兄、そして要が住んでいたのだが、大学進学を機に要はマンションでひとり暮らしを始めたという。
しばらくその状態が続いたのち、要の大学院卒業と前後して兄が結婚、母親は新婚夫婦に家を譲って外に出た。夫はとっくに亡くなっていたし、新婚夫婦と住むよりは、小さな家にひとり暮らしのほうが気楽だと考えたらしい。それを聞いた要は、八重がひとりになるのが心配で、母の新居に移った。当初八重は、せっかくひとりになれたのに、なんて言ったそうだが、先般のように体調を崩すこともあり、要がいてくれたのはやはりありがたかったようだ。
要が結婚してこの町に住むとなると、八重はひとりになってしまう。美音はそれを心配しているのだろう。
「要さんが八重さんをひとりにさせたくないのはわかってるし、お姉ちゃんだって、お姑さんなんてどうでもいいなんて人じゃない。かといって、八重さんにまでここに住んでくれなんて言えっこないし」
かくして話はちっとも進まず、年の瀬は目の前、というのが今の状況なのだ、と馨は嘆いた。
「お姉ちゃん、昨日も『このままじゃ駄目かなあ……』って呟いてた」
『このまま』ということは、結婚もせず、一緒にも住まず、ただ閉店時間間近の『ぼったくり』に要が通ってくるだけの状態のことか、と馨は頭を抱えてしまったそうだ。
休日に一緒に出かけることがないとは言わないが、要は忙しいし、美音は連休なんて年に一、二度しか取れない客商売である。旅行はおろか、外で会うことすら難しい現状で、さすがにそれは……とシンゾウも呆れてしまった。
「いくらなんでも、タクのとーちゃんが気の毒すぎる」
「だよな。ただでさえ、あっちはじりじりしてるはずだぜ。いつまで待たすんだ! って。その挙げ句、もういいや、とかなったらどうするんだ!」
シンゾウの言葉であらぬ心配を始めたマサに対し、ウメは冷静だった。
「そんな心配はいらないよ。あの『天然』の美音坊相手にめげずに頑張ってきた男だ。今更、逃げ出したりしないさ」
「あたしもそう思う。もう待てないってなったら全部自分で段取りつけて、さあ行くぞ、ってお姉ちゃんをかっ攫っていきそう」
その場にいた四人が四人ともその様子を頭に描いた。
いざとなったら要は、被っていた猫をかなぐり捨てて、家から式から全部手配して、あれよあれよという間に美音を自分の家族にしてしまいそうだ。
「要さんは、やんちゃだけど辛抱強い。いざとなったら行動力もある。だから、上物だって言うんだよ。ただまあ、できれば『合意の上』であってほしいけどね」
「合意ったってなあ……美音坊はあれでかなり頑固だし……。それに、馨ちゃんのこともある」
そこでシンゾウはいったん言葉を切り、馨を見た。
美音の結婚は、馨の生活にも大きな影響を与える。そのあたりをどう考えているのか、一度確認しておきたいが、今、訊ねて大丈夫だろうか……
そんなシンゾウの眼差しに、馨はやるせなさそうな目になって言った。
「やっぱりお姉ちゃん、あたしのことも気にしてるんだよね……?」
「まず、間違いねえな。それで、馨ちゃんは、もしもあのふたりが一緒になったらどうするつもりだい?」
「要さんのおっかさんの心配してる場合じゃねえな」
馨だってひとりぼっちだとマサは心配する。もちろんシンゾウも、おそらくウメも同じだろう。
両親が亡くなったあと、馨にとって美音は姉であると同時に、父であり母でもあった。
その美音が結婚したあと、馨はひとりで大丈夫なのかと……
マサはいとも簡単に言う。
「一緒に住んじまえよ。そしたら美音坊の心配も……」
「マサさん、あたし、ラブラブ全開に違いないふたりと一緒に住む根性なんてないよ」
「そうか、そうだよなあ……」
当然予想内の答えだと頷いたものの、シンゾウの心配はさらに募る。
「美音坊、もしかしたら馨ちゃんが家を出るまで、結婚しないつもりじゃねえだろうな?」
「前はそんなことも言ってた。あんたをお嫁に出すまでは、気が気じゃないから結婚なんてできないって……」
姉妹の間でその話が出たのは、馨が哲と付き合い始めたばかりのころのことだった。
それまでも彼氏は絶えずいたものの、年齢からして結婚を考えるような関係ではなかった。だが、哲の場合は、馨自身がいつかは……と不確かながらも未来図を描いていた。だからこそ、自分より五歳も年上の姉の将来が気になって、結婚について訊ねてみた。その結果、返ってきたのは『あんたをお嫁に出すまでは』という言葉だったのだ。
「家のこと、八重さんのこと、あたしのこと……。これじゃあ、お姉ちゃん、いつになったら結婚できるのやら……」
「こりゃ、美音坊の結婚話をせっつくより、『もうちょっと待ってて』の兄さん――哲くんっていったかね、あの子を連れてきて説教するほうが早いような気がする」
ウメにそんなことを言われて、馨は大慌てで手を左右に振った。
「やめて! そんなことされたらあたし、困っちゃう!」
「冗談だよ。あの兄さんの年じゃあ、まだ踏ん切りつかないだろうよ。余計なことして話が壊れたら、それこそ美音坊が嫁に行けなくなる」
「あ、ウメさんひどい。あたしの結婚は、お姉ちゃんのためだけなの?」
「そんなわけないだろ。美音坊も馨ちゃんも大事なうちの娘たちだからね。ちゃんと幸せになってほしいって思ってるよ」
「そうそう。うちの町内会が先代から預かった大事な娘たち。だからこそ、ここいらの住民は躍起になるってわけだ」
ウメやマサはときどき冗談の真ん中にそんな台詞を紛れ込ませる。それはきっと、思いやりの気持ちを真っ直ぐに伝えるのが照れくさいからに違いない。
ふたりの思いやりに触れ、ちょっと泣きそうになってしまった馨を見ながら、シンゾウはしみじみ思う。
この町内の皆は、結局こんな連中ばかりなのだ。厳しくて口やかましいところもあるけれど、心の底はとても優しくて、いつだって誰かのことを心配している。だからこそ、美音もここを離れたくないと思うのだろう。馨も同じだ。姉を送り出すためには、自分が自立する必要があると薄々わかっていても、この町を出ることが心細くてならないに違いない。
「本当はわかってるんだ。あたしがどこかにアパートでも借りれば、お姉ちゃんたちはあの家に住める。でも……あたしは結婚したらきっとこの町にはいられない。だからよけいに、それまではなんとかって思っちゃう。我が儘だよね……」
「あたしは我が儘だとは思わないよ。なにより、そんなことしたって美音坊は喜ばない。馨ちゃんをひとりにするだけでも嫌だろうに、その上、この町からも遠ざけるなんてこと、するわけがない」
怒ったような口調に、ウメの苛立ちが感じられた。そこには、助けてやりたいのに何もできないもどかしさが込められていた。
「美音坊たちと一緒に住むわけにはいかない。結婚にもちょいと早い。なにより、借りようにも物件がねえ……ほんと、困ったもんだな」
マサが途方に暮れたように言った。
「要さんね、お姉ちゃんに言ったんだって。『君がいる場所が俺の家。それがどこにあっても関係ない』って……」
そこでマサはヒューッと短く口笛のような息を吐き、ウメは両手を叩いて喜ぶ。うんうんと頷くばかりになってしまったシンゾウに、馨は羨ましそうに言う。
「かっこいいよねえ、要さん。普通なら、リップサービスでしょ、ってなるのに、あの人の場合は本気でそう思ってるみたいだもん」
実際問題、『言うは易く、おこなうは難し』の典型例だろうに、要という男はきっと何でもないことのように、美音のいる場所を自分の居場所とするのだろう。そこまで想われれば、女冥利に尽きる、と馨は言うのだ。
「まあ、馨ちゃんの気持ちもよくわかるし、美音坊の気持ちもわかる。美音坊が、要さんのおっかさんを心配するのももっともだ。でも、どっかで踏ん切らないと、美音坊自身が幸せを逃がしちまうよ。かといって……」
ウメは困惑顔でシンゾウを見た。このままこうしていても仕方がない、ということで、シンゾウはいったん解散することにした。
「今日のところはここまでだ。なに、心配しなくても、きっと手はある。みんなで知恵を絞ろう。三人寄れば文殊の知恵っていうが、三人で駄目なら四人でも五人でも頭を寄せ合えばなんとかなるさ」
シンゾウの言葉に、馨も大きく頷いた。
「うん。あたしも一度、要さんときちんと話をしてみる。お姉ちゃん、あのままじゃどうにもなんないし、もしかしたら思ってることをちゃんと伝えてないかもしれない。お姉ちゃんはこれこれこういうことで悩んでますけどーって投げてみたら、要さんなら案外さらっと解決してくれるかも」
「確かにあの人なら、ぱぱぱっとなんとかしてくれそうだ」
そうだそうだ、とウメもマサもほっとしたような顔になる。一方、シンゾウの心中は複雑だ。
これまで、町内の困りごとの大半は自分が中心になって解決してきた。それなのに、美音の問題にはこれといった解決策を示してやれない。せっかく馨が頼ってきてくれたというのに、何という不甲斐なさだ、と情けなくなってくるのだ。
ところが、そんなシンゾウの様子を見て、馨が深々と頭を下げた。
「シンゾウさん、それからウメさんもマサさんも、今日は本当にありがとう」
「いや、俺たちは何の役にも……」
「ううん。こうやって場所を移して、時間を取って一生懸命に考えてもらえただけで十分だよ。今まであたしたちがやってこれたのは、シンゾウさんたちがいてくれたからこそだし、ものすごく幸せ者だと思ってる」
「やだよ、馨ちゃん。何を改まって……」
「だって、ウメさん。こんなときじゃないと言えないじゃない」
「馨ちゃん……」
「あたし、決めた。心配してくれたみんなのためにも、お姉ちゃんには幸せになってもらうし、あたしもちゃんと自分が納得できる方法を探す!」
「おう。その意気だ。でもな、うんと遠くに引っ越すってのは勘弁してくれよ。俺たちも寂しくなっちまうからな」
そう言うとマサは、わざとらしく鼻を啜った。さらにウメは、また自分の家の空き部屋のことを持ち出す。
「いざとなったら、うちにおいでよ。新婚夫婦は無理でも、馨ちゃんひとりなら平気だろ? お嫁にいくまでの間、あたしとクロと一緒に住めばいいさ」
「うわー心強い、ありがとうウメさん。でも、そんなことしたらまたお姉ちゃんがギャーギャー騒ぎそう」
「だな。きっと美音坊、よそ様にご迷惑をかけてまで、お嫁にいこうなんて思いません! なんて目を三角にするぜ」
マサは指を目尻にあてて吊り上げる。そんな仕草に一同が大笑いし、気の重いまま終わりそうだった話し合いはなんとか明るい雰囲気で散会した。
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