深夜カフェ・ポラリス

秋川滝美

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1巻

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 赤よりも刺激が少ないとはいっても七味は七味だ。五歳の子どもに食べられるだろうかと心配になったが、身体に悪いものではないし少しぐらいなら平気だろう。なにより、智也は普段から味噌汁を好まない。家で作っても『ちょっとにして』と頼んでくるし、病院でもいやいや飲んでいる。
 智也が味噌汁を自分から飲みたがるなんて、ひどく珍しいことだった。
 辛いかもしれないから少しずつにしなさい、と言いながら味噌汁のカップを渡す。受け取って飲んでみた智也が、目を丸くして言った。

「たこ焼きの味がする!」
「たこ焼き? ああ、青海苔あおのりね」
「それにちょっとだけ辛くて美味しい!」
「気に入ったのなら、もっと飲んでいいわよ」
「でもこれ、お母さんの朝ご飯だし……」

 朝ご飯が味噌汁だけしかないことに気づいたのか、智也はカップ味噌汁を返そうとしてくる。どうせ味噌汁だけでは足りないのだから、一口二口減ったところで同じことだ。診察が終わってから売店に行くからいい、と答える美和に、智也は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、もうちょっとだけ。お味噌汁は好きじゃなかったけど、この七味を入れるとこんなに美味しいんだね」

 診察があるとわかっていたため、智也は昨日からずっと機嫌が悪かった。それが、黒七味のおかげか、泣くこともなく診察を受けた。入院の延長が決まったわけではなく様子見、さらにトレーディングカードをもらって大喜びし、その後は美和を困らせることがぐっと減ったのである。

「黒七味で機嫌がよくなって、診察後はトレーディングカードで大喜び。本当にありがたかったです」
「お役に立ててなにより。トレカも気に入ってくれてよかったわ」
「気に入ったどころか……」

 診察が終わったあと、お利口さんだったねとカードパックを渡したとたん目の色が変わった。入院が延びるかもしれないという不安が、一瞬にして意識の外に飛んでいったらしい。
 ところが、カードパックを嬉しそうに眺めていた智也は、しばらくしてはっとしたように訊ねた。

「今朝のお味噌汁、コンビニで買ったやつだよね? 昨日の夜、ちゃんとご飯を食べた? もしかして、これを買うのに我慢したんじゃ……」
「ばかね。ちゃんと食べたわよ。それに、それは買ったんじゃなくていただいたものなの」
「誰がくれたの?」
「あのね……」

 そこで美和は、『ポラリス』について話した。深夜にひとりでカフェに行ったことで文句を言われるかと思いきや、智也はほっとしたように答えた。

「よかった……お母さん、僕が入院してからずっと野菜が食べたいって言ってたもんね」

 家でならなんとかやりくりして野菜を食卓にのせることはできる。だが、外食や中食は割高になるため副食、とりわけ野菜がおろそかになりがちだ。コンビニのサラダすら買えず、ため息まじりに野菜ジュースを飲む姿を見ていたのだろう。

「そうね。久しぶりにお野菜がたくさん食べられて嬉しかったわ」
「僕もカードをもらえたし! ね、これ開けていい?」
「もちろん」

 智也はすぐさまパックを開け、カードを一枚一枚じっくり見ていく。頷いたり眉をひそめたりしつつめくり続け、最後の一枚で大声を上げた。

「うっわー! レアカードだ! お母さん! これ六百枚に二、三枚しか出ないやつだよ!」

 金色に輝くカードを手にした智也は大興奮で、美和にカードを見せてくる。また発作を起こすのではないかと心配になったけれど、ゼイゼイもヒューヒューも始まらない。それどころか入院してから一番というぐらい、血色がよくなったのである。 
 美和の話を聞いた店主が、満足そうに頷いた。

「やっぱりレアカードが入ってたか……」
「やっぱりって?」
「なんとなくそんな気がしてたの。景品でもらった宝くじが一等賞、とかよく聞く話だし」
「そういえばそうですね」
「まあ、喜んでもらえてよかったわ。それにしても、五歳なのに黒七味が好きだなんて『つう』だね。それで訊きたいことって……あ、黒七味がもっと欲しいってこと?」
「はい。できれば買った場所を教えてもらえないかと思って。ネット通販では見つけたんですけど、近くで買えるならそのほうがいいな、と……」

 ネット通販で、店主がくれたのと同じ黒七味の小袋を見つけることができた。けれどそれは京都の老舗しにせが作っているもので、送料がかかる。送ってもらうのだから送料がかかるのは当たり前だし、買いに行く交通費よりも安いことは間違いない。それでも、商品そのものより高い送料を見たとたんに、近場で買えるところはないかと考えてしまった。
 そのほうがいい、の大部分は取り寄せる手間暇ではなく、『送料がかからない』だった。
 美和の気持ちを知ってか知らずか、店主は頷いて答える。

「わかるわかる。私も、まずどこかで売ってないかって探しちゃう。ネット通販は便利だけど、配達を待ってるのがまどろっこしくて。どうにも生活時間帯が合わないっていうか……」

 営業時間の関係で、昼夜逆転の生活をしている。宅配便が来るような時刻は寝ていることも多く、眠りを妨げられたくないと店主は説明する。在宅ワークで宅配便など受け取り放題の美和にはまったく無縁の悩みだった。
 それでもあえて経済的苦境を口にする必要はない。そうですね、と相槌を打つ美和に、店主はすまなそうに言った。

「でもごめんなさい。このお店の黒七味は京都でしか買えないの。アンテナショップとかに置いてくれればいいんだけど……」
「やっぱりそうなんですか……じゃあ、ネット通販で買うしかないですね」
「そうなっちゃう……あ、でもちょっと待って」

 そこで店主は、食器棚の引き出しを開け、小袋がたくさん入ったパッケージを取り出した。

「これ、どうぞ」
「そんなわけにはいきませんって!」
「あげるとは言ってません。お代はちゃんといただくわ」
「でも、それじゃあこちらの分が……」

 彼女がネット通販を使ったのか、京都で買ったのかはわからない。いずれにしても目的があって買ったものを横取りするわけにはいかない。

「いいんだって。うちはまだ少し余分があるし」
「でも!」

 どうしても受け取ろうとしない美和を困ったように見ていた店主は、はっとした顔になったかと思うとおもむろにスマホを取り出した。そしてものすごい勢いで操作し、送信ボタンらしき場所を勢いよくタップする。ものの一分でポーンという音が鳴った。
 返信らしきものを一読した店主は満足そうに頷き、もう一度スマホを操作したあと、美和に黒七味を差し出した。

「もう大丈夫。うちには入荷の目処めどが立ったよ!」
「どういうことですか?」
「私の弟、ときどき仕事で京都に行くの。今確かめてみたら、ちょうど明後日あさって行くことになってるっていうから、買ってくるように頼んだわ」
「お仕事なのにそんな……」
「七味なんて重いものでもないし、お金だってちゃんと払う。なんなら手間賃もつけて。だから、これは持っていって。ちょっと賞味期限が短いのが申し訳ないけど……」
「そんなの全然……。生ものならともかく、七味の賞味期限なんて気にしたことないし、うちにあるのだってとっくに切れてると思います」
「七味とか一味ってちょっとずつしか使わないから、気がつくと賞味期限を過ぎちゃってるよね。でもこれは小袋だから使い切りができて、缶や瓶に入っているものよりは風味が落ちにくいはず。多少賞味期限が過ぎてもいけそう。お店の人が聞いたら怒るかもしれないけど」

 ペロリと舌を出す店主から、美和は今度こそ黒七味の袋を受け取った。
 使い切りという言葉で思い出したが、実はあの日、初めて使うこともあって、美和はカップ味噌汁に半分しか黒七味を入れなかった。翌日半分残った黒七味をカップ味噌汁に入れてみたら、智也はまた大喜びで飲んでいたが、美和はほんの少しだけ風味が落ちた気がした。やはり開封したてと同じようにはいかないのだろう。
 だが、これからは味噌汁を飲むたびに一袋をふたりで分けられる。味噌汁は身体にいいし、これさえあれば智也も嫌がらずに食べるだろう。もしかしたら『もっと入れて!』なんて言うかもしれない。
 まずは支払いを……と美和は財布を取り出した。

「えっと……おいくらですか?」
「じゃ、五百円で」
「え、ネットではもっと高かった……」
「賞味期限が短い分、割り引き」
「でも!」
「いいのいいの。さっきは風味はそんなに飛ばないって言ったけど、さすがにお客さんに賞味期限が切れたものは出せないし、自分が使うには多すぎる。これをあなたが引き取ってくれて、私には新しいものが届く。ウィンウィンじゃない」

 本当ならあなたに新しいものを渡してあげたいけれど、退院が明日では間に合わない。退院したあとにここまで取りに来るのは大変だろうから、と店主は言う。
 ここまで言ってくれているのに、厚意を受け取らないのはさすがに失礼だろう。

「じゃあ、ありがたく……本当に助かりました。息子も喜びます」
「ずっと我慢して入院してたんだから、ご褒美がなくちゃね。さあ、できた! こっちはお母さんのご褒美」

 私がご褒美って言うのはちょっと違うかしら、と首を傾げつつ、店主は美和の前に皿を置く。
 真っ白で大きくて、おしゃれなカフェでよく使われている感じのお皿だった。ただし、のせられているのはハンバーグや海老フライ、唐揚げ、ウインナーにポテトフライ、オムレツといった美和よりも智也が喜びそうなものばかり。サラダはたっぷりのせられているが、それ以外はまるでお子様ランチで、小さく型抜きされたケチャップライスの上にはイタリアの旗まで立てられていた。

「これって……」
「コートジボワールの旗を立てたかったんだけど、さすがになかったので。ケチャップライスってイタリアっぽいし、イタリアの国旗の緑は自由の象徴なんだって」
「自由……退院には相応ふさわしいかも」
「でしょ? さあ、冷めないうちにどうぞ」

 店主にうながされ、フォークを手に取る。
 皿の上にはキャロット・ラペものせられている。キャロット・ラペは生の人参を千切りにしてドレッシングでえる料理で、比較的簡単に作れるし美和の大好物でもある。
 以前は自分でも作っていたのだが、このところご無沙汰している。まずはこれから……とフォークですくい上げた。
 口に入れたとたん、ドレッシングの酸味が広がった。だが、酢と油と塩胡椒こしょうをまぜただけで作る美和のドレッシングとは異なり、なんだか酸味がとても柔らかいし、ほのかな甘みまで感じる。
 手を止めたまま、人参そのものが甘かったんだろうか、それとも……などと考えていると、店主が声をかけてきた。

「もしかしてキャロット・ラペは苦手?」
「え、どうして?」
「苦手なものから食べちゃおうって人もいるから……」
「とんでもない。キャロット・ラペは大好きで、前は家でもよく作ったんですけど、息子が生野菜全般が苦手みたいで」
「生野菜が苦手な子どもは多いみたいね。特に男の子は。でも加熱したほうがたくさん食べられていいし、大人になったら味覚も変わる。黒七味が好きなら将来有望よ」
「だといいんですけど……それにしてもこのドレッシング、酸味と甘みがちょうどよくて、すごく美味しいですね。これなら息子も食べてくれそう……お砂糖、けっこうたくさん入れてるんですか?」

 レシピを明かさない店主は多い。それでも、なんとかドレッシングの秘密が知りたい一心で訊ねた美和に、店主はあっさり答えた。

「お砂糖は使ってないわ。甘いのはオレンジの絞り汁をまぜてるから。あと、クミンパウダーを少し」
「クミンシードじゃなくて?」
「パウダーのほうが全体にまんべんなく馴染むのよ。とかいって、本当は扱いが楽だからだけど」

 いちいちるのは面倒くさい、と店主は笑う。ドレッシングに砂糖ではなくオレンジの絞り汁を使うほどこだわりが強いのに、クミンシードを煎るのが面倒だなんて不思議な人だ。
 まあ、美味しければいいか……と思いながら、美和は食事を再開した。
 キャロット・ラペは三口で終了、次は生野菜サラダのキュウリにフォークを刺す。
 こちらのドレッシングはキャロット・ラペとはまた別で、醤油ベースでごま油の香り。日本人にはほっとする味わいだった。
 野菜ばかり食べている美和に気づいたのか、店主が感心したように言う。

「もしかしてダイエット中?」
「実は……というか万年ダイエット中なんです。もともと太りやすい体質だし、ばたばたしてて食事が深夜になることも多いので」

 キャロット・ラペから食べ始めたのには大好物である以上に大きな理由があった。
 前よりは早いとはいえ、時刻はすでに午後十時を過ぎている。皿の上の料理はどれもボリュームたっぷりだ。こんなに美味しそうなのだから残すなんて論外だし、お腹はしっかり空いているから残せるはずもない。せめて、野菜から食べることでカロリーの吸収を抑えたかった。

「確かに夜中の飲食は太りやすいよね。あ、でも、うちはほかのお店に比べたらカロリーは控えめだと思うよ」
「そう……なんですか?」

 そんなはずはない、と言い返したくなったが、さすがに失礼すぎる。ハンバーグも唐揚げも、海老フライもカロリーの塊だ。どこがローカロリーなのよ、と思っていると、店主が後ろを振り返った。
 振り向いた先にあったのは、四角くて黒い家電製品だった。オーブンレンジにしては小さいし、オーブントースターよりは大きい。さっきもなにかを取り出して皿に移していたから、加熱するための器具には違いないが、美和は見たことがないものだった。

「エアフライヤーって知ってる?」
「油を使わないで揚げ物ができるってやつですよね?」 
「そうそう。これはエアフライヤーオーブンっていって、エアフライヤーとオーブンを足したものよ。パンやピザ、お肉やお魚、ケーキやクッキーも焼けるし、生地の発酵にも使えるの」
「へえ……便利ですね。小さいし……」

 そういえば、コンロの上に油が入った鍋は出ていないし、フライヤーもない。よく考えたら揚げ物なんて出せるはずはないが、エアフライヤーがあるなら話は別、ほかの店よりもローカロリーという主張も頷けた。

「油なしで揚げ物が作れるし、焼き物をしても余分なあぶらが落ちるからヘルシー。これは小さくて扱いが楽だし、場所も取らない。うちみたいに狭い店にはぴったり」
「油の始末もしなくていいし?」
「それが一番!」

 クミンシードをるのが面倒なら、揚げ油の始末はもっと嫌だろう。それに、エアフライヤーは一度に作れる量が少ないと聞いたことがある。ここでほかの客を見たことはないけれど、それはたまたまで、客が重なることだってあるはずだ。複数の客の料理、しかも焼き物やデザートまで作るなら、オーブンタイプのほうが便利に違いない。

「海老フライも唐揚げもハンバーグも、これを使ってるわ。揚げ物にはすこし油を噴き付ける必要があるけど、海老フライには米油、唐揚げにはオリーブオイルを使ってるし、ハンバーグも半分はお豆腐。あ、でも……」

 そこで店主はちょっとだけ後ろめたそうな顔になった。なにかと思えば、オムレツを指さして言う。

「ごめんね。オムレツだけはバターをたっぷり入れちゃった。これだけは譲れなくて」

 店主の気持ちはとてもよくわかる。大きく頷き返し、美和は食事を続ける。
 バターたっぷりのオムレツは、冷めかけていたが柔らかくてほどよい塩加減。真ん中にかけられたケチャップの色は、智也が赤ん坊のころに使っていた毛布を思い出させる。
 正しくは毛布ではなく膝掛けで、赤くてちょっとだけオレンジ色がまじっていた。足までかけるとすぐに蹴飛ばしてしまうからお腹にだけのせていたのだが、目の前のオムレツは、クリーム色のパジャマの上に赤い毛布をのせていた智也の姿そっくりだった。
 あの小さかった智也が、来年には小学校に上がる。行動範囲が広がれば、危険なこともたくさんあるに違いない。どうかもう今回みたいに入院する羽目におちいりませんように、と祈らずにいられなかった。
 皿の上の料理がなくなりかけたころ、店主が冷蔵庫から金属の型を取り出した。型の縁に沿って竹串を一回りさせ、ガラスの器の上でひっくり返す。出てきたのはオムレツよりもわずかに暗い黄色、フルフルと震えるプリンだった。
 目を輝かせた美和に、店主は片目をつぶって答えた。

「オムレツにはバター、お子様ランチにはデザートが必須アイテム。お子様ランチとプリンってお約束だよね」
「プリンは大好きです。家でもときどき買うんですけど、ついつい息子に譲ってしまって……。それに、プリンって案外カロリーが……」
「『お母さんあるある』ね。でも今日は大丈夫、これはあなただけのものだし、カロリーも心配ない。牛乳の代わりに豆乳、お砂糖の代わりに蜂蜜を使ってるの。蜂蜜だとお砂糖ほどたくさん入れなくても甘みが出せるから」
「それなら安心していただけますね。あ……でも……」

 そこで美和は店主の手元を見て噴き出しそうになる。カロリーは心配ないと言いながら、彼女が手にしたのはホイップクリームが入った絞り袋だった。

「ほんのちょーっとだけ! やっぱり飾りがないと寂しいから!」

 あたふたと言い訳をしながら店主はプリンのてっぺんにホイップクリームを絞り出し、真ん中にチェリーをひとつのせる。これ以上お子様ランチに相応ふさわしいものはないというプリンの完成だった。
 豆乳で作ったプリンは初めてだが、思ったより違和感はない。きっと卵の味が濃厚だからだろう。
 食べ終わるのがもったいなくて、少しずつ食べようと思っていたのに、手が勝手に動いて止まらない。レトロなガラス皿は、あっという間に空っぽになってしまった。

「美味しかった……」

 ため息とともに出た言葉に、店主がにっこり微笑んだ。

「お粗末さま。大人のお子様ランチも案外いいでしょう?」
「大人もなにも、お子様ランチ自体久しぶりでした。近頃、息子すら頼まなくなって……。お子様ランチじゃ足りないそうです」
「活発な男の子ならそうだろうね。なによりお子様ランチを出すお店そのものが減ってるみたいだし」
「そういえば、お子様セットはあっても昔ながらのお子様ランチは見なくなったかも……」
「あれもこれものせようと思うと結構手間がかかるし、盛り付けるだけでも大変だしね」
「そうなんでしょうね。でも、やっぱり昔ながらのお子様ランチがなくなるのは寂しいです」
「なくならないよう頑張るわ。うちの場合、食べるのは大人だけど、大人こそお子様ランチが必要かなって思うし……」
「それってどういう……あ、あのころに戻りたいってことですか?」
「それもあるけど……」

 そこで店主はいったん言葉を切り、考えをまとめるように黙ったあと再び話し始めた。

「お子様ランチは責任放棄の象徴みたいな気がするの。お子様ランチって大抵年齢制限があるでしょ? お子様ランチを許される間はなにもかも大人が引き受けてくれる。ただ食べて、眠って、遊んでればいい。でも学校に上がって、お勉強も始まって、喧嘩をしても仲なおりは自分たちでやりなさい、みたいな感じ?」
「低学年のうちはそうでもないでしょう? 先生だっていろいろ面倒を見てくださるし」
「まあそうだけど、なんかどんどん自分の責任が増えていくような……」
「そりゃそうですよ。いつまでも親任せじゃ、たまったもんじゃありません」
「だからこそ、たまーにお子様ランチを見るとあのころはよかったと思う。そして、はっとする」
「なにに?」
「お子様ランチを食べてただ楽しんでただけの自分も、今ではこんなに立派な大人になった。長い道のりだったけど、頑張ってきたんだって……」
「……思うでしょうか?」

 少なくとも美和は、この店主に言われるまでそんなふうに考えたことはなかった。ただ懐かしい、ちょっとずついろいろ食べられて嬉しい、と思っただけだ。お子様ランチから、今まで自分が歩んできた道のりを振り返る人がいるとは思えなかった。
 おそらく店主もわかっていたのだろう、苦笑しながら言う。

「たぶん、思わないね。でも、できればそう思ってほしい。問題も不安も山積みかもしれないけど、あなたは生きている。お子様ランチを食べなくなった日から今までの長い時間を生き抜いてきただけでも素晴らしいことなんだって、気づいてほしい」
「生き抜いてきただけで素晴らしい……」
「そう。生き抜いてきただけで素晴らしい。ここにいると、ついそんなことを思っちゃう」

『ここ』というのは病院の近くという意味だろうか。
 おそらくこの店には病院関係者がたくさん出入りするのだろう。もしかしたら患者の話を聞くこともあるのかもしれない。『生き抜いてきただけで』という言葉には、それが叶わなかった人たちの無念が込められている気がした。

「お子様ランチは無邪気と無責任の象徴で、子どもだけのもの。でも、時には大人が食べてみて、『かた』を評価してもいいんじゃないかなあ……」

 原点と今を繋いで道のりを評価する。そんな時間があってもいいはずだ、と店主は言う。
 だからこそ、彼女はこれからもお子様ランチを作り続ける。自信も目標も見失って不安にあえぐ大人たちのために……
 脇に置かれた黒七味の袋が目に入る。この黒七味は美和にとってカイロみたいなものだ。自分だけではなく、あんなに苦手そうにしていた智也まで喜んで味噌汁を飲むようになった。
 トレーディングカードはともかく、この店で黒七味をもらったのは美和だけではないはずだ。黒七味に限らず、この店主はいろいろな形で客にカイロを渡しているのかもしれない。自分で自分を評価できない、先なんてまるで見えなくて不安ばかりが募る。そんな日でもここに来れば温まることができる。ちょっとだけだし、すぐに冷めてしまうかもしれないけれど、それでも冷たい風の中をしばらく歩くことはできるだろう。
 支払いを終えて外に出る。まかないだった春雨はるさめスープほどではないにしても、千円札でも何枚か硬貨が戻ってくる金額に複雑な思いが湧く。店主は『お子様ランチなのに、目が飛び出すような値段なんてありえないでしょ』と笑っていたが、採算はちゃんと取れているのだろうか。こちらは助かっても、店が潰れては困る。せめて『深夜料金』でも割り増ししてくれないか、と思うが、あの店主は間違ってもそんなことはしないだろう。どうかすると、深夜しかやってないのだから割り増し料金なんて取れるわけない、と言い放ちそうだ。
 狭い階段をゆっくり下りていく。
 明日はもう退院だ。あと何度かは通院で来ることになっているが、その時刻にこの店は営業していない。ここに来るために智也を置いて出かけてくるなんて論外だ。この店主に会うことはもうないかもしれない――そう思うと不思議な寂しさを覚える。
 彼女の出してくれた料理は、美和の不安と疲れを拭い去ってくれた。また彼女の料理を食べるには智也が入院するしかないが、そんなのはまっぴらだ。いっそ、昼間の営業にしてくれないかな、と思いかけて自分をいましめる。
 店主の温かい料理と人柄が、草臥くたびれ果てていた美和をいやしてくれた。
 明けない夜はないと人は言う。けれど、夜は不安を連れてくる。美和と同じように、闇の中で不安に怯える人はたくさんいるだろう。やがて来る朝を信じられない人にこそ、この店が必要だ。
 古来、日本人は北極星を目印にしていたと聞く。『ポラリス(北極星)』という店名は、夜中に途方に暮れる人たちのみちしるべになるべく付けられたに違いない。
 ――私はもう大丈夫。夫と別れたのは智也が生まれて一年も経たないころだった。それからずっとひとりでやってきた。これまでだってなんとか生きてきたんだから、これからだってできるはず。どんな闇の中でも歩き続ける。あの子を守るために、いつかきっと明るい場所に出ると信じて……
 見上げた空に北極星がまたたく。見守っていてね、と呟き、美和は病院に向けて歩き出した。


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