深夜カフェ・ポラリス

秋川滝美

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1巻

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 夜更けのぬくもり



 午後十一時、古村美和こむらみわは外に続くドアに手をかける。
 金属製の取っ手にもかかわらず、それほど冷たさを感じないのは、建物の中が暖房でしっかり暖められているからで、一歩外に出れば肺の中まで冷たい空気に満たされそうになる。
 それでも、ほんのわずかな時間でもいいから外に出たくなる。今の自分に真冬の寒さに耐える力はあるのだろうか、と疑いながらも……
 鉄枠が付いたガラスドアは、美和の体調を如実に物語る。いつもなら意識せずに開けられるドアが、今夜はやけに重い。そしておそらく明日も、明後日あさってもこのドアは重くなり続けるのだろう。
 息子の智也ともやがこの病院の小児科に入院してから五日が過ぎた。智也は現在五歳で、未就学児には付き添いが必要という病院の規則に従い、美和も泊まり込んでいる。治療計画によれば、入院期間は一週間前後とのことだった。
 これまでも体調を崩すことはあったものの入院に至ったことはなかった。今回が初めての入院で親子ともに大変だったが、三日目に担当医師から、治療は順調だから予定どおり退院できるだろうと言われたあとは、比較的落ち着いた日々を送っていた。
 ただ、ほっとして緊張が緩んだせいか、美和自身が心身の苦痛を感じ始めた。とりわけ辛いのは夜で、巡回する看護師の気配や医療機器が発する些細ささいな音が気になって眠れない。しかも、粗末な簡易ベッドは疲れをいやすどころか身体の節々に痛みを運び、自宅に戻りたい気持ちが日々高まる。
 病院は治療の場で、保育園でも幼稚園でもない。生活に必要な介助は保護者の役目だし、智也はもっともっと辛いのだと頭ではわかっていても、節々の痛みは和らいではくれない。
 身体的疲労以上に問題なのは、経済的負担だ。
 美和はシングルマザーで、日中は智也を保育園に預けて仕事をしていたのだが、智也の入院にあたって仕事を減らさざるを得なくなった。フリーランスのライターだから病室でも多少は仕事ができるけれど、智也が保育園にいるときとは能率が全然違うし、退院するまでは新しい仕事を受けることも躊躇ためらわれる。当然収入は減る上に、退院したあともこれまでどおり依頼があるとも限らない。
 あらゆる点で不安ばかりなのに、今日医師から告げられたのはさらに厳しい内容だった。
 回復の速度が鈍り始めた。場合によっては入院が長引くかもしれない。本人はものすごく家に帰りたがっているし、こちらとしても帰らせてやりたいが、無理に退院してまたすぐに入院となっても大変だ。入院が長引く場合は、お母さんからも本人にしっかり話をしてあげてほしい、というのだ。
 病院が大好きという子どもはまれだと思うが、智也はことさら病院が嫌いだ。入院が決まったときは、この世の終わりみたいな顔をしていたし、毎日のように『もう帰れる? あと何日?』と訊ねる。
 もしも入院が長引くことになったら、どうなだめればいいのかわからない。どうかすると『一週間って言ったじゃないか、お母さんの嘘つき!』なんて言葉をぶつけられかねない。
 治りが悪いというのは、抵抗力が落ちているせいもあるのだろうか。だとしたら原因のひとつは栄養不足かもしれない。保育園の給食は栄養を考えて作られているから、それに甘えて家ではついつい適当になっている。それに、近ごろ肉も野菜もひどく値上がりしている。智也が好きだから肉類はなんとか調達しているが、一食あたりの野菜の量は目に見えて減っていた。
 それ以上に気になるのは、智也の体質だ。智也の病気はアレルギー体質に起因するから、皮膚炎や花粉症がひどい美和譲りの可能性が高い。それに、ふと気づくと部屋の隅に埃が溜まっている。布団だって干せない日が何日も続くことがある。忙しさにかまけて家事が行き届かないことも、原因のひとつかもしれない。
 バランスのいい食生活にはお金がかかる。でもこんなに働かずにすめば、もっと家事にく時間も増やせて家をきれいに保てただろう。
 ――子育てって、どうしてこんなにお金と頭を使うことばっかりなんだろ……。毎日生きるだけでも精一杯なのに、次から次へと問題が降りかかる。この上、入院が長引くとなったら、もうどうしていいのか……
 もう五歳、だがまだ五歳。これから先も子育ては続く。付き添いが辛いぐらいで泣き言を漏らしている場合ではない。もっともっと大変なことはいくらでもあるはずだ。わかっていても、目の前の困難に負けそうになっている。それが今の美和だった。


 十メートルほど歩いたところで、顔見知りの女性が向こうから歩いてくるのに気づいた。
 美和と同じく子どもに付き添っている人で、お互いに男の子かつ同じ病気ということもあって洗面所や談話室で言葉を交わすことも多かった。
 彼女の苗字は田代たしろ、だが名前までは知らない。ドアの脇に記されたネームプレートには『田代奏太かなた』という文字があった。記されているのは子どもの名前だから、母親である彼女もきっと同じ苗字だろうし、看護師たちからも『田代さん』と呼ばれているから間違いない。
 うつむいて歩いていた彼女は、美和――正しくは美和の靴を認めて目を上げた。サイズさえ合えばいいと買った特売品で、ちょっと変わった色のスニーカーなので記憶に残っていたのだろう。

「あ、古村さん……こんばんは」
「こんばんは。コンビニですか?」
「ええ。奏太がやっと寝てくれたので急いで行ってきました」

 この病院は最寄り駅から徒歩十分の位置にある。診療科は内科、小児科、産婦人科、整形外科、形成・美容外科、脳神経外科、泌尿器科、耳鼻咽喉科じびいんこうかに歯科と多様で、不妊治療や循環器系統には専門のセンターを設置し、各診療科が連携を取った治療をおこなっている。
 診察を受けるには基本的には紹介状が必要で、智也も自宅の近くにあるクリニックから紹介を受けてお世話になっているが、患者からの評判はいいし、紹介してくれた近所のクリニックの医師も、あそこなら心配ないと太鼓判を押した。
 交通の便もよく、スタッフもおおむね親切、治療を受けるには理想的な病院だが、食事、とりわけ夕食を取る場所についてはかなり寂しい。
 院内食堂の営業は午前十時から午後四時までとなっており、美和のような入院に付き添っている家族が夕食をとるには外に出るしかない。にもかかわらず、近隣には呑み屋か、八時には閉店してしまう食堂しかなかった。駅前まで行けば遅くまで営業している店もあるのかもしれないが、往復二十分も歩く気になれない。美和や田代のように、子どもの世話で午後九時、十時になってやっと自分の食事のことを考えられるようになる者は、コンビニのお世話になるしかないのである。
 田代の息子は美和の息子より一歳下だが、母親のほうはおそらく美和より五つ、もしかしたらもっと若いかもしれない。付き添いで疲弊ひへいしているにもかかわらず、目の下にクマもなくピンと張った肌がそれを物語っている。
 とはいえ、彼女は美和のように連日泊まり込んでいるわけではない。三日に一度は彼女の夫らしき男性がやってくるし、日中六十代ぐらいの女性が来て、入れ替わるように田代が外出していく姿を見たこともある。おそらく田代か夫の母親なのだろう。代わりが誰もいない美和と同列に語れるわけがなかった。

「奏太君、今日もいい子で寝てくれたみたいですね。うらやましいわ」
「薬がよく効いてるみたいです。それであの……智ちゃんは?」

 田代の声がやけに心配そうなのは、先ほどまで智也が泣き喚いていたのを知っているからだろう。
 彼女の息子の奏太と、美和の息子である智也の病室は少し離れているのだが、智也の病室の近くにはエレベーターがある。外に出るときに前を通り、中から漏れてきた泣き声を聞いたに違いない。

「ようやく」
「よかった……けっこう泣いてたから心配してました」
「もう病院にはうんざりしてるんでしょうね。夜になると特に家に帰りたがって大変なんです。でもこればっかりは……」
「帰りたいのはこっちも同じ、っていうか、こっちのほうが帰りたいですよね」
「ほんとに。――それで、コンビニはなにかいいものがありましたか?」
「ろくなものは残っていませんでした。こんなことなら夫になにか買ってきてもらえばよかった」
「そういえば、夕方にいらっしゃってましたね」
「ええ。仕事で近くに来る予定があったから、足りないものをいくつか持ってきてもらいました。でも、あの人、頼んだものしか持ってこないんですよ」

 不満そうに語る彼女の顔を見ていると、ついため息が漏れそうになる。
 足りないものを持ってきてくれる人がいるありがたさは、この人にはわからないだろう。それどころか、彼女の夫は仕事の合間を縫って付き添いを代わってくれる。もしも智也の父親と別れていなかったとしても、彼が病院に泊まり込んでくれたとは思えない。仕事を理由にすべてを美和に押しつけたはずだ。美和にしてみれば、田代の夫はうらやましすぎるほどいい夫、いい父親で、たとえ話を合わせるためだけであっても頷く気にはなれなかった。

「頼んだものを持ってきてくれるだけでもありがたいじゃないですか」
「そりゃそうですけど、もうちょっと私の食事とか気にしてくれてもいいじゃないですか。私なんて、夫が泊まり込むときはデパ地下とかでお弁当を買って持たせてるんですよ。それなのにこっちはコンビニ。しかもろくなものは残ってない。仕方がないから冷凍パスタを買ってきました」

 そう言うと、田代は手に持っていたエコバッグを少し上げてみせた。冷凍パスタだけにしては膨らんでいるから飲み物やおやつも買ってきたのだろう。

「ああ、冷食……。談話室の電子レンジが使えますものね」
「はい。有名パスタ店とのコラボ商品がありました。SNS情報によると、トマトソースのやつがおすすめだそうです」
「そうなんですか。じゃあ、探してみます」

 曖昧あいまいな笑みを返し、美和はまた歩き始める。
 パスタは苦手じゃないが、トマトソースはそれほど好きではない。クリーム系のパスタは胃が受け付けてくれそうにないし、トマトもクリームも使わないあっさり系のパスタはガーリックが使われていることが多い。温めると匂いが広がってしまうに違いないから、談話室の電子レンジを使うのは気がひけた。
 同じ冷食でも、もう少し軽めのものがよさそうだ。軽めの食事で、温めてもそれほど匂いが出ないものなんてあるのだろうか……と思いながらコンビニに向かう。息子の智也が入院してから五日、毎日のように通っているコンビニは夜間外来入り口から歩いて三分ほどのところにあり、どれほど遅い時刻であろうと美和を温かく迎えてくれる。赤と緑の看板を見る度に少しほっとした気持ちになるのは、コンビニが日常生活の象徴のようなものだからだろう。
 深夜に病院を出てコンビニに行く。その間だけが、普段とかけ離れた生活を送っている美和が日常に戻れる時間だった。
 コンビニに入ったところに買い物カゴが置かれていて、持つかどうか一瞬迷う。
 できれば田代のようにいろいろ買いたいけれど、ふところに余裕がない。しかもこれはいつものことで、今後も改善の見込みは薄い。医療費そのものは助成でなんとかなるが、食事やベッド差額、細かいものでは薬の容器代も自己負担となるし、長引けば長引くほど支払いが増えていく。コンビニであれこれ買い込むゆとりなどない。
 一回分の食事に買い物カゴはいらないと判断し、そのまま弁当や総菜が並ぶ一角に進む。
 ついさっき田代はろくなものは残っていなかったと言っていたが、それは彼女の好みじゃなかっただけかもしれないし、彼女が買い物をした直後に商品が入荷したかもしれない。
 だが、薄い期待を抱きつつ行ってみた売場には、おにぎりが二つ三つと大盛の牛丼と中華丼、あとはレトルト総菜が並んでいるだけだった。
 ――おにぎりはビビンバとエビマヨネーズか……ちょっと気分じゃないわね。鮭は人気だから無理にしても、せめて梅干しか昆布が残っていればよかったのに……
 最悪おにぎりでいいやと思っていたのに、そのおにぎりですらこの有様。これでは田代が冷凍パスタに手を伸ばしたのも無理はない。
 ため息とともに、お弁当と総菜の売場を離れる。もともとそれほどお腹が空いていたわけでもなく、なにか食べなければという義務感のようなものから買い物に来ただけなのだ。
 冷凍食品のケースを覗いてみても食指が動くものはひとつもなく、田代が言っていた『有名パスタ店とのコラボ商品』シリーズにはガーリックが使われていないものもあったが、冷食とは思えない値段が付いていた。
 やむなく美和はカップ味噌汁をひとつだけ手に取ってレジに向かう。野菜がたっぷり入っているようだし、味噌汁は温かくて身体に優しい。なにより、カップ味噌汁は保存がきく。病室に戻っても食べたくなければそのまま置いておけばいいのだ。
 二百円にも満たない支払いを終え、美和はコンビニの外に出た。
 冷たい空気に首をすくめ、来た道を戻ろうとしたとき、なにかに呼ばれたような気がして向かいのビルに目を向ける。
 狭い入り口の脇にスポットライトに照らされた看板があり、一番上に『ポラリス』という文字が記されていた。
 そう大きな看板ではない。横幅は四十センチ、縦の長さも八十センチぐらいだろうか。折りたたみ式の黒板タイプだから、看板というよりもメニューボードというべきかもしれない。しかも、使われているのは白と黄色のみで、色とりどりのチョークで描かれる黒板アートとは対極にある。
 ぶっきらぼうに路面に置かれているだけだから遠くからでは見つけづらいし、近づきすぎたら低くて視界に入らない。ボードの一番下には『木曜定休』と書かれているから、それ以外の日はずっと置かれていたはずなのに、今まで気づかなかったのはそのせいだろう。
 総じて、スポットライトに照らされているのが不思議に思えるほど『人目につかない』ことを狙っているような看板だった。
 ――ここってお酒を出す店なのかしら……
 さっき見たコンビニの時計の針は、午後十一時半を指していた。この時刻に営業しているのだからきっとお酒を扱う店なのだろう。ビル自体があまり大きくないから、ワンフロア全部を使っているとしてもそう広くはない。従業員はせいぜいふたり、もしかしたらひとりでやっているスナックなのかもしれない。
 いつもなら目も留めない看板が、今夜はやけに気になる。それはきっと、黒板のイラストのせいだ。コーヒーとも紅茶ともわからない、子どもの悪戯いたずら描きのようなカップイラストにどうしようもなく惹きつけられる。おそらく三本の曲線で表された湯気に誘われているのだろう。
 ――こんな絵があるってことは、飲み物を出しているのよね? 一杯だけなら……
 今日の智也は、ひどく泣き喚きはしたものの、泣きやんだあとはかなり落ち着いていた。泣くことでストレスを発散したのかもしれない。看護師さんには買い物をしてくると伝えてあるし、コーヒーを飲む時間ぐらいはあるだろう。
 別段、コーヒーが飲みたいわけじゃない。それにコーヒーならコンビニでだって買える。今時はコンビニのコーヒーだってかなり美味しくなったし、なんなら談話室の自動販売機でだって挽き立てのコーヒーを買うことができる。それでもこの店に入りたいと思ったのは、『誰かが自分のためにれてくれた飲み物』を欲しているからだろう。
 離婚した夫はコーヒーが大好きで、家でも頻繁に淹れていた。しかもインスタントや袋詰めの粉ではなく豆から挽いて、である。家事にも育児にも協力的ではなかった夫が、唯一美和のためにしてくれていたのがコーヒーを淹れることだったのに、そのコーヒーすら、別れてからは自分で淹れるしかなくなった。
 本当は誰かが作ってくれた食事を取りたい。だが、こんな深夜ではそれを望むことはできない。せめて飲み物だけでも……と思ってしまったのだ。
 夕食をカップ味噌汁だけで済ませるのなら、コーヒー代ぐらいなんとかなるはずだ。高級ホテルのラウンジほどの値段じゃありませんように……と祈るような気持ちで、美和は看板に向かって歩き出した。
 ビルに入り、壁に貼られた案内板を見る。三階に『ポラリス』という名前があったので、細い階段を上がっていくと、廊下の突き当たりに古めかしい木のドアがあった。明かりがついているのはそこだけだから、あれが『ポラリス』に違いない。
 路面店でもなく看板も地味、階段の上がり口に案内を出しているわけでもない。これで商売が成り立つなんて信じられないと思いつつ、木のドアを引く。
 カラン……というカフェのドアによく付いているカウベルのような音のあと、元気な女性の声が響いた。

「いらっしゃいませ! カウンターへどうぞ!」

 カウンターへどうぞと言われても、ほかに席なんてない。店の中は思った以上に狭く、カウンターの後ろは壁になっている。そのカウンターすら椅子の数は五つしかない上に、入り口に一番近い席のすぐ隣にはレジが置かれていて、雑誌やノートも積まれている。よほどのことがない限り使われることはないだろう。実質席数は四つ、そのどこにも客の姿はなかった。
 短時間しかいないにしてもやはり落ち着けるのは壁際だろう、と考えた美和は一番奥の席に座った。エコバッグをどこに置こうかと迷っているとまた女性が声をかけてくる。

「荷物は足下のカゴに入れちゃって……くださいね!」
「あ、はい……」

 店内はあまり明るくないから気づかなかったが、確かに足下にカゴがあった。ホームセンターで売られているようなカラーバスケットで、かなり大きい。これならいつも持ち歩いているマミーバッグでも余裕で収まるな……と思いながらカップ味噌汁が入ったエコバッグを入れ、カウンターの中の女性に目を向けた。
 なんだかやけに堂々としているし、こんな小さな店で人を雇っていたら経営が成り立たない気がするから、おそらく店主だろう。
 年齢は二十代後半からせいぜい三十代半ば、四十には届いていないはずだ。
 髪はベリーショートに近くて、明るい茶色。おそらくカラーリングだろうとは思うが、ものすごく色白だからもしかしたら地毛かもしれない。身体全体の色素が薄い人にありがちな色だった。
 店主らしき女性は、グラスに水を注ぎながら「今日も寒いですね」とか、「これだけ冷えてるんだから明日はいいお天気になるでしょうね」とか話しかけてくる。
 美和の偏見かもしれないが、カフェの店主は寡黙かもくで客にも静かに過ごしてほしいと願うタイプと、人懐こくて積極的に客と関わりたがるタイプに二分される気がする。絶え間なく話しかけてくることから見ても、この店主は後者に違いない。
 スムーズに水のグラスが出てきたから、バーやスナックといった酒がメインの店でもなさそうだ。
 注文を決めなければ、と周りを見回すが、カウンターの上にメニューはないし、壁にも貼られていない。きっと出し忘れたのだろう、と声をかけようとすると、店主が流しの下から小さな片手鍋を取り出した。

春雨はるさめスープなんてどう……でしょう?」
「え……?」
「ご飯、まだ……ですよね?」
「あ、はい……」
「コンビニに行っても食べたいものはなかった。めちゃくちゃお腹が空いてるわけでもないけど、このまま寝るのはちょっとって感じ……ですよね?」 

 最後に『ですよね?』と付け足した店主に、美和はとうとう笑い出してしまった。彼女はずっと、いったん話をやめてから一言足すという不自然な話し方をしていた。これは少しでも丁寧に聞こえるようにと考えてのことなのだろう。普段はもっと分け隔てない口調で話しているに違いない。
 相手は客だし、年上かもしれないから極力丁寧に話さなければ、と思いつつも、つい普段の調子になってしまって慌てて言葉を加える。なんとも憎めない店主だった。

「無理に丁寧に話さなくてもいいですよ。私は気にしませんから」

 クスクス笑う美和に、店主はほっとしたように言う。

「よかった……。私、いつも叱られちゃって……」
「叱られる? ご両親とかにですか?」

 もしかしたらこの店は親から譲り受けたのかもしれない。引退した親がときどき様子を見に来て、至らない我が子を叱る、というのはよくある話だ。譲り受けたのであれば、店主の若さにも頷けた。
 だが、店主の答えは美和の予想とは異なるものだった。

「友だち。ここにもときどき来てくれるんだけど、お客さんにそんなに馴れ馴れしくしちゃ駄目、失礼なのはもちろん、危ない。夜中の営業なんだから、つけいる隙を作っちゃ駄目だって。こーんなに目をつり上げて」

 話しながら店主は、両手の人差し指で目尻を引っ張り上げる。それでも口元はしっかりほころんでいて、友だちとの仲の良さが伝わってきた。

「心配してくれてるんですよ。いいお友だちじゃないですか。それに、フランクな口調がいいってお客さんもいらっしゃるでしょう?」
「そうなの。その友だちが来たあと、丁寧な言葉遣いにしなきゃって頑張ってみてもお馴染みさんに笑われちゃう。らしくないから無理するな、『タメグチ』でいいって……」
「無理はよくありません。私自身はずっとこんな話し方ですけど、合わせなくていいです」

 美和が普段話すのは仕事関係か、保育園や病院関係の人ばかりだ。しかも『ママ友』と呼べるほど親しい人もいない。自ずと会話は丁寧な口調となり、もはや友だち口調で話すこと自体、美和には難しくなっていた。それでも、この店主には言葉遣いなど気にせずに好きなように話してほしい。初めて会ったのにそんなことを考えたことが、美和はちょっと不思議だった。

「ただ、みんながみんな私みたいに思うとは限らないので、初見のお客さんにはやっぱりちょっと気をつけたほうがいいかもしれません」

 店主が嬉しそうに頷きながら言う。

「そりゃもうお客さんはご自由に話してちょうだい。あと、ほかの客さんには気をつける、ってことで、中華風のスープに春雨はるさめと鶏肉の団子、野菜もたっぷり入った春雨スープはいかが?」

 春雨と鶏団子が入った中華野菜スープが目に浮かんだ。胃がぎゅっと縮むような感覚とともに『ぐーっ』という音を立てる。気のおけない会話とスープの説明で、行方不明だった食欲が戻ってきたのだろう。

「ここ、食事もできるんですか?」
「食事ができる店よ。飲み物もあるし、呑みたい人にはお酒も出すけどちょっとだけ。もっぱら晩ご飯を食べ損ねた人のためのお店。少なくともカップ味噌汁よりはいいかな」

 そう言いながら、店主はコンロの上にあった鍋から小鍋にひとり分のスープを移す。まだ注文していないのに……と思ったが、琥珀色こはくいろのスープを見たとたん、頼まないという選択肢が消えた。
 食事をしていないことがなぜわかったのだろう。それだけならまだしも、カップ味噌汁を飲もうとしていたことまで……。まさか顔に書いてあったわけじゃないだろうに、と首を傾げながら、店主の動きを見守る。
 小鍋のスープが温まったのを見計らって春雨を入れる。いくら春雨でもあまり多いと食べきれないな、と思っていたが、彼女が掴んだのはほんの少し、さほど空腹を感じていない美和でももうちょっと多くてもいいな、と思う量だ。そして彼女はちらっと美和を見て冷蔵庫を開けた。
 なにか足すのかなと思っていると、出てきたのは目に染みるような緑色のニラだった。
 束になったニラから二本、小首を傾げてもう一本抜いてザバザバと洗う。もともと入れる予定ならもう少し支度がしてありそうだから、これは予定外の食材なのだろう。
 春雨はもう柔らかく煮えたころだ。三本のニラをまとめて二センチほどの長さに刻んだあと、クツクツと煮えているスープに投入。お玉でくるりくるりとかきまぜて、店主は火を止めた。

「はい、お待たせ! 鶏団子と春雨のスープでーす!」


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