ELYSION

スノーマン

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第1章 はじまりの日

第2話『ジーク・リトルヴィレッジ』

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 緩やかに瞼が開き、意識がじわりと上ってくる感覚がした、次の瞬間。

「ぶはっ!」
 息苦しさで弾かれたように目を覚まし、勢いのままに飛び起きる。
 呼吸が苦しい、目の焦点が定まるよりも先に喉が、肺が、体全体が空気を求めて必死に吸い込んだ。

 そうして、喉を軋ませながら胸が痛くなるほど息を吸った後、盛大にせき込み、胸を押さえながら息を整える。
 空気を求めて無理をした体を急激な怠さが襲い、脱力しながら辺りを見渡すと、ここには夕焼けや墓石もなく、自分の体はベッドに座っていた。

 少年――ジーク・リトルヴィレッジは深い息を吐き出し、真ん中から分けた前髪をぐしゃりと握り、頭を抱えて唸る。

「あれは一体……何だったんだ?」
 一体、何が起こったのかわからない。けれど大切な事だった気がする。
 なんとなく、もう二度と手に入らないものを失くしたような……。

 無意識に溢れてきた涙を拭うたびに、脳が思い出す事を拒否するように今見た光景が砂のように消えていく。
 たいていの夢がそうであるように、今の夢もぼろぼろとすぐに記憶からなくなっていくのを感じる。
 零れ落ちて消えていく朧な記憶をかき集めてかろうじて思い出せたのは、自分の名前と、夢の中で少女の声に振り返った間際の事。

 頭の片隅で自分はあの声を知っていた。でもわからない。
 夕日を反射した鈍い輝きの大鎌を振り上げた少女は、何かを言っていた。
 顔を思い出そうとしたが、それさえも崩れ消えて思い出せない。
 ただ一つ確かなことは、自分はあの少女に大鎌で首を切り落されているという事。

「うっ……!」
 夢にしてはあまりにも残酷でリアルな生々しい感触に吐き気が込み上げてきたジークは、両手で口元を押さえて堪えた。
 いやな汗が流れながらも視線を彷徨わせていると、いきなり目の前にコップが差し出された。
 そして、今の自分とは正反対な明るい声。

「おーおー! マジか! 生きてたさ? ほれ、水!」
 ズイッと差し出されたコップには透明な液体が入っており、ジークはおずおずと水を受け取ると、視線を向けた。
 何かを企んでいるようにニヤリと笑う彼の口元には痣のようなものがあり、歳は同じか少し上くらいだろうか。
 旅人なのか、体格のわりにぶかぶかのマントと大きな鞄に、主張が激しいくすんだ金髪はあちらこちらに跳ねていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 ついでに、頭頂部からぴょんと出ている大きなアホ毛が本当に特徴的だった。
 ジークはコップを受け取ると、口をつける前に顔を上げた。

「ありがとう、俺はジークっていうんだ」
 そう言ったジークは口元を緩めると、水を数回に分けて飲み干した。
 冷えた水が喉を伝って乾いていた喉に染み込んでいく。おいしい。

「ジーク! そーかさ、俺様はハーヴェン・ツヴァイ! ハツって呼ぶさ!」
「ハツ、ありが……」
「しかしおめぇ、前髪だけ色が違うってすげぇ頭してんさな……マジやべぇわ」
「……地毛なんでね」
 いきなり何の脈絡もなしにそう言ったハツ。ジークは内心、『いや、お前もだわ』と思ったが黙っておいてあげた。
 ジークは全体的に黒髪で、前髪だけ明るい金色をしているが本当に地毛なのだ。



「俺、確か村を出てあちこち旅してたはずなんだけど?あれ、ここってもしかしてどこだったり……?」

 そう聞いたジークに、水を差し出したハーヴェンはもっさもさの金髪を揺らして何かを言いたげに唸っていたが、すぐに右手の親指で自身の後ろを指し、続いてジークも視線を向ける。
 よく見れば、どこか消毒液と潮の匂いがするこの部屋にはいくつかのベッドが置いてあり、ジークの他に何人かが寝ているようだ。
 街の宿だろうか?

 それにしては、ちょっと揺れているような気がする。
「えーっと、もしかしてここは診療所か何かかい? 俺は行き倒れてたとか……?」
 状況がつかめないジークは苦笑い交じりでハツに尋ねた。
 ハツは、ジークをまじまじと眺めると側にあった木製の椅子を軋ませ、豪快に腰を下ろして言った。

「ここはレオンドール行きの船の医務室で、おめぇはこの船に乗ってる途中で、ついさっきふらふら~っと海に落ちてっちまったんさ」
「は? 海、船? どういうこ……」
 反射的に上ずった声で叫んでしまったジークは、ハツに舌打ちされてしまい、ここが医務室だった事を思い出し、一旦言葉を飲み込む。
 どういう事だ、ジークは船に乗った時の記憶もない。

 もしかしたら仕事を探しに大陸を渡ろうとして、気絶か船酔いかで海へ落ちた時に頭を強く打ったのかもしれないが……。

「そうさ、何でか知らんさが、吸い込まれるみてぇにスルっといったから、さすがの俺様も助けてやらんわけにはいかんかったさな」
 うんうん、と頷きながらハツはジークにニッと笑って言った。
「ま、なんにせよ生きててよかったさ!」
「ありがとう、俺、ものすごく迷惑かけちゃったんだな」

 ジークはベッドから降りると近くに置いてあった荷物を取り、中にしまわれていた灰色の長い布を首に巻く。
 これは、村を出るときにジークの両親がくれた大切なものなのだ。
 何故か海に落ちるまでの記憶がないジークだったが、今はこれが無事なだけよかった。
 ジークが大切なマフラーを巻き終えると、ハツは思い出したように両手を合わせて叩いた。

「おお! なんか船員のおっちゃんらも助けてくれて、おめぇの人口呼吸もやってくれて、それで……」
「待って、それ以上はやめてくれ」
 ジークはハツが言い終わる前に真顔で拒否をした。
 それ以上聞いてしまうと、ハツに対してせっかく助けてもらった感謝の気持ちがジェット噴射でどこかに行ってしまう。
 やはり思い出はきれいなままでいたいというものだ。
「とりあえず、気が付いたんなら船員サンらに挨拶した方がいいさ。おめぇを助けるのに手伝ってもらったんさからな!」
「そうだね、きちんとお礼を言わないとだしな」
 ほっとして緊張がゆるんだジークに、ハツは椅子から立ち上がると、『それに海へ落ちた場所を案内してやる』と言った。
 

 医務室を一歩出れば、吹き抜けになっている廊下には爽やかな気持ちのいい潮風が通り抜けていた。
 空には青空、海は凪いで船は順調に進んでいる平和な光景だ。
 この船にはジークやハツの他にも乗客は多いようで、食堂や甲板は賑わっていた。
 そんな人々の明るい顔を見ているうちにジークはひとまず夢の事は忘れる事にし、ハツに案内されて船長や船員にお礼を言い、自分が落ちたとされる場所に立っていた。

「ここさ!」
 何の変哲もない船室の廊下で、ハツはおどけたように明るく言う。
「ここで、おめぇは急に乗り出してスルっと落ちてっちまったさ! まぁ、なんかボーっとしてたさから、落ちるかもさーとは思ってたけど」
「はは……そうなのか……」
 笑えるか、とジークは内心で思ったが苦笑いで流し、そこである事を思い出す。
「そういえば、この船はレオンドール行きなんだっけ?」
「そうさ、このホワイトランドでレオンドールっつったら、南の楽園で世界の王であるレオンドール王が住む大都会! 仕事だってあるさ」
 そう言ったハツに、ジークは相槌を打った。

 ジークは頭を打ち、この船に乗る前の事は一切覚えていないが不思議と世界の地理やルール等は覚えていた。
 このホワイトランドは女神エリュシオンの加護の下、人間と、人間ではない亜人という種族が住んでいる。
 大昔に起きた人間と亜人の戦争で女神エリュシオンは人間に魔法を与え、人間達は悪い亜人の王族を打ち倒した後はそれらを使役して暮らしている。

 戦いに負けた亜人の権利はなく、持ち主の人間の所有物とした。
 この世界は大きく東のルーク、西のミラナ、南のレオンドール、北のアルタファリアと分かれており、各地にはそれぞれの気候と特色があるが、今からジークが向かうレオンドールは大昔の亜人戦争で亜人の王である嵐龍王ロディオールを討ち取った人間の王、つまり英雄の子孫達が統治している。
 ホワイトランドには各地域を治めている四大貴族がおり、彼らの下に下級貴族がいて、さらにその下に平凡な暮らしをしている一般民がいる。
 魔法が使えるのは貴族だけであり、ジークを含む一般民は貴族の治める街で暮らしている、というものだ。

「そうなのか……じゃあレオンドールについたら何か仕事が見つかるといいなぁ」
 壁に寄りかかり、ぼーっと海を見ながらそう言ったジークの前を女と小さな女の子が通りがかった。
「あ……」
 ジークは少女に目を移し、黙り込む。

 また何か自分の中でもよくわからない気持ちが上がってきた。
 寂しいような、暖かいような感情はジーク自身にもよく分からないが、確かにこの感情を知っていた。
 頑丈な鎧を身に着け、腰には身の丈ほどの長さの剣を装着し、不機嫌そうに前を歩く人間の女はどこかの傭兵団の戦士だろうか。
 後ろを歩く、頭頂部から二つの大きなケモノの耳が下がる子供の顔には泣いたような跡があり、恐怖で真っ青な顔をしていた。

 そして彼女の両手には見るからに固そうな鉄の枷がかけられ、女の握る鎖と繋がれていた。
 一言でいえば異様な光景であるにも関わらず、誰もが気にするそぶりもなく、ハツも当然とばかりに無視をしている。
 ジークが彼女の事を目で追っていると、視線に気づいた女が睨みつけてきた。

「うちの奴隷に何か?」
 そう、少女は亜人であり、この女の所有物なのだ。
 亜人は人間よりも身分が低く、人間の為に働いて生涯を終える。
 それは、大昔に起きた亜人戦争から続く習慣であり、人間は王を失った亜人を保護するという名目で管理し、繁殖や売買して奴隷として扱うようになった。

 大半の亜人が労働力として人間の生活を支える為に働いていて、今はどこを見渡しても亜人の姿がある。
 なんなら、亜人を従えて旅をしていないジークやハツの方が珍しいのだ。
 亜人は人間の生活の一部であり、不思議な事なんてないのに、ジークは亜人を使う事が嫌いだ。
 見た目が美しく人間の姿に近い希少種は、コレクターの間でも人気であり、言葉では表せない位に辛い生涯を過ごす亜人もいる。
 亜人にとっては希望を失ってもなお支配される呪い……その上で成り立つ人間の繁栄。
 それが今はこの世界の常識だ。

「いえ、何でもないです」
 自分の事を明らかに敵視している女から目をそらさず、ジークは少女の足元にある小さな石を拾って彼女に差し出した。
「落としたんだぞ、君のだろ?」
 目の前に差し出された傷のある石を見つめる少女の虚ろだった瞳に生気が宿り揺れる。
 これは、今さっき少女がジークの前で落としたものだ。
 人間のジークには読めないが、何かメッセージが込められているのなら……。
 きっと、少女がこの女の所有物になる前からの心のより処にしていたものかもしれない。
 自分のマフラーと同じなのだとしたら、この子に返してあげたかった。

「……!」
 少女はジークを信じられないというような目で見つめると、小さな両手で石を握りしめてうつむいてしまった。
 その頬に涙が伝い、子供であるこの子にとってどれだけ大切なものだったのかわかる。
 売られていく娘に両親が持たせたものなのだろうか。それを思うと胸が痛い。
「おめぇ、そんなもんよく気づいたさな」
 ハツが驚いたようにそう言うと、ジークは『たまたま見てただけさ』と笑った。

 だが、そんなジークの目の前で女は亜人の少女を思い切り殴り飛ばした。
 小さくか細い体は鈍い音を立てて吹き飛ばされてしまう。

「このっ! お前は奴隷だろ! 金になって初めて価値のあるお前が、泣いてるんじゃないよッ!」
 女は恐ろしい形相で怒鳴り、衝撃で倒れた少女の体を掴み、海に投げ捨てようと持ち上げる。
 少女は痛みと恐怖で悲鳴も出せず、身を固くしている。
 あまりの事に驚いていたジークだが、すぐに飛び出した。

「待って! その子は奴隷の前に、誰かの子どもだろ! 酷い事をするのはおかしいだろ!」
「うるさい! 自分のモノをどうしようが関係ない!」
「それでも、その子を殴ったりするのはやめるんだぞ!」
 ジークは少女を助けようと女の腕にしがみ付いた、だが女は亜人の子を片腕に掴んだ状態で振りかぶり、それなりの体格をした男であるジークを振り払う。

 次いで、しっかりと訓練を積んでいるのだろう頑強な拳は、ジークを片手で殴り飛ばすには十分だった。
 殴られた勢いで壁に叩きつけられたジークは、痛みと眩暈で立てず座り込んでしまった。
 目の前がチカチカと光り、殴られた鼻が熱い。

「大丈夫かさ!」
 すぐにハツが助けてくれたが、信じられない事にあの一撃で脳を揺らされてしまったのか、返事はおろか、目の前がぐるぐると回っている。
 まさか女性の力で男である自分がやられてしまうとはジークも思わなかったのだ。
 騒ぎを聞きつけたのか、人が集まって来ていたがジーク以外の誰一人として女を止めない。
 奴隷である亜人は持ち主の所有物であり、こうしたトラブルになる為、他人が口を出す事ではないのだ。

「あたしは、エリュシオン傭兵団のガードさ! 今度からは相手を見て喧嘩を売るんだね!」
 女は勝ち誇ったように吐き捨てると、亜人の少女を海へ捨てようと振りかぶった。
 その時、集まってきた見物客の中からやたら明るい声が上がった。
 
「それ、ポピィラビの子どもだネ! 今は数が少ないカラ、女の子ならもっと高値で取引されるんだヨ! 殺しちゃうのはもったいないと思うナー!」
 
 誰が言ったのか、その一言に続いて次々と亜人の少女がどれだけ珍しく価値が高いとの声が上がり、中には買い取りを申し出る声まで出てきた。
 少女の種族が貴重なのは、どうやら本当の事なのだろう。
 女は欲望に目がくらんでいるのか、亜人の少女を床に下ろすと鎖を引いて値段の話をしながら見物客の中に紛れていった。

 ジークの事など最初から相手にならない、というように一瞥もしない。
 ひとまずはあの亜人の少女がここで殺されてしまう事はないだろう。
 だが、亜人であるポピィラビの少女には、今ここで殺されなくとも辛い運命が待っている事には変わりはない。

「絶対、おかしいんだぞ……」
 ぼそりと吐き捨てたジークに、ハツは肩をすくめる。
「んな事、おめぇがどうしようと変えられねぇさ。それこそ、大昔の戦争で根絶やしにされた亜人の王族が出てくりゃ話は変わるかもサ」

 まぁ生きてねぇさが、と続けたハツはジークに肩を貸し、その場を離れる事にした。

 


 医務室に戻るとベッドに腰かけ、何やら備品を持ってきたハツは不服そうなジークの手当てを始めていく。
 鼻血を止める為に乱暴に適当な布を鼻に突っ込まれてジークは悲鳴を上げた。

「他人の奴隷にちょっかいを出すのはルール違反なのを知らんかったさ? あれはおめぇが悪いさから、ボコられても文句は言えんさ。あの声がなきゃ、おめぇのせいであの子は殺されていたさ」
 少し咎めるようなハツに、鼻から布を抜き取ったジークはかぶせ気味に即答する。
「わかってるよ。でも、あの子は親元から無理やり連れて来られて泣いてたはず。奴隷だからってあんな扱いをしていいわけないんだ!」
 ジークは助けてくれたハツに対して声を荒げたのを反省するように目を伏せると、ぽつりと呟いた。

「人間だって亜人だからって、何が違うっていうんだい……」
 あれだけあっさり叩きのめされてしまい、顔には殴られた跡がくっきりと残って痛々しいジークだが、顔が腫れていても悔しさが滲んだ目は強く輝いていた。

 ハツはそんなジークの目を見ずに言う。

「……亜人がひでぇ目にあうなんて今さらじゃねぇさ?」
「そうだとしても、俺は亜人奴隷には反対だ!絶対ダメだぞ!」
「そりゃ、理想さなぁ。おめぇみたいなのが長生きすんのは見たことねぇさ」
 ハツはそう呟くと、持っていた自分の道具を取り出して準備をした。
 消毒液が染みたきれいな布で顔を拭き、『薬草をつぶしたモンさ』と言って丸い塊を渡す。

「俺様は、エリュシオン傭兵団に入る予定だけどよ、あーいうのにはなりたくねぇさなぁ」
 そう言ってハツは手際よく片づけをする。
 ジークはハツからもらった薬を丸のみした。
 後味の苦みから気をそらすように質問をする。
「エリュシオン傭兵団? さっきのガードとか何とか言ってたやつかい?」
「そうさ、もうじき、レオンドールでエリュシオン傭兵団の入団試験があるんさ。俺様はそこに入ってやる事があるんさ。……ほんじゃ、おめぇも気を付けろさー」

 そう言うと、話は終わり、というようにハツは道具を鞄にしまって出て行ってしまった。
 

 ジークは手当てしてもらった傷をさすりながら自分が起こした事を振り返る。
 確かに、亜人奴隷は持ち主の所有物だ。モノである彼らをどうしようが持ち主の自由なのかもしれない。
 けれど、それが当たり前とされている世の中なのはわかっていても、ジークには割り切る事は出来ないのだ。
 ここに来るまでの記憶を失くした挙句、船から落ちてしまった自分はたいして強くもないし、大昔から続いてきた事を変えるなんてことは一人じゃできないとわかっている。

 ただ、それでも亜人の少女を見た時に感じた、どこか懐かしい感覚まで忘れたくなかった。
 とはいえ、あの女戦士に殴られてしまった傷は思ったよりも深く頭痛がしていた為、ジークはベッドで横になって休んでいるうちに、ぐっすりと眠ってしまったのだった。
 なんという神経の図太さだろうか……。
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