司祭の国の変な仲間たち2

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第二十五章

五体変容

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「ロシュ様」
 邪気が全て消え失せた瓦礫の山を慎重に進み、ロシュは仲間達の元へ近付く。ヴェスカは自分の腕の中で意識を失ったルイユを不安げに見下ろしながら、「ルイユが」とだけ言った。
 ロシュの手には黒っぽく染まった宝玉のようなものが握られている。
 彼はルイユを一目見た後、ぴくりと何かを察して目を細めた。
「引っこ抜きましょう」
「え?」
 何を…?と怪訝そうな顔を向けていると、ロシュはルイユの前で膝を付き手を胸元に寄せていく。
 数秒置き、彼の手から柔らかな光が出現した。軽く指を引っ掻く動きをすると、ルイユの体内から先程の赤く長い触手が出現して指に絡まる。
「………っ!」
 互いに触れた瞬間、ロシュの脳内に誰かの声が響き、目の前に見知らぬ映像が目の前に広がった。

 青々とした大自然の中、日の光に反射した魔石が目に入ってきた。視線を奪われる程に美しい装飾が施された魔導具だというのが分かる。
 …魔物避けとして預かったお守りなのだろう。
 石の色は赤く澄んでいた。キラキラと輝く魔導具を、彼女は見惚れた面持ちで眺めている。
 武装した男に、彼の娘らしき少女。そして男の仲間達だろうか、やや離れた場所で数人居る。
 それは魔除けだからきっとお前を守ってくれる、という言葉。
 少女は嬉しそうにお守りを手にしていた。
 …これは彼女から見た目線だ。
『お守りがあるから皆、無事に帰れるよね』
 程なくして、彼女が最後に見たものは血液に塗れた獣の歯と真っ赤に染まっていく空の映像。
 悲鳴と怒声が入り混じる中、耳元で生々しく噛み砕かれていく音や獣の興奮した吐息を感じた。
 ぐちゃぐちゃと嫌な音を立てながら噛まれ、痛覚も通り過ぎて諦めの境地に辿り着くと同時に、彼女の切なる意識がロシュの頭に流れ込む。
『早く大人になりたかった…』と。

 はっと我に返り、ロシュはつい声を漏らした。
「…っあ…!!」
 引き込まれそうになり、頭を強く振る。その後、ルイユから引っ張り出した物体を持っていた球体に吸い込ませた。
「ロシュ様?大丈夫ですか…?」
「今回の魔物は大量の思念が入り組んでますね。危うく引き込まれる所だった」
「大量の思念って…」
 ロシュは球体をヴェスカの前に見せる。
「これは私が臨時で作り上げた核の代わりのようなものです。魔物の体内にこれを作って悪い魔力を吸収させ、全て吸い込ませた後に体外に転移する形で引き抜いたのですが…これがまぁタチが悪くて。色んな方々の怨嗟やら怒りの思念が盛り沢山でしたよ。よくここまで浄化せずに放置出来たものだ。いくら高品質の魔除けでも、キャパオーバーしてしまいます」
 ヴェスカとスティレンが呆気に取られていると、ちょうど魔法陣があった方向から誰かの声が聞こえてきた。
「セティ!!」
 ロシュはその呼び声に反応するかのようにスッと立ち上がると、声がした方向へ歩きだす。
 何をする気なのかとヴェスカはルイユを抱えながら彼らの方向を静観していると、暗闇の中で声が響いた。
「その人は気絶しているだけです。私が回復させましたから。心配する事は無い」
「………」
 壊れ、がらくたになってしまった一部の壁が音を立てながら崩れる音がする。
「というか、仲間の心配をするのは後にして貰えませんかね」
「は…?あんたは、どういう」
「お立ちなさい」
 ロシュの声が静かに響く。
 魔物の元となっていた仲間を一旦寝かせ、連れ合いの二人の男はロシュの言う通りに従い渋々と立ち上がった。
「何なんだ…」
 非難されそうな雰囲気を感じ取ったのだろう。彼らは不審げな様子を見せていると、突然頰にピシャリとひっ叩かれる。
 殴られたのは一人だけでは無い。仲良く二人だ。
 会話もした事が無く、ましてや会った事も無い相手にいきなりビンタされた彼らは呆気に取られてロシュを見た。
 そしてようやく自らに起こった事を把握し、「何をするんだお前!?」と怒鳴る。
「核に邪気を吸収する際に全部把握しましたよ。あなた方が今まで何をしていたのかもね。…よく色んな人を騙し仰せたものだ」
「は…はぁ…?」
 全部把握した、という発言に引っ掛かったのか彼らはお互いに顔を見合わせる。まさか自分達がアストレーゼンの司聖とその仲間だと偽って魔道具の譲渡を繰り返していたのを知られたのかと。
 同時に、少し前に遭遇した金髪の身なりのいい子供の事も思い出す。
 …ああ、あいつがベラベラと喋ったのか…!
 片方の剣士崩れの男はつい舌打ちした。
「あんた、あのガキの仲間か?あいつは何処へ消えたんだ?」
「言う必要がありますか?」
 ロシュは牽制する言い方をした。
「普段では話しかける事すら難しい相手ですよ」
 魔物の気配が消えたのを確認したのか、それまで外側で住民達を牽制していた警備員や連絡を受けた大聖堂側の宮廷剣士達が少しずつ敷地内に入ってくるのが見える。
 流石にこの場で無事解決という訳にはいかないのだなと、ロシュはげんなりして目を伏せた。
 城下街の中での魔物の出現による騒ぎに加え、建造物まで破壊されたのだ。大聖堂の管理下にある城下街での出来事なので知らぬ振りは出来ない。
 そして司聖である自分もその場に立ち会ってしまったのだ。無視する訳にはいかないだろう。
「…どうかされましたか?」
 様々な破片を注意深く踏み締め、スティレンがロシュの元へ近付いた。
 ロシュはスティレンに気付くと、「あぁ」と声を上げる。
「彼らを拘束しておいて下さい。丁度、宮廷剣士の方々もここに入っているようですから」
「は…あ、あの」
「何です?」
「この倒れてる人もですか?」
 スティレンはちらりと毒気を抜かれ、地面に倒れている法衣姿の男を見た。
「勝手に人の肩書を利用する輩ですからね。当然ですよ」
 スティレンはロシュの雰囲気が異なっている事に不思議な気持ちになったが、自分の偽物に対して怒っているのだろうと判断する。
「分かりました。合流次第伝えます」
 彼は大人しくそう答えると、近くに居るであろう仲間の姿を探しに向かった。
「…は…?何?どういう事だ?」
「拘束って…お前、一体何者なんだよ?」
 騒動の元となった二人の旅人は、一連の流れに頭が追いつかない様子でロシュに問い掛ける。
 ロシュは何も答えなかった。その代わりに、スティレンから連絡を受けた宮廷剣士の面々がこちらに集まってくる。
 足場の悪い瓦礫を掻き分け、彼らはロシュの姿を見るなり次々と頭を垂れた。
「お疲れ様です。挨拶は結構ですよ」
「は…」
 連れて行きなさい、とだけ告げた。
 いつもと違って見えるロシュの姿は、薄明かりの下に置かれているが威厳と威圧感を与えてくる。
「ちょ…何しやがる!?」
「何のつもりだよお前ら!?」
 否応無しに剣士達に捕えられ、強制的に連行される旅人達。去り間際、彼らのどちらかがロシュに向けて声を荒げた。
「俺らだって被害者なんだぞ!それなのに何の権利があってこんな」
 抵抗を繰り返しながら怒鳴った。各地を旅してきただけあってなのか、剣士達も彼らを押さえるのに必死な様子だ。
 一番気楽なのは気絶した男を抱える者だけ。
「この野郎、答えろ!!」
 ロシュは連行されていく彼らに向け、無表情に告げる。
「私の名はロシュ=ネレウィン=ラウド=アストレーゼン。このアストレーゼンの司聖だ。私の名と立場を利用して大規模な騒ぎを起こした人間を優しく見逃すと思うか?」
 その名前を聞いた瞬間、彼らは驚愕してそれまでの勢いは急激に萎んでいった。
 そして言葉を失ったのかカクカクと震え上がる。
「は…はぁあ…!?」
「し、司聖…!?そんな、まさか。嘘だろ」
 自らを司聖と言い、他者に加護があると偽り浄化されない魔導具の譲渡を繰り返していた彼らの前に本物の司聖が出て来るとは誰も予想しないだろう。
 だが屈強な剣士達が周りを固め、現に連行されそうになっている。
 こんな事があるのか。夢なら覚めて欲しい。
「こんな事あり得ねぇだろ!!おい、何とか言え!!」
 このような薄汚い酒場に司聖が通うのもおかしいではないかと疑問を抱くが、声を上げようにも剣士に黙っていろと止められてしまう。
 ロシュはそれでもまだ何か言いたげな偽者達を一瞥すると、形の良い薄い唇を開いた。
 いつもと違って柔らかな雰囲気では無い。
 感情がまるで読み取れない。それが逆に彼の美貌を一気に引き立ててくる。
「恥を知れ」
 …静まり返った空気の中、極めて冷静な声が響き渡った。

 アストレーゼン司聖ロシュの言葉に落胆し、偽者に扮した旅人達は宮廷剣士達によって大聖堂へと連行されていく。
 ルイユを抱きかかえたままのヴェスカは、遠慮の無いロシュの雰囲気に内心恐々としたままだった。
 確かに、自分の偽者らが他者からの無条件の好意を逆手に好き勝手にしていたと知れば、決して面白く無い。しかもお膝元であるアストレーゼンでの行動である。それに加えて、今の彼はアルコールが入っているのだ。
 いつものほんわかした様子ではない分、謎の威圧感が凄まじい。却って怖い。
 ただ、いきなり死刑宣告をしないだけマシかもしれない。
 警備員と宮廷剣士らで、酒場の店主の立ち会いの下現場の状況確認が始まる中、ヴェスカはルイユを背に乗せて立ち上がる。
「ロシュ様」
 気を失ったままの彼をそのまま放置する訳にもいかない。ラントイエ地区の彼の家の所在地も知らないので、このまま大聖堂へ連れて帰るしかないだろう。
 夜が明けるのはもう少し時間が要る。
「ルイユは大聖堂に連れて行った方がいいですよね」
「ええ。…無事だといいのですが」
 ロシュは触手に絡まれた際に脳裏に映った映像が気になっていた。刺されてしまったルイユに異変が無いならそれでいいのだが、もし容態が急変してしまえば彼の家族にどう説明をすればいいのだろう。
「最後の最後で余計な仕事を増やしてくれるんだから…ええっと、ロシュ様?」
 剣士達に連絡を済ませたスティレンは、溜息を吐きながらヴェスカの元へと戻って来る。
「はい」
「この酒場、宿泊施設も兼ねてるみたいで。ここに泊まっていた奴らはどうしたらいいんだって訴えて来るのが居るんです」
 ちょっとだけ敷地外から出た瞬間、スティレンは軽装の旅人に一気に寄って来られていた。酒場の壁に穴を開けて人々を誘導していた事と、宮廷剣士の制服姿を見て大聖堂の関係者だというのを把握されたのだろう。
「そうですか。…では近隣の同じ施設に空きが無いか掛け合ってみて下さい。費用は心配いりません。そして、この倒壊した宿の宿泊者の人数の確認も同じようにお願いします」
「あぁ…分かりました。宿泊客の人数はマスターに聞けばいいか…あとは何人か剣士を借りなきゃ」
 俺だけじゃこの辺の宿は回りきれない、とスティレンはぶつぶつと言いながら再度その場から離れていった。
 街の中でこのような騒動が起こると後処理が面倒な事になる。本来なら城下街の中は魔物避けの壮大な結界が張り巡らされていて、魔物は寄せ付けない仕様となっているはず。
 街の中は安全な場所で、いきなり魔物が出てくるのはあり得ないのだ。
 ロシュは手元にある即席の核を見下ろすと、持っていた布で包んだ。この玉は、大聖堂に戻り次第即浄化させておかなければならない。
「ヴェスカ」
「ん?」
「お手数をお掛けしますが、このままルイユを大聖堂まで運んで欲しいのです」
「ああ、それは全然いいけど…」
 彼は瓦礫の山を軽く見回した。副士長としてこの場に留まった方が良いのだろうかと一瞬思う。
「その前に検証してる奴らに軽く説明してきても構いませんか?」
「構いませんよ。…あと、この店の主人に倒壊に関しての補償についても説明して頂けると助かります。店舗を建てる際に色々と勉強されているとは思いますけど、この場合は極めて特殊ですからね…」
「あー…街中で魔物に壊されるとか、まず無いケースだしなぁ」
 ヴェスカの言葉にロシュも頷く。
「仮住まいに関してもこちらで対処出来るように取り計らいます。その旨についてもお伝え下さい。大聖堂に仮住まいを用意させますので」
 ロシュの発言を聞きながら、ヴェスカはオーギュと話をしているような感覚を覚えた。
 普段も仕事中はこういった会話をしているのだろうか…と思ったが、度々オーギュはロシュに関して集中力が足りなさ過ぎて苛々するといった旨の愚痴を聞くので変な気分になる。
 まさかこれが元々の彼の姿なのだろうか、と。
「えーっと…ロシュ様?」
「はい?」
「まだ酔いは入ってます?」
 逆に酒が入った方が冷静になるのだろうか…と疑問を抱いた。
 ロシュは苦笑してヴェスカの問いに答える。
「…これでも寝ないように必死なんですよ」
 眠らないように神経を尖らせているって事か…と変に納得し、彼は「なるほど」とルイユの体を背負い直した。
「じゃ、ちょっと説明だけしてきます」
「ええ。…お願いします。私はちょっとこの場を離れます。すぐ戻るので心配しないで下さい」
 そう言い、彼らはお互い違う方向へ向けて歩を進めた。

 火薬の燻んだ匂いがまだ周囲に広がる中、ロシュは酒場があった場所の裏手に足を進めていた。
 店の裏側は鬱蒼とした木々が生い茂っていたり、人気の無い路地裏への通用口などが存在している。この酒場区内はただでさえ治安が良く無いので好んで通行する物好きは少ない。
 まるで散策をするようにそのまま進んで行くと、不意に背後から声が掛かった。
「こんな状況下で、悠長に散歩をしている場合か?」
「………」
 まるでこちらを待っていたかのようだ。
 ロシュは背後を振り返り、軽く口元に笑みを浮かべる。やはりか、と言わんばかりに。
「あぁ、何とかは現場に戻るっていうのはどうやら本当の事のようだ」
 黒く大きめの外套を纏った相手は、ゆっくりとロシュに近付きながらとぼけた様子で呟く。
「…言っている意味が分からないな」
 ひやりとした空気が漂う中、長身の男は鼻で笑った。ロシュとはそこそこ年齢差があるものの、その精悍な顔立ちは非常に若さを物語っている。
 他人を寄せ付けない雰囲気があるが、ロシュは慣れ親しんだ親近感も感じてしまう。
 …理由は良く分かっていた。
「他人事のように言っても無駄ですよ。私の能力は良く知っているはずだ。あなたの弟君から教えて貰っているのでは?」
「一番下のとは交流が無いのでね。むしろあっちが会いたがらない。仮に会ったとしても、特別話す事は無いがな」
 一番下の、という言い方で名前すら言いたくないのが窺えた。周囲からも、彼が有望株だと言われているのが余程面白く無いらしい。
「相当仲が悪いのですね」
 相変わらずの疎遠っぷりか、とロシュは肩を竦めた。兄弟仲が極めて険悪な事は本人からも話を聞いてはいたが、まさかここまでとは思いもしなかった。
 一人っ子であるロシュから見れば兄弟が居る事はとても羨ましく思うのだが、オーギュ本人はそうではないようだ。
 身内での内情は誰も知らない。
「そんな事はどうでも良い。ロシュ、お前は俺を探してたのだろう?」
 彼はそう言うと、ロシュに向かって数歩近付く。
 生い茂った木々は風に軽く撫でられ、ざわざわと不穏な音を鳴らした。
 焦げ臭い匂いに咽せそうになりながらも、ロシュは無表情で相手を見据え、突き刺すように告げた。
「今回の件は全部把握済みです」
「………」
 男は歩みを止め、首を傾げた。
 まだ素知らぬ振りをする気か、とその反応を見てロシュは目を細める。
「暴発した魔力を制御する時に関わってきた人々の記憶の残滓が見えた。随分とあなたが絡んできたようですね。お遊びにしてはかなり悪質だ。ジャンヴィエ=フロルレ=インザーク。それとも、アーヴィーと言った方が良いですか?」
「誰だ、それは?初めて聞いた名だ」
 白々しい、とロシュは毒を吐き捨てた。
「あなたが偽名として名乗った名前だ。もう忘れたのですか?」
「知らないな」
 お互いの視線が静かにぶつかり合った。
「仮にお前が俺を突き出したとしても、確たる証拠も無いぞ。お前の頭に流れ込んできた映像だけでは証明は難しい。魔導具が粉々に砕かれた今、物的証拠も無い。違うか?」
「はぁ…私は魔導具の事は一切口にしてもいないんですがね。…あまり無駄に変な事を言わない方がいいんじゃないですか?」
 弟より若干警戒心が無いのか、それともわざと口に出しているのか。
 本音を読み取るのが非常に難しい相手だ。
 ロシュは一息吐いた。
「無意味に混乱を生み出すような真似をして何の得があるんです?下手をするとあなたの家の名に傷が付く。それはあなた方が一番嫌がる事でしょう」
「………」
 ジャンヴィエはロシュの真正面まで近付き、彼の緩やかに波打つ髪に触れる。
 弟のオーギュより目元はまだ穏やかな印象だが、他者を寄せ付けようとしない雰囲気は似ている気がした。
 彼らを見た者は大抵「上の二人は似た顔立ちをしている」と言うが、一番下のオーギュに関してはそこまで似た感じでは無いと口を揃えて言う。
 あまりにも二人の兄が似過ぎているからなのかもしれない。
 その為か、彼らはよく連んで行動していた。性格も良い具合に噛み合うのだろう。
 しかし今回は何故か長兄のジャンヴィエが単独で動いている事が、非常に珍しく見えてしまう。
「単に困窮した貧者に施しを与えただけの事。お前達司祭と同じように」
 ゾワッとした感覚に、ロシュは身を引いた。
 それまで優しい手付きでロシュの髪に触れていた手は、突如豹変したようにきつく握ったかと思うと、今度は強引に引っ張り始める。
「………っ!!」
 ぐぐっと顔を上向きにされ、ロシュはジャンヴィエの手を上から掴み引き剥がそうともがいた。
 自分より若干背の高い相手を睨み、離しなさいと命令する。
 離そうとするも、異様に力が強く感じた。
 この自分が力負けするなどあり得ないと思っていると、いつの間にか彼の顔が左側の首元に近付いている事に気付く。
 無遠慮に噛み付かれ、その後すぐにべろりと舌の感触が肌を襲ってきた。
「なっ…!?」
 凄まじい悪寒が全身を駆け巡った。法衣の前ボタンを弾き、ジャンヴィエは更にロシュの首筋に舌を這わせていく。
 こいつ…!とロシュは掴んでいた彼の手の甲に爪を立てながら首を振り、逃れようと身を捩った。
「ん…っう、う、ぐっ…!!」
 彼の唇は首筋をきつく吸い上げてくる。
「はな…っ」
 必死で抵抗を繰り返すロシュの顎に手の平を当て、無理矢理上に向けさせた。何のつもりか、と苦しさに眉を寄せた彼の唇を、突如ジャンヴィエは自らの唇で覆う。
「!!?」
 あまりの無礼さに、ロシュは怒りを覚えた。
 その怒りを無視するかの如く、ジャンヴィエはそのまま深く唇を塞いで舌を滑らせていく。手慣れたように咥内を持て遊び、苦しげに顔を歪めていくロシュを楽しそうに見ていた。
「…は…っあ」
 一瞬唇が離れ、掻き回された為に唾液の糸が引いた。しかし再び唇同士が重なり合う。
 舌は繰り返し熱く、ねっとりと舐めてきた。絡まる度に吐き気がするレベルの嫌悪感が湧き上がっていく。
 全く好意も無い、興味すら持てない相手からの口付けは何故こうも不愉快にさせられるのか。
「んんっ…」
 微かに唇を離す合間、ジャンヴィエは優しく囁く。
「気持ち良いのか?目が蕩けそうになっていたぞ」
「…誰が…!!」
 ロシュは怒りの目線を送る。
 何を以ってこの行為が快感に捉えられるのだろう。思い上がりも良い所ではないか。
 呼吸がし難い余り、頭の中がぼやけそうになった。このまま黙っているのは許し難いと縦横無尽に口の中を這い回る相手の舌に、ロシュは勢い良く噛みつく。
「!!」
 痛みに顔を歪め、油断した隙にロシュはジャンヴィエの胸をドンと押し退け離れた。
「…っはあっ…は…っ」
「司祭の生活は欲求不満かと思ったが?」
 ロシュは触れられた唇を強く拭く。まさか彼がこのような暴挙に出るとは思わなかった。
「昔は噂に聞く位の色狂いだったそうじゃないか。俺達が知らなかったとでも言うのか、ロシュ?あの放蕩司祭のレナンシェとの関係は良く聞いていたぞ」
「………」
「あぁ…今は白騎士のガキに夢中だったか。レナンシェから教えられた事をあの子供に教えているのか?あれだけ目立つ容姿をしているからな。お前が手離したがらないのも分かる」
 リシェの話題に変わった瞬間、ロシュは表情を変化させた。
「あの子は私の護衛だ。他人が思う程変な関係では無い」
「嘘吐け」
 ロシュの言葉に、ジャンヴィエは即否定する。
「性欲に塗れていた生臭司祭が。お綺麗な顔で平気で嘘が吐けるんだな、ロシュ?一体どんな手管を使ったんだ?」
「…私が生臭司祭ならそっちは詐欺師でしょう。今まで何度悪さをしては足が付かないように揉み消してきた?つまらない悪事を引き起こしていちいち証拠を消す位なら、最初からやらなければ良いだろうに」
 薄い唇がふっと緩む。
「ふん…さっきも言っただろう?施しだと」
「施し?何を馬鹿な事を。その結果がこの有様だ。一般民の生活の邪魔にしかならなかったじゃないですか。素性も知らない旅人達を騙して加害者に仕立て上げてまで騒ぎを起こす意味が分からない」
 彼が半端な魔導具を旅人相手に譲渡しなければ、ここまでの被害にはならなかったはずだ。譲渡だけならまだ良いが、人々の様々な念が詰め込まれた魔石を浄化させていればこんな事にはならなかったかもしれない。
「…今回はただの事故に過ぎない。俺は旅人の事など全く知らないし、関わり合いの無い話。結局お前が頭の中で見た事など、証明のしようがないだろう。何かを掴んだとしてもこちらは知らないで突っぱねる事が出来る。何しろ、肝心の証拠が無いからな」
 顔が引き攣りそうなのをぐっと堪え、ロシュはジャンヴィエを睨んだ。
 何と卑怯者なのだろうか、と。
「あなたはご自分が楽しめたら他人に何が起こっても構わないと思っているのですね」
 ジャンヴィエはふふと笑うと、不機嫌そうなロシュに向けて「嫌な言い方だな」と返した。
「こちらは相手が困っていたから手を差し伸べただけなんだがな。結果的にこうなっただけで」
 これ以上、彼と話をするのは時間の無駄な気がする。
 彼自身は資金繰りに困っていた旅人達に魔導具を譲ってやっただけ、というスタンスなのだ。それをどう扱うかは譲渡先の勝手であり、たまに魔導具の浄化という形で若干のサービスをしてやったという意識なのだろう。
 ただ、無責任なジャンヴィエがアフターフォローを最後までしなかったという結果が先程の惨状を招いてしまっただけの話。
「話になりませんね」
「…そうか?俺はお前ともっと話をしたいんだがな。弟が世話になっている分、仲良くなれると思うぞ」
 突き放すロシュとは逆に、ジャンヴィエは変に好意的だった。しかも、こんなに喋るタイプだったか?と疑問を懐く位に饒舌だ。
 その場を立ち去ろうとロシュは踵を返す。
「へぇ…兄弟の話をしたがらないオーギュとあなた方が本当に仲が良いのか疑問ですが。私はこれ以上話す事はありませんよ」
「俺は弟に興味は無い。お前に興味があるだけだ」
 去ろうとするロシュの後ろ姿にジャンヴィエは声を張り上げた。
 ぴたりと足を止め、ロシュは心底嫌そうな表情を剥き出しにしながら振り返る。
「レナンシェとの関係を知った当時は、かなり腑が煮えたぎったものだ」
「あなたは既婚者でしょう。馬鹿な事を言うな」
 ロシュは相手の話を鼻で笑って突き放す。
 …ある意味危険な会話だという事を理解しているのだろうか。
「貴族同士の縁組みに特別な感情など持てるか?言われるまま結婚しただけの関係で、それ以上のものは無い。親に従った代わりに、こっちは好きなように動いているだけだ」
「そうですか。では失礼します」
 貴族としてのしがらみや不自由さは同情するが、だからと言って思っている事を口にするのは如何なものだろうか。
 彼の長い話を聞く時間すら惜しくて、ロシュはジャンヴィエにそれだけ告げて再び歩き出す。
「ここがインザーク家の敷地内ならすぐにでも客を呼び寄せた後にお前を裸にひん剥いて、死ぬ程抱き潰してやれるのに。その高尚な顔を歪ませて、どれだけ卑猥な声で喘ぐのかぜひ聞いてみたいものだ」
「………っ!!」
 声はどこかオーギュに似た感じがするのに、ここまで嫌悪感が湧くとは。
 しかも自ら悪趣味過ぎる性癖を持っている事を普通にカミングアウトまでしてくれる。
 死んでも相手にしたくない。
「欲求不満ならいつでもセックスの相手をしてやろう、ロシュ。嫌という程抱いてやるぞ」
 その言葉を背に受けながら、下劣な男だとジャンヴィエを軽蔑し早足で来た道を引き返した。

 数分後。
 ロシュは「お待たせしました」とヴェスカに告げる。
 まだ気を失ったままのルイユを寝かせていたヴェスカは、彼の姿を見ると「ちょうど良かった」と立ち上がる。
「検証しに来た剣士達に引き継ぎを済ませた所です。後はここの宿泊者の移動はスティレン達が動いてくれてます」
「助かります。ありがとうございます」
 戻って来たロシュの表情を見たヴェスカは、首を傾げながらどうかしましたか?と問う。
「え?」
「何か表情がいつもより強張っているように見えたもんで」
「…そうですか…」
 そんなに酷い状態だったのだろうか。ロシュは頰をぐっと押さえて解す。
 あまりにもジャンヴィエが無礼過ぎて、思いのほか相当苛立っていたようだ。ヴェスカに指摘されなければ、ずっと険しい顔のままだったかもしれない。
 ロシュはふっと軽く微笑んだ。
「流石に少し疲れたみたいです」
 空を見上げれば若干明るくなっている。結局、ずっと寝れないまま活動していた事になっていた。
 これから大聖堂へ戻り報告やら手続きなどをこなしていかなければならないだろう。オーギュにも説明しておかなければならない。
 後はルイユの具合が心配だ。
「副士長」
「スティレン。どうだった?」
 明け方になるにつれて、足元も次第に明確になってきた。危うい地面を注意深く進んでやって来たスティレンは、疲れた表情で「どうにか」と返事をする。
「意外に人数が少なかったんで手続きは早く済みました。ここの宿泊者にはさっさと新しい宿泊先に行って貰いましたし…」
「おう…そうか。お疲れ様」
「ルイユは起きないみたいですね。まぁ、それでもいいけど…」
 魔物の断片でも体に刺されてしまった以上、具合がどう変化してしまうのか分からない。何事も無いのが一番だが、そうとも限らないだろう。
 まずは大聖堂に戻り、ラントイエにある彼の実家にも連絡をしなければならない。
 あぁ、とロシュは溜息を吐いた。結局口喧しいオーギュの耳に入ってしまうのか…と。
「ロシュ様?」
 憂鬱そうな司聖の溜息に、ヴェスカは不思議そうに問い掛けた。
「…あぁ。すみません。これからあのオーギュに説明しないといけないと思うと、どうしてもね」
 ヴェスカはルイユを背負い、ははっと苦笑した。彼の片腕の煩さは良く理解している。
「何なら俺がフォローしますし…ほら、これって貰い事故みたいなもんじゃないですか。むしろ俺らが居た事によって街中の被害とか広がらなくて済んだようなもんっすよ」
「貰い事故…か…」
 そう呟きながら、あのジャンヴィエの顔を思い出す。
 利用された旅人達からの言質を貰ったとしても、確たる証拠が無い現状では彼を引っ張り出す事も出来ないだろう。
 そして彼はアストレーゼンの貴族という立場だ。一般民とは違い、単なる疑いのみでは手出しが出来ないのだ。仮に疑いがあり大聖堂側の聴取を求めたとしても、貴族側の反発を受ける可能性もあった。
 彼らは彼らのコミュニティのようなものがあり、その中に属する誰かが引っ張り出されたとなれば徒党を組んで抗議してくるのだ。
 元はアストレーゼンが王政だった際に王家の下で活動していた集団なので、大聖堂側の要求には難色を示す者が多かった。そしてアストレーゼンを多方面において支えているので大きく出やすい。
 それを全面的に理解してのジャンヴィエの行動なのだ。
 手出しし難いのを分かっていて、証拠もいい具合に消滅している。根無し草の旅人の証言など大して役にも立たないだろう。
 結局、彼らも同じ実行犯のようなものなのだから。
「副士長」
 数人の剣士達がヴェスカの元へと近付いて来た。
「大聖堂へお戻りになられるなら何人か護衛をお付けしますか?ロシュ様もいらっしゃるので…」
 そう言われ、ヴェスカはちらりとロシュを見た。
 本来ならば宮廷剣士数人でも、司聖であるロシュの護衛に付かせるべきだ。帰り道にまた何が起きるか分からない。
 明け方になっているので、流石に迂闊な動きをする輩は居ないだろう。それに今は自分も側に居る。
 やや考えた末に、ヴェスカは「いや、いいよ」と断った。
「俺もロシュ様に同行するし、流石にもう変な動きをするのは居ないだろ。調査している奴らの手伝いをしてやってくれ」
「はい。分かりました」
 剣士達は礼をした後、ぱらぱらとそれぞれの持ち場へと戻って行った。
「さて…私達は早々に戻らないと。ここの主人の仮住まいの手続きもしないといけませんからね…気疲れもしているでしょうし、すぐにお休みして頂けるように整えないとなりません」
 自分達も寝ずに活動していたので疲労感が蓄積されている。残り少ない体力を振り絞って帰らなければならない。
 スティレンはあくびを噛み殺しながら「俺、今日任務なんだよね…」とボヤいた。
 このまま休む事無く朝から任務に入らなければならないのかと思うと、少しは免除位して欲しいと思った。延々と街に張り付いていたルイユのせいだ。
 ヴェスカは「マジか」と驚く。
「休んでもいいぞ別に。俺は今日休みだから兵舎に報告しておいてやる」
「…本当ですか?もう眠くて眠くて。全身痛いし肌もボロボロだし…」
「美容に良くねぇもんな」
 茶化すように笑いながら言う上官に、スティレンは妙に恥ずかしい気持ちになった。
 顔を軽く背けながら「そうですけど…」と言葉を詰まらせる。
 常に自分が言っている言葉だが、立場が上の相手から指摘されると妙に恥ずかしくなるのは何故なのだろうか。
「まさか夜通し動く羽目になるとは思わなかったしな。士長も分かってくれるだろ」
「ありがとうございます」
 お墨付きを貰った事でようやく緊張が途切れたのか、彼はぐらりとバランスを崩した。
「おや…」
 すぐ隣に居るロシュはスティレンを支える。
「背負って差し上げましょうか、スティレン?」
 細身の割には力のあるロシュにとって、スティレンを背負っても何ら問題は無かった。何気なく言った言葉だが、スティレンはびくりと反応する。
「いえ!自分の足で戻れます…」
 流石に司聖に背負って貰う訳にはいかないと思ったのか、彼は急激に目を覚ましたかのようにさっさと歩き始める。
「ちょっと気が抜けただけなので」
「そうですか。遠慮しなくてもいいのに」
 もう少しで休めるのに他の人間に甘える訳にはいかない。
 まだ大人に甘えてもいい年だが、スティレンは他者にすぐ頼る人間にはなりたくなかった。
 ロシュに甘えればリシェの顔を思い浮かべてしまう。甘やかされた事を知れば、彼は自分を小馬鹿にしてくるだろうと勝手に思い込んでいた。
 リシェは元より、誰にも弱みを見せたくない。
 酒場の敷地外に出ると、人の姿は事故発生時よりまばらになっていた。早朝から動き始める旅人の姿もあり、混乱の名残を残したままいつもの朝がやってくる。
「俺、そのまま直帰してもいいですか?」
「おう。報告はしておくから任せておけ」
「分かりました。お言葉に甘えてそうさせて貰います」
 単なるチラシ配りから始まったのに、色んな事が起きすぎたとスティレンは思う。また事情聴取やら何やらであちこちから呼び出されるに違いない。
 その前に少しでも休んでおかないと…と再び湧いてくるあくびを押さえ込んでいた。

 滅多に足を踏み入れない司聖の塔に案内されたヴェスカは、早朝から既に起きているリシェに驚く。
「うわ!何だ、早いな」
「………」
 起きてみればロシュの姿が無く、変だなと思っていた矢先に何故かヴェスカが室内に入り込んで来たのでリシェは怪訝そうに眉を寄せていた。
「ロシュ様」
「おはようございます、リシェ」
「…お酒…?」
 ロシュはまだアルコールの気が抜けていなかった。
 夜中に何処へ行っていたのだろうかと変に思っていると、ヴェスカがすかさずフォローをする。
「別に変な事はしてないぞ。話せば長くなるけど…とりあえずルイユを寝かせてやらないと」
「え?」
 ヴェスカの背に凭れる形でぐったりしているルイユ。
 ロシュの私室のベッドに寝かせる訳にはいかないと判断したリシェは、ヴェスカにちょっと待ってろと告げると部屋から出て行った。
「んあ?どうしたんだ、リシェちゃん」
「私に気を使って自分の部屋でルイユを休ませようとしているんですよ。ここは私の仕事場でもありますからね」
「あー…」
 なるほど、と合点がいった。
 間を置いてから彼は部屋に戻ってくる。
「シーツとか新しいのに取り替えてきた。俺の部屋で寝かせておくといい。そのうち勝手に起き上がってくるだろう」
 十六とは思えない位の配慮の仕方だ。
 手際の良い自分の護衛剣士に、ロシュは声を掛ける。
「リシェ」
「はい」
「少しの間、私の目の届く所でルイユを休ませておこうと思います。あなたは私の部屋で休みなさい」
「………?」
 どういう意味なのか分からないリシェは、きょとんとした面持ちでロシュを見上げていた。不意に出す彼の油断した表情は、持ち前の愛くるしさを更に際立たせてくる。
 ロシュは優しい手付きでリシェの黒髪を撫でた。
「オーギュが来たら改めて説明します。まずは…ヴェスカ、疲れたでしょう。ルイユをリシェの部屋に寝かせてから湯を浴びた方が良い」
「は…」
 まさか司聖の部屋で風呂にありつけるとは思わなかったヴェスカは、突然話を振られ驚く。酒場区からそのまま来たので着替えすら持参していないのだが、専らシャワー中心の生活なのでロシュの部屋の浴室に興味が湧いてしまった。
「ありがとうございます。…とりあえず、ルイユを寝かせて来ますよ」
「案内する。着替えは?」
「持ってくる訳ないだろ。夜中からずっと起きてたんだぞ」
「そうか。自分で洗えるなら乾燥させてやるぞ」
「ほーん…洗剤は?」
「用意する。洗うのは自分でやれよ」
「流石にそれは自分でやるよ」
 年齢差が開いているのに、普通の友人のような会話をしながら二人は一旦ロシュの部屋から出て行った。
 これも長い時間を共に過ごしていた為だろう。
 もう少し時間が経過すればオーギュも仕事の為にこの部屋に来る。説明した後も、ルイユの実家であるランベール家の方に彼の身に起こった事を説明しなければならない。
 魔物からの攻撃を受けた事で、身体への影響が何かしら出てくるかもしれないのだ。回復の魔法で改善出来ればいいが、昏睡状態が続けばそれも難しいだろう。
 リシェとヴェスカはすぐに戻って来た。
「この部屋でいつもの要領で全裸になられても困るからな」
「ひ、人聞きの悪い…まるで俺が全裸民みたいな言い方をするじゃねぇかよ」
「日頃の行いのせいだろう。その返り血だらけの顔でロシュ様の部屋を彷徨かれても困るからさっさと身綺麗にして来い」
 彼らはこれが普通の会話なのだろう。
 ロシュは思わずふっと笑った。
「てか、勝手が分からないから教えてくれよ…てか来てくれ。洗剤くれよ」
「仕方無いな…」
 何故朝っぱらからむさ苦しいお前の裸を見なきゃいけないのかとリシェは不満気な様子だが、ヴェスカはヴェスカで整った肉体美だぞと訳の分からない自慢をしている。
 二人の会話を背に、ロシュは一旦ルイユの様子を見に部屋から出た。リシェの私室は自分の部屋から出てすぐの場所にあり、扉を開ければすぐに別の扉が目の前に飛び込んでくる。
 リシェがまだ司聖の塔で居を構える以前は、来客用の部屋として主にランベール兄弟が寝泊まりしていた部屋だ。リシェが使うようになってからは彼の私物が増えたものの、彼はあまり物欲が無いのか室内は飾りっ気の無い部屋のままだった。
 別室の扉を開け、静かに入り込む。
 新しく寝具を取り替えたばかりのベッドの上では、ルイユが横たわっていた。
 しばらく様子見をしていると、それまで反応が無かった彼の顔がやや歪み小さく呻き声が口から漏れ始める。
「…ルイユ…?」
 ロシュは優しく声を掛ける。
 彼は頭を動かしながら「った…」と呟いていた。
「大丈夫ですか?」
 その声に、ルイユは僅かに瞼を動かす。しかし、力が無いのかすぐに目を閉じた。
「どこか、痛い?」
 その呼び掛けに、ルイユはこくりと頷く。どうやら声は聞こえるようだ。彼は唇を動かすと、自らの異変をロシュに訴えてきた。
「なんか、全身が…痛てぇ…」
 熱が出たのだろうか。
 そっと額に手を当てて確認するが、そこまで熱くはない。
 …触手に刺された後遺症なのかもしれない。
「少し魔法を施してみますね」
 そう前置きし、ロシュは微弱な魔力を引き出し回復の魔法をルイユに施してみた。魔物から受けたダメージの回復は今まで何度もこなしてきたものの、攻撃を受けた事によって昏睡状態になった者への魔法は施した事が無い。
 かなりのレアケースだったので最初は弱い魔力から試してみた方がいいと判断しての行動だった。
 軽い魔法を使ってみると、少しばかりだが表情が緩くなる。目を開ける力が湧いたようだ。
「…ロシュ様…?」
「ええ、私ですよ。ここはリシェの部屋です」
「…あー…終わってたんだ…あの化け物は?」
「後の事は現場に駆け付けてくれた宮廷剣士の方にお任せしましたよ。ゆっくり休みなさい」
 それを聞いて安心したように一息吐くと、「くっそ」と軽く強がった。
「人間に戻った所で殴ってやりたかったのに」
 ロシュはふっと微笑む。
「そういう言葉が出てくれればこちらも安心です。あなたのお家にも朝一で連絡しておかなければいけませんから…」
「そっかぁ…あぁ、またクラウスに怒られるんだろな…」
 彼の世話役の耳に入ったら確実に怒られてしまう案件なだけに、ルイユはがっかりと項垂れる。全ての原因は自分が戻れと言われているにも関わらず、街に滞在し続けた結果だからだ。
 しかもスティレンが拒否していたのに、興味本位で大人の街である酒場区内に足を伸ばしてしまった。決して褒められる事ではない。
 同行したスティレンは全く悪くない。強引に自分の意思を通してしまったのだから、こちらが悪い。
 なので我儘な自分に付き添ってくれたスティレンを誰も非難出来ないのだ。
ルイユは真っ白な羽毛布団をぎゅっと掴んだ。
「スティレンは?」
「自分の寮の部屋に戻りましたよ。今は存分に体を休めているはずです。だからあなたも休みなさい」
「なら良かった…俺がガキ過ぎたから、余計面倒な事になっちゃった」
「そんなに気に病む事はありませんよ。むしろ、こちらがあの現場に居たからこそ更に大きな騒ぎになる事も無く小規模で済んだ。私達があそこに居なかったら、アストレーゼンの城下街全体に被害が及んだかもしれません」
「物は言い様だな。…そうだ、ロシュ様」
「どうしましたか?」
「何かさ。…体っていうか、関節っていうか。すんごい全体的にギシギシしてんの…んでさ、着てる服が変に窮屈な感じで。何かゆったり着れる物とか無いかな…」
「………」
 ロシュはしばらく考えた後、自分ので良ければ…と伝える。あまり使っていないリラックス用のローブでも持ち出せばいいだろう。
 ちょっと待っていて下さいね、と告げた。
 関節が痛いとはどういう事か。リシェの部屋から一旦離れてロシュは自分の部屋へ戻ると、ちょうど浴室から二人が戻っていた。
 アルコールや砂煙に塗れた衣類も綺麗さっぱり洗われ、爽快感たっぷりの様子だ。
「あ、ロシュ様。いいお風呂有難うございました」
 ヴェスカは湯の提供をしてくれたロシュに頭を下げる一方で、リシェは不快感極まり無い様子で吐き捨てる。
「はぁ…変なもん見せられた。しばらくこいつのむさ苦しい裸なんか見たくない」
 すっきりした様相のヴェスカとは対照的に、リシェは脱力した様子で肩を落としていた。
「これ見よがしに自慢してくる」
「何だと!誇るべきものだろが」
「俺に対して誇って来るか普通…お前、まさか兵舎のシャワー室でも同じ事してるのか?」
「あー…たまにやるけどさ。皆見飽きてるだろうからお前にも見せようかなと」
「…いちいち俺にそんな事しなくていい!!」
 相変わらずの仲の良さだ。
 そんな彼らを微笑ましい気持ちで眺めながら、室内のベッドの近くにある大きなクローゼットの方へと歩いて行った。
「ロシュ様?」
 本人の着替えは確かベッドに置いてあるはず、と不思議そうな顔を向ける。
「ああ、ルイユが目を覚ましたんですよ。ただ寝間着になるものが欲しいみたいなので綺麗な部屋着を持って行こうかとね」
「俺の使っていない物で良ければご用意出来ますけど…」
 言葉を選びつつ、リシェが口を開いた。
「うーん…それじゃ却って窮屈じゃねえのか?」
 彼の隣に並ぶようにして立っているヴェスカが何気なく突っ込んだ。
 リシェは「何故だ?」と眉を顰める。
 うーん、と考えるように彼を見下ろすと、ヴェスカは最大の地雷の言葉を言い放った。
「そりゃ、お前の方がちっちゃいから…っっ!!」
 同時に巨体ががくりと傾いた。
 リシェはヴェスカの横っ腹にキツい手刀を入れた為だ。
 宮廷剣士副士長は、自分より遥かに小柄な剣士の横でおごぉっ…と呻いて沈んでいく。
 脇腹を押さえながら苦悶の顔を見せる上官に向けて、リシェは舌打ちしていた。
「着ていて窮屈じゃないものが欲しいみたいなので多少ブカブカでいいなら私のを使って貰いますよ」
 バスローブも考えたが、間が開いてしまうかもしれない。
 頭から被るワンピースタイプのものを引っ張り出すと、これで大丈夫かな…と首を傾げた。あまり使用感が無いが、ずっと収納していたので匂いが気になる所だ。
「ロシュ様、ありましたか?」
「ありましたが…洗って綺麗にした方が良さそうですね。ずっとクローゼットに入れたままだから」
 それなら、とリシェはロシュに近付く。
「俺が洗濯をしてすぐ乾かして、ルイユに着せて来ます。ロシュ様もお疲れですし、早めに湯を浴びた方が良いと思います」
「………」
 そういえばそうだった。これからあれもやらなければならない、これもやらなければならないと色々考えていて、自分がヨレヨレの状態だという事に気が付かずにいたのだ。
 ロシュはしばらく考えた後、リシェに持っていた寝間着を手渡した。
「…そうですね。少しでも酔いも覚ましておかないと…」
 仕事をしに来たオーギュに嫌な顔をされてしまう。それでなくとも、今まで自分達の身に起こった事を説明しなければいけないのだ。
 詳細を知れば忽ち不機嫌になって、何故単独で城下街に赴いたのか、とかランベール家に謝罪しに行かなければならないではないか、とか色々文句を浴びる事必至である。
 そして今は砂埃や火薬に似た匂いに加え、アルコールを口にしてしまったので余計煙たがられてしまうだろう。
「ではリシェ、お願いしてもいいですか?」
「はい。お任せ下さい」
 リシェは寝間着を胸に抱き、ロシュにしか見せない笑顔を向けて答えた。
「俺はここで待機させて貰おっと」
 ヴェスカはソファに遠慮無く腰を掛け、大きな口を開けてあくびをする。湯を浴びたとはいえ、彼も全く眠っていない状態だ。ちょうど体も温まって良い具合に眠気が来たのだろう。
 彼が全身を預けているソファは、決して脆弱な造りではないがいかつい筋肉の重みで軋みを音を漏らしていた。
「着替えもお持ちします」
「いえ、大丈夫ですよ。申し訳ありませんが洗濯をお願いします」
「分かりました」
 再びリシェが浴室へと向かい、ロシュも着替えを手にしてその後を追い姿を消した数分後。
 …地上から暴風が噴き上がってくる。
 ふあぁ…と呑気に数度目かのあくびをしてソファに横たわっていたヴェスカは、その気配に何事かと思わず身を起こした。ベテランの剣士は少しの風の動きにも咄嗟に判断してしまうのだ。
 少しだけ開けていた窓の隙間から風が入り込み、カーテンがぶわりと舞った。
「………」
 そして軽快な靴の着地音が外から聞こえてくる。
「何だ…?」
 カラリと窓が開かれ、当たり前ように涼しい顔をしたオーギュが書類や書物を手に室内へ入り込んできた。
「おはようございま…」
 普通にベランダから室内に入って来る彼を見るなり、ヴェスカは反射的にソファから立ち上がる。
「…何で!!」
「は?」
「何でそこから入って来る訳!!」
 居るはずのない相手が目の前に居る事に、オーギュは眉を寄せていた。
「ヴェスカ?何故ここに」
「ベランダは玄関じゃないって!!」
 お互い違う事を言い合う。
 まさか司聖の塔にヴェスカが居るとは思いもしなかったのだろう。オーギュの中に棲み着くファブロスも不思議そうに主人に語り掛けていた。
『(珍しい客だな)』
「ええ、本当に」
 脳内で会話する事を忘れ、つい声に出してファブロスに返事をしていた。
 オーギュは朝からの大声に脱力しつつも自分の机に荷物を置き、再びヴェスカに問う。
「夜中に緊急の用事があったのですか?」
「窓から入ってくるとか!品のあるオーギュ様らしくもない。てかさ、普通階段から上がって来るもんだろ!」
 そう言ってヴェスカはオーギュに詰め寄った。
 あらかじめ湯を浴びて良かった、と内心ロシュに感謝する。浴びていないままだと顔を曇らせて近寄るなと罵倒されていたであろう。
「あんたは人様の家に上がる時は窓から入るタイプじゃないだろうが」
「相変わらず人の話を聞きませんね、ヴェスカ」
 そしてお互い全く会話が噛み合っていない。
「私は階段をちまちま上がるより、魔法で飛んだ方が早いんですよ。ロシュ様も知ってます…というか、あなたもご存知じゃなかったっけ…?」
「そうだっけ?てか、俺が毎日抱きかかえて送ってもいいんだけど!」
 余計面倒じゃないか…とファブロスは呆れる。
「結構です」
 オーギュは普通に突っぱねた。大の大人が階段が嫌だからと他人に抱えられながら出勤とか、恥も良い所だ。
 浴室から洗濯を終わらせたリシェが姿を見せ、オーギュに対し「おはようございます、オーギュ様」と一礼した。
 いつもながら固い子だ、と苦笑しながらも彼はおはようございますと返事をする。
「ロシュ様がお話ししたい事があるそうです」
「ロシュ様が?あの人はどちらへ?」
「今お湯を浴びています」
 耳を澄ますと、確かに浴室方面から水音が聞こえてきた。その後にヴェスカに目を向ける。
「居るはずのないあなたがここに居るという事は、何かあったんでしょうね」
 ヴェスカはニコニコしながら「そうそう」と頷いた。
 決して笑えるような内容では無い。
 夜中の間に起こったあの騒動を聞けば、恐らく顔を曇らせてしまうはずだ。
「ロシュ様が戻って来たらリシェとオーギュ様に話すって言ってたからちょっと待っててよ…」
「そうですか」
 リシェは洗濯の終えた服を軽く畳み、ちょっと席を外しますと一言告げて室外へ去っていった。

 再び自分の部屋へと戻ったリシェは、洗い直していい香りの放つロシュの寝間着を広げた。
「おい」
 リラックス出来る服を所望しているという事は起きているはず。リシェはベッドに横たわっているルイユに話し掛ける。彼はぴくりと反応を見せた後、ゆっくりとこちらに体を向けた。
「…おう。リシェ…相変わらず小さいなお前」
「………」
 何か一言でも余計なセリフを吐かないと気が済まないのだろうか。そう思いながらも、リシェはロシュから預かっていた寝間着を突き出した。
「起きれるか?ロシュ様のクローゼットに入ってたのを洗ってきたから」
「あー…うん。ちょっと待ってろ…」
 そう言いながらルイユは体をゆっくり起こす。やはり、全身が妙に怠く節々が痛い。夜風に当たり過ぎたせいかとも思ったが、今までこんな経験は無い。
「あれからずっと遊んでいたのか」
「別に遊んでた訳じゃねぇよ…大変だったんだから」
 ベッドから両足を床に付けて立ち上がった。
 同時に、リシェはルイユと向き合ったと同時に変な違和感を受ける。
「………?」
 何かがおかしい。
 その違和感が何なのかずっと考えているリシェの前で、ルイユはようやく身軽な服に着替えていく。
 大きさが不安だったが、案外すんなりと着用出来たようだ。
「良かった。やっぱ服着たまんまじゃ寝苦しいもんな…窮屈で仕方無ぇや」
 彼はそう言い終えた後、脱いだ服をそのままにして再び横になった。リシェはそれを回収すると、これもまた洗濯か…と三回目の洗濯に少しだけウンザリして呟く。
 ロシュからの用事なら全然構わないが、予想もしない洗濯物が発生してしまうと愕然としてしまう。
「リシェー」
「何だ?」
「お前、今日も暇なのか?」
「暇じゃない」
 いつも暇みたいに言うな、とリシェは突き放した。
「何だよ。暇なら一緒に居れると思ったのに」
 やや疲れを見せながら、ルイユはつまらなそうに膨れる。冗談じゃない…とリシェは内心毒付いた。
「疲れてるんだろ」
「うん。…めっちゃ疲れた。全身がきつい」
 ふう、と一息吐く。
 リシェはそんな彼を見ながら、また変な気分に陥っていた。いつものルイユのはずなのに、何かが違う気がしてならない。
 …彼が寝間着に着替えている時にも妙な感じがした。
「しばらく休んでろ」
「リシェ」
 洗い物を手にリシェはまた室外から出ようとするが、ルイユはそれを制するかのように声を掛けて遮る。
「?」
「…いや、何でもない。寝る」
「そうか」
 大人しくしてくれた方がこちらも助かる。寝る直前まで元気を出されてはたまったものではない。
 ルイユが寝息を立て始めたと同時に、リシェは部屋の扉を開けて室外に出る。
 一息吐きながらまたロシュの部屋へ戻ると丁度彼も浴室から戻っていた。
 酔いは少しは覚めただろうか。
「ロシュ様」
 リシェは主人に声を掛けた。
「ありがとうございます。ルイユはちゃんと着替えましたか?」
「はい。自分で着替えてました。あの、酔いはまだ…?」
「あぁ…結局眠ってませんからね。すぐには抜けません」
 そんなに強くないのにどうして飲んでしまうのだろう。普段はあまり飲まないようにしているはずなのにと不思議に思っていた。
「それなら、すっきり出来るお茶をご用意します」
 疑問を感じつつも体に優しい飲み物の提案をすると、ロシュはありがとうございますとリシェに礼を告げる。
 リシェはロシュが酔ってしまった原因はルイユにある事を知らないままだが、いつものように彼らが仕事を始める際にお茶を提供出来るので都合が良かった。その日の彼らの状態を鑑みながらリシェは紅茶の茶葉を選ぶのだが、効能などを考えてお茶を淹れている。
 今回はロシュの酒がまだ抜け切れていないので、どのような茶葉にするかを深く考える必要は無い。
「…さて。何が起きたのか説明して貰えますか?」
 人が出揃った所で、オーギュはロシュへ視線を向けながら促した。

 ある程度の説明を受け、状況を把握したオーギュは足早に塔と大聖堂を繋ぐ道を進んでいた。いつも通り仕事をしようと思っていたのに、急に降って湧いてきた案件に補佐役としてこれから対応しなければならない。
 ルイユの体調を確認した上でランベール家の方へ連絡をしなければならないし、騒動の原因の確認や宮廷剣士側にも話を聞かなければならない。
 後は酒場の関係者にも詳細を聞かないと…と頭の中で整理しながら歩いていた。
『(忙しいな)』
 主人の中で微睡んでいるのが非常に心地良いのか、ファブロスは呑気な声で宿主に話し掛ける。セカセカしている主人とは比べようにならない程、のんびりした口調だった。
「そりゃそうなりますよ」
 もう心の中で話し掛けるのも面倒なようだ。
 考える事が山積みで、心で語っていると考えていることを忘れてしまいそうになる。
 ランベール家への連絡は大聖堂の総務側へ依頼しておくとして、兵舎の方へ赴かないと…と中枢区域へ爪先を向けたその時だった。
「あっ、オーギュー!」
 高めの朗らかな声が鼓膜を刺激する。
「あ…」
 声のした方向へ顔を向けると、顔見知りの双子の片割れと、彼らの保護者役の青年が遠くからこちらへ近付いて来る。
 何と丁度良いタイミングだろうか。
 そこまで神の存在を信じてはいないオーギュだったが、この時ばかりは感謝したくなった。報告する手間が省けると言わんばかりに「良かった…」と呟く。
 二人はこちらに駆け寄り、軽く挨拶を交わした。
「おはようございます」
「おっはよー★ルイユばっかりこっちに遊びに来てずるいって言ったらクラウスが連れて来てくれたのぉ」
 年相応の活発さがある兄とは違い、弟であるルシルはふんわりとした可愛らしさが目立つ。
「別に遊びに連れてきたつもりはありませんよ。今日はみっちり三時間お勉強の時間を取っているのに後先考えずにルイユ様が出て行ったのでお迎えに来ただけなんです。…おはようございます、オーギュ殿。早朝から訪ねてしまい申し訳ありません」
 前回と会った時と何ら変わらず冷静な態度で、彼らの世話役のクラウスは頭を下げた。若干変化があったとすれば、以前より髪が少し長くなった事位だろうか。
 後ろに流し気味の髪が長くなった事によって、やや無造作でラフな印象を与えてくる。
 二人の世話役として多忙を極めているのか、整髪に赴く時間があまり持てないのだろう。
 逆に髪を極端に短くしたオーギュを見るなり、色気付いているルシルは「わぁ」と声を張り上げていた。
「オーギュ、雰囲気が全然違うんだねぇ。んふふ、長いのもいいけど短いのも若返った感じがしていいなぁ」
「お久しぶりですね、ルシル。お元気そうで何より…そしてクラウス殿、お忙しいのにわざわざこちらに来て下さるとは。お話ししたい事がありまして、こちらから連絡しようと思っていた所だったのです」
「お話ししたい事…?」
 オーギュの言葉に、クラウスは不思議そうな面持ちで首を軽く傾げた。
「はい」
 正直な話、非常に言いにくい内容だ。だがこればかりはしっかり知らせなければならないだろう。
 オーギュはちらりと中庭のカフェテリアに目を向けると、ふっと微笑みながら「宜しければこちらへ」と案内した。
 この日はちょうど大聖堂の中庭の店舗は軒並み新商品の入れ替えの期間となっていて、巡礼者や旅行客の目を惹きつけている。甘い匂いやお茶の香りが近くを漂わせながら人々を誘惑していた。
 ルシルは嬉しそうに目を輝かせる。
「うわぁ、ご馳走してくれるのぉ」
「ええ、勿論。私も甘い物には目が無いんです」
 ルシルの年相応の素直な喜びっぷりに、思わずオーギュは微笑んだ。似たような年齢のリシェにもこのような部分があってもいいと思う。
「それはあまりにも申し訳無いです。こちらが勝手に大聖堂に押し掛けてきたようなものなのに」
 思いがけぬオーギュからの申し出に、大人のクラウスは恐縮していた。彼からしてみれば、ただ身勝手に行動して大聖堂に押し掛けたルイユを連れ戻しに来ただけなのだ。
 それなのに司聖補佐からご馳走になるとは。
 丁重に断ろうとするクラウスだったが、オーギュはそんな彼を制するように続ける。
「こちらこそお預かりしているルイユの事で謝罪しなければならない事態になってしまったので…まずお茶をしながらご報告させて欲しいのです」
「え?」
 何が起こったのだろうか。
 早く、とルシルによって袖を引っ張られたままのクラウスはぽかんとした表情でオーギュを見ていた。

 オーギュから話を聞き、昨夜起こった事を把握したランベール家の執事のクラウスはルシルと共に司聖の塔内のリシェの部屋に足を踏み入れる。
 一通りクラウスへ説明をした後、オーギュは申し訳無さそうに「この後、昨夜の事についての各々の報告がありますので」とカフェ代を全て支払って別れている。ルシルが注文したパフェを完食したのを見計らった後、すぐに塔へ赴いたのだった。
「あぁ、何と旦那様に説明したらいいものか」
 まさか酒場区へ足を伸ばしていたとは思いもしなかった世話役は、悩み過ぎて痛む頭を押さえながら塔へ向かい真っ先に司聖ロシュの元へ謝罪した。
 これ程身勝手極まりない行動で周囲に迷惑を掛けてしまう者も居ないだろう。未成年のくせに大人ぶって酒場方面へ遊びに行くなどあってはならないのだ。
 夜に浴びた埃を完全に落とし、若干酔いも覚めてきたロシュは嘆かんばかりに頭を軽く抱えるクラウスに対して「あまり彼を責めないであげて下さい」と宥める。
「この子があの場に居なかったら更に被害は拡大していた。私も彼の機転に大分助けられたのです」
 リシェのベッドで布団に包まる形で寝息を立て続けるルイユを見守りながらロシュは言った。
「私達をどうにかして助けたかったのでしょう。でも本人が言うには、自分は魔法の能力も無いし特に力が強い訳でも無いと言っていた。肝心な時に誰の役にも立てないと嘆いていたのです。ですが、彼は相当頭が切れる子でした」
「ルイユ様が…?」
 ロシュの言葉にクラウスは勿論、弟のルシルも意外そうな顔を見せる。自分達の知る限りのルイユは、何かに集中する事が非常に苦手な上、決められた勉強時間となればとにかくすぐ飽きてしまう印象が強かった。
 あまりの集中力の無さに、クラウスはこれまでに何度注意した事だろう。
「街に突然得体の知れない魔物が出現しても臆する事も無くいつものように飄々としていましたし…特に何も考えていなかったのかもしれませんが、彼が口にした言葉であの状況を終わらせる事が出来たようなものです。いい助言を頂きました」
 クラウスはベッドで丸まっているルイユに目を向けながら、軽く一息吐いた。
「そうですか…結果的に良かったのかもしれませんが、世話役の立場として彼らを預かっている身としては夜中に遊び歩いてしまった行動について看過できません。ロシュ様をお守り出来た事は改めて褒めるべきでしょうが、ルイユ様はまだ私達に保護されなければならないお立場ですから」
 極めて危険な場所へ自ら夜に赴いたのだから、それは叱責しなければならないとクラウスは改めて思った。
 何が起きるか分からない場所なのに、魔物との遭遇という想像も付かない場面に立ち入ってしまったのだ。一歩間違えば命も落としたかもしれない。
 もし護衛する者がその場に居なかったらどうするつもりだったのだろう。
「ルイユ様が目を覚ましたら、こちらで即引き取るつもりです。しばらくは反省して貰わないと」
「ええ。体に特に異常が無く元気ならばこちらも特に異論はありませんよ」
 …白い布団がもそりと蠢いた。
 ルシルはその音に反応し、「ルイユー?」と可愛く声を掛ける。ほんの数秒間は微動だにしなかった白い塊は、再び軽く蠢いた。
「なぁんだ。起きてたんじゃない」
 呆れるルシルの声に呼応したようにルイユは分厚い羽毛布団を捲りながら「そりゃそうよ」と嫌々上体を起こす。
「近くでボソボソ喋られたら起きるだろ…」
 そう言ってようやく目を開けたルイユは、不意に自分の頭に手を当てた。そして変な感触に顔を顰める。
「あ??」
 同時に双子の弟であるルシルも。
「え??」
「あぁ…??」
 一番近い場所で彼らの成長を見てきたクラウスも、何が起きたのか分からず硬直する。
「…ルイユ…です、か?あなた」
 ロシュはルイユに変な質問を投げていた。確かにベッドに彼を寝かせたはず。だが、今自分の目の前に居る彼はいつもの彼ではなかった。
 ルイユだと思っていた彼は持ち前の金髪が腰まで長く伸びきっていて、いつもの幼さのある顔が彫りが深く、少しだけ精悍な顔立ちに変化している。
 その体も前見た時よりも大きくしなやかに変化を遂げていて、見慣れた姿ではない。
 あまりの変貌ぶりに、ルシルは思わず叫ぶ。
「誰!?」
「あ?何言ってんだよルシル…俺だって…」
「い、いやいや…ルイユ、か、鏡見てみなよ!?どうしちゃったのそれ!?髪も長いし!!」
「はぁ…何言ってんだよお前…」
 言葉を失ったままの三人を前に、ルイユはベッドから降りて立ち上がる。そして目線がいつもと違う事や、自分の頭に違和感を覚えた。
「髪ぃ…?あれ、何これ?長くね?」
 垂れ下がるように落ちる髪を指で掬い上げる。
「長くね?じゃなくって長いんだよ!ほら見てみなよ、変な薬でも飲んだんじゃないの?」
「そんなの飲む訳ねぇじゃん…てか引っ張るなよ、まだ体が痛いんだから」
 弟に引っ張られ、ルイユは部屋にあるシンプルな全身鏡の前に出された。同時に鏡に映った自身の姿を初めて目にする。
 そして、変わってしまった自分を見ながら口をあんぐり開ける。
「…っはぁああああああああ!!??」
「それはこっちが言いたいよ!何なのそれ!?」
 ロシュやクラウスが言いたい事をまるでルシルが代弁していた。
 ルイユはまじまじと自分の姿と顔を見た後、くるりと弟へ目を向けると「なあ!」と声を掛ける。
「な、何?」
「俺、激しくくっそイケメンじゃね!??」
 …この前向きな感想をぶつけられ、ルシルはぽかんと呆気に取られた。
「…く、クラウス…どうしよ??」
 完全な変化を遂げているのに、当の本人はいつもの調子で楽しそうにしている。脱力しそうになりながら、ルシルは涙目で保護者を見上げた。
 その傍ら、ルイユは長くなった金色の髪を両手で弄りながら「長げーなぁ」とボヤく。
 まるでいきなり一人だけ年を重ねたかのように、全てが成長していた。今まで見た事が無い症例なのでロシュも言葉を失ったままだ。
「ちょっと…これは予想もしなかった…」
「うん。俺もだ!」
 ルイユはにっこり笑いながらロシュに言う。そんな彼の様子は、今まで同じ目線で生活を共にしていた弟のルシルとは違い悲壮感がまるで無い。
「クラウス殿。ルイユの体を調べなければなりません、流石に…」
「そうですね…どうかお願いします。これは旦那様に説明が出来ない…」
 混乱したままの三人を前に、ルイユは呑気に「風呂入ってきていい?」と伺いを立てていた。
「クラウス、ルイユの着替えは持って来てないでしょ…てか、大きさどうしよう?」
 流石に今までのでは窮屈過ぎるだろう。
 ルシルの言葉に、クラウスも頭を抱えながら返事をする。
「…その位だと十七か十八歳位でしょうね。元に戻れるのかどうかも分からないし」
 著しく年を重ねてはいないだけ、まだマシかもしれない。
「おほー!こっちも立派に成長してる!」
 二人の会話を聞きながら、ルイユはそっと背を向けデリケートな部分を自ら確認した後に変な事で喜びの声を発する。
 ルシルは「何言ってんのさ!!」と半泣きで叫んだ。
「僕たち今まで一緒だったんだよ!?何でこんな風になってるのさ、大体、元に戻れるかどうか分かんないのに!」
 唯一の弟であるルシルにとっては、兄の姿が一気に成長してしまった事に動揺と混乱を隠しきれないのだろう。能天気な兄に対して冷静さを欠きつい怒鳴ってしまう。
 脳内でインプットされている兄の姿では無くなっているのだから無理もない。
 溜息を漏らしながら、クラウスはロシュに言う。
「とりあえず下に行って最低限の衣服を買ってきます。私もどうしたらいいのか分からないので」
「そうですか。私も同じ気持ちです…衣装諸々はこちらで準備しますよ。使っていない服がありますから、今のルイユの体には多少大きいかもしれませんが…」
 二人のやり取りを耳にしながら、ルイユは「ほー!」と声を上げた。
「俺も魔法使いみたいな法衣とか着れる?」
 着た事無いんだよねー、と無邪気に笑った。その無邪気さは体が大きくなっても変化しないようだ。
 あまり悲観的にならないのは救いなのかもしれない。
 ロシュはふっと微笑んだ。
「ルイユは法衣を着てみたいんですか?」
「そりゃそうよ…俺、魔法なんて使えないからさ」
「なるほど。それなら使わなくなってしまった法衣をご用意しましょうか」
「うんうん。んじゃ俺は風呂でも行こうかな…ええっと、そういえばリシェは?」
 室内を見回し、彼が居ない事に気付くルイユはロシュに問う。
「リシェは宮廷剣士の任務に当たっていますよ」
 彼はロシュから話を聞いた後、眠いとひたすら連呼するヴェスカと一緒に兵舎へと赴いていた。帰って来るのは夕刻になる予定。
 ルイユは自分の変貌振りを目の当たりにしたリシェの反応を見たかったが、それは後回しになりそうだ。
「そっかぁ。この俺のイケメンっぷりを披露してやろうと思ってたのに」
 本人が想像以上にケロッとしているのは救いだが、ここまで平気だと却って動揺してしまう。
「ここに居る限りはすぐ顔を合わせられますから」
「えへへぇ…そうだな。んじゃロシュ様、風呂借りるよ」
「はい。その間丁度いい服を探してきましょう」
 裸足で部屋から出て行ったルイユを見届けた後、ルシルはクラウスの服の袖を握り込んだまま「どうするの?」と問う。
 クラウスは混乱からまだ落ち着かない頭を押さえつつ、ルシルの頭にそっと手を当てた。
「まず今やらなければいけない事を済ませてきます。ちょっと下の売り場まで行って必要な物を取り寄せて参ります。ルシル様はここで待っていなさい」
「………」
 不安げなルシルはこくりと素直に頷くと、ベッドに置かれているクマのぬいぐるみを見つけて抱き締めると、そのまま腰を下ろした。ロシュはそんな彼の前に近付くと、目線に合わせて屈み優しく問い掛ける。
「何かお菓子でも食べますか?」
「!」
「昨日、美味しそうなお菓子を頂いたのですが、まだ食べていないのですよ。ルイユと一緒に如何ですか?」
 ロシュから出される菓子類は滅多に口に出来ない代物が多く、彼らは喜んで口にしていた。現金なもので、お菓子というフレーズにルシルは先程より表情を明るくする。
「食べる!」
 分かりやすい反応に、ロシュはホッとして微笑んだ。
「そうですか。ではすぐにご用意しましょうね」
 完全にとは言い難いが、機嫌を取り戻したルシルを見てクラウスはロシュに申し訳無さそうに礼を告げた。単純なルイユとは違い、彼より大人びたルシルは一旦下降した機嫌を取り戻すのは大変なのは身に沁みて理解していた。
 下手をすれば半日以上はヘソを曲げる時もある。
 ロシュは苦笑しながら、「こうなってしまったのはこちらの責任でもありますから」と言った。

 所変わり、アストレーゼン大聖堂地下監視牢。
湿気と埃が含まれた空気で澱む敷地内を、監視役の宮廷剣士に導かれながらオーギュは目的地まで歩く。
 小さな窓から降り注いでくる日光は決して周囲を照らす事は無く、唯一の明かりは発光石による僅かなオレンジ色の照明だけ。
 廊下に埋め込まれた発光石だけが、足元から小さく照らしている。
「何もあなた様がこちらに赴く必要は無かったのでは…?」
 監視役の剣士は不思議そうな面持ちで着いて来るオーギュに問い掛けていた。今から面会しようとしている相手は司聖と偽って詐欺紛いの事を起こして収監されている、とだけしか話を聞いていなかったので司聖補佐である彼がわざわざ顔を見に来る必要があったのか疑問だったようだ。
 オーギュは「いえ」と一言口にする。
「ちょっとお伺いしたい事があったので。あなたにはお手数をお掛けしてしまいますが」
「とんでもない…こちらに出来る事なら何でも致しますので」
「有難うございます。収監者とはお互いに話をしたいので、少しの間席を外して頂ければ嬉しいです」
「それは勿論…では近くまでご案内しますので、話の間は入口で待機させて貰います」
 オーギュはこくりと静かに頷いた。
 監視牢は臨時で使用する以外は殆ど使われてはおらず、この日は昨夜捉えられた例の三人だけが収監されていた。
 魔物の姿となって騒がせていたメンバーの一人は適切な手当を施された後、そのままこちらへ運ばれ今に至っている。それぞれ同じ個室に入れると新たな騒動の原因になりかねないので、一人一部屋ずつ入れられていた。
 一人一人個室を与えられてもまだ部屋には余裕はある。とは言え、大勢収監されても困るのだが。
 剣士は足を止め、「こちらです」とオーギュに伝える。彼は涼やかな顔を上げ、改めて礼を告げた。
「では少しだけお時間を頂きます」
「はい」
 気を使った剣士がその場から立ち去るのを見届けた後、オーギュは例の騒ぎを引き起こした一行が収監されている牢の前へと進む。
 手前の牢は魔物と変化した偽者の司聖。
 出身地は把握していないが、流浪の魔導師だという。未だに意識は昏睡状態であり、今の段階ではまともに会話が出来ないらしい。やはり魔力の影響で巨大な魔物に変化した事によって、身体にかなりの影響を及ぼしたのだろう。
 簡易ベッドに横たわる彼を横目で見ながら、オーギュは更に奥へと足を進めた。間を置いて、彼の耳に声が届く。
「誰か居るのか?」
「………」
 声がする方へ顔を向けると、仲間の一人が格子に手を掛けながらこちらを見ていた。
「お前…アーヴィーか?!」
「は…?」
 ガシャンと激しい音を立てながら、格子の奥の男は頑丈な鉄の棒を握りながらオーギュを睨んだ。
「俺らを謀った奴がどの面して顔見せに来た!?」
 …何を言っているのだろうか。
 怪訝そうな顔を向けたまま、オーギュは「何の話ですか?」と問い掛ける。
「初めてお会いしたと思いますが」
 冷静な言葉に、相手はハッと我に返った。
 薄汚い格好の体格の良い男は、暗がりの中で目を凝らしながらオーギュの姿を確認する。そしてあぁ…と何処か落胆した様子で肩を落としながら詫びの言葉を口にした。
「よく見れば違った」
「………」
「奴があまりにも憎たらしくて幻覚を見ていたらしい。細身で背が高かったからつい反応してしまった。悪かったな」
「その口振りからして、その相手から騙されていた様子ですね」
 男は格子から手を離し、気が抜けたかのように数歩退がるとドサリとその場に座り込んだ。旅人特有の砂埃が混じった何とも言えない匂いがオーギュの鼻を掠める。
 各地を転々とする彼らは、自分の身や周りの持ち物などに細やかな配慮はしない。ましてや男なら尚更だ。旅先で街に寄れる機会は少なく、野宿の頻度が高い。
 身を洗えるとなれば仲間の魔導師が水を作るか、偶然見つけた川や泉位しか無いので自然と薄汚くなってしまう。
「…俺達も大して変わらない。悪どい奴らが、更に悪どい奴に騙されたって事だ」
「話を聞けば、あなた方は司聖一行だと人々に吹聴していたとか。まさか本人と遭遇してしまうとは思いもしなかったでしょう」
 ロシュがアストレーゼンの街に繰り出すなどとは、まず滅多に無い事なのに。
 本人と偽り、詐欺を働いている時にロシュに会ってしまうとは不運極まり無い。これを機に改心してくれればまだ救われるのだが、まだ彼らの処遇に関しては未定のままだった。
 男は晩の出来事を思い出したのか、ちっと忌々し気に舌打ちした。
「司祭があんな場所に来るか普通?」
「色々事情があったんですよ。…まぁ、それはあなた方には関わりの無い話だ」
 前もって話を聞いていた内容については彼らは知る必要性が無い。
 男は座り込んだまま、目の前に居るオーギュをつまらなそうな様子で見上げる。
「…てか、誰か知らねぇが一体何の用事だ?まさか俺らを笑いに来たんじゃねぇよな」
 たまたま訪れた場所でヘマをした挙句、その国の牢に入れられてしまったのが不愉快だったので若干ヤケクソな気持ちに陥っていた。それは他の仲間達も同じだろう。
 それなのにわざわざ見物をしに来るとなれば、悪趣味ではないだろうかと苛立った。
 オーギュは溜息を吐いた後、「いちいち捕まった人を笑いに来る程私は暇では無いです」と突き放した。
「これからあなた方には起こしてしまった事案の状況を事細かく聴取される事でしょうからね。その前に個人的にお伺いしたい事があったのです」
「…はっ…ご大層な事で。そもそもあんたが一体何者なのかも知らねぇってのに。あんたが何者で、何をする人間なのかも浮浪者同然の俺らに話す価値も無ぇってか」
 格子越しに繰り返される会話。
 相手は犯罪者だが、彼が言いたい事は真っ当な意見だった。立場はどうあれ、対等な目線で話し合うのは当然だ。対等な立場でなければ、お互い意固地なままになってしまう。
 オーギュは眼鏡の奥の細い目を軽く緩めながら確かにそうですね、と一言呟くと丁寧な口調で自己紹介をした。
「私はオーギュスティン=フロルレ=インザーク。このアストレーゼンの司聖であるロシュ様の補佐をしております」
「あぁ…という事は貴族出身なのか」
「ええ、まぁ…」
「ここの貴族なら知ってるか?アーヴィーという名前の奴は?」
「…アーヴィー?」
 男が名指しした見知らぬ人物の名前を初めて耳にしたオーギュは、眉を寄せながら不思議そうな顔を見せた。
「…初耳ですね」
 その名前はロシュも口にしなかった。彼から昨晩の報告を受けたが、アーヴィーという名前は全く聞いていないはず。だが、あまりの唐突な出来事だったので頭が混乱し、聞き逃してしまったのかもしれない。
 腕を組んで考え込むが、やはり記憶が無かった。
「そうか。それならやっぱり、奴は偽名を使っていたんだな…ふん、初っ端から逃げる気満々だった訳だ。くそったれが」
 男は荒ぶった様子で舌打ちする。
 アーヴィーのこちらを見る目つきを思い出し、腑が煮えそうになるのを堪える。
 彼にとっては自分達は暇潰しの道具でしか無かった。最初は収入源に困っていた自分達に手を差し伸べてくれる親切な貴族かと思っていたが、親切心では無く気紛れだったのだ。
「…その方は確かにアストレーゼンの貴族だったのですか?」
「本人はそう言ってたからそうなんじゃねぇのか?奴はあまり自分の事を大っぴらに話したりはしなかったからな」
「ある程度分かっていれば調べられるとは思いますが…あなたが言うように騙されたとなれば少しは処遇を和らげるかもしれない…ただ」
「あ?…ただ?」
「ここには昔からの嫌な風習が残っていたりするのです。相手が貴族だと、自分達の立場を利用して不可侵権を振りかざす者も少なくはありません。明確な証拠が揃えば話は通しやすいかもしれませんが、ただ見ただけとか口約束のみだと厳しいと思いますよ」
 その言葉を聞くと同時に、彼は深い溜息を吐いた。
 自分らを騙しておきながら、自分だけのうのうと姿を消した貴族に少しだけでも痛い目を見て欲しかったが、気持ちが一気に萎れていく。
「あの魔導具が無くなった事で、余計あいつには好都合だったって訳か。…深入りする前にこうなる様に仕向けたのかもしれねぇな」
「ちなみに魔導具に関しての知識はお持ちだったのですか?」
 まさか何の知識も無いまま使っていたのではあるまい。扱いが複雑な魔導具はある程度知っておかなければ大惨事を引き起こす可能性がある。
 …現に起きた後なのだが。
「多少は齧っているとは思いますが…」
 オーギュは一応確認の為に彼に問う。
「…その辺を彷徨く職業なんだから最低限の知識は持ってて当然だろ。だから大聖堂で魔導具の浄化をしてくれって頼んでたんだよ。それをあいつは拒否しやがった。それまでは幾らかの金で浄化して貰ってたのに急に渋りだした」
「そうですか。…原因はあなた方だけでは無さそうですね」
 今まで散々宮廷剣士らからの事情聴取を受け、一方的に責められてきたが、その発言で男は一瞬表情を和らげた。
 司聖補佐という位だから非常に頭の固い人間で、剣士同様話が通じないだろうと先入観があったのだ。
 男は立ち上がると、再び格子に手を掛けオーギュに近付いた。
「それなら調べてくれ。偽名を使っていたんだろうが、それに該当する奴をな。あいつを一発どうにかしてやらなきゃ気が済まねぇ!」
「…それをしてしまえば更にあなたの罪が重くなりますよ。私が出来るのは精々この件を知り、尚且つ精査した上であなた方の処遇について考える位です。あなた方に全く非が無いとは決して言い切れませんが、他者からの干渉によって大事になってしまったのを汲んだ上でこれからについて考えなければならない。それに、各地を転々としてきたあなた方はこの国の人間では無いでしょう?」
 怒りに震える男とは対照的に、オーギュは冷静に説明する。
 落ち着いた声音を聞いた為なのか、それともこの先の自分達の行方に不安を抱いたのか、彼は徐々に大人しくなった。
「ふん。…いずれにせよ、しばらくは牢獄生活なんだろ?せめて食いっぱぐれの無い様にして欲しいもんだな」
「大聖堂で餓死した罪人の話は聞いた事がありません。とりあえず、しばらくはこちらからの聴取は逃れられないのを理解して下さい」
「分かったよ。ただ、今までのような尋問みてぇな事したら一切喋らねぇからな」
「…それはこちらから釘を刺しておきます」
 淡々と説明をしながら、オーギュは彼が口にしていたアーヴィーという名を使った貴族についてロシュに聞かなければと心に留めていた。

 クラウスが臨時で購入してきた衣類と、ロシュがクローゼットから持ち出してきた魔導師向けの法衣を身に付けたルイユは非常に満足げな表情で鏡の中の自分に魅入っていた。
 腰まで伸びた長い髪は、いつもの金色ではなく赤みの増した髪色に変色している。あまりにも長くなっていたので、とりあえず後ろに纏めて縛っていた。
「凄げぇ、別人みたいじゃね?」
「そりゃそれだけおっきくなったらさあ…」
 意味が分からないまま、兄だけいきなり成長している有様にルシルはまだ膨れたままだった。クマのぬいぐるみを抱き、ベッドの淵に腰を据えながら頰を膨らませている。
「リシェが見たら絶対ビビるだろうなー。早くあいつ帰って来ねーかな…でもここは敢えて他人のふりをして騙してみた方が面白いかもなー」
「この部屋に居るのはルイユだって知ってるんでしょ?リシェなら騙されないと思うけど…」
「でもこの格好ならロシュ様の知り合いかもって礼儀正しく挨拶するかもしんねーぞ?あいつ、変に真面目で単純だからな」
 体が著しく成長してしまったにも関わらず、当の本人は非常に楽しそうに見える。
「そんな事言って…父様だってびっくりするよ。だってルイユだけ大人になっちゃってるんだもん」
 双子がそのような会話をしている最中、ロシュは先の事を思案し渋い表情をしているクラウスを呼んだ。
「クラウス殿。ちょっとお話したい事が」
「…え?」
「私の部屋でお話しましょう」
 二人が神妙な顔のまま室外から出て行ったのを見届けた後、ルイユは拗ねたままの弟に体をくるっと向けて「なぁ」と声を掛ける。
 ルシルはぬいぐるみに顔を埋めたまま何?と返事をした。
「ちょっと外に出てみねぇか?」
「えぇ…」
 今の状況を見ても、そんな気分には到底なれないルシルは表情を曇らせたまま再びクマに顔を埋めた。
「ルイユ、今の状況考えてる?」
「そりゃ知ってるけど…こうなっちゃったもんは仕方無くね?もしかしたら戻るかもしんないし」
「これから調べてくれるかもしれないんだよ。君が居なくなったらそれも出来なくなるじゃないさ。それにいきなり体が大きくなるんなら体力だって追いついてないんじゃないの…」
 一度寝ている間にまるで何年も経過したような成長を一気にしてしまった分、全身の負荷も相当なものだろう。寝ている段階で全身に苦痛を受けてきたのを思い出しながら、ルイユは腕を組み「うーん」と唸った。
 まだ名残があるのは確かに否めないが、ずっと寝ているのも何か違う気がする。それに、寝っぱなしなのは好きでは無かった。寝れば寝る程、余計体がしんどくなってしまう。
「一応ちゃんと歩けるぞ。まぁ、節々が痛いけど」
「駄目じゃん。危ないよ…大体、ロシュ様に迷惑掛けてこうなったんだから今は大人しくしなよ」
「駄目かぁ…ロシュ様に迷惑を掛けちゃったのは悪いとは思ってるよ。でも同じ部屋にずっと居るのも性に合わないって言うかさぁ」
 せめて今回は大人しくしていて欲しい。これでまた勝手に外出でもされたら、クラウスも黙ってはいないだろう。
 双子を溺愛する父親も内情を知れば流石に怒ってラントイエから出してくれないと思う。
 落ち着きのない兄に対し、ルシルは溜息を漏らした。
 しばらくすると、再び扉がノックされてクラウスが部屋に入って来た。
「おう、おかえり」
 見慣れない姿のままのルイユに、脳がまだ追いついていないクラウスは他人から挨拶されているかのような錯覚を覚えていた。
「ルイユ様。とりあえず大聖堂の医療棟へ行きましょう。何しろ急激な成長なので原因を突き止めなければなりませんし」
「えぇえええ…面倒くさー。別にいいよぉ」
 彼が医者を嫌がるのはいつもの事だ。診察をされるだけでも嫌らしく、子供のように頰を膨らませる。
「別に体が痛いだけでどこも悪くねぇし」
 クラウスはそれを知っているからこそ彼の言い分をスルーして躱す。
「良くないからそう言ってるんでしょう。今のあなたは明らかに異常な状態なんです。一旦屋敷に戻って旦那様にも説明しに行かなければならないし…あなたが診察されている間、私はロシュ様とラントイエに行きます」
 クラウスがロシュと一緒に席を外すと聞いたルシルは、「僕は?」と困った様子で首を傾げた。クラウスの背後に居るロシュがふっと微笑み、大丈夫ですよと宥める。
「リシェが早退して戻って来るので、一緒にここで待っていなさい」
「ほんと?」
「ええ。大聖堂の中でならご自由に移動しても構いませんから。お留守番出来ますか?」
 不安な気持ちを抱かせたまま、ルシル一人で待たせるのも酷だろう。
 なかなか宮廷剣士の任務に就けないのは申し訳無いと思うが、リシェ本人も兵舎側も理解してくれている。
 リシェが戻って来てくれると聞き、ルシルも「なら待ってるよぉ」とクマを抱き締めながら言った。
「何だよぉ…俺もリシェと遊びてぇのにさぁ」
「あなたはとりあえず体の具合を診て貰ってからです」
 ぶんむくれたルイユに、クラウスはぴしゃりと言い切った。これ以上余計な動きをして欲しくないのだろう。
 厳しく行動を制限してくる世話役を見ながら、外へ行こうとする兄を止めておいて良かった…とルシルは安心していた。
「ではルイユ様。早速医療棟へ向かいますよ」
「あーあ…早く済ませてくれるんならいいけどよ」
 面倒臭そうに文句を言いながらゆっくりした歩調でクラウスの前に出る。彼の身長はクラウスよりは低いものの、目線をすぐ捉える位の高さになっていた。
「ほう…」
 ふっとクラウスは目を細める。
「何だよ?」
「あなたは大人になるとこんな感じになるんだなと…旦那様もさぞかし驚かれる事でしょう。一時的だといいんですが」
 イケメンだろ?とにっこりと笑いながら数歩進むと、彼は突然かくりと体が傾きバランスを崩した。
「おおっと」
 よろめいた所でロシュの腕が伸びて彼を支える。
「大丈夫ですか?」
「おー。足にあんまり力入んねぇなぁ…何だろ」
「いきなり大きくなった事で体が追いついていないのでしょう。ゆっくり歩きましょう」
 そういうものなのか…とルイユは何となく納得した。
 確かに体の節々がギシギシしていたので、何かしらの負荷がのし掛かっているのだろう。現に、数歩歩いただけでもいつものように足に力が入っていかなかった。
 …まるで熱病明けのように。
「ルイユ様、手をお貸しします。ほら」
 元気に見えていて、かなり衰弱気味なのだろう。下手をすれば骨折してしまうかもしれない。
 クラウスはルイユの前に立ち、彼の手を優しく引いた。
「背負ってくんねぇの?」
「そこまで大きくなっているなら私には無理です。頑張って歩いて下さい」
 体格は大きくなっても中身はまだ幼いままなのが分かる。今までは普通に背負える位だったのが、いきなり自分と同じような背丈になっているのだから流石に無理だとクラウスは呆れた。
「ルシル」
「はぁい」
 部屋を出る前に、ロシュは留守番で残るルシルに声を掛ける。彼もまた不安な気持ちを抱いたままだ。
「ちょっとだけ我慢していなさいね」
 まだ一睡もしていないロシュは、疲れの残った顔で優しく微笑む。
「うん。リシェが来てくれるまでこの子と一緒に居るよぉ」
 ぬいぐるみを抱き締めたまま、ほんわりした笑顔でロシュを安心させた。
 ベッドでクマを抱き、ゆらゆらしている彼にクラウスも「良い子にして待っていて下さいね」と声を掛けた後、そのまま室外へと出て行った。

「何お前」
 一旦自室で睡眠を取った後、心身共にすっきりしたスティレンは外出先で出会った従兄弟に怪訝そうな表情を向けながら声を掛けていた。
「任務に就く前にすぐ帰宅命令?」
「………」
 アストレーゼン大聖堂、中庭内カフェテリア。
 スティレンは時間があればここにある露店のカフェで好みの紅茶を嗜みに足を伸ばしている。
 臨時で休暇を得たのはいいものの、ずっと寝ているのは体にも良くないと散歩のついでにこちらに立ち寄っていたのだが、当日任務にも関わらず異常に早い時間帯に司聖の塔へ戻ろうとしているリシェを見つけたのだ。
 リシェもまた、声を掛けてきたスティレンの姿を見て眉を寄せる。
 似たような雰囲気を持つ二人は、同じ表情のままお互い見合っていた。
「何だお前」
 そして同じ事を言い返す。
「即席で休暇を取った割には随分と元気そうじゃないか」
 普通に任務に就いても差し障り無かったんじゃないのか?と普通に言って退ける彼に、スティレンは馬鹿な事言わないでよと一喝する。
「鈍いお前には分からないだろうけどさ」
 リシェの感覚では別に寝ていなくても構わないようだが、美と健康に人一倍気を使うスティレンにとっては死活問題だ。
「大体、昨日の夜は結局一睡もしてなかったんだから仕方無いじゃない。全く、誰のせいだと思ってるのさ…ま、お陰でゆっくり寝る時間も貰えたからいいんだけど。でもずっと寝てる訳にもいかないし」
「………」
「…で、お前は兵舎を門前払いされて戻って来た訳?」
「門前払いじゃない。ロシュ様から緊急で呼び出しを受けたのだ」
「へぇ…塔から兵舎までの連絡ツールって何なの?まさかロシュ様が直々に足を運ぶんじゃないだろうし」
 まさか伝書鳩などという古典的な物を使ってはいないだろう。鳩を手懐け、訓練するのも骨が折れそうな上に専用の飼育小屋も作らなければならないのだ。
 昔は兵舎に存在していたらしく古びた飼育小屋があったが、それも既に使われていなかった。国内に点在する駐屯所に往復させる為に専用の小屋があったようだが、連絡手段が少なかった昔だからこそ可能だった事で、今ではかなりのコストが掛かる為に撤去されている。
 飼育代や訓練の為の人員確保、更に世話役などの事を考えればそうならざるを得なかった。
「ロシュ様が直接ゼルエ士長に魔送筒を送るんだ」
「あー…」
 一般的には魔力で書簡を送る事は不可能に近いが、ロシュなどの高魔力を持つ者であれば手紙自体に魔力の糸を絡め、相手側に直接輸送が可能だ。
 ただし明確な送り先が分かれば、の話。
 魔法の力が無い一般民は城下街にある総合配送所が引き受けている。
「貰った後はどうしてるのさ?仮にも司聖からの手紙でしょ?何らかのアクシデントとかで悪用されたりとかしたら」
 流石にロシュからの魔法が遮断されるのは考え難いが、ある意味無防備にも見える。昨晩の経験で、魔法も脆さがあるのだと思い知ったせいだろう。
 だがリシェは、やや考えながら彼の疑問に応える。
「大抵が俺への呼び出し中心だから大した事は書かないとは思うけど、受け取った手紙はすぐ廃棄してるようだ。ロシュ様からもそう言われているらしいし、回数が多くなればその分嵩張るからな…」
「へぇ」
「仮に送っている時に外部から干渉されたりする事は無いと思うぞ。しっかり相手に届くまで追跡してるだろうから…セキュリティに関してはオーギュ様から煩い位に注意されてるし」
 なるほどね、とスティレンは少し納得した。
 高い魔力を持っている人間だからこそ可能なのだろう。
「もういいか?」
 リシェはスティレンに問う。
「は?」
「質問は終わりかと思って…」
「………」
 相変わらず素っ気無く、非常に事務的な言い方にスティレンは何だこいつと心底思った。
「無いなら帰る」
「あっそう。…どんな用事で戻されるのか知らないけど、面倒なら断るのも大事だと思うけどね。毎回無駄な往復するの、嫌じゃないの?」
 基本的に自分の事しか考えていない生き方をしているスティレンには、献身的なリシェの行動がいまいち理解出来ないらしい。このアストレーゼンの宮廷剣士としてここに居るのに、ロシュの一声で行動を制限されてしまうのはどうなのか、と。
 自分ならば面倒臭がって何らかの理由をつけて断りそうだ。
 リシェはきょとんとした顔のまま、何故?と首を傾げる。
「俺はロシュ様の側に居られるのは嬉しい」
「………」
 彼にしてみれば、その質問自体無意味だった。
 スティレンは変に胸が締められる気分に陥る。それが一体何なのかは分からないまま、反射的に「…あっそう!!」とヒステリックに返した。
「そうだったね。お前はそういう奴だったよ。忘れてた。聞くだけ無駄だった」
「…そうか。じゃあな」
 スティレンの言葉を聞き流すように、リシェは再び塔の方へ向かってそのまま歩き始めた。彼の背中を見送りながら、スティレンは舌打ちしつつどっかりとカフェの椅子に腰掛ける。
 カフェ内の客席用の椅子は全て座り心地に力を注いでいるらしく、どのような体格でも気持ち良くフィットしてくれるのでスティレンは気に入っていた。
 大聖堂内にある事から、利用客も多いのでメンテナンスもしっかりしている。閉店時にはなるべく外気や雨に晒される事が無いよう、全て撤収する位の力の入れようだった。
「…ふん。何さ、生意気に」
 優雅に脚を組み、注文していた紅茶をゆっくり飲み込んでいると、今度は別の場所から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「スティレンー!」
 その声に、スティレンはぴくりと耳を傾ける。しかし、あまり聞き慣れた声では無かった。自分にあだ名呼びをする位だから、そこそこ知れた相手だと思うのだがいまいちピンとこない。
 不意に柑橘系の爽やかな匂いが鼻を掠める。
 誰かの香水が風に乗ってきたのだろう。スティレンは声が聞こえた方へ目線を向けると、その先に真っ白な法衣を身に纏う司聖と、彼と似たような背丈のキツそうな男、そして車椅子に乗せられている髪の長い見知らぬ少年が居る。
 リシェはもう塔へ向かっているというのに、ロシュが何故ここに居るのだろうかと不思議に思っていると、車椅子に乗せられた少年は明るい表情で「よう!」と声を掛けてきた。
 しかしスティレンは、その相手が一体誰なのか見当も付かない。
「え?…誰なの?」
 疑問を抱きながら相手を見ていると、彼はしてやったりというような様子で何故か嬉しそうに笑っていた。
「こんにちは、スティレン。ゆっくり眠れましたか?」
 早朝振りに顔を合わせたロシュは、やはり疲労が溜まっているのか普段よりは元気が無い印象だった。あれから様々な後処理に追われていたのだろう。
 スティレンは椅子から立ち上がると、改まって頭を下げた。
「ロシュ様こそ、お体は大丈夫なのですか?全然休めていないのでは」
「私の事はお気になさらずに…一段落したらゆっくりさせて貰うつもりなので。ちょっと状況が変わって、緊急に検査して貰わないといけなくなったものですから」
「緊急…?」
 スティレンはちらりと車椅子に腰掛ける少年に目を向ける。
「この人達は?」
 見覚えの無い二人を交互に見ながらロシュに問い掛けると、彼の隣に居る青年は丁寧に頭を下げながら自己紹介を始めた。
「お初にお目にかかります。私はクラウス=フラディカ=ダンゲルクと申します。ラントイエ地区にあるランベール家でルイユ様とルシル様の世話役を仰せつかっております」
「は…初めまして。ウィスティーレ=ライ=エルシェンダと申します」
 クラウスからの自己紹介で、あの双子の関係者という事は理解出来た。だが、この車椅子の少年が自分に声を掛けてきたのはどういう事なのだろう。
「ええっと…」
 疑問だらけのままのスティレンに、ロシュは苦笑を交えながらようやく説明を始めた。
「スティレン。彼はルイユなんです」
 非常に簡単な説明を受けた瞬間、スティレンは「えっ?」とゆっくりと車椅子の少年に目線を向ける。
「は…??」
「おう、俺だよスティレン。めっちゃイケメン化したろ??髪長くて鬱陶しいけど」
「は?」
 いつもの人を舐めた口調なのは聞き覚えがあったものの、自分が記憶しているルイユの姿ではなかった。
「お前と大体同じ位になったんじゃね?」
「は?」
 どうやら頭の処理が追いつかないらしい。先程から同じ返事しか出てこなかった。車椅子に乗せられたルイユは、世話役を見上げたまま「何か同じ事しか言わねぇんだけど」と不思議そうにしている。
「無理も無いでしょう」
 顔見知りなら当然、目の前の現実を受け止め切れないのだろう、とクラウスは一息吐いた。
「いきなり成長して普通に声を掛けても理解出来るはずも無い。私ですら混乱したままなのに」
「マジかー。そんなに変わったか?ふふん、俺がめちゃくちゃカッコ良くなったからビビったろ?」
 よく分からない自信をここぞとばかりに見せつけながら、彼は脚を組み威張る。
 脳内の処理能力が狂ったままのスティレンは、大人っぽくなってしまったルイユにどう対応したらいいのか分からないままだ。
 やっと絞り出した言葉が「何でそれに座ってる訳?」と現実的な質問のみ。何処か怪我でもしてしまったのだろうか、と。
「ルイユ様はこの通り、急激に体が変化してしまったので全体的に体力も追いついてない状況のようで…今検査をしている最中なので移動手段に車椅子を利用させて貰っています。いつものようにフラフラされて、骨折でもされたら困りますから」
 世話役というクラウスの言葉に、なるほど…とスティレンは納得した。
 また変にあちこちに移動でもされて帰れなくなってしまったら余計面倒だろうしな…と。
「本当は遊びに行きたいんだけどさぁ。こんなんなってるけど元気なんだぞ?髪もどうにかしたいし」
 ぶーっと膨れる顔は前と大して変わりが無い。
「ふん…それだけ伸びてたら鬱陶しいだろうよ。せめて髪位結ぶとかしたらどうなのさ」
「ゴムが無ぇんだよ。察しろよ」
 長くなってしまった髪を前から掻き上げているだけで、下を向けばすぐにさらりと落ちてしまう有様。
 髪を纏めるという概念が抜けている為に、全く対処出来なかったのだろう。スティレンははぁっと溜息を吐くと、クラウスに「ちょっと良いですか?」と許可を求める。
「え?…あ、はい」
「彼の髪をとりあえず邪魔にならないように結んでも?」
「構いませんよ。むしろ有り難いです。検査の最中も髪がどうのってうるさくて」
 スティレンは腰に付けていた小さな革製の小物入れを物色し、手触りの良さそうな紐を引っ張り出すとルイユの背後に回った。
 やけに準備の良いスティレンに、ルイユは感心するように声を上げる。
「お前、結えるもんを予め準備してんのか?」
「適当な紐があれば便利でしょ?遠征もあるし、何かに備えておけば困らないからね」
「ほえー…よく考えてんなぁ」
 セッティングには慣れているのか、スティレンは手慣れた様子でルイユの髪を弄り始める。自前の櫛まで使いこなす位の念の入り様だ。
 ルイユは硬い髪質なのか、稀に櫛先がガリッと引っ掛かり「硬った!!」と文句を交えつつもしっかり纏めていく。
「ちょっと、たまに髪を梳かすとか何なりしなよ!硬い髪質だから余計引っ掛かるじゃない!」
「うるせぇなあ、そんなに長くなかったんだから仕方ねぇだろ!」
 アストレーゼン国内ではスティレンは一般の宮廷剣士でしか無いのだが、まるで昔からの友人のようにルイユに振る舞っている。その様子が世話役であるクラウスには若干快く思わなかったようだ。
 それ以前にルイユの言葉遣いも非常に印象が悪いので、後でキツくお灸を据えてやらないとと思った。
 小声でロシュにそっと「彼はどういった立場の方で?」と耳打ちする。
「隣のシャンクレイスからこちらに来てくれた宮廷剣士です。リシェとは従兄弟で、彼もまた名家の出身だとか」
「そうだったのですか。お伺いして良かった」
 予め素性を聞いておけば溜飲が下がる時もある。
 変に注意して揉めるのも御免だ。
 しかし、この狭い環境下の中で言いたい事を言える相手が居るというのは彼にとっては大変有り難い事なのだろう。
 貴族という特殊な世界に身を置いている者は、同じ年齢の子供が居たとしてもそこまでの深い付き合いはほぼ無いのだから。ルイユとルシルは双子だからこそそこまで寂しさは無いが、ロシュのように一人っ子ならば寂しい経験をしているのかもしれない。
 目の前でぎゃあぎゃあ言い合いをしている二人を見ながら、クラウスは目尻を緩めた。
「…あぁ、ほんっと硬かった。やっすい櫛だったら先が折れまくってただろうね」
「くっそぉ、ここぞとばかりに引っ張りやがって…後で覚えてろよお前」
 自分の美意識のままに髪をアレンジして非常に満足気なスティレンは、散々髪を引っ張られ痛みに表情を歪めているルイユを見下ろす。
 後ろに纏めてはいるが、少しだけ伸びた髪を残したまま綺麗に仕上がった。がっつりと纏めている訳ではなく後れ毛を作り上げている辺り、彼の流行りを追う姿勢が垣間見えてくる。
 ロシュは仕上がったルイユの髪を見て思わず感動した声を放つ。
「ほぉ…スティレンはとても器用なのですね」
 持ち寄った紐と櫛だけにも関わらず、美しく髪が整うとは思わなかったようだ。
「最近私も髪をどうにかしたいと思っていたのですが纏め方次第で見違えるようになるとは」
「行ける時間が無いとどうにかして綺麗にアレンジしようかって試行錯誤しているので…まぁ、ここで髪を作るとは思わなかったけど」
 でも何もしないよりは余程マシになってると思いますよ、とスティレンは得意気に笑った。
 確かに顔がはっきり見える事で非常に彼の顔立ちの良さが引き立ち、大人びた印象が強烈に付く。
 今まで幼い姿だった為に余計そう感じてしまった。
「ルイユ様」
「何だよぅ…」
「ちゃんとお礼を言いなさい」
「言うけどさぁ…スティレンがやりたい放題やってくれたようなもんじゃねえか」
 普通に縛ってくれても良かったのに、と口を尖らせる。だが同時にクラウスの指がルイユの頰をぐにょりと引っ張り上げた。
「っだだだだだだ!!」
「あなたの為にやってくれたのですから文句を言わない!!」
「分かったよぉ!!」
 髪を引っ張られた後に引き続き、頰まで引っ張られてしまったルイユはクラウスに喚いた。ぴっ、と手を離されると同時に、彼は櫛をしまっている最中のスティレンに顔を上げる。
「スティレン」
「ん?何さ」
「ありがとー」
 何だその棒読みみたいな言い方は…と一瞬顔を曇らせたが、クラウスの手前照れ臭いのだろう。あまり弄っても彼が余計困惑するだけだ。
 礼にはしっかり返事をしなければならない。スティレンは礼を告げた後に紅潮した頰で顔を逸らすルイユを見下ろす。
「ふん…また身綺麗にしたかったら言いな」
 時間あったらの話だけど、と得意気に返した。
「いや、多分俺すぐ髪切ると思う」
「…可愛くないね!!」
 再び言い合う最中、クラウスは軽く咳払いをした。
「ルイユ様。そろそろ検査の時間です。私達は一旦ラントイエに赴かなければなりませんので」
「あぁ…そうでした。仲が良いのでつい忘れていましたね。早めに済ませれば済ませた分、あなたも自由な時間が増えますよ、ルイユ」
 ロシュとクラウスの言葉に、ルイユは中庭の真ん中に掲げられている大きな時計を見上げた。
「あー」
 そうだったな…と改めて思い出したようだ。
「けんさ?」
「そ、検査。ほら、俺こんな見た目になっちゃっただろ?だから何でこうなっちゃったかって調べないといけねぇんだってよ…今までも延々隅々調べられてたってのにさ。今度は魔力関連の調査だと。今の所、体は別におかしくは無いんだけどさ」
 スティレンは「へぇ…」と腕を組んだ。
「ロシュ様をこれ以上お待たせする訳にはいかないでしょう」
「分かったよ…何なら俺が単独で検査室に行ってもいいぞ。クラウスはロシュ様と家に行くんだろ」
 大聖堂の中は昔から良く探索してるしな、とルイユは世話役を見上げた。その分、彼らの時間も大きく短縮するだろう。
「向こうに話はしてるんだろ、どうせ。それなら俺だけ単体で行ってくるわ」
「まぁそうですけど…大丈夫ですか?」
 不安そうな面持ちでクラウスはルイユを見る。本人は大丈夫だと言うが、途中で寄り道などしないかと変な不安に駆られてしまう。
 大聖堂の内部は幼い彼らにとって格好の興味の対象となっているのだから。ここに来る度、ルシルと探検と称して様々な場所に遊び歩いているのを良く知っているだけに、素直に検査に行ってくれるのかと心配になってしまう。
「…は…それなら俺が付いて行ってやってもいいですけど」
「え?」
「どうせ暇だし…要するにそのまま検査室に連れて行けばいいんでしょう」
 唐突なスティレンの申し出に、クラウスはロシュと顔を見合わせた。
「いいんですか?」
 クラウスは申し訳無さそうな面持ちで問う。
「構いませんよ。…まぁ、こんな状況になった責任もちょっとは感じてるし…」
 ルイユは「へぇええ」と変に感動した。
「自分からそう言ってくれるんだ。お前、自分が一番得する事しか考えて無さそうなのに」
「………」
 スティレンは眉を寄せ、車椅子のルイユを見下ろす。
 そもそもの原因は、変な寄り道や無意味に魔物に突っ込んでしまう彼の無防備な行動から始まったというのに。
「この機会に自分の無鉄砲な性格を顧みた方がいいんじゃないの。もうちょっと大人になりな」
「ううん…戻らなかったら考えるよぉ。こんなんでも中身はほら、十四のままだし」
 はぁ…と思わず溜息を漏らした。
 この状況だと何かあれば年齢を引き合いに出してきそうだ。彼らの会話を聞きながら、クラウスは気難しい面持ちで天を仰ぐ。
 そんな世話役の苦労を感じたのか、ロシュも腕を組みながら神妙な表情をした。
「んじゃクラウス。俺、こいつに連れて行って貰うよ。その間どうにかあっちに上手い事言っておいて。でないと家に帰れねぇしな…」
 気楽に考えているのは当の本人のみ。
「…分かりました。では、スティレン殿」
「あっ…はい。お任せ下さい」
 クラウスは改めて手間を掛けさせてしまう事に礼を告げた後、ロシュと一緒に正門方面へと姿を消した。
 二人の背中を見送った後、ルイユは体を伸ばしながら「よーし」と声を上げる。
「何か食いに行こうぜスティレン」
 やはりこう言うのか。
 スティレンはルイユの適当な姿勢に舌打ちする。
「…ダメだって言ってるでしょ!!」
 まるでクラウスが乗り移ったかの如く、スティレンは彼からの誘いを激しく突っぱねた。

 赤褐色の扉がゆっくり開くと同時に、留守番をしていたルシルは顔をぱっと上げる。
「リシェ!」
「留守番していたのか?」
 ベッドの端に腰を下ろし、クマのぬいぐるみを腕に抱き締めたままのルシルは素直にこくりと頷くと室内に足を踏み入れるリシェに謝る。
「宮廷剣士の任務中だったんでしょ?」
「ああ…呼び戻されるのは全然構わないから」
 今日は大聖堂のメンテナンス前のチェックが中心なので、多少自分が抜けても何ら問題は無い。仮に重要な任務を任された状態ならば、他の剣士から顰蹙を買いそうなので軽度の仕事は気持ち的に安心だ。
「そこまで今日は重要じゃないからな」
「そっかあ」
 ロシュの護衛という立場上仕方無いとはいえ、なるべく自分の代替えを他人にさせたくなかった。
 リシェはクローゼットの扉を開け、制服の上着を脱ぐと軽くブラシを掛けながら「お前一人だと不安だろう」とルシルに問い掛ける。
「うーん…でもこういうの、いつもの事だから。ただ今回はね、いきなりあんな風になるなんて思わなかったし」
「あんな風?」
 ルシルの言葉の意味が分からず、リシェはきょとんとした面持ちで首を傾げた。朝に顔を合わせて会話して以来、彼の姿を見ていなかったのでルシルが言う『あんな風』が一体何を示しているのか理解出来ないのだ。
 丸く大きな目をリシェへ向けながら、ルシルは「あぁ」と察する。
「リシェ、ルイユと会っていないんだね」
「会っていないって言うか、朝に顔を合わせてから見ていないぞ」
 あの短時間で何かが起きたのか?とリシェは眉間に皺を寄せた。まさか変な物に変質してしまったのかと思ったが、それだとたった一人の弟であるルシルは平常心では無いはず。
 …変に冷静になっているのでそれは無いとは思うが。
「何かおかしな事があったのか?俺が見た段階だと特に何も無かった気がするけど」
 全く違和感が無いとは言い難いが、直に目で見ていた限りでは特に変調は無かったと思う。
 よく分からない違和感はあったかもしれないが、言葉で言うまでも無かった。何と言っていいのか分からなかったのだ。
「そっかぁ。んんっとね…彼、寝てる時布団を完全に被っちゃう癖があるから分からなかったんだね。どう説明したら良いのか分からないんだけど…ルイユ、寝てる間に大きくなっちゃったんだよねぇ」
「………?」
 寝ている間に大きくなった?
 リシェはルシルの発言に余計混乱した。
「何?」
「だからさ…寝てる間に大きくなっちゃったんだよぉ…」
 一方のルシルも、自分が何を言っているのか分からない様子だ。常識的には有り得ない状況なので、それは無理も無かった。
 他に言いようが無いのだ。
 常識的には有り得ないのを理解した上、自分の目で見たまま、有りのままを言うしか相手には伝わらない。信じるかどうかは本人の目で確認するしか方法が無いだろう。
「大きくって…何?どういう事だ?」
「だからぁ、そのまんまなんだよぉ…でもルイユの事だから、君には限界まで正体をバラさないと思うの。あの子、君の事をとっても気に入ってるから」
「………」
 気に入っているから黙っているとは一体どういう意味なのだろうかとリシェは疑問を抱く。
「外見が完全に変わっているって事か?何でまた」
「それは僕にもあまり分からないよお…夕べ、何かが起きたっていうのはクラウスとロシュ様の話から聞いてたけど。細かい事は僕にも分からないんだ。僕も混乱してたしね…ルイユはあれから身体検査に行ってるから」
 ルシルはクマのぬいぐるみに顔を埋めた。
 ラフな普段着に身を包んだリシェはルシルにさらに問い掛けていく。
「そんな酷い状況なのか?」
「ううん、むしろ本人は凄く面白がってるよ。いきなり大人になったし…一過性のものなのか、それとも変わったまんまなのか調べて貰ってるみたい。ルイユが大人になるとあんな感じになるんだって思ったけど」
「大人って…」
「大人って言うか、そうだね…君よりかはちょっと年上くらいかなぁ…でも、それでもだよ。今まで僕と全く同じだったのにさ、いきなりそんなにルイユに大人になられたら…僕はどうしたらいいのか分からなくなっちゃうよ」
 溜息混じりにルシルはぼやいた。
「そこまで変わっているのか…?あまり想像が付かないけど…」
 ルシルが言うように、一過性のものならばそこまで心配は無いだろう。だがそれが永続的ならば、彼を取り巻く環境や彼自身にも深く影響が出てしまう。
 見かけが大人で、中身がまだ幼いままならば余計に。
「まだ分からないから何とも言い難いな。検査とやらの結果次第だ。お前はそんなに不安がらず、いつものように振る舞えばいい。悲観的になるな」
 どんな状態になっているのか分からないので、今は気休めのような台詞しか口に出せないままのリシェ。
 身体検査をしなければならない程ルイユの姿が変化してしまったのかと考え込んでいると、依然ぬいぐるみの頭に顔を埋めているルシルはぼやくように話を続けた。
「リシェ」
「?」
「ルイユ、少し大きくなったから君に対して凄くアピールしてくると思うの」
「…何故?」
 他人からの好意に対しては非常に鈍感なタイプのリシェは、ルシルの発言の意味を全く汲み取れずに疑問符を投げてしまう。こういう無自覚だからこそ、刺さる者には刺さってしまうのだろう。逆に敏感過ぎる位のルシルは「君って…」とぬいぐるみを抱く腕に力を込めた。
「もう…鈍いねぇ。ロシュ様の影があるからルイユも諦めが付いてるだろうけど、ペットに君の名前付けて可愛がってる位なんだから気付かない方がおかしいと思うよ」
「犬に俺の名前を付ける段階で止めて欲しかった」
 リシェは脱力しながら愚痴った。
 また顔を合わせた際に、自分は同じ名前の犬を何と呼べばいいのだろうか。
「だってぇ…あの子はこれって決めたら曲げないんだもん…」
「………」
 その発言で、ルシルも諦めているのだろうというのが良く分かった。これ以上は突っ込めないとリシェが肩を落としていると、塔の下から大きな魔力が浮上してくるのを感じる。
 急激な魔力の流れに、ルシルは「んんっ?」と反応し身を縮めていた。
「オーギュ様だ。緊張する必要は無い」
 螺旋階段を渋る彼は、持ち前の魔力を使って浮遊してここまで上昇してやってくる。魔力を多少でも齧った者ならば、その急激に近付いて来る強い魔力に対し反射的に全身が強張る感覚を覚えてしまうのだ。
「あぁ、オーギュかぁ…顔を合わせる度に魔力の度合がおかしくなっちゃうから、毎回びっくりしちゃうんだよね」
「そうなのか。俺はほぼ毎日顔を合わせるから…」
 リシェには然程感じないのだが、稀に会う術者ならそう感じてしまうのだろう。魔導師として自分の魔力をひたすら貪欲に追求するタイプなので、少しずつ能力を高めているのかもしれない。
 彼の身に宿しているファブロスの影響も重なっているのだろう。召喚獣と契約した術者は、魔力の変動が日毎に大きな変化をもたらすと言われている。術者の具合によっては中に居る召喚獣はその身から離れたり、またはくっついたりを繰り返すらしい。
 オーギュに関しては、ファブロスに対し人間としての生活に慣れさせる為に敢えて分離させている時もあった。
 自分の身に何かあった時の為に、術者に頼らずとも人間として生活出来るようにしたいのだろう。
 ルシルはベッドからひょいと降りると、クマのぬいぐるみを抱き締めたまま「オーギュが来たなら挨拶しなきゃね」とほんわりした笑みを浮かべた。
 率先してリシェの私室から出て行ったルシルの背を追うような形で、リシェも自室を出る。
廊下を出るとすぐ右側にはロシュの私室へと繋がっていた。
 護衛であるリシェの部屋は、元は倉庫の代わりとして存在していた場所だったが、ロシュが司聖となってからは来客用の部屋として空けていたもの。ルイユやルシルが遊びにやって来た時に宿泊用として彼らが良く利用していたが、現在は司聖の側で護衛の役目を担う白騎士リシェの部屋だ。
「すぐにロシュ様のお部屋に行けるから便利だよねぇ」
「ああ」
 ルシルは軽いノックの後、主人の返事を待たずに司聖の部屋へ足を踏み入れていた。
「オーギュー」
 ルシルが部屋へ侵入してきたのとほぼ同時に、オーギュも普段通りベランダから室内へ入ってくる。
「おや…ルシルじゃないですか」
「んふふ、相変わらずイケメンだねぇ。さっきは美味しいパフェ、ご馳走様ぁ」
 顔を合わせる度に同じような挨拶をする大人びた少年に、オーギュは思わず苦笑いを見せた。褒めてくれるのは嬉しいが、彼は誰にでも挨拶の際には褒め言葉を添えてくれるのだろうか。
「リシェ」
 朝方には出払っていたリシェの姿もあったので、不思議に思いながら声を掛ける。その一方で、リシェもやはり朝に出たにも関わらずこの場に居るのは非常に不自然に見えるのだろうと思った。
「ロシュ様からのご指示で戻って来ました」
「そうだったんですね。…手間をお掛けしてしまいましたね」
「いえ、今日の任務は特に難しい内容でも無かったので。俺一人が欠けたとしても大丈夫だと思います」
 ぬいぐるみを抱き、頭部に顔を埋めながらルシルは説明する。どうやら抱き心地が非常に気に入ったらしく、リシェの所有物にも関わらず片時も離さない模様。
「ロシュ様、僕がここで留守番の間寂しいだろうからってリシェを呼び戻してくれたの」
「ルイユは医療棟に行っているんですね。まだ時間はかかるでしょうし…」
 そう言いながら、オーギュは外部の時計塔に目線を向けた。ずっとこの場に缶詰状態でいるのも幼いルシルにはきついはずだ。
 しばらく考えた後、彼は再び二人に顔を向ける。
「私はロシュ様が戻られるまでずっと部屋に居る予定なので、良かったら大聖堂を散策しても構いませんよ。まぁ、見慣れているでしょうけどずっとここに居るよりは気分転換になるのでは?」
 開け放った窓から、ふわりと良い風が入り込んで来る。リシェは風と一緒に舞い上がる薄いレース仕立てのカーテンの揺らぎを見守った後、いいのですか?と逆に質問した。
「あまり出歩かれてはクラウス殿もお困りになってしまうのでは…」
「その為にあなたが居るのでしょう?それに、ルシルはちゃんと決まり事は守ってくれますよ」
 好奇心旺盛なのは共通している彼らだが、活発なルイユと異なりルシルはまだ慎重な面がある。彼らの性格や性質は、長い付き合いであるオーギュには良く分かっていた。
 リシェは同じ位の背丈のルシルを横目でちらりと見る。彼もまた成長期なのか、出会う度に少しずつ目線が違ってきたような気がした。
 ルシルは開花した花のような笑顔で「うん、言いつけはちゃんと守るよぉ」と返事をすると、リシェの腕に抱き着いた。
「リシェも一緒ならいいんでしょ?」
「ええ、構いませんよ」
「じゃあ僕、図書館に行きたいの。それならいいでしょ?クラウスは一時間だけって制限してくるからあまり物色出来ないの」
 意外な行き先に、思わずリシェはオーギュと顔を見合わせた。遊びたい盛りの彼らだとは思っていたが、ゆっくり吟味したい場がまさかの図書館だとは。
 リシェはふっと軽めに微笑むと、「話が合うな」と言った。
「オーギュ様」
「ええ。行ってらっしゃい…ただ」
「え?」
 不意に図書館に住まう異質な人物の事を思い出してしまった。きょとんとする二人を前にして、オーギュは言葉を紡ぐのを止める。
 流石に彼らのような年齢の子供相手には変な言動はしてこないだろう。
「いえ、まぁ…大丈夫でしょう。怪我をしないように気をつけるのですよ」
「はい。ありがとうございます」
「それにしてもルシル、図書館に行きたいとは珍しいですね。あまり興味が無いのかと思いましたけど…何の本をお探しですか?」
 ぴっとりとリシェにくっついたままのルシルは、オーギュの質問に対し屈託の無い笑みを向けた。
「いっぱいあるよぉ。魔導書も勿論だけど、あれ難しい言葉とか沢山あるから…薬草の本でしょ…それに」
「それに?」
「あそこ、たまに大人の御本とかあるの。この前はねぇ、肉欲の調教と秘密の穴っていう」
 けろっとしながら意味深なタイトルを言い放ってくるルシル。その一方で、隣のリシェは思わず顔が引き攣った。
「お前…いつもそんな本を読んでいるのか?」
「いつもって…たまにあるんだよお。普通の棚の中に紛れ込んでて」
 そうだ、彼はこの年齢にはおかしい位の早熟な性格だった…とオーギュは思い出すと同時に、「リシェ!」と臨時の保護者役に向けて声を上げる。
 凄い剣幕に、びくんと身を竦めたリシェは半分怯えながら彼を見上げた。
「は、はい」
「この子がもし変な本を手にしたら全力で止めて下さい!!全く、まだ教育に悪過ぎる本を入れているのかあの男は!!」
 あの司書が居る図書館では、やはり信用出来なかった。何処に何が潜んでいるのか知れたものではない。
 偶然紛れ込んでいるのかもしれないが、仮にもこのアストレーゼンの大聖堂内に鎮座している由緒正しい国立図書館にそのような物を導入している事自体おかしいのだ。しかも子供の目に付きやすい場所に如何わしい本を突っ込むとは、管理が杜撰な証拠。責任者を掛ける立場上、しっかり管理して貰わないと困る。
 今度徹底的に抗議文を叩きつけてやらなければ、と鼻息を荒くした。
「わ…わかりました…」
 びくびくしながらリシェは頷く。
 オーギュが何に対して非常に怒っているのか、彼は痛い程理解していた。

 暇だからという安易な理由でルイユに付き添っていたスティレンは、医療棟の職員から聞きなれない言葉を聞いて眉を寄せていた。
「五体変容?」
「ええ。簡単に言えば、強度の異質な魔力による負荷が全身に掛かったと思って頂ければ。外部から何らかの圧力によって身体への影響を受けてしまったのでしょう」
 スティレンは先程まで車椅子で元気に笑っていたルイユをちらりと見る。彼は現在、アストレーゼンの医療班によって意識を低下させている状況に置かれていて、処置室の中でひたすら眠り続けていた。
 異質な魔力って何なんだよ…と思い頭を押さえるスティレンは、「異質なのって何さ?」と白衣姿の職員に問う。
 彼は相当なベテランのようで、腕に巻いている腕章には様々な印が印字されていた。
 それでも今回の件に関しては相当複雑な思いをしているようで、ひたすら眉間に皺を寄せている。
「それはこちらも判断しかねます。何しろ我々は魔法というカテゴリーに関しては無知なもので…医療班にとって、こちらで知り得る知識の範疇以上の出来事に関してはお手上げになってしまいます。身体面で急激な成長を遂げてしまうというケースは、我々の理解を超えているのですよ。班の中でも魔力を持つ者は居ますが、彼もまた今回は医療班が抱える問題を超えているとすら言っております。むしろ、こうなるに至ってしまった原因を知りたい位です」
「原因…」
 スティレンは昨晩の出来事を頭に思い浮かべた。
 ロシュが魔物を鎮静化させた際、ルイユは終わったと思い込んで不用意に近付こうとしていたが。
「…あ」
 一言言い掛け、スティレンは顔をふっと上げる。
「あいつの全身調べたんだっけ?」
「え?…あ、はい。まぁ。外傷があればそこから原因が掴める時もあるので」
「あぁ、そっか。…背中に何か傷跡は?」
 続けての質問に、職員は持っていたカルテをペラペラと捲る。そうですね…と前置きした後、「特にありませんでしたよ」と結果を告げた。
「え?…そうだったの?それはおかしい」
 記憶を辿れば、ルイユはあの時背後から魔物の一部である触手のようなものに勢い良く刺されてしまったはず。あの時、自分も居たので覚えている。
 それが無いとはどういう事なのだろう。
「おかしいとは…?」
「あいつが倒れた時、俺も一緒に居たのさ。…まぁ、状況を知ってる人がロシュ様しか居なかったから説明し難かったのかもしれないけど…あの人は少し離れた場所に居たからね」
「なるほど。彼が運ばれた際に何故居合わせていなかったのです?それなら対処も変わったかもしれないのに」
 ごく当たり前の事を質問するものの、職員の言葉はスティレンをやや不愉快にさせた。ムッとした表情で「俺は一般剣士なんだよ」と返す。
「そもそも変な時間までアストレーゼンの貴族様のこいつに付き合わされて、真夜中に魔物の討伐までさせられた上で一睡もしていなかったっていうのに。大体あいつがあんな状態になったのだって、朝に起きてからだったんでしょ。こっちも寝てなくて限界だったっての!やっと軽く寝てちょっとすっきりしただけで、疲れが全く取れてない訳じゃないんだからね!あの姿になったのだってついさっき知ったばっかりなのさ。そこまで他人の世話なんてしてらんないよ!」
 スティレンの猛抗議っぷりに驚いたのか、職員は呆気に取られた表情を見せる。しかしすぐに色々察したのか、申し訳無さそうに肩をすぼめながら「済まないね」と謝罪した。
 彼もまた、色々と思う所があったようだ。
 貴族のタイプも様々だ。誰からも進言や忠告を受けない立場を自覚して我が物顔で周囲を困らせるか、逆に謙遜し周りへの配慮を怠らないように気を配るか。気さくな貴族も居れば、我儘し放題という者も決して少なくは無い。
 一方でシャンクレイスでは誰にも文句を言われない立場であるスティレンも、こちらに来て良く身に染みているのだろう。
 向こうではエルシェンダ家の我儘放蕩息子と陰で文句を言われていたが、隣国アストレーゼンではあくまで一般人なのだから。
「君もまた被害者か」
「ふん。そうに決まってるでしょ…てか、顔見知りだから仕方無しに付き合ってあげてるだけさ」
「ふむ…なるほど。…倒れるまで一緒だったという事は、何かしら原因になる物があるとは思うんですけども」
「確定的だとは断言出来ないよ。あいつはあいつんで危ないから近付くなって注意されても、勝手に動き回る位のクソガキなんだから。あいつが倒れる前、魔物の断片に背中から刺されたんだよ」
 カルテを確認していた職員の表情はスティレンの証言によって停止する。
「…何と?」
 ふっと目を通していた書類から目線を離し、スティレンへと向けた。
「話を聞いていなかったの?だから、魔物からの断片…っていうか触手みたいな変な物に突き刺れてたんだよ。だから体に傷が付いていなかったっていうのは有り得ないって言ってるのさ。魔力の関係ならもしかしたら消えちゃうのかもしれないけど…倒れる位だったら傷はあってもおかしく無いと思ったんだけど?…あんたら、ちゃんと調べた訳?」
 苦情じみた発言を受け、職員は口元に手を当てしばらく考え込む。数秒した後、ちょっと時間を下さいとだけ告げてその場を去って行った。
 再び訪れた待機時間に、一人取り残されたスティレンは近くに置かれていた待機用の長椅子にどっかりと腰を据え、しなやかな脚を組む。
「はぁ…また待たされるのかよ…」
 待つ事は嫌いなのに、何故付き添いを自ら申し出てしまったのだろう…と今更後悔しても遅い。
 医療棟内は基本的に関係者以外の出入りは制限を設けているので人々の往来は控えめだった。
 魔法の力が蔓延する世界で人の手による治療方法はどちらかといえば古典的だが、魔法による治療方法は限られた者しか受けられない上、無闇に術者が施す事は禁じられていた。元々の原因が判明しないまま魔法による治癒を施せば、余計症状が酷くなってしまう可能性もあるのだ。
 転倒など、原因が分かりやすい怪我の場合は回復魔法による治療も可能だが、今回のルイユのように魔物の力による外傷では身体の中に異質な物質が混入されている恐れもあった。その場合、一旦専門家による検査が必須となっている。
 長い待機時間によってまた眠気が再発してきた。
 ふあ…と手で口を押さえながらあくびをしているスティレンの前を、白衣姿の職員数人とクリーム色の寝間着を身に着けた若い男が通過していく。
「………」
 男は両手に枷を付けられ、職員の一人によってロープで繋がれていた。
「(あいつ…)」
 スティレンは心の中で通り過ぎて行った男の後ろ姿を見送る。
「(ロシュ様の名前を騙ってた奴だ)」
 悪意が充満した魔力に取り込まれ、巨大な醜い魔物に変異していた旅人。彼もルイユと同じように身体検査をしているようだ。ただ、その外見はぱっと見て分かるように、顔から痛々しい裂傷跡が確認出来た。
 恐らく、ロシュの名を騙って人々を騙していた事から元々綺麗な顔立ちだったのだろう。
 それなのに、魔物となって暴れていた際に負った怪我がそのままの状態で残ったらしい。そう思うと少し心苦しい気持ちになったが、それもまた自分達が蒔いた種だ。同情の余地は無い。
 囚人を連れた職員達は、まるでスティレンの存在を知らないかのようにそのまま奥へ姿を消してしまった。
 そこから間を置き、ようやく先ほどの職員が急足でスティレンの元へと戻って来た。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいよ、これまでずっと待たされてきたんだから。…で?何か見つかった?」
「先程申し上げたように、やはりそのような傷跡は見受けられませんでしたね。ただ」
「ただ?」
「魔力による体内鑑定でも、全体的に異常なレベルの急成長を遂げています。まだ十四歳との事ですが、その年齢とは思えない程です。骨も急激な成長で悲鳴を上げている状態ですし、しばらくは安静にして貰うしか無い。一番怖いのは、このまま成長し続けるのか、ここで止まってくれるのか現段階では分からない。とにかく不安要素が大きいのです。仮にこのまま成長し続ければ、死に繋がってしまうかもしれない」
「…これからまた大きくなるかもしれないって事?」
「はい。これからまた調査をして、原因を突き止めていく必要があります」
 結局原因は分からないままなのか…と頭を垂れていると、「班長!」と処置室から別の職員が声を掛けてきた。
 環境に似つかわしく無い騒々しさに、スティレンと対峙していた職員は眉に皺を寄せて「どうしたんだ?」と怪訝そうな顔を向ける。
「ここは病棟だ。少しの騒ぎも患者に差し障るだろう」
「す、すみません…」
「まぁいい。…何か変わった事があったのか?」
 突如姿を見せた比較的若い職員は、一旦スティレンに目を向けた後で声のトーンを低くしつつお耳に入れたい事が、と前置きした。
「………」
 一緒に居た彼は、ここの責任者の一人なのだろう。少しだけスティレンに目線を向けた後で、詫びを告げて同僚の声に耳を傾けていた。その際、彼から何かを受け取ると、神妙な顔付きで再びそれを相手に戻す。
「この破片は一旦魔力鑑定行きだ」
「は、はい!では」
 一連の動きを黙って眺めていたスティレンは、そそくさと一瞬のうちに立ち去って行った職員の背中を見届けながら首を傾げる。
「何か動きがあったの?」
「…ええ。対象者のルイユ様の体内から結晶のような塊が抜け落ちたそうです。まぁ、検査中だったのできっかけになる物が出てくれてこちらは助かるのですが…鑑定結果は少しお時間を頂きますが、そう長い時間拘束させるのも困るでしょう。今回はこの辺で一旦検査を終了させて貰います」
「…そう。あいつも同じ場所に縛られっぱなしだと飽きるだろうからね。早いとこ、起こしてあげて。あいつの関係者の報告は俺から話を付けておくから」
 そう言い、スティレンはガラス越しの向こうで熟睡しているルイユの姿に目を向けた。彼は数人の職員に囲まれながら、ひたすら眠りの状態をキープしている。
 お気楽なもんだ、と内心呆れてしまった。
「一応こちらも報告書を作成しておきます。その方が説明しやすいでしょうから」
「そうだね。そうして貰った方がいい。それに、まだ調査の段階だろうからね…」
 …まだまだこいつには時間がかかりそうだ。
 職員の申し出に応じながら、スティレンは妙にどっと疲れを全身に感じていた。

「…やぁやぁ!久し振りだねぇ、リシェ君!そしてルシル君もまさか一緒だとは」
 アストレーゼンの大聖堂内にある図書館は、日中は様々な人種の往来が激しい。大聖堂で居を構える者だけで無く、学者や魔導士、果ては勉学熱心な一般民の出入りも多く見受けられ、館内の職員達は来客の対応に忙しく動き回っていた。
 そんな中、最高責任者であるカティルは二人の姿を目にするなり手を上げながら声を掛けてきた。
 リシェもまた久し振りの図書館と、声を掛けてきたカティルの姿に「お久し振りです、カティル先生」と丁寧に頭を下げる。
「こんにちはぁ」
 ルシルも同じようにカティルを見上げた後、少し照れ臭そうな表情で挨拶を返した。
「しばらく振りだったねぇ。リシェ君はやっぱりあちこち回って忙しかったのかな?」
「なかなか時間の使い方が難しくて。俺の要領が悪いのかもしれませんが、ようやくここに顔を出す事が出来ました」
 カティルはリシェとルシルを交互に見ながら、にこにこ微笑み頷く。
「そうかぁ。まさかルシル君も連れて来てくれるとは思っていなかったよ。ルシル君も勉強熱心だからね、ラントイエに住んでるから、あまり大聖堂に来られないのは非常に勿体無いと思っていたんだ。君達が居ない間、色んな本が入荷してるからね。ちょっとは楽しめると思うよ」
 リシェは館内を少しだけ見回す。
 今日はいつもより人の気配が多いような気がした。館内の出入口に立て掛けていた看板に、ささやかな催し物を知らせている旨の内容が書かれた看板があったのでその影響もあるのかもしれない。
 通常時よりも書籍のレンタル料が安価だったので、それを見た書物好きが挙って足を踏み入れているのかもしれない。不意にそれを思い出し、リシェはオーギュにも教えてあげるべきかなと思った。
「えへへ…ここはちょっとエッチな御本とかあるから、僕は大好きなんだぁ…」
「!!!」
 ルシルの意味深な発言に、リシェはぴくりと反応してしまう。オーギュに釘を刺されている以上、この発言は聞き捨てしてはいけないような気がした。
 怖いオーギュの顔を思い出しながら、リシェは早熟過ぎるルシルに目線を向ける。彼がそのような如何わしい本を手にするのをとにかく阻止しなければ、こちらに雷が落ちてしまうかもしれない。
「おい…お前、それは元から知っていたのか?」
 引き攣ってしまいそうな顔面を抑えつつ、リシェはルシルに問う。まだあどけない、可愛らしい顔をしながら何という発言なのだろうか。
 ルシルはにっこりとリシェに目を向けると、「知ってるよぉ」と返した。
「でもねぇ、借りたとしてもクラウスに検閲されちゃうから、すぐに返却されちゃうんだよねぇ。仕方無いからエッチなのはここでちょっとだけ覗く位なの。でもほら、僕が興味があるのは魔法とか野草とかそんな感じだから…」
 そう言いながら肩を落とすルシル。
 どうやらとても興味があるものの、保護者によって有無を言わさずシャットアウトされてしまうようだ。
 …流石保護者と言うべきか。
「そうか。…まぁいい。くれぐれも余計な本は手にするなよ」
 明らかに引いたような表情をするリシェに、ルシルはキョトンとした面持ちで「分かったよぉ…?」と首を可愛らしく傾げていた。彼はリシェが何に引いているのか、全く分からない様子だった。
 刺激的な物に反応してしまうのはいつもの事で、早熟なルシルにとっては至って普通の事なのだろう。
「ルシル君は何にでも興味を示すから、将来がとても楽しみだよ。…今日は何のジャンルの本を探しに来たのかな?」
 ルシルの目線に合わせて屈んで頭を撫でてカティルが話題を変えると、彼は思い出したようにそうだ!と顔を上げた。
「えっとね…魔法の力で人間って急に成長出来るものなのかなって。昔の御本とかでそういうのある?記録みたいなものとかぁ」
「んん?…随分とマニアックな事を調べようと思ったね。過去の文献でそういうのあったかなぁ…魔法というか、異質な呪術の類になるんじゃないのかな。ちょっと待ってて貰えるかな?詳しい職員を連れて来てあげよう」
 カティルはそう言うと、一旦その場を去って行った。
「呪術って…魔法とは違うのかなぁ」
「意味合いとしては同じなんだろうが、変な使い方によっては呪法になるのだろう。誰もが純粋な使い方をしている訳でもないしな。…それにしても」
 呪術に詳しい人間が居るのか…と話を聞いていたリシェは思った。
 どのジャンルにも、興味を持つ人間は少なからず付いているのだろう。
「その呪術を使う奴とかじゃないだろうな…」
「どうなんだろ…」
 司祭の国を銘打っている以上、そのような厄介な魔法を好んで利用する者が居ては後々困る事になるのではないだろうか。悶々としながら二人で考えていると、カティルが別の職員を引き連れて戻って来た。
「やぁ、待たせたねぇ」
「おかえりぃ」
 ルシルがにっこりと微笑み、彼らを迎える。カティルの横には、図書館の職員を示す薄緑色の法衣を纏う背の低い女が居た。その女職員はこれまた独特な雰囲気を醸し出している。
 顔の半分は手入れされていない髪で覆われ、素顔は確認し難い。小柄でリシェよりも身長が低く、法衣はその体に合っていないかの如くぶかぶかだった。小柄過ぎる故に合うサイズが無かったのかもしれない。
 まだ年若い印象を受けたものの、それ程身綺麗にする趣味は無いのか全体的にぼさぼさだ。
「………」
「こ…こんにちはぁ…?」
 ルシルは彼女に挨拶をした。
「ふふ、彼女はちょっと照れ屋な所があってねぇ。初対面の相手と打ち解けるにはもうちょっと時間を要するんだよ」
「それはいいんだが…会話が出来るのか?」
 最低限の意思疎通が出来ないと困るぞ、とリシェは困惑してしまう。今まで会った事が無い人種なだけに、どう会話を切り出せばいいのだろうか。
「なぁに、彼女は僕が居れば会話は出来るさ。何しろ緊張しちゃうタイプだからね。でも好きな物に関しては非常に積極的だから安心してくれていいよ、あっはっはっは」
 そうか?と疑問に感じながら、リシェは彼女に目線を投げかける。その視線に気が付いたのか、伏し目がちな相手は更に縮こまっていた。
「話をする前にまずは紹介しようか。照れ屋の彼女の代わりに僕が紹介しよう。彼女はスヴェアヴィーダ=エルナンド=マイステル。皆はスヴェアと呼んでいるよ。ここの職員になって…ええっと、三年目かな?」
 そう言いながら、カティルは自分よりも遥かに小さな同僚に声を掛ける。
「三年と半年です」
 ようやく声が聞こえたものの、異様に早口で小声だった。意外に声は低め。
「そうかぁ。もうそんなに経っていたのかぁ」
 無駄に明るいカティルと、その真逆をいく職員スヴェアの対比が激しい。しかしカティルが居れば、彼女との会話はそこまで心配する事は無いようだ。
 ルシルはスヴェアの顔を覗き込むものの、髪や姿勢が良くないので「ううん…」と複雑な表情をした。
「あんまりお顔見せたく無いのかなぁ。僕は折角だからお顔を見てお話がしたいんだけど…」
 顔を覗き込もうと試みるが、相手が変に避けている感じが否めなかった。彼女は他人と接するのが好ましく思わない性格なのだろう。
「そうだねぇ。そればっかりは個人の性格にも夜からね。人によっては顔を突き合わせるのも勇気が必要な人間も少なくは無い。おしゃべりが好きな社交的な人も居れば、静かな環境で誰からも干渉されず、ゆっくりとお茶をしながら本を読む…それが好きな人も居るのさ」
 カティルは苦笑いを交え、ルシルに言う。
「そっかぁ」
 勿体無い気もするが、本人の性格上こればかりは仕方ないようだ。
「んっと、僕も自己紹介が必要かな?僕はルシル=クラリス=ランベール。たまにこの図書館に来るんだけど…あんまり分からないかなぁ。たまにしか来ないしね」
 スヴェアの警戒心を少しでも解く為に、ルシルは自ら進んで自己紹介をした。
「でね、こっちが…」
 ついでにリシェも紹介しようとすると、スヴェアは俯いたまま「知ってる」と返した。
「司聖様の専属の護衛…」
 大聖堂で仕事をしているだけあってか、リシェの事は見聞きしていたようだ。紹介する時間が省けたと思いながら、リシェは軽く頭を下げる。
「知っていたのなら名乗る必要も無いのかな。俺はリシェ=エルシュ=ウィンダート。ここの出身では無いがロシュ様の護衛としてお側に置かせて貰っている」
 スヴェアは一瞬伏しがちな頭を動かし、リシェの顔を確認する仕草を見せた。
「あなたは呪術に詳しいと聞いたが」
「…呪術というか…単に興味があるだけで」
 彼女はやはりぼそぼそした声で返事をする。その為に、いつもより人の通りの多い館内で耳を澄ましながら聞き取る必要があった。
「魔法は使えるんですか?」
 その問い掛けに対し、彼女は軽く首を振った。
それを聞き、リシェは少し安心した気持ちになった。これで自身が魔法を使えるとなれば、自ずと試してみたくなってしまうかもしれない。
 興味深々でも魔力が無ければ、単なる研究材料になるだけだ。
「カティル先生」
「ん?」
「図書館って個室みたいな場所、ありましたか?」
「あぁ…」
 彼女の声は辛うじて聞き取れはするものの、やはり話をする分には苦労しそうだ。リシェの申し出に、カティルは「そうだねぇ」と前置きした後で笑顔を向ける。
「では僕の部屋に行こうか。ちょっと狭いかもしれないけど、壁を挟んでいるからここよりはまだマシかもしれない。…というかちょっと待っていてくれれば軽く片付けて来るよ」
「はい。お願いします」
「うんうん。それならちょっと部屋をマシにして来よう。スヴェア、少しばかり席を外すけど大丈夫かな?」
 カティルの問い掛けに、彼女は一旦動きを止めたがすぐにこくりと頷いた。
「よしよし。ではちょっと一旦失礼するよ」
 喧騒を掻き分けるようにカティルはその場から立ち去り、三人だけが取り残される。やや間を置いた後に、ルシルは「ええっとぉ…」と口元に手を当てたまま少し考え込んだ。
「僕達、今調べたい事があるの。んで、彼にお願いして君を呼んで貰った訳なんだけど…」
「………」
 軽い返事もそんなに期待出来ないので、ルシルはそのまま話を続けていく。
「簡単に説明しちゃえば、僕の兄弟が急に大人になっちゃったんだ。多分魔力の影響か何かだと思うの。でも何のジャンルで調べたらいいのか分からないんだよ。もしかしたら良くない魔法が引き起こした結果なのかもしれないと思ってさ…」
「兄弟…?成長期ではなくて?」
「一人だけ大人に近くなっちゃったんだよ。兄弟っていうか、僕のお兄ちゃんに当たるんだけど」
「…君くらいの年齢なら、急激に大きくなっても別におかしくは無いと思う」
 やはり実体を確認しなければ問題を把握して貰えないのだろうか。
 ルシルは困った様子を見せながら、尚も説明を続けた。
「あのね、僕は双子なんだ。変わっちゃたのが双子の兄の方で…一晩っていうか、ちょっと寝ただけで十四歳から十七、八歳位まで体が大きくなるって事ある?普通にしては異常だと思うの…」
 その話を耳にしたスヴェアは、顔を上げルシルに目を向けた。
「…ちょっと待ってて」
 彼女の表情は読み取れなかったが、言葉だけは明確に聞き取る事が出来た。何か思い当たる事があったのだろう。
 一言だけ残し、その場から彼女も立ち去ってしまう。
 リシェとルシルは互いに顔を見合わせた後、気が抜けたように全身の力を抜いた。
「何か分かったのかな…」
「さぁ…」
「簡単に説明しただけだけどヒントになったのかなぁ。学者さんって凄いねぇ」
 ほんわりとした笑顔を見せる。同じような顔をしているのに、喧しい兄のルイユとここまで性質が違うものなのだろうか。
「やぁ、待たせたねぇ」
 しばらくすると、急ぎ足でカティルが戻って来た。
「ちょっとマシにしておいたよ。それでも本とか色々置いてるから見苦しいかもしれないけど…あれ?スヴェアは?」
「ルシルがある程度の説明をしたら、ちょっと待ってて欲しいと言って参考になる本を探しに行っています」
「ほう!…やっぱり彼女を紹介して良かった。あの子は色々なジャンルに詳しいからねぇ。お客さんからの評判も良いんだよ、探して欲しい本をすぐに出してくれるからね」
 手放しに褒めるカティルの話を黙って聞いていたリシェは、あまり声が聞き取れないタイプなのに果たして来客と会話の成立が出来るのだろうかと疑問を抱く。基本的に館内は静かなのでどうにか聞き取れるのかもしれないが、自分達より声が小さいので耳を傾けなければならなかった。
 イベント中のせいもあり、普段より騒がしいので余計そう感じるのかもしれない。
 数分後、数冊の大きな書物を抱えスヴェアが戻って来た。小柄な彼女が大判の書物を抱えると、非常に重い物を持っているような不安定感がある。
「持ちますよ」
 リシェは彼女に近付き、抱えていた書物を数冊受け取った。内容量が多いので、全ての書物はずっしりとしている。
 ルシルも無邪気な顔で「僕も持ったげるー」と残りの本を受け取っていた。
「あ…ありがと…」
 あまり人との関わりが無いのか、スヴェアは驚いた様子でリシェに礼を告げる。
「じゃあ、案内しよっか。一応テーブルも片付けておいたから、調べ物を存分にするといいよ」
「ありがとうございます、カティル先生」
 改めて礼を告げると、カティルはにっこりと笑顔を返した。
「なぁに、こっちはこっちで久しぶりに君達がここに来てくれて嬉しいんだよ。そんなに謙遜する事はないさ」
 各々の興味のある書物を物色する人々を尻目に、リシェ達はカティルに連れられ関係者のみが入る事が許されるエリアを素通りし、更に奥へと進んで行く。
 何だか僕達、特別な感じがするねぇ…とルシルはにこにこしながら言った。
 先頭を歩いていたカティルが突き当たりの扉を開けると、「さぁ」と二人を促す。
「ここで良かったら存分に調べるといいよ」
「わぁ。お邪魔しまーす」
 案内されたその先へ足を踏み入れる。完全に分断されている造りになっている為か、メイン館内とは打って変わって静かだ。所々に書物が置かれていてやや雑然としているが、休憩に使う為のミニテーブルや食器棚等も設置されていて、仮眠用の簡単なベッドまで置かれている。
「…カティル先生」
「んん?」
「ここに住んでるんですか?」
「まさか。ちゃんと住居はあるよ。ここは仕事が立て込んでいる時とかに使うんだ。ほら、僕がスタッフエリアに居続けると他の職員達が集中出来ないって言うからねぇ」
「………?」
 一体どういう事なのだろう。
 リシェはきょとんとした顔を向ける。
「どうして?」
 それはルシルも同じく感じたらしい。まさか仕事が煮詰まってくると、非常に神経質になってしまうとかの理由なのだろうか。
「どうやら僕は集中すると変な独り言を言うらしくてねぇ。気になって気になって仕方ないらしい。どうか司書室に篭っててくれって言われちゃうのさ」
「…………」
 職員達が気を取られてしまう位の独り言とは一体何なのかが非常に気になってしまう。だが、あまり聞いてはいけないような気がした。
 ルシルが持っていた本を比較的大きなテーブルにどさりと置くと、スヴェアに「この本ってどんなジャンルの本なの?」と改めて問う。
「魔術と魔導具に関する本。…あとは呪術関係の文献ね。身体の成長に関する物は、多分魔法関係だと思うから」
 最後に部屋に入ってきた彼女は、ゆっくりと足を進めながら返した。
「魔草とかは範囲外なの?性格上、ルイユはその辺の草とか食べそうなんだけど」
「…身なりの良い人がその辺りに生えてる草を口にするの?…外にある雑草とかなら、混入していいる魔力はほとんど微弱なものよ。仮に口にしたとしても、強度な魔域で無い限り異常は出て来ないわよ」
「そっかぁ」
 スヴェアの発言にホッとするルシル。
「…ルシル。あいつはその辺の草を食う趣味でもあるのか?」
「いや、食べはしないと思うんだけどさ…切羽詰まったらきっと食べると思うの」
「………」
 どんな目線で実の兄を見ているのだろう。
 リシェもルシル同様、持っていた書物をテーブルに置くと、博識のスヴェアに顔を向けた。ワイン色の深い色味の瞳は、真っ直ぐ彼女の姿を捉える。
「スヴェア殿」
「………」
「ここに持って来た本は全て魔法関連の物…でいいのか?」
 テーブルに置かれた分厚い本は全て、手垢や日焼けした古い本ばかりだ。相当年季が入っているのだろう。落丁したページを丁寧に補修した場所もある。
 スヴェアは黙ったまま、テーブルに置かれた本に近付くと、おもむろに一つの書物を選びページを捲り始めた。
「…成長や退化の術法は、使い方によっては禁忌になっているの。物質の形を強引に変化させるから。魔導師の人が、司祭様だけが扱える生死に関わる魔法に触れたりするのを一切禁止されているでしょう」
 パラパラとページを捲る度、書物の独特な匂いが室内に撒かれていく。カティルはそっと部屋の扉を軽く開けて換気を始めた。
 リシェとルシルが同時に彼に顔を向けると、苦笑いしながら「いいよ、気にしないで」と言う。
「人によっては気になっちゃうかなあって。ほら、古い本って稀にきつい匂いを出すからね。たまにそれがいいっていうマニアも居るけど」
 どちらかと言えば、リシェは全く気にしない方だ。しかしルシルはちょっと苦しそうに少しだけ眉を寄せていた。
「あ…お気遣いありがとうございます」
「いいんだよ、さぁ続けて」
 ふわりと爽快な風が室内に充満していく。
「ルイユが急激に変わったのって魔法のせい?」
「…そこまでは判別付かないわ。こうなってしまった原因を直接本人から聞いた方が早いと思うけど…物質を軽々しく成長や退化させてしまう位の魔力なんて、熟練した魔導師でも簡単にはいかないと思う」
 本に書かれた薄い文面を流し読みしながら、スヴェアは淡々と話した。
 ここに持ち寄った本に、何かヒントが隠されているのだろうか…と彼女の話を黙って聞いていたリシェは他者に聞かれない程度の溜息を吐く。
 確かに彼女が言うように、ルイユに何があったのかを聞いた方が早かったのかもしれない。そして自分も、彼がどの位まで成長したのか未だに知らないままなのだ。
 詳細をまともに知るのはルシルだけ。
「強引に進化させる程の力なら、魔力の込められた魔導具の類だと思うけど。魔石に込められた魔力の容量によっては凄まじい威力を放つ場合もある」
「魔導具…?」
「魔法使いが使うような道具よ。そのままの意味じゃないの。簡単に言えば杖とか魔石入りの装飾物とかそういう物。あなたは魔法を使えるの?」
 別の分厚い本を引っ張り出し、スヴェアは慣れた様子である項目が詳細に書かれたページを開いた。
「あぁ…そういう意味なんだね。魔法は少し位なら使えるよ」
 ルシルは質問にこくりと頷く。
「魔導師の杖も魔導具に入るのか。俺はてっきり武器の類だと思っていました」
「間違ってはいないけど、魔法の力が入った物は一般的に魔導具として扱われると思うわ…」
一通り会話をしていくにつれて、段々人慣れしてきたのだろう。スヴェアの話す声も聞き取りやすくなっていた。
 人見知りが激しいタイプなのだろう。
「じゃあこの宮廷剣士が扱う剣とかは、純粋な武器って訳か…」
 腰元に納められていた簡易的な剣の柄に触れ、リシェは呟いた。もう一本のロシュから賜った剣は魔法の力が加わっても壊れないように特別加工されている事から、こちらは魔導具の類に入るのだろう。
「随分と武器を持っているのね」
「え?…あぁ、でも軽いですし…」
 気分によって二本の剣を携えているが、基本的に宮廷剣士の任務の時は一つに絞っていた。今日はたまたま二つ携えていたのだ。
 腰のベルトに専用の金具を引っ掛け、歩行に邪魔にならない程度に別のベルトを追加し鞘と太腿部分に括り付けている。激しい運動をしても揺れ落ちる心配も無い。
 剣の長さも自分の体に合った物を選別しているので特に問題は無かった。
「背中の下にある物は?」
「ん?これですか?これは杖が入っているんです。小さめの…まだ見習い程度ですが魔法も勉強している最中なので」
「随分と贅沢なのね…剣も使えて魔法も出来るなんて」
「そうですか?…俺、この通りまだ体も大きくなくて。少しでも力になれそうな事なら何でも試しているんです」
「あぁ…気を悪くしたら謝るわ。…私は魔法に興味があっても能力が無いから、羨ましいと思っただけ…」
 スヴェアは決して嫌味で言っている訳ではなく、純粋にそう思い誤解を生む言葉を述べただけだった。稀にそれが相手側の反感を買ってしまう事もあり、ただでさえ敬遠されがちなのに更に他者を遠ざけてしまう。
 リシェはきょとんとした顔で彼女を見ると、ふっと軽く笑みを浮かべた。
 彼女の気持ちも良く分かる。宮廷剣士として大聖堂に居るのに、なかなか相応の体格にならない自分は色々な物に手を付けて自身のやり方を模索していくしかない。
 男だというのに、ひたすら小柄なのは剣士としては不向きなのかもしれないと思いながら。
「…いえ、気にしないで下さい。魔導具の話をどうかお願いします」
 リシェがスヴェアにその先の話を促していると、カティルが人数分の紅茶をトレーに乗せてテーブルに置く。
「カティル先生」
 優しい茶葉の香りが風に乗って鼻を掠めた。
「安物のお茶だけどね。難しい話になりそうだからね。リラックスしながら進めていくといい。難しい事を考えていると段々煮詰まってくるからね」
「ありがとうございます」
「いいんだよ。ふふふ、こうして若い子らが一つのテーブルを囲んで会話をしていると、つい昔を思い出してしまうよ。さぁ、続けて」
 かつて勉学に励んでいた頃、言葉を交わさずともお互い意識しあうロシュやオーギュに、何かと騒動を起こしては倍の課題を与えられていたトーヤ、そんな彼に対し苦笑しながら手伝いをするソレイユとエルレアリなど、今では大聖堂内でそれぞれの任に就いている彼らの姿が脳裏に蘇る。
 懐かしい過去を思い出す光景に、カティルは少しだけ感慨深い気持ちになった。
 ランベール家にこれまでの事を説明しに行った後で非常に消耗してしまったロシュは、司聖の塔へ戻るなり少しだけ休ませて下さいと仮眠を取ってしまった。
 深夜からずっとまともに睡眠を取っていない状態だったので相当疲労が蓄積されていたようだ。
 ルイユの成長に影響があっただけに、説明するにも神経を使ったようで、帰還した時はその場に突っ伏して寝入りそうな勢いだった。流石のオーギュも早く寝ろとベッドへ促す位、かなり疲れ果てたらしい。
「お酒も入っていたから尚更疲れたでしょうに」
「ロシュ様にご無理をさせてしまって大変申し訳ありません。只でさえご多忙な身の上だというのに…ですがロシュ様のご説明によって、旦那様もご理解して下さいました」
 いつもより高めの寝息を聞きながら、オーギュは一息吐いていた。今回の件で立ち会ってしまった責任もあるのだろうが、弱いくせにアルコールが入ったままで良く動けたものだと感心してしまう。
 クラウスの言葉にオーギュは軽く首を振った。
「いえ、どうかお気になさらず…ロシュ様はあくまで保護者としての責任を少しでも全うしようとしただけでしょうから。何しろ昔馴染みの間柄ですからね。余計に何かあったらと思うと気が気では無かったのでしょう」
 自分の子供達を大変可愛がっているランベール家側の当主に経緯を説明するだけでも非常に神経を使っただろう。元々の原因はルイユ本人にあるとはいえ、身近に居た大人としての責任もある。
 彼が元の姿に戻るのかはまだ分からないが、最悪そのまま戻らないかもしれない。そうなった場合、お互いに顔を合わせた際の心の準備も必要だろう。
「お疲れでしょう。お好きな場所にお掛けになってお待ち下さい。今コーヒーをお淹れしますね」
「いえ、どうかお気になさらず。この度は本当にご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」
「私は少しだけお手伝いをするだけでしたから。無事にご説明も終わったようですし、あとはなるようにしかなりませんよ」
 コーヒー豆をミルで潰しながら、オーギュはクラウスに言った。ゆっくりと豆を挽いていく毎に、独特な香りが充満していく。
 そろそろあの子達も戻って来る頃だと思っていると、階段を駆けるように上がって来る足音が遠くから聞こえる。
 クラウスもその音に反応するように顔を上げた。
「ただいまー」
 お互い会話をしている様子で、変に騒がしい。
 部屋の扉が大きく開かれ、ルイユを先頭にスティレンも室内に入って来た。
「ノック無しに入るとか…」
 スティレンは傍若無人なルイユを前に軽く眉を寄せた後、丁寧に「失礼します」と頭を下げる。
「あぁ…やはりまだ戻らないままなのですね」
「おうよ。ま、別にいいけどさ」
 検査中ずっと寝ていた為か完全に目が覚めたようで、いつものように彼は元気が有り余っているようだ。それを見越したのかクラウスは声を潜めながら注意する。
「ルイユ様、ここは今ロシュ様がお休み中です。静かにするか、騒ぎたいなら借りている部屋に行きなさい」
「あー…そっかぁ。ずっと起きっぱなしだもんな。じゃあリシェの部屋に行こうぜスティレン」
 単に送るつもりだったスティレンは、「俺もなの?」と眉を寄せた。
 特に不都合は無いが、自分がこの場所に居てはいけないような気がした。
「すぐ帰るつもりだったんだけど?」
 仮にも来客中である。そう言いながら、彼はクラウスの方へ目を向けていた。
 クラウスはふっと口元に笑みを称えると、こちらは全く構いませんよと答える。
「な?別に気にしないって。リシェとルシルが戻って来るまで部屋で待機しよ」
「………」
 半ばルイユに引っ張られる形で、スティレンは司聖の部屋から退場させられてしまった。
 異変を被った当の本人は意外にもケロッとしているので、オーギュは安心する。
「まずは…お疲れ様でした、クラウス殿」
 コーヒーが入ったカップをソーサーに乗せ、ようやく軽い休息を得たクラウスの前に置く。
「いえ…本当にお騒がせしてしまって」
「検査の結果がまだ判明しない段階ですが、出来るだけの事は致しますので」
 美しい装飾が施されたカップ内で揺れる液体に目線を落としながら、クラウスは「お手数お掛けして申し訳無い」と頭を下げた。
 ランベール家から信頼され、保護者役として双子を監視するという役目を仰せつかっているにも関わらず、目線が全く行き届かなかった上、外部に迷惑を掛けてしまうとはと苦笑いする。
「参りますよ」
 クラウスの心労は相当だろう。
「子供は突拍子も無い行動をするものですから」
そんな彼と向き合う形でオーギュもソファに腰を下ろそうとしたその時、室内の扉がノック無しにまた勢い良く開かれた。
 バーン!!と音を立てるのでクラウスは咄嗟に立ち上がる。
「ルイユさっ…!!」
 怒鳴りかけて、止めた。幸い、ベッドで熟睡しているロシュの反応は感じられない。
「あっ…!!悪い、ごめん!」
「…はぁ、何なんですか?今度は…」
 体は大きくなっていても、中身は普段のルイユのままだ。伸び切った髪は丁寧に結われたまま。
 身長もクラウス程では無いが、前よりも遥かに大きい。
「検査したら持っていけって言われたんだよ」
「結果がもう出たのですか?」
 ルイユは茶封筒をクラウスに突き出すと、「中身は見てねぇけど」と笑った。
 恐らく中身は検査に関する内容だ。現段階で分かった事が書かれているのだろう。
 クラウスはゆっくりとそれを受け取る。
「それにしても、あなたはあまり危機感というものがありませんね。どうにでもなると思っているのでしょうが…」
 保護者としては頭を抱える程の難題なのに、あまりにも普通過ぎるので脱力しそうだった。
 その一方で、ルイユは軽く首を傾げる。
「そっかぁ?こうなっちゃったもんは仕方無ぇしな」
 ロシュから借りた法衣も慣れてきたらしく、少しばかり長い袖をぱたぱたさせながら「それにさぁ」と続けた。
「俺は一日でも早く大人になりてぇって思ってたからな。別にこの状態でもいいって思ってるぞ」
「………」
「んじゃ、俺あっちでリシェでも待ってるわ」
 彼はクラウスにそう告げた後、今度は静かに部屋を出て行ってしまった。
 二人の様子を見守っていたオーギュは、少しふっと笑い声を漏らす。
「何というか、当事者なのに楽観的というか」
「…悩んでいるよりはマシでしょうけど…現状に満足しているのも成長を見守る立場からして見れば、妙に複雑な気持ちになりますね…」
 そう言いながらクラウスは、ルイユから受け取った封書を開いた。
「結果報告でしょうか?」
 少し無言の間を経て、クラウスは神妙な顔つきでオーギュに「どうぞ」と手紙を回す。
「ん?何か変な事が?」
 手渡された紙面に目を通していくにつれ、オーギュもクラウス同様、表情を徐々に強張らせていった。

 図書館からようやく司聖の塔へと戻ったリシェは、ついでにレンタルしてきた本を抱えながら自室の扉を開いた。
 扉の前に立った際に話し声が聞こえたのでルイユが起きたのだろうと思っていたが、何故か目の前に従兄弟が居たので思わず「何だお前は?」と疑問の言葉を投げつけてしまう。
 スティレンはぶっきら棒なリシェに失礼な奴だねと吐き捨てるように返事をしていた。
「お前の代わりに世話をしてやってたのに」
「世話…?」
 不審そうな表情のリシェの背後から、同行していたルシルもひょっこりと顔を覗かせた。
「ルイユは大丈夫なのぉ?」
「検査の時に相当寝たみたいだからもうピンピンしてるけど?」
「そっかぁ」
 リシェは室内を軽く見回し、ルイユの姿を探す。しかし彼の姿が見当たらないので「あいつは?」とスティレンに問いかける。
「ベッドの奥の隙間に居るけど?」
「………」
 リシェはベッドと窓の間に、ベランダに出やすいように敢えて隙間を作っていた。
「外に出てないのか」
「出てないよ。隙間だって言ったでしょ」
 目視で姿が確認出来ないとなると、彼はベッドの下に居るはず。何故そのような場所に…と思いながら「ルイユ」と呼びかけた。
「あー?」
 ベッドの下から聞こえる声。そして蠢いている為にガタガタと震えていた。
「何してるんだ」
「おう…待ってろ。今出るからさ…」
 怪訝そうな面持ちでしばらく待っていると、ようやくのっそりと影が姿を見せてきた。やや逆行気味の為か彼の姿を捉えるのに少し時間を要する。
 リシェの隣で同じく待っていたルシルは、彼を見てわぁ、と声を上げた。
「その髪型、スティレンがやってくれたのぉ?」
「そうそう。でも髪が多いから頭重く感じるんだよなぁ…てか、ベッドの下何にも無ぇじゃん。凄げぇ期待外れ」
 ようやく目が慣れてきたリシェは、目の前に現れた法衣姿の見慣れぬ少年に呆然とする。
 確かにルシルはルイユ、と声掛けしていたが。
 自分の知る彼とは、その姿はかなりかけ離れていた。身長も更に伸びきり、顔立ちも大人に近くなっていて別の人間のような風貌になっていたのだ。
 リシェはぽかんとした顔のまま。
 無理も無いよねぇ…とルシルは苦笑を交えながら、リシェの腕を軽く突く。
「リシェ」
「誰だ?」
「誰って…ルイユだよぉ…一応説明したじゃない」
 脳内の処理が追いついていないリシェの前に、身長も高くなったルイユが近付いていく。今までちょっとずつ伸びてきては自慢気にしていた彼だったが、今回は明らかに差が明確になっていた。
 ぐぐ、と少し後退りするリシェの顔をがしっと掴むと、強引に上向かせ満面の笑みで「越したぞ」と得意気に言い放つ。
「あんたら身長の競い合いしてたの?」
 ぷふっとスティレンは意地悪く噴き出した。
 両方の頰をぐっと手で押さえつけられ、リシェは悔しそうな顔を剥き出しにする。例え一過性であったとしても妙に悔しくなってしまうのは何故なのだろうか。
「あー、背が伸びるとこんな風に見えるのかぁ」
 ルイユはリシェの頰をぐっと押さえたまま、嬉しそうな様子だ。
「何だお前は、無礼な奴だな!離せ!!」
「んふ~…ふふふふ」
 怒りに任せてリシェは相手の手を振り払うが、少しばかり大人になったルイユは変な笑い声を上げていた。身長をあからさまに超えたのが余程嬉しいらしい。
「そういえば今までどこに行ってたのさ?」
 険悪そうな二人を無視するように、スティレンはルシルに問い掛けた。
「え?ううんっとね…ここの図書館に行ってたんだよぉ。ほら、ルイユが居ない間は僕だけになっちゃうからね。ちょうどリシェも図書館好きみたいだったし、調べ物もしたかったしね」
「調べ物ね…」
「そうそう…ルイユがちゃんと戻れるかどうかとか、前例とかあるのかってさ」
 へぇ…とスティレンは腕を組んだ。
 ただ遊んでいただけでは無い様子。ただふわふわしているのでは無く、楽観的過ぎる兄の為に色々考えて行動しているのだろう。
「んで、何か分かったの?」
「ううん…図書館に呪いとか魔法に詳しい人が居てお話を聞いてはみたんだけど…ほら、僕達はその場に居た訳じゃないからさ…一人の人間をここまで進化させる位の魔法って中々無いらしくて。相当な術者も出来ないんだってさ。そうなればもう魔導具とかの類が原因なのかもって」
 ルシルとスティレンが会話している間にも、大きくなったルイユとリシェは変に険悪そうな雰囲気を醸し出している。
 そんな彼らをちらりと見た後、スティレンははぁ…と深く溜息を漏らした。
「昨日見た化け物の原因が、浄化をスルーしたせいでキャパオーバーした魔導具のせいだったからね…」
「え?…そうなんだ…それならわざわざ図書館に行って調べなくても良かったのかなぁ。その魔導具ってどこに行ったの?浄化されたの?」
「されてたら今頃こいつも無事だっただろうね。粉々に壊れたから変な魔力に取り込まれた持ち主が化け物になったってだけさ」
「………」
 悲壮な表情を見せるルシル。
「…ちょっと、そんな顔しないでよ。俺が悪い事したみたいじゃないさ」
 別にショックを与えるつもりが無かったスティレンは反応に困ってしまった。双子の兄弟なので一緒に成長していくはずが、兄だけ異様な成長を遂げてしまったのでどうにかして戻してあげたいのだろう。
「戻れるのかな…」
「さぁね。とりあえず検査だけは済ませてるから結果次第ってとこじゃないの?てか、当の本人は現状に満足げな感じだけどさ」
「………」
 指摘され、ルシルは兄の方を見る。
 彼はお気に入りのリシェにひたすらちょっかいをかけ続けた結果、ガスガスと殴られていた。
「何してるのさ、ルイユ…」
「あ?見て分かんねぇか?」
 体格差が付いたのが余程嬉しいのか、彼は華奢なリシェを抱っこする形でベッドに腰掛けている。その一方で、リシェは青筋を立てながら「このガキをどうにかしろ!!」と暴れていた。
 リシェにとってはルイユはあくまで年下の扱いなのだ。
「どんだけ嬉しいのさ」
 顔を真っ赤にして暴れるリシェを無視し、スティレンは呆れながらルイユに問う。彼は左の頰にバチーンと強烈な張り手を喰らいながらも「めっちゃ嬉しい」と答えた。
「…どうやら本人は非常にご満悦らしいよ。あんたは戻したいんだろうけどさ。いいんじゃない?別にこのままでも」
 ひたすら兄を戻したい一心のルシルに、スティレンは諦めたように言葉を投げかける。本人が特に気にもしていないのなら仕方ないものの、原因は突き止めなければならない。
 しかしルイユの嬉しそうな顔を見る限りでは、結果がどうであれ今の成長した姿に満足げな雰囲気だ。
「…このままとか僕が嫌に決まってるでしょ!」
 ルシルは今にも泣きそうな顔を見せながら、悲痛な声を部屋中に響かせていた。

「起きました」
「はい、おはようございます」
 軽い仮眠を終え、ベッドの上で上体を起こしたロシュはぼんやりとした目をしながら一言目を覚ました事を告げる。
 それまで静かにクラウスと談笑を交えながらこれからの動向を話し合っていたオーギュは、反射的にロシュの発言に返事をしていた。
 起きたてで、まだ頭がしっかりと回らない様子のロシュはあくびを手で押さえながらゆっくりと寝台から降りる。
「少しはすっきりしましたか?」
「まだ…酔いが残っているような気がします…」
「弱いくせに口にするからですよ」
 薄い記憶を思い起こしながら、ロシュは何故自分がアルコールを口に含んでしまったのかを思い出そうとした。しかし様々な事が起き過ぎてはっきりと思い出す事が出来ない。
「出来るだけ口にしないようにしているんですけどね…敢えて隠している地が出てしまうし」
 寝覚めの紅茶をオーギュから受け取り、ロシュはボヤく。
「もう猫被るのも面倒でしょう。あなたは元々聖人扱いされるような性格ではないんですから、無理しなくてもいいのに」
 二人の会話を聞いていたクラウスは、きょとんとした面持ちで二人を見ていた。
「お二人は昔からのお知り合いなのでしたっけ」
「ええ、腐れ縁のようなものです」
 クラウスの問い掛けに、オーギュはふっと苦笑いに似た笑みで返した。
「司祭としてのお手本にならなければと、この人は今まで延々とひたすら良い人を演じているんです。まぁ、それが司聖としては正解なのでしょうけどね」
 ボロクソに言い放つ昔馴染みに、ロシュは寝乱れた髪を掻き上げた。
「嫌な言い方をするなぁ…」
「そうですか。嫌な言い方をする人間が近くに居るのは非常に運がいいと思いますよ。都合の良い事しか聞きたくないなら話は別ですけど」
 熱めの紅茶が入ったカップを手にしながら、ロシュは書斎机へ向かうと、愛用の椅子にどっかりと腰を掛ける。
 寝起きの為か、それとも元々の性格の為なのか。
 いつもより粗野な様子に、クラウスは若干驚いた面持ちで彼を見ていた。
「あなたが寝ている間にルイユの体に関しての報告を頂きましたよ。まあ、途中段階ですけど」
「………」
 ロシュはオーギュが突きつけた封書を受け取る。
「収監者とは顔を合わせたのですか?」
「ええ」
「何か言っていましたか?」
「彼らの仲間がまだ外部に居るようで。それが、アストレーゼンの貴族の一人だと」
 昨晩の出来事を思い出し、スッと目を細めた。
 あの現場に居たのはオーギュの兄。
 騒動の元である魔導具という物的証拠が完全に消え失せたので、彼が噛んでいるのを実証するのは極めて難しい。そして、彼を参考人として引っ張り出すのも貴族という立場故に難しいだろう。
 ジャンヴィエはそれを充分に理解していて、退屈凌ぎに好き放題振る舞っているのだ。
 まるで自分は自由な立場だと言わんばかりに。
 ロシュは紅茶を口に含み、ゆっくり喉へ通しながら机上に肘を付いた。
「仮に貴族だとしても、引き摺り出すのは手間を要します」
「それをこれから調べます。収監者を誑かしたのは本当にアストレーゼンの貴族かもしれないが、そうではないかもしれない。貴族を騙る輩が居れば放置する訳にもいきません。そして本当に貴族側の者の仕業であれば、更にややこしい問題となります」
「………」
 ロシュは深く溜息を吐く。
 弟である彼にジャンヴィエの事を話した方が良いのだろうか。
 昨晩あの場に居たのは紛れもなく彼の兄。何かしら噛んでいると確信している。
 しかし証拠が無い。よって、単に酒場区内に居合わせただけの立場と化してしまったので確実にスルーするだろう。
「不可侵か…」
 ぼそりとロシュは忌々しげに呟いた。
 有耶無耶にしてしまうのも個人的には癪に障る。例え昔馴染のオーギュの身内でも、他者に危害を与える者を放置する訳にはいかないのだ。
「ロシュ様」
「…あ、はい」
「目を通されましたか?」
 オーギュに言われるまで、手渡された封書をそのままにしている事に気付く。
「すみません。少し考え事をしていて」
 手にしていた封書を開けて中の紙を引っ張っていたその時、軽いノックと同時に部屋の扉が大きく開かれた。
 クラウスは反射的にソファから立ち上がり、「またあなたは!」と呆れながら声を上げる。
「ちゃんとやったぞ!!入る前にノックだろ!」
「ノックと一緒に扉を開けるんじゃなくて段階を踏みなさい!!」
 やる事なす事全てに文句をつけられている気がして、ルイユはぶすーっと軽く頰を膨らませるが幸運にもロシュが起きていたので安心する。
「おかえりなさい、ルイユ」
 ロシュと向き合っていたオーギュは穏やかに微笑んだ。騒がしい彼を追いかけるかのように、続けてリシェとルシルが室内に足を踏み入れていく。
「おう。みんな戻って来たからな…って、スティレンは?」
「どうしたの、スティレン?」
 開かれた扉の前で立ち止まる彼に、ルシルは不思議そうに首を傾げていた。比較的自由な振る舞いが出来るリシェ達とは違い、自分は果たして入っていいのかどうかと躊躇してしまったらしい。
 バツが悪そうな面持ちで「あのさぁ…」と呟く。
「ここまで遅くなってきたっていうのに、部外者の俺がロシュ様の私室に遠慮無く入るのってどうなのさ」
 普段は遠慮の欠片も無い立ち振る舞いをしているのに、ここで変に制御が掛かるのかとルイユは眉を寄せた。
「何言ってんだお前…」
 すると冷静なロシュの声が室内に響いた。
「スティレン。構いませんよ、お入りなさい」
「そうですよ。廊下の空気は段々冷たくなります。日が入らないから余計にね」
 ロシュとオーギュの言葉に、ルイユは「ほら」とスティレンの腕を引っ張った。半ば強引に腕を引っ張るので、かくりと軽く体が傾く。
 崩れたバランスを整え、スティレンはルイユに引っ張るなと腕を払った。
「俺に付き添ってくれてたんだから、別に入ったっていいだろ」
「それは単に暇だったから…!」
 軽い押し問答が響く中、リシェは書斎机で書類を眺めていたロシュに頭を下げる。戻った際、マメな性格の彼は必ず主人への挨拶を欠かさなかった。
「少し前に戻っておりました。まだお休み中かと思って挨拶をするのを控えていました」
 ロシュは書面から目を離し、頭を下げていたリシェに目線を移す。
「私も少し前に目が覚めたばかりです。気にしなくてもいいのですよ」
「…どうかされたのですか?」
 不思議と、彼の様子が違って見えた。
 思わずリシェはロシュに伺いを立てるかのような言い方をしてしまう。
 いつもの穏やかさが無く、変にピリついた感じがしたのだ。
 ロシュは彼の指摘にふっと軽く笑みを浮かべると、「いいえ」と安心させる。
「まだ疲れが残っているだけです。いつもと変わりはありませんよ。…ただ」
「?」
「…いえ。私もまだまだ人間が成っていないようだ。あなたは何も心配する必要はありません」
「………」
 ロシュは椅子から立ち上がり、未だに言い合いをし続けているルイユとスティレンの方へと進んだ。
「ルイユ」
「んあ?」
 やや頭上で降り注ぐ声に、ルイユは顔を上げる。
「どうですか、お身体の具合は?」
「おー、いつもと変わり無ぇよ。元気元気」
 質問に対し、いつもの様子でにこやかに返事をするルイユにロシュは安心したのか、硬かった表情は若干緩んだ。
 この異常事態を少しでも緩和したい気持ちがあっただけに、彼の明るさには救われる。
「そうですか。それは良かった。…あなたがここまで変貌してしまうとは思いもしませんでしたからね」
「だろ。俺もびびったわぁ…こんなにイケメンになるとかさぁ」
「…おや?その言い方では、今の姿がとても気に入った感じですか?」
 予想していなかった反応に、思わず目を見開く。自分の姿が変化するとなれば、多少は動揺するものだがルイユはそこまで気にしていないらしい。
 むしろふふんと鼻を鳴らし、妙に誇らしげだ。
「俺は早く大人になりたかったからな」
「なるほど…」
 ロシュはちらりとリシェを見た。その視線に気付いたのか、彼はきょとんとした様子で自分を見返してくる。
「でもルシルは嫌みたいなんだよなー」
「でしょうね。今まで同じ目線でしたし…」
 別にこのままでも構わないんだよなあ、とボヤく兄に、目を潤ませながらルシルが話に加わってきた。
「当たり前でしょ…ロシュ様、ルイユは元に戻れるの?」
 ロシュは軽く一息吐いた後、「方法を探ってみないとまだ分かりませんけど」と前置きした上で至って慎重に発言を選んでいく。
「ルイユの意思を尊重した上で今後どうしたいのかだと思いますよ」
「なら別にこのままでいいじゃん」
 なぁ?というようにルイユはリシェに同意を求めようとした。いきなり話を振られ、リシェは眉を寄せる。
「知るかそんな事…」
「この姿なら、俺を子供扱いし難くなるだろ」
 見た目が少し成長した程度で得意気になられても、結局は中身が伴っていなければ意味が無いのではないだろうか。
 無言を貫きながらそう思っているリシェの側で、ロシュはふっと目を細めふわりと自分の前髪を邪魔そうに軽く指で払った。
「確かにそうでしょうね」
「だろぉ?」
「でもルイユ。良く考えてごらんなさい。…その位に成長したからには、周りはあなたが思う程以前のような子供扱いをしてくれなくなります。あなたの中身は十四歳のままですが、見かけはそれ以上だ。現状に満足なら一向に構いませんが中身と外見の折り合いはしっかり付けていかないとこの先苦労しますよ」
「ええ…中身は子供のままだって言っておけばいいんじゃね?」
 本気で言っているのか、とリシェが怪訝そうな表情を見せる。似たような事を思ったクラウスが思わず苦言を呈そうと口を開いた。
 そんな矢先、呆れたぁ…とスティレンが吐き捨てる。
「戻れば?」
「はぁ?何でだよ!」
 折角ここまでイケメンになったってのに!とこれまた的外れな発言をしてくる。そうじゃないでしょ…とこの後に及んで見当違いの事を放つ彼に、スティレンは更に続けた。
「あんたが元々ガキなのは関わってる俺らには十分分かってるよ。でも全員あんたの事を知ってる訳じゃない。もしかして、これから顔を初めて合わせる相手に本当は十四だっていちいち説明して生きていく訳?誰がそんな事信じると思う?…ふん、ただの頭のおかしい奴だって笑われるに決まってる。そう言って他人に甘える位なら、ちゃんと元に戻して貰って普通に年を取っていった方がいいよ。ロシュ様だってさっき言ってたろ、中身と外見との折り合いをちゃんとやらないと苦労するって。意味分かってる?」
 まだ幼いルイユに対し、相当手厳しい発言だ。だが、スティレンの現実的な意見も分からなくもなかった。
 これから更に大人に近付くには相応の振る舞いや考え方も変えていかなければならない。外見の年齢を重ねるにつれ、周囲からの目線も変化せざるを得ないのだ。
 その覚悟が無ければ本人にとって、この先相当な窮屈さを強いられるだろう。
 ルイユはまだ実質十四歳のままだが、現在見かけは大人に近い。それでも、例え本人がまだ子供だと訴えた所で信頼度に欠ける。精神的にもしっかりと成長過程を辿らないままでは、その分内面の成長もチグハグな状態だ。
「それとも、まだ子供だっていう勝手な都合を振り翳して他人に甘える気?」
「別に人に甘えたいとか思っちゃいねぇよ!」
 そこでようやく反論するルイユに、スティレンは腕を組んだまま「はぁ?」と意地悪そうに鼻で笑った。
「さっき予め説明しとけばいいって言ってた癖に。自然にそれを口にするって事は甘える気満々って事じゃないの」
「…それは別に本気で言った訳じゃねぇし!!」
 ルイユとスティレンが言い合う最中、ルシルは困惑しながら世話役のクラウスのスーツの袖を引っ張り注意を惹きつけていた。いいの?と。
 クラウスはルシルをゆっくり見下ろすと、軽く首を振る。
 近い年齢のスティレンがばっさりと断する事で、ルイユも受け入れやすくその一方で自らの意見も言いやすいかもしれない。仮に大人である自分が頭ごなしに反対だと突き放しても、何故駄目なのかと理解してくれないかもしれない。
「何ならこの馬鹿の意見も聞いてみたらどう?」
 小馬鹿にしたようにスティレンはリシェの方に目を向ける。
「?」
 何だ?と言わんばかりのリシェ。
「こいつは俺よりも一個下の癖して、おっさんが多い宮廷剣士になったんだ。その上、生意気にそのおっさん達を差し置いてロシュ様の護衛になってんだから、当然子供扱いなんてされる訳もない。甘えられない環境がどんなものか、ぜひご意見を聞かせて貰いたいね」
「俺を引き合いに出されても」
「八つ当たりを喰らうなんて日常茶飯事でしょ」
「………」
 複雑そうな顔をしたまま、頰を軽く掻いた。当たられる事は少なからずあっても、そこまで気にする程では無いと思って今までやってきた。
 というより、目先の事しか見ていなかったので気にする暇など無い。
「リシェの事だからやられても鈍いし気付かねぇんじゃねえの…その表情だとまるでそんなんあったっけ?みたいな感じじゃん」
「無い訳じゃない。気にするまでもないと思っただけだ。他の剣士達から何か言われたとしてもそうか、だけで流していたからな」
 ここまで鈍いのかとスティレンは溜息を吐いた。
 それだけ適応力がいいのかもしれないが、少しは気にする位の繊細さは持ち合わせて欲しい。
 しかし、彼はそれなりの図太さを求められる宮廷剣士としては性質的に向いているのだろう。それか幼い頃から叩かれてきた環境に置かれていたので慣れもあるのかもしれない。
「俺が言いたいのはさ…自分より遥かに上の奴らが居る世界じゃ、何の言い訳も通用しないんだよ。自分から望んでその場所に居るなら、責任は自分で取らないといけない。あんたは周りに守られてるから分からないだろうけど、仮に宮廷剣士の輪の中に入って自分はまだ子供ですから多少の事は見逃して下さい、なんて一切通らないからね。こいつだってここに居る時点じゃロシュ様の保護下に置かれてるけど、向こうに行けばそれなりに特別視されても、だからと言って特別扱いなんてされてない。出先で怪我を負ったとしても他の人間に迷惑をかけちゃいけないし、自分の事は自分でどうにかする。基本的に誰も助けてくれないってのを頭に入れておかないとやっていけないからね」
 何故自分がこんなに丁寧に説明しなければいけないのか、と思う。
「俺だって散々今まで理不尽な事をされてきたからね。色々と思い出すたびにムカついてくる…」
「…お前は何かされても後から俺にビービー文句言ってきたじゃないか…」
「うるっさい!!明らかに俺の手柄だったのに他のおっさんにぶん取られた時の俺の気持ちなんかお前に分かる訳ないでしょ!!」
 二人の言い合いを聞き流しながら、ルイユは「あー…」と若干引いた表情を見せる。
「言いたい事は何となく分かった…うん」
 こんな会話で理解出来たのか、と甚だ疑問が生じるが、彼なりに少しは察したのだろう。
「てか、俺は元に戻れるの?」
 ルイユはやや離れた場所で静観していたオーギュに問い掛けた。彼はええ、と前置きした後で静かに答える。
「現時点では調査中です。あなたがそれを望めばなるべく早急に元に戻れる方法を探しますよ」
「…そっかぁ。でも俺、このままでもいいんだけどなぁ」
 今の姿が余程気に入ったのだろう。
「そのままでいるにせよ、今の姿から普段通りに過ごせるかどうかまだ判断出来ませんからね。一晩明けたら老化していた…なんて嫌でしょう?」
「うん、やだ」
 即答。
 素直なルイユに、オーギュは思わずふっと噴き出す口元を押さえる。
「明日もまた検査ですから、そうならない為にも協力して下さい」
 また退屈な検査をしなければならないのか…と少しだけ憂鬱な気持ちを覚えたが、流石にここから更に老化はしたくない。
 仕方無しにルイユは分かったよ…と了承しつつ顔を曇らせていた。

 身体的に未だ不安定なルイユを急遽リシェの部屋で休ませると同時に、大聖堂の閉門に間に合わなかったスティレンも同じ部屋で一晩過ごす事になった。
 幸いベッドは一人で眠るには広い大きさなので余程の事が無ければ普通に眠れるはずだ、とリシェは二人に告げるも「絶対うるさいと思う」とお互い言い合いをする始末。終わらないので勝手にしろと言い捨て、司聖の部屋へと戻っていた。
「ロシュ様…それは?」
 机に向かってまだ残る雑用をこなしていたはずのロシュは、布に包まれていた球体をつまらなそうな表情で眺めている。
「これですか?これは昨晩私が即席で作った魔力の核です」
「核…?」
「ええ。魔物の心臓部に該当するものが無かったので、相手の体内に即席で核を作ったのです。暴走する魔力を収束させなければならなかったのでね。ルイユのアドバイスで作った簡易的なものですよ。後程浄化しに行かなければなりませんが…」
 その核は赤く染まった水晶玉のようにも見える。
 魔力で作り上げたというが、まるで魔石か何かのように完成度が高かった。
 リシェは興味深そうに見ていたが、ロシュは再び布でそれを覆う。
「残留思念が澱んでいるのであまり見ない方が良い。なので、敢えて布で隠しています」
「そうですか…」
 変に輝いて見えるものは凝視しない方が良い。
 リシェはその鈍い光に不穏なものを察するように、包まれた玉から目線を離した。
「あなたもそろそろ休みなさい。あちこち行き来して疲れたでしょう」
「…ロシュ様こそ…」
 朝方戻ってきて、それからあちこち回った挙句にまともに眠っていないはず。それなのにまだ仕事をしているのを見ていると、お付きである自分は不安になってしまう。
「私はもう少しだけ仕事をしていますから」
「ロシュ様」
「?」
「休んで下さい。でないと俺も安心して眠れません」
「………」
 ロシュはふっと一瞬目を伏せると、重厚な椅子から腰を上げた。開いていた窓に近付き、リシェの部屋の方向に目を向けた後で静かに閉める。
 まだあの子達は起きているようですねと呟くと、リシェの手を優しく取り、「もう少ししたら休みますから」と甲に口付けた。まだ幼さのある彼の手は、物々しい剣士職の割には頼りなさを感じるものの、安心感を抱かせる。
 ベッドにゆっくりと腰を下ろしてリシェにも座るように促した。
「打ち込める何かをしていないと気持ちが荒れてしまいそうなので」
「気が…?」
「私自身の問題ですから、あなたは心配しなくても良い。少し疲れているだけですし」
 表情を緩ませるロシュ。
 そんな主人に、リシェはふわりと抱き着く。
「リシェ?」
「あなたを和ませる程の力量が俺にあれば…」
 健気な護衛の言葉を聞き、ロシュは愛おしげに微笑むとそのまま彼をベッドへと押し倒した。
「本当にあなたは良い子だ」
 ロシュの手がリシェの頰を掠め、しなやかな指先がゆっくりと皮膚を擽る。それに伴ってひくん、とリシェの目元が身動ぎと同時に動いた。
 大人のロシュの体の重みが自分の全身に徐々に掛かってくると、リシェの唇から吐息が漏れる。
「ロシュ様」
「私はあなたが思ってくれる程出来た大人ではないのですよ、リシェ。あなたのお部屋に客が居るのにこうしているのだから」
 首筋に指を這わせ、ロシュは熱を孕んだ声をリシェの耳元で吐いた。すぐに反応してしまうリシェは、口に手を当てながら自分の主を見上げたまま。
 ロシュのする事に関しては絶対に反対しないリシェは、その身を撫でられるに任せながら軽く首を振る。
「私は悪い大人なので、あなたが私に休む事を強要するとなればあなたをこのまま抱く事になる。それでもいいのですか?」
 客人が居ようが居まいが、お構いなしという事だ。
「あなたに思いっきり意地悪をしてしまう事になってしまう。そうでもしないと落ち着かないかもしれない」
 魔力負けしたリシェの赤い瞳がロシュを映したまま揺らいだ。
 いつもの穏やかな彼に気持ちが荒れてしまう程の何かがあったのだろう。リシェはその背中に両腕を回しそっと抱き締めると、落ち着かせるかのように「構いません」と応じた。
 予想外の言葉に、ロシュは驚きの表情を見せる。
「もっと俺が大人だったら、あなたのお気持ちを和らげる方法が思いつくかもしれない。でも俺はまだまだ子供で、気の利いた言葉すら出せない…それならあなたにお任せした方が良い」
「………」
「早く大人になれたら良いのに」
 リシェの頭を優しく撫でていたロシュは、彼の言葉に既視感を覚えた。
 …どこかで似たような声を聞いたような気がする。
「…ロシュ様?」
 リシェは動きが完全に停止した主を見上げた。
 間を置いてから、ロシュはがばっと体を起こしベッドから離れる。そのまま甘えてくるのだろうと思っていたリシェは、驚いた面持ちで彼を見上げていた。
 何か気に障った事でもあったのだろうかと内心慌てながら「あの」と声を掛ける。
「どうされました…?」
「いえ…ちょっと気になった事があって」
「?」
 困惑するリシェに向け、ロシュはふっと優しく笑みを浮かべた。
「あなたは先に休んでいて下さい。昨日の事で気掛かりな事を思い出してしまったので」
 …どうやら自分が粗相をしてしまった訳では無かったらしい。
 そう思い、リシェはホッと胸を撫で下ろす。
「分かりました」
 眠る準備はもう済ませていた。サイドテーブルに置かれているアロマストーンからは落ち着いた香りが漂い眠気を誘発させてくる。
 それは少し前に献上品として届いたものだった。オイルを数滴垂らせばロシュ好みの優しい柑橘類の匂いを放つので即座に気に入り、身近に置かれたものだ。
 リシェはロシュの言う通り、そのまま柔らかな布団の中へと身を滑らせた。再び机へ向き合う彼の邪魔をするつもりは無い。
 ただ、仮眠しかしていないのが心配だった。
「では、お先に休ませて貰います」
「ええ、私ももう少ししたら休みますから…」
 その言葉に、リシェは安心した。
 休んでくれるならもう何も言えない。
 お休みなさい…と言い、リシェはすぐに夢の世界へと入り込んでいった。

 …部屋の向こうで何か言い争う声が聞こえたかと思うと、勢い良く扉が開閉される音が塔内に響き渡った。
「うん…?」
 リシェは重たい瞼を開きながら身をゆっくりと起こす。誰かが階段を降りていったので、ルイユかスティレンのどちらかなのだろう。
 上体を起こしたままでぼんやりしていると、今度はこちらの部屋の扉がノックされた。
「なあ、ロシュ様起きたー?」
 窓から見える時計塔の針はまだ早朝の時間帯を示していた。リシェは側で寝息を立てるロシュに目を向けた後、すぐにベッドから降りて扉を静かに開ける。
 キィ…と軽く軋む音を立てながら、隙間越しに「まだ眠っている」と小声で説明する。
 やはりルイユの姿は昨日と変わりない。自分より更に背丈が高いのが変に癪に障る。
「お…リシェ。お前は起きてたのか」
「朝っぱらから騒いでたら目が覚めるだろ」
 ロシュ様はまだお休み中だ、と言い部屋に戻れと促す。しかしルイユは頰を膨らませ不満げな顔を見せてきた。
「起きちゃったから暇なんだよ」
「スティレンはさっさと出ていったのか?」
 リシェはなるべく声を潜ませ、そっとロシュの部屋から出る。ぱたりと扉が閉じられるのを確認すると、ルイユは「おうよ」と返した。
「ベッドで寝てたんだけどよ…殴ってきたり、蹴飛ばしてくるから寝れたもんじゃないって勝手に怒り出して出ていきやがった。そんなん知らねぇよ」
「………」
 自分の為に用意されたベッドは一人だけで使うには十分広く、小柄なリシェにとっては余分が有り余る位の大きさだ。
 余程大柄な大人二人でなければ狭いという事は無いのだが、共にする相手の寝相が悪ければトラブルに発展してしまうようだ。しかも一方が自覚が無いとなれば余計に拗れてしまう。
「だからやけにバタバタしていたのか」
「寝てたら顔面に俺の裏拳が当たったんだってよ」
 それは怒られても仕方無いのかもしれない。
 ルイユを連れて自室へ足を踏み入れる。カーテンは完全に開かれ、明るい外からの光が内部に差し込んでいた。
 それまで少し暗がりの室内に居たリシェはその眩しさに一瞬顔を逸らしてしまう。
「あいつが帰っちゃったからこの長くなった髪、纏める事が出来ねぇんだよなぁ」
「あー…」
 そういえば昨日は良い具合に彼が長く伸びた髪をセットしたんだっけ、とリシェは思い返す。一気に成長してしまったので相応に髪も伸びるのだろうとは思うが、流石に頭も重そうだ。
 動作をする度、かくかくと頭を揺らす位に。
「リシェ、お前これどうにかしてくれよ」
「俺はあいつ程器用じゃない。…なんなら、ある程度切ればいい」
「えぇ」
「一時的に軽くする程度まで切って、後で手直しして貰えばいいだろ」
 質の良い金色の糸を思わせるような髪をわしゃわしゃと掻き上げ、ルイユは「ハサミある?」と続けた。
 どうしても切りたくて仕方無いらしい。
「文具向けしか無い」
「ならそれでいいや…」
 勉強用の机から大きめのハサミをルイユに手渡すと、彼は遠慮無く長くなっていた髪を束にして刃を当てる。リシェが無言で見守っている最中、あっさりと髪を切っていった。
「あ」
 切った後でリシェは声を上げる。
「何だ?」
「下に紙でも敷けば良かったかなって…遅いか。お前が散らかさなければいいだけの話だし」
 腰位までだった髪の長さが、一気に肩位まで短くなった。だが無造作に切りすぎて、先が変に真っ直ぐだったりバラバラの状態で体裁が悪くなってしまう。
「ゴミ箱ー」
 切った髪の毛の束を手にしたままのルイユはリシェに促すように声を上げた。日光の差し込み具合で、切られた髪が美しく輝いている。このまま捨てるのも勿体無いが、再利用の方法が分からない。
 無言のままリシェは空の状態のゴミ箱をルイユに突き出すと、彼は遠慮無く捨てた。
 改めて確認して見てみると、やはりちぐはぐで見窄らしい様相だ。リシェは首を傾げながら呟いた。
「そのままだと何だかみっともないな。少し手直ししてやる」
「おー」
 軽く切って揃えている最中、ゆっくりと階段を上がってこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。まだ早朝である為か、その足音も心なしか遠慮がちだ。
 足音は部屋の前で止まった。
「…ルイユ様。起きていらっしゃいますか?」
 ノックと共にクラウスの声が聞こえてくる。声を顰めてくるあたり、周囲への気遣いを感じさせる。
「起きてるよー」
「…そうですか。それなら良かっ…」
 ルイユの声に、安心したようにクラウスは扉を開けた。そして目の前の光景に言葉を止める。
 長い髪をばっさりと肩まで切られた姿に、思わず「何を…?」と眉を寄せていた。
「とりあえずある程度髪を切ってたんだよ。凄げぇ煩わしいしさ…んで、リシェが手直ししてんの」
「おはようございます、クラウス殿」
「お…おはようございます、リシェ殿」
 大体切り揃えた所で、リシェは手を止めて立ち上がった。
「あとは専門の人にやって貰うといい」
「おー、めちゃくちゃ軽くなった!」
 即席でとはいえ、肩ぐらいまで切り揃えたおかっぱ頭なので違和感はある。だが負荷を感じていたのが解消されたのなら本人にとっても良いのだろう。
 クラウスは手持ちの懐中時計に目を向ける。
 まだ時間は早く、検査予定時刻まではかなり余裕があった。
「ではルイユ様。とりあえず…もう少しさっぱりしに行きましょうか」
「んえ?」
「ランベール家の者としてしっかり整えて頂かないと。リシェ殿が申し上げたように、専門の方にお願いして然るべき姿にして貰います」
 ルイユはリシェに目を向けると、やけに不満そうな顔で「ほらぁ」と口を尖らせる。
「お前がちゃんと切り揃えなかったからクラウスがこんな事を言い出してんだぞ」
「お前、人の話を聞いていなかったのか?俺はちゃんと専門の人に切って貰えって言ったはずだ。それに最初にハサミを入れてザクザク切ったのは自分だろうが」
 理不尽なルイユの言動に完全に慣れているリシェは、無表情のまま言い返していた。これがスティレンならば余計な揉め事になっただろう。
 後片付けを黙々とこなす中、クラウスはリシェに面倒を掛けさせた事を詫びる。
「お部屋を使わせて頂いているだけでも申し訳無いのに、お手間を掛けさせてしまって」
「いえ…俺もちょうど目が覚めた所でしたから」
 クラウスはルイユに早く他所行きに着替えなさいと命じる。一時的に貸与しているロシュの法衣を覚束ない手つきで身に纏うと、一端の術者のようにも見えてきた。
 ただ髪型がまばらなので少し格好がつかない。
「どうせならかっこいい髪型がいいなぁ」
「それも含めて相談して切って貰いましょう。あなたは大雑把な割には変に神経質な所がありますからね…旦那様のお抱えの散髪職人ですら嫌がるんですから」
「あの職人は昔っぽい髪型しか出来ねぇから嫌なんだよ。いかにもおっさんみたいに変に角張ったり丸み出されるのめっちゃ嫌なの!」
 …まぁ、親子程の年齢差があれば好みが分かれていても何らおかしくはない。
 二人の会話を聞きながらリシェはそう思った。
促され、ようやく外出の準備が整ったようだ。
 クラウスは改めてリシェに頭を下げる。
「検査の時間までには間に合うように戻りますので、ロシュ様にそうお伝えして頂いても宜しいでしょうか?」
「あ…はい、勿論です。しっかりお伝えします」
「ありがとうございます」
 二人が部屋を立ち去ると、いつものように部屋の空気の入れ替えをして軽く室内の掃除を始めた。
 いずれにしろルイユがまたここを使うので、来客の為にも少しは綺麗にしておかなければ気が済まないのだ。
 一日に一度、室内の清掃の為に大聖堂の職員が訪ねて来るものの、大掛かりな清掃の時を除いてはほとんど自分で行っている為、軽いゴミ処理を頼むだけのものだった。リシェの部屋とは別で、ロシュの部屋の場合は広さも違うので、毎日数人の職員が決まった時間に訪ねて来ては手際よく清掃を行う。それが外出しようが、室内で仕事をしていようが同じだ。掃除をして貰う立場なので、ロシュやオーギュもそれを邪魔と思う事も無い。
 彼の部屋は浴室のメンテナンスも入るので、それなりに掛かる時間も大きかった。
 部屋の掃除を済ませ、ゴミ袋を部屋の扉の手前に置く。こうする事で、職員がそれを見つけて持って行ってくれるのだ。
 …そろそろロシュ様も目を覚ます頃だろう。
 明るさを取り戻した窓の外に目を向けた後、リシェは自室を後にした。

 日が昇ってきたとはいえ、まだ早朝の肌寒さが全身を覆いつくしていた。大聖堂の中庭にあるショップエリアでは、早々に開店の準備をするオーナーの姿も見受けられる。
 オーギュは冷えてきた手を軽く擦りながら、職員から調書を貰う為に地下監視牢方面へと向かっていた。ルイユの体調も気掛かりだが、原因の解明も目を向けなければならない。
 前回話を聞いていたように、根無し草の旅人であった彼らを利用し裏で糸を引いている者が居るのは明らかなのだ。ただ騒ぎを起こしたかっただけの愉快犯ならば尚の事、更に突き詰めておかなければまた新たな騒ぎが起きる可能性もある。
 …実行犯とはいえ、ある意味騙されてしまった彼らの為にも突き詰めておかなければ。
 毎回のように重い書類や書物を持ったまま出歩く事には慣れてはいるものの、まだ底冷えのする空間に居続けるのには辛いものがある。かと言って、ファブロスに持たせて歩くのもどうかと思う。
 彼ならば遠慮するなと言いそうだが、そこまで甘えるのは流石に嫌だった。
 痺れそうな腕に耐えながら、人の少ない廊下をひたすら進んで行くと対向側から人影が見える。
 ただでさえこの周辺に近付く人間は限られているのに、早朝から人が居るとは珍しい。恐らく関係者か、清掃の為に動いている職員なのかもしれない。
 壁に埋め込まれた発光石の朧い灯りの中、冷たい足音を響かせながらお互いに近付いていく。
 軽く挨拶を交わそうと口を開いたものの、目の前に出現したのは予想もしない人物で思わず足を止めてしまった。
 普段大聖堂に寄りつかないくせに、何故この時間帯にこのような場所に居るのか。
 相手側もこちらに気が付いたらしく、オーギュの姿を見るなり嘲笑を含ませながら仰々しい仕草をする。
「は…これはこれは司聖補佐様。早朝にこのような場所でお見受けするとは」
「………」
 小馬鹿にしたような物言いは慣れてはいるが、朝っぱらから嫌味を聞かされるのは非常に気分が悪い。
 オーギュは眉を寄せ、嫌悪感を一瞬だけ見せるもののすぐに無表情に戻った。相手の言葉に乗っては自分が損をするのは十分理解しているつもりだ。
「この先には薄汚い鼠しか見る物が無い。そんな場所に好んで行く悪い趣味でもあるもんかね」
「…私よりもご自分の胸に同じ質問をしてみたらどうです。普段は大聖堂に立ち寄る事も無いくせに、どうしてこの時間にその薄汚い鼠が居る場所に居られるのですか、ジュリエス兄様」
 そういえば随分と自分の兄弟の姿を見ていなかった。顔を見たいとも思ってはいなかったし、勿論実家に帰るつもりもない。
 仮に帰ったとしても腫れ物扱いをされるか、無言の圧力で邪魔だと言われるだけだ。自分が何故そういう扱いをされてしまうのかは特に知りたいとも思わなかった。
 自分はインザーク家にとってお気に入りの人形になれなかったのだから。
「こっちが何処に居ようがお前には関係無い事だ。たまに散策位はしようと思うのは悪い事ではないだろう?」
 兄の言葉にオーギュは思わず口元を綻ばせた。
「へぇ…散歩をする割には随分と物騒な場所を好むんですね。大聖堂にはもっと良い場所があるでしょうに。何か用事が無い限り、誰もここには立ち寄ったりしませんよ」
「………」
 お互いの視線が冷たくぶつかり合う。
 年齢もそこそこ離れている為か、それとも波長が合わないのか兄弟同士で遊んだ記憶は無い。自分と彼らの間には分厚い壁で遮られているような距離感しかなかった。
 上の二人は仲が良いのに、こちらには全く見向きもしない。幼い頃はそれが不思議で仕方なかったが成長するにつれて興味も薄れ、どうでもいいものだと達観するまでに至ったのだ。
「インザーク家は昔から慈善活動をしている事は、博識のお前なら当然知っているもんだと思っているんだがね」
 聞き慣れない言葉を受け、オーギュは眉を寄せた。
 貴族階級の人間が困窮している低層者向けに慈善活動を定期的に行なっているのは良く耳にする。名前を出さずとも個人的に行なっている者も多く、ロシュやオーギュも度々送られてくる陳情の内容を見聞きした上でなるべく手厚い援助を行なっていた。
 中でも先代、先先代と長く続けて慈善活動を行なっている篤志家も存在し、多方面から慕われ続けている。個人としては非常に変わり者ではあるが、レナンシェもその中の一人だった。
 それに比べ、同じ貴族の間でも決して評判が良い話を聞かないインザーク家が他者に対し損得勘定無しで手を差し伸べるとは到底思えない。
「慈善…?」
 疑問を素直にぶつける弟に、ジュリエスはふっと軽く笑みを浮かべ両手を戯けるように広げた。
「不可侵とは便利な言葉だと思わないか?」
「は?」
 不審に思ったオーギュを前に、彼はおっと…と言葉を止めた。
「無駄に察しのいいお前に言う言葉ではなかったな。…慈善の手を広げるのは、困窮している人間だけでは無いっていう事さ。頭の固い奴には何を言っても無意味だろうがね」
「………」
 どの言葉を拾っても、意味深にしか聞こえてこない。慎重な態度を取りながら、オーギュは次兄であるジュリエスの出方を覗う。
「じゃあ、俺はこの辺で失礼するよ。こう見えて忙しい身の上なんでね。お前も精々、ご立派なお役目に専念する事だな。家柄に恥じないように」
 長丁場になると彼は余計な事をうっかり口走る癖がある。その前に撤退した方がいいと自ら学んでいるのか、大人しくオーギュの横を通り過ぎて行った。
 ひんやりとした空気が流れる中、オーギュは足音を響かせて辿ってきた道を進んで行く兄の背中を見届ける。
『(…オーギュ)』
「(何です、ファブロス?)」
 しばらく体内で大人しくしていた召喚獣は、おもむろに話しかけてきた。
『(どうにもいけ好かない奴だな。悪いが、お前の兄とは思えん)』
「(そうですね。私もそう思います)」
 本人に対して肉親の文句を言うものではないとは思うが、ファブロスにはそこまでの考えが無いようだ。しかしオーギュにとっては、彼が思った事を素直に言ってくれるのは逆に気持ちが軽くなる。
 彼と同じ事を、肉親である自分も思っているせいなのかもしれない。
『(奴は慈善と言ったな。監視牢で慈善活動とは一体どういう事だ?奴は薄汚い鼠しか居ないと言っていたが、そんな場所に何をしに来た?)』
「(え…?)」
 オーギュはジュリエスが消えた方向へ振り返る。だが既に彼の姿は無く、静寂に返った廊下の景色だけがあった。
「まさか」
 ぽつりと呟き、顔を上げる。
 …妙な予感がした。
 オーギュは地下監視牢に向け、一気に駆け出す。
『(ふん。…杞憂に終われば良いがな)』
 急ぐ主人の中で、ファブロスはぼやいた。
 一方のオーギュは、滅多に大聖堂に立ち入らないジュリエスがこのような場所に出現した事に不穏なものを感じずにはいられなかった。
 下に続く階段を駆け下り、オーギュは急ぎ足で監視牢への敷地内へと進む。
 照明灯の代わりに壁に埋め込まれている発光石が仄かに灯る中、監視役の宮廷剣士が待機する小部屋の扉を軽くノックした。牢に誰かが収監されている間は監視役として大聖堂の職員や、または宮廷剣士が派遣されている。魔力を抑制させる結界を張り巡らせており、尚且つ老朽化し難い素材を用いた檻が設置されている為、余程の事がない限り収監者や監視役の安全は確保されているはず。
 …扉をノックするものの、返事は返ってこなかった。
 オーギュは怪訝そうな顔でゆっくりと扉を開いた。その瞬間、彼の体の奥でドクンと心臓の鼓動が強く響く。鼻を掠める異様な匂いを感じると同時に、自分の名を呼び注意を促すファブロスの声が脳に響き渡った。
『(オーギュ!!)』
「え…」
『(離れろ!!)』
 小部屋の中から瘴気が溢れ出してきた。
 それを間近に感じてしまったオーギュは、一瞬にして全身を硬直させてしまう。
「なっ…!?」
 声を掛けるタイミングが遅かった。意識が混濁し、落ちていく感覚に抗うようにファブロスは主人と繋がっていた意識を分断させる。
 バランスを崩し、膝から落ちる細身の体。
 瘴気を煽った体は部屋の前で一旦倒れるも、やや間を開けてからゆっくりと起き上がった。
『遅かったか…』
 気を失ったオーギュに代わり、彼の体を借りたファブロスはぐらつく頭を押さえながら苦々しく呟く。過去に魔導具屋のイベリスに魔法の能力を制限されて以来、魔力にやや鈍感になっていたのか、扉から出てくる異質な魔力に気が付かなかったようだ。
 主人と成り代わったファブロスは瘴気の元を探すべく小部屋の中へと入った。
 少人数しか収容出来ないレベルの室内は、三つ程のデスクや書類棚で占められている上、様々な物が雑然と置きっぱなしだった。ここよりも広いはずのオーギュの部屋ですら書物や薬品やらで狭いと文句を言ってしまうファブロスには窮屈極まりない感覚を覚えてしまう。
 瘴気の元の魔力を辿っていくうち、部屋の奥から強い魔法の力を感じた。何者かが置いてそのまま立ち去ってしまったのだろう。
『………っ!!』
 途中、足元に何か固い物を感じた。魔力に気を取られていて床に気を配るのを忘れていたファブロスは、がくんと体勢を崩しかけるものの寸での所で持ち直す。
 何だ?と端正な顔を一瞬顰めながら自らの足元に目線を向けると、若い宮廷剣士が横たわっていた。
『…監視役?』
 室内に溢れる魔力の瘴気にやられてしまったのだろう。起こそうと屈んだが、まずは元を止める事が最優先だ。
 いつものオーギュならばすぐに気付いただろうが、制限されている状態では対応のしようがない。
 彼と離れていなくて良かった、と心底思った。
瘴気は腰から下に掛けて強く澱んでいて、上の方はまだ薄い。
 最上位に位置する召喚獣のファブロスにとっては、この程度ならばまだ耐えられる。耐性の無い一般民では軽度の瘴気に当てられれば、忽ち気を失ってしまうかもしれない。
 元を探していたファブロスは、角に転がっている青い貝殻タイプの器を確認した。
『…ふん、こいつか』
 置かれた物ではない。恐らく、蓋を開いて効果が出る前に放り込まれた物なのだろう。床に倒れた剣士はそれを確認する前に気絶したのかもしれない。
『こんな小細工で卒倒してしまうとはな』
 …人間というものは何と脆弱なのだろう。
 ファブロスはその器を魔法の力で燃やす。
急激な熱により、器は鼻に付く匂いを放ちながら縮んでいった。
 同時に室内の瘴気の元が徐々に薄れる。室内は換気用に小さな小窓が数ヶ所にある程度で、空調に関してはかなり弱過ぎるのではないだろうか。
 切れ長の目を更に細めながら、ファブロスは流されていく瘴気の様子を見届けた。
「う…く…っ」
 先程の監視役の呻く声が聞こえる。瘴気が薄くなってきたので意識も回復してきたのだろう。
『大丈夫か?』
 靴音を立ててゆっくり近付くと、監視役の宮廷剣士は突然目の前に出現した司聖補佐の姿に一気に覚醒する。
 凄まじい瞬発力を持って身を起こすと、「オーギュ様!!!」と頭を下げて敬礼した。
『………!?』
 突然の見慣れぬ反応を受けたファブロスは、彼の様子に驚く。
「申し訳ありません!!いつの間にか俺、意識が無くなったみたいで」
 あまりの剣幕に、自分が現在オーギュの身を借りている事を忘れていた。ファブロスはゆっくり唇を開き、『いや』と一言呟く。
『私はオーギュの体を一時的に拝借しているだけで本人ではない。改められても困る。奴もお前と同じように意識を失っているのでな』
「…え…?どういう意味ですか?」
 やはり、普通に説明しても意味が分からないようだ。外見で見れば、完全に姿は主人であるオーギュなのだから無理も無い。
 ファブロスは少し苦笑を交え、自分の素性を正直に明かした。自分はオーギュと魔力によって契約した召喚獣なのだと。
『私はオーギュの体を一時的に借りているだけだ。別に信じてくれなくても構わないが…悪いようにはしない。それよりも、何がお前の身に起こったのか教えて欲しい』
 剣士は司聖補佐の姿をした別の人物に若干疑いながらも、現在自分の身に起こった事を思い出しハッと顔を上げた。
「そ、そうだ…この部屋の外から何か投げ込まれて。そこから記憶が」
『………』
「…てか、牢屋はどうなった!?」
 彼はファブロスを無視するかのようにそこから立ち上がると、一番大切な任務を思い出し室内から出て行ってしまった。やや間を開けてから、悲痛な声が響き渡る。
「…あ…!!あぁああああ!!」
 ファブロスは彼を追い、小部屋から飛び出した。
『どうした?』
「収監者が居なくなって…!!!」
 絶望感に満ち溢れた剣士は、牢の前でがくりと膝を落とし頭を下げていた。自分が気絶している間に監視対象が消えていたという事実を受け入れられない様子だ。
 ファブロスは『お前の落ち度ではない』と宥める。
『まず最初にお前の上官に報告しに行って来い。私はここで待機するとしよう。私はオーギュではないから、この場合どう動いたらいいのかは知らん。せめてお前が周りから責められる事が無いよう、私が説明してやる』
「………」
『中身がどうあれ、このオーギュの姿でなら信用に値するだろう』
 剣士はファブロスの言葉に、少し怪訝な面持ちを見せる。だが自分が今置かれている現状を報告する必要があると判断したのか、彼の言葉に甘えて頭を下げた。
「すみません。すぐ戻ります!」
 ファブロスは静かに頷く。
 監視役の剣士の足音が遠ざかると共に、ファブロスは牢の奥へ足を進めた。ひやりとした空気が流れる中、無機質な鉄の格子の先を見通す。
 鉄格子の間隔は非常に狭く、人間が抜ける広さでは無い。尚且つ、頑丈な牢を強引にこじ開ける位の力を持つ人間が居るとは思えなかった。だとすれば、何者かが合鍵を持っていた可能性が高い。
 ファブロスは扉の手摺りに手を掛け、軽く引く。
 …扉は普通に解錠されていた。
 同時に、先程見掛けたオーギュの兄と名乗る者を思い浮かべる。
『…ジュリエスとか言ったな』
 普段ここに立ち寄らない人間が何故居るのかというオーギュの疑問を思い出してしまった。
 非常に分かりやすいじゃないか…と思わず鼻で笑ってしまった。しかしこれでは証拠が薄過ぎる。
 ある程度時間を持て余した後、再び忙しない足音が地下牢内で響いた。
「お待たせしました!」
『あぁ…』
 先程の監視役の剣士と一緒に、数人の屈強な宮廷剣士達が調査の為に戻って来る。ファブロスが彼らに顔を向けたと同時に、突然視界が真っ暗に遮られてしまった。
『!!?な、何だ!!?』
「オーギュ様、ここで会うとか!!」
 聞き慣れた声。全身が一気に締め付けられ、窒息しそうになる。
『またお前は…!!見境無く抱きつくな!!』
 しかも同僚達の目の前だ。連れてくる分には十分話の通じる相手だが、別の意味で面倒な人間がやって来るとは。
「副士長!?何をしてるんですか!!」
 馴染みの無い剣士が動揺する最中、慣れているベテラン剣士は思い出したようにぼやく。
「あー…そうだった。こいつ、オーギュ様に対してはこうだったんだっけ…」
 しかし現在、オーギュ本人は眠っている状況だ。
 ファブロスは抱きついてくるヴェスカに対し、『私はオーギュではない!!』と両手を突き出して強く押し出した。
 他者が見ている中で、よくこのような行動が出来るものだと呆れてしまいそうになる。
「…ぇええ…またあんたかよぉ…」
 そこでようやく理解した模様。
「本人はー?」
『油断して撒かれた瘴気にまんまとやられおったわ。…ふん、私が中に居て良かった』
 腕を組みながら抜けた主人に対する文句を口にしてはいたが、ヴェスカの目にはやけに嬉しそうに映っていた。
 満更でも無いって感じじゃねえか…と思ったが、言えば更に喋ってくるに違いない。オーギュに寄り添える唯一の存在なのだと言わんばかりにもの申してくるだろう。
「…まぁそれはそうとして。ある程度の話は聞いたけど、あんたらは何でこっちに足を運んでたんだ?」
『オーギュの仕事の一環だ。…個人的に知りたい事もあったのだろう。前にも数回程ここに立ち寄っては収監者に質問をしていたようだしな』
「ふ…ん、なるほどねぇ。あんたはそれもオーギュ様の中で見知りしてるんか」
『私とオーギュは常に意識の共有をしているからな。奴の身に起きた事は私も充分熟知している。お前がちょっかい出してきた事も存分にな』
 オーギュの身を借りた状態でのファブロスの口調と、その妙に刺してくる目線を受けるヴェスカは思わずぐっと言葉を詰まらせてしまった。
 やはり色々とバレているのだろう。胸を締め付けてくる感覚を堪えつつ、「それは…まぁ後々話す事にしよっか…」と呻いた。
「今はその話をしに来たんじゃねぇし…ちょっと牢屋を確認させてよ」
『好きにするがいい』
 狭い待機所から剣士達が離れ、空になってしまった監視牢の確認を済ませた後に再びヴェスカが戻って来た。
「なぁ、ファブロス」
『?』
 中身が違うと雰囲気までがらりと変化してしまうのか。高位召喚獣としての変わった雰囲気がそうさせているのか、主人とは違う意味での近寄り難い空気を放っている。
「オーギュ様は何かよく分からない瘴気で気絶したんだよな?こっちからもそう聞いたけど。その元になる物って何処にある?」
『ん?』
 腕を組みながら待機していたファブロスは、顔を上げヴェスカを見た。
『元?…あぁ、器みたいなものがあったな。瘴気を完全に消す為に燃やしたぞ』
 けろっとした様子で返答すると、ヴェスカは顔を真っ青にしながら「ファッ!?」と思わず叫んでしまった。
「な、何で燃やす!!?」
『害になるものだと判断してな』
「し…証拠品になるもんだぞ!!もぉおおお!!」
 ここで人間と召喚獣の考え方の違いが出てしまうとは思わず、ヴェスカは頭を抱える。まさか灰になっていたとは予想もしなかった。
 …害ならば消し去ってしまった方が安全だというのは分からなくもないのだが。
「ううん…仕方ない。消し炭だけでも取っておくか…」
 頭を抱えつつ、ヴェスカは後輩剣士に部屋の角にある消し炭の採取を指示した。追従する剣士らは直ちに部屋の奥へと進んで行く。
「牢屋の鍵は完全に開いてた。誰かが手引きしたんだろうな。あの旅人らを解放したとしても、別に得になる事なんて無いと思うけどさ」
「副士長…本当に申し訳ありません。俺の完全な落ち度です」
 監視役をしていた剣士は辛そうな面持ちで上官に謝罪する。ヴェスカは「仕方無ぇよ」と苦笑混じりに宥めた。
「魔法の力にはどうやっても対処出来ない時がある。俺も魔力には本当に弱いからな。抗えない気持ちは分かる。お前のせいじゃない」
 炭の採取を終えた後、ヴェスカは剣士達に兵舎へ一旦戻るように指示する。彼らを退け、足音が消えるのを待った後で、「さて…」と天井を見上げた。
『ん?どうした?』
「実はさ。この部屋の天井にひっそり埋まってんだよね、記憶片の結晶がさ。有事の際には寸前に何が起こったのかってのを記憶してくれる訳。…まぁ、三時間程度しか記録してくれないらしいけど」
『…他の人間を退けたのはそういう意味か』
「俺も今の役職前は知らなかったよ。ただ、結晶はずっと埋め込まれててかなり古いみたいだから、ちょっと脆弱性に欠けるんだけどなぁ」
 そう言いながら、彼は事務机に上がり天井の一角に隠されていた結晶を探った。
 ミシミシと重みを訴える机の音を響かせつつ、通気口に見せかけた網の扉を開き、手を突っ込んでいく。
「…古いから取りにくいな」
『………』
 どうやら回して取るタイプのようで、ようやく取り方を理解したようだ。そのまま結晶を取り出し、落ちてくるゴミに顔を顰めつつ「よっしゃ」と埃を被った現物を目の当たりにしたその時。
 …パリン、とその結晶はヴェスカの手の中で大破した。
 二人は同時に唖然とした表情をする。
『…は…』
「…えぇええ…?」
『何だお前!?人の事を言えないではないか!!』
「違うって!!そんなに力入れてもねぇし!!」
 完全な証拠になり得そうな物を連続で破壊してしまった現状に、ヴェスカは溜息を吐きながら机から降りた。
「あまり期待はしてなかったしなぁ…急に外部に出したから新しい空気に耐えきれなかったかもしれない…」
『そもそも数年単位で石を入れ替える事すらしなかったのか。全く杜撰だな』
 返す言葉も無い。
 今更思い出したように都合の良いアイテムを引き出すには無理があった。この件も含めて報告をしていかなければならないな…と頭を掻く。
 壊してしまった自分の過失もあるが、劣化状態をそのまま放置していた大聖堂側にも問題があるだろう。
「んじゃ、俺は兵舎に戻って報告しに行くわ。あまり長居する暇も無くてさ…後々また調査に来るだろうから、あんたも出た方がいい」
 内部で眠っているオーギュ様によろしくな、と付け加えながらヴェスカは部屋を出ようとした。
『ヴェスカ』
「んあぁ?」
『ここに来る前にオーギュの兄と遭遇した』
 ヴェスカは目元をぴくりと動かす。広い大聖堂の中で、何処で誰が居ようが別におかしい話では無い。
 きょとんとした面持ちで逆に聞き返す。
「ん?それがどうかしたのか?」
『いや…特に何をしていた訳ではない。オーギュ本人も不審がっていたから、一応知らせておいた方がいいと思っただけの話だ。滅多に立ち寄らない人間が何故居るのだろうとな』
「………」
 オーギュの二人の兄の印象は決していいものでは無い。それはヴェスカだけではなく、大聖堂に立ち入る人間や同種の貴族間でも同じだろう。
 常に遠目で見るだけで大して絡む事も無い相手で、今回も立ち入っただけで特に何もなければこちらからは動きようがない。
「うーん…まぁ、頭に入れておくよ」
『ああ』
 じゃあなと彼は軽く手を上げて立ち去って行く。その後ろ姿は、宮廷剣士の副士長ではなく普段の素のままだった。

 …司聖の塔内、ロシュの自室。
 髪を短く整え、身体検査を済ませたルイユを前にロシュは複雑な表情を露わにしていた。
 職員からの結果報告と、個人的に引っ掛かった点を含めての本人からの発言を受け、どうしたものかと頭を抱える羽目になったのだ。
「正気ですか?」
「正気っつーか…今は戻れる術が見つからないんだろ?体の成長も落ち着いたんなら、別に構わねぇよ」
 ロシュの質問に対し、ルイユは特に悲観的な様子もなく答える。
 そんな彼とは対照的に、ロシュは苦々しい表情で頭を抱えながら続けた。
「あの時、あなたに刺さった魔物の破片から大人になりたかった子供の非常に強い願望が流れてきたのを思い出したのです。残留思念が流れ込むのはよくある事なので、特に気に掛けるものではないと思っていたのですが」
 きっかけは早く大人になりたいと呟いたリシェの発言だったが、そこで不意に思い出すとは思わなかった。そこまで重要だとは思えなかったのだ。
「…その思念の力が強く出てくるとは」
 世話役のクラウスとリシェは会話を聞きながらお互いに顔を見合わせていた。双子の弟のルシルは、リシェのお気に入りのクマのぬいぐるみを抱き締めながらロシュのベッドの縁に腰を据えている。
 その表情はやはり明るいとは言えなかった。
「ま、俺は元々早く大きくなりたいって思ってたし。その願望と俺の気持ちが見事に合致したって思えばさぁ」
「あなたがそう思うなら構わないのですが…」
 いきなり成長した事によって、周囲の環境も変化せざるを得ない場合も出てくるはずだ。外見がやや青年寄りになった事によって、弟のルシルと同一視されなくなるだろう。
 中身はまだ十四歳の子供でも、周りはそう見てくれない。今までと同じく、とはいかないのだ。
「クラウス殿は如何ですか?」
 ロシュは一番身近な世話役に問い掛ける。
 長年寄り添っているクラウスは、冷静な面持ちのまま「私はお二人のお世話をこれまで通り、変わらず続けていく所存です」と目を細めた。
「ですが、見た目だけ大人になった以上、少し位は落ち着いた物腰を心掛けて頂きたいですね」
 大聖堂を縦横無尽に走り回る様子を思い出すリシェは、確かにな…と頭を掻く。
 すぐにとまではいかないが、これを機に落ち着く事を覚えた方が良い。
「落ち着きの無いルイユはルイユじゃないよぅ…」
 ルシルはまだ納得していない様子だった。
「ルシル様。…お姿は少し変わったとしても、ルイユ様はあなたの双子の兄弟のままですよ。流石にルイユ様にはそろそろ落ち着いて欲しい位ですから、丁度良いのかもしれません」
「じゃあ怒られる回数が減るの?」
「それはあなた方が努力するべき事でしょう」
 拗ねるルシルをクラウスが宥めていると、室内の空気が僅かに揺れた。カタカタと家具もそれに反応するかのように物音を響かせていく。
「んん?揺れてる?」
 クマのぬいぐるみに顔を埋めていたルシルは不意に顔を上げた。
「ああ、戻ってきましたね」
 ロシュは慣れた様子で窓の外に目を向ける。
 数秒後、法衣姿の男が普通にベランダから姿を見せてきた。
「オーギュ、おかえりなさい」
『今戻った』
「あなたはオーギュですか?それとも」
 いつもの雰囲気と異なっているのを即座に察するあたり、やはり高魔力の司聖というべきか。オーギュはふっと目を細めながら『奴は今昏睡していてな』と説明した。
『代わりに私が外に出ている』
「えっ?ファブロスがオーギュの体を使ってるのぉ?何か別人みたいだねぇ…変な感じ」
 空色の丸い瞳を見開いて驚くルシルに、ファブロスは無表情で頷いた。
『そうだ。魔力に当てられてしまってな。目覚めるにはもう少し時間が必要だろう』
「何かあったのですか?」
『監視牢で面倒事が起こってな。…後で報告が来るだろうが、説明してやろう。オーギュもまだ眠ったままだしな』
 かなり強力な魔力を当てられたのか、それとも日頃の疲れもあるのか、主人は目を覚ます気配が無い。しばらく放置しておくのが妥当だろう。
 ファブロスはこれまでに起こった事をロシュに淡々と説明をし、そのうち兵舎側から報告が来るはずだと伝える。
 彼の話を聞いたロシュは、腕を組んだ状態で気難しい表情を露わにした。
「こんな事は言いたくないですが、裏で手引きをした者が居るという事ですか。…全く、余計な事をしてくれるものですね。逃げる方も逃げる方ですが」
 自分の名前を使うだけならまだ許せたが、騒ぎを起こし住民達に被害を与えただけではなく、まともな謝罪もせずに逃走してしまうとは。反省の態度が無いと思われても反論出来ないだろう。
 それよりも逃走の手引きをした者が居るのが気に掛かる。
 …何となく、該当者は見当がつくが。
『監視役を昏睡させて鍵を取ったと思われる。…殺さないだけまだマシだ。しかし何の為にかは知らんが、そのままあの場に居させると不都合な事があるのだろう』
「他に何か異変とかありますか?」
『監視牢に来る前にオーギュの兄と会った位だ』
「…なるほど…」
 ファブロスからの続きの報告を聞き、ロシュは思わず口元に笑みを浮かべた。
「ふふ…」
『どうした?ロシュ』
「いえ、良くまあ分かりやすく足跡を残してくれるものだとね。こちらが迂闊に手出し出来ないのを良く分かっているのか…」
 あの晩の傍観者顔を決め込み、知らぬ顔で立ち去ったあの男を思い出す。込み上げてくる笑みを押さえていたが、次第に怒りが湧いてきた。
 前々から彼らに関してあまり良くない話は耳にしていたが、ここまでくると見逃す訳にはいかなくなる。
 オーギュの兄弟という事もあり、目立った事が無ければ特に気にする程ではないと見ていたが。
「ありがとうございます、ファブロス」
 ロシュは顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「ロシュ様ー」
「ん?どうしましたか、ルイユ?」
 少しだけ成長し、顔立ちも精悍になったルイユはロシュに声をかける。彼から拝借した見習い用の魔導師の法衣を身に付けたままだが、魔法が使えないルイユは非常にお気に召した様子だ。
 まだ少しだけぶかぶかだが着心地は良いらしい。
「この服、借りても大丈夫?」
「構いませんよ。気に入ってくれたのですか?」
「えへへ…俺、魔法使えないしな。なんちゃって魔導師になれるじゃん?何か賢そうに見えるし」
 その言葉に、ロシュはふふっと笑う。
「差し上げますよ。何なら、付属のボレロもお付けしましょう。魔導師の法衣を身に付ける事で、魔法の攻撃を防げる事も出来ますし」
「ほんとか!?えー、マジでくれんの、これ?」
「ええ、構いませんよ」
 これから大きくなる彼にとっては丁度良い位だろう。過去に着てそのまま保存しておいただけの物だが使ってくれるのなら有難い。
 自分の衣類が入っているクローゼットを開き、法衣に合うボレロを引っ張り出すと再びルイユの前に立ち一緒に装着させる。真ん中の金色の留め具とパチンと付けると、魔法が使えずとも一端の魔導師の姿に変化した。
「おぉおおおっほ…いいねぇ。いいじゃん!」
「その格好だと魔法を使えるって他から誤解されるかもしれないな。どうするんだその時は」
 憧れている魔法使いの姿に目を輝かせるルイユに、リシェは苦笑を交えながら問う。
「そん時は使えねぇって言うし…それに、あまり街の外には出られないもん」
「お前も何か得意な物を見つけるといい」
 ルイユはそうだな…と身に纏った法衣を見下ろした。
 自分の体に異変があったにも関わらず、非常に楽観的なルイユを見ながらクラウスは改めてロシュに対し詫びの言葉を告げる。
「この度は本当にご迷惑をお掛けしてしまいました。ここまで大事になってしまうとは」
「いいえ、この件はこちらの不手際もありますので…この先の彼の身体の状態も気になりますので、特例重要観察者に位置付けて出来る限りのお世話をします。何しろ今までに無い事例なのでね…異変がありましたらすぐにこちらにご連絡を頂ければ。私からランベール家への報告も、後ほどお届けに上がります」
 ロシュはそう言うと、クラウスに頭を下げた。
「本当に申し訳ありません」
「い…いやいや、頭をどうかお上げ下さい!!」
 司聖が自ら自分に頭を下げてくるとはあってはならない事だとクラウスは慌て、ロシュに辞めるよう促す。目の届かない場所に行かせてしまった自分にも問題があるのだ。
「お叱りを受けるのは私の方ですので…どうか」
 押し問答を繰り返している二人を見ながら、当のルイユは「そんな深刻にならなくてもいいじゃんか」と呆れた。
「俺はこの通りピンピンしてるし、ちょっとばかり大人になって嬉しいってのに」
 まだ言うか、とリシェは溜息を吐く。
「…元々はお前が自分勝手な行動をしたからこうなったんじゃないか。スティレンと同行してる時に興味本位で酒場に入って行ったんだろう。ヴェスカが居なかったらどうする気だったんだ?…いい加減、その自分勝手な行動で周りが振り回されるのを自覚した方がいいぞ。見かけだけはもう大人に近いんだからな」
「…分かってるよぉ。ちゃんと…これでも反省してるんだからさ」
 諭され、ルイユは頰を膨らませた。

 数日後。
 大聖堂の中庭、カフェエリア内の一角で客用の椅子にどっかりと腰掛け、スティレンは「ふぅん」と偉そうに唸った。
「じゃあ、結局あのままなんだ?」
「ああ。戻る術が見当たらないらしい。図書館でも色々調べたんだがな。何しろ、本人が戻る気も無いからまだ救われるが…」
「生意気なガキだったくせに、一丁前にイケメンになっちゃってさ。ふん…ま、俺の世界一の美しさには到底敵うわけないけど」
 外見が緩やかな波のように柔らかい髪質で、優しげな垂れ目の王子様然とした顔を持ち、しなやかな体付きだとしてもその自意識過剰な発言では全てが台無しになるのにとリシェは思う。
 温くなりつつある紅茶のカップに唇を当て、ゆっくりと流し込んだ後にスティレンは続けた。
「一緒に居た弟はそのままなんでしょ?」
「魔力を浴びてないからな。ルシルはまだ利口だ。ルイユが特別なだけで…あちこち歩き回る癖が仇になったようなものだ」
「全くだよ。あいつ、ぜんっぜん言う事聞かないし。あの夜だって安全な所に居ろって言ったのに、勝手に近付いて来るんだから。…あぁ、それにしてもさ」
 既に注文した商品を平らげたリシェは、トレーに手を掛けたままきょとんとした顔で従兄弟の言葉を待った。
「ロシュ様、強かったねぇ」
「………」
「だって、あの人攻撃の魔法なんて制限で使えないんでしょ?なのに自分の使える魔法を駆使して化け物をどうにかするんだから…」
 巨大な魔物を押さえ込む姿を思い出してか、彼は羨ましそうに溜息を吐く。
「魔導師じゃなくても戦えるって余程だよ」
 リシェはまるで自分が褒められたような気持ちになり、つい表情を綻ばせた。
「だろう」
 敬愛するロシュが褒められるのは何より嬉しい。
「………」
 スティレンはリシェの滅多に見せない無防備な笑顔を目の当たりにし、ぐぐっと言葉を詰まらせる。
 …こいつ、こんな顔で笑えるのかと。
「何でお前が笑うのさ!?」
「!?」
「何かムカつくなぁ!俺は全っ然お前を褒めてないんだけど!」
「俺はロシュ様を良く言った事に対して素直に嬉しいだけだ!それを何だお前は!?曲解するな!」
 何だってぇ!?と周りを全く気にする事もなくスティレンが激昂する。止める者が全く居ない為か、延々と怒鳴り合いを繰り返していく。
 そんな中、似た者同士で言い合いをする様子を、遠目から足を止めて眺める男の姿があった。特徴のある切れ長の目を一層細め、吟味するかのように視線を投げる。
「ん?急に足を止めて…どうしたんだ、兄様」
 彼の先をかなり進んでいた連れ合いの男は、不審そうな面持ちで再び来た道を引き返してきた。彼もまた、立ち止まっていた男同様に身なりがしっかりしていて相応の身分の高さを伺わせている。
 兄と言われた男は顎で視線の方向を指し示した。
「あ…?何だ、あのガキ」
「黒髪のあれが司聖のお気に入り人形だ」
 お気に入りの人形、という分かりやすい言い方に、その同伴の男も意地悪そうな顔で「ははぁん…」と唸った。
 確かにあのロシュが可愛がるのも無理は無い。その美しさは人目を惹きつける魅力がある。真偽はどうあれ、夜な夜な寵愛しているという噂が立ってもおかしくない。
 二人は向こう側に居る少年らをまるで舐めるように眺めていた。連れ合いの少年もまた、負けずと美しい姿をしているのが良い。
「仮にあのお気に入りを夜会のステージに放り出せば、さぞかし人気になれるだろうな」
 ぽそりと呟いた兄のその言葉。
「相当可愛がって貰えるだろうな」
 仮に、の話だがなと前置きした上での発言。しかし意味は充分過ぎる位に理解出来る。
「…いいねぇ」
 同伴の彼も目を見開き驚いたが、すぐに意味深に笑みを浮かべていた。
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