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第二十四章
不敬の徒
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隣国シャンクレイスへ繋がる橋の工事が急ピッチで行われた結果、修復と補強の工事が無事に完了し無事にサキト達は自国へと戻って行った。見送る際に、名残惜しそうな顔の王子はお気に入りとなったスティレンにしつこく故郷に戻らないかと問い掛けるも、彼は頑として絶対に嫌だと拒否の姿勢を取っていたのが非常に印象的だった。
似た性格の為なのか、僅かでも一緒に生活していて流石に嫌気が差したのだろう。サキトが譲歩の姿勢を見せたとしても、完全に裏があると実感したのか冗談じゃないと突っぱねていた。
色々な事があったが、シャンクレイス側も満足しての帰還の日を迎える事が出来たので、司聖補佐のオーギュはホッと胸を撫で下ろす。彼らには沢山のお土産を持たせ、最後まで安全を確認しながらの見送りとなった。
別れの間際に、サキトは今度はこっちにも遊びに来てよねとロシュに言い残して。
「とりあえず無事に終わって良かった。それにしても、サキト様は天真爛漫なお方でしたね」
司聖の塔で溜まっていた仕事を選別しながら、オーギュは一言呟いた。ロシュが発注していたオーギュ用の書斎机がようやく届いたので、目線を同じくしながら仕事に取り掛かる事が出来る。新品特有の光沢を放つ大きな机を初めて目の当たりにしたオーギュは、何もここまで立派な物を用意しなくてもと遠慮がちに言っていたが非常に気に入った様子だ。
今まで仕事に使っていた大きなソファの上には、ファブロスがどっかりと獣の姿で寝そべっている。それでも体がはみ出してしまうので、うまい具合にリラックス出来る体勢になっていた。
「普段は年相応の振る舞いをするのに、いざとなったら王子としての風格を漂わせる。不思議なお方でしたよ。個人的には普段のサキト様の方が自然体という感じで好きですねぇ」
「ふふ、護衛の方々も大変そうでしたけどね」
サキトに振り回されているようにも見えたものの、彼を守る剣士達も個性があり過ぎるが故に調和が保たれているような印象を受けた。堅苦しさも無く、まだ居たいと我儘を言うサキトに対し「いいからさっさと馬車に入って下さい」と普通に言い放つアーダルヴェルトを思い出す。
ここまで突っ込んで言わないと彼の護衛は務まらないのだろう。
「お茶を淹れましょうか」
時計塔の針を遠目で確認し、オーギュが椅子から立ち上がった。
以前より短くなった髪型のせいで、まだ慣れないロシュは一瞬誰だろうと思ってしまうが少し時間が経過すると自分の相棒だという事に気付く。
ええっと…と一瞬ぼんやりした後、ロシュはハッと我に返った。
「あぁ、そうだ…どうにも今までと違う髪型なのでふとした瞬間にあなたが誰だったのか忘れてしまうのです」
それまで肩位の長さが、いきなりショートになってしまうとやはり脳内の処理が追いつかないらしい。それはロシュに限らず他の者もそうだった。
オーギュはそんな彼の素直な発言にふっと微笑む。
「気分転換もいいものだ。他の人をこうして騙せるみたいでね」
ティーポットを引っ張り、茶葉の選別をしながら冗談を言った。
「そりゃ…ファブロスもびっくりしたでしょう」
常にソファに居た主人の分、広々と寛いでいたファブロスは顔をゆっくり上げると眠たげに一瞬こちらを見た。
『ふんん…?』
どうやらうたた寝をしていたようだ。一瞬反応したかと思えば、また頭を下げて寝息を立て始めていく。
「おや。お邪魔をしてしまったようですね」
「暖かいから眠気が湧いてくるのでしょう」
こぽこぽと湯の沸く音も心地よく室内に響いてくる。
「少し休憩を取りましょう。多少休んでまた少し作業しますか」
ここ数日、目まぐるしい事が起き過ぎた。
疲労も蓄積しているので、少しは手を緩めてもいいだろう。オーギュはそう言うと、真新しい茶葉をポットに入れた後にお茶菓子の用意を始めていた。
アストレーゼン大聖堂、宮廷剣士兵舎内。
相変わらずの男所帯さながら、清掃もろくに行き届かない粗雑な雰囲気の中でデスクワークに励む副士長のヴェスカは一通の嘆願書に目を通した後、その内容に眉を寄せていた。
「嘆願書って直接兵舎に来るもんだっけ?」
「あ?」
事務作業をしていた剣士は、彼の言葉を聞いて首を傾げていた。
「普通は大聖堂側に行ってからじゃねえの?そもそも嘆願書ってもんは大聖堂経由で司聖様の所に行くもんだろ」
「あ…やっべぇ。普通に開いちゃったよ…」
「馬鹿!ちゃんと確認しろって士長からも口を酸っぱくして言われてただろ!」
稀に手違いで大聖堂ではなく兵舎に送られてくる荷物や書簡が紛れ込んでしまう時がある。兵舎に届けられる物品の類は宛先をしっかり確認してからようやく中身の検閲に入るのだが、まだ慣れないヴェスカは完全に自分の物のように開封していた。
やっちまった、と悪びれもせずにケロッとして頰をぽりぽりと掻く。
「どうすんだよそれ…嘆願書っていう位だからロシュ様向けだろぉ…」
最上位への書簡を何の遠慮も無く開けてしまうという重大なやらかしに、対応する剣士は深刻そうな顔を剥き出しにしていた。
「…まぁ、仕方無ぇな。俺が責任持って向こうに届けて来る」
やってしまった事は仕方無い。ヴェスカは問題の書簡を手にしたまま立ち上がった。
「うわっ、暗っ!!…あぁ、そっか。お前ガタイはめちゃくちゃいいからな…」
椅子に座っている時は気にならないが、彼が立ち上がると身長の高さもありそこだけ窓からの明かりが遮られ変な威圧感を与えてしまう。ちょうど彼の影に居た剣士は急に目の前が真っ暗になったので驚いてしまったらしい。
「へへへ、俺の美丈夫っぷりが良く分かるだろ?」
別に褒めた訳では無い。
相手の男は呆れながら溜息を吐いた。
「いいからさっさと行って来いよ。この件が士長にバレたら激怒されるぞ。運が良かったな。士長が遠征に行ってて」
「…まぁ、確かに。士長は怒るとめっちゃ怖いからなぁ…とりあえずオーギュ様に面会のお願いするかぁ…」
いずれにしろ別の意味で怖い相手に会う羽目になってしまうが、長い付き合いなのでまだ我慢出来る。…というより、この所全く会っていないので顔を見たいのが正直な所だった。
「ヴェスカ」
「んあ?」
兵舎の扉を開こうとしていたヴェスカの背中に、剣士仲間が声を掛ける。彼はそれに反応し、くるりと振り返った。
「嘆願書の内容は何て?」
「何だ、結局知りてぇのか?」
「どうせ嘆願書の類の大半は宮廷剣士の管轄扱いだろ。いずれ知る事になるんじゃねぇのか?」
大聖堂へ書簡が渡り、司聖側が検閲するのが決まりだが、内容によっては宮廷剣士側で賄える事柄と判断された後、司聖からの命として兵舎に下りて来る。今回ヴェスカが開封してしまった書簡は一般的な封書に入っていた為、何の疑問も無く目を通してしまい同僚に怒られてしまうという状況に至っている。
これが仮に最重要書類となれば封筒の素材自体が違った物になり、ぱっと見ただけでも大聖堂行きの物だと判断出来るようになっていた。
今回開封した物は、恐らく宮廷剣士側に指令として下りて来る案件の物だろう。
「あー」
ヴェスカは手の中の封書に目線を落とした。
「何か、司聖様の名を騙る偽物が横行しているってよ。ロシュ様が大好きなリシェが聞いたらガチ切れしそうな案件だわ」
「へぇ…よくまぁアストレーゼン内で即バレしそうな事をするもんだなぁ」
「ま、行って来るわ」
彼はそう言い残し、古びた扉を開けて兵舎を後にした。
兵舎から階段を降り切り、大聖堂に繋がる境界線を跨げば一気に人々の流れが激しい街へと変化する。
アストレーゼン大聖堂、城下街商業区。
遥か昔に城主制が撤廃され、城下という名前を冠しているのは誰しもが疑問を抱くが、生活している民は幼い頃から城下街という名称で定着しているのでそのまま地名として使われている。
一時、名称を変更したらどうかという話もあったものの、結局人々が昔から慣れ親しんだ名前で呼んだ方が分かりやすいという意見が多く、この名前で呼んでいるようだ。
「先輩の買い物ってほとんど研ぎ石とか専用の油とかですねぇ」
旅人や大聖堂への観光客、または巡礼する者が足繁く行き交う街の中を、かっちりとした宮廷剣士の制服姿で闊歩する少年二人。
「久し振りに砥いだら石の具合が良く無くてな。古くなってたし、そのまま使うのも逆に悪くなりそうで」
「うーん…先輩、もうちょっと色気のあるものが欲しがってもいいんじゃないですか?」
リシェの買い物に、何故かラスもくっついていた。
「色気って…」
具体的にどのようなものなのかさっぱり分からないリシェは、ラスの発言をぼんやりした様子で呟く。そもそも平和な学生生活を蹴ってまで窮屈な宮廷剣士の道へ進んだラスと、未来がまるで見えない環境に置かれ、そこに嫌気が差して着の身着のまま脱出してようやく進路を見出したリシェとは感覚がまるで違う。
まだお互い年若いものの、ラスから見る街の景色は興味深い物に満ち溢れているが、逆にリシェは彼とは対照的で賑やかな街並みや真新しい品物などには興味が無い。若者が目移りしてしまうような華やかな物には一切食指が伸びないのだ。
興味があるとすれば剣の手入れ道具や魔道具、薬草などの類。
これだけ人々の目線を惹きつけるだけの美貌を持っているというのに、それを引き立てるような事に関してはどうでもいいらしい。
「普段着とか新しいのを買いたいとか…そういうのは一切無いんですか?何だか勿体無いなぁって」
「何枚かあれば別に…」
こうしている間にも、行き交う通行人達はリシェの姿を見ると振り返り、声を上げたりしていた。かなり人の目を惹きつける美少年の姿にも関わらず、常に無表情という珍しいタイプの為なのだろう。
…自分の恋人だったら、相当自慢になるんだけどなぁ。
ラスは彼らの目線の集中砲火を受けるリシェの隣でぼやいた。
「あんまり欲が無いのも先輩のいい所なんですけどね…」
「…研ぎ石の欲はあるぞ。次に買う物はちょっと品質の高い物にしようと思っている」
「…そ、そうですか…」
自分の事に関しては無頓着だというのは良く知っているが、ここまでだとは流石に思わなかった。彼の従兄弟であるスティレンは自分の事だけに関しては一切の手抜きなどしないのに。
「あった。ここだ」
武具の専門店の入口手前で足を止め、リシェは店舗を見上げる。
古い建物だが、老舗特有の大きな佇まいをしていた。狩りを生業とする者や旅人、更に護身用の武器を求めに巡礼者などが店へ出入りを繰り返している。
アストレーゼン全域に展開している武具専門店なだけあり、個々に合わせた様々な武具や防具、または手入れ用の道具や修理用の部品なども幅広く取り揃えており冒険者達のニーズにしっかり寄り添っていた。
ラスは「ほあぁ…」と店全体を見上げる。過去に何度か足を運んだ事はあるものの、買い物を頼まれた程度で目的の物を購入してすぐ出ていた程度なので改めて店の全体像を眺める事は無かった。
武器は支給された剣のみで、これといって自分に合う物を探した事は無い。
「俺は中に入るがお前はどうする?」
「い、行きますよ…先輩を一人にさせるのはどうかと思うし」
ここでリシェを一人にさせたら、彼に変な輩がくっついてくるかもしれない。それは困る。
「折角だから自分の合いそうなのを探すのもいいぞ。お前、体術とか習ってたって言ってたじゃないか」
「少しだけ齧った位ですよ…それに、宮廷剣士の稽古なんて剣主体じゃないですか」
「士長クラスになれば剣だけじゃなく他のも同じように使いこなせなきゃならないらしい。ヴェスカは剣の他に斧も使えるし」
「俺はそこまで上に行きたいとは思わないですよ」
「そうなのか」
リシェは軽く頭を傾けると「誰でも上に行きたい訳じゃないんだな」と不思議そうに呟く。
「そりゃ…宮廷剣士になれば安定はするでしょうけど。俺は単に先輩と一緒にいられたらいいなって位の気持ちだったし…」
素直過ぎるラスを前に、リシェは目を丸くする。
「…変な奴だ」
相手の気持ちは良く知ってはいたが、自分は彼の気持ちに応える事は出来ない。それは前にも伝えてはいたが、ラスはまだ諦めてはいないようだ。
「研ぎ石の種類って結構あるんですか?」
「ん?…あぁ、あるぞ。あまり安いのは研いでも少し荒削りになってしまうんだ。丁寧にやったとしても何処かで引っ掛かりが出たりする。なるべくそうならないように丁寧に気を付けているけど…」
「へぇ…この機会に色々見てみようかなぁ」
リシェが興味を持つ物だから少しばかり気になったようだ。しかし手入れの仕方も今まで力を込めてやった事が無かったので、この機会に考え方も改めた方がいいかもしれない。
そして興味を持てば持った分、会話の数も増えるだろう。
「じゃ、先輩。いい石を見繕って下さいよ。ちゃんとした手入れのやり方とかも…」
「いいぞ。興味を持つ事はいい事だからな」
それとなく紡いだ言葉を受け、リシェが食いついて来た。
ラスは心がぽうっと暖かくなった気がして、嬉しそうに笑顔を見せる。
「やった」
「外でずっと待っているよりは、店にどういった物があるのか見てみる方が余程いいからな。中に入るぞ」
二人は出入りの多い店の中へと吸い込まれるように入って行った。
司聖の塔に職員から直接面会希望の知らせを聞いたオーギュは、それまでの仕事を一旦止めてロシュに断りを入れた後で大聖堂の中にある面会室へ向かっていた。
すっかり軽くなった頭の状態で受ける風は非常に心地が良く、もっと早い段階で切っておけば良かったなと思わずにはいられない。
中庭へ抜けた後、いつものように様々な人種がひしめき合う大聖堂の奥へと進んでいく。
所々に強化ガラスを張った天井から降り注ぐ日の光によって周辺は非常に明るく、大聖堂の厳格な雰囲気を和らげていた。老朽化による雨漏りの対策によって真新しいガラスを嵌め込んでいるものの、枠自体が古い為に根本的に解決しなければならない事案も発生している。
少しずつではあるが、大聖堂そのものの改装計画も進んでいた。
面会用の個室の前まで辿り着いた後、敷地内の手前で軽い手続きを済ませる。セキュリティの関係上、手前の事務局で話を通さなければその先に進む事が出来ない決まりとなっていた。
窓口の職員はオーギュの姿を確認すると、勢い良く事務用の椅子からガタンと立ち上がる。
職員は赤ら顔で、鼻の中心にやたらとそばかすが目立つ、どこか特徴的な男だ。オーギュが声を掛ける前までは退屈そうに何らかの書類を捲っていた。ここの事務局は特に多忙な部署では無いのだろう。
「オーギュ様!」
「こんにちは。私に対して面会希望の方がいらっしゃるとの事で、話がそちらに入っていると聞いたのですが…」
「あっ…ええっと、あぁ!ありましたありました。緊急面会の扱いですよ。一般の人ですけど、お知り合いの方ですか?文字があまりにもあれで…」
そう言い、彼はオーギュに一枚の面会希望の書類を手渡した。
「………」
一通り書面を見通した後、オーギュは「あぁ」と口を開く。
この特徴的な文字は見覚えがある。いかにも文字を書かないと言わんばかりの殴り書きのような文字だ。
「知ってます、知ってます。この下手過ぎる文字の持ち主。…また何の用事でわざわざ…」
溜息混じりにそう言うと、職員に「どの部屋に?」と問い掛けた。
指定された個室の扉の前に立ち、一息置いてからノックするとすぐに返事が聞こえた。
嫌でも聞き慣れた声。それと同時に、まだ開けてもいない扉がガバッと開かれる。
「………っ!!」
眼前には屈強の褐色の肌をした大男。
うわっ、と叫ぶ余裕も無く、腕を思いっきり掴まれ引っ張られ、あっという間に体が室内に持っていかれてしまった。
「ちょっ…!!」
バタンと扉の閉まる音が響く。顔を上げた瞬間、きつく抱き締められる。
「重い…っ!!何をするんですか!」
「んんんんぁああ…久し振りだからついさぁ…!!」
特注の宮廷剣士の制服のまま、司聖補佐に対する物凄い無礼な行動。側から見れば大問題である。
どうにか離れようともがくものの、相手の力が強力過ぎてなかなか腕すら解けない。まるで自分の感触をひたすら堪能する為に延々とくっついてくる様子だ。
「まさかこの為だけに緊急で面会の希望を出したんじゃないでしょうね!?だとしたら帰りますよ!!」
その言葉に、ヴェスカはぴたりと動きを止めた。
「違うよぉ」
ようやくお互い顔を見合わせる。
そしてオーギュの雰囲気が違う事に、今頃気が付いた。
「あっれ…髪切ったんだ?」
「………」
無言のまま、オーギュは両腕を伸ばしヴェスカから身を引いた。
「雨が降ると湿気やら何やらで鬱陶しかったのでね…」
「ほあぁ…随分と雰囲気が違ってくるもんだ」
そう言いながらヴェスカはオーギュの短い髪を軽く摘んだ。
「いいじゃんか。似合う似合う」
今まで長い髪の印象しかなかった為だろう。それでもじろじろ見てくる彼に、オーギュは「私の事はいいでしょう」と突っぱねる。
「何か御用があったんじゃないですか」
「あ?…あぁ、そうだった。兵舎に届いた嘆願書なんだけどさぁ…俺、間違って開けちゃったんだよ」
「おや…そうだったんですか」
ヴェスカは胸ポケットに突っ込んでいた封書を取り出すと、そのままオーギュに手渡す。
「確認しないでそのまま開けちゃったからまずいなって思って。他の奴が持って行くのも悪いし、責任持って俺が持って来たんだ」
「あなたが開けたのだからあなたが持って来るのは当然でしょうからね。…なるほど。確かに受け取りました」
用件はこれで終了ですね、と例の如く話を切り上げようとするオーギュは、受け取った封書を法衣に入れると新調した眼鏡を直しながら「では」とドアノブに手を掛けた。
「はぁああ!?これで帰るのかよ!」
あまりの早さに、ヴェスカは思わず声を上げてしまう。
折角久し振りに再会出来たのに、ものの数分で別れるのはあんまりではないかと思ったようだ。
「他に何かありますか?」
淡白過ぎるオーギュを前に、ヴェスカは拗ねた顔を見せる。
「もうちょっとさぁ…何か話とか無い訳ぇ…?」
「………」
こっちはまだ仕事の最中だというのに、とオーギュは無表情のままヴェスカを見上げた。彼もまた、仕事の最中のはずだ。
「副士長はもっと忙しいと思ったんですけどね」
「た、多少は余裕が無いと駄目だろ…」
そんな意地悪言わなくても、と更に拗ねる。
一体いつ位から顔を合わせてないと思ってるんだよ、と。
そんな拗ねる様子に根負けしたのか、オーギュは一息吐いた後で室内に備えていた椅子の背を引き座席に腰を下ろした。
「オーギュ様」
「…私より年上の癖に、おかしな所で子供みたいなんですから」
「はは、我儘も言ってみるもんだ。でもさ、すぐに帰っちゃうなんて寂しいだろ?」
我儘に付き合ってくれるオーギュと向かい合うような形で、テーブルを隔ててヴェスカも席に座った。
「中身確認してみたら?」
「え?…あぁ、嘆願書の中身ね…」
「ある意味見逃せない内容だとは思うぞ。何しろ、偽物が横行しているらしいっていう話だからな」
偽物…?とオーギュは目尻を強張らせた。受け取った封書を改めて引き出し、中身を確認していく。ある程度読み終えると同時に、やや不愉快そうに表情を変化させた。
「な?」
「今までも似たような者は出て来てはいましたけど…ここで特定の人物を名乗って名声を得ようとしているとは、随分大胆な事をしていますね」
「誰かに憧れるのは悪い事じゃないけどさ。なりきってしまうのはあまりにもね…ロシュ様の代役を作り上げた後で取り巻きが讃えてやれば、信じる奴は信じる。しかも善行を見せつけてやれば尚更ね。何が目的なのかはさっぱり分からないけど、このまま放置するのもどうかって話だ。何らかのトラブルに巻き込まれでもしたらそれこそ問題になるんじゃないのか」
「…流石にこのアストレーゼン内だとロシュ様の顔は皆知っていると思いますけど。あれだけ目立つ顔をしているのですから」
中身はどうあれ、ロシュの顔や姿は一際目立つ。
それは城下街の人間なら、ロシュがどのような外見をしているのかは十分過ぎる程に熟知しているはず。
その見目の麗しさから憧れる者も少なくないのだから。
「姿はどうあれ、顔なんて隠しておけばいくらでも誤魔化せるだろ。それが見慣れた城下街の人間じゃなくて、郊外の田舎暮らしをしてる人間ならどうよ?案外見慣れない分、コロっと騙されるぞ。取り巻きがこのお方はロシュ様です、今はちょっとした遠征なのでこの事はご内密にって言えば、あぁそうなんですねって信じるだろ」
…確かに。
ヴェスカの発言に、オーギュは考え込んだ。ロシュの顔を普段から見ない環境に居る者やそれ程興味が無い者、またはあちこちを放浪する旅人などはその地域に関する知識には見向きもしなさそうだ。
それに目の前で遭遇したトラブルに合った際に親切に手を差し伸べられたりすれば、否応無しに信用してしまうだろう。
その相手が素性を騙ったとしても。
「…一応ご本人のお耳にも入れておきます」
「そうするといい。今の所は際立って変な動きは無いみたいだけど、この国の司聖の名前を名乗るのは流石に大胆過ぎるからな。警戒するに越した事は無い」
「そうですね。…まあ、良い事をして下さるだけならまだいいんですけど…」
変な動きだけはして欲しくはない。ロシュの名を名乗る以上は他者の救いや助けになる行いをして貰わなければ困る。
「善行をするのはいいかもしれないけどよ。自分の名前じゃなくて、人様の使う段階でアウトだろ」
「…まぁ、そうですね」
中身を確認後に封筒に入れ、胸ポケットへ再び突っ込んだ。
「ご丁寧に報告有難うございます。この件はしっかりとロシュ様にも伝えますよ」
「…もう帰るの?」
話は終わったと言わんばかりにオーギュが椅子から立ち上がると、また寂しそうな顔をオーギュに向けるヴェスカ。
「………」
何なんだ、と言葉を詰まらせる。
「ゆっくり世間話をするような時間はあまり無いんですよ。これでもまだ仕事中だったんですから…」
「俺もそうだったんだよ」
「ならあなたも戻った方がいいじゃないですか」
お互いやる事が残っているはずだ。休暇ならまだしも、今は悠長に話をする暇などは無い。
ヴェスカも椅子から立ち上がると、向かい合うオーギュに「久し振りに会ったのに用だけですぐ解散するのってどうなのよ?」と渋った。
「私はあなたからの緊急の面会に応じただけですよ。個人的な話をする為に来た訳ではありません。あなたもそのつもりだったのではないですか?」
「そりゃそうだけど」
少しは自分の為に時間を割いて欲しい、というのをヴェスカはぐっと堪えていた。彼には彼の立場もあるし、やるべき事が山積みなのは分かっている。
それでも、だ。
召喚獣であるファブロスは常にオーギュの真近に居る事が出来るが、自分はそうはいかないのだ。この機会を設けなければ、特別遠征でない限りは彼の姿を見る事は出来ない。
我儘を言っているのは分かってはいるが、このまま離れるのも癪だった。
「折角会えたのに。全然会って無かったんだぞ…それなのにあんたは用が終わればさっさと帰れって言うのかよ」
いじける大男を前に、オーギュは顔を僅かばかり歪めてしまった。
面倒臭い…そう思わずにはいられない。
こいつはここまで面倒なタイプだったのか、と。
「…あなたは今までお付き合いしていた相手にも似たような事を言ってきたんですか?」
確か、ヴェスカは一人っ子だったか。
一括りにするのはどうかとは思うが、ちょっとした甘えたがりな性質があるのかもしれない。
「…いいや?」
オーギュのそれとなく放った質問にヴェスカは眉を寄せながら顔を上げる。
「…何で?」
「物凄く面倒臭いタイプだと思って。それまでお付き合いしてきた相手にも甘えて、延々と引き留めて来たのかなと」
「俺がこうして粘ってんのはあんたが初めてだけど」
「………」
普通の会話のようにケロッとして喋る相手に対し、オーギュは動揺より変なむず痒さを感じずにはいられなかった。
引き止めても無駄に時間が掛かるというのに。
「てか、鈍感にも程があるだろ。散々アピってるのに。まさかまだ冗談だと思ってんのか?」
「常に冗談ばかり飛ばしてる癖に何を言うんですか」
それは自分のせいだと思う。
…ここでまた足止めを食らって、一体何の話をすればいいのか。単に好きだ嫌いだの話をするなら本当に勘弁して欲しい。
しばらく無言の時間が流れていく。何分間の無言を経て、ようやく一言だけヴェスカは口にした。
「オーギュ様、一緒に暮らさねぇ?」
「はっ??」
話がいきなり跳躍し、頭の中で理解するのに時間が掛かっていた。オーギュはようやく彼の言いたい事を吸収すると、思わず変な声を上げてしまう。
親密な付き合いをそこまでしていない。むしろ相手が勝手に思っているだけで、こちらは容認したつもりはない。そのような関係の間柄にすらなっていないと思う。
それなのにいきなり一緒に暮らさないか、とは。
「だってその方が一緒に居られるじゃん」
「…それはあなたの都合でしょう!」
「あんたの都合に合わせたらいつまで経っても会いたい時に会えないだろ」
「話が飛び過ぎです。そこまで深入りした関係でも無いのに」
埒が開かない、とオーギュは振り払うかのように席から離れて部屋を出ようと動く。
しかしヴェスカもそれに続いてオーギュを追い、彼が室外に出るのを阻止するかのように背後から音を立てて扉を押さえた。背後のヴェスカの影に覆われる形になったオーギュは、思わず苛立って「いい加減にして下さい!」と振り返る。
「あんたもいい加減にしろよ。これだけ好きだって言ってんのにずっと無視しやがって」
「無視って…」
逃げ場が限られた状況に、オーギュは嫌な予感をその身に感じてしまう。このままではまた懺悔室と似たような状況になるのではないかと。
息が詰まりそうになるのを我慢していると、今度は心臓の音が高鳴っていくのを感じる。
息を出来るだけ潜めて動じない風を装い、頭の中で思考していると、ヴェスカの手が自分の顎に掛かるのを感じた。
「……っ!」
反射的に顔を逸らしてしまう。
オーギュのその動きに、ヴェスカはハッとした。
「…俺が怖い?」
「………」
「そっか。まぁ、仕方無ぇか」
少し落胆したようにヴェスカは苦笑いした。成り行きとはいえ、酷い事をしたのは自分でも分かっている。
ここぞとばかりに恥ずかしい事をさせてしまったのだから無理も無い。最高位の立場の人間を下級の人間が辱めるという行為に非常に興奮してしまい、思わず行き過ぎてしまった。
謝っても決して許される事ではないのだ。表向きは何も無いように振る舞っているが、何処かで引っ掛かるのだろう。
好意を言い訳に使いたくないが、やってしまった事は到底許される事ではない。
「…いいよ。もう行って」
一緒に居る事で抑えが効かなくなるのも困る。
ゆっくり体を離し、ヴェスカはオーギュに告げた。オーギュはゆっくりと彼を見上げると「…私は」と口を開いた。
「別に怖くないですよ、あなたの事は」
「…体の反応が完全に真逆じゃねえか」
嘘吐け、とヴェスカは拗ねる。
「あんた、俺に悪戯されるかもしれないって思ってる?」
「あなたが私の立場でもそう思うのでは?」
「………」
そう言われれば返す言葉が無かった。それまで鬱屈していた物が徐々に収縮し、ヴェスカは態度を軟化させて「ごめん」と謝った。そこまで警戒するか?と思ったが、深く思い起こせば彼と関わるようになって間もない頃にも悪い悪戯をしていたのを思い出してしまう。
酔っ払って介抱された時に悪戯をして怒られた記憶が蘇り、少し血の気が引いてしまった。
…うわ…結構酷いな、俺。めちゃくちゃ下衆じゃん。
そう思うと、変に恥ずかしくなってしまった。顔が紅潮していくのを感じながらついオーギュから顔を逸らす。
「…どうしました?」
「いや…何だか自分が恥ずかしくなって。てか、いいよ戻っても。これ以上俺に何かされたくないだろ」
「急に冷静になりましたね」
何か変な事をするつもりはないのを悟ったのか、オーギュは警戒を解いていった。
「自分が惚れた相手に嫌われる事はしたくねぇよ」
「…本気で言ってるんですか?」
「またそんな…あんたは何回耳に入れたら分かるんだ?これが嘘だと思う?この間にも俺はあんたをまた抱きたくて抱きたくて、めちゃくちゃ体が疼いてんだぞ。だから早く帰れっつってんのに」
欲に忠実なヴェスカらしい言い方だが、やはり品が無さすぎる。
それしか言いようがないのか、とオーギュは溜息を漏らした。
仮に彼が望むように一緒に暮らすようになったとなれば、ここぞとばかりに見境なく襲ってきそうな気がする。
その上にファブロスまで居るとなれば…と思った瞬間、全身がゾワッとした。冗談じゃない…と血の気が引く。
「ではお言葉に甘えてお先に失礼しますよ」
長居してもお互いの為にならないだろう。
「オーギュ様」
「?」
「また面会しに来てもいい?あんたの顔を見に」
そう言ったヴェスカの表情はまるで親と離れる子供のようにも見えて、一瞬戸惑いそうになる。
だが少なからず好意を持ってくれるのは悪い事ではない。オーギュはふっと笑みを溢し、「ええ」と答えた。
「構いませんよ。ただ繁忙期もあるのでお断りする事もありますけど、それでも良ければ」
「いいよ。それなら別の余裕のある時に言うわ。それでも駄目ならまた次に申請する」
めげない姿勢のヴェスカに、オーギュは一瞬目を丸くした。その後すぐ、ふっと吹き出す。
「懲りないタイプなんですね」
「そりゃそうだろ、そうでもしなきゃなかなか顔を合わせられねぇんだから」
遠征の任務があれば話は別だが。
その際には、他の誰よりも優先で自分に護衛役を充てて欲しいと思う位、ヴェスカはオーギュと一緒に居たいと思っていた。
「…では、私はこれで」
「あぁ。さっき渡した手紙の内容、把握しておけよ」
「ええ。ありがとうございます」
…大きな問題に広がらなければいいのだが。
僅かな物事でも、ある瞬間をきっかけに大きく広がってしまう可能性もある。そうなってしまえば、手遅れになるかもしれない。
司聖の偽物が存在するという看過出来ない内容は、しっかりと大聖堂側…ロシュ本人も把握する必要があるのだ。
「しっかりとロシュ様にも報告させて貰いますね」
オーギュは副士長の言葉に軽く頷いた後、先に面会室を後にした。
時間が経過する度に人々の流れも増えていく。
一通り買い物を終え、満足そうな顔のリシェはラスと共に紙袋の中を確認しながら店外へ出た。
「ああ、良かった。目的の物は無かったけど代わりにいい物が買えた」
「良かったですね、先輩」
ラスもリシェの見立てで専用の研ぎ石を購入し、いつもより多く会話出来た事に満足している。またこの機会があればリシェと外出してみたい。
「ところで、どうします?この後…他に買いたい物があったら付き合いますよ」
ほくほく顔のリシェに、ラスは続けた。
このまま帰るのも何だか寂しい気がした。折角の二人っきりの外出なので、何か美味しい物を食べに行きたいと思ってしまう。
「そうだな…お前はどこか行きたい所があるのか?俺だけの買い物に付き合わせるのも悪いし」
「え、俺に付き合ってくれるんです?」
まだ一緒に居たい感情を押し込んでいたラスは、リシェの発言にぱあっと顔を明るくした。
恐らくお互い出会って間もない頃の彼は、用事が終われば真っ先に大聖堂に戻ると言っていただろう。付き合いが長くなるにつれて、リシェの性格も解れてきたのだと思うと嬉しくなった。
「…何がおかしい?」
嬉しさで思わずニヤけるラスを、リシェは不思議そうに首を傾げて見上げる。
「何でもないですよ」
単に嬉しいだけです、と続けた。
「?」
「じゃあ先輩、これからご飯食べに行きましょうよ。街の中には沢山良さそうな店があるんですよ。先輩はあまり知らなさそうだから」
妙に小馬鹿にされた気がしたが、リシェは「そうか」と返す。
確かに、自分はラスが言うように城下の事は詳しくない。城下に来ても、周辺の人気店などには目もくれず用事が済めばすぐに大聖堂に戻ってしまう。
同行する相手がヴェスカだと、彼の方が詳しいので彼任せになるのだ。
「先輩はもうちょっと見聞を広げた方が良いですよ。後から来たスティレンの方が街に関して詳しくなってきましたから」
「…あいつは派手好きなんだ。兵舎だけの暮らしには我慢出来ない性格なんだから」
「まぁ、そうなんですけど…先輩と従兄弟同士とは思えないですよね…」
「あれは特殊なタイプだ。俺だけじゃなくて他人と比較するだけ無駄だと思うぞ」
「あぁ…」
確かに、と変に納得してしまう。
スティレンは自分史上主義な性格の持ち主だ。ここまで特殊な人間はまず見ない。
「ううん…どうしようかなぁ。折角一緒なんだからいい所に連れて行きたいですね」
何を食べようかと思案中のラスと、行き交う人の流れをぼんやり眺めているリシェの耳にある会話が飛び込んできた。
「…司聖様がお忍びで来ているらしいぞ!」
「中央公園に居るって話だ。この機会にお姿を見ておかないと。有難い事だ」
バタバタと走り去って行く巡礼者が二人の前を通過していった。彼らの後ろ姿を目で追うラスは、首を傾げながら隣のリシェに問う。
「ロシュ様がお忍びって…お忍びって言う位なら先輩が護衛に就くはずですよね…」
「………」
リシェはラスを見上げた。
その表情は不快そうにも見受けられる。一番近くに居る自分を無視して、ロシュが単独で外出するはずはないと思っているのだ。
だとすれば、彼の名を騙る偽物が居るという事になる。
「俺はロシュ様が今日内密で城下に行くっていう話は全然聞いていない。どんな奴が公園に居るのか見てみたい」
ロシュのお膝元と言えるアストレーゼン内で、彼の名を騙る大胆な人間が存在するとは、とリシェは舌打ちした。ラスは彼の真っ当な反応に「先輩はそう言うだろうと思った」と苦笑する。
「でも仮にその相手を見かけたとしても、いきなり尋問するのはやめた方がいいです。何か悪い事をしていれば話は別ですけど…案外、ロシュ様に憧れるあまりつい名前を借りてしまったってのもあるかもしれませんし」
「…名を騙るだけでも俺は許し難いんだがな」
そう言いながら、リシェはギリギリと内側から溢れそうな怒りを押さえ込んでいた。自分の敬愛する相手の名前を勝手に使われるのは個人的に我慢ならないようだ。
だが今の所はその相手が何を目的として騙っているのか分からない状態だ。迂闊に手出しは出来ないだろう。
「まぁまぁ…落ち着いて、先輩。とりあえず行ってみましょうよ。中央公園でしたっけ?実際に見てみないと分からないですし」
苛立つリシェを優しく宥め、ラスは先程巡礼者が言っていた中央公園の方を指差した。ロシュが居るという話を聞きつけたのか、他の巡礼者や重装備をしている旅人の姿も公園の方向へ足早に向かっているのが見える。
「偽物だったらしょっ引いてもいいんじゃないのか」
「先輩は見かけによらず血の気が多いですね…」
二人は人々が行き交う足音や、大通りを走る馬車の蹄、車輪の音を聞きながら公園へ続く道を急いだ。
公園へ繋がる煉瓦造りの路面を進み、客馬車の進行を妨げぬよう気を付けながら敷地内へと進む。アストレーゼンの中心部にある事から、比較的大きなこの公園は住民の姿も多く、ちょうど良い散歩コースにもなっていた。
緑の数も多く、道もしっかりと整備されており、恋人同士や家族連れでピクニックをする者も良く見掛ける。子供達の笑い声が所々で聞こえ、更に流浪の大道芸人も自らの芸を見せるべく賑やかな音楽を鳴らし人々の視線を引きつけようとしていた。
リシェは公園内を見回す。
「そのロシュ様というのは一体何処に居るんだ…」
「公園内は広いですからね。もしかしたら目立つ場所に居るのかもしれませんよ」
音楽の鳴り響く園内を確認しながら進んでいく。
「露店商が居る場所とか人が居そうですね。ほら、ああいう場所って主に旅をする人が休憩がてらに良く集まるだろうし。あそこ、主にアストレーゼンの名物の食べ物とか取り扱ってるから、露店だと手頃に食べられて結構重宝されるんですよ」
「詳しいなお前」
意外に詳細を言ってくれるラスを、リシェは頼もしそうに褒める。
ラスは大好きな相手からの褒め言葉に少しばかり照れた顔をし、頭を軽く掻いた。
「良く学校の帰りとか寄ってたし…帰り道とかに寄ると、それとなく来る人間のタイプって分かってくるもんですよ」
「そんなものなのか」
そこまで他人の動きや姿に興味が持てない性質のリシェはあまり理解出来ないらしい。
「じゃあその辺に居る客層を注意深く見てみようかな…」
「結構面白いですよ。逆に露店に近寄らないのは家族連れの人ですかね。物々しい武装をした人が多いから、やっぱ雰囲気的に近寄り難いって思うのかもしれないです。むしろその人達は広い公園の方を選びますから」
「へえ…」
なるほど…と呟いている間、二人は露店が連なるエリアへと足を踏み入れていた。露店は軽食だけではなく、旅に役立つ必需品や護身用の小型の武具なども取り揃えられており道行く人々の目を賑わせている。
時折、空腹に訴えかけてくるような香ばしい香りが鼻を突いてくるのが悩ましい。
「さて…何処に居るのかな」
ラスは周囲を見回しながら呟いた。一方のリシェは、自分の内側から湧き出す怒りを抑え込みながら「一体どんな奴なんだろう」と鼻息荒くしている。
似ている雰囲気ならばまだ許せるが、如何にも胡散臭いのは頂けない。全く別人なのは分かりきっているのだから、せめて多少は似せようとする努力はして欲しいものだと思う。
「うんん…?」
きょろきょろと探していたラスは、ある一定の場所に目を向けた。武装した者や白い法衣姿の者が多数固まっている事から、もしかして…と眉を寄せる。
「先輩、向こう見てみましょう。何だか固まってる感じがしますし」
ラスが声を掛けると、リシェは顔を上げてその指定された方向を見た。そしてよし、と一言言うとまるで意気込むように数歩進み始める。
「ロシュ様を騙る偽物だったら即声を掛けてやるからな。ご本人になり変わって注目を浴びようとするとは大胆不敵な行為だ。万死に値する」
鼻息荒くしながら苛立つリシェ。
「そ、そこまでですか…?」
万死に値する、まで言うとは。
司聖ロシュに心の底から心酔している彼だからこそそう思うのだろうが、あまりにも大袈裟過ぎる。
「行くぞ、ラス。偽物を騙る不届き者が一体どんな顔をしているのかその顔面を見ておかないと」
意気込むリシェを先頭に、その集団の中へと近付く。
塊に近付く毎に、人々の声が耳に入ってきた。その声は不自然さを感じさせるかのような褒め言葉や感嘆の溜息が聞こえてきた。
不自然さ、というのはやはり偽物だと知っているリシェだからこそ感じ取れるのかもしれない。
周囲の崇め方や羨望の声が嘘臭い、と思えてしまうようだ。
「まさかこんな街中にいらっしゃるとはねえ」
「あぁ、有難い事だ」
「我々にもご利益があるかな?」
集まる人々の声を聞き、ラスは隣で様子を確認しているリシェをそっと見下ろす。
「先輩」
「…どうやらお前が言っていた通りだ」
ちっ、と舌打ちして親指を噛むリシェは苛立ちの顔を見せる。来い、とラスを促し人々を掻き分け、集団の中心部へ強引に進んでいくとようやくその姿形が見えてくる。
ギャラリーの中心に居る三人の男達…その姿は一見旅人風の装備を身に着けていて、見た限りではリシェやラスには見た事も無い者ばかり。
全員顔は半分以上布で隠され、素性を見せない努力をしているのが分かる。そしてロシュの名を名乗っている者は真っ白い法衣を身に付けていかにも司祭という雰囲気を見せてはいるが、用心しているのか目元も薄いベールで隠していた。
「あぁ、これは駄目なあれじゃないですか…」
ラスはあからさまに違う事が分かり、小さく呆れた声を上げた。ロシュと名乗る者を囲う二人の男達も全く見た事も無い人間だ。
むしろ誰なのかと聞きたくなってくる。
ただ、この衆人監視の最中で偽物と断言して騒ぎを起こすのも本意ではない。どうやって話を切り出せばいいものか、と悩んだ。
「有難い。まさかこのような場所でロシュ様を拝見出来るとはね」
「大聖堂からわざわざ民間の場所にまでお越し下さるなんて、好感度が高まる。こうして民衆の願いをお聞き下さっているのだろう」
その本人の顔は完全に隠れているので表情は全く窺い知る事は出来ない。偽物だと自覚しているからこそ、そのベールの中は見せる事は出来ないのだろう。
逆に見せない事によって、更に神聖さを上げているのかもしれない。
「…どうします?先輩」
こうしている間にも、三人組の周りを何も知らない人々が囲んでいく。出来るだけ近くに寄ろうとしていても、忽ち遠くの人になってしまった。
リシェはラスの腕を引っ張り、更に彼らの近くへと進む。
このままロシュの名を利用して良い気分にさせるのは非常に癪だ。事を出来るだけ荒立てないように、彼らが何故騙っているのかを聞いてみたかった。
「わ、わ!先輩、転ぶ…!」
強引に腕を引かれる形になり、思わずラスは声を上げた。
…本人より取り巻きに話をした方がいいのかもしれない。
ラスを引っ張って民衆の波を再び掻い潜り、どうにか帯同している付き人の一人の前へ出る事が出来た。
偽物のロシュとは違い、付き人は地味な色の衣服を身に纏っている。見た感じでは魔導師の法衣に付け加える形で、所々に鉄製の防具を装着していた。
稀にこのように部分的に甲冑の部品を装備する旅人も居るが、装備としてはかなり甘い方である。軽量化を図る部分では最良かもしれないが、いざとなった際に身を守り切れるかは疑問だ。
土埃の跡も散見する事から、放浪している雰囲気ではあった。
リシェは意を決し、目の前の男に声を掛ける。
「失礼。お伺いしたい事があります。お耳を拝借しても?」
「…ん?どうしましたか?」
取り巻きのその男はリシェの声に反応し、軽く身を屈んで彼の目線に沿った。
誰にも聞かれないような小声で、リシェはそっと相手に耳打ちする。
その様子を、同行しているラスは静観していた。
しばらくして、相手の男はバツが悪そうな表情を浮かべる。恐らくリシェはこのまま司聖の名を断りもなく利用する事に苦言を呈したのだろう。
リシェが話し終えた後、彼はロシュに扮する司祭姿の男にそっと何かを囁いているのが見えた。
司祭はリシェにベール越しに目を向けた後、軽く礼をする。
「皆様、私達はこれで失礼致します」
その声はとても穏やかな声で、偉い司祭だと言われても何ら疑問を抱かない程礼節に満ちた声だった。何も知らない者は、彼がロシュだと説明されれば納得してしまうかもしれない。
リシェは黙って彼を監視するように見上げていた。
民衆への態度はどうあれ、司聖ロシュの名を騙る事は許し難い所業。何を思ってそのような行為をしていたのか尋問したい所だが、このまま変な動きをしなければ不問にしようと思っていた。
「もっとロシュ様からお話を聞いてみたいのに」
「残念だのう…」
「司聖様のご加護がありますように」
名残惜しそうな人々の波を掻き分けるようにして三人はその場から立ち去って行く。同時に、溜まっていた人々も各々分散していった。
散って行く人々が少なくなるのを見越してから、ラスは「先輩」と声を掛ける。
リシェはラスを見上げ「何だ?」と聞いた。
「あの人らに何を言ったんです?」
忠告なのは何となく分かったが、意外にすぐ去って行ったなと思った。
「単に俺の素性を伝えただけだ。司聖公認の専属の白騎士だとな。何が目的でロシュ様の名を利用しているのか知らないが、このまま身分を詐称していると大聖堂に通告するって伝えたんだ」
「ははぁ…意外に素直に言う事を聞いてくれましたねぇ。結構俺らの年齢って宮廷剣士でも小馬鹿にされやすいから、反論してくるかなって思ったんですけど」
ラスが言うように、まだ十代の剣士は珍しいので大抵は軽くあしらわれる事が多かった。例え若くても実力は大したものではないはず、と低く見られがちなのだ。
このアストレーゼン内に於いて司聖公認の若い専属騎士の存在は大聖堂側からの公式の通達によって、城下街の民には十分知れ渡っている。顔を知らずとも、専属騎士リシェの存在は十分熟知されていた。
そして、その専属の騎士を知らない者は外部からの来訪者に限られていく。
「向こうは騙しているって自覚があるんだろう。単に目立ちたいだけだったのかもしれないがここでやるのは考えが浅過ぎる。仮に俺が居なくとも、ロシュ様の名を騙っていると巡回している宮廷剣士や警備員達に目を付けられるだろうよ」
「なるほど…まあ、このアストレーゼンの街で公言するのは流石に怖いもの知らずだよなあ…」
住民が避けやすく、旅人が集いやすいこの公園のエリアの一部をを利用して集客するのは賢い方法かもしれない。だが、大聖堂の職員の目に付いてしまうとは思いも寄らなかっただろう。
ただ、ロシュに一番近いリシェが直接忠告する事によって、恐らく彼らは変な動きはしないはず。
「騒ぎを起こさないとは思うが…一応、報告だけはしておいた方がいいかもしれないな」
リシェはそう呟くと、例の三人組が去っていった方向に目を向けていた。
城下街から戻ったリシェは、すぐに司聖の塔へ寄り道もせず帰還していた。あの後軽くラスと軽食を済ませ、特別その他の予定も無くそのまま解散という流れになったが、ラスはまだ一緒に居たいのにと軽くごねてきた。
彼は翌日は早朝勤務なので早めに休んだ方がいいと説得するものの、どうしても離れたくなかった様子で「もう戻るんですか」と子供みたいに拗ねられてしまう。
じゃあまた買い物があったら呼んで欲しいと条件を提示されて事無きを得たが、面倒な奴だと内心呆れてしまった。
こうして無事に戻る事が出来た彼は、塔へ戻ると同時にロシュの私室へと足を踏み入れる。扉を開くと紅茶の爽やかな香りが漂い、それと同時に開かれた窓からの外気が全身を撫でていった。
「お帰りなさい、リシェ。城下は楽しかったですか?」
愛するリシェの姿を見るなり、ロシュはにっこりと柔らかな笑顔で出迎えてきた。一方のリシェも、彼の笑顔を見る事で心が安らいでいく。
やはり自分にはロシュの存在が必要なのだと実感した。
「只今戻りました、ロシュ様。いつも通りの賑やかさでした」
まだ仕事中のオーギュも、真新しい書斎机からこちらに目線を注ぐ。彼の机上はロシュとは違い、大量の書物や書類が沢山積み重なっていた。
「その顔はいい買い物をしてきた様子ですね」
「はい、オーギュ様。とてもいい研ぎ石を買う事が出来ました」
その言葉に、カーペットで悠々と寝そべっていたファブロスは『研ぎ石…』と意味深に呟く。若者が進んで買う代物では無いと思ったのかもしれない。
むしろ好んで拘りの研ぎ石を求める若者はリシェしか居ないのではないだろうか。
「城下街も色んなお店が次々と出てきますからね。流行りも入れ替わりが激しいでしょう。今日はどなたかとご一緒だったのですか?」
「そうですね…途中でラスが付いてきました」
「ほう…それはそれは。同じような年頃なら、話も合いそうですからね。あなたはもっと同年代の子と一緒に居る機会を持った方がいい」
常に大人の世界の中に居過ぎるのも本人の為にはならない。
たまには年相応の相手と接する事もリシェにとって必要だ。
オーギュの話を聞きながら、リシェは軽く手を洗う為に流し場へ向かった。
時刻は夕方近くになっていて、空も次第に深いオレンジ色に染まりつつある。ロシュとオーギュの作業もそろそろ終盤を迎えていた。
『んおっ!?』
突如ファブロスが声を上げると同時に、何かがドサドサと床に落下する音が室内に響く。何事かと思ったロシュとリシェはほぼ同時にその方向に目を向けた。
「あっ…すみません、ファブロス」
どうやら机上に置かれていた書類を取ろうとしたオーギュの手が別の場所にぶつかり、その拍子に数冊の書物がすぐ下で寛いでいたファブロスの頭に直撃したようだ。
『…オーギュ!!お前は毎度毎度机の上に本を置き過ぎだ!これまで何度私が忠告したと思っているのだ!』
どうやら日常茶飯事らしい。
「必要な資料なんですよ」
まだ真新しい机の為か、机上を整頓する道具が揃っていない状態なので無造作に置きがちになっているようだ。それはそれで仕方が無いとは思うが、ファブロスはまだ何か文句を言いたげに顔を主人に向ける。
『自分の部屋ですら大量の蔵書を積みがちだというのに、ここでそれをやったらとんでもない事になるぞ』
「流石にロシュ様のお部屋でそれはやりませんって…」
ファブロスに注意されているオーギュというのも非常に珍しい光景だった。
「おやぁ…こりゃ珍しい。あまり怒られる姿を見た事が無いから凄く新鮮ですねぇ」
「近くに資料や参考書物があった方が効率的なんですよ。終わったら片付けますし」
ぱっと見ると乱雑に置かれているようにしか思えなかったが、これも彼なりの作業のやり方なのだろう。
それでも、一緒に居るファブロスには乱雑に置いているようにしか見えないようだ。
落下した書類や書物をリシェが拾い上げ、オーギュの机に置く。風で飛ばされないように別の書物で重りを乗せていると、日中にあった出来事を不意に思い出した。
「オーギュ様」
「ありがとうございます…ん?どうしましたか?」
「お伝えしたい事があったんだ」
ファブロスはオーギュの机からやや離れ、書物が落ちても影響の無い場所で改めて座り直すと再び瞼を閉じる。
「城下街で司聖様とその関係者を名乗る者達に遭遇しました」
「おや…」
「中央公園の露店エリアで集客して、人々の注目を集めていただけですが個人的に看過する訳にはいかなかったので声掛けをしました。この先何か問題が起きないとは限らないので報告だけでもと」
その報告を受け、オーギュはロシュと顔を見合わせた。
「結構知れ渡っているんですねぇ」
困った風にロシュは呟いていた。リシェはきょとんとした顔で彼に目を向けると、「ご存知だったんですか?」と問う。
オーギュは天井を仰ぎ見た後、知るも何も…と一言口にした。
「ちょうどその件に関してヴェスカから報告を受けたばかりですよ。本物を騙る者の存在はこれまで何度か聞いていたので。これまで何パターンの司聖が出て来た事か」
何パターン、という発言から、これが初めてでは無い模様。
「ヴェスカから聞いていたんですか?」
「間違って大聖堂宛ての封書を開けてしまったのでわざわざ届けに来てくれたんですよ」
確認もせずに何勝手に開封しているんだ…とリシェは心の中で突っ込んでいた。
大雑把な彼の事だ。どうせろくに確認もせず勢い良く開封して初めて気が付いたのだろう。
「そうだったんですね…でも把握していたのなら良かった」
「名乗っているだけで他の方々に害を及ぼさなければこちらからは何も言う事は無いですけど」
同感だと言わんばかりにリシェは頷いていたが、個人的にはロシュの名前を勝手に利用するのは気に入らない。
これで何かしら余計な問題が発生したらロシュの威光にも影響が出てしまう。許されるならば引っ捕えて、好き勝手に人様の名を名乗るなと口煩く叱咤してやりたい。
幸い、偽の一行は正体を見せぬよう目元は隠していたとしても、姿は頭の中に明確に記憶させている。良からぬ事が発生したらすぐに捕らえる事は可能のはず。
「一応俺の身分を明かした上で忠告だけはしておきました。これで多少は抑止になればいいんですけど…」
「ふ…あなたはロシュ様の事に関しては非常に敏感ですからね。冷静に対処しておきながら内心は怒っていたのではないですか?」
オーギュの指摘に、リシェは図星を刺されたかのようにぐっと一瞬詰まった。そりゃ…と彼はふいっと目線を下方に落とす。
「悪用されたりしたら困るし」
「ロシュ様にとってはとても嬉しい反応でしょうね」
そう言いながら、オーギュはちらりとロシュに目を向ける。
ロシュは苦笑いを交え、仕方ありませんねと一息吐いた。
「これ以上偽物が城下に出現しないように警戒も必要になってきたようですね。大聖堂からの報せとして、偽物が出現している旨の注意喚起の伝達をしておきましょう」
このアストレーゼンの司聖は明確に一人だけだ。
住民達は十分に熟知している事でそれほど問題視していなかったツケが回ってきたのだろう。この機会にロシュ本人に化けて恩恵を与ろうとしている輩に釘を打たなければならない。
リシェはオーギュのその発言に対して最もだと言わんばかりにこくりと頷く。
「それがいいと思います。不敬な輩には罰則も必要です」
何かあってからでは遅いですから、と不愉快さを剥き出しにしていた。
大聖堂から城下街の住民達への連絡手段は、週に一度の頻度で行われ、大半は街中の掲示板での告知が主体となっている。
臨時の際には緊急で紙面を作成し、掲示板用に大量に刷った後で大聖堂に近い宮廷剣士の手によりアストレーゼンの街中の掲示板に貼り付けていた。
「…何でこの俺がチラシ貼りなんて地味な作業をしなきゃいけないのさ!」
いい具合にその当番に当たってしまったスティレンは、大量の告知を手にしたままリシェに言う。決して彼だけその仕事に当たった訳では無いのだが、手間のかかる作業がとにかく嫌う為に不満を吐き出していた。
リシェは「文句を言うな」と切り捨てる。
「他の任務より楽だろう。それとも虫駆除やトレーニングの方がいいのか?」
「ふん、どっちも俺向きじゃないじゃないか!」
スティレン程、清々しく我儘な人間も居ないだろう。
わざわざシャンクレイスを出てまでこの仕事に就いたのか、目的を失いかけているのではないかと彼に対し呆れそうになる。
「なら黙って貼りに行け」
「俺に命令しないでよ!」
リシェも同じように刷りたてのチラシの束を手にしていた。
「指示しなきゃお前は動かないだろ…」
「大体何?このチラシ貼りの任務、俺とお前だけなの?何枚あると思ってるのさ、街中の掲示板なんて把握出来てないんだけど!」
しかも紙重いし、と口を尖らせる。結局スティレンは何をするにも文句しか言わない。
リシェはそれも十分理解していた。むしろ、言う相手が自分しか居ないから散々文句を言ってくる節がある。
「ちゃんと地図も持って来たし、貼れる場所も決まってるからそこまで苦労しないぞ。散歩だと思えばいい。これで仕事の時間も稼げるんだから別にいいじゃないか」
身近に居るリシェは、彼のやりたい事が何となく分かっていた。面倒な作業や体力を無くす類の事はしたくない、汗をかく仕事も嫌う。
では一体何がしたいのかと思えば、自分が際立って注目される事がしたいと言い出す。
「はぁ…チラシを貼り付けるだけとか、俺に似合わな過ぎる作業じゃないさ…」
そんなものがあってたまるか、と口を酸っぱくして言うが本人には伝わっている様子は無かった。これほどまでに我儘な人間が果たしてこの世に存在するのだろうか。
「お前は何をしにアストレーゼンに来たんだ」
不毛な会話をするのも飽きてきた。
リシェは自分に割り当てられた紙の束を持ち直しながら、「じゃあ手分けして貼っていくぞ」と我儘な従兄弟を促す。
渋々束を抱え、スティレンはリシェから手渡された地図に目線を向けるとうんざりしたように溜息を吐いた。
地図はアストレーゼンの城下街の全域が描かれていて、赤い印が所々に付けられている。どうやらリシェが掲示板の場所を他の剣士に教わり、目印として記入してきたようだ。
「てかさぁ…絶対余るでしょ、このチラシの束。掲示板の数も限られてんのに。余ったらどうするのさ?」
「余ったら観光客や旅人が足を運びやすい店に置いて貰えるように頼みに行く。専用の道具屋や魔導具の店、酒場とか…これまでもこういった知らせは置いて貰っていたみたいだから、簡単に受け入れてくれるはずだ」
「えぇええ…」
掲示板に貼り付けるだけじゃないのかとげんなりした。
作業がいちいち長い。
「とりあえず街の掲示板に貼る事から始めないと。あらかじめ俺が地図に印を付けた場所に貼り付けてこい。手分けしたらそれだけ早く作業が終わるはずだから。終わったら今居る場所で落ち合うぞ」
有無を言わさぬようなリシェの言葉に、スティレンは諦めたのか分かったよ!と不貞腐れ、吐き捨てるように返す。
「やればいいんでしょ、やれば!」
「ああ、やれ。じゃあ俺はこっちから行ってくるから。間違っても数ヶ所スルーとかは無しにしろ」
「………」
何だよ偉そうにとスティレンは忌々しげに遠ざかるリシェの背中を見送った後、手にしているチラシの束を見下ろした。
そしてはぁ…と溜息を吐く。
重みで落ちないように頑丈な布製のトートバッグの中に入っているが、多めに印刷したのかかなりの厚みがある。早く終わらせないと紙の重さで肩が凝りそうだ。
体に負荷がかかり、体型が崩れてしまうのを嫌がる為か何度もバッグを持ち直す。
…とりあえずこの紙の束を減らさなければ意味が無い。
受け取った地図を広げながら、不満げな表情で近くの掲示板の位置を確認した後で彼もリシェと同じくその場から一旦離れた。
そもそも、たかが偽物程度が出現したからといってお触れを作成して注意喚起までするとは大袈裟なのではないか、とスティレンは思う。ある意味このアストレーゼンでは司聖の顔は広まっているのに、自分こそが本物の司聖だと街中で言い回るなどとは狂人の類だ。
巡回する関係者が黙ってはいないはずなのだから。
…それだけ司聖の名を騙る不届き者が多いという事か。
「あぁ、だっる。さっさと終わらせよ…」
掲示板の場所が記載されている地図を手に、スティレンは足取り重く歩き始めた。
城下街に設置されている掲示板は風雨で汚されないように鍵付きのケースに入れて施錠するタイプのもので、第三者が勝手に開けられないように管理されている。
大聖堂からの知らせを主にしている為に製作するにもそれなりに時間を要する上、コストも掛かるので設置台数はそこまで多くは無かった。広い城下街の中で小分けされた地区毎に一つのみ設置という具合で、置かれている台数も限られている。
なので、そこまで悲観的にならない程度の手間では無い。
ただ、掲示板の位置が高台にあるならば話は別だ。
…掲示物を貼り始めて数時間経過した頃だろうか。ようやくもう少しで終わりそうだと思いながら、アストレーゼンの高級住宅地であるラントイエ地区へ足を伸ばしていたスティレンは、ただでさえ長い坂道でうんざりしていた。
「…くそっ、何で金持ちって高い所に家を建てたがるのかね!?」
あまりにも長い坂道にうんざりし、思わず心の声が口を突いて出てしまった。しかし故郷シャンクレイスの彼の自宅も、れっきとした高台に位置している事についてはすっかり頭から飛んでいるらしい。
ある程度貼り終わったとはいえ、残された掲示物はまだ重みがある。それを持ったまま長い坂道を上がるのは流石にキツかった。しかも高級住宅地特有なのか、その道ですらも小綺麗な雰囲気だ。
道の両側は等間隔に街路樹や花壇が設置され、目立ったゴミも何一つ見つからない。専用の清掃員が常駐しているのか、非常に綺麗な場所だ。これまで辿ってきた道を見回すと城下街が一挙に一望出来る。
今まで見た事の無かったアストレーゼンの景色に、スティレンは一瞬不満だらけだった脳内が一掃されてしまった。
「………」
以前司聖の塔のリシェの部屋から一望出来た城下街とはまた違った景色が目の前に広がっている。あの場とは違い、今ここで見ている景色は決して遠くはなく、かといって近い訳でもない。
身近に感じられる街の中だからこそ、この高台から見える景色は非常に美しく見えた。
「ここに居る奴らは毎日この景色を見てられる訳だ…」
金持ちがこの地区に家を建てたがる気持ちが良く分かる。
見栄もあるだろうが、この城下街全域を見渡せるのは大層気持ちがいいだろう。
しばらく景色を眺めていたその時、車輪の音を響かせながら馬車が登っていく。その音でスティレンは我に返った。
さっさと貼りに行かなきゃ、と現実に戻り前を向く。
「だっる…」
まだ続く坂道にうんざりしていると、自分の横を通り過ぎた豪奢な馬車が止まった。その馬車は馬二頭を前に据え、金色の縁取りされた大きく頑丈なキャリッジからしてかなりの財力を持つ持ち主だと窺い知る事が出来る。
何で止まった?と怪訝そうな顔をしていると、前方の馬車の小窓がぱかっと開かれる。
「おぉおお、誰かと思ったらスティレンじゃねーか!久し振りだなお前!何してんだ?」
「………」
華美な馬車から顔を出すあどけない顔の少年の顔を見た瞬間、スティレンは非常に嫌そうな表情を彼に向けていた。
掲示物を貼り終えたリシェは集合場所に再び姿を見せたスティレンに向け、怪訝そうな顔で「何でそいつがくっついてきたんだ?」と問い掛ける。
一方のスティレンは心底不愉快そうな表情を見せながら知らないよとぶっきら棒に返していた。
彼の隣には満面の笑みでリシェに挨拶をするルイユの姿。
「よう、リシェ!相変わらず成長しねーな!」
いちいち一言が余計だ。美少女と見紛いそうな顔を曇らせ、リシェはルイユに問い掛ける。
「何でここに居る?」
スティレンが側に居るにせよ、家からの護衛も無いままで何故この城下街に居るのだろうか。一応いい所のお坊ちゃんなのに。
「家に帰ろうとしたらさぁ、こいつが荷物持って必死こいて坂道上がってやがるから声かけたんだよぉ。会うの久し振りだったしな!んでちょうど俺も暇だったから着いてきた!ほんと、お前とそっくりだよなー」
「言葉悪っ…」
横でルイユの話を聞いていたスティレンは、あまりの品のない言葉遣いに思わず引いてしまう。これでアストレーゼンの貴族階級の一員なのだから驚きだ。
リシェも脱力しながら彼の話を聞いていた。
「家の人に許可は取ったのか?」
「あー、大丈夫だよ。同行してた奴に伝えておいたし。リシェの世話も頼んでおいたからさ!」
「…リシェの世話?どういう事?」
話が見えてこない様子のスティレンはルイユに問うと、彼は無邪気な顔で見上げて「おう」と笑った。
「犬飼ってんだよ。可愛いんだ、リシェって名前なんだよ!凄い懐いてくれるんだぞー、リシェにも見習って欲しいもんだよな、なっ!リシェ!」
その瞬間、スティレンは勢い良く噴き出してしまった。
逆にリシェは不快感たっぷりに舌打ちする。飼い犬と同じ名前にされてしまった事にかなり抵抗があるようだ。
「お前、犬の名前にされてるの?んっふ…!」
「………」
何がそんなにおかしいのだろうか。苛立つリシェをお構いなしに、ルイユは話を続けた。変わらずマイペースな性格のようだ。
「何のチラシ貼ってるんだって思ったら、ロシュ様の偽物が出てるっていうあれじゃん?」
「…定期的に出てくるらしいけどな」
「ほー」
リシェは残ったチラシを抱え直すと、改めて辺りを見回す。
「後は余った物を街の店に置いて貰えるように頼んでこないと…協力してくれる店もチェックしてるから置きに行くぞ」
その発言を受け、スティレンは「えぇえええ」とうんざりしたような叫びを上げた。流石に疲れ果てたらしい。
勾配の激しいラントイエ地区まで足を伸ばして掲示物を貼りに行ってきたのだから無理もないが。
「俺疲れたんだけど!?」
ここまで馬鹿正直に自分の意見を通そうとするのは羨ましい。
リシェは仕方無いなと言わんばかりに一息吐くと、我儘なスティレンを見上げた。
「…じゃあお前の残りをよこせ。俺が配っていくから。後はお前の好きにしろ。ついでにルイユの子守りも任せる」
配布する任務の途中では流石にルイユは連れて行けない。変に寄り道されたりしたらそれはそれで面倒な事になってしまう。
スティレンはリシェの言葉を聞いた後、隣に居るルイユに目を向けた。ルイユは小生意気そうな顔をスティレンの方へ向けた後、満面の笑みを返す。
「は!?俺が子守りだって!?」
当然だろとリシェは呆れた。ルイユのようないい所のお坊ちゃんをあちこち連れ回す訳にはいかない。中には物騒な物を扱う店にも入るのだ。
後で変な問題が起こったら大変な事になってしまう…というよりは、むしろルイユが自ら問題を起こす方なので余計心配だった。それがあるので出来るだけ顔を合わせたく無かったのだが、勝手に着いてきてしまったのだからどうしようもない。
「なぁリシェ。俺、子守りっていう年じゃねえと思うけど」
「そんな事はどうでもいい」
言い方に不満があったのか、ルイユは頰を膨らませてリシェに訴える。しかしリシェに軽くあしらわれ、変にムキになって反論した。
「よくねーよ!俺より背が低いくせに!」
「身長は関係無いだろう!お前も立場っていうものを考えろ!何かあったら俺達じゃ責任が取れないんだぞ!いいから黙ってスティレンの傍に居ろ!」
「…終わったらここに戻るのかよ?」
怒られた事でややふくれっ面だが、ようやくリシェの言いたい事を理解したらしい。
「…てか、俺はこのまま大聖堂に戻るつもりだけどさ。あんた…ルイユだっけ?どうするのさ?一緒に大聖堂に行くつもり?」
単に城下街の中を遊び回りたくて着いて来たならば困る。
こちらは一応仕事の真っ最中なのだ。遊びに出て来た訳ではない。
「あー?ロシュ様の所に行くって言っておいたから別に大聖堂に行ってもいいぞ。俺は」
「は…そこの所は用意周到なんだね」
「どこに行くのかって言っておかないとクラウスがうるさいからな!」
妙に自信満々だが、当然の事なのだ。
「クラ…?」
クラウスと会った事の無いスティレンは、怪訝そうな面持ちでルイユを見る。
「俺の家の執事みたいな奴だよ。いちいちうるせーんだよなぁ、俺はもう十四だっていうのに子供扱いして」
普段から口煩く行動について言われているのだろう。彼は専属の世話役の事を思い出して表情を曇らせてしまう。
口煩く言われるのはそれなりの経過があっての事だと思うが。
「十四だって?十分子供じゃないさ…」
「お前だって似たようなもんだろ!リシェと大して変わんねーと思うけど?」
知り合って間もない相手にお前と呼ばれ、自分の感情に素直なスティレンは「生意気過ぎない?」と眉を寄せてしまった。どう考えても貴族階級の人間の放つ言葉だとは思えない。
「ちょっとリシェ。お前が居ない間ずっとこれの面倒見なきゃいけないの?」
人をこれ呼ばわりする彼も大概だと思うが、リシェは普通に「そうだ」と返した。ルイユの性格に耐性が付いたのか、彼はそこまで気にしていない様子だ。
「そのまま大聖堂に戻ってもいいぞ。俺は用事を済ませないといけないからな」
そろそろ紙の重さが辛くなってきた。
スティレンの分を足した紙の重みは、確実にリシェの体力を奪いつつある。
「じゃあ、俺はこのまま頼みに行くから。お前達は好きにしろ」
ずっしりとしたバッグを抱え直し、リシェはその場から離れようとした。剣士の割には非常に華奢な体格のせいで、重荷に負けそうな雰囲気を醸し出している。
「好きにって…お前は終わったらどうするのさ?」
「そのまま戻る」
えぇ…と困惑する間も無く、リシェは二人を残してさっさと立ち去ってしまった。
残されたスティレンは「マジかよ…」とうんざりする。軽く城下街を散策してから戻ろうと微かに考えていたのに、ここで計画があっさりと崩されるとは。
こんな事なら普通に配布物を店舗に置く作業をすれば良かったのかもしれない、と今更後悔した。
「どこ行くー?」
その傍で、呑気にルイユはスティレンに話し掛けてくる。
「…あのねぇ。俺らは別に遊びに来てる訳じゃないんだけど?てか、大聖堂に行っても特にする事無くない?」
「家に戻っても特にする事無いからなー」
「あんたの年頃じゃする事が沢山あるでしょ…むしろお作法とか学び直したら?言葉遣いに品がなさ過ぎてびっくりするよ」
思った事をハッキリ言うだけスティレンは親切な方かもしれない。ここまで言葉の使い方がおかしいまま成長してきたお坊ちゃんには、使用人も素直に意見を言えないのだろう。
ルイユはスティレンの言葉に「そうかぁ?」と首を傾げる。
「上流階級に生まれたからには俺のように気品のある紳士にならないと。教養をしっかり身に着けておかないと後で苦労すると思うよ」
いつものように自画自賛を交えて語るスティレン。リシェが相手ならば完全にスルーされる内容だ。だが、それまで交流が薄かったルイユにはそれが斬新だったらしくプフーと顔を歪ませて噴き出される。
笑われた事に不快感を覚えたスティレンは「何がおかしいのさ?」と苛立った。
「前も思ったけど凄げぇな!どんだけ自分大好きなんだよ!」
「はぁ?」
「いやー、いいよいいよ。スティレンはそうでなくちゃ。俺、面白いの大好き」
「………」
何だこいつ…と引き気味になっていると、ルイユはスティレンの背中をばしばしと叩きだす。いきなりの衝撃についバランスを崩してしまいそうになり、何なのさ!と怒鳴った。
距離感が余りにも近過ぎる。
「俺、腹減ったからどっか食いに行こ!その位の時間はあるだろ?休憩してもいいんじゃねーの?」
単にどこかに行きたいだけじゃないか…とスティレンは思ったが、確かにひたすら掲示板にチラシを貼る作業ばかりで休憩らしい休憩も取っていない。
歩き回っていて喉が渇いている。
「自分で頼んだものはちゃんと払えるんだろうね?」
「んあ?払ってもいいけどさ」
「いいけどさって…まさか俺に集る気だった訳?」
「子供から金取る気か?大人としてどうよそれ?」
少し前に自ら子供扱いするな的な事を発言していたような気がする。
「…さっきと言ってる事が違ってない?都合の悪い事はすぐ忘れるタイプなの、あんたは?」
「んあ?物事は使い分けするのがいいんだよ」
このクソガキ…と内心舌打ちする。何も考えてなさそうに見えて、非常にずる賢いのだろう。
親の顔を見てみたいものだ。
「スティレンはリシェと大して年変わらないんだろ?」
「ふん…あいつよりは年上だけど?」
「へぇ…同じくらいかと思った」
「一歳だけ上だね」
一歳程度で変に偉そうな感じが否めないが、リシェよりは大人という事かとルイユは「へぇ~」と唸った。
「じゃ、どっか食いに行こうぜ」
「いいけど、自分の食い扶持位は自分で払ってよね。お屋敷のお坊ちゃんが乞食とか恥ずかしいじゃないさ。どこそこのご子息が他人に集ってたって噂になりたいなら話は別だけど」
自分のは出せるが他人の食事の分を払うなんて御免だ。
先に言っておかないと後ですっぽかされてしまう可能性も無くはない。それに、自分で払ってもいいという発言までしているのだ。
流石にそれ位のお小遣いは持っているはず。
ルイユはやや不満そうに顔を曇らせるが「分かったよ」と承諾した。
その日の分の仕事を完遂したヴェスカは、未だ慣れぬデスクワークによる疲れを振り払うように体を伸ばす。
「あぁああ…首きっつ…」
度々体を伸ばしているものの、長時間机に張り付くのは辛い。豪快にあくびをすると、ようやく椅子から立ち上がった。
その近くでまだ雑務を消化していた宮廷剣士長のゼルエはヴェスカが完成させた書類に目を通した後、「ふむ…」と声を漏らす。
作成した書類を点検するのも上官の仕事の一部だった。
「ちゃんと書類を書けるようになったな」
「そりゃ…見る人間が全員見辛いって言われちゃ慎重にもなりますよ…書く方はキツいけどさ」
文字を綺麗に書くという概念の無いヴェスカの努力が実ったのか、最近は書類作成に気を使う様子が記載された文面で分かるようだ。
ゼルエは数枚の書類に目を通し終えた後でそれが普通だと苦笑いする。
「書いた書類がことごとく解読不能で返送されてきたんだ。いい大人なんだから相手方に分かるように書いて貰わなければ困る」
「俺、昔から机に向かって勉強するっていうのが苦手だったんすよ」
「それはお前の普段のデスクワークで良く分かる。どちらかと言えばお前は現場向きだ。ただ、しっかりした役職に就いたからにはそれもこなして貰わないとな」
「あぁい…」
半ばやる気の無い返事だが、ヴェスカにもそれは十分理解していた。
「流石に大聖堂側からキツいお叱りは受けたくないだろう?最初の頃はオーギュ様から直々に怒られた位酷かったからな」
「顔見知りだから余計に言いやすかったかもしれないっす…あの人本当に厳しいからさ…」
初期はあまりの酷い出来栄えに直接兵舎に殴り込みに来られ、「このド下手糞が!!」と怒られていた。子供ですらまともに文字を書けますよ、とまで言われる始末。
子供と比べられるレベルで自分の文字が酷いのかと少しショックを受けた。
「他人に読ませる気が無い書き方らしいんすよ、俺。そこまで難解だったとか。でもさぁ、ド下手糞とかあまりにも直球過ぎないっすか?」
「はは…そう言って貰えるだけマシだろう。この機会に直せる癖は直した方が良い。文字の書き方でその人の性質も判断される場合もあるからな。お前、オーギュ様の字を見た事が無いのか?几帳面な性格が良く分かる位丁寧だぞ」
「あー…そういえばあまり見た事が無いっすね…」
自分の作業で手一杯で、他の人間の書く文字までは把握していなかった。とにかく早く終わらせたい一心でこれまで手を動かしていたのだ。
だが、何でも文字を埋めて書いておけばいいというものでは無い。他の人に配慮位しろ、と注意されて以来丁寧に書く事を心掛けるようにしていた。
大雑把にも程があるでしょうと解読不能の書類をオーギュに見せられた際には「そこまで言う程のものか?」と疑問に感じたものだが、自分は良くても第三者にはキツかったらしい。
読ませる気が無い、と言われれば対処するより他無い。
「はぁ、でも良かった。士長がちゃんと読める位には成長したって事でしょ?」
「ああ。この調子でこれからもしっかりやれ」
まるで子供の学習内容を確認するかのような言い方だが、文字の書き方を注意されてきたヴェスカには適切な評価だ。
「精進しますよ…手、めっちゃ疲れるけど。んじゃ、俺はお先に失礼します」
身支度を済ませ、荷物を手にするとゼルエに挨拶をした。彼はまだ作業の続きをするらしく、未だにデスクに着いたまま。任務や鍛錬に加え、デスクワークとなれば更に負担がかかりそうなものだが。
…士長クラスになると、自分より更にやる事が山積みになっていくのだろうか。
「ああ。明日は休みだろう。ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます。士長もあまり無理しない方がいいっすよ」
「もう少しで終わるから心配無いさ」
それならいいけど、とヴェスカは笑顔を見せる。
「お疲れ様でーす」
最近また建て付けが悪くなってきた引き戸を開き、ヴェスカは兵舎を出た。夕暮れのオレンジ色に染まる渡り廊下を進んで行くと、奥から小柄な少年剣士の姿が見えてくる。
「リシェ」
「…何だ、お前か」
「珍しく疲弊した顔してんじゃん。今日は何してきたんだっけ?」
これから夜間任務をする剣士達の姿もちらほらと見える中、リシェは「城下街の掲示板の貼り付け作業だよ」と答えた。
「あー…あれか。ロシュ様の偽物に注意的な?」
「そう。スティレンと手分けしてきたんだ」
それを物語るかのように、リシェの手には空のトートバッグがあった。店舗に配置する分もあったので相当な紙の量だった事だろう。
それを持って歩き回るのは、流石に鍛錬していても小柄なリシェにはキツい作業だったはず。
「スティレンは?一緒じゃないのか?」
手分けして向かったのなら、一緒に行動していると思ったが彼の姿が見当たらない。
ヴェスカの質問に、リシェは不思議そうに眉を寄せた。
「あれ…まだ戻ってないのか。店にチラシを置く作業が嫌だって言ってたから先に戻ったのかと思ったけど…ルイユも何故かくっついてきたから、店周りする代わりにあいつの面倒を見ろって言って別れたんだけど」
そろそろ暗くなってしまうぞ…とリシェは困惑する。
スティレン単独ならまだいいが、ルイユも同行しているのだ。何かあれば面倒になる。
外は次第に夕焼けの光を失いつつあった。
ヴェスカは「ふうん…」と腕を組み何かを考え込む。
「俺は今から城下の方に行くつもりだけど、見かけたら声掛けてみるか。会う確率は低そうだけどな」
「明日は休みか」
彼が宮廷剣士の仕事を終えて城下街に行く時は、大抵次の日が休みの時だ。時間を有効に活用したいと言いながら飲み歩きたいのが良く分かる。
「当然」
まだ未成年でもあるリシェには、大人達が好んで嗜むアルコール類の良さはさっぱり理解出来ない。気分が上がるというのは話の中で分かったものの、飲んでみたいとは思わなかった。
「会ったらでいいよ。もしかしたらもう大聖堂に戻ってるかもしれないしな」
「暗くなってまで長居する方でもないだろ、あいつは」
確かに…とリシェはこくりと頷く。
夜更かしは肌に悪いと明言する者が、好んで遅くまで遊びまわる筈は無いだろう。ただ、ルイユが我儘を言ってまだ遊び足りないと言わないとも限らない。
監視役が居ないので自分の意見を通しそうな気もするのだ。
「俺はもう塔に戻る。役目も終わったし報告だけだから。もし見かけたら早く戻れと伝えておいてくれ」
「ああ、任せとけ。…まぁ、言う機会に恵まれないのが一番いいんだけどな」
そう言い、リシェはゼルエへの報告の為にヴェスカと入れ違う形で兵舎の方へと向かっていった。
暗くなっていく足元を照らす為に、渡り廊下内は小さな明かりが点灯し始める。これから仕事の剣士達とすれ違いながら、ヴェスカは城下街の方へと歩き始めていた。
「ちょっと、あんたがあちこち色んな物に興味を持つからめちゃくちゃ暗くなってきたじゃない!!」
城下街の刺激に惑わされたルイユが「あっちに行きたい」「こっちも行ってみたい」とスティレンを引っ張っていくにつれ、空は既に暗くなっていた。
そろそろ城下街の治安も明るい時と比べると悪くなっていく頃合いだ。いい加減に大聖堂へ戻らなければと焦ってしまう。
万が一ルイユに何かあったら完全に自分のせいになってしまうではないか。
「だって街ん中面白いもんばっかなんだもんよー」
当の本人は全く悪びれない様子で言って退ける。
街灯が煌々と路地を照らしていく中、スティレンはちらりと大聖堂の方角へ目を向けた。
大聖堂はその存在感を夜間でもしっかりと見せつけるように、落ち着いた色合いの明かりによって下から照らされている。
はぁ…とスティレンは溜息を吐き出す。
まさかここまで時間が押すとは思いもしなかった。全部目の前に居るルイユのせいだと恨みがましく思う。むしろ役割を押し付けてきたリシェにも問題があるのではないか。
基本的に身勝手な性格のスティレンは常に自分の責任では無いと思いがちだ。
「いい加減に戻るよ!もうあんたの我儘に付き合ってられない。流石に暗いんだから危ない事くらい分かるでしょ」
というか帰れ、と言いたくなった。
「あんたのお屋敷に戻ればいいじゃないさ。今から大聖堂っていっても通してくれるかどうか分からないでしょ」
正面から行ったとしても時間で閉ざされているかもしれない。ルイユの素性を明かしたとしても、遅い時間なので却って不審がられる可能性もある。リシェがルイユに関しての話を通しているならば別だが、流石に遅くなる事を想定していないだろう。
「えー」
何故かルイユは頰を膨らませた。
「何さ。何か文句あるの?」
「もう大聖堂に泊まるって言ってんのに家に帰るのもなぁ」
「いや、帰れよ…」
ラントイエ地区までなら普通に送れるし、とスティレンは言う。そこまで誘導すれば常時警備員も配置されている地区なので内部に通して貰えるはずである。
そこまでやってもいいと思っているのに、何が不満なのか。
「あのさ、俺はここでは一般剣士なんだから大聖堂の関係者じゃないのさ。あっちに送ったとしても、この時間になったら正門までしか行けないんだよ。俺とリシェとじゃ待遇も違うの。言ってる意味分かる?」
「何だよ、使えねぇなぁ」
無神経なルイユの発言は、確実にスティレンを苛立たせた。
かあっとなって反論する。
「元々はあんたが時間を無視してあちこち俺を連れ回すからだろ!!人の言う事を聞かないで引っ張って行くからじゃないさ!!使えないって何なのさ、腹立つなぁ!!」
お互いに思った事をすぐ言うタイプのせいか、普通に話が噛み合っていた。仮に片方がリシェになれば恐らく話がなかなか進んでいかないだろう。
スティレンは「あーあ…」と面倒臭そうに暗くなった空を見上げる。所々に星が輝き始め、違うアストレーゼンの幕開けを伝えるかのように周辺の人々も日中とは違う色合いを見せていた。
それを感じたのだろう、ルイユは更に面倒臭い事を言い出す。
「なぁ、折角だから酒場周辺とか見てみようぜ。滅多に見られないじゃん」
「嫌だよ!!俺らの年じゃ門前払いでしょ!何考えてるのさ、てかもう帰りたいんだから俺の言う通りにしてくれる!?」
明らかに酔っ払いしか居ないエリアなんかに誰が好んで行くのか。
湧き上がる好奇心を押さえられないのは仕方ないが、程々にして貰わないと困る。誰が尻拭いをすると思っているのかと怒った。
「別に見る位なら良くね?」
「俺は見たくないんだよ!」
ルイユの腕を強引に引っ掴むと、「ほら!」と促した。
おわっ…と声を上げ、前のめりになるルイユ。これから酒場街の方へと向かうであろう軽装の旅人らしき人々は、場違いな二人に目線を向けくすくすと笑っているのが見える。
可愛らしいわね、ここはまだ早いぞと揶揄う声を聞くと、スティレンは心の中で舌打ちした。
こいつはともかく俺まで一緒にしないでよ、と。
「ほら、戻るよ!」
治安も悪くなるであろう場所にずっと居る意味は無い。
必死にルイユを促すが、彼はある一点を見て「あっれ?」と呟いていた。
「何さ?もう、いい加減動いてよ!」
「いやー…見た事がある奴が居るなぁってさぁ」
「…はぁ?大人だったら普通に顔見知りだって居るでしょ。俺らには関係無いんだから」
そこでルイユは声を小さくし、意味深に呟く。
「ラントイエ地区の貴族ってあんま城下街の酒場区域に来ないんだよなぁ」
「………?」
何を言っているのだろうか。スティレンは眉を寄せ、ルイユの言葉に耳を傾ける。
「何でここにわざわざ来てんだろ。あいつらの好む酒とか、城下には置いてないと思うんだけど」
「さっきから誰の話してるの?別に誰が何の酒を飲もうが良くない?」
変な独り言をひたすら聞かされていたスティレンは怪訝そうな面持ちでルイユに問い掛ける。
彼はその質問に対し、変に神妙な顔付きで続けた。
「単におかしいなぁって疑問を抱いたんだよ。俺らの住む場所って異様にお高く留まってる奴らが多いからさ。社交場にしたって、いい場所を利用して尚且ついい料理や酒をかっ喰らいたい人間ばっかりなの。…それなのに、一般民が集まる大衆酒場に入っていくのが変に見えるっていうか。あいつらこういう場所はめっちゃ毛嫌いしてるのに」
「…だから、誰の話をしてるのさ。まずはそれからでしょ…俺が聞いたとしても、誰なのかさっぱり分からないと思うけど」
全く話が見えなさ過ぎて、スティレンはちゃんと言葉を組み立てて欲しいと言わんばかりに首を傾げた。勝手に話を進められても意味が伝わらなければ独り善がりの呟きになる。
…深入りしたく無いので別に話を続けなくても構わないのだが。
「オーギュの兄貴だよ。あれは一番上の奴かな?ジャンヴィエ=フロルレ=インザーク。あいつらいい噂をほとんど聞かないんだ」
「………」
スティレンはしばらくの間押し黙った後、ルイユに「帰るよ」と言い放った。
「っぇえええ!?何でだよ!?気になんねぇのか!?」
「全っ然気にならないね!それに、俺は変な事に顔を突っ込みたくないんだよ!」
相手が司聖補佐の身内となれば尚更関わりたくない。余計な問題が生じたら只では済まないだろう。
他国に来てまで変な事に巻き込まれたくないのが本音だ。
「変に関わったら何が起きるか知れたもんじゃない!」
「何やらかすか分からないんだぞ!」
「そんなの俺らに関係ある!?無いでしょ!?」
こういう事には変に首を突っ込まない方がいい。
ルイユは「えぇ」と小さく拗ねる。
「珍しい奴が珍しい場所に行くんだぞ」
「…知らんがな!!」
意地になって止めてくるスティレンに飽きてきたのだろう。ルイユは不満そうに唇を尖らせて文句を言い出す。
「あー、くっそ。こういう時にヴェスカとかが居ればなあ」
「副士長じゃなくて悪かったね。いいからさっさと観念しな」
夜風が次第に冷たくなってきた。同時に、何処からか食欲を唆る香りも流れ込み、夜の時間を告げるかのように大人の陽気な笑い声も聞こえてくる。
歓楽街の独特な雰囲気に飲み込まれそうだ。
「いいなぁ、大人になったら美味いもんいっぱい食えるんだろなぁ」
何かにかこつけて、実は食事が気になっているのではないだろうか。ルイユ程の家柄ならば良質の食事にありつけると思うのだが、無いものねだりをしているのかもしれない。
「さっきあれだけ食っておいてまだ足りないっていうの…」
「こういう場所で食うもんってやっぱ違うんだろ…てか、見失ったじゃん、あの野郎」
この薄暗い中、ひたすら相手を目で追っていたのだろうか。
スティレンはルイユの首根っこを掴んだまま怪訝そうに眉を寄せる。彼の親族がこの状態を見れば怒って抗議しそうなものだが、この暴れ小僧を留めるには手荒いやり方でなければ無理だ。
むしろ見つかって欲しいとすら願いたくなる。
「何かされた訳じゃないのに何でそんなに躍起になる訳?それにオーギュ様の身内なんでしょ…目立つ動きなんて流石にしないだろうに」
「オーギュの身内だからこそ、だろ。ラントイエの方じゃ、インザーク家って今はあんまいい印象は無いからな。三男坊のオーギュ様のお陰で体面を保っているようなもんだぞ」
「………」
そんなの俺には全く関係無いし、とスティレンは思った。
仮に相手の動きを把握した所で得になる事など一切無いだろう。むしろ逆にリスクを伴うかもしれない。それならわざわざ首を突っ込む事はしない方がマシだ。
「興味が無いよそんなの。ほら、戻るって言ってるでしょ。大人しく言う事聞いてくれる?」
流石に疲れてきた。
早く宿舎に戻ってシャワーを浴びたい。人混みで澱んだ空気に晒されるのも嫌になっていたスティレンは、ルイユの腕を引っ張って大聖堂方面へと促す。
彼はちぇー、と頬を膨らませながら仕方なく言う事を聞こうと来た道を引き返そうと数歩だけ進む。そして何故か止まった。
「…何?やっぱり帰りたくないっていうのはやめてよね」
まだ何かあるのかと嫌そうな顔をあからさまに見せるスティレン。
「あのデカくて髪が赤いの、あいつヴェスカじゃねえの?」
ルイユの目線はスティレンの後方に向けられていた。
「………?」
怪訝そうに自分の後方に顔を向ける。行き交う通行人に紛れる形で酒場街へ近付いてくる男。薄暗い街灯に照らされていて若干分かりにくいが、彼の大柄な体格は非常に人の波の中でも目立っていた。
スティレンも彼の姿を確認すると、「あぁ」と呟く。
「副士長だ…てか、何でこっちに」
他に連れが居なさそうな事から、任務とかでは無さそうだ。ただ宮廷剣士の服装のままなので一見何かの業務で来たのかと勘繰ってしまいそうになる。
まさか上官にこの場で遭遇してしまうとは、と思ったが彼の性格上そんなにきつい注意はしないだろう。こちらも好きでこの場に居る訳では無いのだ。これが士長のゼルエなら、確実に厳しい目線で事情を聞かれてしまうかもしれない。
顔を合わせるからにはちゃんと挨拶をしなければ…と思っていた矢先、ルイユが大声で「ヴェスカぁー!」と彼を呼んでいた。
突如自分の名を呼ばれたヴェスカは、その声の主をすぐに見つけると驚いた表情で近付く。
「あー、やっぱり居たのかぁ」
やっぱり、とは。スティレンはヴェスカを見上げてお疲れ様ですと挨拶をした。
「俺達の事を聞いてたんですか?」
「あぁ、こっちに来る前にリシェと会ってさ。まだ戻ってないって話をしたら驚いてたぞ」
まさかリシェの方が先に戻っているとは、とスティレンは頭を垂れた。何もかもこのルイユのせいだ。彼がひたすら我儘なせいでこんな時間まで城下街に居る羽目になったのだ。
しかし当のルイユはケロッとしている。
「ヴェスカが居るならこの辺歩いても良くね?なぁ、スティレン!」
「そういう問題じゃないでしょ…」
二人の会話を聞いたヴェスカは、何となく状況を察したようだ。ははぁんと揶揄う表情でスティレンを見下ろす。
「随分苦戦したっぽいな、スティレン」
「苦戦っていうか。自分勝手にあちこち振り回してくるんですよ。今もこうして酒場の方に興味持ってくるし。ガキの癖に…こんな事ならリシェの言う通りに俺も店舗配布しておけば良かった」
流石のスティレンでも、ルイユが相手だとかなりやりにくいのが窺い知れた。ヴェスカは少し彼に同情してしまう。
「流石に副士長の言う事なら聞くと思うんですけど…」
そう言い、ちらりとルイユを見るスティレン。
自分よりは大人のヴェスカの口から戻れと言われれば、彼も従わざるを得ないと思う。
「ヴェスカ、どうせお前も飲みに来たんだろ?」
変に慣れた様子でルイユは彼に問い掛けていた。
自分達を探しに来た訳ではないのは理解していたが、話が余計おかしくなりそうな雰囲気を感じたスティレンは「…ちょっと!!」とルイユを叱咤する。
「まさか着いて行くって言うんじゃないだろうね!?」
いくら何でも図々しいとは思わないのか。スティレンの不安を余所に、ルイユは「おう」と無邪気な笑顔を見せる。
「大人が一緒に居れば問題ないだろ?」
「…馬鹿じゃないの!!」
相手がアストレーゼンの貴族の息子だというのをすっかり忘れて思わず怒鳴ってしまう。何度説明しても全く響きもしなかったようだ。
「副士長にまで迷惑を掛ける気!?」
「俺らそんな関係じゃねぇよぉ。な、ヴェスカ?」
変な頭痛がしてきた。このまま彼を押し付けて帰りたいと思ったが、流石にそれは駄目だろう。
どうしたら…と頭を抱えて悩むスティレン。
その一方で、くっついてくるルイユの目線に合わせて屈み、ヴェスカは優しい口調で問う。
「何だ、そこまでこっち側に興味があったのか?家の人は何て言ってんだよ?」
「大聖堂に泊まって来るって伝えてるから大丈夫だよ。リシェにも言ってあるしな。世話役のクラウスもリシェの事は知ってるし、リシェに伝えれば当然ロシュ様にも伝わるだろ?」
「まぁ、そりゃそうだけど」
このまま無碍に二人を帰すより、自分が付いておけば安全だろう。それにこの時間帯は足元も暗く治安も不安定になる。
夜間中心に徘徊する住民や、旅の疲れを癒す為に外出する旅人達が羽目を外しやすい。
この危険地帯を、まだ大人になりきれていない二人を歩かせるのは気が引ける。だが大人しく帰れと無責任に放り出すのもどうなのか。
「参ったなぁ。この辺は色々危ないし…」
「俺はさっさと戻るつもりだったんですよ。それなのにこっちがめちゃくちゃごねるから…」
最後まで言葉を言い終えようとしていた矢先、地区内に備えていた鐘の音が鳴った。鐘は周囲に配慮しやや低めの音だが、人々の注意を引きつけるには十分である。
ヴェスカは「あぁ」と声を漏らし空を見上げた。
「何の知らせなんだこれ?」
鐘の音と同時に人々が次々と建物の中へ吸い込まれていくのが分かる。そんな不思議な状況に、ルイユは怪訝そうな顔をした。
「たまに城下街は霧が発生するんだよ。暗い上に霧が出てくりゃ、変な事に巻き込まれやすい。悪さをするにはもってこいだからな。でも良かった、ここでお前らを無責任に帰したら却って危なかったかもしれない」
「おっ」
ルイユは察したのか、表情をぱっと明るくした。
「じゃあ決まりだな!どっか食いに行こうぜ」
対するスティレンは深く溜息を吐く。結局そうなってしまうのか…と帰る時間が遅くなってしまうのを危惧した。
だが成人しているヴェスカが一緒ならまだマシである。
…その面では運が良かったと思えた。
大きな湯船の中、ロシュに抱きつく形でリシェはぐったりと身を沈めていた。これでもかと言わんばかりに相手に全身撫で回されたせいで、既に体力が尽き掛けている。
荒れた呼吸を整えながら、リシェはうっすらと瞼を上げロシュの唇に自らの唇を重ねていた。
「…リシェ、流石に疲れたでしょう?もう上がりましょう」
ロシュの性欲はとにかく留まる事を知らない。司聖としての体力が備わったのもあるが、元々の性質もあるのだろう。
これ以上触れていてはリシェの体が心配になる。しかしもっと触れていたいというのが正直な気持ちだった。
久し振りの行為だったせいもあってか、何度も欲を吐き出しても足りなかった。
自分は良くても受け止めるリシェが大変だ。いい所で止めておかなければと我慢しなければならない。
力を失った華奢な体を抱え、ロシュは浴槽から出る。
「…ロシュ様」
「大丈夫。もうきつい事はしませんよ。無理させてしまいましたから…」
逆上せそうな程に紅潮している頰に触れ、ロシュはリシェに優しく囁いた。同時に彼の臀部の奥へと軽く指を突き入れると軽度の詠唱を始める。
必ず行われる【ある作業】に、リシェは反射的に全身を強張らせていた。
「あっ…あ!や…っ、ロシュ様!」
びくびくと身をひくつかせ、リシェは悲鳴を上げてロシュにしがみ付く。行為が終わる度にこのようにして内部の傷の治療を行っているが、リシェは未だに慣れていないままだ。
体の奥が熱くなり、体内に吐き出された残滓を抜き取られていく感覚を覚える。両脚ががくがくと力無く震え、何とも言い難い刺激に思わず悲鳴を上げてしまった。
中に放たれたものを魔力によって掻き出されていく。ロシュの心遣いは有難いが、それによって少しずつ床に垂れ流される液体を見ると恥ずかしくて仕方無い。
リシェは呻き、首を振りながら羞恥に耐える。
「や…っあぁ…んっ…」
「これが終わったら洗って差し上げますから…もうちょっと我慢して下さいね」
この最後の行為が苦手そうなのはロシュも理解していた。だが、彼の体を傷付けたくないのでこのような治療を毎度行っているのだ。腹の中に自分が吐き出した残滓が残ったままでは、流石に気持ち悪いだろう。
目をぎゅうっと閉じたままで自分にしがみつくリシェがまた可愛らしくて、必死で沈めた欲望がまた湧きそうになるのも何度も経験している。しかも中に出した体液を垂れ流しているという状況。
これで欲情するなと言われるのは非常に酷だ。しかもこの作業中のリシェの表情は、狙ったつもりではないだろうがとにかく色っぽい。
人目を惹きつけるレベルの美少年ならば尚更、その色が増してしまう。無自覚なせいで余計唆るのだ。
むしゃぶりつきたくなるのを堪えながら、ロシュは紳士を装った。
「…はっ…あぁあ…っ」
「大体この位で大丈夫でしょうかね。ごめんなさいね、リシェ。辛かったでしょう?」
今にも泣きそうな顔のリシェは、こちらをまっすぐ見ながらふるふると首を振ると、腕を伸ばし抱き着いてきた。
「つ、辛くないです」
「………」
自分に気を使って無理しているのだろうと察する。まだ未熟なリシェを愛してしまうという事は、それだけ彼に負担を掛けるという事になる。
彼を護衛として側に置いているのに、このような関係になってしまうのは流石に許される事ではないだろう。
大切にしたいのに傷を付けてしまうという矛盾に、ロシュはリシェに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
くったりと脱力気味の彼の身を隅々まで洗い、綺麗にした後で先に浴室から出させた後、自分の身も洗い流していく。
咽せそうな湯気が立ち込める中、しなやかな肉体から泡が滑り落ちるのを見届けてロシュは一息吐いた。司祭という職業柄、運動らしい運動とは縁の無い世界に思われそうだが彼の体は均整の取れた体格だ。細身の法衣で隠れている為か、彼は人より華奢に見られがちだった。
程々に自分の欲の制御をさせないと…と気持ちを落ち着かせながら流れる湯を見下ろす。
いくらリシェが好きだからといって、彼に散々無理をさせては嫌われてしまうかもしれない。
身を拭き清め、湯上がり専用のローブに身を包んで浴室を出る。
「リシェ。もう私の雑用はしなくてもいいから休みなさい」
あれだけ酷使されたというのに、彼は湯上がりでも自分の為にお茶を淹れようとしていた。それを見るといじらしさを感じるが、同時に哀れになる。
自分の為にそこまでやらなくてもいい、と常に言っているのにリシェは自ら動いてしまうのだ。そうさせてしまったのは自分にも一因がある。
「でも、水分を取らないと」
「それはあなたも同じでしょう?」
それでもリシェは室内に入ってきたロシュに近付くと、用意していた冷たい茶が入ったグラスを手渡してきた。
ロシュは苦笑し、「もう」とそれを受け取る。
「あなたも飲みなさい。何なら口移ししましょうか?」
「いっ…いえ、大丈夫です」
突然の冗談に、リシェは火照らせていた頰を更に赤く染めてぶるぶると首を振った。
これ以上ロシュと密着したら気を失うだろうと慌てる。
接する毎に愛おしさが増し、離れたくない気持ちが膨らんでしまう。そして自分の中のいやらしい感情を引き起こしてしまうのをリシェは恐れていた。
彼を誰よりも独占したいと願う気持ちは、確実にお互いの為にはならない。
「湯上がりのお茶はとても美味しいですねぇ」
冷たいお茶は火照った体内に強く染みていく。
リシェもロシュに勧められるままそれを喉に通すと、相当渇ききっていた為かすぐにグラスを空けてしまった。
その様子をロシュは微笑ましく見つめる。
「落ち着いてきたら眠くなってくると思いますから、寝る準備だけしておきなさい」
「はい…ロシュ様は…?」
この段階でも彼は眠そうになっている。
「私はちょっとだけ雑用を済ませてしまいますから…」
「では俺は部屋に戻ります。お邪魔するのは良くないし」
「いえ、この部屋で休みなさい。すぐに横になれるでしょう?」
ロシュの私室のベッドは一人で眠るにはかなり大きい。
天蓋付きで、しかも二重のカーテンで仕切る事も出来るので照明の明るさもしっかり遮る事も可能だ。
二人で眠るには丁度いい広さなので、ロシュはリシェにだけは共にそこで眠る事を許していた。
「ありがとうございます、ロシュ様…」
この段階でリシェはもう眠そうに頭を揺らし始めている。自分でも良く分かっているのか、眠る準備をスローペースで行い勧められるままロシュのベッドへと直行していった。
そんな彼の様子を見ていたロシュは、その一連の動きが可愛く見えてつい微笑んでしまう。
まだ彼も子供なのだ。
ベッドの奥のカーテンを少し開き、常に手入れされふかふかの羽毛布団に包まるリシェの頭を撫でる。
「おやすみなさい、リシェ」
「…はい…」
相当酷使されたのだ。もう彼は暖かい布団に引き摺り込まれるかのようにすぐに寝息を立てていた。
ロシュはすぐにベッドから離れ、残された雑用を片付けようと動く。仕事は少しだけ残っているが、軽度のものなので多少後回しにしても大丈夫だが、身の回りの片付けは最低限済ませておかなければならない。
大抵の事は大聖堂の職員達が行ってくれてはいるものの、流石に細かいプライベートな作業まではさせたくなかった。
大体の作業が片付き始め、一息吐いていたその時。
私室の扉が控えめにノックされた。
「?」
こんな夜中に…とロシュは怪訝そうに眉を寄せる。流石にオーギュでも深夜帯に部屋に訪ねて来ないはず。それ以前に階段を露骨に嫌う彼は魔法でこちらに飛んでくるだろう。
不思議に思っていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「…ロシュ様、夜分遅くに失礼します」
「はい…?」
ロシュは早足で扉の前に向かい、ゆっくりと開いた。扉の向こう側には一人の大聖堂の職員が申し訳無さそうな様子で立っている。
「どうしましたか?」
「連絡が遅くなって申し訳ありません。そちらにルイユ様がお越しではないかと…無事にこちらに着いているかランベール家の方からお問い合わせが入っておりまして」
いつもなら無事に大聖堂に着いたと連絡が入るはずが、今回はそれが無い事にランベール家側が不安を抱いたのだろう。
「あ…」
ロシュは返答に詰まった。そういえば、とリシェからの報告を思い出す。今更思い出してしまうとは…と内心戸惑う。
久し振りに時間の余裕が出来た事で浮かれてしまいひたすら時間を掛けて彼を愛で続けていたのだ。
…あまりにも情けない。
確かスティレンと同行しているという話だったような、と記憶を呼び起こすが、まだこちらには来ていない。
では今はどこに居るのだろうか。この時間まで城下街に居るとなれば、何かに巻き込まれている可能性もある。
「ええっと…ご安心下さい。今はちゃんと眠っていますので」
ここで居ないと言えば大変な騒ぎになってしまう。
まだ眠るには時間があるな…と考えながら、ロシュは相手に不安を与えないよう「こちらこそ報告が遅れてすみません」と謝罪した。
職員を戻した後、ロシュは「うぅ」と頭を掻く。
リシェに夢中になり過ぎて、大切な事を忘れてしまうなんて。これは話を聞いていたにも関わらずおざなりにしてしまった自分の責任だ。
塔の下は常に宮廷剣士らが警備に当たっていて、階段から出ようものなら引き戻しを食らってしまう。理由を話せば更に話が抉れてしまうだろう。
…出来ればひっそりと連れ帰って解決させたい。
オーギュに報告しようものならこっぴどく叱られてしまう案件だ。叱るというより激怒する可能性が高い。
そして自分の独断で外出してもいい顔はしない。
…結局何をしても彼に知られれば怒られるのだ。
それなら自分が探しに出て、内密に連れて帰る方がいい。
クローゼットの中から外套を引っ張り出した後、司祭用の法衣ではなく比較的一般向けの法衣を身に着けた。一般用に作られている法衣は素材が軽いが、魔力の耐久性は低い。
見習い程度の魔導師向けに流通している物で色のバリエーションもあり、何枚か持っていれば軽い外出に便利なので前もって購入している。ロシュはクリーム色を基調とした物を数着控えていた。職業柄、そうせざるを得ないのもある。
魔導師時代の法衣も持ってはいるが、万が一の際に特有の魔力を引き出せない場合があるので状況を見て着用しなければならない。
逆に、魔導師も司祭専用の法衣を纏う事は皆無だ。
この一般用の法衣は、高位司祭の服装にしては非常に安っぽく貧相極まり無い。それでも、城下街で目立ちやすい服装は控えておきたかった。
外套を羽織り、首元の留め具をしっかり留めた後でフードを被る。外套だけは素材が良く、中のチープな法衣との差が激しいがすぐ戻るつもりなので気にしない事にした。
「さて…」
彼は小さく呟くと、眠っているリシェに気付かれないように窓の外へと出る。緩やかでやや冷たい風が吹く中、城下街の方向へと顔を向けた。
端正なロシュの顔を、風が優しく撫でていく。街はやや空が白く、街灯の光がそれによって霞んで見える。
霧が出ているな…と思いながら、彼は塔の上から飛び降りていった。
外に居れば居たで霧だらけなのに、酒場に来たら来たで煙草の煙やら他人が発する熱気だらけになるんじゃないかとスティレンは内心不満げだが、決して声には出さず注文したハーブティーを数口飲み込む。
お茶の中にハッカが少しだけ含まれているのか、飲み込んだ後に爽快感があった。
「なぁスティレン、昆虫を揚げた料理があるんだけど食ってみねぇ?多分美味しいと思うよ。ほら、昆虫食って流行ってるって聞くじゃん」
様々な料理と酒を気持ち良く喰らうヴェスカの隣で、ルイユは何故か敬遠されそうなメニューをスティレンにひたすら勧めてきた。
昆虫を揚げた料理と聞くや、スティレンは当然の事ながら嫌そうに顔を顰める。
どう考えても自分を実験台にするつもりではないかと。
「何で俺に勧める訳?食べたかったら自分で食べなよ」
「なんかほら、どんな味か気になるじゃん」
「俺は気にならないから自分で試しな」
二人のやり取りをヴェスカは食べながら聞いていた。
変にウマが合うもんだなと妙に感心してしまう。
「えー」
「ふん。食事にまであんたに付き合う気は無いよ」
ルイユは可愛らしく頰を膨らませ、何故か訴えるようにヴェスカを横目で見上げた。
とにかく気になって仕方無いらしい。
酒場の料理は多種多様の人種が常に出入りする事から、どう考えても食指が届かない料理も稀に出現する。ここでしか食べられない珍味で他店を出し抜きたいという狙いもあるのだ。
「気になるんなら頼めばいいじゃん」
「そりゃそうだけどさ。俺が全部食えるかって言われれば自信無いんだもん。スティレンが全部食ってくれるんなら喜んで注文するけどさぁ」
「…何でそこで俺な訳!?」
ちょっとした事でも言い争いのようになってしまう会話を延々と繰り返していく。
随分と仲が良さそうにも見えてきて、ヴェスカは「かなり仲が良いな」と二人に話す。まるで兄弟か何かのようだ。
「えぇ…」
何故かスティレンは不愉快そうな顔を見せる。
「俺はこっちの我儘についていけないんですけど」
仲が良いと言われ非常に心外らしい。彼に付き合い続けると何が起こるか知れたものではない。
現にこうして遅くまで城下街に留まる羽目になってしまう結果になったのだ。そして当の本人はしれっとして食事を頬張っている。
「大体、あんたがオーギュ様の身内を見つけたからって追いかけようとしてるのがおかしいんだよ…別に放っておいてもいいじゃないのさ」
「……んん??」
オーギュの名を耳にした瞬間、ヴェスカが即反応した。
「そのオーギュ様の身内がこっちに来てるからって…何か問題でもあんの?」
別に大人なのだから、城下街の酒場区域に足を踏み入れても何ら問題は無いはずだ。むしろそんな高貴な身分の人間がこちらの酒場に入り浸るとなれば、少しだけ親近感が湧くというもの。
ルイユはそれが変に見えたのだろうか。
「だから言ったじゃねえか。インザーク家ってのはラントイエ地区でも割とお高くとまってる貴族だって。そんな一族の一人が、庶民が入り浸る城下街の酒場に好んで来るってのはどうなのかってよ。あいつらは自分以外の人間に対してめっちゃくちゃ下に見がちだからな。それに、あいつら…っていうかあの兄弟か。あれに関してはマジでいい話なんて聞いた事無いぞ」
「…凄げぇボロクソに言うじゃん…」
むしろ何かしら恨みを持っているのではないかと勘繰ってしまう。
「そりゃそうよ。いくら格式が高いからって言っても、人を見下す態度を出しちゃ駄目だと思うぞ。あそこまで酷いのは滅多に居ないんじゃないかな。オーギュが有能過ぎて面白くないのは分かる気もするけどよ…」
そこまで言い切るのなら一度見てみたいものだ。
一般民の自分らから見る相手と、ルイユのように貴族側からの目線で見るのとは違いが分かるのかもしれない。
だがそんなに会う機会は無いだろう。
「子供のお前がそう言う位なら相当なもんだろうけど…」
「…ふん、むしろあんたが何か相手に失礼な事をしてたんじゃないの?あまり困らせるような事なんてするもんじゃないよ」
蒸せ返るような酒場の空気の中で、似つかわしくない優雅な食事をするスティレンはルイユに対し呆れた口調で言い放った。
彼は荒くれ者が大半を占めるこの酒場で、殆ど誰も注文しないようなミニサラダやハーブティー、煮豆を薄味で味付けした非常にヘルシーなメニューを厳選して口にしていた。そんなスティレンとは逆に、ヴェスカは脂の乗った焼肉や揚げ物、更にアルコールといった不健康極まり無い食事を次々と摂っている。
ヴェスカが食べ終えては似たようなメニューを注文し続けていくので、テーブルに運ばれる毎にスティレンは引き気味に卓上の料理を見ていた。立場上あまり顔には出せないが、流石にギトギトの脂の乗った料理を見てしまうとそうせざるを得ない。
ルイユはルイユでヴェスカが注文した物を摘み食いしつつ健康的にフルーツジュースを口にしている。
「んな訳ねぇだろー」
口に肉を含んだままでルイユは反論した。
「食べながら喋んないでくれる?」
行儀が悪い事を指摘すると、彼はごくんと全て飲み込んだ後続けた。
「どんだけ酷いもんか見せてやりてぇ位だぞ。スティレンの比じゃない程あいつらおかしいって…」
「そこで俺を比較対象にしないでくれない!?」
今この場に居れば良く分かるんだけどよ…とジュースをストローで吸い込み、ルイユは残念そうに呟く。
ヴェスカは麦酒のお代わりを頼んだ後、胃を休めるように一旦手を止めて一息吐いた。
「まあ、俺らはそんなに会う機会には恵まれないからな。貴族様っていってもピンキリだろうし…」
「ヴェスカ、それでも一応頭に置いておいた方がいいぞ。何しろ一番下の弟が自分達を出し抜いて出世してるようなもんだ。あの辺を取りまく話題なんて、大抵オーギュの話ばっかだろうからあいつらにしては決して面白く無いんだよ。しかも昔から仲良くも無いし。ほら、この前シャンクレイスの王子様が来た時があったろ?大聖堂でちょっとした騒ぎが出たってあれ」
「んあ?…あぁ、あったな。俺は外回り中心だったから内部の方までは干渉しなかったけど」
そこでルイユは声を小さくした。そこは変に気の使い方を考えている模様。
「その事件も何かしら裏で引っ張ってた可能性もあるって話。疑いがある程度だからこれ以上は何とも言えねーけどさ、注意するに越した事は無いと思うよ」
ルイユの話を聞きながら、スティレンは食事の手を止めて黙りこくっていた。
あの侵入者を問い詰めた際、単に雇われただけだと言っていた。大元の存在を匂わせてはいたが、相手も深くは知らされていないのだろう。
「…どうした、スティレン?」
「え!…あ、あぁ…何でもないです、すみません」
大怪我を負ったリシェの姿を思い出し、変に苛立ってしまいそうになる。
鈍臭いリシェの事もあるが、調子付いた犯人の術者の胸糞悪い顔が脳裏に浮かんでしまう。こんな事ならあと数発殴ってやれば良かった。
「それにしてもルイユ」
「んああ?」
「随分詳しいじゃん。誰からそんな細かい事聞いてくるんだ?流石に親から聞いた訳じゃないだろな」
大人顔負けの情報を普通に言うので、ヴェスカは違和感を覚える。
あの騒ぎに関しては未だ調査中だが、まだ込み入った内容までは把握していないままだ。確定的ではない事はまだ大っぴらに知らされないようになっているのもあるが、騒ぎを起こした犯人が以前として無言を貫いていて調査が行き詰まっているのもある。
「へへへ…俺の得意技って盗み聞きなんだ。父様とお客の噂話はつい聞いちゃうんだよねぇ」
盗み聞きという言葉を聞くなり、品が無いとスティレンは眉を寄せた。大人達の会話をこっそり隠れながら聞くとは可愛げが無いと呆れてしまう。
その一方で、ルイユは全く気にせずに話を続けた。
無邪気な顔をして非常に図太い性格だ。
「あとはオーギュからあまり二人には近付かない方がいいってのも聞いてる」
「オーギュ様から?」
「そそ。色々思う事があるんじゃねーの?昔から結構足を引っ張られる事もあるみたいだからな。周りに迷惑を掛けたくなくて注意喚起してるのかもしんない」
オーギュ本人から、あまり家族についての話は聞いた事は無い。むしろあまり言いたがらない様子だったので、ヴェスカはそこまで彼の家族に関して突っ込まなかった。
それは本人が言いたい時に言えばいいだろうし、別に聞く内容ではない。言いたくないのなら言わなくても構わないのだ。
「オーギュ様は三人兄弟だっけ…兄弟だと話とかも合いそうなもんだけど…俺には良く分かんねえな。仲が悪いとか合わないとかあるもんなのか」
「そうそう。上の兄貴同士で連んでるんだ。裏で変な輩との付き合いもしてる可能性もあるっていう話…ま、疑いが無くなったら別に何の問題も無いんだろうけど、注意するに越した事は無いんだろうなぁ」
俺には兄弟仲が悪いっていうのは考えられないんだけど…とルイユは首を傾げながらぼやいた。
「俺は一人っ子だから兄弟ってのは分からないけど、オーギュ様のとこは昔からそうなのか?」
その間にもヴェスカが注文していた肉料理がテーブルに運ばれて来る。酒をたらふく飲んでおきながらまだ食べられるのか…と卓上に乗った料理を目にするスティレンは、もうお腹いっぱいと言わんばかりにやや顔を顰めていた。
全く食事の手を止める気配が無い。
ルイユも目の前にあるフルーツ盛り合わせを摘み、「らしいぞぉ」と返答する。
「ま、あまり人様の家の事は突っ込めないしな。本人が気を付けろって言う位だから多少は警戒した方がいいと思うぞ。ただ相手は貴族だからなー」
「………」
仮にオーギュが彼らによって何らかの妨害を受けても、抵抗しようものなら逆に理不尽を強いられるかもしれないという事か、と複雑な気持ちになる。
あまり付き合いは無さそうなのでその可能性は低そうに思えるが、一応頭に入れておいた方がいいのかもしれない。
彼らは生まれた時から恵まれた環境に置かれている為、自分達の周囲のその先の世界には興味が無い傾向にあった。
良く言えば幸せ者、悪く言えば世間知らず。
一般剣士が彼らの護衛に当たる際、あの連中は自分達を特別な人間だと思い込んでいると愚痴を聞かされる事もしばしばだ。
そんな性質なので自分達が不利な立場に置かれたとしても知らず存ぜずの態度を貫くだろう。
「まぁ、そうだろうなって感じはあるよな」
酒場内は休息を楽しむ人々で更に埋め尽くされ、座席と座席の間隔が非常に狭くなっていた。隙間を縫って歩くにも大変そうだが、従業員は慣れているのか普通に上手く通過して給仕を行っている。
アルコールと油、香辛料の香りに加え、人から放たれる汗などの匂いも同時に含まれるので時に不快感すら覚えた。
「スティレン、大丈夫か?」
「は…はぁ。どうにか」
外の空気を吸いに行きたいと思ったが、出口までやや遠い。
せめて天井に通風口でもあればいいのにと苦々しく思いつつ、スティレンは心配を掛けさせまいとヴェスカに愛想笑いで返事をする。
「副士長。ちょっと外に出てきます」
「お?あぁ、いいぞ。ただこの界隈、この時間は治安が悪いから、何かあったらすぐこっちに戻って来た方がいい」
しかも外は先の見通しが判別しにくい程度に霧が発生している。
悪事を働こうと企てる輩には絶好の環境だ。
自然現象とはいえ、街を覆う霧には警備する立場の目線で見ると非常に厄介そのものだった。
「はい。分かりました」
年季の入った椅子から腰を上げ、スティレンは冷たい水を一口飲んだ後に離席した。
彼の様子をじっと見つめていたルイユは、その背中を目で追いながら「お坊ちゃん育ちだねぇ」と変な事を言い出す。
「自分だって同じだろうに」
「俺、あいつみたいにそこまで貧弱じゃねえぞ…」
繊細なスティレンと比べると、ルイユは非常に肝が据わっているというか図太い性質なのだろう。
「てか、大丈夫かなスティレン。変なのに絡まれなきゃいいけどよ」
「まぁ、あいつも宮廷剣士だからな。最低限の護身術位は出来るからそこまで心配は無いだろ。何かあればすぐ戻ってくるだろうし」
そんなにこの店から離れる事はあり得ないさ、とヴェスカは何杯目なのか分からない麦酒のジョッキを一気に煽っていた。
…アルコール臭っさ…とようやく人々の波を押し退けて酒場の外へと出たスティレンは、自分の衣服にこびり付いた匂いを軽く嗅いで心底嫌そうに顔を逸らす。
僅かな時間でもこれだけ嫌な匂いが付着するなんて、と苦々しい気分で店の手前まで進むと、湿気が混じった空気を軽く吸い込んだ。
「…てか、よくこんな場所に延々と居られるよね…」
故郷のシャンクレイスで燻っていた際にも、悪友と連んでこのような場所に何度か赴いた事があった。だが自分には合わない環境だとどこか他人事のようにその喧騒を見ていた記憶がある。
決して良い環境では無いと客観視していたのかもしれない。
もしくは、自分がまだ大人になりきれていないのだろう。
その間にも武装した旅人らしい集団はうっすらとした霧の中でそれぞれ気に入った店へと次々と吸い込まれて行く。彼らは天候が変わろうが変わるまいが、別段慣れている様子だ。
酒場区内は酒類を中心に扱う店舗が軒を連ね、どの店も夜間は常に活気に溢れている。オレンジ色を基調とした街灯は霧によって湿った煉瓦造りの路面を照らし、いつもと違った雰囲気を演出していた。
酒場区から少し離れた先には旅人向けの宿場があり、酒を嗜んだ後にすぐ戻れるような造りになっている。中には酒場と一体になっている宿も点在するが、一晩過ごすには騒音と隣り合わせになってしまう。
その分宿賃は通常よりは安値だった。それさえ我慢すれば、すぐに食べ物や酒にあり付ける事が出来る。割り切る事が出来れば、それなりに良い宿になるのかもしれない。
ふと空を見上げると、まだ霧が出ている為か視界が非常にぼんやりしている。街の空気は冷やされ、頰に当たる風が湿っぽい。肌の保湿にはちょうど良い位だ。
「…日中は良い天気ばっかりなのに、夜がこれじゃあね…」
この状態は稀らしいが、流石にヴェスカが危険だと帰路を止めるはずだ。
シャンクレイスはアストレーゼンと比べると涼しい気候で、夜間はそこそこ冷える環境だった。なので夜になれば必然的にブランケットなどが必要になる場合もある。
向こうは寒暖差がはっきりしている為に、アストレーゼンの気候はちょうどいい位なのだ。
飲兵衛のヴェスカがまだここに留まる限り、しばらくは部屋に戻れそうにもないな…と半ば諦めながらぼんやりしていると、別の店舗の方向から大声が飛び込んできた。
「嘘ばっかり吐きやがって、お前本当に司聖か!?」
うっすらとした景色の中、明確にその先は見えてこないが何やら押し問答が起こっているようだ。酒場が密集する場所では大して珍しくもないが、聞きたくなくてもそのやりとりが聞こえてしまう。
しかも変に聞き捨てならないフレーズが入り込んでくるので余計に気になってしまった。スティレンは顔を上げると、その怒鳴り声のする方向へ少しずつ近付いてみる。
自分達の居る酒場から二軒程離れた別の店の入口の手前からその声がした。他の客達もその喧騒の声に驚いてか、数人様子見の為に姿を見せている。
「お前達が売ったこの魔石のせいで仲間が死んだじゃねえか!何が富をもたらす石だ、これのせいで散々な目に合ったんだぞ!」
その言葉に、周囲の人々が騒ついた。
司祭の最上であるアストレーゼンの司聖と名乗る者が他者に危害を与えるなど、どう考えてもおかしいのではないか…と不審がる中、相手は穏やかな口調で言葉を返す。
「それは大変なご不幸でしたね。…ですが決してその魔石のせいではありません。その石は聖地を巡った際、聖なる魔力を通し続けた神聖な物ですから。残念ながら、あなたのお供に関しては運が無かったとしか言い様がありません」
スティレンは黙ってその会話を耳にしながら、この声の主は確実にロシュの声では無いと察した。
これが彼の名を騙る偽物か、と更に近付いてみる。
目の前の景色が見え難い中で目を凝らし、その姿を確認してみると司聖と名乗っている白い法衣の人物が一人。その両脇には従者のような者が二人で固まっている。
「誰だあいつら…」
大聖堂内でもその姿は見た事が無かった。
仲間を失い、怒りに打ち震える旅人らしき男は司聖を名乗る者に向けて剣を抜く。同時に、見物人達の悲鳴や静止する声が入り混じった。
一方の不審な三人組は慣れているのか微動だにしない様子。
「おやめなさい」
男を前に、抑揚の無い声が周囲に響く。
彼らは顔を完全に隠していて、その表情は全く判別し難い。
「我々にはアストレーゼンの貴族が背後に付いているのですよ。こちらに楯突くとなれば、あなたはこの街に立ち寄る事が出来なくなります。それでもいいのですか?」
「………っ!!」
嘘八百を並べ立てるのは詐欺師の常套手段だが、ここまであからさまなのも珍しい。スティレンはこの場をどうするのかを思案していると、店の奥から別の男の声が聞こえてきた。
「…やけに喚いているのが居ると思えば。宝石が欲しいと言ったのはそっちだと思うが?」
その声も聞いた事が無かった。
一体誰が…と思っていたその時、偽物の従者の一人が声を上げる。
「アーヴィー様!」
だから誰だよ!?と突っ込みたくなったが、ふとルイユの発言を思い出した。
オーギュの兄の名前…、そして彼らが言うアストレーゼンの貴族の後ろ楯。まさか、と目を更に凝らして先を見る。
荒くれ者が多い中、その男の出で立ちは非常に視線を惹きつけた。
…まず身に纏う衣類からして違う。高級品に目がないスティレンはすぐに分かったのだ。あれは一般市場ではまずお目にかかれない代物だと。淀みきった匂いが充満する場所で着用するとはあまりにも無防備過ぎる。
むしろ、しっかりとクリーニング出来る財力を持っているのかもしれない。
顔は暗がりで良く判別し難いが、そこそこ顔立ちが整っているのではないだろうか。先程の言い方といい、変に軽薄そうな印象を受けた。
…まさかあれがルイユの言っていたオーギュ様の兄とかいう奴なのか?と思っていると、魔石を買い取ったという旅人の男は声を若干振るわせながら抗議を続ける。
「富をもたらし神の加護を与えるってそっちが言うから乗ったんだぞ!?それが何だよ、逆に魔物を惹きつける材料になってんじゃねえか!ふざけんな!!」
そんなうまいものある訳無いじゃないか…とスティレンは頭を抱える。何処に行ってもあからさまな詐欺に引っかかる者が居るものだと心底呆れた。
騙す方も騙す方だが、騙される方もどうかと思う。
そもそもいい所出のロシュが自らがこのようなケチな商売などする訳無いではないか。そう心の中で突っ込みながらやや離れた場所で静観していると、先程の長身の男が重い口を開いた。
「お前の仲間達が居なくなったのは不注意からだろう。石のせいにされてもこちらも困る」
「不注意以前の問題だ!この石ころに何が入ってるか知らんが、この石に引き寄せられるみたいに魔物が寄り付いて来たんだぞ!?しかも持っている順番にやられたんだ、これをどう説明する!?」
その抗議の声を聞き流すように、三人と男はお互いに顔を見合わせていた。彼らは深い知り合い同士なのだろうか、と見守っていると、ロシュに扮した白っぽい服装の男がスッと前に出る。
彼の所作は何処で習ってきたものなのか分からないが、非常に慣れたように落ち着き払っていた。そのまま、法衣の男はゆっくりと口を開き、相手に対し宥める。
「どうやらその石には余分な物が入り込んでいるようですね。外部の澱んだ魔力が介入したのでしょう。大切な仲間を失ったのは非常に残念ですが、決して珍しくはありません。同じように散った人々の念もそれに入り込んでしまっているようです」
「は…っ、何でも物は言いようだよな。こうして失敗する度にあれこれ理由を付けて納得させようとしてきたのか?ボロい商売だよなぁ?そもそもお前らは本当に司聖なのか?そしてその変な男は一体何者なんだ?」
どう見ても偽物だろうが、と言いたくなるのをスティレンは堪えるので精一杯だった。
だが変に出てしまっては余計話がおかしくなってしまう。
司聖の名前を騙る偽物が目の前に居るものの、今の所何の動きもしていない上に自分だけではどうする事も出来ないのだ。
ここでヴェスカを呼べばいいのだろうか…と思っていると、アーヴィーという謎の男が再び声を上げる。彼の声は非常に聞きやすいタイプの低音だが、言葉の端々に刺々しい印象を与えてきた。
まるで人を引き寄せる気が無いというような雰囲気だ。
「こちらの素性を明かしたとして、お前の仲間達が蘇る訳でもあるまい。こうして集団監視の中で喚き立てるだけ立てておいて、こちらに対して非常に迷惑を掛けているというのは自覚しているのか?…まるで自分だけが被害者だと言わんばかりに」
「実際被害を被っているのはこっちだろうが!こんなもの買わなきゃ良かった!ふざけるのも大概にしろ!!」
旅人はそう言うと、手の平に入る位のサイズの石を男目掛けて投げつけた。
それをすかさず従者の一人が前に出てキャッチする。
「…ふん」
アーヴィーは怒りで身を震わせている旅人を一瞥しながら、懐から財布を取り出した。
「下賤なお前如きに銀貨一枚も出したく無いがな。ま、この位でいいだろう。和解金だと思って受け取るがいい」
そう言い、彼は紙幣数枚を相手に向けて放つ。
現状をただ見守っていたスティレンは思わず顔を顰めた。
あまりにも下劣な対応だと反吐が出そうになるのを堪える。だが、それを有り難がる者も一定数居る事は確かだ。面倒を嫌う貴族ならではの強引かつ下品な解決法の一つである。これを平気でやるあたり、このアーヴィーという人間の程度が何となく理解出来た。
ヒラヒラと空を舞う金を呆然と眺めた後、旅人は「…馬鹿にしやがって!!」とそれを受け取る事無くその場から去ろうと踵を返す。
「ひぇえっ」
…今度は別の方向から違う声が聞こえてきた。どうやら別の者が旅人の進路を邪魔してしまったらしく、すみません!と続けて謝罪する声が響く。
「…ちっ。どこ見てんだ、気をつけろ!!」
「は、はい…申し訳ありませんでした…」
…あれ?とスティレンは思わず聞き耳を立て、そして声の方向へ近付いてみた。白っぽい外套を頭から被った長身の男は旅人にしきりに頭を下げ、遠慮がちに旅人から避けていた。
怒りの矛先がこちらに向かって来ない事に安心したのか、そのままやり過ごした後に一息吐いた相手の顔をようやく確認すると、スティレンは「あうっ…!?」と言葉を詰まらせてしまう。
なるべく自らの顔を出さぬようにフードで隠しているものの、隙間から垣間見えるバランスの良い顔立ちは一瞬だけでも印象に残ってしまう。
しかも何度も見ている人物ならば尚更だ。
「(何でこんな場所にこの人が…!?)」
流石にこれはまずい。
旅人から身を引っ込め、恐縮している彼の近くへスティレンは飛び出していく。あの偽物一行と、気分の悪い貴族風の男に目を付けられでもしたら余計面倒な騒ぎになってしまう。
彼らの一人が仮にロシュの名前を呼んだりしたら…。
幸い、偽物一行は店の中に戻ろうと話をしている最中だ。出来る事なら問題を起こす前にさっさと退散して貰いたい。
店外でも食事が出来るように作られたウッドデッキの小さな階段を足早に進み、なるべく無関係を装いながら本人の前へと飛び込むと、フードの中を確認するべく顔を上げる。
「…失礼!」
スティレンはそう言い、自分より少しばかり背のある相手の顔を覗き込んだ。
「あ…!?」
相手もスティレンの顔を確認した後、「あぁ!」とぱあっと表情を明るくしながら声を上げようとした。
「スティ…」
「しっ…!どうかお声を落として下さい!」
「???」
どうにか内密に事をやり過ごしたいと願うスティレンの思惑が分からないロシュは、きょとんとした顔を見せる。スティレンは偽物一行が店に消えていくのを用心深く横目で見届けた後、ようやくロシュに向き直った。
偽物一行の内の一人が彼の名前を使って不穏な行動をすれば、当然本人も反応してしまうだろう。慎重に様子を見るかもしれないが、自分の名を騙る者が目の前に居れば気分も悪くなるに違いない。
仮に他の知らぬ誰かが自分の名を名乗って悪事をするとなれば、非常に不愉快だと感じるだろう。
例の一行が酒場の奥へと姿を消すのを見届けた後、スティレンは声を潜めるようにしてロシュに「どうしてここに?」と問う。どう考えても、彼のような最高位に値する人物が退屈がてらに寄るような場所ではない。
気分転換にしても環境が悪いこの地域に足を踏み入れるなどとはあまりにも危険過ぎる。
ロシュは「あはは…」と軽く笑った後、バツが悪そうな表情でスティレンの問いに答えた。
「あなた方を探しに来たのですよ、スティレン」
その答えを耳にすると、スティレンは一瞬動きが停止してしまう。
…今何と言ったのか。
探しに来た、と言っていたような気がしたが。
自分らを探しにロシュ自らこんな環境の悪い場所へ?という意味不明な発言に、脳内の処理が追いついていかなかった。
それなら自分の護衛であるリシェに任せればいいだけの話ではないだろうか。彼が自らここに来る必要は無いはず。
「いや…あの…意味が分からないんですが…」
アストレーゼン司聖の発言を受け、一般の宮廷剣士であるスティレンは困惑するように答えていた。
『まだ起きているのか、オーギュ』
それまで共同のベッドで寝入っていたファブロスは、隣に居るはずの主人の姿が見えない事に気が付くと、おもむろに上体を起こし彼の姿を探していた。
オーギュは愛用の書斎机に張り付くようにして作業を続けている。帰ってからもまだ仕事をする気か…と呆れるものの、彼らしいといえば彼らしいのでもう何も言う気が無かった。
ずっと肩位までの長い髪がすっきり切られた事で相当身軽になったのか、鬱陶しそうに前髪を寄せる仕草も無く仕事や研究に没頭出来るようだった。特有の動きが見れなくなったので寂しい気持ちにもなったが、髪が短くなった事で実年齢よりも若く見える。
神経質そうな印象だったのが、切った事によって逆にとっつきやすいイメージに変化したのはプラスになったのではないかとファブロスは思うのだった。
「明かりが目に障りましたか?…すみません」
『いや…こっちは別に構わないが、お前が疲れるといけない。いい加減仕事をするのを止めろ』
「分かってますよ。気掛かりだった事があったので調査書を確認していただけです」
『?』
真新しい眼鏡で書類を見ながらオーギュは言う。
以前大聖堂での騒ぎで愛用していた眼鏡が割れてしまったので新調したのだが、視力が落ちていたせいもあってか調整に時間を要していた。ようやく落ち着いて見れるレンズが適合したので慣らしている最中だ。
「偽者の司聖を名乗る者達が城下街を横行している件の調査書です」
『…それは今ここでやる事か?お前が隣に居ないからベッドが冷たいではないか』
ファブロスは意味不明な事を言い、オーギュを困らせる。
「普通に寝てたら暖まるでしょうに…」
『部屋に戻ったら自分の時間を大事にしろと言っているのだ。お前は切り替えがまるでなっていない』
自分ではそう思っていないのだが、第三者から突っ込まれる位なのだろうか。程々にしているつもりだが、気が付いたら集中してしまうようだ。
ふと時計を確認すると、結構な深夜帯になっている模様。
オーギュは「…あぁ」と呟く。
「こんな時間だったんだ…すっかり夢中になってしまった」
今更気付いてしまう。深夜の二時を少し超えた位だが、流石に遅過ぎる。
いい加減休まなければ大変な事になってしまう。
『だろう』
ファブロスは呆れつつ、ベッドから立ち上がった。
『仕方無い奴だ。すぐに眠れるように温かいミルクでも作ってやろう』
「あ…大丈夫ですよ、自分でやれますから」
睡眠を邪魔してしまった上に就寝までの世話を焼かせる訳にはいかないと、オーギュは椅子から立ち上がろうとする。だがファブロスは『いいから』と制止した。
『私が作っている間、キリの良い所で終わらせろ』
「………」
止めておけと言いながらも、こちらの気が済む程度まで待ってくれるようだ。生活習慣に慣れ切っているのか、それとも自分の事を尊重してくれているのか。
この召喚獣は変に自分の行動を上手く理解してくれていた。
「…怒っているのですか?」
『…いや。お前が作業し始めたら止まらないのは良く知っているからな。私が止めろと強引に怒った所で、お前は絶対言う事を聞きやしないだろう?』
「………」
カップに適量のミルクを入れた後、小振りの鍋に流し込んだ後で炊事用の焜炉に火を付ける。アストレーゼン内の焜炉は木炭や練炭が主流だが、特有の魔石を使って火を起こす事も出来た。
発火用の魔石は木炭や練炭よりもかなり長持ちするものの、あまり一般的に流通しておらず、現状ではコストが高く主に貴族階級が好んで利用している。
長い目で見れば魔石を用いての発火の方が消耗しにくい分コストパフォーマンスが良いのだが、一般民が手軽に買える金額では無かった。
『お前に無理をして欲しくないから注意はする』
「まるで保護者のような発言ですね」
『……いけないか?』
鍋の中のミルクが温まるにつれ、甘い香りが室内を占めていく。その香りは妙な懐かしさを覚えた。
…別に昔の思い出は無いのに。
オーギュはふふっと表情を緩ませると、いいえと返す。
「あなたは元々世話焼きな性質なのでしょう」
彼の達観したような言い方に、ファブロスはふんと軽く鼻を鳴らした。
『お前だからつい言いたくなるのだ。これでも心配しているというのに、何だその他人事のような言い草は』
「気持ちは十分に伝わっていますよ…もう仕事は止めにしますから」
『全く…ロシュの偽者が城下にどれだけ存在するのか知らんが、お前がそこまでして必死になる程の事なのか?』
存分に温まってきたミルクの状態を見て、マグカップにゆっくりと注ぎ込む。注がれたカップは徐々に温まり、湯気と共に熱気を放ち始めた。
ほら、とファブロスは手慣れたように書斎机のオーギュの目の前にミルクを置く。
「ありがとうございます」
無作法だった召喚獣のファブロスに対し、少しずつ人間としての生活に順応させていた成果が出ているのを、オーギュは内心嬉しく思いながらカップに手を掛ける。
彼は自分が居なくなった後もこの世界で生きていく。召喚獣としてただ生きていくよりも、人化出来るのならば人間としての立ち振る舞いも覚えていった方がいい。
熱いミルクは喉元を通して、全身を温めていく。
「ああ、美味しいです」
『そうか。良かった。ゆっくり休めるといいのだが』
「作業もそこそこにして終わらせますよ」
『ああ、それがいい。…それにしても、ロシュの偽者がそんなにアストレーゼンに居るものなのか?』
ファブロスの単純な疑問に、オーギュは「そこそこにね」と表情を若干曇らせた。
大聖堂に居る人間ならば偽者だと見破れるだろうが、彼の姿を見た事のない者は城下に大勢居るだろう。住民ならばなんとなく姿を見れる機会もあるだろうが、外部からやってきた人間はまず実物を見る機会が無いだろう。
要はその人間を相手に、偽者として振る舞っている輩が存在するのだ。ただ成りすますだけならば何も害は無く、特別問題視する必要も無い。
「何も無いならこれだけ悩む必要は無いんですよ。問題なのはその偽者が司聖の恩恵に与れると偽って、胡散臭い物品で金銭を巻き上げている輩が居るっていう話です」
『ほう』
「適当な観光客向けの品物で釣るなら安全かもしれないですが、彼らが交換に使っているのは魔導具の一種のようです。ハッタリを効かせるには十分でしょうが、扱いを間違えれば大変な事になってしまいます」
溜息混じりにそう言い、書類を纏めて机の角に置く。
夜が明けたらその件についてロシュと話もしなければならない。そう思っていると、体が暖まってきたのか眠気が湧いてきた。
『そこまで見栄を張って何かいい事があるのか?他人に成りすますとは恥ずかしいと思わんのか』
「知りませんよ。それは本人に聞いてみないと…ここの司聖というだけでアストレーゼン内では皆尊敬の眼差しを向けますし。偽者になりきって満たされてみたいっていうのもあるのかもしれません。問題が起きても逃げ切ればいいだけですから」
顔が割れやすい住民には出来ない芸当だ。むしろ、根無し草の旅人だからこそ出来るのだろう。
「そろそろ休みますかね…温かいミルクのお陰で良く眠れそうですよ」
『そうか。それは良かった。眠る準備をして休め』
ベッドで待っているからとファブロスは告げると、空っぽになったカップをオーギュから受け取る。
夜が明けたらまた同じ事で頭を悩ませなければならない。
…その他にもやる事は山積みなのだ。
外出していたスティレンが、姿を隠し旅人に扮したようなアストレーゼン司聖ロシュを連れて戻ると、ルイユは勿論だがヴェスカは飲んでいたアルコールを吹きそうになっていた。
「こんばんは、ヴェスカ。良かったぁ、ルイユも保護してくれていたのですね」
まさかここでロシュと再会するとは思わなかった。
ヴェスカは当然の如く慌て、狭い席の中で身を正そうとするが立ち上がるにも一苦労だった。席と席の間が非常に距離が小さいので背後に居る他の客にも遠慮しなければならないのだ。
薄暗い中でもそれが分かるので、ロシュは「そんなに改まらなくてもいいですよ…」と苦笑いする。
外套のフードで頭をすっぽり覆っていても、その隙間から垣間見える整った顔立ちは他者の目線を惹きつけそうだ。
「な、何でこちらに…」
むしろこのような環境の良くない場所に足を踏み入れてはいけない人間なのに、自ら訪ねてくるとは。困惑したままのヴェスカに、スティレンはロシュの代わりに説明する。
「俺らを探しに来たって言ってます」
「ええ、ええ。ルイユの事でご実家側から連絡が来ていたのに、私がそれを失念してしまって…」
空いている椅子に腰を掛けながら、ロシュは言った。
「それならリシェを使いに寄越せば良かったのに」
何してるんだよあいつ、とスティレンは呆れた。彼が動けばわざわざロシュ自らこのような場所に来なくても良かったはず。
酒場となれば探すのは難しいかもしれないが。
「いやぁ…それが、ちょっと無理をさせてしまったので…なので、私が責任を持ってこちらに来たのですよ。それに、失念していた私のせいですからね」
「?」
意味深な発言を聞き、ルイユはきょとんとしていたがヴェスカは「あぁ」と変に納得した。
「そしてオーギュに知られれば雷を落とされそうですし…」
「あー…なるほど…」
最高位である司聖でも、補佐役が非常に恐ろしいようだ。
毎日顔を合わせていれば慣れてきそうなものだが。
普段冷静な顔をしているリシェを思い出しながら、ヴェスカは大変そうだな…と変に同情してしまった。流石に面子が低年齢層が居るので、あからさまに口にする事は憚られた。
「でもあなたが保護して下さってて良かったですよ。ほら、霧も出てきてましたからね…探知しようとしても、探す相手の気配が掴みにくかったので」
そう言い、ロシュはフードの下で安堵の笑みを浮かべる。
「城下まで来て下さったんだから、何か食べて行くといいですよ。ほら、滅多にこっちに来られないんでしょ?」
アルコール以外の物ならば大丈夫なはず…とヴェスカはロシュに卓上のメニュー表を手渡した。人数が増えてやや手狭くなったものの、使い終わった食器類を下げればどうにかいけるだろう。
何しろ卓上の食事のほとんどはヴェスカが注文したもので、スティレンとルイユはそれを軽く摘む程度にしか口にしていなかった。
「俺らと同じようにヴェスカが頼んだもん食えばいいんじゃん。大抵は食えるだろ、ロシュ様は」
特殊職に値する司祭の食事は何らかの制限があるらしいとは人伝で耳にしているが、上位に君臨するロシュはどうなのだろう。
「ええ、特に好き嫌いは無いので…」
「逆に食べてはいけないって物は…?」
制限があれば相当体に良い食事をしているのかも、とスティレンは思う。そうなれば、美容の面でもアドバイスを乞えるかもしれない…などと頭の中で考えが過ぎった。
年齢の割に彼の肌は陶器のようで、どうやってその美貌を保てるのだろうかと羨ましかったのだ。
ロシュはふんわりと微笑むと、食事に関しては普通でしょうかね、と前置きする。
「まぁ…大量に動物の肉を摂取するのは控えて欲しいって位でしょうか。そこまで欲は無いので大丈夫ですよ。結局、殺生の類になってしまいますからね」
与えられたものに感謝しながら残さず食事をするように、という位だろうか。
「へぇ…ロシュ様があまり食わない分ヴェスカが食ってるようなもんじゃん」
延々と口を動かし続けるヴェスカをチラ見した後、ルイユは変に納得する。
「勝手に共同の胃袋みたいにするなよ…」
おかしげな言い方をするルイユに呆れながらも、ヴェスカは店員に向けてこちらに来て貰うように手を振るう。
「じゃあ食うには問題無いって事だよな!折角だから食っていけばいいよ!飲み物は何にするんだ?酒か?」
揚々と別冊の飲み物表を手に、ルイユはロシュに話し掛けた。ちょうど自分の分のジュースも空けた様子だ。
「あぁ…っ、私はお酒類はあまり」
「え、そうなの?」
「はい。明日というか、仕事にも影響が出ますからね」
「そっかぁ。あまり無理はしちゃいけないもんな」
そこまでアルコールには強く無さそうだもんな…と思いながら無理強いをするものではないと判断しながらルイユは軽く頷くと、ロシュに飲み物のカタログを手渡した。
アストレーゼンだけでは無く、国外の酒類が記載されている冊子を手にしながら、ロシュは少し残念そうに苦笑いを交えつつ「勿体無いんですけどねぇ」と言った。
全く飲めなくはないんですよ、と言いながらソフトドリンクの欄を眺める。
「………?」
やはりこのように刺激的な環境に居るからなのだろうか。妙にもどかしい雰囲気を抱いているかのようなロシュの様子を見て、スティレンはヴェスカに小さな声で問い掛ける。
「…副士長」
「…んあ?」
出来る限り声を顰めながら、スティレンは続けた。
「ロシュ様はあまりお酒は嗜まないんですか?何だか随分物欲しそうな感じがしますけど」
「あー」
ヴェスカはその問い掛けに、理解を示すように頷いた。
「飲めるっちゃ飲めるんだけどな…」
僅かでも口にすると違う性格が出やすいのを知っていたヴェスカは、参ったなと言わんばかりに赤い髪を少し掻きむしった。
当の本人を目の前にしながら、一滴でも口にすると豹変する可能性があるとは言い難い。どう説明したらいいのか分からず、やっぱり仕事に差し障りがあるからさ…と言い淀む。
折角酒場に居るからには、美味しい酒にありつきたいと思うのは当然の気持ちだろう。
多少飲んでも影響が無いのなら一向に構わないが、彼は一口でも口にすれば、普段のロシュではない変化をもたらすかもしれないのだ。
リドランの件やリンデルロームの件があるので自分からはどうぞ飲んで下さいとは言えなかった。それにここは顔が割れているアストレーゼンの街中で、正体がバレた時が一番困る。
街の酒場で司聖が飲んだくれて暴れているなどという話が出回ってしまったら…と思うと、噂はすぐに街中に駆け巡るだろう。そして補佐役であるオーギュも黙ってはいないはず。
偶然とはいえ帯同していた自分にも怒りの矛先が巡ってくるに違いない。
そんな事になってしまえば、魔力の耐性がほとんど無い自分は即死してしまうだろう。
残念そうなロシュを前に、ヴェスカは内心ハラハラしつつジョッキに注がれた麦酒を飲み干していた。
…流石にそろそろ浄化が必要だろうか、と暗く見える魔石をテーブル上で転がす。
先程苦情と共に返却されたその丸い石は、初期に購入した時よりも遥かに陰鬱な淀みを受け、輝きも鈍みを増していた。
各地で様々な詐欺紛いの事をして生計を立てている彼らは、その地方に赴く前に念入りに下調べを行う。
例えば行き先が魔法に特化し、魔術を心酔する都市ならばそれ相応の支度をして旅の高位魔術師を名乗り、またある地域が商人で栄えた場所だとすれば交易商人で各地を巡っていると言って別で購入した無価値の物を上手い事を言い高額取引して回る。
その取引した品物が価値の無い物だと判明し、相手が血眼になって探し回る前に自分達は街から姿を消す…というやり方を繰り返し行っていた。
そして辿り着いたアストレーゼンでは、司祭の力が強い事を知り、自分達の顔を隠しながら同じような旅人相手に恩恵のあるものだと称して魔導具の類を売りつけていた。
各地を同じように転々とする旅人相手ならば、司聖の恩恵があるものだと言えば少なからず興味を向ける者が居る。彼らは基本的に世間知らずな面もあり、地に足を付けて生活している人間よりも警戒心が無い。
これはこういうものだと真剣に説明すれば、そのような有難い物を自分に見せてくれるのかと純粋に鵜呑みする。その上で仲間の誰かが実は自分が司聖で、気分転換に街に出ているのだと言えば酒の勢いもありころりと信じてくれるのである。
旅行者を相手に荒稼ぎしていた時に出会ったのが、今この目の前でつまらなそうにワインを口にしている貴族階級の謎の青年…アーヴィーという男。
深い素性は良く知らない。彼はあまり自分の事を話そうとはしなかった。
お互いに顔を合わせたのもごく最近の事だ。
アストレーゼンの司聖とその連れという体で周辺に言い回っていた矢先に出会った。
素性を知らずに振る舞うものの、貴族階級の人間が相手では流石にバレると危惧していた。その場を適当に誤魔化して離れようと思っていたが、彼は何かを察したのか特別何も言う事もなく、こちらが司聖を騙っているをいう事は把握していて「面白い事をしている」と他人事のように述べただけ。
アーヴィーが正義感に満ち溢れた性格ならば、偽物を騙る不届き者だとしてすぐさま大聖堂へ報告するだろう。だが彼は幸いにもそのような面倒なタイプでは無いらしく、密告する動きも無いまま現在に至る。
彼は司聖の偽者が何しようが構わないらしい。
この貴族の青年の立場がどういったものなのかは把握していないが、会話から読み取る限りだと司聖の側近の身内なだけで特に近い関係ではないようだ。
「アーヴィー様」
三人のうちの一人が例の貴族の青年に話し掛けた。
「大聖堂で魔導具の浄化が出来るんでしたっけ?」
気怠げにカウンター席でワイングラスを傾ける男は、その言葉に反応するかのように別席に居る旅人三人の方へ目線を向ける。
「そろそろこの魔石の色合いもヤバい。持ち出した奴らの色んな念が良く入り込んで来たんじゃないかと思ってね」
扱っている物が魔導具というある意味厄介な物には、人の念が入り込み易い。
それも、途中で命を落とした後に回収したものならば尚更。先程苦情を言っていた旅人から返却されたこの魔石は、彼が失った仲間の念も入り込んでいるに違いない。
魔石を持っている事で魔物が寄り付いて来た、と明言していたのだから。魔物を惹きつける位にまで悪化しているなら、早々に浄化しないと後々面倒な事になるかもしれない。
そのまま放置して捨てても構わないが、この石はアーヴィーが「旅の資金の役に立てるといい」と言って購入したもので、こちらが無碍にする訳にもいかないのだ。
これで一体何の役に立つのか…と悩んだ末、この与えられた魔石使えば金銭の足しになるかもしれないと思い付いた方法が、『自らがお忍びで大聖堂から街に遊びに来た司聖御一行が、この国にやって来た旅人を相手にお守りを与える』商売。自分達のように根無し草の立場には、同じ立場の人間を相手にするのが一番安全だろう。
不審がられたとしても、全員の顔を包み隠してお忍びだと言えば納得してくれる者も居る。仮に、疑われればそのまま立ち去ればいいだけの話だ。
一見立派に見える魔導具を司聖の加護がある物だと他の旅人に購入させ、何らかの形で返品させるように仕向ける…というシンプルなやり口。
ただ、多少曰く付きでなければ返品として戻ってこないので多少の邪気を含ませたまま魔導具を利用している。持っている者にある程度災いが起こらなければ利用価値が無いのだ。
この魔石を利用していくうちに、持ち前の澄み切った輝きは失せ、その代わりのように暗く澱んだ妖しい輝きに変色していった。それは多少魔法を齧った者でも十分に目視出来るレベルにまで達していた。
ここまで変色したからには、一度それなりの場所で浄化しなければならない。様々な人間の手に渡ってきた代物なので、それぞれの念が入り込んだり魔力の干渉を受け続けてきたので完全とまではいかずとも軽減する必要があった。
幸い、ここは司祭の国であり物品の浄化には最適な環境下にある。アストレーゼンの貴族という立場のアーヴィーならば、何処の馬の骨とも知らない自分達よりは存分な信頼度があるだろう。
彼が向こうに口聞きしてくれれば、安値で魔導具の浄化も出来るはず。
不穏の澱んだ魔石の輝きをアーヴィーに向けながら、更に顔を隠したままの一人が続けた。
「あんたなら大聖堂に悠々と入れるんだろ?何しろここまで色が劣化してきたんだ。このまま放置するのも厄介だ。向こうでどれ位の金額で浄化してくれるのかは知らないが、金額は支払うから浄化して貰いたい」
「………」
アーヴィーはこちらから話しかけても、無反応を決め込む事が多い。今回もそれか…と呆れながらも、彼らは更に続けた。
上流階級の自分に対し声を掛けるなどとは笑止千万だと何処かで思っているのだろうか。ならば最初からこちらに声を掛けなければいいだけの話だ。
こちらにも意地というものがある。
初顔合わせから何処となく見下す姿勢が垣間見えたが、彼は元々そういう性格なのだろう。
そう思っていれば、いちいち腹を立てずに済む。
大体、この魔石を持ち出したのは彼自身だ。このままいけば自分達にも少なからず悪影響を及ぼすのは理解しているはず。このまま放置して、次の譲渡先に手渡すのも良くないだろう。
むしろ淀み過ぎて受け入れてくれない恐れもある。
魔法を多少齧った者ならば目視ですぐに分かるだろう。
それも司聖を名乗っている者から与えられる物にしては、危険極まりない代物だ。この妖しく澱んだ輝きは、この魔石を手にした事で災いを受けた者達の念が強く込められていた。
禍々しい光を放つ魔導具をしばらく無言で見つめていたアーヴィーだったが、やがてふっと目線を離すと抑揚の無い声で答える。
「悪いがその頼みは受け入れられない」
「………は?」
「明け方に用事がある。俺はここから離れなければならないんでね。そもそも、大聖堂の浄化に関しては一定の制限がある。お前達のような出身が不明瞭な旅人だと、大聖堂の司祭クラスとのお目どおりは難しいだろう」
無責任な発言に、三人は耳を疑った。
「あんたはこの国の貴族なんだろ。大聖堂に普通に出入り出来るんだろうよ。少しくらい時間を割いてくれても」
思いがけない拒否の言葉に、一同は愕然としつつもアーヴィーに嘆願するような口調で続けた。だが、彼は冷たく同じ言葉を返す。
「それが出来ないから言っているんだ。言っている意味が分かるか?それまで散々道具を使って金を稼いできたんだ。これからは自分の食い扶持位自分でどうにかするんだな。無理だと思うが、大聖堂に掛け合ってみるのもいい。約束無しなら門前払いかもしれないが」
一方的に突き放す態度を崩さない相手に、内心毒付いた。だがここでお互いに押し問答をするのも無意味だ。
多少下手に出て頼むやり口で話を進めていく。
「…俺らには伝手が無いのを知っていてそんな事を言い出してるのか?これはあんたにしか頼めないから頼んでる。仮にここから出たとしても、そのうち戻って来るんだろ?」
それでもアーヴィーはワイングラスの残りの液体を軽く揺らしながら「さぁ…」と呟いた。
「俺は向こうに行く用事は無いんでね。試しに行ってみたらどうだ?話が分かる奴に会えたら浄化も簡単だろうが、それでも予約が必要になるかもしれない」
「あんたの立場ならその段取りなんてパスしていけるだろ…いい所出の貴族様なら」
若干嫌味を込めた言い方が気に障ったのか、彼は眉間に皺を寄せて三人を見た。切れ長の目元は僅かに細くなると、非常に冷たい印象を与えてくる。
お互い立ち位置が違うのは理解しているが、彼らの前には分厚い壁が立ち塞がっているようだった。
「…ふん。こういう時にこちらの立場を利用するのはどうかと思うがな。こっちはあくまで資金繰りに困っているお前達に僅かな救済を与えただけに過ぎないんだぞ?その魔石をどう扱おうと、お前達の自由だと最初に言っただろう。まぁ、多少は悪意の循環の手伝いをしたかもしれないが」
そう断言されれば返す言葉を失ってしまう。
彼の言う通り、アストレーゼンに訪れた際は資金繰りをどうするか悩んでいた。司聖の名を借りて行動をする事は決まってはいたものの、それでは何かしらの恩恵を受ける事は出来ない。証拠は?と言われても、それに値する何かが無ければ話が進まないのだ。
行き詰まりかけたその際にアーヴィーが出現し、今に至っている。こちらの資金稼ぎに少しばかり協力してくれた事は大変有り難いが、ある意味詐欺の手助けをしているのはどう思っているのか。
時間をやや置いて、一人が口を開いた。
「あんたも俺らに協力したんだ。当然何かあればバレる可能性だって無い訳じゃない。もし俺らが捕まったとして、尋問されたらあんたの事も話すかもしれない。その時はどうするんだ?」
脅迫とも捉えられかねない発言に、アーヴィーはフッと口元を緩めた。こういう状況は慣れ切っていると言わんばかりの様子が垣間見える。
「仮にお前達が捕まったとして」
「………」
「アーヴィーというアストレーゼンの貴族は一体誰だ?という話になるだろう。こちらも素性の知らない人間に対して馬鹿正直に自分の正体を明確にする程愚かじゃない。この薄汚い酒場で安い酒を飲んでいるのも単に気紛れでしかないさ。何処ぞの馬の骨とも知らない困っている相手に救いの手を差し伸べるのも単なる気紛れだ」
明らかに馬鹿にする言い方に、一向はぐっと言葉を詰まらせた。
「…この魔石が浄化されないまま放置されれば、また何が起きるか分からないんだぞ。大体、あんたのアドバイス通りにした結果だ。実際死んだ奴も居る。その分余計な邪念も吸い込んでいるはずだ。それでもあんたは知らないふりをするのか?」
あくまで同じ立場だと強調して訴える。
話を持ち出したアーヴィーにも責任の一端があると振るが、彼はあくまでこちらは他人の様相のままそれを崩さない様子だ。
しかも、何か言う度に小馬鹿にしたように返事をしてくる。
「こっちは話を持ちかけただけだ。利用したのはそっちじゃないのか?それなら自分達で最後まで責任を持つ事だな」
元々、この謎の貴族の発言を最初から鵜呑みにしていた訳では無い。彼は心の奥底で完全にこちらを馬鹿にしているのを知り、沸々と怒りが湧いてくるのを感じずにはいられなかった。同時にこのような無責任な人間と会ってしまった自分達の愚かさに落胆してしまう。
司聖を名乗っていた白い外套を纏う旅人は、小さく舌打ちする。
こいつに会うんじゃなかったと心底思った。
最初から何も考えずに、軽い気持ちで施しを与えて来ただけの話だったのかと。
「…馬鹿馬鹿しい。それならこの禍々しい魔石をそのまま廃棄すればいいだけだ。残念だよ、あんたみたいな人間に会って」
このままでは魔石の中の邪気が膨れ上がるだけだ。
浄化も出来ないのであれば、こちらで処分するしかない。
「貸せ」
「ちょ…何処へ持って行くんだ!?」
仲間が持っていた魔導具をひったくると、彼はその足で酒場の外へと向かっていった。
カウンターの奥に掛けられている薄汚れた壁掛けの時計をちらりと目にしながら、ヴェスカは「そろそろ出るかぁ」とぼやく。
流石に子供連れでいつまでも滞在する訳にはいかない。良い具合に飲み食いもしたので、胃も満足しているはずだ。
「戻る前に何か食い足りない物は?」
テーブルに上がっている食器類は既に空に近い。ほとんどヴェスカが頼み、ルイユ達は軽くそれを摘む程度だった。
彼の特有の食べっぷりは見ていて気持ちが良いが、あまりにも吸収するので見るだけで満腹感を得られる。
「お前の食いっぷりを見た後でそう言うのかよ」
ルイユは呆れ、スティレンとロシュに目を向ける。全員同じ気持ちらしく、苦笑を交えつつもう大丈夫だと告げた。
「普段口にしないご馳走も頂きましたから満足ですよ」
大聖堂からほとんど出ないロシュにはとても新鮮だったらしく、地元の農園から直接取り寄せた野菜系のメニュー中心に頼んでいた。
流石にここまで足を踏み入れてくるとは思ってもいなかったが、いい気分転換になったようだ。
「ロシュ様がそう言ってくれると有難いですよ。んじゃ、会計して外に出ますか。先に外に出ていて下さい、俺払って来るんで」
大半が自分が飲み食いした自覚があるので、諸々の支払いは自分がやると決めていた。しかしロシュは「待って下さい」と彼を止める。
「私もお支払いしますよ」
「いや、俺がほとんど食ってたんで…みんなそこまで食ってないだろうし」
「私も結構頂きましたよ。ほら、ここは大人としてお互い折半しましょう」
フードの隙間から優しい笑みが見えた。
司聖のロシュから払わせるのは非常に心苦しいが、彼の申し出を無碍にする訳にもいかない。ヴェスカは「分かりました」と笑い、ロシュから渡された金銭を受け取るとカウンターへ向かう。
「あんまり周りなんて見なかったけど意外に狭いんだなぁ」
混み合う店内をどうにかすり抜ける形で入口付近まで足を運び、ルイユは呟いた。
客が出入りするのを見ながら、出来るだけ邪魔にならないようにしていた矢先にスティレンがちょっと!!と声を上げる。
「おお、悪い悪い」
「手癖悪過ぎるでしょ!!何なの!?」
「可愛い顔してっから女かと思ってよ…」
「女だと思ったからってやっていいと思ってる訳!?残念だね、俺は男だよ!!てか、どさくさに紛れて人様の尻触ってんじゃないよ気持ち悪い!問題を起こされたくないならさっさと行きな!!」
スティレンの怒鳴り声に、酔っ払った毛むくじゃらの男はニヤニヤしながら店内へと姿を消していく。
治安の悪い場所なのでこういう事は大して珍しくない。しかも酒が入って善悪が麻痺している人間が増える環境下にある。理不尽なハラスメントが嫌な人間は足を踏み入れてはならないのだ。
スティレンはその見た目から害を受ける事も多かったせいか、強気な性格も相まってきつく突っぱねる事が出来た。
その様子を見ていたルイユはほえー、と呆気に取られていた。
「随分慣れたあしらい方してんなぁ」
「ふん、別に慣れたくて慣れた訳じゃないさ。俺は美しいから変なのに狙われても仕方無いんだよ。だから舐められないようにしとかないと」
恐らく顔を隠していなければロシュも変な輩に遭遇してしまうに違いない。背丈はあるものの、その中性的で優しい顔立ちは見る者に誤解を与えかねないものだ。
今は出来るだけ顔を覆い隠しているので、見る限りでは怪しまれる事は無い。
「はぁ、鬱陶しいったらありゃしない。どんだけ飲みたいんだか…」
スティレンが愚痴を吐くように、絶えず店内には客が出入りし続けている。
恐らくこの時間が一番のピークなのだろう。各地から途切れる事無く旅人達が訪れるアストレーゼン内は、常に宿街の客入りは激しくなる。
天候によって変動はあるものの、中継地点となる為にか夜間は旅の疲れを癒す者達で非常に賑わい続けている。この周辺で店を構えたがる者も決して少なくは無かった。一度ここに店を構えれば、ヘマをしない限りは食いっぱぐれが無いのだ。
様々な食事やサービス旺盛な宿が立ち並び、賑わいを見せるこの地域も、ある意味ではアストレーゼンの観光地となっていた。
「おう、お利口さんで待ってたな」
人の波を縫うようにしてヴェスカがカウンターから戻って来る。
「お利口さんにしてないのはスティレンだけだった」
先程の騒ぎをルイユが軽く茶化すと、スティレンは「…正当防衛でしょ!」と怒った。
「知らない奴にお尻を触られて喜ぶ馬鹿なんて居る訳ないじゃないさ」
薄汚い男のいやらしい笑みを思い浮かべ、吐き捨てるように言う。
それは災難だったな、とヴェスカは苦笑する。こういう場所では決して珍しい事では無いが、この状況下では厳しく取り締まる事も難しい。
「ま、さっさとここから出よっか…他の人の進路も妨げちゃうからな」
「ええ、ええ。そうしましょう。ルイユ、大丈夫ですか?私の手を掴んで」
ロシュは外套の中から手を伸ばすと、ルイユの手を優しく取る。ここで彼らとはぐれては元も子もない。
「おう、ありがと…」
そう言いながらルイユがロシュの手を取ったその時。
人の騒音に紛れ、ミシ…という軋んだ音が聞こえた。重い何かがのし掛かったような、違和感のある音。
だがこの店内に居る人間はほとんど気付かないレベルの僅かな物音だった。
ヴェスカは眉を寄せ、異音のある天井に目をやる。
「…まず…!!」
古い木造の天井に激しく亀裂が入り込むのを確認した。ここで逃げろと叫べば、この密集されている場所は更に混乱をきたし大事故に繋がる。どちらにしろ、大惨事は免れない。
その間にも天井の亀裂が大きくなり、何かが落ちてきそうな勢いで下へめり込んでくる。
異常に気付いたのはヴェスカだけではなかった。ロシュは手を取っていたルイユに「外へ出なさい!」と促すと即座に頭上目掛けて魔法壁を作り上げた。だが反応が間に合わず、バリバリという激しい破裂音と共に天井が一部剥がれ落ちていった。
それまで娯楽を楽しんでいた人々は、急に押し寄せてきたアクシデントに激しくパニック状態と化してしまう。
平和で安全な街の中で起きた為、尚更混乱した。
「…うわぁあああ!な、何だ!?」
「何か落ちて来た、危ない!」
落下してくる粉塵や割れた木材に紛れ、フロア内の客の悲鳴と叫び声が耳に入ってきた。狭い店の中から脱出しようと、人々は挙って更に狭い出口目掛けて集中する。
「…どけ!!」
「押すな、危ねぇだろ!!」
「何すんのよ、痛いじゃないのっ!!」
誰もが我先にと出口を目指し、混乱しながら押し寄せてくる。アルコール類が入った瓶が割れ、破片を踏み締める音も聞こえてきた。
ヴェスカはロシュの姿を雑踏の中でどうにか確認すると、「こっちへ!!」と彼の腕を掴み強引に引き寄せる。人々が逃げる中、バーカウンターの奥へ引っ張り出来るだけ巻き込まれない場所まで誘導した。
幸い、カウンター周辺はロシュの魔法壁によって天井からの諸々の落下は防がれている。だが臨時で張られた為に、それ以外の部分は落下寸前の部分や崩壊してしまった部分もあった。
外套のフードを捲り、ロシュは崩壊した店の天井を見上げると、複雑な面持ちで困りましたね…と呟く。
正体がバレてしまうのではないかとヴェスカは思ったが、今は彼の姿をゆっくり確認する者は居ないだろうと何も突っ込まなかった。
「…何でしょう、あれは」
「んえ?」
指摘され、ヴェスカも彼と同じ方向に顔を向けた。
恐らく店の屋根にのし掛かっているのだろう。動物の爪のような鋭利な物が見える。
「何あれ…」
こんな場所で魔物が出て来るのか?と疑問を抱いた。アストレーゼンは大聖堂は元より、住民が住む城下街一帯を覆う形で強力な結界が張られていて、邪気の類は一切寄せ付けない仕様となっているのだ。
…それなのに、繁華街に魔物が出現するのはおかしい。
誰かが誘き寄せてしまったのか、それとも能力のある魔物が人の形に擬態して侵入してきたのか…。
だが今はその事について思案している暇は無い。自分らに出来る事をしておかなければ。
「…とりあえず追っ払うのが先っすね」
休みに来たのに、ここでまた労力を使う羽目になってしまうとは。ヴェスカは内心舌打ちしたくなったが、後で緊急時対応として残業申請してやろうと少し浅ましい事も考えていた。
「ロシュ様、頃合いを見てここから逃げた方がいいです。危ないですし、スティレン達と合流して貰えれば」
流石に彼に加勢してくれとは言い難い。
ロシュの能力は自分でも良く理解していたが、流石に危ない目に遭遇させる訳にもいかなかった。
ここは宮廷剣士である自分がガードしなければと思い、彼に先にここから脱出するよう促す。外にはスティレンもルイユを連れて出ているはずだ。合流して貰えれば、同じ剣士である彼も自分に加勢してくれるだろう。
ヴェスカの進言を受けたロシュは、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「いえいえ…流石に立場上、この場を見過ごす訳にもいきませんよ」
そうは言うものの、単独だと何の戦力にもならない。出来る事はサポート中心になるだろう。
自分がオーギュのような魔導師なら、いくらでも加勢が出来るのだが。
上から減り込んでくる大きな爪の先を見上げた後、屋外から脱出しようとする客の流れを確認したロシュは「怪我人が居るでしょうね」と呟いた。連戦をある程度こなしている熟練の旅人ならば多少の怪我は慣れてはいるだろうが、ここに居る客は一般民も多い。怪我慣れしていないその一般民を優先的に治療を施したい所。
…思案するロシュの傍で、ヴェスカは違う目線でこの先の騒動をどう鎮圧していくかを考えていた。
「とりあえずあいつをどうにか追っ払っておかねぇとな…どうすっかなぁ」
仕事終わりにそのまま来たので武器の面では心配無い。
だが何故街中でこんな物がいきなり出現してくるのか、とロシュ同様疑問を感じていた。
アストレーゼン内に於ける邪気払いの類は、その魔力の質や強度から他国からも絶賛される位の強靭さを誇っている。それを無視して魔物が出現するという事は、何者かがわざと放出した、としか思えないレベルなのだ。
ガリ、という異音と同時に屋根から落ちてくる木屑。
カウンター越しに押し合う客達は徐々に店外に脱出していき、次第にスペースが開き始めていた。
「あぁ…お、俺の店が」
ヴェスカは自分の足元から悲痛な声がするのに気付く。
カウンターの下、落下物から身を隠すようにして細身のマスターが縮こまっていた。非常にひょろひょろした体型なので、良い具合にすっぽりとカウンターの下に入り込んでいる。
かくれんぼをすると確実に彼は勝ち組に入るだろう。
「ありゃ…おっさん、大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるか?…何なんだよあれは…」
「さあ…確認しなきゃいけねぇからさ。あんたも人が引けたら外に出た方がいい。後片付けはその後だ」
一国の主が騒動を避けるようにして身を隠している姿に若干呆れる気持ちがあったが、この状況は誰も想定出来ないだろう。
「こんな事になるなんて…」
むしろ突如湧いてきたこの状況の被害者で同情してしまった。
ヴェスカは彼に向けて自力で立てるなら頃合いを見て店から出るように促す。まだ混乱の最中だが、少し待てば出られるはずだ。
「出来るならすぐに動いた方がいいです」
魔法壁で押さえ込んでいたロシュはそう呟いた。
「咄嗟に作った壁なので非常に脆いです。向こうの魔力が変に増幅していて、魔法壁の力が押さえ込まれている。このままでは押し負けてしまいます」
防御力を考え、綿密に準備して作成された壁と違い、即席で作った壁では強度にかなりの差がある。高い魔力を誇るロシュが作った壁だとしても、即座に出現させた壁の強度は保証出来るものではなかった。現に張り巡らされた透明な壁には徐々に亀裂が入り込んでいる。
…割れてしまうのも時間の問題だった。
「…だとよ、おっさん。危ないからとりあえずここから出た方がいい」
「はぁあ…くそっ。大聖堂から保証金が出るといいんだがな…あんたらもさっさと出た方がいいぞ、押し潰されたくなけりゃな…」
流石にこのまま半壊した店で商売を続ける訳にもいかないだろう。マスターは己に降り掛かった不幸な境遇を嘆きながら、弱々しくその場を立ち去っていった。
天井の爪は更に建物を押し潰し、その超過に耐え切れなくなった天井が激しく落下した。ガラスや木材の割れる音がけたたましく鳴り響くと、避難の為に動いていた客達の怒声と悲鳴がより一層激しくなっていく。
「…何やってるんだ、さっさと動け!!」
「進め進め!!このままじゃ皆死ぬぞ、止まるな!!」
異様に進行が遅くなる。脱出出来た事で安心した一部の客達が足を止め、そのまま店の様子を眺めているらしい。
止まるな、と罵声があちこちで飛び交っていた。
何やってるんだ…とヴェスカが忌々しく出入口に目を向けていると、別の場所から破裂音が聞こえてきた。
「…死にたくなかったら頭を伏せな!!」
あどけない少年の声が外側から飛び込んでくる。同時に壁に少しずつ穴が空き、物騒な刃物の輝きがチラついた。
バリバリと壁の剥がれる音。
ちょうど人が通り抜ける位の穴が開かれ、外からドヤるスティレンの怒鳴り声が響く。
「ほら、お前らがモタモタしてるから別の逃げ道を作ってやったよ、精々この俺に感謝する事だね!!さっさと抜けな!」
こんな状況でも自分への敬意を要求する図太さを発揮させ、彼はまだ店内に残された人々に向けてそう言い放った。
ロシュは別の新しい逃げ道を作ったスティレンに感謝しながらも、苦笑いを交え「どちらかといえば謙虚な性格のリシェと従兄弟だとは思えない性格ですね…」と思わず呟く。
スティレンが開けた穴を利用し、それまで膠着状態だった人々の動きが少しずつ変化し崩壊寸前の建物から人の姿が抜けていくと、それを待っていたかのように負荷が掛かっていた天井はけたたましい音を上げながら落下した。
外部からの冷たい風と落下した事によって吹き上がる粉塵が入り混じり、不快な空気が鼻腔を責め立てる。ロシュとヴェスカは顔を腕で包み隠すようにしながら、狭いカウンターの下へ潜り込んでいた。
幸いこの周辺は侵入者の目線が入らない場所だ。
「大丈夫ですか、ロシュ様?」
アストレーゼンの司聖の身に何かが起きては後々面倒な事になってしまう。ヴェスカは目の前のロシュに問い掛けた。
「ええ、どうにか…とりあえず大体のお客さんは抜けたみたいですね」
ひょこ、と顔を出して周辺を確認する。すると、真上に大きな影が過ぎった。
「………っわ!!」
黒い柱のような物が眼前に出現し、反射的にロシュは再びカウンターの下へ身を潜らせる。ドン、と地を踏み締める音と共に、全身がビリビリと痺れる感覚に陥る。
風圧の他に、魔力に近い何かを感じた。
「うっわ…何これ、めっちゃ気分悪…」
ヴェスカも説明し難い感覚に触れてしまったのか、思わず口を押さえ不快感を露わにした。腹の底から湧くようなどす黒い感触が全身を包んでいく。
うっかりすると嘔吐してしまう程、体調が激変した。
変な空気に晒されるとここまで酷くなるのかと驚く。
「これはエグいわ」
「多分良くない魔力に感化されたのでしょう。少し解しますよ」
気休めにしかならないかもしれませんが…と言いながら、ロシュは気持ち悪そうにしているヴェスカの背中に手を当てる。あまり魔法の耐性が無い彼には、邪気を大量に含んだ魔力が受付けられないのだろう。
ロシュの回復魔法により幾分かマシになったヴェスカは「ありがとうございます」と礼を告げる。
流石に今のこの状況では体調が云々とは言っていられない。
…魔法の効果がある間に、目の前にある厄介な物体を処理しなければ。
「副士長!」
ある程度人の姿が店内から抜けたのを見計らい、スティレンはヴェスカの側へ合流する。
彼は文句を言いつつも一応剣士の端くれだ。やはりこの状況を無視出来ないのだろう。
「ルイユは?」
「避難したここの店員に、少しの間だけ見てて欲しいって頼みました。あいつが素直に待機出来るか分からないけど…」
好奇心旺盛な彼が黙っていられるか不安だ。そう思い、複雑そうに表情を曇らせるスティレンだったが、逆にロシュは安心していた。
緊張気味だった目元を緩ませながら、「ご無事なら良かった」とふわっとした笑みを浮かべる。
「ロシュ様も外に出た方が良いんじゃないですか?流石にここは危険ですし」
「お気遣いありがとうございます、スティレン。…ですが、私だけ安全な場所で眺めているのもどうかと思いますしね…」
司祭である彼に出来る事など限られているじゃないか、とスティレンは困った顔をしながらヴェスカに目線を送ってしまった。ロシュの能力を目の当たりにした事がほぼ無い彼は、この危険な場所に居続けられてもこちらがやり難いと思っているのだ。
危害を与える魔法は使えない、使えるとすれば無害な魔法に限られてしまう司祭に一体何が出来るというのか。
それならば、外に出て怪我人の手当てに徹してくれた方がまだ良い。
「悪い」
ヴェスカは重い口を開く。
「ロシュ様はここに居て貰った方が助かるわ、俺が」
「………?」
「この目の前のデカ物、変な気を出してくるんだよ。薄っ気味悪い魔力か何か…ロシュ様の魔法でどうにか気を持ててんだけど、無いと俺が吐いてしまう」
そう言い放つ彼の表情と顔色は先程と比べて良いとは言えなかった。ついさっきまで、機嫌良く酒や食事を平らげていた人間だとは思えぬ程に。
「ヴェスカは魔力の耐性があまり無いみたいで。スティレン、あなたも何か感じませんか?」
「俺は…」
スティレンは小さく呟くと、すぐ近くに居る無礼な巨躯を見上げた。依然としてその場に留まり続ける魔物からは若干の不快さは感じるものの、非常に気持ちが悪くなる程では無い。
魔物から発せられる魔力の耐性には、個人差があるのだろう。
ヴェスカは魔力の耐性が無い事で、直に身に浴びせられてしまうのかもしれない。
「魔力の関係で体調を崩す人って見た事が無かったので…副士長がそのタイプだったんですね」
「おうよ」
「なら仕方ありません。ここは俺がどうにかします」
スティレンはそう言い、腰元に隠し持っていた自前の二双の短刀を引っ張り出し両手に装着した。
普段は宮廷剣士用の支給された剣だが、城下街の中で持ち出すと余計な騒ぎになりかねないので最低限持ち歩かないようにしている。
代わりに実家から勝手に持ってきた二振りの小型の剣を隠し持っていた。エルシェンダ家の家宝の一部らしいが、詳しい事はスティレンも良く知らない。
単に扱いやすそうだからという理由で持って来ただけにすぎないが、いざ手に収めてみれば意外に自分に良く馴染んでいた。
別に売り払って生活の糧にするつもりは無いので、実家側も特にその件については何も言ってはこない。むしろ気が付いているかどうかも謎だ。
ヴェスカは「ほー」と感心する口調で呟く。
「お前の性格は本当に剣士向けだな。…でも俺もあまり弱気な事は言ってられないからな。のうのうと休んでる訳にもいかねぇんだよな…」
ヴェスカは魔力の影響を引き摺りながらも、両足に力を込めゆっくりと立ち上がる。
折角ロシュからの恩恵を貰った所なのだ。これで自分だけ見守るのは筋が通らない。魔法をくれたロシュに任せるつもりもなければ、部下であるスティレンに甘えるつもりもない。
「では、私はこの魔物の正体が何なのかを確認してきます」
「え」
建物の上からのし掛かってくる位の巨体だ。
今の状況だと、目の前には屈強な太い足元しか確認出来ない。まだ魔物は状況を判断し難いのか、その体を動かすまでには至っていない模様。
即座に動かない辺り、そこまで聡明な魔物ではないだろう。比較的楽な状況で、どのような相手なのかを判別するのは今しかない。
ロシュは天を仰いだ後、大丈夫ですよと続ける。
「相手の目線では私を追う事は出来ないでしょう。少し魔法の力で浮遊する程度ですから、すぐ戻ってきます」
「ありがとうございます、ロシュ様」
手持ちの剣を鞘からゆっくり抜き、ヴェスカは改めてロシュに礼を告げた。ロシュ本人は戦える能力はほぼ無いとは言うものの、サポート側に立てばかなり強力な助っ人となる。何より回復や補助の魔法が使えるというのが一番だ。自分達のような宮廷剣士は、常に怪我と隣り合わせである。アクシデントがあったとしても、組織内の知識のある救護班のみで、尚且つ臨時に薬品で応急処置が出来る者しか側には居ないのだ。
むしろ、宮廷剣士は真逆のタイプである司祭職とは滅多に顔を合わせる事など無い。本来、司祭は聖堂に篭りがちなので外部に顔を出す事は少ないのである。
その為に、現時点で彼の存在は大きいのだとヴェスカは思う。
「いいえ。私にはこういう事位しか出来ませんから」
ロシュはいつものように優しい笑みを浮かべた後、魔力を利用してすうっと浮上していった。
…くっそぉ、ガキだからって馬鹿にしやがって。
大人しく待機していろとスティレンに釘を刺され、ルイユは騒然とする人々に囲まれながら不貞腐れていた。
このまま黙って待っているのも落ち着かず、きょろきょろと周囲を見回す。
今まで食事を楽しんでいた酒場はほぼ壊滅状態となっていた。突如出現した魔物は状況がまだ理解していない為か、これといって派手な動きを見せていなかった。
大きさは二階建ての建造物とほぼ同格位。
「何だってあんなもんが街に出てくるんだ…」
騒ぎを聞きつけ、城下街の警備員らしき面々が一般客を退け始める。
「ほら、危険だからここから早く離れて!!」
「ここは私達に任せるんだ!」
宮廷剣士と比較すると、彼らの装備は薄い。恐らく救援要請を頼んでいるのだろうが、暴れ出すのは時間の問題だろう。
警備員はこの場に不釣り合いなルイユの姿を見ると、真っ先に声をかけてきた。
「君は何をしているんだ!危ないからここから逃げなさい!ここは君のような子が居る場所じゃないんだぞ!」
「仕方ねぇだろ、俺の連れが建物の中に居るんだ!待ってろって言われて帰るに帰れねぇからここで待機してるんだ、ほっとけ!!」
俺の連れ、という言葉に警備員は「はあ?」と眉を顰める。
当然の反応だ。この時間にも関わらず酒場区内を連れ回す大人など碌な人間では無い。
しかもまだ屋内に居るだと?
「君のお父さんかお母さんか?何だってこんな時間に」
「違う。知り合いの宮廷剣士だよ」
その時、バリバリと何かを剥ぐ音が轟いた。
人々は一斉に顔を魔物の方へと向ける。同時に表現し難い不気味な咆哮が耳を酷く突いた。
「おわっ…!!」
「何だこの声…気色悪い…!!」
人々は耳を塞いでこの得体の知れない声に慄く。全身に何か覆い被さるような重圧感が襲い、胃の底からムカムカする物が溢れ出そうな感覚を覚えた。
咆哮の効果に負け、数人かはその場で嘔吐しているのが見える。
「意味分かんねえ…どういう事なんだこれ…」
ルイユは耳から手を離し、改めて周囲を見回した。何処か異変が無いかを確認していると、明らかに動揺している様子の二人が目に付く。
呼び止める警備員を無視し、ルイユは彼らの後ろに近づいてみた。
他の者が恐怖に満ちた目線を魔物に送っているのに対し、彼らは不安と焦りが入り混じった面持ちで向こうを見上げては、時にはどうしちまったんだと小声で呟く。
「あの魔石…」
「浄化していなかったから…」
時折聞こえてくる言葉に、ルイユは表情を強張らせた。
「流石にこのままじゃ…あのアーヴィーが浄化を渋らなければこんな事にはならなかったはず」
こいつらが一枚噛んでいるのか?と思うと同時に、つい声が出てしまう。
そのまま放置させてなるものかという気持ちが先走っていた。
「おい」
「………っ!!」
「お前ら、何か知ってるんだろ?」
背後に湧いたように出現した少年を見下ろす彼らは、焦燥気味の顔を更に歪ませると「な、何?」と逆に問いかけてくる。
暗がりでもその一瞬の表情の変化を見逃さないルイユは、「何?じゃねぇよ」と突っ込んだ。
華やかに見えるものの、その内情は腹の底の探り合いという特殊な階級に身を置くルイユは、まだ幼いながら他者の心情を見透かせる位に早熟である。
平然とした顔を見せながら影で舌を出す人間や、媚びた目線で相手を持ち上げて裏で野心を剥き出しにする大人達を現在進行形で見ている彼には、他者の気持ちの揺らぎに敏感に反応する。
「さっき何て言ってたのか普通に聞こえてきたんだからな。お前ら、あの変な魔物を出したのか?」
「し、知るかそんなもの。気のせいじゃないのか」
彼らは薄汚れた装具姿で、外部からやってきた旅人のようだ。外部から何かしら問題を持ち込んでくる者はこのアストレーゼンでは少なくは無いが、魔物を持ってくるタイプはまず稀だろう。
そして気になったのはアーヴィーとかいう者。
魔石、浄化。そしてアーヴィーとかいう謎の人物。彼らの関係者らしいその人物は何処へ行ったのだろうか。
「俺は地獄耳なんだ。普通にお前らが無駄話しているのが嫌でも聞こえてきたんだよ」
しつこく食い下がってくる子供を忌々しげに見下ろす二人は、相手にするなと言わんばかりにその場から離れようと数歩引いた。
ルイユはそれを見逃すものかと言わんばかりに静止させた。
「あぁ、ここで退こうもんならお前らは却って疑われるぞ!!いいのか、それで!!」
わざと大声を上げる。周囲の人々は一斉にこちらに注目した。無関係な人々による目線を浴びた二人は、ぐっと言葉を失い辺りを見回す。
ルイユはニッと広角を上げた。
「このガキ…」
苛立ちを隠しきれない様子で、二人はぽっと出てきた少年を見下ろす。
「あの建物の中に誰が居るのか知ったら余計面倒になる。それでもいいなら逃げればいいんじゃねぇの?お前らが潔白だって言い張れるんならな」
厳しい口調とは裏腹に無邪気な笑みを交えながら言い退けるルイユに対し、二人は「何なんだお前は!」と苛立ちの言葉を投げつけていた。大人げないのは理解しているが、変に突っかかる言い方に面白くないものを感じたようだ。
今にも殴り掛かってきそうな勢いだったが、その震える拳をちらりと見た後に「おっと」とルイユは手を前に突き出す。
「俺に手を上げない方がいいぞ。旅先で立ち寄った場所で、その国の貴族の子息につい手を上げましたー!って情けない理由で捕まりたくねぇだろ?」
貴族の子息、という言葉に彼らの動きはぴたりと止まった。
「貴族…?あんた、ここの国の貴族階級なのか?」
「あ?…だからそう言ってんじゃねえか…」
どう見てもその階級に位置している人間が言う言葉遣いでは無いが、ルイユは鬱陶しげに彼らに返事をする。
同じ兄弟であるルシルはまだ子供らしく可愛げのある行動や発言をするのに、彼のその粗暴極まりない言葉は何処で習得してきたのかは謎だ。
「もしかしたら奴の事を知ってるかも」
「ああ」
向き合う二人の旅人はお互い顔を見合わせた後、ルイユに「聞きたい事がある」と前のめりになって問い掛けた。
「何だよ?俺、そこまで大人達の事なんて詳しくなんてないから期待する答えなんて出ないかもしれねぇぞ…ま、聞くだけならタダだから聞いてやってもいいけどよ」
「それでもこっちには聞くだけの意味はある。俺達はアストレーゼンの貴族だって言う男にそそのかされて魔導具を受け取っていたんだから…」
「へぇ…んじゃ、名前は?…ううん、待てよ。…仮に名前を聞いても偽名だっていう可能性もあるかもな。貴族の大人達はある意味狡賢いだろうし…ちょっとしたお遊び程度の事で正体を晒す程馬鹿じゃない」
二人は先程のアーヴィーの言葉を思い浮かべた。
素性を知らない人間に対して馬鹿正直に自分の正体を明確にする程愚かではない…と。
二人のうちのどちらかから舌打ちが聞こえた。顔を布で隠しているのでその表情は知るよしも無いが、悔しそうな様子が見て取れる。
「てか、あのクソでかい魔物はあんたらが出したんだろ?」
ルイユはそう言い、先程まで滞在していた酒場の真上に鎮座する魔物を指差した。
「こんだけ騒ぎを起こしたんだぞ。どう落とし前を付けてくれんだよ?あの中には俺の仲間が居るんだけど」
幸い、表だった動きはまだ起こしてはいない。だが下手をすればヴェスカ達が大変な事になってしまう。しかも一緒に司聖のロシュが居るとなれば。
「…あの魔物は元々は俺らの仲間なんだ。俺らもこうなってしまったのは想像も付かなかったし…逆にどうしたらいいのか聞きたい位だ」
ルイユは大きな金色の目を細める。
「その貴族とやらは何処に行ったんだよ?どういう顔なのか説明し…」
そう言いかけて、ルイユは不意にある人物を脳裏に思い浮かべた。そういえば、と。
酒場区内に入る前に見掛けた一人の人物。
この界隈に足を伸ばすなどとは考えられないと思う位、非常に不釣り合いな貴族の男の姿を。
思わず「おい」と相手に声をかけた。
子供にぞんさいな言葉を投げかけられ、二人の大人達は一瞬怪訝そうな顔を見せる。しかしそこまで神経質な方でもないのか、何?と普通に返事を返した。
「あんたらが相手にしてた奴って背が高くて…ええっと…目付きが悪い感じの三十位の嫌味な男って感じか?」
どう説明したらいいのか分からず、ルイユは思い付く範囲内の言葉を並べ立ててみる。どういう訳か、ほぼ悪口のようなものになったがこれ以上説明のしようがない。根底にある印象が最悪なのだから無理も無かった。
二人は再度お互いの顔を見合わせた後、軽く唸る。
「目付きはそんなに良いとは思えないけど」
他人の外見についての文句は流石に口にするものでもない。だがどんな感じかと言われれば、アーヴィーはパッと見る限り他の者よりも切れ長の目で顔立ちもはっきりしていた。
突き放すような話し方からして、他人をあまり信じないタイプだと思う。
「じゃあさ、飲み物を飲む時にくっそ不味そうな顔しながらグラスを傾けたりしてたか?」
「…何でそこまで知ってるんだ?流石にそんなに事細かく見ないぞ…」
高級なワインやシャンパン類を好んで嗜む彼らは、ここにあるような安酒は口に合わないだろう。元々我儘な性質の温室育ちで、アルコールに関してはとにかく口煩い。
インザーク家の面々は特にその傾向が強く、自宅の地下に巨大なワインセラーを持っているという話もある。
特に一番味に関して拘りを見せているのは長兄のジャンヴィエ。元々存在していたワインセラーを自費で更に拡張する程、酒類については口煩いタイプだという。
…だから、彼がこのような場所へ足を伸ばし酒を飲みに来るなどとは到底考えられないのだ。
「あぁ、でも一口、二口飲んだ辺りで美味くないと呟いてた事はあったな。貴族だから合わないんだろって位にしか思わなかったけどよ…それでも店では一番高いもんだったと思う」
「やっぱり舌が肥えてるんだろうな、あいつらは」
旅人らの話を聞き、ルイユはやっぱりか…と口元に手を当てながら思った。
何でこのような場所で油を売ってたのかは知らないが、あの長兄が一枚噛んでいたのだろう。毎日の退屈を紛らわせようとして碌でも無い事を陰で行っているという悪い噂を多方面から聞いた事もあったが、今回もそうなのかもしれない。
黙っていても彼はインザーク家の跡取り息子で、先の未来も安泰だ。だからこそ行動には配慮するべきなのだろうが、仮に問題を起こしても強引に揉み消す財力も存分に持っている。
ルイユは奥歯を噛み締めた。
別にあの界隈が何をしようがこちらには関係無いが、身の回りに災難が降り注ぐのは勘弁して欲しい。出来る限り関わり合いにはなりたくないのに。
「そのアーヴィー様が偽名使ってるっていうなら、本当の名前をあんたは知ってるってのか?」
酒場の方向から木材の割れる音が聞こえてきた。
早く騒動を鎮めなければ問題が余計拗れてくるだろう。ルイユはちらりと魔物を見ながら返事を漏らす。
「知ってても答えると思うか?仮に俺が馬鹿丁寧に喋った所で、お互い何の利益も出ないし相手が相手なだけに後々面倒な事になるかもしれない。知らないのが身の為だぞ」
「………」
「てか、魔導具がどうたらってさっき言ってたよな?話が遠回りになったけど…それが何か関係あるのか?」
そうだ、一番肝心な事を失念していた…と内心慌てる。今はあの男の事を考える暇は無い。
要は原因になった元を辿らなければ動こうにも動けない。人探しはその後だ。
二人の大人達は「そ、そうだ…」と魔物になった仲間を見上げるとバツが悪そうな顔をする。
「俺らはあのアーヴィーから譲り受けた魔導具を使って小銭稼ぎ…というか、旅費の足しにしていた。俺達はあちこち周ってその国のお偉いさんになりきる事で多少は稼げる事を知ってる。勿論、ここでもそうだ。俺達がアストレーゼンの司聖とその仲間になりきる事で、同じ旅仲間や本物の顔を碌に知らない住民はコロっと騙されてくれるんだ。顔を知っていても、薄っすら顔を隠すだけでお忍びで街に来たって言えば大抵理解もして貰える。譲られた魔導具も、俺らが司聖の関係者だと信じさせる為に使う小道具の一つだったんだ」
…何故か彼らの言葉が変に誇らしげに聞こえてしまったのは気のせいだろうか。彼らにとっては食い扶持を稼ぐ方法の一部なのだろうが、聞いていて恥ずかしくなってきた。
「ええ…まじかよ…。はぁあ…だっせ…」
そんなセコい事をしている奴が実際に存在するとは、とルイユは脱力したような声と共に素直な感想を発していた。
アストレーゼン各地に偽物のロシュが出現しているという話は良く聞くが、彼らは多数居る偽物のロシュ達の一人なのだ。あの手この手を尽くして承認欲求を満たしつつ金稼ぎをしてきたのだろう。
旅費を稼ぐには非常に情けないとは思わないのだろうか。
「あんたら、そんな事して金稼ぎしてきたのか…まあいいや。今はそんな話を聞いてるんじゃねえし…」
もう聞く意欲を失いそうだが、話を聞かなければ進まない。
「魔導具は司聖からのお守りと誤魔化して良い値段で売っていたんだ。魔導具の魔石は悪い気を吸い込む分、度々浄化してやらないとならない。でも、少しばかり邪気を吸い込み続けた状態じゃないと利用価値が無いんだよ」
「あ?利用価値…?どういう事だ?」
その話の内容では、わざと邪気を取り込んだまま故意に売り払っている、というようにも聞こえてきた。
まさか彼らは司聖の加護があるお守りと謳いながら、結局それほど効力が無い事を見越して返却されるのを想定して魔導具の流用を計っていたのだろうか。
「適当に邪気を孕んでくれた方が後々簡単に返却してくれる。俺らは戻ってきた物をまたいいように売買するだけって事」
売買が完了した時点で、儲けは売り手の懐に入ってくる。その後の購入先にどんな不慮の事故が起ころうが、売った側には全く責任の無い事だ。苦情を受けようが、それは単なる不運に見舞われたのであって加護云々の話では無い。相手側の油断であってこちらは完全に無関係だと軽く突っぱねれば責任を負う必要は無い。
単なるお守りとして受け取った以上、気休めの効果しか期待出来ない。何かしら不幸があったとしても、譲り受けた側の責任になる。
加護があるかもしれないというだけで、相手は神頼みに頼る程度でしかないという話だ。例え買い手の仲間が死のうが何だろうが、責任は一切持つ必要は無い。
ルイユは思わず嫌悪感を丸出しにした。
「きったねぇ大人だ」
反吐が出る、と吐き捨てる。
それ以上に彼らを利用している疑いのあるジャンヴィエに対し拒否感を覚えた。
一体何が目的なのかさっぱり分からなかった。恐らく彼は騒ぎが起きた段階でさっさと自宅へと引っ込んだのだろう。
彼らのようなタイプは非常に慎重で、疑いが身に降りかからないように躍起になる。身の回りで騒ぎが起こるや否や、真っ先に足跡を残さず消えるタイプだ。
「今回ばかりは魔石の耐久性が持たなかったのかもしれない。今まで受け取った奴らの怨念とかが篭っていたから…そろそろ大聖堂で浄化しないといけないっていう話をしたけど、アーヴィーはそれを拒否してしまったんだ。だからあいつ…セティはアーヴィーを頼る事を辞めて自分でどうにかしようとしたんだ」
「セティ?」
聞き覚えの無い名前を耳にし、ルイユは二人を見上げた。
「ああ。アーヴィーに拒否され、邪気に塗れた魔導具を思いっ切り叩きつけてしまったんだ」
「セティは俺らの仲間で、司聖ロシュの役目をしていた。多分、割れた衝撃で魔石に取り込まれたあの魔物だと思う…」
彼らの話を聞き終えた後、ルイユは「あいつが元人間だって…?」と眉間に皺を寄せる。
では魔物を倒せば終わり、というだけではなくなってしまう。あのデカ物を退治したら、同時に死人も出る可能性が出るのだ。
「え…!?おい、何処に行く気だ!?」
「うるせぇ、そこで待機してろ!!」
元々人間が変異した姿となれば、処理が余計面倒になってしまう。
ルイユは舌打ちし、二人をそのままに酒場方面へ向けて駆け出した。
そろそろ彼も膠着状態にも飽きた頃だ、と浮上したまま様子を見ていたロシュは思った。自身に何が起きたのかを把握するように周囲を窺っていたが、次第に体の動かし方も理解してきたようだ。
それまでの動きからして、純粋な魔物では無さそうな気がする。野生の生活に慣れ切っている魔物と比べれば、一連の動きが相当遅い感じが否めない。
普段目にする魔物は獲物の姿を確認すると、即座に体が動き攻撃を仕掛けてくる傾向にあった。ここまで行動が遅いとなれば、何らかの魔力の干渉を受け、突然変異で巨大化した異質なタイプなのだろう。
頭部は鋭い嘴を持つ鴉だが、それを支える胴体部分は毛深く大きな猿のようだ。異質な魔物の姿は、良く見る動植物の姿に似せたタイプが多い。
「ここでは場所が悪いなぁ…」
ここは人の姿が極端に多い区内だ。
避難した人々や野次馬が多くなっていく中、この謎の動物を如何にして大人しくさせようかという話になっていく。
動物園の動物のように麻酔や何かで大人しく出来るレベルではない。
吹き飛ばすにしても自分の魔力だけでは到底無理だ。
ならば物で誘導するしか…と考えていると、風の凪ぐ音が聞こえてきた。
「!!!」
こちらの存在に気が付いたのだろうか。細長い手が自分に向けて振り下ろされていく。咄嗟の判断でその場から逃れると、空を斬った腕が勢いよく下に打ち付けられた。
酒場の屋根がバァアン!!という破壊音と同時に木や金属の破片が舞い上がる。
「ひぇえええ」
一旦下に戻ろうと決め、下へと退避した。
身を隠していたヴェスカ達の元へ戻ると、彼は「あぁ、良かった」と安堵の表情を見せてロシュに言う。
「比較的大人しい魔物かと思っていたんですけど、どうやら周りを理解し始めたようです」
メキメキという音を耳にしながら、スティレンは忌々しげに巨体を見上げた。
「困ったね。…あれをどう処分します?」
「街中だしな。…全然思いつかねぇわ…」
ここが何も無い平原なら思う存分暴れられるのだが、ふとした瞬間に人々に被害が及ぶ場所なので動こうにも動けない。
二人の会話を聞き、ロシュは「そうですよねぇ…」と肩をしょんぼりと落とす。魔法で相手を動かせる事が出来れば話は別なのだが、人間の数倍もの大きさを誇る魔物が相手となれば数人の魔法使いの手が必要だ。
いくら高度な魔力の持ち主である司祭でも単独の力で動かせるには限度がある。
「酒場区内からどうにか追い出せる事が出来ればいいんだけどよ…」
「それなら、人払いを徹底的にするしか無いんだろうけど…迂闊に誘導したら他の店にも影響が及ぶかもしれ」
スティレンが言葉を言い終えるより先に、眼前で待機していた魔物の足が動いた。ぶわりと粉塵が舞い、酒場の埃が巻き起こる。
「ロシュ様!!」
煽りを受けながら、ヴェスカはロシュの細い腕を引っ張って自分の側へ引き寄せた。本来ならばリシェの役割なのだが、ここには居ないので自分が率先して行うしかない。
「…痛ったぁああ!もう、何してくれんのさムカつく!!」
飛んできたテーブルが不幸にもスティレンの腰にぶつかった。彼は憤慨し、近くで転がったミニテーブルを思い切り蹴飛ばすと魔物を睨み上げる。
「あの目玉に向けてナイフを刺してやろうか!!」
短気を起こしたスティレンは吐き捨てるように怒鳴った。
「まぁ落ち着け…」
こりゃ長期戦になりそうだな…とヴェスカがロシュを自分の背後に誘導し、壊滅を免れた壁面の時計に目を向ける。時計の針はまだ止まる事無く、現在の時刻を示していた。
「夜明けまでには終わらせないと」
まだ暗闇で魔物の姿は目立たない。だが夜が明けてしまえば更なる騒ぎになるだろう。
砂煙やアルコールの匂いが鼻を突き、埃が周囲を覆う最中、こちらに足早に近付いてくる足音が聞こえてきた。
加勢か?と警戒していると「居た居た!」と少年の声がする。
「ちょ…何で来たのさ!?」
ちゃんと外で待ってろって言ったのに、とスティレンは呆れた声を上げた。
果敢なのか無謀なのか。瓦礫を通り抜けて自分達の所へ戻って来たルイユは「まぁまぁ」と平然とした様子でスティレンを宥める。
「おいおい、危ねえって言ったのになーんで戻って来るんだよ」
「別に来たくて来た訳じゃねえんだよ、ヴェスカ。あんたらに伝えたい事が出来たからさ…」
喉をやられたのか、ルイユは軽く咳き込んだ後に続ける。
「あれ、元は人間なんだってよ」
「………」
「外に仲間が居るんだ。これ、ある魔道具の魔石の影響でこんな姿になったらしいぞ。…魔石の浄化を怠った結果がこのザマって訳」
元は人間…?と三人が声を失う。
「浄化を無視して割ってしまったんだってよ。そしたら中の嫌なもんが飛び出して、変な気に取り込まれたんだとさ」
すると魔物は本格的にこちらの存在に気付き、体の向きを変えてきた。そして両手を振り上げながら咆哮を上げる。
影の動きで察知し、ヴェスカはロシュを瞬時に抱えた。同時にスティレンもルイユの腕を強引に引いてその場から退避する。
バン!!と激しい音を立て、床に魔物の手が打ち付けられた。その衝撃で床の底が抜け、木が割れて細かな破片が飛び散っていく。
「うぅ、魔物相手にするってこんなハードなんだ…」
「だから近寄るなって言っておいたでしょ!!」
何らかの拍子に頭をぶつけてしまったルイユは、痛む箇所を擦りながらボヤいた。
「うっわ、お前…!こっち見てる!気付いた!!」
「は…!?…くそっ!」
再び手が振り下ろされ、スティレンはルイユに抱きつくと両足に力を込めて飛び退く。バリバリと何かが割れる衝撃音が周囲に響いた。
「ふぃいい…おっかねぇ。てか、お前声デカすぎなんだよ。だから気付かれるんだろ…」
「そうさせてるのは誰なんだって話だよ。…もう、俺の美しい顔が埃まみれになっちゃう…」
今の所、巻き起こった埃によって相手の視界は遮られている。重い足を引きずる音が不気味に響く中、スティレンは忌々し気に指を噛んだ。
「…ったく、どうするんだよこれ…」
ひと暴れしたい所だが、如何せん場所があまりにも悪過ぎる。店の外では野次馬がわんさか増え続けている事だろう。
街の警備員も増えてはいるだろうが、それでも見物人が増えれば増える程、彼らだけでは手の施しようが無くなっていく。
「くっそぉ」
ルイユは悔しそうに呟いた。湧き上がる悔しさの為か、自ずと両手が震えてしまう。
「俺も剣とか使えれば」
「………」
「こんなんなってんのに、何の手伝いも出来ねぇって…ルシルみたいに魔法の才能もねぇし、剣もまともに使えねぇ。こんなんじゃあいつを守れない」
あいつ、というフレーズが気になったが、今はそれを問うだけの余裕もない。
スティレンは軽く吐息を漏らした。別に彼に手伝って貰う気など最初から思ってもいない。変に手伝われても却って困るだけだ。
…だが、悔しいと思う気持ちだけは汲んだ。
「別に俺らは、あんたみたいなガキに手伝って欲しいなんて思っちゃいないさ」
「子供扱いすんなよ」
土煙が次第に収まってきた。
自分達の姿を月明かりの下で探り当てられるのも時間の問題かもしれない。
「剣も魔法もダメなら他の道でも探す事だね。何もそれだけが全てじゃない。そのうちあんたにぴったりなものが見つかるでしょ」
「………」
こういう事は、向いてる奴に任せりゃいい。
「無駄に血を流す必要なんて無いのさ」
スティレンはそう言うと、腰に収めていた双剣を抜いた。
大きく毛深い足が眼前を通過し、その都度酒場の床を激しく割って沈んでいく。がくりとバランスを崩しかけた魔物は、破壊されて横たわっていた梁に手を付き体勢を整えた。
「元は人間か…困ったもんだな。何処から斬ればいいんだか」
手にしっかりと武器を持ったままでヴェスカは呟く。
純粋な魔物ならば遠慮無く叩けるが、人間が変化したものとなれば対処も違ってくる。
斬った場所が悪ければ、命を落としてしまうかもしれない。
「魔物に関しては核となる部分があるでしょう。今回の相手には残念ながらそれが見当たらないのです。恐らく、魔道具に付随していた魔石が本来の核となる部分だったのかもしれない。魔道具の魔石が割れて、それまで間違った使い方をされ続けた事により、様々な邪念や魔力が混ざってしまった。あの方がどんな扱い方をしたかは分かりませんが、浄化を怠り魔石を破壊してしまったので直で影響を被ってしまったのでしょう」
「核が無い…?じゃあ、現時点では弱点が見当たらないって事ですか?」
更に叩けなくなってしまうではないか…とヴェスカはげんなりした。
「このまま相手を消耗させて行くしか今の所は」
ロシュはそう言い、詠唱を開始する。
何か良い方法があるのかとヴェスカは彼が生み出す魔法を見届けた。
「ロシュ様」
「気休めですがね。即席の結界鋲を張ってみます。ただ、きちんとした正規品ではなく具現化したものなので効果は期待出来ませんけど…」
詠唱の文句を口ずさむ毎に、魔法の力で作成された薄緑色の鋲がロシュの手の内に転がっていく。
魔法で作られているとはいえ、素人目でも大変精巧に作られた既製品のように見えた。
ロシュは数個の結界鋲を生み出した後、ヴェスカに向けてにっこりと微笑んだ。
「では、ちょっとその辺に行ってきます」
「え、ロシュ様?」
行ってきますって何処へ…と言い掛けるのも虚しく、彼はその場から離れてしまった。鋲を魔物に埋め込む為なのだろうが、流石に単独は危険過ぎる。
魔物の周りを彷徨く事によって彼に被害が及んでしまうかもしれない…と慌てる。
「…目線をロシュ様に向けないようにしないと」
ジャリ、と砂埃に塗れた床を踏み締めながらヴェスカは立ち上がった。これでロシュに大怪我でもされては士長ゼルエの怒りを受けるどころか、ロシュの補佐役であるオーギュからも凄まじい雷を落とされてしまうだろう。
…正直な話、ゼルエよりもオーギュの方が怖い。
恋する相手からの叱責は何より堪えてしまうだろう。
「副士長!!」
小声で自分を呼ぶ少年の声が聞こえた。
「スティレン」
「今、ロシュ様が何か…」
「あぁ。あいつの動きを制御させる為に結界鋲を埋めに行ったんだ。でも目線がロシュ様に向かう恐れがある」
瓦礫の山と化した敷地内をひょこひょこと動き回る彼に目を向ける。暗がりの為か、今の所は魔物からの目線は今の所届いていないようだ。
だが彼の存在に気が付くのは時間の問題だろう。
「俺らはロシュ様をお守りしなきゃならない。絶対にあの方に奴の目を向けさせるな」
「はい」
「…ルイユは?」
「出来るだけ魔物の視界に入らない場所で待機させてます。瓦礫の山ですから身を隠しやすいので」
「そっか。…それなら大丈夫かな」
変に目立つより大人しくしてくれていた方が有難い。
ロシュが一つずつ結界鋲を魔物の周辺へ差し込んでいくのが見えた。近場で移動しているので、気付かれないか不安だ。
何本の結界鋲を差し込む気なのかは不明だが、魔物が彼の存在に気付いてしまえば厄介になる。
「俺はロシュ様が居る方の真逆の方へ行って注意を引きつけておく。お前は何かあった時、すぐロシュ様を守ってくれ」
「分かりました、副士長。どうかご無理をなさらず」
ヴェスカの命を受け、スティレンはロシュの姿を静かに目で追った。
一方で剣の柄に手を掛けたまま、ヴェスカは結界を作ろうとするロシュとは対角線上に歩を進めていく。
…どうかあの人には気付いてくれんなよ…。
そう願いながら慎重に散乱した酒場の中を動いた。
足場は非常に不安定で、うっかり何かに引っ掛かって転がりそうになる。目線で追う限りロシュは魔法の力で低空飛行と自前歩行を繰り返しているのか、今の所は異変は無いようだった。
魔物の弱点の一部である核が存在しない相手にどう対応したらいいのか、これから考えないといけないな…と思っていた矢先。
「…っわわわわ!」
ドゴン!!と何かと何かがぶつかる音が耳を突く。
はっとヴェスカは顔を上げると、一部で埃が舞い上がりやや高い位置でロシュが浮上していた。
魔物の手が地面を凪ぎ始めたようだ。
「ああ、やっぱりか…くそっ」
もうちょっと大人しくして欲しかったな…!と舌打ちしながら、ヴェスカは鞘から剣を抜いて魔物の足元へ向かう。
「…ロシュ様!!」
浮上している司聖に、スティレンは声を上げた。
「私は大丈夫です!もう少し…あと二本!これが終われば鋲は完成します!」
それならこっちは足止めを仕掛けるだけだ。
ヴェスカは障害物を退けながら魔物の太い足首を目視すると、腱部分目掛け深く斬り込んだ。様々な繊維が絡み合う腱は非常に硬く、斬った瞬間に腕に重みのような感覚を覚える。
「っぐ!!」
それも相手が大型の魔物ならば尚更。
人間の力ではびくともしないかもしれない。だが、僅かでも刺激を与えるには十分だろう。
「こっちは何年も剣を扱ってるんでね…!!」
最初の一撃を与えた後、即座に引っ込める。
「ここからっ…動くな!!」
片足を強く踏み込んだ後、更に同じ場所目掛けて剣先を振り下ろした。全身に嫌な感触を受けた後、生温く激しい飛沫が全身を覆う。
返り血を浴びたという事は効き目があったのだろう。
悪鬼の如く声を響かせ、魔物はがくりと体を傾かせた。
生かさず殺さず、とは何と難しい事だろうか。
魔物は長い腕を広げながらぶんぶんと振るい、体勢を整えようとした。
「これであと一つ…!!」
混乱の最中、残り二つの内の一つの結界鋲を適切な場所に差し終えたロシュは最後の鋲を刺そうと身を起こす。その瞬間、スティレンの声が飛び込んできた。
「ロシュ様!!危な…!!」
強風が吹いた。
同時に背中に強い衝撃が走り、砂埃の舞う空中へ放り出されてしまう。
宙を舞う間、ロシュは華奢な少年の体も同じように吹っ飛ばされているのを見る。
「スティレン…!?」
魔物の振るわれた手によって、ロシュとスティレンはあらぬ方向へ払い飛ばされたようだ。
咄嗟にまだ幼い剣士に向け、ロシュは魔力を飛ばしていた。
自分の身を守る時間も無いまま、彼は木の樽が密集する場所へと投げ出されてしまう。
「うっわ!!!?」
大量の木材が破られる音と、聞き慣れた声が同時に飛び交った。そして深みのある葡萄の芳醇な香りが周囲にぶち撒けられる。
「何が起きたんだよ…って、わ!!ロシュ様!?」
「うぅ…」
まともに回避出来ないまま直で地に叩きつけられ、ダメージを直に受けたロシュは苦痛に顔を歪ませながら身を起こした。
「いたた…」
「だ、大丈夫かよロシュ様?凄い勢いでふっ飛んできたけどさ…」
ロシュは自分に軽度の回復魔法を施すと、目をぱっちりと見開いて寄り沿ってきたルイユに気付く。
「…ルイユ!大丈夫ですか?」
「いや、俺は全然平気だよ…」
むしろ自分の心配をした方が良いと思うが、彼は自分の事より他人が心配なのだろう。
「ああ…それなら良かった…」
ロシュの手には鈍い光を放つ何かがあった。
ルイユはそれを見つけるなり、「それは…?」と問う。
「あ…っ、これは結界鋲です。あとこれ一つを差し込めば結界が張れる。差し込んでいる最中だったんですけど」
そう言うと、喉元に何か引っ掛けたのか激しく咳き込んだ。すぐにルイユはロシュの背を摩る。
「う…埃でもっ…入ったのかな?…う、げほっ!けほっ!!」
「空気も悪そうだしなあ…水とか無いかな」
流石に都合良く水などあるはずも無く。幸い、近くに転がっていた木製の樽型カップを見つけて引っ張り出す。
「カップならあった…誰が使ったか知らねぇけど、文句言える状況じゃないしな」
苦しむロシュの背を撫でつつ辺りを見回し、何らかの水分を探す。酒場なら適当なものがありそうだと思った。
不意に葡萄の匂いが鼻を突く。
「水分っていうか…ワインだけどちょっと位なら和らぐかも」
先程の衝撃を受けても比較的無傷な樽を探し当て、栓を捻る。カップに半分程注いだ後、ルイユはロシュの元へ駆け寄った。
「ロシュ様」
「…は、はい…」
少しばかり落ち着いてきたのか、喉を押さえながらロシュは薄っすらを目を開ける。
「ちょっと水分を喉に通したら落ち着くと思うよ」
「ああ…ありがとうございます、ルイユ」
カップを受け取った後、ロシュは何の疑いも無く少しずつ中身を喉元へ通した。
それを心配そうに見守りながら「ワインっぽいけど、ロシュ様は大人だから多分大丈夫だと思う」と続けた。
「!!!!」
飲んだ瞬間にアルコールだと察知したロシュは反射的にカップから口を離した。瞬時に喉と全身が熱くなり、視界がぐらつく。
「ろ、ロシュ様?」
頭を押さえ、ううっと呻いた。しかし一旦間を置いた後で、彼は思い出したように顔を上げる。
「鋲を埋めなければ」
「ああ、結界のあれ…」
「急に酔いが回ってしまったのでちょっと時間が欲しいです」
急激に酔いが回った人間の割には変にしっかりした喋り方のような気がした。
「それはいいんだけどさ…」
ルイユはちらりとロシュが握っている結界鋲に目を向けた。その時間の間、ヴェスカやスティレンがどうなってしまうのだろうか…と不安に駆られる。
「結界鋲を目的の場所まで落とすだけでいいのですが、酔いが回ってしまって走りにくい。遠くまで鋲を投げられる自信もないのです。ああ、困った困った」
「は…はぁ…」
彼の語り口調を聞きながら、ルイユは違和感をひしひしと感じていった。
…何かロシュ様、様子がおかしいぞ。
そんな事を考えていると、ロシュは更に言葉を続ける。
「ルイユ」
「へ?」
「あなた、スリングは得意だったでしょう」
「ああ、そういえば…でもやり過ぎて庭園の果物を根こそぎ落としまくったらクラウスにめっちゃ怒られたから、それ以来全然やってねぇよ」
「ではかなりの命中率なのですね」
そう言うと、彼は瓦礫の下を漁りだす。しばらくして「ああ」と動きを止めた後、強引に何かを引っ張り出した。
彼が手にしたのは錆混じりの古びた弓だった。居合わせた酒場の客が緊急事態に慌てて忘れていったのだろう。
「いきなり魔物が出たので旅人達の武器も散乱している。緊急事態とはいえ、商売道具を放り出して逃げるのはどうかとは思いますけど…ですがまあ、都合が良かった」
そう言い放つロシュの妖艶な微笑みは、月明かりによく映えた。
「な…何?ロシュ様」
「これから結界鋲を矢の先に付着させます。私が差し示した方向に向けて、あなたが矢を放って下さい」
「は…!?」
唐突な命令に、ルイユは目を丸くした。
「いやいやいや、俺そんなん出来ねぇよ。だってスリングと勝手が違うじゃん…多少齧った位だけどさ」
「経験はあるのでしょう」
「そりゃそうだけど、俺はまともに武器なんて扱えないよ。ルシルみたいに魔法だって出来ないし」
「そうですか。実は私も弓が使えません。庭園の果物を根こそぎ落とす事も出来ないんです」
そう言いながら、拾った矢の先に結界鋲を捻り込んでいく。ロシュの魔力で作られた鋲はまるでゴムのように先端に付着した。
ルイユは目をぱちくりさせる。
「あなたのお父様は弓を良く扱っていた。そのお父様から教えて貰っていたのでしょう?」
「………」
「魔物を撃てとは言いません。少しばかり、腕を見込んでお願いしているだけです」
「いやいや…見込まれる程上手くねぇよ。スリングだって、楽しかったからやった程度で…本当は宮廷剣士みたいに剣とか使いたい。でも何だかしっくりこなかった。そして魔法の力も無い。ルシルに比べたら、俺は才能とかそういうのが無いんだよ」
ルイユの話を聞きながら、ロシュは矢の先に結界鋲を完全に嵌め込んだ。
「だけどロシュ様、俺はリシェを守りたいんだ」
「…そうですか」
彼がリシェを気に入っているのは理解していた。
リシェは無謀な所もあり、自己を犠牲にしても任務を遂行する危なっかしさもある。
守りたくなってしまうのはあの儚げな容姿のせいもあるだろう。
「それなら、尚更試してみて下さい」
「へ!?」
ロシュは弓矢をルイユの胸元に押し付けた。
「あの、話…聞いてた?」
「聞いてましたよ」
「弓だってそんなに上手くねぇよ」
「でも他の武器よりは扱えるでしょう?」
「………」
「あなたは貴族の立場ですから、武器を振るう必要は全くありません。ですがあなたご自身の意思を尊重したいなら、手探りでも模索するべきです。あれも違う、これも違うと闇雲に探したって良いじゃないですか。遠回りになってもいい。そして教えて貰った事を改めて試してみるのも悪い事ではない。その結果、大切な人を守れる力になるなら良いじゃないですか」
落ち着いてきたのか、おもむろにカップを手にしてロシュは樽からワインを注ぐ。
オーギュにあまり口にするなと忠告されているはずだが、酔いが入るとすっかり忘れてしまうようだ。
注いだワインを一気に飲みきり、カップを放った。
「才能を生かすのも殺すのもあなた次第ですよ」
「………」
そうして、ぽんと軽くルイユの手の内にある武具を叩く。
しばらくした後、彼はぐっと奥歯を噛み締めつつそれまで俯いていた顔を上げた。
「…ロシュ様」
「?」
「じゃあ、やってみる。腕が鈍ってるかもしんねぇけど…何処へ撃てばいい?」
ふ…と口元に笑みを浮かべ、ロシュは該当する箇所へ指先を向けた。微弱な魔力を送り、目的の場所を薄く照らす。
月明かりの下の為に多少明るく照らしても気にならない程度だ。魔物も急に激しく動いてしまった為か、だらりと両手を放るような形で体を傾けている。
嘴からはギリギリと異音を出し、威嚇を繰り返していた。
離れた所からは未だに野次馬の騒ぐ声も聞こえてくる。
ルイユは持たされた弓のグリップを握り、カスタマイズされた鋲付きの矢を静かにレストに引っ掛けて手慣れたように構えた。
矢をゆっくり引き、ロシュが差し示した辺りへの飛距離を頭の中で考えていく。
久しぶりの感触で、しかも決して軽くはない弓の重さに腕が軋みを上げる。
…変に遠過ぎてもいけない、だが近過ぎても駄目だろう。
目標物は動かない分やり易いはず。
角度をやや上に向け、引く力を僅かに緩めた。弧を描いた後の着地点を予測し、示された場所目掛けて一気に矢を放った。
「……っ!!」
…放つ瞬間だけ、最大限の力を使う。
矢を放つその一瞬のみ、これでもかと言う程目一杯引いて放つ。その分、ぐんと飛距離が伸びるという。
父親から教えられた際、覚えていた技術の一つだった。
矢を放った時、全身の細胞が躍動した。ギリギリした緊張から一気に解き放たれた爽快感。ルイユは懐かしさと共に、不思議な感覚に打ち震える。
ふわりと金の髪が舞い、体が高揚し脈動していく。
矢が風を強く斬っていく力強い音は、久しぶりの高ぶりを増幅させてくれた。
…もしかしたら。
もしかしたら、これが自分の力となる一閃なのかもしれない…!!
「ロシュ様!」
結界鋲はロシュが示した場所へ着地していた。ルイユはどうよと言わんばかりに彼を見上げる。
「ありがとうございます、ルイユ」
結界鋲が全て挿された事によって、準備はほぼ完了となった。ロシュは突き刺さった鋲がほぼ対角線上に繋がっているのを目視し、上出来ですよと呟く。
「あとはやって欲しい事は無い?」
「いえ、ここからは私がどうにかします。危険な事には変わりないですから、あなたは安全な場所へ退避して下さい」
「分かった。無茶するんじゃねえぞ、ロシュ様」
ルイユは矢を失った弓を手にしながら物影を探し始めた。彼が安全な場所へ引っ込むのを確認した後、ロシュは魔法の力で再び浮上する。
結界鋲が全て挿された事によって、そこから僅かばかりの魔力の流れが起きていた。
「さて…」
魔法の詠唱を開始する。同時に、魔物の姿を完全に包囲する形で魔法陣の線が少しずつ光を放って地面に浮かんでいった。
一方。
返り血を浴び、嫌な気持ち悪さを感じたままヴェスカは頬に付着し固まった血を強く擦る。
「あぁ、くそ…嫌な感じだわ」
自分のならばまだ我慢も出来るが、魔物の血液となれば嫌悪感しか無い。浴びた瞬間全身の動きが一気に鈍くなり、その場にがくりと膝を突いていた彼は、ほぼ真近で同じように動きを止めた相手を目の当たりにして危機感を覚えていたのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
いい具合に腱の力を奪えたらしく、がくんとバランスを崩してくれた。元は人間だという事から、急激に大きくなってしまった体に対応し難かったのかもしれない。
例えれば、小さな子供が急激に背の高い大人になったようなものだ。
体の成長が追いついていないかの如く、どう動いていけばいいのか分からないのだろう。
「スティレンは…」
暗がりの中、彼は部下の姿を捜した。しかし何処へ飛ばされてしまったのかさっぱり分からない。声を上げたいが、魔物を刺激してしまいそうだ。
大怪我を負ってなければいいけど…と不安に駆られていると、自分の身の周りが薄緑色に発光している事に気付いた。
「え?…これは…」
光が強くなるにつれ、魔物に変化が起こった。
ぐ、ぎ、ぎ、ぎ…と鋭い口から声が漏れると同時に動きもぎこちなさが出ている。
これは魔法か…?と頭上を見上げていると、自分からやや遠い場所で白くボヤけた人の姿が地上に向けて杖を強く振り下ろしていた。
「ロシュ様か…?」
身の回りが薄緑色に輝きを増している事から、結界は無事張り巡らされたらしい。
「あー…これで多少は押さえられ…っっ!??」
ズドン、と全身が上から押し潰されそうになった。ヴェスカは思わず声を上げ、両膝をがくりと地面に付ける。
魔法陣の影響下にある為だろうか。見れば円陣の内側に嵌っている事に気付く。不思議と嫌な気分は無いものの、動けないとなれば話は別だ。
これも魔力に耐性が無い為なのだろうか。凄まじい圧力を全身に受けていた。
「うっ…ぐ、く…っ…おっも…!」
全身に力を受け過ぎて、下手をすれば鼻血を吹き出してしまいそうだ。
重くなって動きにくい全身を引き摺り、魔法陣の外側へと無理矢理移動した。体が全て範囲外へ抜け出すと、急に身軽になり前のめりにバランスを崩す。
「…っあ!!」
身を伏せる形で倒れ込むと、反射的に仰向けに転がった。
「はあっ、はあ…!!は…っ、や、ヤバかった…!」
何だよこれ、と身を起こしながら体の感覚を少しずつ取り戻していく。
結界の中心に居る魔物に目を向けて今の状況を把握しようと試みていると、拘束されてしまったのを察知したのか今までに無い激しい鳴き声を放っていた。
酷く甲高く、不愉快極まり無い奇声。恐らくこの酒場の外にも聞こえているだろう。
野次馬達の不安に満ちた騒ぎが小さく耳に届いてくる。恐怖を感じるならその場から退散して欲しいものだが、好奇心が勝ってしまうのだろう。
自由を制御され激昂したのか、躍起になって立ちあがろうとしているのが分かった。しかし、まともに動けないばかりか、ヴェスカが斬った足の負傷で更に身動きが取れない状況。
苛立っているのがその鈍くなった動きで分かる。
「こっからどうするかなぁ…」
流石にロシュの魔法ばかりに頼る訳にもいかなかった。動きを抑制してそのまま弱体化させるまで待つには時間が勿体無い。
先程の重力によるダメージも小さい訳ではなかった。
もう少し自分の体力の回復を待って欲しいものだが、そうも言えないだろう。
考えが纏まらないままどうにか立ち上がると、魔物も同じように重い腰を上げた。
のっそりとした大き過ぎる影がヴェスカの視界を遮る。
「うぇええええ…マジかよぉ…」
愕然とし、ヴェスカは思わずボヤいた。
結界鋲の意味は無いのだろうか。流石に大きな圧力の中で立ち上がるなどとは考えもしていなかった。
魔物は忌まわしい結界を張り巡らせてきた相手を探すかのように首を回す。
元々人間だったという彼は知っているのだろう。この結界の原因が同じ人間だという事を。
彼は唸り声を上げて両手をゆっくりと上げ、前後左右に大きく振るった。
「…うっわ!!」
鞭のようにしなり、大きく毛深い手が地面を掠めていく。近くに居たヴェスカはその攻撃から逃れようと慌てて物影へと後退した。
逆上してんじゃね…と引っ込んだ物影から顔を出したその時だった。
「誰が動けと言いましたか」
凛とした声が暗闇に響くと、魔物はドスンという重苦しい音と同時に動きが停止する。
「あぁ…?」
それまで暴れていた巨体は、尻餅を付く形でまた魔法陣の中で大人しくなっていた。
「今の声って…」
魔物と対峙するように空中に浮かぶ人影を確認し、ヴェスカは目を細めて凝視する。そこには月の光を浴び、法衣を纏う細身の人間が魔物を見下ろしていた。
何か嫌な予感がしてきた、とヴェスカは思う。
その嫌な感覚にざわざわしていると、浮遊している人間から更に声が降り注いだ。
「人が苦労して結界を張ったというのに」
その声は明らかにロシュのものだが、やはり何か様子がおかしい。…何故口調がいつもより荒いのか。
すると、何処からか擦るような足音が聞こえてきた。ヴェスカは職業柄、聴力は少し敏感な所がある。
人の気配や動植物が蠢く音には、癖になってしまったのか即座に反応が出来た。
「…誰か居るのか!?」
野次馬を拗らせた一般人なら非常に危険だ。
稀にこのように怖いもの見たさや度胸試しと言いながら警戒区域内に忍び込む者も存在する。
こんな時に、と内心舌打ちしつつも、ヴェスカは物音の方に刃先を向けた。
「おっ…やめろよ、そんなもん向けんなって。ヴェスカ、俺だよ…俺…」
暗がりの中で鈍く光る刃が自分に向けられていたので、慌てて姿を見せてルイユは小さな声で訴える。
ヴェスカは安堵し、良かった…と剣を収めた。
「無事だったか」
「そりゃそうよ。逃げ足は早い方だからな」
得意げに言い退ける彼の手には、古く大きな弓と数本の矢があった。
「何だそれ?」
「お?ああ、これ?拾った」
「拾ったって…」
「護身用にいいかなってさ」
護身用だとしてもその辺で拾ったものならば立派な武器だ。逃げる際に誰かが落としていった危険物に変わりはない。
ヴェスカは呆れて「あんたには危な過ぎる」とルイユに注意すると、危ないからそれを渡せと手を差し出した。
「ばっ…バカ言え、俺だってこれくらい使えるんだぞ。ほら、貴族の嗜みってやつだ!」
「嗜みと実戦は違うだろ!」
先程の結界鋲を飛ばした興奮が冷めないルイユは、ヴェスカの手を払いながら弓をしっかり抱える。あの後、矢を探しているとちょうど矢筒が残されていたのでそれも回収してきたのだ。
何かあれば自分でも手助け出来るようにと。
「お前はこっち使えねぇじゃん!今更弓使いたいとか贅沢言うなよ!」
「そりゃそうだけどよ…」
そういう問題ではない。
子供に戦わせる訳にはいかないだろ…と頭を抱えていると、先程の轟音よりも更に大きな落下音が周囲に響いた。
地面一帯が揺れ、それに伴って全身に一気に伝わってくる。轟音と同時によろめいたルイユは、ヴェスカの腕の中にぼすりと支えられた。
「あっ!取んなよお前!」
「だから危ねぇって…玩具じゃないんだぞ」
体格差があるヴェスカ相手では、力も敵うわけがない。すんなりと弓を引ったくられてしまう。
「あー!もう!折角持ってきたのに!」
「元々あんたの所有物じゃないだろ!」
言い争っていた二人の真横を、一陣の風が吹き遊んだ。ほぼ同時に風に反応し、彼らは不意に上空を見上げる。
そして自分達の頭上に、魔物の巨大な手の平がある事に気付く。そして、全身から激しい冷汗が流れた。
自分の足元で騒いでいたので気付かれた模様。
「「あばばばばばばばばば!!」」
ヴェスカとルイユは、変な声を一緒に発した。
「ここから離れるぞ!!」
「おうよ!よしヴェスカ、俺を抱えろ!!」
「合点だ!!」
小柄なルイユをひょいと簡単に脇に抱え、ヴェスカは移動を試みる。同じように、魔物の手の平は地面目掛け振り下ろされていた。
上から落とされるような風圧を全身に受けたかと思うと、バン!!という強い音が周囲に響く。
瓦礫が吹き飛び、退避する二人の全身に否応無く襲ってきた。
「くっそ、見えねぇ!!」
幸い押し潰されはしなかったものの、周囲が暗過ぎて物影を探す余裕が無い。とにかくルイユだけは守らなければ、とヴェスカは自らの身を壁にしてこの場をやり過ごした。
粉塵が吹く中、魔物の動きが止まる事を待つ。
「何回も何回もうるせぇなあ!人間に戻ったらぶん殴ってやるからな!」
ルイユが毒を吐き散らかす。
魔物がバチン!バチン!と叩き払われた地面を手が打ちこむ度に全身が激しく振動して耳にも響き、頭が痛くなってしまう。これでは文句も言いたくなるだろう。
ひたすら地面に手を打ち続けている相手に苛立ちを覚えてきたその時だった。
頰を張った音と似た不思議な衝撃音が走る。異音を聞き逃さなかったヴェスカは、何だ?と伏せていた顔を上げた。
砂煙の奥、巨大な魔物が後方へ倒れていくのが見える。妙にスローに目に映ったのは気のせいだろうか。
「は…?」
完全にバランスを失った魔物はそのまま背中を地面に打ち付けながら倒れてしまった。
「なんか死んでねぇか?」
呆気に取られ、口をぽかんとするヴェスカ。
そして何故かすぐ死なそうとするルイユ。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?」
「ロシュ様に何か飲ませたか?」
色んな事が起き過ぎて、一番気になっていた事を聞くのを失念していた。
倒された魔物を空中で見下ろしているロシュを確認しながら、ヴェスカはルイユに問い掛ける。
何も知らないルイユは、彼の質問の意味が分からずにきょとんとする。だがその後、「ああ」と思い出しながらけろっと答えた。
「俺が隠れてたとこにロシュ様が突っ込んで来てさぁ…そん時に埃が喉に入っちゃって凄い咳き込んでたから、ワインちょっとだけ飲ませたんだよ。近くにワインの樽があったしな。めっちゃ苦しんでたから」
「………」
まじか…とヴェスカは脱力した。
だがこの状況はやむを得ない。他に水分が無く、ルイユもロシュにアルコールを与えるとどうなってしまうのかは全く知らないのだから。
「それが何かしたのか?」
「いや…いいんだ。それは仕方無ぇよな…うん。ロシュ様があまり酒を口に出来ない理由なんて、あんたには知るよしもないしさ…」
後々が怖いが、この場合やむなしとしてオーギュに事情を説明出来るだろう。…多分。
向こうが事情を分かってくれればいいのだが。
「いいか、ルイユ。今のロシュ様はいつものあの人じゃない。それだけは頭に入れておけ。な?」
「………?」
先程のロシュを思い出し、ルイユは「そうなのか?」と首を傾げた。
「あの人が酒をなるべく避けろと言われてる理由、今に分か…」
言いかけていると、魔物が激しい悲鳴のような金切り声を発した。あまりの耳障りな声に、思わず「うるせえ!」とルイユは両耳を塞いで文句を吐き散らかす。
「ロシュ様…どうするつもりなんだろ…」
押さえておけばどうにかなる核も存在せず、原因となった魔導具の魔石も粉砕され存在しない今、あの化け物化した人間を戻す術すら未だに見つからない。
魔物と対峙するロシュの姿に、ヴェスカは不安げに呟いていた。
自由に動けない余り、ヒステリックに声を上げ寝そべる魔物を前にするロシュは不愉快そうに顔を少しばかり歪めていた。
張られた結界に捕えられ、後は処理のみだが予想以上に抵抗が激しい。終いには鼓膜を破りかねない叫びを上げる始末だ。
今でも鋭い嘴を携える口を開け、威嚇の唸り声を放ち続けている。
「散々暴れ狂って…あなたは人間に戻りたくないのですか?」
人が折角親切に対処法を模索しているのに、と溜息を漏らした。すると、長い腕が鞭の如くしなり空中のロシュ目掛けて強く払ってくる。
腕が横一文字の状態で眼前に近付いた瞬間、ロシュは無表情で手にしていた杖で激しく打ち返していた。
杖を握る腕に、一瞬だけ筋力の増強を施して破壊力のある剛腕を造る事が出来る。
普段のロシュでは考えない発想だ。いつもならば、自ら戦うという頭を持たずに、あくまで誰かのサポート役に徹する。
現在の彼は司祭が持てる能力の範囲内で、いかにして相手を押さえるかに重きを置いたやり方を行っていた。
打ち返された魔物の腕は、思わぬ反動を受けて引っ込んでしまう。
ギャアアア!と鳴き声を放つ相手に、ロシュは「ああ、うるさい」と眉間に皺を寄せて忌々しげに吐き捨てていた。
…ここからどうするか。
聖なる光の魔法陣の上で完全に制御され、寝そべる形で倒れ込む異形の者を前に冷静に考える。
元の魔石が存在するなら、どうにか対応策は練られそうだが既に破壊されているケースは今まで遭遇した事が無い。
…この場にオーギュが居たならば、どう考えるのだろう。
「………!!」
深く考え過ぎる余り、一瞬周囲の警戒を怠った。眼前を細長いロープのような影が走ったかと思うと、右半身に鋭い痛みを受けてしまう。
スナップを効かせた巨大な腕と、その先の手の平からの攻撃にロシュの体は勢い良く地に落下した。
「ロシュ様!!」
それでも彼は悪運が強いのだろう。
落下地点付近には丁度ヴェスカとルイユが居た。弾かれたと同時にすかさずヴェスカが司聖を支えようと必死に駆け付けながら両手を伸ばす。
落とされる最中、ロシュは自分を追うようにして手を伸ばす宮廷剣士の姿を目の端で確認した。なるべく彼の負担をかけまいと魔法の力を使い落下速度を弱めるが、タイミングが遅くなってしまう。
「ぐ…っ!!」
全身に響く人間の重み。
落ちてきたロシュを抱き止め、ヴェスカはそのまま彼を守るようにして地面を転がった。
「…っはぁああ…あっぶね…大丈夫か、ロシュ様?」
力強い腕の中でロシュはうっすらと瞼を開く。
間近で見れば、彼の年齢を感じさせない美しさが非常に伝わってきた。月明かりも重なり、ゾクッとしそうな危うさもある。
これがオーギュだと欲に任せて襲いたくなるが、ロシュの場合は逆に触れていいのか躊躇しそうな雰囲気だ。
「…ええ。油断していました。ありがとうございます、ヴェスカ」
支えられながら上体を起こし、ロシュは再び魔物へ目を向けた。
「ロシュ様!」
ヴェスカを追いかける形で、ルイユも駆け付ける。
「めっちゃ飛ばされてくるじゃん…大丈夫か?」
「ちょっと考え事をしていて油断しただけですよ。何しろ肝心の核を持たない相手ですから」
魔法陣の中でしか動けないものの、そこからどうしたらいいのかまだ判断出来ずにいる。このまま膠着状態では魔法陣を張った意味を成さない。
街の中で暴れ回らないようにしているだけでも、まだマシかもしれないが。
「なぁ、ロシュ様」
「はい」
核という言葉を聞き、ルイユはおもむろに口を開いた。
「さっきの結界鋲って持参したやつなの?」
「…私が即席で魔法で作ったものですよ。それがどうしましたか?」
「へぇ…じゃあ魔法で即席の核って作れるんじゃねぇのかなってちょっと思ったんだ」
「………」
突然の案に、ロシュはそれまで様々な方法を巡らせていた思考を停止させた。
「ただ、その核をどうあいつにくっつけるかなんだよなぁ。俺、魔法に関して詳しくないし。核があっても中に埋め込む方法があればいいんだけど」
何げなく言ったルイユの発言だが、ロシュにとっては光明だった。彼はスッと立ち上がり、魔物に向けて再び数歩進む。
突然何も告げずに歩き出すので、ルイユは何か悪い事でも言ってしまったのかと慌てた。
「え?ロシュ様、どうしたんだよ?」
自らの魔力で出現させた杖を手にしたまま、ロシュはルイユに礼を告げる。強行策だが、これなら今の状況を打破出来るかもしれない。
優男風の顔が強気にぐっと引き締まった。
「ありがとうございます。あなたのご意見を参考にさせて貰いますよ」
「……へ??」
「あなた方は安全な場所で待機していて下さい」
…一体何をする気なのか。
ロシュは数歩進んだ後、再び魔力で浮上した。
「ええ…一人でどうにかする気かよ…ヴェスカ、どうにかなんねぇの?」
困惑し、動こうとするルイユの腕をヴェスカが危険だと引っ張る。
「今回は俺じゃ役に立てねぇ」
申し訳無さそうに頭を垂れる筋肉男を、ルイユは少しばかり残念そうに眉を寄せた。
「何だよ、随分と弱気じゃん」
「駄目なんだよ、あの魔法陣の中。凄い重力みたいなもんが全身に入ってくる。なのに、地面は減り込んでねぇんだよな。…生物に対して圧力掛かってんのかもしれない。俺みたいに魔法の耐性が無いのが入ったらそれこそ潰れてしまう」
「………」
そこまでなのか、とルイユは魔法陣の輝きを見上げる。内部で不気味な唸り声を放つ魔物は、ゆっくりと体を起こしている。
変に刺激しても良くない結果になりかねない。
自分達はこうして見ているしかないものか…と歯痒い気持ちに陥ってしまう。
「そういや、スティレンは何処で寝てんだろ」
すっかりもう一人の存在を忘れていたと言わんばかりにぼそりと呟いた。無事ならばいいのだが、あれから姿が見えないままだ。
「吹っ飛ばされてる時に体が何かで覆われてるのを見たけど…ちょっと探すか。ルイユ、お前はいい場所見つけて隠れておけ」
ヴェスカが先程の衝撃を受けて重く感じる体を立たせていると、不意に空から小さい物が回転しながら落ちてきた。
二人とは数メートル程度離れた左側の場所。地面に激しく、ビターンと打ちつけられる。
「…あぁ?何だこれ…」
比較的身動きが取れやすいルイユがその落下物に近付き、落ちた物を確認する。その後すぐに彼は「うわっ!!」と叫び声を上げた。
「何!?何だよ?」
「何か指みたいなのだ!怖ぇえええ!!何で!」
体毛に覆われた指先だと確認し、ルイユはヴェスカの元へ引っ込む。しばらく間を置いて、小柄な人影がそれを追う形で空から降りてきた。
砂煙を撒き散らし、駿馬のような両足を強く踏み締めながら綺麗に着地する。
「…くそ、ほんの少ししか斬れなかった」
不満気にボヤきながら、彼は双剣の柄を握り直した。
「はは…良かった、探す手間が省けたな」
どうやらスティレンは無事だったようだ。彼の姿を確認し、ヴェスカは苦笑する。
「何だお前かよ!」
まるで出て来てはいけないような言い方に、スティレンは不愉快そうに言い返した。
「はぁ?俺で悪かったね」
「あれ、お前がやったのか?」
落下してきた物体を指差しながら問う。
「ふん…本当は手首からぶった斬ってやりたかったんだけど。手が付けられない位暴れてくるからあれだけしか出来なかったよ…魔法陣の中に入りにくかったしさ」
そう言いながら、彼は斬り落とした指に近付くと左足で勢い良く踏み潰した。
ぐじゃ、と嫌な音と同時に血飛沫が舞う。それを見たルイユは思わず顔を顰めた。
「うわぁ…そこまでやる?引くわー、ドン引きだわー」
「再生するかもしれないでしょ。はぁ…汚い」
自ら踏み付けておきながら不満を漏らす彼に、じゃあ踏むなよと引き気味に突っ込んでしまった。
「副士長」
「おう。…やっぱ、お前もあの中には入り難いんだな」
「はい。数分は耐えられますが後は無理です。強力な磁場が発生しているみたいな感じで…」
そう言い終えると、彼は煌々と輝く魔法陣へ視線を向ける。
「ロシュ様をお守りする立場なのに、逆に頼らなければならないなんて」
手出し出来ないもどかしさと、本来の目的の一つであるにも関わらずロシュを護衛出来ないという矛盾にスティレンは苛立ちをそのまま漏らした。
気持ちは分からなくも無い。
ヴェスカは彼の心境を汲み取りながら、「こればっかりは仕方無い」と宥める。
「あの人にはあの人の考えがあるみたいだ。俺らはあの中には入れないから、経過を見守るしかねぇよ。この魔法陣が消えるような非常事態が起これば…そん時には動くぞ」
事の成り行きを見守るのも重要だ。
上官の言葉を大人しく聞いたスティレンは、「…はい」とだけ言葉を返した。
即席で鋲を作成出来るなら核も作れるのでは…というルイユの提案に、ロシュは「何故今までそれに気付かなかったのだろう」と呟きながら再び結界の中の魔物と対峙する。
魔法陣に捕らえられたままの獰猛極まり無い獣は、何故か左手を振り回しながら悶えている。
「………?」
暗がりで振り回している手の状態は確認出来なかった。どうなっているのか知る由もない。
恐らく、何かの拍子に手をぶつけたのだろう。
余程痛いのか、魔物はこちらの存在に気付いていない模様。
懐に潜り込むには絶好のチャンスと言って良い。
ロシュはなるべく悟られないように素早く魔物の胸元へ降りていく。
「(まあ、周りは暗いしすぐに気付かれたりはしないだろうけど…)」
降りる最中、ロシュは振り回している左手をちらりと見た。
仄暗い月の明かりで一瞬だけ、広げた手の指の一部…関節部分が綺麗に無くなっている。すっぱりと、刃物で一気に斬られたように。
何だあれは…と双眸を細めていると、胸元に掠めた僅かな風に気付いた魔物はロシュの体目掛け、空いていた右手を使い叩きつけてきた。
激しい風圧を頭上に受け、ロシュはすぐに振り下ろしてくる手の下から逃れる。
バチン!!と自らの胸を叩く音が響いた。魔物の体毛が風に乗り、ロシュの頰を掠めていく。
「ちっ…鈍臭そうに見えて随分反応が早い」
手慣れたように魔物の眼前まで移動すると、持っていた杖の下部を嘴目掛け強めに打ち込んだ。同時に、甲高い悲鳴がそこから発せられる。
ロシュは「ほう」と驚いた。
「神経が通っているんですね。なるほど」
そう言いながらも再び杖を打ち付けた。
苦悶の声を漏らして魔物が再びこちら目掛けて手を振り上げるのを見るや、反射的にロシュは軽く浮上し杖を横一文字に振るってそれを弾き飛ばす。
バキッ、と何かが折れる音が聞こえた。
「おやおや」
ロシュは溜息を吐きながら呆れた表情を見せる。
今まで以上に激しい抵抗の叫び声を聞きながら、「中は脆弱なのですね」と杖を軽く振るった。
…中身は体の大きさについて行けないままなのかもしれない。そう思えば、少し残酷な事をしてしまった。
「早々に対処しないと」
もしかすれば、自分で暴れている段階で体内に異常を感じていたのかもしれない。痛みを受け、更に注意力が散漫になっているうちに、ロシュは再び魔物の胸元付近へ移動する。
嘴の下の辺りまで進み、相手の目線が確実に届かない事をチェックする。体の構造上、長い嘴を持つ彼は喉元まで目線を送る事は不可能。
ある意味、この魔物が動けない限り一番安全だった。
ただ、とにかく声が煩いのを我慢出来ればの話だが。この間にも、真横にある喉元からは金切り声や唸り声が引っ切りなしに聞こえている。
「体内に何も無いなら何処でも同じか…」
本来なら、胸元に近い場所が妥当だろう。
臨時で核を作るなら、この際何処でも構わない。
一呼吸置いて、ロシュは魔法の詠唱を始めた。
魔法の力を使う際、一部を除いて魔力の粒子による輝きが発生してくる。何かを具現化させる際も例外ではない。
喉元付近で輝き、魔力による熱を感じた魔物は違和感にすぐに気付く。折れた右腕では無く、負傷した左手でロシュを払おうと試みるものの、魔法陣の影響を受けてまともに体が動けないようだ。
虚しく腕が宙を舞うのをちらりと見る。
「…ま、頃合いでしょう」
最初の頃と比べると、随分大人しくなってきたと思う。杖の先端から小さな球体を作り上げた後、ロシュはそれを引き抜いた。
核としては些か小振り過ぎるが、仕込みとしては上出来だ。魔力の熱を感じつつ、彼は自らの足元に居る大型の魔物を見下ろす。
同時に凄まじい声が喉元から溢れ出した。
「…あぁ、うるさい!黙るっていうのを知らないんですか!」
結界による締め付けが、ロシュが新たに発した魔力によって更なる強度を増したようだ。術者が作り上げた魔法陣内で、新たに同じ術者による他の魔力が発生すると、プラスの作用が働いて円陣の強度が更に増してしまう。
延々と苦痛を与えるのは司祭の立場としては褒められたものではない。
さっさと終わらせてやるのが救いだ。
彼は手にしていた魔力の塊を、魔物の喉元に当てると別の魔法の詠唱を開始した。
魔力の塊をロシュが魔物に宛てがっているのとほぼ同時刻、ルイユは困惑気味に「大丈夫なのかね…」と呟いていた。
自分の一言で彼は魔物の元に向かってしまったので、もし何かがあれば自分のせいになってしまう。その際には自分も魔物を叩いてやろうと思ったが、ヴェスカに武器を取られた事を不意に思い出した。
「ヴェスカ」
「んあ?」
「弓、返してくれよ」
「だからダメだって言っただろ…大体、元々あんたのじゃねえだろうがよ」
商売道具を捨てた方が悪いだろ…と口を尖らせたその時だ。
それまで暗かった周囲が一瞬光に包まれ、柔らかい風が吹き抜けていく。急激な輝きに包まれながら、三人は結界の方へゆっくりと目を向けた。
魔物の体内から大量の真っ赤な触手を思わせるものが噴射され、1ヶ所に吸収されていくのが見える。
吸収されていく赤い物の先には、丸い魔法壁に包まれた状態の人影があった。魔物は赤い何かを吹き出し続けるにつれ、その姿形をみるみる消化させていく。
「何が起きたんだ…?」
周囲を包んでいた輝きが少しずつ収まると同時に、結界もすうっと消え失せていった。
ルイユは大丈夫なのか?と疑問を抱きつつも、魔物が居た方へ走り出す。
「あっ!!何勝手に動いているのさこの馬鹿!」
「あいつ、跡形もねぇぞ!ロシュ様が片付けたんだろ、凄げぇな!」
警戒するというのを知らないのか、とスティレンがルイユを引き止めようとしたその時。
まだ吸収されていない赤い物体がするすると地面を這う。そして突如勢い良く上へ突き上げ、ルイユの胸元を直撃した。
「!!!」
…ドスン、という衝撃が胸から全身に伝わる。
何?と自らに起きた事に対して理解が追い付かずにいると、スティレンの声が飛んできた。
「何して…っ、だから言っただろ!!」
「ルイユ!!」
それまで調子良く動き回っていた彼は、突如湧いた不快感に膝を落とした。かはっ、と咳き込みながら胸元を押さえ込む。
ヴェスカはルイユの元へ駆け付けると、腕に抱えながら「大丈夫か」と問い掛けた。
不思議な事に、血は出ていない。しかし突き刺された胸からは痛みと熱、そして息苦しさを感じる。
「あー…やっべ、体あっつい…ごめん、お前ら。俺、死ぬかもしれねぇ」
「縁起でも無い事を言ってんじゃないよ!」
叱りつけるスティレンの声を聞きながら、ルイユは自らの無鉄砲な行為に後悔した。
今更後悔しても遅い。…まさか、こんなに大事になっていくとは思わなかったのだ。
本来ならば普通に飲み食いをして、普通に帰るつもりだったのに。
「リシェの顔が見てぇな…」
ここで思い描くのは無表情で、全く可愛げの無い剣士の事。怒りっぽくて女みたいで、でも頼れる存在。
守りたいと思っているのに、これじゃあな…と自分の不甲斐無さに呆れた。
全身が熱に支配されるのと同時に、目の前がボヤけて真っ赤になっていく。
薄れていく意識の真っ只中、ルイユはこちらに近付いてくる足音を耳にする。その足音はロシュだと思ったものの、彼は完全に力尽きてしまった。
似た性格の為なのか、僅かでも一緒に生活していて流石に嫌気が差したのだろう。サキトが譲歩の姿勢を見せたとしても、完全に裏があると実感したのか冗談じゃないと突っぱねていた。
色々な事があったが、シャンクレイス側も満足しての帰還の日を迎える事が出来たので、司聖補佐のオーギュはホッと胸を撫で下ろす。彼らには沢山のお土産を持たせ、最後まで安全を確認しながらの見送りとなった。
別れの間際に、サキトは今度はこっちにも遊びに来てよねとロシュに言い残して。
「とりあえず無事に終わって良かった。それにしても、サキト様は天真爛漫なお方でしたね」
司聖の塔で溜まっていた仕事を選別しながら、オーギュは一言呟いた。ロシュが発注していたオーギュ用の書斎机がようやく届いたので、目線を同じくしながら仕事に取り掛かる事が出来る。新品特有の光沢を放つ大きな机を初めて目の当たりにしたオーギュは、何もここまで立派な物を用意しなくてもと遠慮がちに言っていたが非常に気に入った様子だ。
今まで仕事に使っていた大きなソファの上には、ファブロスがどっかりと獣の姿で寝そべっている。それでも体がはみ出してしまうので、うまい具合にリラックス出来る体勢になっていた。
「普段は年相応の振る舞いをするのに、いざとなったら王子としての風格を漂わせる。不思議なお方でしたよ。個人的には普段のサキト様の方が自然体という感じで好きですねぇ」
「ふふ、護衛の方々も大変そうでしたけどね」
サキトに振り回されているようにも見えたものの、彼を守る剣士達も個性があり過ぎるが故に調和が保たれているような印象を受けた。堅苦しさも無く、まだ居たいと我儘を言うサキトに対し「いいからさっさと馬車に入って下さい」と普通に言い放つアーダルヴェルトを思い出す。
ここまで突っ込んで言わないと彼の護衛は務まらないのだろう。
「お茶を淹れましょうか」
時計塔の針を遠目で確認し、オーギュが椅子から立ち上がった。
以前より短くなった髪型のせいで、まだ慣れないロシュは一瞬誰だろうと思ってしまうが少し時間が経過すると自分の相棒だという事に気付く。
ええっと…と一瞬ぼんやりした後、ロシュはハッと我に返った。
「あぁ、そうだ…どうにも今までと違う髪型なのでふとした瞬間にあなたが誰だったのか忘れてしまうのです」
それまで肩位の長さが、いきなりショートになってしまうとやはり脳内の処理が追いつかないらしい。それはロシュに限らず他の者もそうだった。
オーギュはそんな彼の素直な発言にふっと微笑む。
「気分転換もいいものだ。他の人をこうして騙せるみたいでね」
ティーポットを引っ張り、茶葉の選別をしながら冗談を言った。
「そりゃ…ファブロスもびっくりしたでしょう」
常にソファに居た主人の分、広々と寛いでいたファブロスは顔をゆっくり上げると眠たげに一瞬こちらを見た。
『ふんん…?』
どうやらうたた寝をしていたようだ。一瞬反応したかと思えば、また頭を下げて寝息を立て始めていく。
「おや。お邪魔をしてしまったようですね」
「暖かいから眠気が湧いてくるのでしょう」
こぽこぽと湯の沸く音も心地よく室内に響いてくる。
「少し休憩を取りましょう。多少休んでまた少し作業しますか」
ここ数日、目まぐるしい事が起き過ぎた。
疲労も蓄積しているので、少しは手を緩めてもいいだろう。オーギュはそう言うと、真新しい茶葉をポットに入れた後にお茶菓子の用意を始めていた。
アストレーゼン大聖堂、宮廷剣士兵舎内。
相変わらずの男所帯さながら、清掃もろくに行き届かない粗雑な雰囲気の中でデスクワークに励む副士長のヴェスカは一通の嘆願書に目を通した後、その内容に眉を寄せていた。
「嘆願書って直接兵舎に来るもんだっけ?」
「あ?」
事務作業をしていた剣士は、彼の言葉を聞いて首を傾げていた。
「普通は大聖堂側に行ってからじゃねえの?そもそも嘆願書ってもんは大聖堂経由で司聖様の所に行くもんだろ」
「あ…やっべぇ。普通に開いちゃったよ…」
「馬鹿!ちゃんと確認しろって士長からも口を酸っぱくして言われてただろ!」
稀に手違いで大聖堂ではなく兵舎に送られてくる荷物や書簡が紛れ込んでしまう時がある。兵舎に届けられる物品の類は宛先をしっかり確認してからようやく中身の検閲に入るのだが、まだ慣れないヴェスカは完全に自分の物のように開封していた。
やっちまった、と悪びれもせずにケロッとして頰をぽりぽりと掻く。
「どうすんだよそれ…嘆願書っていう位だからロシュ様向けだろぉ…」
最上位への書簡を何の遠慮も無く開けてしまうという重大なやらかしに、対応する剣士は深刻そうな顔を剥き出しにしていた。
「…まぁ、仕方無ぇな。俺が責任持って向こうに届けて来る」
やってしまった事は仕方無い。ヴェスカは問題の書簡を手にしたまま立ち上がった。
「うわっ、暗っ!!…あぁ、そっか。お前ガタイはめちゃくちゃいいからな…」
椅子に座っている時は気にならないが、彼が立ち上がると身長の高さもありそこだけ窓からの明かりが遮られ変な威圧感を与えてしまう。ちょうど彼の影に居た剣士は急に目の前が真っ暗になったので驚いてしまったらしい。
「へへへ、俺の美丈夫っぷりが良く分かるだろ?」
別に褒めた訳では無い。
相手の男は呆れながら溜息を吐いた。
「いいからさっさと行って来いよ。この件が士長にバレたら激怒されるぞ。運が良かったな。士長が遠征に行ってて」
「…まぁ、確かに。士長は怒るとめっちゃ怖いからなぁ…とりあえずオーギュ様に面会のお願いするかぁ…」
いずれにしろ別の意味で怖い相手に会う羽目になってしまうが、長い付き合いなのでまだ我慢出来る。…というより、この所全く会っていないので顔を見たいのが正直な所だった。
「ヴェスカ」
「んあ?」
兵舎の扉を開こうとしていたヴェスカの背中に、剣士仲間が声を掛ける。彼はそれに反応し、くるりと振り返った。
「嘆願書の内容は何て?」
「何だ、結局知りてぇのか?」
「どうせ嘆願書の類の大半は宮廷剣士の管轄扱いだろ。いずれ知る事になるんじゃねぇのか?」
大聖堂へ書簡が渡り、司聖側が検閲するのが決まりだが、内容によっては宮廷剣士側で賄える事柄と判断された後、司聖からの命として兵舎に下りて来る。今回ヴェスカが開封してしまった書簡は一般的な封書に入っていた為、何の疑問も無く目を通してしまい同僚に怒られてしまうという状況に至っている。
これが仮に最重要書類となれば封筒の素材自体が違った物になり、ぱっと見ただけでも大聖堂行きの物だと判断出来るようになっていた。
今回開封した物は、恐らく宮廷剣士側に指令として下りて来る案件の物だろう。
「あー」
ヴェスカは手の中の封書に目線を落とした。
「何か、司聖様の名を騙る偽物が横行しているってよ。ロシュ様が大好きなリシェが聞いたらガチ切れしそうな案件だわ」
「へぇ…よくまぁアストレーゼン内で即バレしそうな事をするもんだなぁ」
「ま、行って来るわ」
彼はそう言い残し、古びた扉を開けて兵舎を後にした。
兵舎から階段を降り切り、大聖堂に繋がる境界線を跨げば一気に人々の流れが激しい街へと変化する。
アストレーゼン大聖堂、城下街商業区。
遥か昔に城主制が撤廃され、城下という名前を冠しているのは誰しもが疑問を抱くが、生活している民は幼い頃から城下街という名称で定着しているのでそのまま地名として使われている。
一時、名称を変更したらどうかという話もあったものの、結局人々が昔から慣れ親しんだ名前で呼んだ方が分かりやすいという意見が多く、この名前で呼んでいるようだ。
「先輩の買い物ってほとんど研ぎ石とか専用の油とかですねぇ」
旅人や大聖堂への観光客、または巡礼する者が足繁く行き交う街の中を、かっちりとした宮廷剣士の制服姿で闊歩する少年二人。
「久し振りに砥いだら石の具合が良く無くてな。古くなってたし、そのまま使うのも逆に悪くなりそうで」
「うーん…先輩、もうちょっと色気のあるものが欲しがってもいいんじゃないですか?」
リシェの買い物に、何故かラスもくっついていた。
「色気って…」
具体的にどのようなものなのかさっぱり分からないリシェは、ラスの発言をぼんやりした様子で呟く。そもそも平和な学生生活を蹴ってまで窮屈な宮廷剣士の道へ進んだラスと、未来がまるで見えない環境に置かれ、そこに嫌気が差して着の身着のまま脱出してようやく進路を見出したリシェとは感覚がまるで違う。
まだお互い年若いものの、ラスから見る街の景色は興味深い物に満ち溢れているが、逆にリシェは彼とは対照的で賑やかな街並みや真新しい品物などには興味が無い。若者が目移りしてしまうような華やかな物には一切食指が伸びないのだ。
興味があるとすれば剣の手入れ道具や魔道具、薬草などの類。
これだけ人々の目線を惹きつけるだけの美貌を持っているというのに、それを引き立てるような事に関してはどうでもいいらしい。
「普段着とか新しいのを買いたいとか…そういうのは一切無いんですか?何だか勿体無いなぁって」
「何枚かあれば別に…」
こうしている間にも、行き交う通行人達はリシェの姿を見ると振り返り、声を上げたりしていた。かなり人の目を惹きつける美少年の姿にも関わらず、常に無表情という珍しいタイプの為なのだろう。
…自分の恋人だったら、相当自慢になるんだけどなぁ。
ラスは彼らの目線の集中砲火を受けるリシェの隣でぼやいた。
「あんまり欲が無いのも先輩のいい所なんですけどね…」
「…研ぎ石の欲はあるぞ。次に買う物はちょっと品質の高い物にしようと思っている」
「…そ、そうですか…」
自分の事に関しては無頓着だというのは良く知っているが、ここまでだとは流石に思わなかった。彼の従兄弟であるスティレンは自分の事だけに関しては一切の手抜きなどしないのに。
「あった。ここだ」
武具の専門店の入口手前で足を止め、リシェは店舗を見上げる。
古い建物だが、老舗特有の大きな佇まいをしていた。狩りを生業とする者や旅人、更に護身用の武器を求めに巡礼者などが店へ出入りを繰り返している。
アストレーゼン全域に展開している武具専門店なだけあり、個々に合わせた様々な武具や防具、または手入れ用の道具や修理用の部品なども幅広く取り揃えており冒険者達のニーズにしっかり寄り添っていた。
ラスは「ほあぁ…」と店全体を見上げる。過去に何度か足を運んだ事はあるものの、買い物を頼まれた程度で目的の物を購入してすぐ出ていた程度なので改めて店の全体像を眺める事は無かった。
武器は支給された剣のみで、これといって自分に合う物を探した事は無い。
「俺は中に入るがお前はどうする?」
「い、行きますよ…先輩を一人にさせるのはどうかと思うし」
ここでリシェを一人にさせたら、彼に変な輩がくっついてくるかもしれない。それは困る。
「折角だから自分の合いそうなのを探すのもいいぞ。お前、体術とか習ってたって言ってたじゃないか」
「少しだけ齧った位ですよ…それに、宮廷剣士の稽古なんて剣主体じゃないですか」
「士長クラスになれば剣だけじゃなく他のも同じように使いこなせなきゃならないらしい。ヴェスカは剣の他に斧も使えるし」
「俺はそこまで上に行きたいとは思わないですよ」
「そうなのか」
リシェは軽く頭を傾けると「誰でも上に行きたい訳じゃないんだな」と不思議そうに呟く。
「そりゃ…宮廷剣士になれば安定はするでしょうけど。俺は単に先輩と一緒にいられたらいいなって位の気持ちだったし…」
素直過ぎるラスを前に、リシェは目を丸くする。
「…変な奴だ」
相手の気持ちは良く知ってはいたが、自分は彼の気持ちに応える事は出来ない。それは前にも伝えてはいたが、ラスはまだ諦めてはいないようだ。
「研ぎ石の種類って結構あるんですか?」
「ん?…あぁ、あるぞ。あまり安いのは研いでも少し荒削りになってしまうんだ。丁寧にやったとしても何処かで引っ掛かりが出たりする。なるべくそうならないように丁寧に気を付けているけど…」
「へぇ…この機会に色々見てみようかなぁ」
リシェが興味を持つ物だから少しばかり気になったようだ。しかし手入れの仕方も今まで力を込めてやった事が無かったので、この機会に考え方も改めた方がいいかもしれない。
そして興味を持てば持った分、会話の数も増えるだろう。
「じゃ、先輩。いい石を見繕って下さいよ。ちゃんとした手入れのやり方とかも…」
「いいぞ。興味を持つ事はいい事だからな」
それとなく紡いだ言葉を受け、リシェが食いついて来た。
ラスは心がぽうっと暖かくなった気がして、嬉しそうに笑顔を見せる。
「やった」
「外でずっと待っているよりは、店にどういった物があるのか見てみる方が余程いいからな。中に入るぞ」
二人は出入りの多い店の中へと吸い込まれるように入って行った。
司聖の塔に職員から直接面会希望の知らせを聞いたオーギュは、それまでの仕事を一旦止めてロシュに断りを入れた後で大聖堂の中にある面会室へ向かっていた。
すっかり軽くなった頭の状態で受ける風は非常に心地が良く、もっと早い段階で切っておけば良かったなと思わずにはいられない。
中庭へ抜けた後、いつものように様々な人種がひしめき合う大聖堂の奥へと進んでいく。
所々に強化ガラスを張った天井から降り注ぐ日の光によって周辺は非常に明るく、大聖堂の厳格な雰囲気を和らげていた。老朽化による雨漏りの対策によって真新しいガラスを嵌め込んでいるものの、枠自体が古い為に根本的に解決しなければならない事案も発生している。
少しずつではあるが、大聖堂そのものの改装計画も進んでいた。
面会用の個室の前まで辿り着いた後、敷地内の手前で軽い手続きを済ませる。セキュリティの関係上、手前の事務局で話を通さなければその先に進む事が出来ない決まりとなっていた。
窓口の職員はオーギュの姿を確認すると、勢い良く事務用の椅子からガタンと立ち上がる。
職員は赤ら顔で、鼻の中心にやたらとそばかすが目立つ、どこか特徴的な男だ。オーギュが声を掛ける前までは退屈そうに何らかの書類を捲っていた。ここの事務局は特に多忙な部署では無いのだろう。
「オーギュ様!」
「こんにちは。私に対して面会希望の方がいらっしゃるとの事で、話がそちらに入っていると聞いたのですが…」
「あっ…ええっと、あぁ!ありましたありました。緊急面会の扱いですよ。一般の人ですけど、お知り合いの方ですか?文字があまりにもあれで…」
そう言い、彼はオーギュに一枚の面会希望の書類を手渡した。
「………」
一通り書面を見通した後、オーギュは「あぁ」と口を開く。
この特徴的な文字は見覚えがある。いかにも文字を書かないと言わんばかりの殴り書きのような文字だ。
「知ってます、知ってます。この下手過ぎる文字の持ち主。…また何の用事でわざわざ…」
溜息混じりにそう言うと、職員に「どの部屋に?」と問い掛けた。
指定された個室の扉の前に立ち、一息置いてからノックするとすぐに返事が聞こえた。
嫌でも聞き慣れた声。それと同時に、まだ開けてもいない扉がガバッと開かれる。
「………っ!!」
眼前には屈強の褐色の肌をした大男。
うわっ、と叫ぶ余裕も無く、腕を思いっきり掴まれ引っ張られ、あっという間に体が室内に持っていかれてしまった。
「ちょっ…!!」
バタンと扉の閉まる音が響く。顔を上げた瞬間、きつく抱き締められる。
「重い…っ!!何をするんですか!」
「んんんんぁああ…久し振りだからついさぁ…!!」
特注の宮廷剣士の制服のまま、司聖補佐に対する物凄い無礼な行動。側から見れば大問題である。
どうにか離れようともがくものの、相手の力が強力過ぎてなかなか腕すら解けない。まるで自分の感触をひたすら堪能する為に延々とくっついてくる様子だ。
「まさかこの為だけに緊急で面会の希望を出したんじゃないでしょうね!?だとしたら帰りますよ!!」
その言葉に、ヴェスカはぴたりと動きを止めた。
「違うよぉ」
ようやくお互い顔を見合わせる。
そしてオーギュの雰囲気が違う事に、今頃気が付いた。
「あっれ…髪切ったんだ?」
「………」
無言のまま、オーギュは両腕を伸ばしヴェスカから身を引いた。
「雨が降ると湿気やら何やらで鬱陶しかったのでね…」
「ほあぁ…随分と雰囲気が違ってくるもんだ」
そう言いながらヴェスカはオーギュの短い髪を軽く摘んだ。
「いいじゃんか。似合う似合う」
今まで長い髪の印象しかなかった為だろう。それでもじろじろ見てくる彼に、オーギュは「私の事はいいでしょう」と突っぱねる。
「何か御用があったんじゃないですか」
「あ?…あぁ、そうだった。兵舎に届いた嘆願書なんだけどさぁ…俺、間違って開けちゃったんだよ」
「おや…そうだったんですか」
ヴェスカは胸ポケットに突っ込んでいた封書を取り出すと、そのままオーギュに手渡す。
「確認しないでそのまま開けちゃったからまずいなって思って。他の奴が持って行くのも悪いし、責任持って俺が持って来たんだ」
「あなたが開けたのだからあなたが持って来るのは当然でしょうからね。…なるほど。確かに受け取りました」
用件はこれで終了ですね、と例の如く話を切り上げようとするオーギュは、受け取った封書を法衣に入れると新調した眼鏡を直しながら「では」とドアノブに手を掛けた。
「はぁああ!?これで帰るのかよ!」
あまりの早さに、ヴェスカは思わず声を上げてしまう。
折角久し振りに再会出来たのに、ものの数分で別れるのはあんまりではないかと思ったようだ。
「他に何かありますか?」
淡白過ぎるオーギュを前に、ヴェスカは拗ねた顔を見せる。
「もうちょっとさぁ…何か話とか無い訳ぇ…?」
「………」
こっちはまだ仕事の最中だというのに、とオーギュは無表情のままヴェスカを見上げた。彼もまた、仕事の最中のはずだ。
「副士長はもっと忙しいと思ったんですけどね」
「た、多少は余裕が無いと駄目だろ…」
そんな意地悪言わなくても、と更に拗ねる。
一体いつ位から顔を合わせてないと思ってるんだよ、と。
そんな拗ねる様子に根負けしたのか、オーギュは一息吐いた後で室内に備えていた椅子の背を引き座席に腰を下ろした。
「オーギュ様」
「…私より年上の癖に、おかしな所で子供みたいなんですから」
「はは、我儘も言ってみるもんだ。でもさ、すぐに帰っちゃうなんて寂しいだろ?」
我儘に付き合ってくれるオーギュと向かい合うような形で、テーブルを隔ててヴェスカも席に座った。
「中身確認してみたら?」
「え?…あぁ、嘆願書の中身ね…」
「ある意味見逃せない内容だとは思うぞ。何しろ、偽物が横行しているらしいっていう話だからな」
偽物…?とオーギュは目尻を強張らせた。受け取った封書を改めて引き出し、中身を確認していく。ある程度読み終えると同時に、やや不愉快そうに表情を変化させた。
「な?」
「今までも似たような者は出て来てはいましたけど…ここで特定の人物を名乗って名声を得ようとしているとは、随分大胆な事をしていますね」
「誰かに憧れるのは悪い事じゃないけどさ。なりきってしまうのはあまりにもね…ロシュ様の代役を作り上げた後で取り巻きが讃えてやれば、信じる奴は信じる。しかも善行を見せつけてやれば尚更ね。何が目的なのかはさっぱり分からないけど、このまま放置するのもどうかって話だ。何らかのトラブルに巻き込まれでもしたらそれこそ問題になるんじゃないのか」
「…流石にこのアストレーゼン内だとロシュ様の顔は皆知っていると思いますけど。あれだけ目立つ顔をしているのですから」
中身はどうあれ、ロシュの顔や姿は一際目立つ。
それは城下街の人間なら、ロシュがどのような外見をしているのかは十分過ぎる程に熟知しているはず。
その見目の麗しさから憧れる者も少なくないのだから。
「姿はどうあれ、顔なんて隠しておけばいくらでも誤魔化せるだろ。それが見慣れた城下街の人間じゃなくて、郊外の田舎暮らしをしてる人間ならどうよ?案外見慣れない分、コロっと騙されるぞ。取り巻きがこのお方はロシュ様です、今はちょっとした遠征なのでこの事はご内密にって言えば、あぁそうなんですねって信じるだろ」
…確かに。
ヴェスカの発言に、オーギュは考え込んだ。ロシュの顔を普段から見ない環境に居る者やそれ程興味が無い者、またはあちこちを放浪する旅人などはその地域に関する知識には見向きもしなさそうだ。
それに目の前で遭遇したトラブルに合った際に親切に手を差し伸べられたりすれば、否応無しに信用してしまうだろう。
その相手が素性を騙ったとしても。
「…一応ご本人のお耳にも入れておきます」
「そうするといい。今の所は際立って変な動きは無いみたいだけど、この国の司聖の名前を名乗るのは流石に大胆過ぎるからな。警戒するに越した事は無い」
「そうですね。…まあ、良い事をして下さるだけならまだいいんですけど…」
変な動きだけはして欲しくはない。ロシュの名を名乗る以上は他者の救いや助けになる行いをして貰わなければ困る。
「善行をするのはいいかもしれないけどよ。自分の名前じゃなくて、人様の使う段階でアウトだろ」
「…まぁ、そうですね」
中身を確認後に封筒に入れ、胸ポケットへ再び突っ込んだ。
「ご丁寧に報告有難うございます。この件はしっかりとロシュ様にも伝えますよ」
「…もう帰るの?」
話は終わったと言わんばかりにオーギュが椅子から立ち上がると、また寂しそうな顔をオーギュに向けるヴェスカ。
「………」
何なんだ、と言葉を詰まらせる。
「ゆっくり世間話をするような時間はあまり無いんですよ。これでもまだ仕事中だったんですから…」
「俺もそうだったんだよ」
「ならあなたも戻った方がいいじゃないですか」
お互いやる事が残っているはずだ。休暇ならまだしも、今は悠長に話をする暇などは無い。
ヴェスカも椅子から立ち上がると、向かい合うオーギュに「久し振りに会ったのに用だけですぐ解散するのってどうなのよ?」と渋った。
「私はあなたからの緊急の面会に応じただけですよ。個人的な話をする為に来た訳ではありません。あなたもそのつもりだったのではないですか?」
「そりゃそうだけど」
少しは自分の為に時間を割いて欲しい、というのをヴェスカはぐっと堪えていた。彼には彼の立場もあるし、やるべき事が山積みなのは分かっている。
それでも、だ。
召喚獣であるファブロスは常にオーギュの真近に居る事が出来るが、自分はそうはいかないのだ。この機会を設けなければ、特別遠征でない限りは彼の姿を見る事は出来ない。
我儘を言っているのは分かってはいるが、このまま離れるのも癪だった。
「折角会えたのに。全然会って無かったんだぞ…それなのにあんたは用が終わればさっさと帰れって言うのかよ」
いじける大男を前に、オーギュは顔を僅かばかり歪めてしまった。
面倒臭い…そう思わずにはいられない。
こいつはここまで面倒なタイプだったのか、と。
「…あなたは今までお付き合いしていた相手にも似たような事を言ってきたんですか?」
確か、ヴェスカは一人っ子だったか。
一括りにするのはどうかとは思うが、ちょっとした甘えたがりな性質があるのかもしれない。
「…いいや?」
オーギュのそれとなく放った質問にヴェスカは眉を寄せながら顔を上げる。
「…何で?」
「物凄く面倒臭いタイプだと思って。それまでお付き合いしてきた相手にも甘えて、延々と引き留めて来たのかなと」
「俺がこうして粘ってんのはあんたが初めてだけど」
「………」
普通の会話のようにケロッとして喋る相手に対し、オーギュは動揺より変なむず痒さを感じずにはいられなかった。
引き止めても無駄に時間が掛かるというのに。
「てか、鈍感にも程があるだろ。散々アピってるのに。まさかまだ冗談だと思ってんのか?」
「常に冗談ばかり飛ばしてる癖に何を言うんですか」
それは自分のせいだと思う。
…ここでまた足止めを食らって、一体何の話をすればいいのか。単に好きだ嫌いだの話をするなら本当に勘弁して欲しい。
しばらく無言の時間が流れていく。何分間の無言を経て、ようやく一言だけヴェスカは口にした。
「オーギュ様、一緒に暮らさねぇ?」
「はっ??」
話がいきなり跳躍し、頭の中で理解するのに時間が掛かっていた。オーギュはようやく彼の言いたい事を吸収すると、思わず変な声を上げてしまう。
親密な付き合いをそこまでしていない。むしろ相手が勝手に思っているだけで、こちらは容認したつもりはない。そのような関係の間柄にすらなっていないと思う。
それなのにいきなり一緒に暮らさないか、とは。
「だってその方が一緒に居られるじゃん」
「…それはあなたの都合でしょう!」
「あんたの都合に合わせたらいつまで経っても会いたい時に会えないだろ」
「話が飛び過ぎです。そこまで深入りした関係でも無いのに」
埒が開かない、とオーギュは振り払うかのように席から離れて部屋を出ようと動く。
しかしヴェスカもそれに続いてオーギュを追い、彼が室外に出るのを阻止するかのように背後から音を立てて扉を押さえた。背後のヴェスカの影に覆われる形になったオーギュは、思わず苛立って「いい加減にして下さい!」と振り返る。
「あんたもいい加減にしろよ。これだけ好きだって言ってんのにずっと無視しやがって」
「無視って…」
逃げ場が限られた状況に、オーギュは嫌な予感をその身に感じてしまう。このままではまた懺悔室と似たような状況になるのではないかと。
息が詰まりそうになるのを我慢していると、今度は心臓の音が高鳴っていくのを感じる。
息を出来るだけ潜めて動じない風を装い、頭の中で思考していると、ヴェスカの手が自分の顎に掛かるのを感じた。
「……っ!」
反射的に顔を逸らしてしまう。
オーギュのその動きに、ヴェスカはハッとした。
「…俺が怖い?」
「………」
「そっか。まぁ、仕方無ぇか」
少し落胆したようにヴェスカは苦笑いした。成り行きとはいえ、酷い事をしたのは自分でも分かっている。
ここぞとばかりに恥ずかしい事をさせてしまったのだから無理も無い。最高位の立場の人間を下級の人間が辱めるという行為に非常に興奮してしまい、思わず行き過ぎてしまった。
謝っても決して許される事ではないのだ。表向きは何も無いように振る舞っているが、何処かで引っ掛かるのだろう。
好意を言い訳に使いたくないが、やってしまった事は到底許される事ではない。
「…いいよ。もう行って」
一緒に居る事で抑えが効かなくなるのも困る。
ゆっくり体を離し、ヴェスカはオーギュに告げた。オーギュはゆっくりと彼を見上げると「…私は」と口を開いた。
「別に怖くないですよ、あなたの事は」
「…体の反応が完全に真逆じゃねえか」
嘘吐け、とヴェスカは拗ねる。
「あんた、俺に悪戯されるかもしれないって思ってる?」
「あなたが私の立場でもそう思うのでは?」
「………」
そう言われれば返す言葉が無かった。それまで鬱屈していた物が徐々に収縮し、ヴェスカは態度を軟化させて「ごめん」と謝った。そこまで警戒するか?と思ったが、深く思い起こせば彼と関わるようになって間もない頃にも悪い悪戯をしていたのを思い出してしまう。
酔っ払って介抱された時に悪戯をして怒られた記憶が蘇り、少し血の気が引いてしまった。
…うわ…結構酷いな、俺。めちゃくちゃ下衆じゃん。
そう思うと、変に恥ずかしくなってしまった。顔が紅潮していくのを感じながらついオーギュから顔を逸らす。
「…どうしました?」
「いや…何だか自分が恥ずかしくなって。てか、いいよ戻っても。これ以上俺に何かされたくないだろ」
「急に冷静になりましたね」
何か変な事をするつもりはないのを悟ったのか、オーギュは警戒を解いていった。
「自分が惚れた相手に嫌われる事はしたくねぇよ」
「…本気で言ってるんですか?」
「またそんな…あんたは何回耳に入れたら分かるんだ?これが嘘だと思う?この間にも俺はあんたをまた抱きたくて抱きたくて、めちゃくちゃ体が疼いてんだぞ。だから早く帰れっつってんのに」
欲に忠実なヴェスカらしい言い方だが、やはり品が無さすぎる。
それしか言いようがないのか、とオーギュは溜息を漏らした。
仮に彼が望むように一緒に暮らすようになったとなれば、ここぞとばかりに見境なく襲ってきそうな気がする。
その上にファブロスまで居るとなれば…と思った瞬間、全身がゾワッとした。冗談じゃない…と血の気が引く。
「ではお言葉に甘えてお先に失礼しますよ」
長居してもお互いの為にならないだろう。
「オーギュ様」
「?」
「また面会しに来てもいい?あんたの顔を見に」
そう言ったヴェスカの表情はまるで親と離れる子供のようにも見えて、一瞬戸惑いそうになる。
だが少なからず好意を持ってくれるのは悪い事ではない。オーギュはふっと笑みを溢し、「ええ」と答えた。
「構いませんよ。ただ繁忙期もあるのでお断りする事もありますけど、それでも良ければ」
「いいよ。それなら別の余裕のある時に言うわ。それでも駄目ならまた次に申請する」
めげない姿勢のヴェスカに、オーギュは一瞬目を丸くした。その後すぐ、ふっと吹き出す。
「懲りないタイプなんですね」
「そりゃそうだろ、そうでもしなきゃなかなか顔を合わせられねぇんだから」
遠征の任務があれば話は別だが。
その際には、他の誰よりも優先で自分に護衛役を充てて欲しいと思う位、ヴェスカはオーギュと一緒に居たいと思っていた。
「…では、私はこれで」
「あぁ。さっき渡した手紙の内容、把握しておけよ」
「ええ。ありがとうございます」
…大きな問題に広がらなければいいのだが。
僅かな物事でも、ある瞬間をきっかけに大きく広がってしまう可能性もある。そうなってしまえば、手遅れになるかもしれない。
司聖の偽物が存在するという看過出来ない内容は、しっかりと大聖堂側…ロシュ本人も把握する必要があるのだ。
「しっかりとロシュ様にも報告させて貰いますね」
オーギュは副士長の言葉に軽く頷いた後、先に面会室を後にした。
時間が経過する度に人々の流れも増えていく。
一通り買い物を終え、満足そうな顔のリシェはラスと共に紙袋の中を確認しながら店外へ出た。
「ああ、良かった。目的の物は無かったけど代わりにいい物が買えた」
「良かったですね、先輩」
ラスもリシェの見立てで専用の研ぎ石を購入し、いつもより多く会話出来た事に満足している。またこの機会があればリシェと外出してみたい。
「ところで、どうします?この後…他に買いたい物があったら付き合いますよ」
ほくほく顔のリシェに、ラスは続けた。
このまま帰るのも何だか寂しい気がした。折角の二人っきりの外出なので、何か美味しい物を食べに行きたいと思ってしまう。
「そうだな…お前はどこか行きたい所があるのか?俺だけの買い物に付き合わせるのも悪いし」
「え、俺に付き合ってくれるんです?」
まだ一緒に居たい感情を押し込んでいたラスは、リシェの発言にぱあっと顔を明るくした。
恐らくお互い出会って間もない頃の彼は、用事が終われば真っ先に大聖堂に戻ると言っていただろう。付き合いが長くなるにつれて、リシェの性格も解れてきたのだと思うと嬉しくなった。
「…何がおかしい?」
嬉しさで思わずニヤけるラスを、リシェは不思議そうに首を傾げて見上げる。
「何でもないですよ」
単に嬉しいだけです、と続けた。
「?」
「じゃあ先輩、これからご飯食べに行きましょうよ。街の中には沢山良さそうな店があるんですよ。先輩はあまり知らなさそうだから」
妙に小馬鹿にされた気がしたが、リシェは「そうか」と返す。
確かに、自分はラスが言うように城下の事は詳しくない。城下に来ても、周辺の人気店などには目もくれず用事が済めばすぐに大聖堂に戻ってしまう。
同行する相手がヴェスカだと、彼の方が詳しいので彼任せになるのだ。
「先輩はもうちょっと見聞を広げた方が良いですよ。後から来たスティレンの方が街に関して詳しくなってきましたから」
「…あいつは派手好きなんだ。兵舎だけの暮らしには我慢出来ない性格なんだから」
「まぁ、そうなんですけど…先輩と従兄弟同士とは思えないですよね…」
「あれは特殊なタイプだ。俺だけじゃなくて他人と比較するだけ無駄だと思うぞ」
「あぁ…」
確かに、と変に納得してしまう。
スティレンは自分史上主義な性格の持ち主だ。ここまで特殊な人間はまず見ない。
「ううん…どうしようかなぁ。折角一緒なんだからいい所に連れて行きたいですね」
何を食べようかと思案中のラスと、行き交う人の流れをぼんやり眺めているリシェの耳にある会話が飛び込んできた。
「…司聖様がお忍びで来ているらしいぞ!」
「中央公園に居るって話だ。この機会にお姿を見ておかないと。有難い事だ」
バタバタと走り去って行く巡礼者が二人の前を通過していった。彼らの後ろ姿を目で追うラスは、首を傾げながら隣のリシェに問う。
「ロシュ様がお忍びって…お忍びって言う位なら先輩が護衛に就くはずですよね…」
「………」
リシェはラスを見上げた。
その表情は不快そうにも見受けられる。一番近くに居る自分を無視して、ロシュが単独で外出するはずはないと思っているのだ。
だとすれば、彼の名を騙る偽物が居るという事になる。
「俺はロシュ様が今日内密で城下に行くっていう話は全然聞いていない。どんな奴が公園に居るのか見てみたい」
ロシュのお膝元と言えるアストレーゼン内で、彼の名を騙る大胆な人間が存在するとは、とリシェは舌打ちした。ラスは彼の真っ当な反応に「先輩はそう言うだろうと思った」と苦笑する。
「でも仮にその相手を見かけたとしても、いきなり尋問するのはやめた方がいいです。何か悪い事をしていれば話は別ですけど…案外、ロシュ様に憧れるあまりつい名前を借りてしまったってのもあるかもしれませんし」
「…名を騙るだけでも俺は許し難いんだがな」
そう言いながら、リシェはギリギリと内側から溢れそうな怒りを押さえ込んでいた。自分の敬愛する相手の名前を勝手に使われるのは個人的に我慢ならないようだ。
だが今の所はその相手が何を目的として騙っているのか分からない状態だ。迂闊に手出しは出来ないだろう。
「まぁまぁ…落ち着いて、先輩。とりあえず行ってみましょうよ。中央公園でしたっけ?実際に見てみないと分からないですし」
苛立つリシェを優しく宥め、ラスは先程巡礼者が言っていた中央公園の方を指差した。ロシュが居るという話を聞きつけたのか、他の巡礼者や重装備をしている旅人の姿も公園の方向へ足早に向かっているのが見える。
「偽物だったらしょっ引いてもいいんじゃないのか」
「先輩は見かけによらず血の気が多いですね…」
二人は人々が行き交う足音や、大通りを走る馬車の蹄、車輪の音を聞きながら公園へ続く道を急いだ。
公園へ繋がる煉瓦造りの路面を進み、客馬車の進行を妨げぬよう気を付けながら敷地内へと進む。アストレーゼンの中心部にある事から、比較的大きなこの公園は住民の姿も多く、ちょうど良い散歩コースにもなっていた。
緑の数も多く、道もしっかりと整備されており、恋人同士や家族連れでピクニックをする者も良く見掛ける。子供達の笑い声が所々で聞こえ、更に流浪の大道芸人も自らの芸を見せるべく賑やかな音楽を鳴らし人々の視線を引きつけようとしていた。
リシェは公園内を見回す。
「そのロシュ様というのは一体何処に居るんだ…」
「公園内は広いですからね。もしかしたら目立つ場所に居るのかもしれませんよ」
音楽の鳴り響く園内を確認しながら進んでいく。
「露店商が居る場所とか人が居そうですね。ほら、ああいう場所って主に旅をする人が休憩がてらに良く集まるだろうし。あそこ、主にアストレーゼンの名物の食べ物とか取り扱ってるから、露店だと手頃に食べられて結構重宝されるんですよ」
「詳しいなお前」
意外に詳細を言ってくれるラスを、リシェは頼もしそうに褒める。
ラスは大好きな相手からの褒め言葉に少しばかり照れた顔をし、頭を軽く掻いた。
「良く学校の帰りとか寄ってたし…帰り道とかに寄ると、それとなく来る人間のタイプって分かってくるもんですよ」
「そんなものなのか」
そこまで他人の動きや姿に興味が持てない性質のリシェはあまり理解出来ないらしい。
「じゃあその辺に居る客層を注意深く見てみようかな…」
「結構面白いですよ。逆に露店に近寄らないのは家族連れの人ですかね。物々しい武装をした人が多いから、やっぱ雰囲気的に近寄り難いって思うのかもしれないです。むしろその人達は広い公園の方を選びますから」
「へえ…」
なるほど…と呟いている間、二人は露店が連なるエリアへと足を踏み入れていた。露店は軽食だけではなく、旅に役立つ必需品や護身用の小型の武具なども取り揃えられており道行く人々の目を賑わせている。
時折、空腹に訴えかけてくるような香ばしい香りが鼻を突いてくるのが悩ましい。
「さて…何処に居るのかな」
ラスは周囲を見回しながら呟いた。一方のリシェは、自分の内側から湧き出す怒りを抑え込みながら「一体どんな奴なんだろう」と鼻息荒くしている。
似ている雰囲気ならばまだ許せるが、如何にも胡散臭いのは頂けない。全く別人なのは分かりきっているのだから、せめて多少は似せようとする努力はして欲しいものだと思う。
「うんん…?」
きょろきょろと探していたラスは、ある一定の場所に目を向けた。武装した者や白い法衣姿の者が多数固まっている事から、もしかして…と眉を寄せる。
「先輩、向こう見てみましょう。何だか固まってる感じがしますし」
ラスが声を掛けると、リシェは顔を上げてその指定された方向を見た。そしてよし、と一言言うとまるで意気込むように数歩進み始める。
「ロシュ様を騙る偽物だったら即声を掛けてやるからな。ご本人になり変わって注目を浴びようとするとは大胆不敵な行為だ。万死に値する」
鼻息荒くしながら苛立つリシェ。
「そ、そこまでですか…?」
万死に値する、まで言うとは。
司聖ロシュに心の底から心酔している彼だからこそそう思うのだろうが、あまりにも大袈裟過ぎる。
「行くぞ、ラス。偽物を騙る不届き者が一体どんな顔をしているのかその顔面を見ておかないと」
意気込むリシェを先頭に、その集団の中へと近付く。
塊に近付く毎に、人々の声が耳に入ってきた。その声は不自然さを感じさせるかのような褒め言葉や感嘆の溜息が聞こえてきた。
不自然さ、というのはやはり偽物だと知っているリシェだからこそ感じ取れるのかもしれない。
周囲の崇め方や羨望の声が嘘臭い、と思えてしまうようだ。
「まさかこんな街中にいらっしゃるとはねえ」
「あぁ、有難い事だ」
「我々にもご利益があるかな?」
集まる人々の声を聞き、ラスは隣で様子を確認しているリシェをそっと見下ろす。
「先輩」
「…どうやらお前が言っていた通りだ」
ちっ、と舌打ちして親指を噛むリシェは苛立ちの顔を見せる。来い、とラスを促し人々を掻き分け、集団の中心部へ強引に進んでいくとようやくその姿形が見えてくる。
ギャラリーの中心に居る三人の男達…その姿は一見旅人風の装備を身に着けていて、見た限りではリシェやラスには見た事も無い者ばかり。
全員顔は半分以上布で隠され、素性を見せない努力をしているのが分かる。そしてロシュの名を名乗っている者は真っ白い法衣を身に付けていかにも司祭という雰囲気を見せてはいるが、用心しているのか目元も薄いベールで隠していた。
「あぁ、これは駄目なあれじゃないですか…」
ラスはあからさまに違う事が分かり、小さく呆れた声を上げた。ロシュと名乗る者を囲う二人の男達も全く見た事も無い人間だ。
むしろ誰なのかと聞きたくなってくる。
ただ、この衆人監視の最中で偽物と断言して騒ぎを起こすのも本意ではない。どうやって話を切り出せばいいものか、と悩んだ。
「有難い。まさかこのような場所でロシュ様を拝見出来るとはね」
「大聖堂からわざわざ民間の場所にまでお越し下さるなんて、好感度が高まる。こうして民衆の願いをお聞き下さっているのだろう」
その本人の顔は完全に隠れているので表情は全く窺い知る事は出来ない。偽物だと自覚しているからこそ、そのベールの中は見せる事は出来ないのだろう。
逆に見せない事によって、更に神聖さを上げているのかもしれない。
「…どうします?先輩」
こうしている間にも、三人組の周りを何も知らない人々が囲んでいく。出来るだけ近くに寄ろうとしていても、忽ち遠くの人になってしまった。
リシェはラスの腕を引っ張り、更に彼らの近くへと進む。
このままロシュの名を利用して良い気分にさせるのは非常に癪だ。事を出来るだけ荒立てないように、彼らが何故騙っているのかを聞いてみたかった。
「わ、わ!先輩、転ぶ…!」
強引に腕を引かれる形になり、思わずラスは声を上げた。
…本人より取り巻きに話をした方がいいのかもしれない。
ラスを引っ張って民衆の波を再び掻い潜り、どうにか帯同している付き人の一人の前へ出る事が出来た。
偽物のロシュとは違い、付き人は地味な色の衣服を身に纏っている。見た感じでは魔導師の法衣に付け加える形で、所々に鉄製の防具を装着していた。
稀にこのように部分的に甲冑の部品を装備する旅人も居るが、装備としてはかなり甘い方である。軽量化を図る部分では最良かもしれないが、いざとなった際に身を守り切れるかは疑問だ。
土埃の跡も散見する事から、放浪している雰囲気ではあった。
リシェは意を決し、目の前の男に声を掛ける。
「失礼。お伺いしたい事があります。お耳を拝借しても?」
「…ん?どうしましたか?」
取り巻きのその男はリシェの声に反応し、軽く身を屈んで彼の目線に沿った。
誰にも聞かれないような小声で、リシェはそっと相手に耳打ちする。
その様子を、同行しているラスは静観していた。
しばらくして、相手の男はバツが悪そうな表情を浮かべる。恐らくリシェはこのまま司聖の名を断りもなく利用する事に苦言を呈したのだろう。
リシェが話し終えた後、彼はロシュに扮する司祭姿の男にそっと何かを囁いているのが見えた。
司祭はリシェにベール越しに目を向けた後、軽く礼をする。
「皆様、私達はこれで失礼致します」
その声はとても穏やかな声で、偉い司祭だと言われても何ら疑問を抱かない程礼節に満ちた声だった。何も知らない者は、彼がロシュだと説明されれば納得してしまうかもしれない。
リシェは黙って彼を監視するように見上げていた。
民衆への態度はどうあれ、司聖ロシュの名を騙る事は許し難い所業。何を思ってそのような行為をしていたのか尋問したい所だが、このまま変な動きをしなければ不問にしようと思っていた。
「もっとロシュ様からお話を聞いてみたいのに」
「残念だのう…」
「司聖様のご加護がありますように」
名残惜しそうな人々の波を掻き分けるようにして三人はその場から立ち去って行く。同時に、溜まっていた人々も各々分散していった。
散って行く人々が少なくなるのを見越してから、ラスは「先輩」と声を掛ける。
リシェはラスを見上げ「何だ?」と聞いた。
「あの人らに何を言ったんです?」
忠告なのは何となく分かったが、意外にすぐ去って行ったなと思った。
「単に俺の素性を伝えただけだ。司聖公認の専属の白騎士だとな。何が目的でロシュ様の名を利用しているのか知らないが、このまま身分を詐称していると大聖堂に通告するって伝えたんだ」
「ははぁ…意外に素直に言う事を聞いてくれましたねぇ。結構俺らの年齢って宮廷剣士でも小馬鹿にされやすいから、反論してくるかなって思ったんですけど」
ラスが言うように、まだ十代の剣士は珍しいので大抵は軽くあしらわれる事が多かった。例え若くても実力は大したものではないはず、と低く見られがちなのだ。
このアストレーゼン内に於いて司聖公認の若い専属騎士の存在は大聖堂側からの公式の通達によって、城下街の民には十分知れ渡っている。顔を知らずとも、専属騎士リシェの存在は十分熟知されていた。
そして、その専属の騎士を知らない者は外部からの来訪者に限られていく。
「向こうは騙しているって自覚があるんだろう。単に目立ちたいだけだったのかもしれないがここでやるのは考えが浅過ぎる。仮に俺が居なくとも、ロシュ様の名を騙っていると巡回している宮廷剣士や警備員達に目を付けられるだろうよ」
「なるほど…まあ、このアストレーゼンの街で公言するのは流石に怖いもの知らずだよなあ…」
住民が避けやすく、旅人が集いやすいこの公園のエリアの一部をを利用して集客するのは賢い方法かもしれない。だが、大聖堂の職員の目に付いてしまうとは思いも寄らなかっただろう。
ただ、ロシュに一番近いリシェが直接忠告する事によって、恐らく彼らは変な動きはしないはず。
「騒ぎを起こさないとは思うが…一応、報告だけはしておいた方がいいかもしれないな」
リシェはそう呟くと、例の三人組が去っていった方向に目を向けていた。
城下街から戻ったリシェは、すぐに司聖の塔へ寄り道もせず帰還していた。あの後軽くラスと軽食を済ませ、特別その他の予定も無くそのまま解散という流れになったが、ラスはまだ一緒に居たいのにと軽くごねてきた。
彼は翌日は早朝勤務なので早めに休んだ方がいいと説得するものの、どうしても離れたくなかった様子で「もう戻るんですか」と子供みたいに拗ねられてしまう。
じゃあまた買い物があったら呼んで欲しいと条件を提示されて事無きを得たが、面倒な奴だと内心呆れてしまった。
こうして無事に戻る事が出来た彼は、塔へ戻ると同時にロシュの私室へと足を踏み入れる。扉を開くと紅茶の爽やかな香りが漂い、それと同時に開かれた窓からの外気が全身を撫でていった。
「お帰りなさい、リシェ。城下は楽しかったですか?」
愛するリシェの姿を見るなり、ロシュはにっこりと柔らかな笑顔で出迎えてきた。一方のリシェも、彼の笑顔を見る事で心が安らいでいく。
やはり自分にはロシュの存在が必要なのだと実感した。
「只今戻りました、ロシュ様。いつも通りの賑やかさでした」
まだ仕事中のオーギュも、真新しい書斎机からこちらに目線を注ぐ。彼の机上はロシュとは違い、大量の書物や書類が沢山積み重なっていた。
「その顔はいい買い物をしてきた様子ですね」
「はい、オーギュ様。とてもいい研ぎ石を買う事が出来ました」
その言葉に、カーペットで悠々と寝そべっていたファブロスは『研ぎ石…』と意味深に呟く。若者が進んで買う代物では無いと思ったのかもしれない。
むしろ好んで拘りの研ぎ石を求める若者はリシェしか居ないのではないだろうか。
「城下街も色んなお店が次々と出てきますからね。流行りも入れ替わりが激しいでしょう。今日はどなたかとご一緒だったのですか?」
「そうですね…途中でラスが付いてきました」
「ほう…それはそれは。同じような年頃なら、話も合いそうですからね。あなたはもっと同年代の子と一緒に居る機会を持った方がいい」
常に大人の世界の中に居過ぎるのも本人の為にはならない。
たまには年相応の相手と接する事もリシェにとって必要だ。
オーギュの話を聞きながら、リシェは軽く手を洗う為に流し場へ向かった。
時刻は夕方近くになっていて、空も次第に深いオレンジ色に染まりつつある。ロシュとオーギュの作業もそろそろ終盤を迎えていた。
『んおっ!?』
突如ファブロスが声を上げると同時に、何かがドサドサと床に落下する音が室内に響く。何事かと思ったロシュとリシェはほぼ同時にその方向に目を向けた。
「あっ…すみません、ファブロス」
どうやら机上に置かれていた書類を取ろうとしたオーギュの手が別の場所にぶつかり、その拍子に数冊の書物がすぐ下で寛いでいたファブロスの頭に直撃したようだ。
『…オーギュ!!お前は毎度毎度机の上に本を置き過ぎだ!これまで何度私が忠告したと思っているのだ!』
どうやら日常茶飯事らしい。
「必要な資料なんですよ」
まだ真新しい机の為か、机上を整頓する道具が揃っていない状態なので無造作に置きがちになっているようだ。それはそれで仕方が無いとは思うが、ファブロスはまだ何か文句を言いたげに顔を主人に向ける。
『自分の部屋ですら大量の蔵書を積みがちだというのに、ここでそれをやったらとんでもない事になるぞ』
「流石にロシュ様のお部屋でそれはやりませんって…」
ファブロスに注意されているオーギュというのも非常に珍しい光景だった。
「おやぁ…こりゃ珍しい。あまり怒られる姿を見た事が無いから凄く新鮮ですねぇ」
「近くに資料や参考書物があった方が効率的なんですよ。終わったら片付けますし」
ぱっと見ると乱雑に置かれているようにしか思えなかったが、これも彼なりの作業のやり方なのだろう。
それでも、一緒に居るファブロスには乱雑に置いているようにしか見えないようだ。
落下した書類や書物をリシェが拾い上げ、オーギュの机に置く。風で飛ばされないように別の書物で重りを乗せていると、日中にあった出来事を不意に思い出した。
「オーギュ様」
「ありがとうございます…ん?どうしましたか?」
「お伝えしたい事があったんだ」
ファブロスはオーギュの机からやや離れ、書物が落ちても影響の無い場所で改めて座り直すと再び瞼を閉じる。
「城下街で司聖様とその関係者を名乗る者達に遭遇しました」
「おや…」
「中央公園の露店エリアで集客して、人々の注目を集めていただけですが個人的に看過する訳にはいかなかったので声掛けをしました。この先何か問題が起きないとは限らないので報告だけでもと」
その報告を受け、オーギュはロシュと顔を見合わせた。
「結構知れ渡っているんですねぇ」
困った風にロシュは呟いていた。リシェはきょとんとした顔で彼に目を向けると、「ご存知だったんですか?」と問う。
オーギュは天井を仰ぎ見た後、知るも何も…と一言口にした。
「ちょうどその件に関してヴェスカから報告を受けたばかりですよ。本物を騙る者の存在はこれまで何度か聞いていたので。これまで何パターンの司聖が出て来た事か」
何パターン、という発言から、これが初めてでは無い模様。
「ヴェスカから聞いていたんですか?」
「間違って大聖堂宛ての封書を開けてしまったのでわざわざ届けに来てくれたんですよ」
確認もせずに何勝手に開封しているんだ…とリシェは心の中で突っ込んでいた。
大雑把な彼の事だ。どうせろくに確認もせず勢い良く開封して初めて気が付いたのだろう。
「そうだったんですね…でも把握していたのなら良かった」
「名乗っているだけで他の方々に害を及ぼさなければこちらからは何も言う事は無いですけど」
同感だと言わんばかりにリシェは頷いていたが、個人的にはロシュの名前を勝手に利用するのは気に入らない。
これで何かしら余計な問題が発生したらロシュの威光にも影響が出てしまう。許されるならば引っ捕えて、好き勝手に人様の名を名乗るなと口煩く叱咤してやりたい。
幸い、偽の一行は正体を見せぬよう目元は隠していたとしても、姿は頭の中に明確に記憶させている。良からぬ事が発生したらすぐに捕らえる事は可能のはず。
「一応俺の身分を明かした上で忠告だけはしておきました。これで多少は抑止になればいいんですけど…」
「ふ…あなたはロシュ様の事に関しては非常に敏感ですからね。冷静に対処しておきながら内心は怒っていたのではないですか?」
オーギュの指摘に、リシェは図星を刺されたかのようにぐっと一瞬詰まった。そりゃ…と彼はふいっと目線を下方に落とす。
「悪用されたりしたら困るし」
「ロシュ様にとってはとても嬉しい反応でしょうね」
そう言いながら、オーギュはちらりとロシュに目を向ける。
ロシュは苦笑いを交え、仕方ありませんねと一息吐いた。
「これ以上偽物が城下に出現しないように警戒も必要になってきたようですね。大聖堂からの報せとして、偽物が出現している旨の注意喚起の伝達をしておきましょう」
このアストレーゼンの司聖は明確に一人だけだ。
住民達は十分に熟知している事でそれほど問題視していなかったツケが回ってきたのだろう。この機会にロシュ本人に化けて恩恵を与ろうとしている輩に釘を打たなければならない。
リシェはオーギュのその発言に対して最もだと言わんばかりにこくりと頷く。
「それがいいと思います。不敬な輩には罰則も必要です」
何かあってからでは遅いですから、と不愉快さを剥き出しにしていた。
大聖堂から城下街の住民達への連絡手段は、週に一度の頻度で行われ、大半は街中の掲示板での告知が主体となっている。
臨時の際には緊急で紙面を作成し、掲示板用に大量に刷った後で大聖堂に近い宮廷剣士の手によりアストレーゼンの街中の掲示板に貼り付けていた。
「…何でこの俺がチラシ貼りなんて地味な作業をしなきゃいけないのさ!」
いい具合にその当番に当たってしまったスティレンは、大量の告知を手にしたままリシェに言う。決して彼だけその仕事に当たった訳では無いのだが、手間のかかる作業がとにかく嫌う為に不満を吐き出していた。
リシェは「文句を言うな」と切り捨てる。
「他の任務より楽だろう。それとも虫駆除やトレーニングの方がいいのか?」
「ふん、どっちも俺向きじゃないじゃないか!」
スティレン程、清々しく我儘な人間も居ないだろう。
わざわざシャンクレイスを出てまでこの仕事に就いたのか、目的を失いかけているのではないかと彼に対し呆れそうになる。
「なら黙って貼りに行け」
「俺に命令しないでよ!」
リシェも同じように刷りたてのチラシの束を手にしていた。
「指示しなきゃお前は動かないだろ…」
「大体何?このチラシ貼りの任務、俺とお前だけなの?何枚あると思ってるのさ、街中の掲示板なんて把握出来てないんだけど!」
しかも紙重いし、と口を尖らせる。結局スティレンは何をするにも文句しか言わない。
リシェはそれも十分理解していた。むしろ、言う相手が自分しか居ないから散々文句を言ってくる節がある。
「ちゃんと地図も持って来たし、貼れる場所も決まってるからそこまで苦労しないぞ。散歩だと思えばいい。これで仕事の時間も稼げるんだから別にいいじゃないか」
身近に居るリシェは、彼のやりたい事が何となく分かっていた。面倒な作業や体力を無くす類の事はしたくない、汗をかく仕事も嫌う。
では一体何がしたいのかと思えば、自分が際立って注目される事がしたいと言い出す。
「はぁ…チラシを貼り付けるだけとか、俺に似合わな過ぎる作業じゃないさ…」
そんなものがあってたまるか、と口を酸っぱくして言うが本人には伝わっている様子は無かった。これほどまでに我儘な人間が果たしてこの世に存在するのだろうか。
「お前は何をしにアストレーゼンに来たんだ」
不毛な会話をするのも飽きてきた。
リシェは自分に割り当てられた紙の束を持ち直しながら、「じゃあ手分けして貼っていくぞ」と我儘な従兄弟を促す。
渋々束を抱え、スティレンはリシェから手渡された地図に目線を向けるとうんざりしたように溜息を吐いた。
地図はアストレーゼンの城下街の全域が描かれていて、赤い印が所々に付けられている。どうやらリシェが掲示板の場所を他の剣士に教わり、目印として記入してきたようだ。
「てかさぁ…絶対余るでしょ、このチラシの束。掲示板の数も限られてんのに。余ったらどうするのさ?」
「余ったら観光客や旅人が足を運びやすい店に置いて貰えるように頼みに行く。専用の道具屋や魔導具の店、酒場とか…これまでもこういった知らせは置いて貰っていたみたいだから、簡単に受け入れてくれるはずだ」
「えぇええ…」
掲示板に貼り付けるだけじゃないのかとげんなりした。
作業がいちいち長い。
「とりあえず街の掲示板に貼る事から始めないと。あらかじめ俺が地図に印を付けた場所に貼り付けてこい。手分けしたらそれだけ早く作業が終わるはずだから。終わったら今居る場所で落ち合うぞ」
有無を言わさぬようなリシェの言葉に、スティレンは諦めたのか分かったよ!と不貞腐れ、吐き捨てるように返す。
「やればいいんでしょ、やれば!」
「ああ、やれ。じゃあ俺はこっちから行ってくるから。間違っても数ヶ所スルーとかは無しにしろ」
「………」
何だよ偉そうにとスティレンは忌々しげに遠ざかるリシェの背中を見送った後、手にしているチラシの束を見下ろした。
そしてはぁ…と溜息を吐く。
重みで落ちないように頑丈な布製のトートバッグの中に入っているが、多めに印刷したのかかなりの厚みがある。早く終わらせないと紙の重さで肩が凝りそうだ。
体に負荷がかかり、体型が崩れてしまうのを嫌がる為か何度もバッグを持ち直す。
…とりあえずこの紙の束を減らさなければ意味が無い。
受け取った地図を広げながら、不満げな表情で近くの掲示板の位置を確認した後で彼もリシェと同じくその場から一旦離れた。
そもそも、たかが偽物程度が出現したからといってお触れを作成して注意喚起までするとは大袈裟なのではないか、とスティレンは思う。ある意味このアストレーゼンでは司聖の顔は広まっているのに、自分こそが本物の司聖だと街中で言い回るなどとは狂人の類だ。
巡回する関係者が黙ってはいないはずなのだから。
…それだけ司聖の名を騙る不届き者が多いという事か。
「あぁ、だっる。さっさと終わらせよ…」
掲示板の場所が記載されている地図を手に、スティレンは足取り重く歩き始めた。
城下街に設置されている掲示板は風雨で汚されないように鍵付きのケースに入れて施錠するタイプのもので、第三者が勝手に開けられないように管理されている。
大聖堂からの知らせを主にしている為に製作するにもそれなりに時間を要する上、コストも掛かるので設置台数はそこまで多くは無かった。広い城下街の中で小分けされた地区毎に一つのみ設置という具合で、置かれている台数も限られている。
なので、そこまで悲観的にならない程度の手間では無い。
ただ、掲示板の位置が高台にあるならば話は別だ。
…掲示物を貼り始めて数時間経過した頃だろうか。ようやくもう少しで終わりそうだと思いながら、アストレーゼンの高級住宅地であるラントイエ地区へ足を伸ばしていたスティレンは、ただでさえ長い坂道でうんざりしていた。
「…くそっ、何で金持ちって高い所に家を建てたがるのかね!?」
あまりにも長い坂道にうんざりし、思わず心の声が口を突いて出てしまった。しかし故郷シャンクレイスの彼の自宅も、れっきとした高台に位置している事についてはすっかり頭から飛んでいるらしい。
ある程度貼り終わったとはいえ、残された掲示物はまだ重みがある。それを持ったまま長い坂道を上がるのは流石にキツかった。しかも高級住宅地特有なのか、その道ですらも小綺麗な雰囲気だ。
道の両側は等間隔に街路樹や花壇が設置され、目立ったゴミも何一つ見つからない。専用の清掃員が常駐しているのか、非常に綺麗な場所だ。これまで辿ってきた道を見回すと城下街が一挙に一望出来る。
今まで見た事の無かったアストレーゼンの景色に、スティレンは一瞬不満だらけだった脳内が一掃されてしまった。
「………」
以前司聖の塔のリシェの部屋から一望出来た城下街とはまた違った景色が目の前に広がっている。あの場とは違い、今ここで見ている景色は決して遠くはなく、かといって近い訳でもない。
身近に感じられる街の中だからこそ、この高台から見える景色は非常に美しく見えた。
「ここに居る奴らは毎日この景色を見てられる訳だ…」
金持ちがこの地区に家を建てたがる気持ちが良く分かる。
見栄もあるだろうが、この城下街全域を見渡せるのは大層気持ちがいいだろう。
しばらく景色を眺めていたその時、車輪の音を響かせながら馬車が登っていく。その音でスティレンは我に返った。
さっさと貼りに行かなきゃ、と現実に戻り前を向く。
「だっる…」
まだ続く坂道にうんざりしていると、自分の横を通り過ぎた豪奢な馬車が止まった。その馬車は馬二頭を前に据え、金色の縁取りされた大きく頑丈なキャリッジからしてかなりの財力を持つ持ち主だと窺い知る事が出来る。
何で止まった?と怪訝そうな顔をしていると、前方の馬車の小窓がぱかっと開かれる。
「おぉおお、誰かと思ったらスティレンじゃねーか!久し振りだなお前!何してんだ?」
「………」
華美な馬車から顔を出すあどけない顔の少年の顔を見た瞬間、スティレンは非常に嫌そうな表情を彼に向けていた。
掲示物を貼り終えたリシェは集合場所に再び姿を見せたスティレンに向け、怪訝そうな顔で「何でそいつがくっついてきたんだ?」と問い掛ける。
一方のスティレンは心底不愉快そうな表情を見せながら知らないよとぶっきら棒に返していた。
彼の隣には満面の笑みでリシェに挨拶をするルイユの姿。
「よう、リシェ!相変わらず成長しねーな!」
いちいち一言が余計だ。美少女と見紛いそうな顔を曇らせ、リシェはルイユに問い掛ける。
「何でここに居る?」
スティレンが側に居るにせよ、家からの護衛も無いままで何故この城下街に居るのだろうか。一応いい所のお坊ちゃんなのに。
「家に帰ろうとしたらさぁ、こいつが荷物持って必死こいて坂道上がってやがるから声かけたんだよぉ。会うの久し振りだったしな!んでちょうど俺も暇だったから着いてきた!ほんと、お前とそっくりだよなー」
「言葉悪っ…」
横でルイユの話を聞いていたスティレンは、あまりの品のない言葉遣いに思わず引いてしまう。これでアストレーゼンの貴族階級の一員なのだから驚きだ。
リシェも脱力しながら彼の話を聞いていた。
「家の人に許可は取ったのか?」
「あー、大丈夫だよ。同行してた奴に伝えておいたし。リシェの世話も頼んでおいたからさ!」
「…リシェの世話?どういう事?」
話が見えてこない様子のスティレンはルイユに問うと、彼は無邪気な顔で見上げて「おう」と笑った。
「犬飼ってんだよ。可愛いんだ、リシェって名前なんだよ!凄い懐いてくれるんだぞー、リシェにも見習って欲しいもんだよな、なっ!リシェ!」
その瞬間、スティレンは勢い良く噴き出してしまった。
逆にリシェは不快感たっぷりに舌打ちする。飼い犬と同じ名前にされてしまった事にかなり抵抗があるようだ。
「お前、犬の名前にされてるの?んっふ…!」
「………」
何がそんなにおかしいのだろうか。苛立つリシェをお構いなしに、ルイユは話を続けた。変わらずマイペースな性格のようだ。
「何のチラシ貼ってるんだって思ったら、ロシュ様の偽物が出てるっていうあれじゃん?」
「…定期的に出てくるらしいけどな」
「ほー」
リシェは残ったチラシを抱え直すと、改めて辺りを見回す。
「後は余った物を街の店に置いて貰えるように頼んでこないと…協力してくれる店もチェックしてるから置きに行くぞ」
その発言を受け、スティレンは「えぇえええ」とうんざりしたような叫びを上げた。流石に疲れ果てたらしい。
勾配の激しいラントイエ地区まで足を伸ばして掲示物を貼りに行ってきたのだから無理もないが。
「俺疲れたんだけど!?」
ここまで馬鹿正直に自分の意見を通そうとするのは羨ましい。
リシェは仕方無いなと言わんばかりに一息吐くと、我儘なスティレンを見上げた。
「…じゃあお前の残りをよこせ。俺が配っていくから。後はお前の好きにしろ。ついでにルイユの子守りも任せる」
配布する任務の途中では流石にルイユは連れて行けない。変に寄り道されたりしたらそれはそれで面倒な事になってしまう。
スティレンはリシェの言葉を聞いた後、隣に居るルイユに目を向けた。ルイユは小生意気そうな顔をスティレンの方へ向けた後、満面の笑みを返す。
「は!?俺が子守りだって!?」
当然だろとリシェは呆れた。ルイユのようないい所のお坊ちゃんをあちこち連れ回す訳にはいかない。中には物騒な物を扱う店にも入るのだ。
後で変な問題が起こったら大変な事になってしまう…というよりは、むしろルイユが自ら問題を起こす方なので余計心配だった。それがあるので出来るだけ顔を合わせたく無かったのだが、勝手に着いてきてしまったのだからどうしようもない。
「なぁリシェ。俺、子守りっていう年じゃねえと思うけど」
「そんな事はどうでもいい」
言い方に不満があったのか、ルイユは頰を膨らませてリシェに訴える。しかしリシェに軽くあしらわれ、変にムキになって反論した。
「よくねーよ!俺より背が低いくせに!」
「身長は関係無いだろう!お前も立場っていうものを考えろ!何かあったら俺達じゃ責任が取れないんだぞ!いいから黙ってスティレンの傍に居ろ!」
「…終わったらここに戻るのかよ?」
怒られた事でややふくれっ面だが、ようやくリシェの言いたい事を理解したらしい。
「…てか、俺はこのまま大聖堂に戻るつもりだけどさ。あんた…ルイユだっけ?どうするのさ?一緒に大聖堂に行くつもり?」
単に城下街の中を遊び回りたくて着いて来たならば困る。
こちらは一応仕事の真っ最中なのだ。遊びに出て来た訳ではない。
「あー?ロシュ様の所に行くって言っておいたから別に大聖堂に行ってもいいぞ。俺は」
「は…そこの所は用意周到なんだね」
「どこに行くのかって言っておかないとクラウスがうるさいからな!」
妙に自信満々だが、当然の事なのだ。
「クラ…?」
クラウスと会った事の無いスティレンは、怪訝そうな面持ちでルイユを見る。
「俺の家の執事みたいな奴だよ。いちいちうるせーんだよなぁ、俺はもう十四だっていうのに子供扱いして」
普段から口煩く行動について言われているのだろう。彼は専属の世話役の事を思い出して表情を曇らせてしまう。
口煩く言われるのはそれなりの経過があっての事だと思うが。
「十四だって?十分子供じゃないさ…」
「お前だって似たようなもんだろ!リシェと大して変わんねーと思うけど?」
知り合って間もない相手にお前と呼ばれ、自分の感情に素直なスティレンは「生意気過ぎない?」と眉を寄せてしまった。どう考えても貴族階級の人間の放つ言葉だとは思えない。
「ちょっとリシェ。お前が居ない間ずっとこれの面倒見なきゃいけないの?」
人をこれ呼ばわりする彼も大概だと思うが、リシェは普通に「そうだ」と返した。ルイユの性格に耐性が付いたのか、彼はそこまで気にしていない様子だ。
「そのまま大聖堂に戻ってもいいぞ。俺は用事を済ませないといけないからな」
そろそろ紙の重さが辛くなってきた。
スティレンの分を足した紙の重みは、確実にリシェの体力を奪いつつある。
「じゃあ、俺はこのまま頼みに行くから。お前達は好きにしろ」
ずっしりとしたバッグを抱え直し、リシェはその場から離れようとした。剣士の割には非常に華奢な体格のせいで、重荷に負けそうな雰囲気を醸し出している。
「好きにって…お前は終わったらどうするのさ?」
「そのまま戻る」
えぇ…と困惑する間も無く、リシェは二人を残してさっさと立ち去ってしまった。
残されたスティレンは「マジかよ…」とうんざりする。軽く城下街を散策してから戻ろうと微かに考えていたのに、ここで計画があっさりと崩されるとは。
こんな事なら普通に配布物を店舗に置く作業をすれば良かったのかもしれない、と今更後悔した。
「どこ行くー?」
その傍で、呑気にルイユはスティレンに話し掛けてくる。
「…あのねぇ。俺らは別に遊びに来てる訳じゃないんだけど?てか、大聖堂に行っても特にする事無くない?」
「家に戻っても特にする事無いからなー」
「あんたの年頃じゃする事が沢山あるでしょ…むしろお作法とか学び直したら?言葉遣いに品がなさ過ぎてびっくりするよ」
思った事をハッキリ言うだけスティレンは親切な方かもしれない。ここまで言葉の使い方がおかしいまま成長してきたお坊ちゃんには、使用人も素直に意見を言えないのだろう。
ルイユはスティレンの言葉に「そうかぁ?」と首を傾げる。
「上流階級に生まれたからには俺のように気品のある紳士にならないと。教養をしっかり身に着けておかないと後で苦労すると思うよ」
いつものように自画自賛を交えて語るスティレン。リシェが相手ならば完全にスルーされる内容だ。だが、それまで交流が薄かったルイユにはそれが斬新だったらしくプフーと顔を歪ませて噴き出される。
笑われた事に不快感を覚えたスティレンは「何がおかしいのさ?」と苛立った。
「前も思ったけど凄げぇな!どんだけ自分大好きなんだよ!」
「はぁ?」
「いやー、いいよいいよ。スティレンはそうでなくちゃ。俺、面白いの大好き」
「………」
何だこいつ…と引き気味になっていると、ルイユはスティレンの背中をばしばしと叩きだす。いきなりの衝撃についバランスを崩してしまいそうになり、何なのさ!と怒鳴った。
距離感が余りにも近過ぎる。
「俺、腹減ったからどっか食いに行こ!その位の時間はあるだろ?休憩してもいいんじゃねーの?」
単にどこかに行きたいだけじゃないか…とスティレンは思ったが、確かにひたすら掲示板にチラシを貼る作業ばかりで休憩らしい休憩も取っていない。
歩き回っていて喉が渇いている。
「自分で頼んだものはちゃんと払えるんだろうね?」
「んあ?払ってもいいけどさ」
「いいけどさって…まさか俺に集る気だった訳?」
「子供から金取る気か?大人としてどうよそれ?」
少し前に自ら子供扱いするな的な事を発言していたような気がする。
「…さっきと言ってる事が違ってない?都合の悪い事はすぐ忘れるタイプなの、あんたは?」
「んあ?物事は使い分けするのがいいんだよ」
このクソガキ…と内心舌打ちする。何も考えてなさそうに見えて、非常にずる賢いのだろう。
親の顔を見てみたいものだ。
「スティレンはリシェと大して年変わらないんだろ?」
「ふん…あいつよりは年上だけど?」
「へぇ…同じくらいかと思った」
「一歳だけ上だね」
一歳程度で変に偉そうな感じが否めないが、リシェよりは大人という事かとルイユは「へぇ~」と唸った。
「じゃ、どっか食いに行こうぜ」
「いいけど、自分の食い扶持位は自分で払ってよね。お屋敷のお坊ちゃんが乞食とか恥ずかしいじゃないさ。どこそこのご子息が他人に集ってたって噂になりたいなら話は別だけど」
自分のは出せるが他人の食事の分を払うなんて御免だ。
先に言っておかないと後ですっぽかされてしまう可能性も無くはない。それに、自分で払ってもいいという発言までしているのだ。
流石にそれ位のお小遣いは持っているはず。
ルイユはやや不満そうに顔を曇らせるが「分かったよ」と承諾した。
その日の分の仕事を完遂したヴェスカは、未だ慣れぬデスクワークによる疲れを振り払うように体を伸ばす。
「あぁああ…首きっつ…」
度々体を伸ばしているものの、長時間机に張り付くのは辛い。豪快にあくびをすると、ようやく椅子から立ち上がった。
その近くでまだ雑務を消化していた宮廷剣士長のゼルエはヴェスカが完成させた書類に目を通した後、「ふむ…」と声を漏らす。
作成した書類を点検するのも上官の仕事の一部だった。
「ちゃんと書類を書けるようになったな」
「そりゃ…見る人間が全員見辛いって言われちゃ慎重にもなりますよ…書く方はキツいけどさ」
文字を綺麗に書くという概念の無いヴェスカの努力が実ったのか、最近は書類作成に気を使う様子が記載された文面で分かるようだ。
ゼルエは数枚の書類に目を通し終えた後でそれが普通だと苦笑いする。
「書いた書類がことごとく解読不能で返送されてきたんだ。いい大人なんだから相手方に分かるように書いて貰わなければ困る」
「俺、昔から机に向かって勉強するっていうのが苦手だったんすよ」
「それはお前の普段のデスクワークで良く分かる。どちらかと言えばお前は現場向きだ。ただ、しっかりした役職に就いたからにはそれもこなして貰わないとな」
「あぁい…」
半ばやる気の無い返事だが、ヴェスカにもそれは十分理解していた。
「流石に大聖堂側からキツいお叱りは受けたくないだろう?最初の頃はオーギュ様から直々に怒られた位酷かったからな」
「顔見知りだから余計に言いやすかったかもしれないっす…あの人本当に厳しいからさ…」
初期はあまりの酷い出来栄えに直接兵舎に殴り込みに来られ、「このド下手糞が!!」と怒られていた。子供ですらまともに文字を書けますよ、とまで言われる始末。
子供と比べられるレベルで自分の文字が酷いのかと少しショックを受けた。
「他人に読ませる気が無い書き方らしいんすよ、俺。そこまで難解だったとか。でもさぁ、ド下手糞とかあまりにも直球過ぎないっすか?」
「はは…そう言って貰えるだけマシだろう。この機会に直せる癖は直した方が良い。文字の書き方でその人の性質も判断される場合もあるからな。お前、オーギュ様の字を見た事が無いのか?几帳面な性格が良く分かる位丁寧だぞ」
「あー…そういえばあまり見た事が無いっすね…」
自分の作業で手一杯で、他の人間の書く文字までは把握していなかった。とにかく早く終わらせたい一心でこれまで手を動かしていたのだ。
だが、何でも文字を埋めて書いておけばいいというものでは無い。他の人に配慮位しろ、と注意されて以来丁寧に書く事を心掛けるようにしていた。
大雑把にも程があるでしょうと解読不能の書類をオーギュに見せられた際には「そこまで言う程のものか?」と疑問に感じたものだが、自分は良くても第三者にはキツかったらしい。
読ませる気が無い、と言われれば対処するより他無い。
「はぁ、でも良かった。士長がちゃんと読める位には成長したって事でしょ?」
「ああ。この調子でこれからもしっかりやれ」
まるで子供の学習内容を確認するかのような言い方だが、文字の書き方を注意されてきたヴェスカには適切な評価だ。
「精進しますよ…手、めっちゃ疲れるけど。んじゃ、俺はお先に失礼します」
身支度を済ませ、荷物を手にするとゼルエに挨拶をした。彼はまだ作業の続きをするらしく、未だにデスクに着いたまま。任務や鍛錬に加え、デスクワークとなれば更に負担がかかりそうなものだが。
…士長クラスになると、自分より更にやる事が山積みになっていくのだろうか。
「ああ。明日は休みだろう。ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます。士長もあまり無理しない方がいいっすよ」
「もう少しで終わるから心配無いさ」
それならいいけど、とヴェスカは笑顔を見せる。
「お疲れ様でーす」
最近また建て付けが悪くなってきた引き戸を開き、ヴェスカは兵舎を出た。夕暮れのオレンジ色に染まる渡り廊下を進んで行くと、奥から小柄な少年剣士の姿が見えてくる。
「リシェ」
「…何だ、お前か」
「珍しく疲弊した顔してんじゃん。今日は何してきたんだっけ?」
これから夜間任務をする剣士達の姿もちらほらと見える中、リシェは「城下街の掲示板の貼り付け作業だよ」と答えた。
「あー…あれか。ロシュ様の偽物に注意的な?」
「そう。スティレンと手分けしてきたんだ」
それを物語るかのように、リシェの手には空のトートバッグがあった。店舗に配置する分もあったので相当な紙の量だった事だろう。
それを持って歩き回るのは、流石に鍛錬していても小柄なリシェにはキツい作業だったはず。
「スティレンは?一緒じゃないのか?」
手分けして向かったのなら、一緒に行動していると思ったが彼の姿が見当たらない。
ヴェスカの質問に、リシェは不思議そうに眉を寄せた。
「あれ…まだ戻ってないのか。店にチラシを置く作業が嫌だって言ってたから先に戻ったのかと思ったけど…ルイユも何故かくっついてきたから、店周りする代わりにあいつの面倒を見ろって言って別れたんだけど」
そろそろ暗くなってしまうぞ…とリシェは困惑する。
スティレン単独ならまだいいが、ルイユも同行しているのだ。何かあれば面倒になる。
外は次第に夕焼けの光を失いつつあった。
ヴェスカは「ふうん…」と腕を組み何かを考え込む。
「俺は今から城下の方に行くつもりだけど、見かけたら声掛けてみるか。会う確率は低そうだけどな」
「明日は休みか」
彼が宮廷剣士の仕事を終えて城下街に行く時は、大抵次の日が休みの時だ。時間を有効に活用したいと言いながら飲み歩きたいのが良く分かる。
「当然」
まだ未成年でもあるリシェには、大人達が好んで嗜むアルコール類の良さはさっぱり理解出来ない。気分が上がるというのは話の中で分かったものの、飲んでみたいとは思わなかった。
「会ったらでいいよ。もしかしたらもう大聖堂に戻ってるかもしれないしな」
「暗くなってまで長居する方でもないだろ、あいつは」
確かに…とリシェはこくりと頷く。
夜更かしは肌に悪いと明言する者が、好んで遅くまで遊びまわる筈は無いだろう。ただ、ルイユが我儘を言ってまだ遊び足りないと言わないとも限らない。
監視役が居ないので自分の意見を通しそうな気もするのだ。
「俺はもう塔に戻る。役目も終わったし報告だけだから。もし見かけたら早く戻れと伝えておいてくれ」
「ああ、任せとけ。…まぁ、言う機会に恵まれないのが一番いいんだけどな」
そう言い、リシェはゼルエへの報告の為にヴェスカと入れ違う形で兵舎の方へと向かっていった。
暗くなっていく足元を照らす為に、渡り廊下内は小さな明かりが点灯し始める。これから仕事の剣士達とすれ違いながら、ヴェスカは城下街の方へと歩き始めていた。
「ちょっと、あんたがあちこち色んな物に興味を持つからめちゃくちゃ暗くなってきたじゃない!!」
城下街の刺激に惑わされたルイユが「あっちに行きたい」「こっちも行ってみたい」とスティレンを引っ張っていくにつれ、空は既に暗くなっていた。
そろそろ城下街の治安も明るい時と比べると悪くなっていく頃合いだ。いい加減に大聖堂へ戻らなければと焦ってしまう。
万が一ルイユに何かあったら完全に自分のせいになってしまうではないか。
「だって街ん中面白いもんばっかなんだもんよー」
当の本人は全く悪びれない様子で言って退ける。
街灯が煌々と路地を照らしていく中、スティレンはちらりと大聖堂の方角へ目を向けた。
大聖堂はその存在感を夜間でもしっかりと見せつけるように、落ち着いた色合いの明かりによって下から照らされている。
はぁ…とスティレンは溜息を吐き出す。
まさかここまで時間が押すとは思いもしなかった。全部目の前に居るルイユのせいだと恨みがましく思う。むしろ役割を押し付けてきたリシェにも問題があるのではないか。
基本的に身勝手な性格のスティレンは常に自分の責任では無いと思いがちだ。
「いい加減に戻るよ!もうあんたの我儘に付き合ってられない。流石に暗いんだから危ない事くらい分かるでしょ」
というか帰れ、と言いたくなった。
「あんたのお屋敷に戻ればいいじゃないさ。今から大聖堂っていっても通してくれるかどうか分からないでしょ」
正面から行ったとしても時間で閉ざされているかもしれない。ルイユの素性を明かしたとしても、遅い時間なので却って不審がられる可能性もある。リシェがルイユに関しての話を通しているならば別だが、流石に遅くなる事を想定していないだろう。
「えー」
何故かルイユは頰を膨らませた。
「何さ。何か文句あるの?」
「もう大聖堂に泊まるって言ってんのに家に帰るのもなぁ」
「いや、帰れよ…」
ラントイエ地区までなら普通に送れるし、とスティレンは言う。そこまで誘導すれば常時警備員も配置されている地区なので内部に通して貰えるはずである。
そこまでやってもいいと思っているのに、何が不満なのか。
「あのさ、俺はここでは一般剣士なんだから大聖堂の関係者じゃないのさ。あっちに送ったとしても、この時間になったら正門までしか行けないんだよ。俺とリシェとじゃ待遇も違うの。言ってる意味分かる?」
「何だよ、使えねぇなぁ」
無神経なルイユの発言は、確実にスティレンを苛立たせた。
かあっとなって反論する。
「元々はあんたが時間を無視してあちこち俺を連れ回すからだろ!!人の言う事を聞かないで引っ張って行くからじゃないさ!!使えないって何なのさ、腹立つなぁ!!」
お互いに思った事をすぐ言うタイプのせいか、普通に話が噛み合っていた。仮に片方がリシェになれば恐らく話がなかなか進んでいかないだろう。
スティレンは「あーあ…」と面倒臭そうに暗くなった空を見上げる。所々に星が輝き始め、違うアストレーゼンの幕開けを伝えるかのように周辺の人々も日中とは違う色合いを見せていた。
それを感じたのだろう、ルイユは更に面倒臭い事を言い出す。
「なぁ、折角だから酒場周辺とか見てみようぜ。滅多に見られないじゃん」
「嫌だよ!!俺らの年じゃ門前払いでしょ!何考えてるのさ、てかもう帰りたいんだから俺の言う通りにしてくれる!?」
明らかに酔っ払いしか居ないエリアなんかに誰が好んで行くのか。
湧き上がる好奇心を押さえられないのは仕方ないが、程々にして貰わないと困る。誰が尻拭いをすると思っているのかと怒った。
「別に見る位なら良くね?」
「俺は見たくないんだよ!」
ルイユの腕を強引に引っ掴むと、「ほら!」と促した。
おわっ…と声を上げ、前のめりになるルイユ。これから酒場街の方へと向かうであろう軽装の旅人らしき人々は、場違いな二人に目線を向けくすくすと笑っているのが見える。
可愛らしいわね、ここはまだ早いぞと揶揄う声を聞くと、スティレンは心の中で舌打ちした。
こいつはともかく俺まで一緒にしないでよ、と。
「ほら、戻るよ!」
治安も悪くなるであろう場所にずっと居る意味は無い。
必死にルイユを促すが、彼はある一点を見て「あっれ?」と呟いていた。
「何さ?もう、いい加減動いてよ!」
「いやー…見た事がある奴が居るなぁってさぁ」
「…はぁ?大人だったら普通に顔見知りだって居るでしょ。俺らには関係無いんだから」
そこでルイユは声を小さくし、意味深に呟く。
「ラントイエ地区の貴族ってあんま城下街の酒場区域に来ないんだよなぁ」
「………?」
何を言っているのだろうか。スティレンは眉を寄せ、ルイユの言葉に耳を傾ける。
「何でここにわざわざ来てんだろ。あいつらの好む酒とか、城下には置いてないと思うんだけど」
「さっきから誰の話してるの?別に誰が何の酒を飲もうが良くない?」
変な独り言をひたすら聞かされていたスティレンは怪訝そうな面持ちでルイユに問い掛ける。
彼はその質問に対し、変に神妙な顔付きで続けた。
「単におかしいなぁって疑問を抱いたんだよ。俺らの住む場所って異様にお高く留まってる奴らが多いからさ。社交場にしたって、いい場所を利用して尚且ついい料理や酒をかっ喰らいたい人間ばっかりなの。…それなのに、一般民が集まる大衆酒場に入っていくのが変に見えるっていうか。あいつらこういう場所はめっちゃ毛嫌いしてるのに」
「…だから、誰の話をしてるのさ。まずはそれからでしょ…俺が聞いたとしても、誰なのかさっぱり分からないと思うけど」
全く話が見えなさ過ぎて、スティレンはちゃんと言葉を組み立てて欲しいと言わんばかりに首を傾げた。勝手に話を進められても意味が伝わらなければ独り善がりの呟きになる。
…深入りしたく無いので別に話を続けなくても構わないのだが。
「オーギュの兄貴だよ。あれは一番上の奴かな?ジャンヴィエ=フロルレ=インザーク。あいつらいい噂をほとんど聞かないんだ」
「………」
スティレンはしばらくの間押し黙った後、ルイユに「帰るよ」と言い放った。
「っぇえええ!?何でだよ!?気になんねぇのか!?」
「全っ然気にならないね!それに、俺は変な事に顔を突っ込みたくないんだよ!」
相手が司聖補佐の身内となれば尚更関わりたくない。余計な問題が生じたら只では済まないだろう。
他国に来てまで変な事に巻き込まれたくないのが本音だ。
「変に関わったら何が起きるか知れたもんじゃない!」
「何やらかすか分からないんだぞ!」
「そんなの俺らに関係ある!?無いでしょ!?」
こういう事には変に首を突っ込まない方がいい。
ルイユは「えぇ」と小さく拗ねる。
「珍しい奴が珍しい場所に行くんだぞ」
「…知らんがな!!」
意地になって止めてくるスティレンに飽きてきたのだろう。ルイユは不満そうに唇を尖らせて文句を言い出す。
「あー、くっそ。こういう時にヴェスカとかが居ればなあ」
「副士長じゃなくて悪かったね。いいからさっさと観念しな」
夜風が次第に冷たくなってきた。同時に、何処からか食欲を唆る香りも流れ込み、夜の時間を告げるかのように大人の陽気な笑い声も聞こえてくる。
歓楽街の独特な雰囲気に飲み込まれそうだ。
「いいなぁ、大人になったら美味いもんいっぱい食えるんだろなぁ」
何かにかこつけて、実は食事が気になっているのではないだろうか。ルイユ程の家柄ならば良質の食事にありつけると思うのだが、無いものねだりをしているのかもしれない。
「さっきあれだけ食っておいてまだ足りないっていうの…」
「こういう場所で食うもんってやっぱ違うんだろ…てか、見失ったじゃん、あの野郎」
この薄暗い中、ひたすら相手を目で追っていたのだろうか。
スティレンはルイユの首根っこを掴んだまま怪訝そうに眉を寄せる。彼の親族がこの状態を見れば怒って抗議しそうなものだが、この暴れ小僧を留めるには手荒いやり方でなければ無理だ。
むしろ見つかって欲しいとすら願いたくなる。
「何かされた訳じゃないのに何でそんなに躍起になる訳?それにオーギュ様の身内なんでしょ…目立つ動きなんて流石にしないだろうに」
「オーギュの身内だからこそ、だろ。ラントイエの方じゃ、インザーク家って今はあんまいい印象は無いからな。三男坊のオーギュ様のお陰で体面を保っているようなもんだぞ」
「………」
そんなの俺には全く関係無いし、とスティレンは思った。
仮に相手の動きを把握した所で得になる事など一切無いだろう。むしろ逆にリスクを伴うかもしれない。それならわざわざ首を突っ込む事はしない方がマシだ。
「興味が無いよそんなの。ほら、戻るって言ってるでしょ。大人しく言う事聞いてくれる?」
流石に疲れてきた。
早く宿舎に戻ってシャワーを浴びたい。人混みで澱んだ空気に晒されるのも嫌になっていたスティレンは、ルイユの腕を引っ張って大聖堂方面へと促す。
彼はちぇー、と頬を膨らませながら仕方なく言う事を聞こうと来た道を引き返そうと数歩だけ進む。そして何故か止まった。
「…何?やっぱり帰りたくないっていうのはやめてよね」
まだ何かあるのかと嫌そうな顔をあからさまに見せるスティレン。
「あのデカくて髪が赤いの、あいつヴェスカじゃねえの?」
ルイユの目線はスティレンの後方に向けられていた。
「………?」
怪訝そうに自分の後方に顔を向ける。行き交う通行人に紛れる形で酒場街へ近付いてくる男。薄暗い街灯に照らされていて若干分かりにくいが、彼の大柄な体格は非常に人の波の中でも目立っていた。
スティレンも彼の姿を確認すると、「あぁ」と呟く。
「副士長だ…てか、何でこっちに」
他に連れが居なさそうな事から、任務とかでは無さそうだ。ただ宮廷剣士の服装のままなので一見何かの業務で来たのかと勘繰ってしまいそうになる。
まさか上官にこの場で遭遇してしまうとは、と思ったが彼の性格上そんなにきつい注意はしないだろう。こちらも好きでこの場に居る訳では無いのだ。これが士長のゼルエなら、確実に厳しい目線で事情を聞かれてしまうかもしれない。
顔を合わせるからにはちゃんと挨拶をしなければ…と思っていた矢先、ルイユが大声で「ヴェスカぁー!」と彼を呼んでいた。
突如自分の名を呼ばれたヴェスカは、その声の主をすぐに見つけると驚いた表情で近付く。
「あー、やっぱり居たのかぁ」
やっぱり、とは。スティレンはヴェスカを見上げてお疲れ様ですと挨拶をした。
「俺達の事を聞いてたんですか?」
「あぁ、こっちに来る前にリシェと会ってさ。まだ戻ってないって話をしたら驚いてたぞ」
まさかリシェの方が先に戻っているとは、とスティレンは頭を垂れた。何もかもこのルイユのせいだ。彼がひたすら我儘なせいでこんな時間まで城下街に居る羽目になったのだ。
しかし当のルイユはケロッとしている。
「ヴェスカが居るならこの辺歩いても良くね?なぁ、スティレン!」
「そういう問題じゃないでしょ…」
二人の会話を聞いたヴェスカは、何となく状況を察したようだ。ははぁんと揶揄う表情でスティレンを見下ろす。
「随分苦戦したっぽいな、スティレン」
「苦戦っていうか。自分勝手にあちこち振り回してくるんですよ。今もこうして酒場の方に興味持ってくるし。ガキの癖に…こんな事ならリシェの言う通りに俺も店舗配布しておけば良かった」
流石のスティレンでも、ルイユが相手だとかなりやりにくいのが窺い知れた。ヴェスカは少し彼に同情してしまう。
「流石に副士長の言う事なら聞くと思うんですけど…」
そう言い、ちらりとルイユを見るスティレン。
自分よりは大人のヴェスカの口から戻れと言われれば、彼も従わざるを得ないと思う。
「ヴェスカ、どうせお前も飲みに来たんだろ?」
変に慣れた様子でルイユは彼に問い掛けていた。
自分達を探しに来た訳ではないのは理解していたが、話が余計おかしくなりそうな雰囲気を感じたスティレンは「…ちょっと!!」とルイユを叱咤する。
「まさか着いて行くって言うんじゃないだろうね!?」
いくら何でも図々しいとは思わないのか。スティレンの不安を余所に、ルイユは「おう」と無邪気な笑顔を見せる。
「大人が一緒に居れば問題ないだろ?」
「…馬鹿じゃないの!!」
相手がアストレーゼンの貴族の息子だというのをすっかり忘れて思わず怒鳴ってしまう。何度説明しても全く響きもしなかったようだ。
「副士長にまで迷惑を掛ける気!?」
「俺らそんな関係じゃねぇよぉ。な、ヴェスカ?」
変な頭痛がしてきた。このまま彼を押し付けて帰りたいと思ったが、流石にそれは駄目だろう。
どうしたら…と頭を抱えて悩むスティレン。
その一方で、くっついてくるルイユの目線に合わせて屈み、ヴェスカは優しい口調で問う。
「何だ、そこまでこっち側に興味があったのか?家の人は何て言ってんだよ?」
「大聖堂に泊まって来るって伝えてるから大丈夫だよ。リシェにも言ってあるしな。世話役のクラウスもリシェの事は知ってるし、リシェに伝えれば当然ロシュ様にも伝わるだろ?」
「まぁ、そりゃそうだけど」
このまま無碍に二人を帰すより、自分が付いておけば安全だろう。それにこの時間帯は足元も暗く治安も不安定になる。
夜間中心に徘徊する住民や、旅の疲れを癒す為に外出する旅人達が羽目を外しやすい。
この危険地帯を、まだ大人になりきれていない二人を歩かせるのは気が引ける。だが大人しく帰れと無責任に放り出すのもどうなのか。
「参ったなぁ。この辺は色々危ないし…」
「俺はさっさと戻るつもりだったんですよ。それなのにこっちがめちゃくちゃごねるから…」
最後まで言葉を言い終えようとしていた矢先、地区内に備えていた鐘の音が鳴った。鐘は周囲に配慮しやや低めの音だが、人々の注意を引きつけるには十分である。
ヴェスカは「あぁ」と声を漏らし空を見上げた。
「何の知らせなんだこれ?」
鐘の音と同時に人々が次々と建物の中へ吸い込まれていくのが分かる。そんな不思議な状況に、ルイユは怪訝そうな顔をした。
「たまに城下街は霧が発生するんだよ。暗い上に霧が出てくりゃ、変な事に巻き込まれやすい。悪さをするにはもってこいだからな。でも良かった、ここでお前らを無責任に帰したら却って危なかったかもしれない」
「おっ」
ルイユは察したのか、表情をぱっと明るくした。
「じゃあ決まりだな!どっか食いに行こうぜ」
対するスティレンは深く溜息を吐く。結局そうなってしまうのか…と帰る時間が遅くなってしまうのを危惧した。
だが成人しているヴェスカが一緒ならまだマシである。
…その面では運が良かったと思えた。
大きな湯船の中、ロシュに抱きつく形でリシェはぐったりと身を沈めていた。これでもかと言わんばかりに相手に全身撫で回されたせいで、既に体力が尽き掛けている。
荒れた呼吸を整えながら、リシェはうっすらと瞼を上げロシュの唇に自らの唇を重ねていた。
「…リシェ、流石に疲れたでしょう?もう上がりましょう」
ロシュの性欲はとにかく留まる事を知らない。司聖としての体力が備わったのもあるが、元々の性質もあるのだろう。
これ以上触れていてはリシェの体が心配になる。しかしもっと触れていたいというのが正直な気持ちだった。
久し振りの行為だったせいもあってか、何度も欲を吐き出しても足りなかった。
自分は良くても受け止めるリシェが大変だ。いい所で止めておかなければと我慢しなければならない。
力を失った華奢な体を抱え、ロシュは浴槽から出る。
「…ロシュ様」
「大丈夫。もうきつい事はしませんよ。無理させてしまいましたから…」
逆上せそうな程に紅潮している頰に触れ、ロシュはリシェに優しく囁いた。同時に彼の臀部の奥へと軽く指を突き入れると軽度の詠唱を始める。
必ず行われる【ある作業】に、リシェは反射的に全身を強張らせていた。
「あっ…あ!や…っ、ロシュ様!」
びくびくと身をひくつかせ、リシェは悲鳴を上げてロシュにしがみ付く。行為が終わる度にこのようにして内部の傷の治療を行っているが、リシェは未だに慣れていないままだ。
体の奥が熱くなり、体内に吐き出された残滓を抜き取られていく感覚を覚える。両脚ががくがくと力無く震え、何とも言い難い刺激に思わず悲鳴を上げてしまった。
中に放たれたものを魔力によって掻き出されていく。ロシュの心遣いは有難いが、それによって少しずつ床に垂れ流される液体を見ると恥ずかしくて仕方無い。
リシェは呻き、首を振りながら羞恥に耐える。
「や…っあぁ…んっ…」
「これが終わったら洗って差し上げますから…もうちょっと我慢して下さいね」
この最後の行為が苦手そうなのはロシュも理解していた。だが、彼の体を傷付けたくないのでこのような治療を毎度行っているのだ。腹の中に自分が吐き出した残滓が残ったままでは、流石に気持ち悪いだろう。
目をぎゅうっと閉じたままで自分にしがみつくリシェがまた可愛らしくて、必死で沈めた欲望がまた湧きそうになるのも何度も経験している。しかも中に出した体液を垂れ流しているという状況。
これで欲情するなと言われるのは非常に酷だ。しかもこの作業中のリシェの表情は、狙ったつもりではないだろうがとにかく色っぽい。
人目を惹きつけるレベルの美少年ならば尚更、その色が増してしまう。無自覚なせいで余計唆るのだ。
むしゃぶりつきたくなるのを堪えながら、ロシュは紳士を装った。
「…はっ…あぁあ…っ」
「大体この位で大丈夫でしょうかね。ごめんなさいね、リシェ。辛かったでしょう?」
今にも泣きそうな顔のリシェは、こちらをまっすぐ見ながらふるふると首を振ると、腕を伸ばし抱き着いてきた。
「つ、辛くないです」
「………」
自分に気を使って無理しているのだろうと察する。まだ未熟なリシェを愛してしまうという事は、それだけ彼に負担を掛けるという事になる。
彼を護衛として側に置いているのに、このような関係になってしまうのは流石に許される事ではないだろう。
大切にしたいのに傷を付けてしまうという矛盾に、ロシュはリシェに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
くったりと脱力気味の彼の身を隅々まで洗い、綺麗にした後で先に浴室から出させた後、自分の身も洗い流していく。
咽せそうな湯気が立ち込める中、しなやかな肉体から泡が滑り落ちるのを見届けてロシュは一息吐いた。司祭という職業柄、運動らしい運動とは縁の無い世界に思われそうだが彼の体は均整の取れた体格だ。細身の法衣で隠れている為か、彼は人より華奢に見られがちだった。
程々に自分の欲の制御をさせないと…と気持ちを落ち着かせながら流れる湯を見下ろす。
いくらリシェが好きだからといって、彼に散々無理をさせては嫌われてしまうかもしれない。
身を拭き清め、湯上がり専用のローブに身を包んで浴室を出る。
「リシェ。もう私の雑用はしなくてもいいから休みなさい」
あれだけ酷使されたというのに、彼は湯上がりでも自分の為にお茶を淹れようとしていた。それを見るといじらしさを感じるが、同時に哀れになる。
自分の為にそこまでやらなくてもいい、と常に言っているのにリシェは自ら動いてしまうのだ。そうさせてしまったのは自分にも一因がある。
「でも、水分を取らないと」
「それはあなたも同じでしょう?」
それでもリシェは室内に入ってきたロシュに近付くと、用意していた冷たい茶が入ったグラスを手渡してきた。
ロシュは苦笑し、「もう」とそれを受け取る。
「あなたも飲みなさい。何なら口移ししましょうか?」
「いっ…いえ、大丈夫です」
突然の冗談に、リシェは火照らせていた頰を更に赤く染めてぶるぶると首を振った。
これ以上ロシュと密着したら気を失うだろうと慌てる。
接する毎に愛おしさが増し、離れたくない気持ちが膨らんでしまう。そして自分の中のいやらしい感情を引き起こしてしまうのをリシェは恐れていた。
彼を誰よりも独占したいと願う気持ちは、確実にお互いの為にはならない。
「湯上がりのお茶はとても美味しいですねぇ」
冷たいお茶は火照った体内に強く染みていく。
リシェもロシュに勧められるままそれを喉に通すと、相当渇ききっていた為かすぐにグラスを空けてしまった。
その様子をロシュは微笑ましく見つめる。
「落ち着いてきたら眠くなってくると思いますから、寝る準備だけしておきなさい」
「はい…ロシュ様は…?」
この段階でも彼は眠そうになっている。
「私はちょっとだけ雑用を済ませてしまいますから…」
「では俺は部屋に戻ります。お邪魔するのは良くないし」
「いえ、この部屋で休みなさい。すぐに横になれるでしょう?」
ロシュの私室のベッドは一人で眠るにはかなり大きい。
天蓋付きで、しかも二重のカーテンで仕切る事も出来るので照明の明るさもしっかり遮る事も可能だ。
二人で眠るには丁度いい広さなので、ロシュはリシェにだけは共にそこで眠る事を許していた。
「ありがとうございます、ロシュ様…」
この段階でリシェはもう眠そうに頭を揺らし始めている。自分でも良く分かっているのか、眠る準備をスローペースで行い勧められるままロシュのベッドへと直行していった。
そんな彼の様子を見ていたロシュは、その一連の動きが可愛く見えてつい微笑んでしまう。
まだ彼も子供なのだ。
ベッドの奥のカーテンを少し開き、常に手入れされふかふかの羽毛布団に包まるリシェの頭を撫でる。
「おやすみなさい、リシェ」
「…はい…」
相当酷使されたのだ。もう彼は暖かい布団に引き摺り込まれるかのようにすぐに寝息を立てていた。
ロシュはすぐにベッドから離れ、残された雑用を片付けようと動く。仕事は少しだけ残っているが、軽度のものなので多少後回しにしても大丈夫だが、身の回りの片付けは最低限済ませておかなければならない。
大抵の事は大聖堂の職員達が行ってくれてはいるものの、流石に細かいプライベートな作業まではさせたくなかった。
大体の作業が片付き始め、一息吐いていたその時。
私室の扉が控えめにノックされた。
「?」
こんな夜中に…とロシュは怪訝そうに眉を寄せる。流石にオーギュでも深夜帯に部屋に訪ねて来ないはず。それ以前に階段を露骨に嫌う彼は魔法でこちらに飛んでくるだろう。
不思議に思っていると、扉の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「…ロシュ様、夜分遅くに失礼します」
「はい…?」
ロシュは早足で扉の前に向かい、ゆっくりと開いた。扉の向こう側には一人の大聖堂の職員が申し訳無さそうな様子で立っている。
「どうしましたか?」
「連絡が遅くなって申し訳ありません。そちらにルイユ様がお越しではないかと…無事にこちらに着いているかランベール家の方からお問い合わせが入っておりまして」
いつもなら無事に大聖堂に着いたと連絡が入るはずが、今回はそれが無い事にランベール家側が不安を抱いたのだろう。
「あ…」
ロシュは返答に詰まった。そういえば、とリシェからの報告を思い出す。今更思い出してしまうとは…と内心戸惑う。
久し振りに時間の余裕が出来た事で浮かれてしまいひたすら時間を掛けて彼を愛で続けていたのだ。
…あまりにも情けない。
確かスティレンと同行しているという話だったような、と記憶を呼び起こすが、まだこちらには来ていない。
では今はどこに居るのだろうか。この時間まで城下街に居るとなれば、何かに巻き込まれている可能性もある。
「ええっと…ご安心下さい。今はちゃんと眠っていますので」
ここで居ないと言えば大変な騒ぎになってしまう。
まだ眠るには時間があるな…と考えながら、ロシュは相手に不安を与えないよう「こちらこそ報告が遅れてすみません」と謝罪した。
職員を戻した後、ロシュは「うぅ」と頭を掻く。
リシェに夢中になり過ぎて、大切な事を忘れてしまうなんて。これは話を聞いていたにも関わらずおざなりにしてしまった自分の責任だ。
塔の下は常に宮廷剣士らが警備に当たっていて、階段から出ようものなら引き戻しを食らってしまう。理由を話せば更に話が抉れてしまうだろう。
…出来ればひっそりと連れ帰って解決させたい。
オーギュに報告しようものならこっぴどく叱られてしまう案件だ。叱るというより激怒する可能性が高い。
そして自分の独断で外出してもいい顔はしない。
…結局何をしても彼に知られれば怒られるのだ。
それなら自分が探しに出て、内密に連れて帰る方がいい。
クローゼットの中から外套を引っ張り出した後、司祭用の法衣ではなく比較的一般向けの法衣を身に着けた。一般用に作られている法衣は素材が軽いが、魔力の耐久性は低い。
見習い程度の魔導師向けに流通している物で色のバリエーションもあり、何枚か持っていれば軽い外出に便利なので前もって購入している。ロシュはクリーム色を基調とした物を数着控えていた。職業柄、そうせざるを得ないのもある。
魔導師時代の法衣も持ってはいるが、万が一の際に特有の魔力を引き出せない場合があるので状況を見て着用しなければならない。
逆に、魔導師も司祭専用の法衣を纏う事は皆無だ。
この一般用の法衣は、高位司祭の服装にしては非常に安っぽく貧相極まり無い。それでも、城下街で目立ちやすい服装は控えておきたかった。
外套を羽織り、首元の留め具をしっかり留めた後でフードを被る。外套だけは素材が良く、中のチープな法衣との差が激しいがすぐ戻るつもりなので気にしない事にした。
「さて…」
彼は小さく呟くと、眠っているリシェに気付かれないように窓の外へと出る。緩やかでやや冷たい風が吹く中、城下街の方向へと顔を向けた。
端正なロシュの顔を、風が優しく撫でていく。街はやや空が白く、街灯の光がそれによって霞んで見える。
霧が出ているな…と思いながら、彼は塔の上から飛び降りていった。
外に居れば居たで霧だらけなのに、酒場に来たら来たで煙草の煙やら他人が発する熱気だらけになるんじゃないかとスティレンは内心不満げだが、決して声には出さず注文したハーブティーを数口飲み込む。
お茶の中にハッカが少しだけ含まれているのか、飲み込んだ後に爽快感があった。
「なぁスティレン、昆虫を揚げた料理があるんだけど食ってみねぇ?多分美味しいと思うよ。ほら、昆虫食って流行ってるって聞くじゃん」
様々な料理と酒を気持ち良く喰らうヴェスカの隣で、ルイユは何故か敬遠されそうなメニューをスティレンにひたすら勧めてきた。
昆虫を揚げた料理と聞くや、スティレンは当然の事ながら嫌そうに顔を顰める。
どう考えても自分を実験台にするつもりではないかと。
「何で俺に勧める訳?食べたかったら自分で食べなよ」
「なんかほら、どんな味か気になるじゃん」
「俺は気にならないから自分で試しな」
二人のやり取りをヴェスカは食べながら聞いていた。
変にウマが合うもんだなと妙に感心してしまう。
「えー」
「ふん。食事にまであんたに付き合う気は無いよ」
ルイユは可愛らしく頰を膨らませ、何故か訴えるようにヴェスカを横目で見上げた。
とにかく気になって仕方無いらしい。
酒場の料理は多種多様の人種が常に出入りする事から、どう考えても食指が届かない料理も稀に出現する。ここでしか食べられない珍味で他店を出し抜きたいという狙いもあるのだ。
「気になるんなら頼めばいいじゃん」
「そりゃそうだけどさ。俺が全部食えるかって言われれば自信無いんだもん。スティレンが全部食ってくれるんなら喜んで注文するけどさぁ」
「…何でそこで俺な訳!?」
ちょっとした事でも言い争いのようになってしまう会話を延々と繰り返していく。
随分と仲が良さそうにも見えてきて、ヴェスカは「かなり仲が良いな」と二人に話す。まるで兄弟か何かのようだ。
「えぇ…」
何故かスティレンは不愉快そうな顔を見せる。
「俺はこっちの我儘についていけないんですけど」
仲が良いと言われ非常に心外らしい。彼に付き合い続けると何が起こるか知れたものではない。
現にこうして遅くまで城下街に留まる羽目になってしまう結果になったのだ。そして当の本人はしれっとして食事を頬張っている。
「大体、あんたがオーギュ様の身内を見つけたからって追いかけようとしてるのがおかしいんだよ…別に放っておいてもいいじゃないのさ」
「……んん??」
オーギュの名を耳にした瞬間、ヴェスカが即反応した。
「そのオーギュ様の身内がこっちに来てるからって…何か問題でもあんの?」
別に大人なのだから、城下街の酒場区域に足を踏み入れても何ら問題は無いはずだ。むしろそんな高貴な身分の人間がこちらの酒場に入り浸るとなれば、少しだけ親近感が湧くというもの。
ルイユはそれが変に見えたのだろうか。
「だから言ったじゃねえか。インザーク家ってのはラントイエ地区でも割とお高くとまってる貴族だって。そんな一族の一人が、庶民が入り浸る城下街の酒場に好んで来るってのはどうなのかってよ。あいつらは自分以外の人間に対してめっちゃくちゃ下に見がちだからな。それに、あいつら…っていうかあの兄弟か。あれに関してはマジでいい話なんて聞いた事無いぞ」
「…凄げぇボロクソに言うじゃん…」
むしろ何かしら恨みを持っているのではないかと勘繰ってしまう。
「そりゃそうよ。いくら格式が高いからって言っても、人を見下す態度を出しちゃ駄目だと思うぞ。あそこまで酷いのは滅多に居ないんじゃないかな。オーギュが有能過ぎて面白くないのは分かる気もするけどよ…」
そこまで言い切るのなら一度見てみたいものだ。
一般民の自分らから見る相手と、ルイユのように貴族側からの目線で見るのとは違いが分かるのかもしれない。
だがそんなに会う機会は無いだろう。
「子供のお前がそう言う位なら相当なもんだろうけど…」
「…ふん、むしろあんたが何か相手に失礼な事をしてたんじゃないの?あまり困らせるような事なんてするもんじゃないよ」
蒸せ返るような酒場の空気の中で、似つかわしくない優雅な食事をするスティレンはルイユに対し呆れた口調で言い放った。
彼は荒くれ者が大半を占めるこの酒場で、殆ど誰も注文しないようなミニサラダやハーブティー、煮豆を薄味で味付けした非常にヘルシーなメニューを厳選して口にしていた。そんなスティレンとは逆に、ヴェスカは脂の乗った焼肉や揚げ物、更にアルコールといった不健康極まり無い食事を次々と摂っている。
ヴェスカが食べ終えては似たようなメニューを注文し続けていくので、テーブルに運ばれる毎にスティレンは引き気味に卓上の料理を見ていた。立場上あまり顔には出せないが、流石にギトギトの脂の乗った料理を見てしまうとそうせざるを得ない。
ルイユはルイユでヴェスカが注文した物を摘み食いしつつ健康的にフルーツジュースを口にしている。
「んな訳ねぇだろー」
口に肉を含んだままでルイユは反論した。
「食べながら喋んないでくれる?」
行儀が悪い事を指摘すると、彼はごくんと全て飲み込んだ後続けた。
「どんだけ酷いもんか見せてやりてぇ位だぞ。スティレンの比じゃない程あいつらおかしいって…」
「そこで俺を比較対象にしないでくれない!?」
今この場に居れば良く分かるんだけどよ…とジュースをストローで吸い込み、ルイユは残念そうに呟く。
ヴェスカは麦酒のお代わりを頼んだ後、胃を休めるように一旦手を止めて一息吐いた。
「まあ、俺らはそんなに会う機会には恵まれないからな。貴族様っていってもピンキリだろうし…」
「ヴェスカ、それでも一応頭に置いておいた方がいいぞ。何しろ一番下の弟が自分達を出し抜いて出世してるようなもんだ。あの辺を取りまく話題なんて、大抵オーギュの話ばっかだろうからあいつらにしては決して面白く無いんだよ。しかも昔から仲良くも無いし。ほら、この前シャンクレイスの王子様が来た時があったろ?大聖堂でちょっとした騒ぎが出たってあれ」
「んあ?…あぁ、あったな。俺は外回り中心だったから内部の方までは干渉しなかったけど」
そこでルイユは声を小さくした。そこは変に気の使い方を考えている模様。
「その事件も何かしら裏で引っ張ってた可能性もあるって話。疑いがある程度だからこれ以上は何とも言えねーけどさ、注意するに越した事は無いと思うよ」
ルイユの話を聞きながら、スティレンは食事の手を止めて黙りこくっていた。
あの侵入者を問い詰めた際、単に雇われただけだと言っていた。大元の存在を匂わせてはいたが、相手も深くは知らされていないのだろう。
「…どうした、スティレン?」
「え!…あ、あぁ…何でもないです、すみません」
大怪我を負ったリシェの姿を思い出し、変に苛立ってしまいそうになる。
鈍臭いリシェの事もあるが、調子付いた犯人の術者の胸糞悪い顔が脳裏に浮かんでしまう。こんな事ならあと数発殴ってやれば良かった。
「それにしてもルイユ」
「んああ?」
「随分詳しいじゃん。誰からそんな細かい事聞いてくるんだ?流石に親から聞いた訳じゃないだろな」
大人顔負けの情報を普通に言うので、ヴェスカは違和感を覚える。
あの騒ぎに関しては未だ調査中だが、まだ込み入った内容までは把握していないままだ。確定的ではない事はまだ大っぴらに知らされないようになっているのもあるが、騒ぎを起こした犯人が以前として無言を貫いていて調査が行き詰まっているのもある。
「へへへ…俺の得意技って盗み聞きなんだ。父様とお客の噂話はつい聞いちゃうんだよねぇ」
盗み聞きという言葉を聞くなり、品が無いとスティレンは眉を寄せた。大人達の会話をこっそり隠れながら聞くとは可愛げが無いと呆れてしまう。
その一方で、ルイユは全く気にせずに話を続けた。
無邪気な顔をして非常に図太い性格だ。
「あとはオーギュからあまり二人には近付かない方がいいってのも聞いてる」
「オーギュ様から?」
「そそ。色々思う事があるんじゃねーの?昔から結構足を引っ張られる事もあるみたいだからな。周りに迷惑を掛けたくなくて注意喚起してるのかもしんない」
オーギュ本人から、あまり家族についての話は聞いた事は無い。むしろあまり言いたがらない様子だったので、ヴェスカはそこまで彼の家族に関して突っ込まなかった。
それは本人が言いたい時に言えばいいだろうし、別に聞く内容ではない。言いたくないのなら言わなくても構わないのだ。
「オーギュ様は三人兄弟だっけ…兄弟だと話とかも合いそうなもんだけど…俺には良く分かんねえな。仲が悪いとか合わないとかあるもんなのか」
「そうそう。上の兄貴同士で連んでるんだ。裏で変な輩との付き合いもしてる可能性もあるっていう話…ま、疑いが無くなったら別に何の問題も無いんだろうけど、注意するに越した事は無いんだろうなぁ」
俺には兄弟仲が悪いっていうのは考えられないんだけど…とルイユは首を傾げながらぼやいた。
「俺は一人っ子だから兄弟ってのは分からないけど、オーギュ様のとこは昔からそうなのか?」
その間にもヴェスカが注文していた肉料理がテーブルに運ばれて来る。酒をたらふく飲んでおきながらまだ食べられるのか…と卓上に乗った料理を目にするスティレンは、もうお腹いっぱいと言わんばかりにやや顔を顰めていた。
全く食事の手を止める気配が無い。
ルイユも目の前にあるフルーツ盛り合わせを摘み、「らしいぞぉ」と返答する。
「ま、あまり人様の家の事は突っ込めないしな。本人が気を付けろって言う位だから多少は警戒した方がいいと思うぞ。ただ相手は貴族だからなー」
「………」
仮にオーギュが彼らによって何らかの妨害を受けても、抵抗しようものなら逆に理不尽を強いられるかもしれないという事か、と複雑な気持ちになる。
あまり付き合いは無さそうなのでその可能性は低そうに思えるが、一応頭に入れておいた方がいいのかもしれない。
彼らは生まれた時から恵まれた環境に置かれている為、自分達の周囲のその先の世界には興味が無い傾向にあった。
良く言えば幸せ者、悪く言えば世間知らず。
一般剣士が彼らの護衛に当たる際、あの連中は自分達を特別な人間だと思い込んでいると愚痴を聞かされる事もしばしばだ。
そんな性質なので自分達が不利な立場に置かれたとしても知らず存ぜずの態度を貫くだろう。
「まぁ、そうだろうなって感じはあるよな」
酒場内は休息を楽しむ人々で更に埋め尽くされ、座席と座席の間隔が非常に狭くなっていた。隙間を縫って歩くにも大変そうだが、従業員は慣れているのか普通に上手く通過して給仕を行っている。
アルコールと油、香辛料の香りに加え、人から放たれる汗などの匂いも同時に含まれるので時に不快感すら覚えた。
「スティレン、大丈夫か?」
「は…はぁ。どうにか」
外の空気を吸いに行きたいと思ったが、出口までやや遠い。
せめて天井に通風口でもあればいいのにと苦々しく思いつつ、スティレンは心配を掛けさせまいとヴェスカに愛想笑いで返事をする。
「副士長。ちょっと外に出てきます」
「お?あぁ、いいぞ。ただこの界隈、この時間は治安が悪いから、何かあったらすぐこっちに戻って来た方がいい」
しかも外は先の見通しが判別しにくい程度に霧が発生している。
悪事を働こうと企てる輩には絶好の環境だ。
自然現象とはいえ、街を覆う霧には警備する立場の目線で見ると非常に厄介そのものだった。
「はい。分かりました」
年季の入った椅子から腰を上げ、スティレンは冷たい水を一口飲んだ後に離席した。
彼の様子をじっと見つめていたルイユは、その背中を目で追いながら「お坊ちゃん育ちだねぇ」と変な事を言い出す。
「自分だって同じだろうに」
「俺、あいつみたいにそこまで貧弱じゃねえぞ…」
繊細なスティレンと比べると、ルイユは非常に肝が据わっているというか図太い性質なのだろう。
「てか、大丈夫かなスティレン。変なのに絡まれなきゃいいけどよ」
「まぁ、あいつも宮廷剣士だからな。最低限の護身術位は出来るからそこまで心配は無いだろ。何かあればすぐ戻ってくるだろうし」
そんなにこの店から離れる事はあり得ないさ、とヴェスカは何杯目なのか分からない麦酒のジョッキを一気に煽っていた。
…アルコール臭っさ…とようやく人々の波を押し退けて酒場の外へと出たスティレンは、自分の衣服にこびり付いた匂いを軽く嗅いで心底嫌そうに顔を逸らす。
僅かな時間でもこれだけ嫌な匂いが付着するなんて、と苦々しい気分で店の手前まで進むと、湿気が混じった空気を軽く吸い込んだ。
「…てか、よくこんな場所に延々と居られるよね…」
故郷のシャンクレイスで燻っていた際にも、悪友と連んでこのような場所に何度か赴いた事があった。だが自分には合わない環境だとどこか他人事のようにその喧騒を見ていた記憶がある。
決して良い環境では無いと客観視していたのかもしれない。
もしくは、自分がまだ大人になりきれていないのだろう。
その間にも武装した旅人らしい集団はうっすらとした霧の中でそれぞれ気に入った店へと次々と吸い込まれて行く。彼らは天候が変わろうが変わるまいが、別段慣れている様子だ。
酒場区内は酒類を中心に扱う店舗が軒を連ね、どの店も夜間は常に活気に溢れている。オレンジ色を基調とした街灯は霧によって湿った煉瓦造りの路面を照らし、いつもと違った雰囲気を演出していた。
酒場区から少し離れた先には旅人向けの宿場があり、酒を嗜んだ後にすぐ戻れるような造りになっている。中には酒場と一体になっている宿も点在するが、一晩過ごすには騒音と隣り合わせになってしまう。
その分宿賃は通常よりは安値だった。それさえ我慢すれば、すぐに食べ物や酒にあり付ける事が出来る。割り切る事が出来れば、それなりに良い宿になるのかもしれない。
ふと空を見上げると、まだ霧が出ている為か視界が非常にぼんやりしている。街の空気は冷やされ、頰に当たる風が湿っぽい。肌の保湿にはちょうど良い位だ。
「…日中は良い天気ばっかりなのに、夜がこれじゃあね…」
この状態は稀らしいが、流石にヴェスカが危険だと帰路を止めるはずだ。
シャンクレイスはアストレーゼンと比べると涼しい気候で、夜間はそこそこ冷える環境だった。なので夜になれば必然的にブランケットなどが必要になる場合もある。
向こうは寒暖差がはっきりしている為に、アストレーゼンの気候はちょうどいい位なのだ。
飲兵衛のヴェスカがまだここに留まる限り、しばらくは部屋に戻れそうにもないな…と半ば諦めながらぼんやりしていると、別の店舗の方向から大声が飛び込んできた。
「嘘ばっかり吐きやがって、お前本当に司聖か!?」
うっすらとした景色の中、明確にその先は見えてこないが何やら押し問答が起こっているようだ。酒場が密集する場所では大して珍しくもないが、聞きたくなくてもそのやりとりが聞こえてしまう。
しかも変に聞き捨てならないフレーズが入り込んでくるので余計に気になってしまった。スティレンは顔を上げると、その怒鳴り声のする方向へ少しずつ近付いてみる。
自分達の居る酒場から二軒程離れた別の店の入口の手前からその声がした。他の客達もその喧騒の声に驚いてか、数人様子見の為に姿を見せている。
「お前達が売ったこの魔石のせいで仲間が死んだじゃねえか!何が富をもたらす石だ、これのせいで散々な目に合ったんだぞ!」
その言葉に、周囲の人々が騒ついた。
司祭の最上であるアストレーゼンの司聖と名乗る者が他者に危害を与えるなど、どう考えてもおかしいのではないか…と不審がる中、相手は穏やかな口調で言葉を返す。
「それは大変なご不幸でしたね。…ですが決してその魔石のせいではありません。その石は聖地を巡った際、聖なる魔力を通し続けた神聖な物ですから。残念ながら、あなたのお供に関しては運が無かったとしか言い様がありません」
スティレンは黙ってその会話を耳にしながら、この声の主は確実にロシュの声では無いと察した。
これが彼の名を騙る偽物か、と更に近付いてみる。
目の前の景色が見え難い中で目を凝らし、その姿を確認してみると司聖と名乗っている白い法衣の人物が一人。その両脇には従者のような者が二人で固まっている。
「誰だあいつら…」
大聖堂内でもその姿は見た事が無かった。
仲間を失い、怒りに打ち震える旅人らしき男は司聖を名乗る者に向けて剣を抜く。同時に、見物人達の悲鳴や静止する声が入り混じった。
一方の不審な三人組は慣れているのか微動だにしない様子。
「おやめなさい」
男を前に、抑揚の無い声が周囲に響く。
彼らは顔を完全に隠していて、その表情は全く判別し難い。
「我々にはアストレーゼンの貴族が背後に付いているのですよ。こちらに楯突くとなれば、あなたはこの街に立ち寄る事が出来なくなります。それでもいいのですか?」
「………っ!!」
嘘八百を並べ立てるのは詐欺師の常套手段だが、ここまであからさまなのも珍しい。スティレンはこの場をどうするのかを思案していると、店の奥から別の男の声が聞こえてきた。
「…やけに喚いているのが居ると思えば。宝石が欲しいと言ったのはそっちだと思うが?」
その声も聞いた事が無かった。
一体誰が…と思っていたその時、偽物の従者の一人が声を上げる。
「アーヴィー様!」
だから誰だよ!?と突っ込みたくなったが、ふとルイユの発言を思い出した。
オーギュの兄の名前…、そして彼らが言うアストレーゼンの貴族の後ろ楯。まさか、と目を更に凝らして先を見る。
荒くれ者が多い中、その男の出で立ちは非常に視線を惹きつけた。
…まず身に纏う衣類からして違う。高級品に目がないスティレンはすぐに分かったのだ。あれは一般市場ではまずお目にかかれない代物だと。淀みきった匂いが充満する場所で着用するとはあまりにも無防備過ぎる。
むしろ、しっかりとクリーニング出来る財力を持っているのかもしれない。
顔は暗がりで良く判別し難いが、そこそこ顔立ちが整っているのではないだろうか。先程の言い方といい、変に軽薄そうな印象を受けた。
…まさかあれがルイユの言っていたオーギュ様の兄とかいう奴なのか?と思っていると、魔石を買い取ったという旅人の男は声を若干振るわせながら抗議を続ける。
「富をもたらし神の加護を与えるってそっちが言うから乗ったんだぞ!?それが何だよ、逆に魔物を惹きつける材料になってんじゃねえか!ふざけんな!!」
そんなうまいものある訳無いじゃないか…とスティレンは頭を抱える。何処に行ってもあからさまな詐欺に引っかかる者が居るものだと心底呆れた。
騙す方も騙す方だが、騙される方もどうかと思う。
そもそもいい所出のロシュが自らがこのようなケチな商売などする訳無いではないか。そう心の中で突っ込みながらやや離れた場所で静観していると、先程の長身の男が重い口を開いた。
「お前の仲間達が居なくなったのは不注意からだろう。石のせいにされてもこちらも困る」
「不注意以前の問題だ!この石ころに何が入ってるか知らんが、この石に引き寄せられるみたいに魔物が寄り付いて来たんだぞ!?しかも持っている順番にやられたんだ、これをどう説明する!?」
その抗議の声を聞き流すように、三人と男はお互いに顔を見合わせていた。彼らは深い知り合い同士なのだろうか、と見守っていると、ロシュに扮した白っぽい服装の男がスッと前に出る。
彼の所作は何処で習ってきたものなのか分からないが、非常に慣れたように落ち着き払っていた。そのまま、法衣の男はゆっくりと口を開き、相手に対し宥める。
「どうやらその石には余分な物が入り込んでいるようですね。外部の澱んだ魔力が介入したのでしょう。大切な仲間を失ったのは非常に残念ですが、決して珍しくはありません。同じように散った人々の念もそれに入り込んでしまっているようです」
「は…っ、何でも物は言いようだよな。こうして失敗する度にあれこれ理由を付けて納得させようとしてきたのか?ボロい商売だよなぁ?そもそもお前らは本当に司聖なのか?そしてその変な男は一体何者なんだ?」
どう見ても偽物だろうが、と言いたくなるのをスティレンは堪えるので精一杯だった。
だが変に出てしまっては余計話がおかしくなってしまう。
司聖の名前を騙る偽物が目の前に居るものの、今の所何の動きもしていない上に自分だけではどうする事も出来ないのだ。
ここでヴェスカを呼べばいいのだろうか…と思っていると、アーヴィーという謎の男が再び声を上げる。彼の声は非常に聞きやすいタイプの低音だが、言葉の端々に刺々しい印象を与えてきた。
まるで人を引き寄せる気が無いというような雰囲気だ。
「こちらの素性を明かしたとして、お前の仲間達が蘇る訳でもあるまい。こうして集団監視の中で喚き立てるだけ立てておいて、こちらに対して非常に迷惑を掛けているというのは自覚しているのか?…まるで自分だけが被害者だと言わんばかりに」
「実際被害を被っているのはこっちだろうが!こんなもの買わなきゃ良かった!ふざけるのも大概にしろ!!」
旅人はそう言うと、手の平に入る位のサイズの石を男目掛けて投げつけた。
それをすかさず従者の一人が前に出てキャッチする。
「…ふん」
アーヴィーは怒りで身を震わせている旅人を一瞥しながら、懐から財布を取り出した。
「下賤なお前如きに銀貨一枚も出したく無いがな。ま、この位でいいだろう。和解金だと思って受け取るがいい」
そう言い、彼は紙幣数枚を相手に向けて放つ。
現状をただ見守っていたスティレンは思わず顔を顰めた。
あまりにも下劣な対応だと反吐が出そうになるのを堪える。だが、それを有り難がる者も一定数居る事は確かだ。面倒を嫌う貴族ならではの強引かつ下品な解決法の一つである。これを平気でやるあたり、このアーヴィーという人間の程度が何となく理解出来た。
ヒラヒラと空を舞う金を呆然と眺めた後、旅人は「…馬鹿にしやがって!!」とそれを受け取る事無くその場から去ろうと踵を返す。
「ひぇえっ」
…今度は別の方向から違う声が聞こえてきた。どうやら別の者が旅人の進路を邪魔してしまったらしく、すみません!と続けて謝罪する声が響く。
「…ちっ。どこ見てんだ、気をつけろ!!」
「は、はい…申し訳ありませんでした…」
…あれ?とスティレンは思わず聞き耳を立て、そして声の方向へ近付いてみた。白っぽい外套を頭から被った長身の男は旅人にしきりに頭を下げ、遠慮がちに旅人から避けていた。
怒りの矛先がこちらに向かって来ない事に安心したのか、そのままやり過ごした後に一息吐いた相手の顔をようやく確認すると、スティレンは「あうっ…!?」と言葉を詰まらせてしまう。
なるべく自らの顔を出さぬようにフードで隠しているものの、隙間から垣間見えるバランスの良い顔立ちは一瞬だけでも印象に残ってしまう。
しかも何度も見ている人物ならば尚更だ。
「(何でこんな場所にこの人が…!?)」
流石にこれはまずい。
旅人から身を引っ込め、恐縮している彼の近くへスティレンは飛び出していく。あの偽物一行と、気分の悪い貴族風の男に目を付けられでもしたら余計面倒な騒ぎになってしまう。
彼らの一人が仮にロシュの名前を呼んだりしたら…。
幸い、偽物一行は店の中に戻ろうと話をしている最中だ。出来る事なら問題を起こす前にさっさと退散して貰いたい。
店外でも食事が出来るように作られたウッドデッキの小さな階段を足早に進み、なるべく無関係を装いながら本人の前へと飛び込むと、フードの中を確認するべく顔を上げる。
「…失礼!」
スティレンはそう言い、自分より少しばかり背のある相手の顔を覗き込んだ。
「あ…!?」
相手もスティレンの顔を確認した後、「あぁ!」とぱあっと表情を明るくしながら声を上げようとした。
「スティ…」
「しっ…!どうかお声を落として下さい!」
「???」
どうにか内密に事をやり過ごしたいと願うスティレンの思惑が分からないロシュは、きょとんとした顔を見せる。スティレンは偽物一行が店に消えていくのを用心深く横目で見届けた後、ようやくロシュに向き直った。
偽物一行の内の一人が彼の名前を使って不穏な行動をすれば、当然本人も反応してしまうだろう。慎重に様子を見るかもしれないが、自分の名を騙る者が目の前に居れば気分も悪くなるに違いない。
仮に他の知らぬ誰かが自分の名を名乗って悪事をするとなれば、非常に不愉快だと感じるだろう。
例の一行が酒場の奥へと姿を消すのを見届けた後、スティレンは声を潜めるようにしてロシュに「どうしてここに?」と問う。どう考えても、彼のような最高位に値する人物が退屈がてらに寄るような場所ではない。
気分転換にしても環境が悪いこの地域に足を踏み入れるなどとはあまりにも危険過ぎる。
ロシュは「あはは…」と軽く笑った後、バツが悪そうな表情でスティレンの問いに答えた。
「あなた方を探しに来たのですよ、スティレン」
その答えを耳にすると、スティレンは一瞬動きが停止してしまう。
…今何と言ったのか。
探しに来た、と言っていたような気がしたが。
自分らを探しにロシュ自らこんな環境の悪い場所へ?という意味不明な発言に、脳内の処理が追いついていかなかった。
それなら自分の護衛であるリシェに任せればいいだけの話ではないだろうか。彼が自らここに来る必要は無いはず。
「いや…あの…意味が分からないんですが…」
アストレーゼン司聖の発言を受け、一般の宮廷剣士であるスティレンは困惑するように答えていた。
『まだ起きているのか、オーギュ』
それまで共同のベッドで寝入っていたファブロスは、隣に居るはずの主人の姿が見えない事に気が付くと、おもむろに上体を起こし彼の姿を探していた。
オーギュは愛用の書斎机に張り付くようにして作業を続けている。帰ってからもまだ仕事をする気か…と呆れるものの、彼らしいといえば彼らしいのでもう何も言う気が無かった。
ずっと肩位までの長い髪がすっきり切られた事で相当身軽になったのか、鬱陶しそうに前髪を寄せる仕草も無く仕事や研究に没頭出来るようだった。特有の動きが見れなくなったので寂しい気持ちにもなったが、髪が短くなった事で実年齢よりも若く見える。
神経質そうな印象だったのが、切った事によって逆にとっつきやすいイメージに変化したのはプラスになったのではないかとファブロスは思うのだった。
「明かりが目に障りましたか?…すみません」
『いや…こっちは別に構わないが、お前が疲れるといけない。いい加減仕事をするのを止めろ』
「分かってますよ。気掛かりだった事があったので調査書を確認していただけです」
『?』
真新しい眼鏡で書類を見ながらオーギュは言う。
以前大聖堂での騒ぎで愛用していた眼鏡が割れてしまったので新調したのだが、視力が落ちていたせいもあってか調整に時間を要していた。ようやく落ち着いて見れるレンズが適合したので慣らしている最中だ。
「偽者の司聖を名乗る者達が城下街を横行している件の調査書です」
『…それは今ここでやる事か?お前が隣に居ないからベッドが冷たいではないか』
ファブロスは意味不明な事を言い、オーギュを困らせる。
「普通に寝てたら暖まるでしょうに…」
『部屋に戻ったら自分の時間を大事にしろと言っているのだ。お前は切り替えがまるでなっていない』
自分ではそう思っていないのだが、第三者から突っ込まれる位なのだろうか。程々にしているつもりだが、気が付いたら集中してしまうようだ。
ふと時計を確認すると、結構な深夜帯になっている模様。
オーギュは「…あぁ」と呟く。
「こんな時間だったんだ…すっかり夢中になってしまった」
今更気付いてしまう。深夜の二時を少し超えた位だが、流石に遅過ぎる。
いい加減休まなければ大変な事になってしまう。
『だろう』
ファブロスは呆れつつ、ベッドから立ち上がった。
『仕方無い奴だ。すぐに眠れるように温かいミルクでも作ってやろう』
「あ…大丈夫ですよ、自分でやれますから」
睡眠を邪魔してしまった上に就寝までの世話を焼かせる訳にはいかないと、オーギュは椅子から立ち上がろうとする。だがファブロスは『いいから』と制止した。
『私が作っている間、キリの良い所で終わらせろ』
「………」
止めておけと言いながらも、こちらの気が済む程度まで待ってくれるようだ。生活習慣に慣れ切っているのか、それとも自分の事を尊重してくれているのか。
この召喚獣は変に自分の行動を上手く理解してくれていた。
「…怒っているのですか?」
『…いや。お前が作業し始めたら止まらないのは良く知っているからな。私が止めろと強引に怒った所で、お前は絶対言う事を聞きやしないだろう?』
「………」
カップに適量のミルクを入れた後、小振りの鍋に流し込んだ後で炊事用の焜炉に火を付ける。アストレーゼン内の焜炉は木炭や練炭が主流だが、特有の魔石を使って火を起こす事も出来た。
発火用の魔石は木炭や練炭よりもかなり長持ちするものの、あまり一般的に流通しておらず、現状ではコストが高く主に貴族階級が好んで利用している。
長い目で見れば魔石を用いての発火の方が消耗しにくい分コストパフォーマンスが良いのだが、一般民が手軽に買える金額では無かった。
『お前に無理をして欲しくないから注意はする』
「まるで保護者のような発言ですね」
『……いけないか?』
鍋の中のミルクが温まるにつれ、甘い香りが室内を占めていく。その香りは妙な懐かしさを覚えた。
…別に昔の思い出は無いのに。
オーギュはふふっと表情を緩ませると、いいえと返す。
「あなたは元々世話焼きな性質なのでしょう」
彼の達観したような言い方に、ファブロスはふんと軽く鼻を鳴らした。
『お前だからつい言いたくなるのだ。これでも心配しているというのに、何だその他人事のような言い草は』
「気持ちは十分に伝わっていますよ…もう仕事は止めにしますから」
『全く…ロシュの偽者が城下にどれだけ存在するのか知らんが、お前がそこまでして必死になる程の事なのか?』
存分に温まってきたミルクの状態を見て、マグカップにゆっくりと注ぎ込む。注がれたカップは徐々に温まり、湯気と共に熱気を放ち始めた。
ほら、とファブロスは手慣れたように書斎机のオーギュの目の前にミルクを置く。
「ありがとうございます」
無作法だった召喚獣のファブロスに対し、少しずつ人間としての生活に順応させていた成果が出ているのを、オーギュは内心嬉しく思いながらカップに手を掛ける。
彼は自分が居なくなった後もこの世界で生きていく。召喚獣としてただ生きていくよりも、人化出来るのならば人間としての立ち振る舞いも覚えていった方がいい。
熱いミルクは喉元を通して、全身を温めていく。
「ああ、美味しいです」
『そうか。良かった。ゆっくり休めるといいのだが』
「作業もそこそこにして終わらせますよ」
『ああ、それがいい。…それにしても、ロシュの偽者がそんなにアストレーゼンに居るものなのか?』
ファブロスの単純な疑問に、オーギュは「そこそこにね」と表情を若干曇らせた。
大聖堂に居る人間ならば偽者だと見破れるだろうが、彼の姿を見た事のない者は城下に大勢居るだろう。住民ならばなんとなく姿を見れる機会もあるだろうが、外部からやってきた人間はまず実物を見る機会が無いだろう。
要はその人間を相手に、偽者として振る舞っている輩が存在するのだ。ただ成りすますだけならば何も害は無く、特別問題視する必要も無い。
「何も無いならこれだけ悩む必要は無いんですよ。問題なのはその偽者が司聖の恩恵に与れると偽って、胡散臭い物品で金銭を巻き上げている輩が居るっていう話です」
『ほう』
「適当な観光客向けの品物で釣るなら安全かもしれないですが、彼らが交換に使っているのは魔導具の一種のようです。ハッタリを効かせるには十分でしょうが、扱いを間違えれば大変な事になってしまいます」
溜息混じりにそう言い、書類を纏めて机の角に置く。
夜が明けたらその件についてロシュと話もしなければならない。そう思っていると、体が暖まってきたのか眠気が湧いてきた。
『そこまで見栄を張って何かいい事があるのか?他人に成りすますとは恥ずかしいと思わんのか』
「知りませんよ。それは本人に聞いてみないと…ここの司聖というだけでアストレーゼン内では皆尊敬の眼差しを向けますし。偽者になりきって満たされてみたいっていうのもあるのかもしれません。問題が起きても逃げ切ればいいだけですから」
顔が割れやすい住民には出来ない芸当だ。むしろ、根無し草の旅人だからこそ出来るのだろう。
「そろそろ休みますかね…温かいミルクのお陰で良く眠れそうですよ」
『そうか。それは良かった。眠る準備をして休め』
ベッドで待っているからとファブロスは告げると、空っぽになったカップをオーギュから受け取る。
夜が明けたらまた同じ事で頭を悩ませなければならない。
…その他にもやる事は山積みなのだ。
外出していたスティレンが、姿を隠し旅人に扮したようなアストレーゼン司聖ロシュを連れて戻ると、ルイユは勿論だがヴェスカは飲んでいたアルコールを吹きそうになっていた。
「こんばんは、ヴェスカ。良かったぁ、ルイユも保護してくれていたのですね」
まさかここでロシュと再会するとは思わなかった。
ヴェスカは当然の如く慌て、狭い席の中で身を正そうとするが立ち上がるにも一苦労だった。席と席の間が非常に距離が小さいので背後に居る他の客にも遠慮しなければならないのだ。
薄暗い中でもそれが分かるので、ロシュは「そんなに改まらなくてもいいですよ…」と苦笑いする。
外套のフードで頭をすっぽり覆っていても、その隙間から垣間見える整った顔立ちは他者の目線を惹きつけそうだ。
「な、何でこちらに…」
むしろこのような環境の良くない場所に足を踏み入れてはいけない人間なのに、自ら訪ねてくるとは。困惑したままのヴェスカに、スティレンはロシュの代わりに説明する。
「俺らを探しに来たって言ってます」
「ええ、ええ。ルイユの事でご実家側から連絡が来ていたのに、私がそれを失念してしまって…」
空いている椅子に腰を掛けながら、ロシュは言った。
「それならリシェを使いに寄越せば良かったのに」
何してるんだよあいつ、とスティレンは呆れた。彼が動けばわざわざロシュ自らこのような場所に来なくても良かったはず。
酒場となれば探すのは難しいかもしれないが。
「いやぁ…それが、ちょっと無理をさせてしまったので…なので、私が責任を持ってこちらに来たのですよ。それに、失念していた私のせいですからね」
「?」
意味深な発言を聞き、ルイユはきょとんとしていたがヴェスカは「あぁ」と変に納得した。
「そしてオーギュに知られれば雷を落とされそうですし…」
「あー…なるほど…」
最高位である司聖でも、補佐役が非常に恐ろしいようだ。
毎日顔を合わせていれば慣れてきそうなものだが。
普段冷静な顔をしているリシェを思い出しながら、ヴェスカは大変そうだな…と変に同情してしまった。流石に面子が低年齢層が居るので、あからさまに口にする事は憚られた。
「でもあなたが保護して下さってて良かったですよ。ほら、霧も出てきてましたからね…探知しようとしても、探す相手の気配が掴みにくかったので」
そう言い、ロシュはフードの下で安堵の笑みを浮かべる。
「城下まで来て下さったんだから、何か食べて行くといいですよ。ほら、滅多にこっちに来られないんでしょ?」
アルコール以外の物ならば大丈夫なはず…とヴェスカはロシュに卓上のメニュー表を手渡した。人数が増えてやや手狭くなったものの、使い終わった食器類を下げればどうにかいけるだろう。
何しろ卓上の食事のほとんどはヴェスカが注文したもので、スティレンとルイユはそれを軽く摘む程度にしか口にしていなかった。
「俺らと同じようにヴェスカが頼んだもん食えばいいんじゃん。大抵は食えるだろ、ロシュ様は」
特殊職に値する司祭の食事は何らかの制限があるらしいとは人伝で耳にしているが、上位に君臨するロシュはどうなのだろう。
「ええ、特に好き嫌いは無いので…」
「逆に食べてはいけないって物は…?」
制限があれば相当体に良い食事をしているのかも、とスティレンは思う。そうなれば、美容の面でもアドバイスを乞えるかもしれない…などと頭の中で考えが過ぎった。
年齢の割に彼の肌は陶器のようで、どうやってその美貌を保てるのだろうかと羨ましかったのだ。
ロシュはふんわりと微笑むと、食事に関しては普通でしょうかね、と前置きする。
「まぁ…大量に動物の肉を摂取するのは控えて欲しいって位でしょうか。そこまで欲は無いので大丈夫ですよ。結局、殺生の類になってしまいますからね」
与えられたものに感謝しながら残さず食事をするように、という位だろうか。
「へぇ…ロシュ様があまり食わない分ヴェスカが食ってるようなもんじゃん」
延々と口を動かし続けるヴェスカをチラ見した後、ルイユは変に納得する。
「勝手に共同の胃袋みたいにするなよ…」
おかしげな言い方をするルイユに呆れながらも、ヴェスカは店員に向けてこちらに来て貰うように手を振るう。
「じゃあ食うには問題無いって事だよな!折角だから食っていけばいいよ!飲み物は何にするんだ?酒か?」
揚々と別冊の飲み物表を手に、ルイユはロシュに話し掛けた。ちょうど自分の分のジュースも空けた様子だ。
「あぁ…っ、私はお酒類はあまり」
「え、そうなの?」
「はい。明日というか、仕事にも影響が出ますからね」
「そっかぁ。あまり無理はしちゃいけないもんな」
そこまでアルコールには強く無さそうだもんな…と思いながら無理強いをするものではないと判断しながらルイユは軽く頷くと、ロシュに飲み物のカタログを手渡した。
アストレーゼンだけでは無く、国外の酒類が記載されている冊子を手にしながら、ロシュは少し残念そうに苦笑いを交えつつ「勿体無いんですけどねぇ」と言った。
全く飲めなくはないんですよ、と言いながらソフトドリンクの欄を眺める。
「………?」
やはりこのように刺激的な環境に居るからなのだろうか。妙にもどかしい雰囲気を抱いているかのようなロシュの様子を見て、スティレンはヴェスカに小さな声で問い掛ける。
「…副士長」
「…んあ?」
出来る限り声を顰めながら、スティレンは続けた。
「ロシュ様はあまりお酒は嗜まないんですか?何だか随分物欲しそうな感じがしますけど」
「あー」
ヴェスカはその問い掛けに、理解を示すように頷いた。
「飲めるっちゃ飲めるんだけどな…」
僅かでも口にすると違う性格が出やすいのを知っていたヴェスカは、参ったなと言わんばかりに赤い髪を少し掻きむしった。
当の本人を目の前にしながら、一滴でも口にすると豹変する可能性があるとは言い難い。どう説明したらいいのか分からず、やっぱり仕事に差し障りがあるからさ…と言い淀む。
折角酒場に居るからには、美味しい酒にありつきたいと思うのは当然の気持ちだろう。
多少飲んでも影響が無いのなら一向に構わないが、彼は一口でも口にすれば、普段のロシュではない変化をもたらすかもしれないのだ。
リドランの件やリンデルロームの件があるので自分からはどうぞ飲んで下さいとは言えなかった。それにここは顔が割れているアストレーゼンの街中で、正体がバレた時が一番困る。
街の酒場で司聖が飲んだくれて暴れているなどという話が出回ってしまったら…と思うと、噂はすぐに街中に駆け巡るだろう。そして補佐役であるオーギュも黙ってはいないはず。
偶然とはいえ帯同していた自分にも怒りの矛先が巡ってくるに違いない。
そんな事になってしまえば、魔力の耐性がほとんど無い自分は即死してしまうだろう。
残念そうなロシュを前に、ヴェスカは内心ハラハラしつつジョッキに注がれた麦酒を飲み干していた。
…流石にそろそろ浄化が必要だろうか、と暗く見える魔石をテーブル上で転がす。
先程苦情と共に返却されたその丸い石は、初期に購入した時よりも遥かに陰鬱な淀みを受け、輝きも鈍みを増していた。
各地で様々な詐欺紛いの事をして生計を立てている彼らは、その地方に赴く前に念入りに下調べを行う。
例えば行き先が魔法に特化し、魔術を心酔する都市ならばそれ相応の支度をして旅の高位魔術師を名乗り、またある地域が商人で栄えた場所だとすれば交易商人で各地を巡っていると言って別で購入した無価値の物を上手い事を言い高額取引して回る。
その取引した品物が価値の無い物だと判明し、相手が血眼になって探し回る前に自分達は街から姿を消す…というやり方を繰り返し行っていた。
そして辿り着いたアストレーゼンでは、司祭の力が強い事を知り、自分達の顔を隠しながら同じような旅人相手に恩恵のあるものだと称して魔導具の類を売りつけていた。
各地を同じように転々とする旅人相手ならば、司聖の恩恵があるものだと言えば少なからず興味を向ける者が居る。彼らは基本的に世間知らずな面もあり、地に足を付けて生活している人間よりも警戒心が無い。
これはこういうものだと真剣に説明すれば、そのような有難い物を自分に見せてくれるのかと純粋に鵜呑みする。その上で仲間の誰かが実は自分が司聖で、気分転換に街に出ているのだと言えば酒の勢いもありころりと信じてくれるのである。
旅行者を相手に荒稼ぎしていた時に出会ったのが、今この目の前でつまらなそうにワインを口にしている貴族階級の謎の青年…アーヴィーという男。
深い素性は良く知らない。彼はあまり自分の事を話そうとはしなかった。
お互いに顔を合わせたのもごく最近の事だ。
アストレーゼンの司聖とその連れという体で周辺に言い回っていた矢先に出会った。
素性を知らずに振る舞うものの、貴族階級の人間が相手では流石にバレると危惧していた。その場を適当に誤魔化して離れようと思っていたが、彼は何かを察したのか特別何も言う事もなく、こちらが司聖を騙っているをいう事は把握していて「面白い事をしている」と他人事のように述べただけ。
アーヴィーが正義感に満ち溢れた性格ならば、偽物を騙る不届き者だとしてすぐさま大聖堂へ報告するだろう。だが彼は幸いにもそのような面倒なタイプでは無いらしく、密告する動きも無いまま現在に至る。
彼は司聖の偽者が何しようが構わないらしい。
この貴族の青年の立場がどういったものなのかは把握していないが、会話から読み取る限りだと司聖の側近の身内なだけで特に近い関係ではないようだ。
「アーヴィー様」
三人のうちの一人が例の貴族の青年に話し掛けた。
「大聖堂で魔導具の浄化が出来るんでしたっけ?」
気怠げにカウンター席でワイングラスを傾ける男は、その言葉に反応するかのように別席に居る旅人三人の方へ目線を向ける。
「そろそろこの魔石の色合いもヤバい。持ち出した奴らの色んな念が良く入り込んで来たんじゃないかと思ってね」
扱っている物が魔導具というある意味厄介な物には、人の念が入り込み易い。
それも、途中で命を落とした後に回収したものならば尚更。先程苦情を言っていた旅人から返却されたこの魔石は、彼が失った仲間の念も入り込んでいるに違いない。
魔石を持っている事で魔物が寄り付いて来た、と明言していたのだから。魔物を惹きつける位にまで悪化しているなら、早々に浄化しないと後々面倒な事になるかもしれない。
そのまま放置して捨てても構わないが、この石はアーヴィーが「旅の資金の役に立てるといい」と言って購入したもので、こちらが無碍にする訳にもいかないのだ。
これで一体何の役に立つのか…と悩んだ末、この与えられた魔石使えば金銭の足しになるかもしれないと思い付いた方法が、『自らがお忍びで大聖堂から街に遊びに来た司聖御一行が、この国にやって来た旅人を相手にお守りを与える』商売。自分達のように根無し草の立場には、同じ立場の人間を相手にするのが一番安全だろう。
不審がられたとしても、全員の顔を包み隠してお忍びだと言えば納得してくれる者も居る。仮に、疑われればそのまま立ち去ればいいだけの話だ。
一見立派に見える魔導具を司聖の加護がある物だと他の旅人に購入させ、何らかの形で返品させるように仕向ける…というシンプルなやり口。
ただ、多少曰く付きでなければ返品として戻ってこないので多少の邪気を含ませたまま魔導具を利用している。持っている者にある程度災いが起こらなければ利用価値が無いのだ。
この魔石を利用していくうちに、持ち前の澄み切った輝きは失せ、その代わりのように暗く澱んだ妖しい輝きに変色していった。それは多少魔法を齧った者でも十分に目視出来るレベルにまで達していた。
ここまで変色したからには、一度それなりの場所で浄化しなければならない。様々な人間の手に渡ってきた代物なので、それぞれの念が入り込んだり魔力の干渉を受け続けてきたので完全とまではいかずとも軽減する必要があった。
幸い、ここは司祭の国であり物品の浄化には最適な環境下にある。アストレーゼンの貴族という立場のアーヴィーならば、何処の馬の骨とも知らない自分達よりは存分な信頼度があるだろう。
彼が向こうに口聞きしてくれれば、安値で魔導具の浄化も出来るはず。
不穏の澱んだ魔石の輝きをアーヴィーに向けながら、更に顔を隠したままの一人が続けた。
「あんたなら大聖堂に悠々と入れるんだろ?何しろここまで色が劣化してきたんだ。このまま放置するのも厄介だ。向こうでどれ位の金額で浄化してくれるのかは知らないが、金額は支払うから浄化して貰いたい」
「………」
アーヴィーはこちらから話しかけても、無反応を決め込む事が多い。今回もそれか…と呆れながらも、彼らは更に続けた。
上流階級の自分に対し声を掛けるなどとは笑止千万だと何処かで思っているのだろうか。ならば最初からこちらに声を掛けなければいいだけの話だ。
こちらにも意地というものがある。
初顔合わせから何処となく見下す姿勢が垣間見えたが、彼は元々そういう性格なのだろう。
そう思っていれば、いちいち腹を立てずに済む。
大体、この魔石を持ち出したのは彼自身だ。このままいけば自分達にも少なからず悪影響を及ぼすのは理解しているはず。このまま放置して、次の譲渡先に手渡すのも良くないだろう。
むしろ淀み過ぎて受け入れてくれない恐れもある。
魔法を多少齧った者ならば目視ですぐに分かるだろう。
それも司聖を名乗っている者から与えられる物にしては、危険極まりない代物だ。この妖しく澱んだ輝きは、この魔石を手にした事で災いを受けた者達の念が強く込められていた。
禍々しい光を放つ魔導具をしばらく無言で見つめていたアーヴィーだったが、やがてふっと目線を離すと抑揚の無い声で答える。
「悪いがその頼みは受け入れられない」
「………は?」
「明け方に用事がある。俺はここから離れなければならないんでね。そもそも、大聖堂の浄化に関しては一定の制限がある。お前達のような出身が不明瞭な旅人だと、大聖堂の司祭クラスとのお目どおりは難しいだろう」
無責任な発言に、三人は耳を疑った。
「あんたはこの国の貴族なんだろ。大聖堂に普通に出入り出来るんだろうよ。少しくらい時間を割いてくれても」
思いがけない拒否の言葉に、一同は愕然としつつもアーヴィーに嘆願するような口調で続けた。だが、彼は冷たく同じ言葉を返す。
「それが出来ないから言っているんだ。言っている意味が分かるか?それまで散々道具を使って金を稼いできたんだ。これからは自分の食い扶持位自分でどうにかするんだな。無理だと思うが、大聖堂に掛け合ってみるのもいい。約束無しなら門前払いかもしれないが」
一方的に突き放す態度を崩さない相手に、内心毒付いた。だがここでお互いに押し問答をするのも無意味だ。
多少下手に出て頼むやり口で話を進めていく。
「…俺らには伝手が無いのを知っていてそんな事を言い出してるのか?これはあんたにしか頼めないから頼んでる。仮にここから出たとしても、そのうち戻って来るんだろ?」
それでもアーヴィーはワイングラスの残りの液体を軽く揺らしながら「さぁ…」と呟いた。
「俺は向こうに行く用事は無いんでね。試しに行ってみたらどうだ?話が分かる奴に会えたら浄化も簡単だろうが、それでも予約が必要になるかもしれない」
「あんたの立場ならその段取りなんてパスしていけるだろ…いい所出の貴族様なら」
若干嫌味を込めた言い方が気に障ったのか、彼は眉間に皺を寄せて三人を見た。切れ長の目元は僅かに細くなると、非常に冷たい印象を与えてくる。
お互い立ち位置が違うのは理解しているが、彼らの前には分厚い壁が立ち塞がっているようだった。
「…ふん。こういう時にこちらの立場を利用するのはどうかと思うがな。こっちはあくまで資金繰りに困っているお前達に僅かな救済を与えただけに過ぎないんだぞ?その魔石をどう扱おうと、お前達の自由だと最初に言っただろう。まぁ、多少は悪意の循環の手伝いをしたかもしれないが」
そう断言されれば返す言葉を失ってしまう。
彼の言う通り、アストレーゼンに訪れた際は資金繰りをどうするか悩んでいた。司聖の名を借りて行動をする事は決まってはいたものの、それでは何かしらの恩恵を受ける事は出来ない。証拠は?と言われても、それに値する何かが無ければ話が進まないのだ。
行き詰まりかけたその際にアーヴィーが出現し、今に至っている。こちらの資金稼ぎに少しばかり協力してくれた事は大変有り難いが、ある意味詐欺の手助けをしているのはどう思っているのか。
時間をやや置いて、一人が口を開いた。
「あんたも俺らに協力したんだ。当然何かあればバレる可能性だって無い訳じゃない。もし俺らが捕まったとして、尋問されたらあんたの事も話すかもしれない。その時はどうするんだ?」
脅迫とも捉えられかねない発言に、アーヴィーはフッと口元を緩めた。こういう状況は慣れ切っていると言わんばかりの様子が垣間見える。
「仮にお前達が捕まったとして」
「………」
「アーヴィーというアストレーゼンの貴族は一体誰だ?という話になるだろう。こちらも素性の知らない人間に対して馬鹿正直に自分の正体を明確にする程愚かじゃない。この薄汚い酒場で安い酒を飲んでいるのも単に気紛れでしかないさ。何処ぞの馬の骨とも知らない困っている相手に救いの手を差し伸べるのも単なる気紛れだ」
明らかに馬鹿にする言い方に、一向はぐっと言葉を詰まらせた。
「…この魔石が浄化されないまま放置されれば、また何が起きるか分からないんだぞ。大体、あんたのアドバイス通りにした結果だ。実際死んだ奴も居る。その分余計な邪念も吸い込んでいるはずだ。それでもあんたは知らないふりをするのか?」
あくまで同じ立場だと強調して訴える。
話を持ち出したアーヴィーにも責任の一端があると振るが、彼はあくまでこちらは他人の様相のままそれを崩さない様子だ。
しかも、何か言う度に小馬鹿にしたように返事をしてくる。
「こっちは話を持ちかけただけだ。利用したのはそっちじゃないのか?それなら自分達で最後まで責任を持つ事だな」
元々、この謎の貴族の発言を最初から鵜呑みにしていた訳では無い。彼は心の奥底で完全にこちらを馬鹿にしているのを知り、沸々と怒りが湧いてくるのを感じずにはいられなかった。同時にこのような無責任な人間と会ってしまった自分達の愚かさに落胆してしまう。
司聖を名乗っていた白い外套を纏う旅人は、小さく舌打ちする。
こいつに会うんじゃなかったと心底思った。
最初から何も考えずに、軽い気持ちで施しを与えて来ただけの話だったのかと。
「…馬鹿馬鹿しい。それならこの禍々しい魔石をそのまま廃棄すればいいだけだ。残念だよ、あんたみたいな人間に会って」
このままでは魔石の中の邪気が膨れ上がるだけだ。
浄化も出来ないのであれば、こちらで処分するしかない。
「貸せ」
「ちょ…何処へ持って行くんだ!?」
仲間が持っていた魔導具をひったくると、彼はその足で酒場の外へと向かっていった。
カウンターの奥に掛けられている薄汚れた壁掛けの時計をちらりと目にしながら、ヴェスカは「そろそろ出るかぁ」とぼやく。
流石に子供連れでいつまでも滞在する訳にはいかない。良い具合に飲み食いもしたので、胃も満足しているはずだ。
「戻る前に何か食い足りない物は?」
テーブルに上がっている食器類は既に空に近い。ほとんどヴェスカが頼み、ルイユ達は軽くそれを摘む程度だった。
彼の特有の食べっぷりは見ていて気持ちが良いが、あまりにも吸収するので見るだけで満腹感を得られる。
「お前の食いっぷりを見た後でそう言うのかよ」
ルイユは呆れ、スティレンとロシュに目を向ける。全員同じ気持ちらしく、苦笑を交えつつもう大丈夫だと告げた。
「普段口にしないご馳走も頂きましたから満足ですよ」
大聖堂からほとんど出ないロシュにはとても新鮮だったらしく、地元の農園から直接取り寄せた野菜系のメニュー中心に頼んでいた。
流石にここまで足を踏み入れてくるとは思ってもいなかったが、いい気分転換になったようだ。
「ロシュ様がそう言ってくれると有難いですよ。んじゃ、会計して外に出ますか。先に外に出ていて下さい、俺払って来るんで」
大半が自分が飲み食いした自覚があるので、諸々の支払いは自分がやると決めていた。しかしロシュは「待って下さい」と彼を止める。
「私もお支払いしますよ」
「いや、俺がほとんど食ってたんで…みんなそこまで食ってないだろうし」
「私も結構頂きましたよ。ほら、ここは大人としてお互い折半しましょう」
フードの隙間から優しい笑みが見えた。
司聖のロシュから払わせるのは非常に心苦しいが、彼の申し出を無碍にする訳にもいかない。ヴェスカは「分かりました」と笑い、ロシュから渡された金銭を受け取るとカウンターへ向かう。
「あんまり周りなんて見なかったけど意外に狭いんだなぁ」
混み合う店内をどうにかすり抜ける形で入口付近まで足を運び、ルイユは呟いた。
客が出入りするのを見ながら、出来るだけ邪魔にならないようにしていた矢先にスティレンがちょっと!!と声を上げる。
「おお、悪い悪い」
「手癖悪過ぎるでしょ!!何なの!?」
「可愛い顔してっから女かと思ってよ…」
「女だと思ったからってやっていいと思ってる訳!?残念だね、俺は男だよ!!てか、どさくさに紛れて人様の尻触ってんじゃないよ気持ち悪い!問題を起こされたくないならさっさと行きな!!」
スティレンの怒鳴り声に、酔っ払った毛むくじゃらの男はニヤニヤしながら店内へと姿を消していく。
治安の悪い場所なのでこういう事は大して珍しくない。しかも酒が入って善悪が麻痺している人間が増える環境下にある。理不尽なハラスメントが嫌な人間は足を踏み入れてはならないのだ。
スティレンはその見た目から害を受ける事も多かったせいか、強気な性格も相まってきつく突っぱねる事が出来た。
その様子を見ていたルイユはほえー、と呆気に取られていた。
「随分慣れたあしらい方してんなぁ」
「ふん、別に慣れたくて慣れた訳じゃないさ。俺は美しいから変なのに狙われても仕方無いんだよ。だから舐められないようにしとかないと」
恐らく顔を隠していなければロシュも変な輩に遭遇してしまうに違いない。背丈はあるものの、その中性的で優しい顔立ちは見る者に誤解を与えかねないものだ。
今は出来るだけ顔を覆い隠しているので、見る限りでは怪しまれる事は無い。
「はぁ、鬱陶しいったらありゃしない。どんだけ飲みたいんだか…」
スティレンが愚痴を吐くように、絶えず店内には客が出入りし続けている。
恐らくこの時間が一番のピークなのだろう。各地から途切れる事無く旅人達が訪れるアストレーゼン内は、常に宿街の客入りは激しくなる。
天候によって変動はあるものの、中継地点となる為にか夜間は旅の疲れを癒す者達で非常に賑わい続けている。この周辺で店を構えたがる者も決して少なくは無かった。一度ここに店を構えれば、ヘマをしない限りは食いっぱぐれが無いのだ。
様々な食事やサービス旺盛な宿が立ち並び、賑わいを見せるこの地域も、ある意味ではアストレーゼンの観光地となっていた。
「おう、お利口さんで待ってたな」
人の波を縫うようにしてヴェスカがカウンターから戻って来る。
「お利口さんにしてないのはスティレンだけだった」
先程の騒ぎをルイユが軽く茶化すと、スティレンは「…正当防衛でしょ!」と怒った。
「知らない奴にお尻を触られて喜ぶ馬鹿なんて居る訳ないじゃないさ」
薄汚い男のいやらしい笑みを思い浮かべ、吐き捨てるように言う。
それは災難だったな、とヴェスカは苦笑する。こういう場所では決して珍しい事では無いが、この状況下では厳しく取り締まる事も難しい。
「ま、さっさとここから出よっか…他の人の進路も妨げちゃうからな」
「ええ、ええ。そうしましょう。ルイユ、大丈夫ですか?私の手を掴んで」
ロシュは外套の中から手を伸ばすと、ルイユの手を優しく取る。ここで彼らとはぐれては元も子もない。
「おう、ありがと…」
そう言いながらルイユがロシュの手を取ったその時。
人の騒音に紛れ、ミシ…という軋んだ音が聞こえた。重い何かがのし掛かったような、違和感のある音。
だがこの店内に居る人間はほとんど気付かないレベルの僅かな物音だった。
ヴェスカは眉を寄せ、異音のある天井に目をやる。
「…まず…!!」
古い木造の天井に激しく亀裂が入り込むのを確認した。ここで逃げろと叫べば、この密集されている場所は更に混乱をきたし大事故に繋がる。どちらにしろ、大惨事は免れない。
その間にも天井の亀裂が大きくなり、何かが落ちてきそうな勢いで下へめり込んでくる。
異常に気付いたのはヴェスカだけではなかった。ロシュは手を取っていたルイユに「外へ出なさい!」と促すと即座に頭上目掛けて魔法壁を作り上げた。だが反応が間に合わず、バリバリという激しい破裂音と共に天井が一部剥がれ落ちていった。
それまで娯楽を楽しんでいた人々は、急に押し寄せてきたアクシデントに激しくパニック状態と化してしまう。
平和で安全な街の中で起きた為、尚更混乱した。
「…うわぁあああ!な、何だ!?」
「何か落ちて来た、危ない!」
落下してくる粉塵や割れた木材に紛れ、フロア内の客の悲鳴と叫び声が耳に入ってきた。狭い店の中から脱出しようと、人々は挙って更に狭い出口目掛けて集中する。
「…どけ!!」
「押すな、危ねぇだろ!!」
「何すんのよ、痛いじゃないのっ!!」
誰もが我先にと出口を目指し、混乱しながら押し寄せてくる。アルコール類が入った瓶が割れ、破片を踏み締める音も聞こえてきた。
ヴェスカはロシュの姿を雑踏の中でどうにか確認すると、「こっちへ!!」と彼の腕を掴み強引に引き寄せる。人々が逃げる中、バーカウンターの奥へ引っ張り出来るだけ巻き込まれない場所まで誘導した。
幸い、カウンター周辺はロシュの魔法壁によって天井からの諸々の落下は防がれている。だが臨時で張られた為に、それ以外の部分は落下寸前の部分や崩壊してしまった部分もあった。
外套のフードを捲り、ロシュは崩壊した店の天井を見上げると、複雑な面持ちで困りましたね…と呟く。
正体がバレてしまうのではないかとヴェスカは思ったが、今は彼の姿をゆっくり確認する者は居ないだろうと何も突っ込まなかった。
「…何でしょう、あれは」
「んえ?」
指摘され、ヴェスカも彼と同じ方向に顔を向けた。
恐らく店の屋根にのし掛かっているのだろう。動物の爪のような鋭利な物が見える。
「何あれ…」
こんな場所で魔物が出て来るのか?と疑問を抱いた。アストレーゼンは大聖堂は元より、住民が住む城下街一帯を覆う形で強力な結界が張られていて、邪気の類は一切寄せ付けない仕様となっているのだ。
…それなのに、繁華街に魔物が出現するのはおかしい。
誰かが誘き寄せてしまったのか、それとも能力のある魔物が人の形に擬態して侵入してきたのか…。
だが今はその事について思案している暇は無い。自分らに出来る事をしておかなければ。
「…とりあえず追っ払うのが先っすね」
休みに来たのに、ここでまた労力を使う羽目になってしまうとは。ヴェスカは内心舌打ちしたくなったが、後で緊急時対応として残業申請してやろうと少し浅ましい事も考えていた。
「ロシュ様、頃合いを見てここから逃げた方がいいです。危ないですし、スティレン達と合流して貰えれば」
流石に彼に加勢してくれとは言い難い。
ロシュの能力は自分でも良く理解していたが、流石に危ない目に遭遇させる訳にもいかなかった。
ここは宮廷剣士である自分がガードしなければと思い、彼に先にここから脱出するよう促す。外にはスティレンもルイユを連れて出ているはずだ。合流して貰えれば、同じ剣士である彼も自分に加勢してくれるだろう。
ヴェスカの進言を受けたロシュは、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「いえいえ…流石に立場上、この場を見過ごす訳にもいきませんよ」
そうは言うものの、単独だと何の戦力にもならない。出来る事はサポート中心になるだろう。
自分がオーギュのような魔導師なら、いくらでも加勢が出来るのだが。
上から減り込んでくる大きな爪の先を見上げた後、屋外から脱出しようとする客の流れを確認したロシュは「怪我人が居るでしょうね」と呟いた。連戦をある程度こなしている熟練の旅人ならば多少の怪我は慣れてはいるだろうが、ここに居る客は一般民も多い。怪我慣れしていないその一般民を優先的に治療を施したい所。
…思案するロシュの傍で、ヴェスカは違う目線でこの先の騒動をどう鎮圧していくかを考えていた。
「とりあえずあいつをどうにか追っ払っておかねぇとな…どうすっかなぁ」
仕事終わりにそのまま来たので武器の面では心配無い。
だが何故街中でこんな物がいきなり出現してくるのか、とロシュ同様疑問を感じていた。
アストレーゼン内に於ける邪気払いの類は、その魔力の質や強度から他国からも絶賛される位の強靭さを誇っている。それを無視して魔物が出現するという事は、何者かがわざと放出した、としか思えないレベルなのだ。
ガリ、という異音と同時に屋根から落ちてくる木屑。
カウンター越しに押し合う客達は徐々に店外に脱出していき、次第にスペースが開き始めていた。
「あぁ…お、俺の店が」
ヴェスカは自分の足元から悲痛な声がするのに気付く。
カウンターの下、落下物から身を隠すようにして細身のマスターが縮こまっていた。非常にひょろひょろした体型なので、良い具合にすっぽりとカウンターの下に入り込んでいる。
かくれんぼをすると確実に彼は勝ち組に入るだろう。
「ありゃ…おっさん、大丈夫か?」
「これが大丈夫に見えるか?…何なんだよあれは…」
「さあ…確認しなきゃいけねぇからさ。あんたも人が引けたら外に出た方がいい。後片付けはその後だ」
一国の主が騒動を避けるようにして身を隠している姿に若干呆れる気持ちがあったが、この状況は誰も想定出来ないだろう。
「こんな事になるなんて…」
むしろ突如湧いてきたこの状況の被害者で同情してしまった。
ヴェスカは彼に向けて自力で立てるなら頃合いを見て店から出るように促す。まだ混乱の最中だが、少し待てば出られるはずだ。
「出来るならすぐに動いた方がいいです」
魔法壁で押さえ込んでいたロシュはそう呟いた。
「咄嗟に作った壁なので非常に脆いです。向こうの魔力が変に増幅していて、魔法壁の力が押さえ込まれている。このままでは押し負けてしまいます」
防御力を考え、綿密に準備して作成された壁と違い、即席で作った壁では強度にかなりの差がある。高い魔力を誇るロシュが作った壁だとしても、即座に出現させた壁の強度は保証出来るものではなかった。現に張り巡らされた透明な壁には徐々に亀裂が入り込んでいる。
…割れてしまうのも時間の問題だった。
「…だとよ、おっさん。危ないからとりあえずここから出た方がいい」
「はぁあ…くそっ。大聖堂から保証金が出るといいんだがな…あんたらもさっさと出た方がいいぞ、押し潰されたくなけりゃな…」
流石にこのまま半壊した店で商売を続ける訳にもいかないだろう。マスターは己に降り掛かった不幸な境遇を嘆きながら、弱々しくその場を立ち去っていった。
天井の爪は更に建物を押し潰し、その超過に耐え切れなくなった天井が激しく落下した。ガラスや木材の割れる音がけたたましく鳴り響くと、避難の為に動いていた客達の怒声と悲鳴がより一層激しくなっていく。
「…何やってるんだ、さっさと動け!!」
「進め進め!!このままじゃ皆死ぬぞ、止まるな!!」
異様に進行が遅くなる。脱出出来た事で安心した一部の客達が足を止め、そのまま店の様子を眺めているらしい。
止まるな、と罵声があちこちで飛び交っていた。
何やってるんだ…とヴェスカが忌々しく出入口に目を向けていると、別の場所から破裂音が聞こえてきた。
「…死にたくなかったら頭を伏せな!!」
あどけない少年の声が外側から飛び込んでくる。同時に壁に少しずつ穴が空き、物騒な刃物の輝きがチラついた。
バリバリと壁の剥がれる音。
ちょうど人が通り抜ける位の穴が開かれ、外からドヤるスティレンの怒鳴り声が響く。
「ほら、お前らがモタモタしてるから別の逃げ道を作ってやったよ、精々この俺に感謝する事だね!!さっさと抜けな!」
こんな状況でも自分への敬意を要求する図太さを発揮させ、彼はまだ店内に残された人々に向けてそう言い放った。
ロシュは別の新しい逃げ道を作ったスティレンに感謝しながらも、苦笑いを交え「どちらかといえば謙虚な性格のリシェと従兄弟だとは思えない性格ですね…」と思わず呟く。
スティレンが開けた穴を利用し、それまで膠着状態だった人々の動きが少しずつ変化し崩壊寸前の建物から人の姿が抜けていくと、それを待っていたかのように負荷が掛かっていた天井はけたたましい音を上げながら落下した。
外部からの冷たい風と落下した事によって吹き上がる粉塵が入り混じり、不快な空気が鼻腔を責め立てる。ロシュとヴェスカは顔を腕で包み隠すようにしながら、狭いカウンターの下へ潜り込んでいた。
幸いこの周辺は侵入者の目線が入らない場所だ。
「大丈夫ですか、ロシュ様?」
アストレーゼンの司聖の身に何かが起きては後々面倒な事になってしまう。ヴェスカは目の前のロシュに問い掛けた。
「ええ、どうにか…とりあえず大体のお客さんは抜けたみたいですね」
ひょこ、と顔を出して周辺を確認する。すると、真上に大きな影が過ぎった。
「………っわ!!」
黒い柱のような物が眼前に出現し、反射的にロシュは再びカウンターの下へ身を潜らせる。ドン、と地を踏み締める音と共に、全身がビリビリと痺れる感覚に陥る。
風圧の他に、魔力に近い何かを感じた。
「うっわ…何これ、めっちゃ気分悪…」
ヴェスカも説明し難い感覚に触れてしまったのか、思わず口を押さえ不快感を露わにした。腹の底から湧くようなどす黒い感触が全身を包んでいく。
うっかりすると嘔吐してしまう程、体調が激変した。
変な空気に晒されるとここまで酷くなるのかと驚く。
「これはエグいわ」
「多分良くない魔力に感化されたのでしょう。少し解しますよ」
気休めにしかならないかもしれませんが…と言いながら、ロシュは気持ち悪そうにしているヴェスカの背中に手を当てる。あまり魔法の耐性が無い彼には、邪気を大量に含んだ魔力が受付けられないのだろう。
ロシュの回復魔法により幾分かマシになったヴェスカは「ありがとうございます」と礼を告げる。
流石に今のこの状況では体調が云々とは言っていられない。
…魔法の効果がある間に、目の前にある厄介な物体を処理しなければ。
「副士長!」
ある程度人の姿が店内から抜けたのを見計らい、スティレンはヴェスカの側へ合流する。
彼は文句を言いつつも一応剣士の端くれだ。やはりこの状況を無視出来ないのだろう。
「ルイユは?」
「避難したここの店員に、少しの間だけ見てて欲しいって頼みました。あいつが素直に待機出来るか分からないけど…」
好奇心旺盛な彼が黙っていられるか不安だ。そう思い、複雑そうに表情を曇らせるスティレンだったが、逆にロシュは安心していた。
緊張気味だった目元を緩ませながら、「ご無事なら良かった」とふわっとした笑みを浮かべる。
「ロシュ様も外に出た方が良いんじゃないですか?流石にここは危険ですし」
「お気遣いありがとうございます、スティレン。…ですが、私だけ安全な場所で眺めているのもどうかと思いますしね…」
司祭である彼に出来る事など限られているじゃないか、とスティレンは困った顔をしながらヴェスカに目線を送ってしまった。ロシュの能力を目の当たりにした事がほぼ無い彼は、この危険な場所に居続けられてもこちらがやり難いと思っているのだ。
危害を与える魔法は使えない、使えるとすれば無害な魔法に限られてしまう司祭に一体何が出来るというのか。
それならば、外に出て怪我人の手当てに徹してくれた方がまだ良い。
「悪い」
ヴェスカは重い口を開く。
「ロシュ様はここに居て貰った方が助かるわ、俺が」
「………?」
「この目の前のデカ物、変な気を出してくるんだよ。薄っ気味悪い魔力か何か…ロシュ様の魔法でどうにか気を持ててんだけど、無いと俺が吐いてしまう」
そう言い放つ彼の表情と顔色は先程と比べて良いとは言えなかった。ついさっきまで、機嫌良く酒や食事を平らげていた人間だとは思えぬ程に。
「ヴェスカは魔力の耐性があまり無いみたいで。スティレン、あなたも何か感じませんか?」
「俺は…」
スティレンは小さく呟くと、すぐ近くに居る無礼な巨躯を見上げた。依然としてその場に留まり続ける魔物からは若干の不快さは感じるものの、非常に気持ちが悪くなる程では無い。
魔物から発せられる魔力の耐性には、個人差があるのだろう。
ヴェスカは魔力の耐性が無い事で、直に身に浴びせられてしまうのかもしれない。
「魔力の関係で体調を崩す人って見た事が無かったので…副士長がそのタイプだったんですね」
「おうよ」
「なら仕方ありません。ここは俺がどうにかします」
スティレンはそう言い、腰元に隠し持っていた自前の二双の短刀を引っ張り出し両手に装着した。
普段は宮廷剣士用の支給された剣だが、城下街の中で持ち出すと余計な騒ぎになりかねないので最低限持ち歩かないようにしている。
代わりに実家から勝手に持ってきた二振りの小型の剣を隠し持っていた。エルシェンダ家の家宝の一部らしいが、詳しい事はスティレンも良く知らない。
単に扱いやすそうだからという理由で持って来ただけにすぎないが、いざ手に収めてみれば意外に自分に良く馴染んでいた。
別に売り払って生活の糧にするつもりは無いので、実家側も特にその件については何も言ってはこない。むしろ気が付いているかどうかも謎だ。
ヴェスカは「ほー」と感心する口調で呟く。
「お前の性格は本当に剣士向けだな。…でも俺もあまり弱気な事は言ってられないからな。のうのうと休んでる訳にもいかねぇんだよな…」
ヴェスカは魔力の影響を引き摺りながらも、両足に力を込めゆっくりと立ち上がる。
折角ロシュからの恩恵を貰った所なのだ。これで自分だけ見守るのは筋が通らない。魔法をくれたロシュに任せるつもりもなければ、部下であるスティレンに甘えるつもりもない。
「では、私はこの魔物の正体が何なのかを確認してきます」
「え」
建物の上からのし掛かってくる位の巨体だ。
今の状況だと、目の前には屈強な太い足元しか確認出来ない。まだ魔物は状況を判断し難いのか、その体を動かすまでには至っていない模様。
即座に動かない辺り、そこまで聡明な魔物ではないだろう。比較的楽な状況で、どのような相手なのかを判別するのは今しかない。
ロシュは天を仰いだ後、大丈夫ですよと続ける。
「相手の目線では私を追う事は出来ないでしょう。少し魔法の力で浮遊する程度ですから、すぐ戻ってきます」
「ありがとうございます、ロシュ様」
手持ちの剣を鞘からゆっくり抜き、ヴェスカは改めてロシュに礼を告げた。ロシュ本人は戦える能力はほぼ無いとは言うものの、サポート側に立てばかなり強力な助っ人となる。何より回復や補助の魔法が使えるというのが一番だ。自分達のような宮廷剣士は、常に怪我と隣り合わせである。アクシデントがあったとしても、組織内の知識のある救護班のみで、尚且つ臨時に薬品で応急処置が出来る者しか側には居ないのだ。
むしろ、宮廷剣士は真逆のタイプである司祭職とは滅多に顔を合わせる事など無い。本来、司祭は聖堂に篭りがちなので外部に顔を出す事は少ないのである。
その為に、現時点で彼の存在は大きいのだとヴェスカは思う。
「いいえ。私にはこういう事位しか出来ませんから」
ロシュはいつものように優しい笑みを浮かべた後、魔力を利用してすうっと浮上していった。
…くっそぉ、ガキだからって馬鹿にしやがって。
大人しく待機していろとスティレンに釘を刺され、ルイユは騒然とする人々に囲まれながら不貞腐れていた。
このまま黙って待っているのも落ち着かず、きょろきょろと周囲を見回す。
今まで食事を楽しんでいた酒場はほぼ壊滅状態となっていた。突如出現した魔物は状況がまだ理解していない為か、これといって派手な動きを見せていなかった。
大きさは二階建ての建造物とほぼ同格位。
「何だってあんなもんが街に出てくるんだ…」
騒ぎを聞きつけ、城下街の警備員らしき面々が一般客を退け始める。
「ほら、危険だからここから早く離れて!!」
「ここは私達に任せるんだ!」
宮廷剣士と比較すると、彼らの装備は薄い。恐らく救援要請を頼んでいるのだろうが、暴れ出すのは時間の問題だろう。
警備員はこの場に不釣り合いなルイユの姿を見ると、真っ先に声をかけてきた。
「君は何をしているんだ!危ないからここから逃げなさい!ここは君のような子が居る場所じゃないんだぞ!」
「仕方ねぇだろ、俺の連れが建物の中に居るんだ!待ってろって言われて帰るに帰れねぇからここで待機してるんだ、ほっとけ!!」
俺の連れ、という言葉に警備員は「はあ?」と眉を顰める。
当然の反応だ。この時間にも関わらず酒場区内を連れ回す大人など碌な人間では無い。
しかもまだ屋内に居るだと?
「君のお父さんかお母さんか?何だってこんな時間に」
「違う。知り合いの宮廷剣士だよ」
その時、バリバリと何かを剥ぐ音が轟いた。
人々は一斉に顔を魔物の方へと向ける。同時に表現し難い不気味な咆哮が耳を酷く突いた。
「おわっ…!!」
「何だこの声…気色悪い…!!」
人々は耳を塞いでこの得体の知れない声に慄く。全身に何か覆い被さるような重圧感が襲い、胃の底からムカムカする物が溢れ出そうな感覚を覚えた。
咆哮の効果に負け、数人かはその場で嘔吐しているのが見える。
「意味分かんねえ…どういう事なんだこれ…」
ルイユは耳から手を離し、改めて周囲を見回した。何処か異変が無いかを確認していると、明らかに動揺している様子の二人が目に付く。
呼び止める警備員を無視し、ルイユは彼らの後ろに近づいてみた。
他の者が恐怖に満ちた目線を魔物に送っているのに対し、彼らは不安と焦りが入り混じった面持ちで向こうを見上げては、時にはどうしちまったんだと小声で呟く。
「あの魔石…」
「浄化していなかったから…」
時折聞こえてくる言葉に、ルイユは表情を強張らせた。
「流石にこのままじゃ…あのアーヴィーが浄化を渋らなければこんな事にはならなかったはず」
こいつらが一枚噛んでいるのか?と思うと同時に、つい声が出てしまう。
そのまま放置させてなるものかという気持ちが先走っていた。
「おい」
「………っ!!」
「お前ら、何か知ってるんだろ?」
背後に湧いたように出現した少年を見下ろす彼らは、焦燥気味の顔を更に歪ませると「な、何?」と逆に問いかけてくる。
暗がりでもその一瞬の表情の変化を見逃さないルイユは、「何?じゃねぇよ」と突っ込んだ。
華やかに見えるものの、その内情は腹の底の探り合いという特殊な階級に身を置くルイユは、まだ幼いながら他者の心情を見透かせる位に早熟である。
平然とした顔を見せながら影で舌を出す人間や、媚びた目線で相手を持ち上げて裏で野心を剥き出しにする大人達を現在進行形で見ている彼には、他者の気持ちの揺らぎに敏感に反応する。
「さっき何て言ってたのか普通に聞こえてきたんだからな。お前ら、あの変な魔物を出したのか?」
「し、知るかそんなもの。気のせいじゃないのか」
彼らは薄汚れた装具姿で、外部からやってきた旅人のようだ。外部から何かしら問題を持ち込んでくる者はこのアストレーゼンでは少なくは無いが、魔物を持ってくるタイプはまず稀だろう。
そして気になったのはアーヴィーとかいう者。
魔石、浄化。そしてアーヴィーとかいう謎の人物。彼らの関係者らしいその人物は何処へ行ったのだろうか。
「俺は地獄耳なんだ。普通にお前らが無駄話しているのが嫌でも聞こえてきたんだよ」
しつこく食い下がってくる子供を忌々しげに見下ろす二人は、相手にするなと言わんばかりにその場から離れようと数歩引いた。
ルイユはそれを見逃すものかと言わんばかりに静止させた。
「あぁ、ここで退こうもんならお前らは却って疑われるぞ!!いいのか、それで!!」
わざと大声を上げる。周囲の人々は一斉にこちらに注目した。無関係な人々による目線を浴びた二人は、ぐっと言葉を失い辺りを見回す。
ルイユはニッと広角を上げた。
「このガキ…」
苛立ちを隠しきれない様子で、二人はぽっと出てきた少年を見下ろす。
「あの建物の中に誰が居るのか知ったら余計面倒になる。それでもいいなら逃げればいいんじゃねぇの?お前らが潔白だって言い張れるんならな」
厳しい口調とは裏腹に無邪気な笑みを交えながら言い退けるルイユに対し、二人は「何なんだお前は!」と苛立ちの言葉を投げつけていた。大人げないのは理解しているが、変に突っかかる言い方に面白くないものを感じたようだ。
今にも殴り掛かってきそうな勢いだったが、その震える拳をちらりと見た後に「おっと」とルイユは手を前に突き出す。
「俺に手を上げない方がいいぞ。旅先で立ち寄った場所で、その国の貴族の子息につい手を上げましたー!って情けない理由で捕まりたくねぇだろ?」
貴族の子息、という言葉に彼らの動きはぴたりと止まった。
「貴族…?あんた、ここの国の貴族階級なのか?」
「あ?…だからそう言ってんじゃねえか…」
どう見てもその階級に位置している人間が言う言葉遣いでは無いが、ルイユは鬱陶しげに彼らに返事をする。
同じ兄弟であるルシルはまだ子供らしく可愛げのある行動や発言をするのに、彼のその粗暴極まりない言葉は何処で習得してきたのかは謎だ。
「もしかしたら奴の事を知ってるかも」
「ああ」
向き合う二人の旅人はお互い顔を見合わせた後、ルイユに「聞きたい事がある」と前のめりになって問い掛けた。
「何だよ?俺、そこまで大人達の事なんて詳しくなんてないから期待する答えなんて出ないかもしれねぇぞ…ま、聞くだけならタダだから聞いてやってもいいけどよ」
「それでもこっちには聞くだけの意味はある。俺達はアストレーゼンの貴族だって言う男にそそのかされて魔導具を受け取っていたんだから…」
「へぇ…んじゃ、名前は?…ううん、待てよ。…仮に名前を聞いても偽名だっていう可能性もあるかもな。貴族の大人達はある意味狡賢いだろうし…ちょっとしたお遊び程度の事で正体を晒す程馬鹿じゃない」
二人は先程のアーヴィーの言葉を思い浮かべた。
素性を知らない人間に対して馬鹿正直に自分の正体を明確にする程愚かではない…と。
二人のうちのどちらかから舌打ちが聞こえた。顔を布で隠しているのでその表情は知るよしも無いが、悔しそうな様子が見て取れる。
「てか、あのクソでかい魔物はあんたらが出したんだろ?」
ルイユはそう言い、先程まで滞在していた酒場の真上に鎮座する魔物を指差した。
「こんだけ騒ぎを起こしたんだぞ。どう落とし前を付けてくれんだよ?あの中には俺の仲間が居るんだけど」
幸い、表だった動きはまだ起こしてはいない。だが下手をすればヴェスカ達が大変な事になってしまう。しかも一緒に司聖のロシュが居るとなれば。
「…あの魔物は元々は俺らの仲間なんだ。俺らもこうなってしまったのは想像も付かなかったし…逆にどうしたらいいのか聞きたい位だ」
ルイユは大きな金色の目を細める。
「その貴族とやらは何処に行ったんだよ?どういう顔なのか説明し…」
そう言いかけて、ルイユは不意にある人物を脳裏に思い浮かべた。そういえば、と。
酒場区内に入る前に見掛けた一人の人物。
この界隈に足を伸ばすなどとは考えられないと思う位、非常に不釣り合いな貴族の男の姿を。
思わず「おい」と相手に声をかけた。
子供にぞんさいな言葉を投げかけられ、二人の大人達は一瞬怪訝そうな顔を見せる。しかしそこまで神経質な方でもないのか、何?と普通に返事を返した。
「あんたらが相手にしてた奴って背が高くて…ええっと…目付きが悪い感じの三十位の嫌味な男って感じか?」
どう説明したらいいのか分からず、ルイユは思い付く範囲内の言葉を並べ立ててみる。どういう訳か、ほぼ悪口のようなものになったがこれ以上説明のしようがない。根底にある印象が最悪なのだから無理も無かった。
二人は再度お互いの顔を見合わせた後、軽く唸る。
「目付きはそんなに良いとは思えないけど」
他人の外見についての文句は流石に口にするものでもない。だがどんな感じかと言われれば、アーヴィーはパッと見る限り他の者よりも切れ長の目で顔立ちもはっきりしていた。
突き放すような話し方からして、他人をあまり信じないタイプだと思う。
「じゃあさ、飲み物を飲む時にくっそ不味そうな顔しながらグラスを傾けたりしてたか?」
「…何でそこまで知ってるんだ?流石にそんなに事細かく見ないぞ…」
高級なワインやシャンパン類を好んで嗜む彼らは、ここにあるような安酒は口に合わないだろう。元々我儘な性質の温室育ちで、アルコールに関してはとにかく口煩い。
インザーク家の面々は特にその傾向が強く、自宅の地下に巨大なワインセラーを持っているという話もある。
特に一番味に関して拘りを見せているのは長兄のジャンヴィエ。元々存在していたワインセラーを自費で更に拡張する程、酒類については口煩いタイプだという。
…だから、彼がこのような場所へ足を伸ばし酒を飲みに来るなどとは到底考えられないのだ。
「あぁ、でも一口、二口飲んだ辺りで美味くないと呟いてた事はあったな。貴族だから合わないんだろって位にしか思わなかったけどよ…それでも店では一番高いもんだったと思う」
「やっぱり舌が肥えてるんだろうな、あいつらは」
旅人らの話を聞き、ルイユはやっぱりか…と口元に手を当てながら思った。
何でこのような場所で油を売ってたのかは知らないが、あの長兄が一枚噛んでいたのだろう。毎日の退屈を紛らわせようとして碌でも無い事を陰で行っているという悪い噂を多方面から聞いた事もあったが、今回もそうなのかもしれない。
黙っていても彼はインザーク家の跡取り息子で、先の未来も安泰だ。だからこそ行動には配慮するべきなのだろうが、仮に問題を起こしても強引に揉み消す財力も存分に持っている。
ルイユは奥歯を噛み締めた。
別にあの界隈が何をしようがこちらには関係無いが、身の回りに災難が降り注ぐのは勘弁して欲しい。出来る限り関わり合いにはなりたくないのに。
「そのアーヴィー様が偽名使ってるっていうなら、本当の名前をあんたは知ってるってのか?」
酒場の方向から木材の割れる音が聞こえてきた。
早く騒動を鎮めなければ問題が余計拗れてくるだろう。ルイユはちらりと魔物を見ながら返事を漏らす。
「知ってても答えると思うか?仮に俺が馬鹿丁寧に喋った所で、お互い何の利益も出ないし相手が相手なだけに後々面倒な事になるかもしれない。知らないのが身の為だぞ」
「………」
「てか、魔導具がどうたらってさっき言ってたよな?話が遠回りになったけど…それが何か関係あるのか?」
そうだ、一番肝心な事を失念していた…と内心慌てる。今はあの男の事を考える暇は無い。
要は原因になった元を辿らなければ動こうにも動けない。人探しはその後だ。
二人の大人達は「そ、そうだ…」と魔物になった仲間を見上げるとバツが悪そうな顔をする。
「俺らはあのアーヴィーから譲り受けた魔導具を使って小銭稼ぎ…というか、旅費の足しにしていた。俺達はあちこち周ってその国のお偉いさんになりきる事で多少は稼げる事を知ってる。勿論、ここでもそうだ。俺達がアストレーゼンの司聖とその仲間になりきる事で、同じ旅仲間や本物の顔を碌に知らない住民はコロっと騙されてくれるんだ。顔を知っていても、薄っすら顔を隠すだけでお忍びで街に来たって言えば大抵理解もして貰える。譲られた魔導具も、俺らが司聖の関係者だと信じさせる為に使う小道具の一つだったんだ」
…何故か彼らの言葉が変に誇らしげに聞こえてしまったのは気のせいだろうか。彼らにとっては食い扶持を稼ぐ方法の一部なのだろうが、聞いていて恥ずかしくなってきた。
「ええ…まじかよ…。はぁあ…だっせ…」
そんなセコい事をしている奴が実際に存在するとは、とルイユは脱力したような声と共に素直な感想を発していた。
アストレーゼン各地に偽物のロシュが出現しているという話は良く聞くが、彼らは多数居る偽物のロシュ達の一人なのだ。あの手この手を尽くして承認欲求を満たしつつ金稼ぎをしてきたのだろう。
旅費を稼ぐには非常に情けないとは思わないのだろうか。
「あんたら、そんな事して金稼ぎしてきたのか…まあいいや。今はそんな話を聞いてるんじゃねえし…」
もう聞く意欲を失いそうだが、話を聞かなければ進まない。
「魔導具は司聖からのお守りと誤魔化して良い値段で売っていたんだ。魔導具の魔石は悪い気を吸い込む分、度々浄化してやらないとならない。でも、少しばかり邪気を吸い込み続けた状態じゃないと利用価値が無いんだよ」
「あ?利用価値…?どういう事だ?」
その話の内容では、わざと邪気を取り込んだまま故意に売り払っている、というようにも聞こえてきた。
まさか彼らは司聖の加護があるお守りと謳いながら、結局それほど効力が無い事を見越して返却されるのを想定して魔導具の流用を計っていたのだろうか。
「適当に邪気を孕んでくれた方が後々簡単に返却してくれる。俺らは戻ってきた物をまたいいように売買するだけって事」
売買が完了した時点で、儲けは売り手の懐に入ってくる。その後の購入先にどんな不慮の事故が起ころうが、売った側には全く責任の無い事だ。苦情を受けようが、それは単なる不運に見舞われたのであって加護云々の話では無い。相手側の油断であってこちらは完全に無関係だと軽く突っぱねれば責任を負う必要は無い。
単なるお守りとして受け取った以上、気休めの効果しか期待出来ない。何かしら不幸があったとしても、譲り受けた側の責任になる。
加護があるかもしれないというだけで、相手は神頼みに頼る程度でしかないという話だ。例え買い手の仲間が死のうが何だろうが、責任は一切持つ必要は無い。
ルイユは思わず嫌悪感を丸出しにした。
「きったねぇ大人だ」
反吐が出る、と吐き捨てる。
それ以上に彼らを利用している疑いのあるジャンヴィエに対し拒否感を覚えた。
一体何が目的なのかさっぱり分からなかった。恐らく彼は騒ぎが起きた段階でさっさと自宅へと引っ込んだのだろう。
彼らのようなタイプは非常に慎重で、疑いが身に降りかからないように躍起になる。身の回りで騒ぎが起こるや否や、真っ先に足跡を残さず消えるタイプだ。
「今回ばかりは魔石の耐久性が持たなかったのかもしれない。今まで受け取った奴らの怨念とかが篭っていたから…そろそろ大聖堂で浄化しないといけないっていう話をしたけど、アーヴィーはそれを拒否してしまったんだ。だからあいつ…セティはアーヴィーを頼る事を辞めて自分でどうにかしようとしたんだ」
「セティ?」
聞き覚えの無い名前を耳にし、ルイユは二人を見上げた。
「ああ。アーヴィーに拒否され、邪気に塗れた魔導具を思いっ切り叩きつけてしまったんだ」
「セティは俺らの仲間で、司聖ロシュの役目をしていた。多分、割れた衝撃で魔石に取り込まれたあの魔物だと思う…」
彼らの話を聞き終えた後、ルイユは「あいつが元人間だって…?」と眉間に皺を寄せる。
では魔物を倒せば終わり、というだけではなくなってしまう。あのデカ物を退治したら、同時に死人も出る可能性が出るのだ。
「え…!?おい、何処に行く気だ!?」
「うるせぇ、そこで待機してろ!!」
元々人間が変異した姿となれば、処理が余計面倒になってしまう。
ルイユは舌打ちし、二人をそのままに酒場方面へ向けて駆け出した。
そろそろ彼も膠着状態にも飽きた頃だ、と浮上したまま様子を見ていたロシュは思った。自身に何が起きたのかを把握するように周囲を窺っていたが、次第に体の動かし方も理解してきたようだ。
それまでの動きからして、純粋な魔物では無さそうな気がする。野生の生活に慣れ切っている魔物と比べれば、一連の動きが相当遅い感じが否めない。
普段目にする魔物は獲物の姿を確認すると、即座に体が動き攻撃を仕掛けてくる傾向にあった。ここまで行動が遅いとなれば、何らかの魔力の干渉を受け、突然変異で巨大化した異質なタイプなのだろう。
頭部は鋭い嘴を持つ鴉だが、それを支える胴体部分は毛深く大きな猿のようだ。異質な魔物の姿は、良く見る動植物の姿に似せたタイプが多い。
「ここでは場所が悪いなぁ…」
ここは人の姿が極端に多い区内だ。
避難した人々や野次馬が多くなっていく中、この謎の動物を如何にして大人しくさせようかという話になっていく。
動物園の動物のように麻酔や何かで大人しく出来るレベルではない。
吹き飛ばすにしても自分の魔力だけでは到底無理だ。
ならば物で誘導するしか…と考えていると、風の凪ぐ音が聞こえてきた。
「!!!」
こちらの存在に気が付いたのだろうか。細長い手が自分に向けて振り下ろされていく。咄嗟の判断でその場から逃れると、空を斬った腕が勢いよく下に打ち付けられた。
酒場の屋根がバァアン!!という破壊音と同時に木や金属の破片が舞い上がる。
「ひぇえええ」
一旦下に戻ろうと決め、下へと退避した。
身を隠していたヴェスカ達の元へ戻ると、彼は「あぁ、良かった」と安堵の表情を見せてロシュに言う。
「比較的大人しい魔物かと思っていたんですけど、どうやら周りを理解し始めたようです」
メキメキという音を耳にしながら、スティレンは忌々しげに巨体を見上げた。
「困ったね。…あれをどう処分します?」
「街中だしな。…全然思いつかねぇわ…」
ここが何も無い平原なら思う存分暴れられるのだが、ふとした瞬間に人々に被害が及ぶ場所なので動こうにも動けない。
二人の会話を聞き、ロシュは「そうですよねぇ…」と肩をしょんぼりと落とす。魔法で相手を動かせる事が出来れば話は別なのだが、人間の数倍もの大きさを誇る魔物が相手となれば数人の魔法使いの手が必要だ。
いくら高度な魔力の持ち主である司祭でも単独の力で動かせるには限度がある。
「酒場区内からどうにか追い出せる事が出来ればいいんだけどよ…」
「それなら、人払いを徹底的にするしか無いんだろうけど…迂闊に誘導したら他の店にも影響が及ぶかもしれ」
スティレンが言葉を言い終えるより先に、眼前で待機していた魔物の足が動いた。ぶわりと粉塵が舞い、酒場の埃が巻き起こる。
「ロシュ様!!」
煽りを受けながら、ヴェスカはロシュの細い腕を引っ張って自分の側へ引き寄せた。本来ならばリシェの役割なのだが、ここには居ないので自分が率先して行うしかない。
「…痛ったぁああ!もう、何してくれんのさムカつく!!」
飛んできたテーブルが不幸にもスティレンの腰にぶつかった。彼は憤慨し、近くで転がったミニテーブルを思い切り蹴飛ばすと魔物を睨み上げる。
「あの目玉に向けてナイフを刺してやろうか!!」
短気を起こしたスティレンは吐き捨てるように怒鳴った。
「まぁ落ち着け…」
こりゃ長期戦になりそうだな…とヴェスカがロシュを自分の背後に誘導し、壊滅を免れた壁面の時計に目を向ける。時計の針はまだ止まる事無く、現在の時刻を示していた。
「夜明けまでには終わらせないと」
まだ暗闇で魔物の姿は目立たない。だが夜が明けてしまえば更なる騒ぎになるだろう。
砂煙やアルコールの匂いが鼻を突き、埃が周囲を覆う最中、こちらに足早に近付いてくる足音が聞こえてきた。
加勢か?と警戒していると「居た居た!」と少年の声がする。
「ちょ…何で来たのさ!?」
ちゃんと外で待ってろって言ったのに、とスティレンは呆れた声を上げた。
果敢なのか無謀なのか。瓦礫を通り抜けて自分達の所へ戻って来たルイユは「まぁまぁ」と平然とした様子でスティレンを宥める。
「おいおい、危ねえって言ったのになーんで戻って来るんだよ」
「別に来たくて来た訳じゃねえんだよ、ヴェスカ。あんたらに伝えたい事が出来たからさ…」
喉をやられたのか、ルイユは軽く咳き込んだ後に続ける。
「あれ、元は人間なんだってよ」
「………」
「外に仲間が居るんだ。これ、ある魔道具の魔石の影響でこんな姿になったらしいぞ。…魔石の浄化を怠った結果がこのザマって訳」
元は人間…?と三人が声を失う。
「浄化を無視して割ってしまったんだってよ。そしたら中の嫌なもんが飛び出して、変な気に取り込まれたんだとさ」
すると魔物は本格的にこちらの存在に気付き、体の向きを変えてきた。そして両手を振り上げながら咆哮を上げる。
影の動きで察知し、ヴェスカはロシュを瞬時に抱えた。同時にスティレンもルイユの腕を強引に引いてその場から退避する。
バン!!と激しい音を立て、床に魔物の手が打ち付けられた。その衝撃で床の底が抜け、木が割れて細かな破片が飛び散っていく。
「うぅ、魔物相手にするってこんなハードなんだ…」
「だから近寄るなって言っておいたでしょ!!」
何らかの拍子に頭をぶつけてしまったルイユは、痛む箇所を擦りながらボヤいた。
「うっわ、お前…!こっち見てる!気付いた!!」
「は…!?…くそっ!」
再び手が振り下ろされ、スティレンはルイユに抱きつくと両足に力を込めて飛び退く。バリバリと何かが割れる衝撃音が周囲に響いた。
「ふぃいい…おっかねぇ。てか、お前声デカすぎなんだよ。だから気付かれるんだろ…」
「そうさせてるのは誰なんだって話だよ。…もう、俺の美しい顔が埃まみれになっちゃう…」
今の所、巻き起こった埃によって相手の視界は遮られている。重い足を引きずる音が不気味に響く中、スティレンは忌々し気に指を噛んだ。
「…ったく、どうするんだよこれ…」
ひと暴れしたい所だが、如何せん場所があまりにも悪過ぎる。店の外では野次馬がわんさか増え続けている事だろう。
街の警備員も増えてはいるだろうが、それでも見物人が増えれば増える程、彼らだけでは手の施しようが無くなっていく。
「くっそぉ」
ルイユは悔しそうに呟いた。湧き上がる悔しさの為か、自ずと両手が震えてしまう。
「俺も剣とか使えれば」
「………」
「こんなんなってんのに、何の手伝いも出来ねぇって…ルシルみたいに魔法の才能もねぇし、剣もまともに使えねぇ。こんなんじゃあいつを守れない」
あいつ、というフレーズが気になったが、今はそれを問うだけの余裕もない。
スティレンは軽く吐息を漏らした。別に彼に手伝って貰う気など最初から思ってもいない。変に手伝われても却って困るだけだ。
…だが、悔しいと思う気持ちだけは汲んだ。
「別に俺らは、あんたみたいなガキに手伝って欲しいなんて思っちゃいないさ」
「子供扱いすんなよ」
土煙が次第に収まってきた。
自分達の姿を月明かりの下で探り当てられるのも時間の問題かもしれない。
「剣も魔法もダメなら他の道でも探す事だね。何もそれだけが全てじゃない。そのうちあんたにぴったりなものが見つかるでしょ」
「………」
こういう事は、向いてる奴に任せりゃいい。
「無駄に血を流す必要なんて無いのさ」
スティレンはそう言うと、腰に収めていた双剣を抜いた。
大きく毛深い足が眼前を通過し、その都度酒場の床を激しく割って沈んでいく。がくりとバランスを崩しかけた魔物は、破壊されて横たわっていた梁に手を付き体勢を整えた。
「元は人間か…困ったもんだな。何処から斬ればいいんだか」
手にしっかりと武器を持ったままでヴェスカは呟く。
純粋な魔物ならば遠慮無く叩けるが、人間が変化したものとなれば対処も違ってくる。
斬った場所が悪ければ、命を落としてしまうかもしれない。
「魔物に関しては核となる部分があるでしょう。今回の相手には残念ながらそれが見当たらないのです。恐らく、魔道具に付随していた魔石が本来の核となる部分だったのかもしれない。魔道具の魔石が割れて、それまで間違った使い方をされ続けた事により、様々な邪念や魔力が混ざってしまった。あの方がどんな扱い方をしたかは分かりませんが、浄化を怠り魔石を破壊してしまったので直で影響を被ってしまったのでしょう」
「核が無い…?じゃあ、現時点では弱点が見当たらないって事ですか?」
更に叩けなくなってしまうではないか…とヴェスカはげんなりした。
「このまま相手を消耗させて行くしか今の所は」
ロシュはそう言い、詠唱を開始する。
何か良い方法があるのかとヴェスカは彼が生み出す魔法を見届けた。
「ロシュ様」
「気休めですがね。即席の結界鋲を張ってみます。ただ、きちんとした正規品ではなく具現化したものなので効果は期待出来ませんけど…」
詠唱の文句を口ずさむ毎に、魔法の力で作成された薄緑色の鋲がロシュの手の内に転がっていく。
魔法で作られているとはいえ、素人目でも大変精巧に作られた既製品のように見えた。
ロシュは数個の結界鋲を生み出した後、ヴェスカに向けてにっこりと微笑んだ。
「では、ちょっとその辺に行ってきます」
「え、ロシュ様?」
行ってきますって何処へ…と言い掛けるのも虚しく、彼はその場から離れてしまった。鋲を魔物に埋め込む為なのだろうが、流石に単独は危険過ぎる。
魔物の周りを彷徨く事によって彼に被害が及んでしまうかもしれない…と慌てる。
「…目線をロシュ様に向けないようにしないと」
ジャリ、と砂埃に塗れた床を踏み締めながらヴェスカは立ち上がった。これでロシュに大怪我でもされては士長ゼルエの怒りを受けるどころか、ロシュの補佐役であるオーギュからも凄まじい雷を落とされてしまうだろう。
…正直な話、ゼルエよりもオーギュの方が怖い。
恋する相手からの叱責は何より堪えてしまうだろう。
「副士長!!」
小声で自分を呼ぶ少年の声が聞こえた。
「スティレン」
「今、ロシュ様が何か…」
「あぁ。あいつの動きを制御させる為に結界鋲を埋めに行ったんだ。でも目線がロシュ様に向かう恐れがある」
瓦礫の山と化した敷地内をひょこひょこと動き回る彼に目を向ける。暗がりの為か、今の所は魔物からの目線は今の所届いていないようだ。
だが彼の存在に気が付くのは時間の問題だろう。
「俺らはロシュ様をお守りしなきゃならない。絶対にあの方に奴の目を向けさせるな」
「はい」
「…ルイユは?」
「出来るだけ魔物の視界に入らない場所で待機させてます。瓦礫の山ですから身を隠しやすいので」
「そっか。…それなら大丈夫かな」
変に目立つより大人しくしてくれていた方が有難い。
ロシュが一つずつ結界鋲を魔物の周辺へ差し込んでいくのが見えた。近場で移動しているので、気付かれないか不安だ。
何本の結界鋲を差し込む気なのかは不明だが、魔物が彼の存在に気付いてしまえば厄介になる。
「俺はロシュ様が居る方の真逆の方へ行って注意を引きつけておく。お前は何かあった時、すぐロシュ様を守ってくれ」
「分かりました、副士長。どうかご無理をなさらず」
ヴェスカの命を受け、スティレンはロシュの姿を静かに目で追った。
一方で剣の柄に手を掛けたまま、ヴェスカは結界を作ろうとするロシュとは対角線上に歩を進めていく。
…どうかあの人には気付いてくれんなよ…。
そう願いながら慎重に散乱した酒場の中を動いた。
足場は非常に不安定で、うっかり何かに引っ掛かって転がりそうになる。目線で追う限りロシュは魔法の力で低空飛行と自前歩行を繰り返しているのか、今の所は異変は無いようだった。
魔物の弱点の一部である核が存在しない相手にどう対応したらいいのか、これから考えないといけないな…と思っていた矢先。
「…っわわわわ!」
ドゴン!!と何かと何かがぶつかる音が耳を突く。
はっとヴェスカは顔を上げると、一部で埃が舞い上がりやや高い位置でロシュが浮上していた。
魔物の手が地面を凪ぎ始めたようだ。
「ああ、やっぱりか…くそっ」
もうちょっと大人しくして欲しかったな…!と舌打ちしながら、ヴェスカは鞘から剣を抜いて魔物の足元へ向かう。
「…ロシュ様!!」
浮上している司聖に、スティレンは声を上げた。
「私は大丈夫です!もう少し…あと二本!これが終われば鋲は完成します!」
それならこっちは足止めを仕掛けるだけだ。
ヴェスカは障害物を退けながら魔物の太い足首を目視すると、腱部分目掛け深く斬り込んだ。様々な繊維が絡み合う腱は非常に硬く、斬った瞬間に腕に重みのような感覚を覚える。
「っぐ!!」
それも相手が大型の魔物ならば尚更。
人間の力ではびくともしないかもしれない。だが、僅かでも刺激を与えるには十分だろう。
「こっちは何年も剣を扱ってるんでね…!!」
最初の一撃を与えた後、即座に引っ込める。
「ここからっ…動くな!!」
片足を強く踏み込んだ後、更に同じ場所目掛けて剣先を振り下ろした。全身に嫌な感触を受けた後、生温く激しい飛沫が全身を覆う。
返り血を浴びたという事は効き目があったのだろう。
悪鬼の如く声を響かせ、魔物はがくりと体を傾かせた。
生かさず殺さず、とは何と難しい事だろうか。
魔物は長い腕を広げながらぶんぶんと振るい、体勢を整えようとした。
「これであと一つ…!!」
混乱の最中、残り二つの内の一つの結界鋲を適切な場所に差し終えたロシュは最後の鋲を刺そうと身を起こす。その瞬間、スティレンの声が飛び込んできた。
「ロシュ様!!危な…!!」
強風が吹いた。
同時に背中に強い衝撃が走り、砂埃の舞う空中へ放り出されてしまう。
宙を舞う間、ロシュは華奢な少年の体も同じように吹っ飛ばされているのを見る。
「スティレン…!?」
魔物の振るわれた手によって、ロシュとスティレンはあらぬ方向へ払い飛ばされたようだ。
咄嗟にまだ幼い剣士に向け、ロシュは魔力を飛ばしていた。
自分の身を守る時間も無いまま、彼は木の樽が密集する場所へと投げ出されてしまう。
「うっわ!!!?」
大量の木材が破られる音と、聞き慣れた声が同時に飛び交った。そして深みのある葡萄の芳醇な香りが周囲にぶち撒けられる。
「何が起きたんだよ…って、わ!!ロシュ様!?」
「うぅ…」
まともに回避出来ないまま直で地に叩きつけられ、ダメージを直に受けたロシュは苦痛に顔を歪ませながら身を起こした。
「いたた…」
「だ、大丈夫かよロシュ様?凄い勢いでふっ飛んできたけどさ…」
ロシュは自分に軽度の回復魔法を施すと、目をぱっちりと見開いて寄り沿ってきたルイユに気付く。
「…ルイユ!大丈夫ですか?」
「いや、俺は全然平気だよ…」
むしろ自分の心配をした方が良いと思うが、彼は自分の事より他人が心配なのだろう。
「ああ…それなら良かった…」
ロシュの手には鈍い光を放つ何かがあった。
ルイユはそれを見つけるなり、「それは…?」と問う。
「あ…っ、これは結界鋲です。あとこれ一つを差し込めば結界が張れる。差し込んでいる最中だったんですけど」
そう言うと、喉元に何か引っ掛けたのか激しく咳き込んだ。すぐにルイユはロシュの背を摩る。
「う…埃でもっ…入ったのかな?…う、げほっ!けほっ!!」
「空気も悪そうだしなあ…水とか無いかな」
流石に都合良く水などあるはずも無く。幸い、近くに転がっていた木製の樽型カップを見つけて引っ張り出す。
「カップならあった…誰が使ったか知らねぇけど、文句言える状況じゃないしな」
苦しむロシュの背を撫でつつ辺りを見回し、何らかの水分を探す。酒場なら適当なものがありそうだと思った。
不意に葡萄の匂いが鼻を突く。
「水分っていうか…ワインだけどちょっと位なら和らぐかも」
先程の衝撃を受けても比較的無傷な樽を探し当て、栓を捻る。カップに半分程注いだ後、ルイユはロシュの元へ駆け寄った。
「ロシュ様」
「…は、はい…」
少しばかり落ち着いてきたのか、喉を押さえながらロシュは薄っすらを目を開ける。
「ちょっと水分を喉に通したら落ち着くと思うよ」
「ああ…ありがとうございます、ルイユ」
カップを受け取った後、ロシュは何の疑いも無く少しずつ中身を喉元へ通した。
それを心配そうに見守りながら「ワインっぽいけど、ロシュ様は大人だから多分大丈夫だと思う」と続けた。
「!!!!」
飲んだ瞬間にアルコールだと察知したロシュは反射的にカップから口を離した。瞬時に喉と全身が熱くなり、視界がぐらつく。
「ろ、ロシュ様?」
頭を押さえ、ううっと呻いた。しかし一旦間を置いた後で、彼は思い出したように顔を上げる。
「鋲を埋めなければ」
「ああ、結界のあれ…」
「急に酔いが回ってしまったのでちょっと時間が欲しいです」
急激に酔いが回った人間の割には変にしっかりした喋り方のような気がした。
「それはいいんだけどさ…」
ルイユはちらりとロシュが握っている結界鋲に目を向けた。その時間の間、ヴェスカやスティレンがどうなってしまうのだろうか…と不安に駆られる。
「結界鋲を目的の場所まで落とすだけでいいのですが、酔いが回ってしまって走りにくい。遠くまで鋲を投げられる自信もないのです。ああ、困った困った」
「は…はぁ…」
彼の語り口調を聞きながら、ルイユは違和感をひしひしと感じていった。
…何かロシュ様、様子がおかしいぞ。
そんな事を考えていると、ロシュは更に言葉を続ける。
「ルイユ」
「へ?」
「あなた、スリングは得意だったでしょう」
「ああ、そういえば…でもやり過ぎて庭園の果物を根こそぎ落としまくったらクラウスにめっちゃ怒られたから、それ以来全然やってねぇよ」
「ではかなりの命中率なのですね」
そう言うと、彼は瓦礫の下を漁りだす。しばらくして「ああ」と動きを止めた後、強引に何かを引っ張り出した。
彼が手にしたのは錆混じりの古びた弓だった。居合わせた酒場の客が緊急事態に慌てて忘れていったのだろう。
「いきなり魔物が出たので旅人達の武器も散乱している。緊急事態とはいえ、商売道具を放り出して逃げるのはどうかとは思いますけど…ですがまあ、都合が良かった」
そう言い放つロシュの妖艶な微笑みは、月明かりによく映えた。
「な…何?ロシュ様」
「これから結界鋲を矢の先に付着させます。私が差し示した方向に向けて、あなたが矢を放って下さい」
「は…!?」
唐突な命令に、ルイユは目を丸くした。
「いやいやいや、俺そんなん出来ねぇよ。だってスリングと勝手が違うじゃん…多少齧った位だけどさ」
「経験はあるのでしょう」
「そりゃそうだけど、俺はまともに武器なんて扱えないよ。ルシルみたいに魔法だって出来ないし」
「そうですか。実は私も弓が使えません。庭園の果物を根こそぎ落とす事も出来ないんです」
そう言いながら、拾った矢の先に結界鋲を捻り込んでいく。ロシュの魔力で作られた鋲はまるでゴムのように先端に付着した。
ルイユは目をぱちくりさせる。
「あなたのお父様は弓を良く扱っていた。そのお父様から教えて貰っていたのでしょう?」
「………」
「魔物を撃てとは言いません。少しばかり、腕を見込んでお願いしているだけです」
「いやいや…見込まれる程上手くねぇよ。スリングだって、楽しかったからやった程度で…本当は宮廷剣士みたいに剣とか使いたい。でも何だかしっくりこなかった。そして魔法の力も無い。ルシルに比べたら、俺は才能とかそういうのが無いんだよ」
ルイユの話を聞きながら、ロシュは矢の先に結界鋲を完全に嵌め込んだ。
「だけどロシュ様、俺はリシェを守りたいんだ」
「…そうですか」
彼がリシェを気に入っているのは理解していた。
リシェは無謀な所もあり、自己を犠牲にしても任務を遂行する危なっかしさもある。
守りたくなってしまうのはあの儚げな容姿のせいもあるだろう。
「それなら、尚更試してみて下さい」
「へ!?」
ロシュは弓矢をルイユの胸元に押し付けた。
「あの、話…聞いてた?」
「聞いてましたよ」
「弓だってそんなに上手くねぇよ」
「でも他の武器よりは扱えるでしょう?」
「………」
「あなたは貴族の立場ですから、武器を振るう必要は全くありません。ですがあなたご自身の意思を尊重したいなら、手探りでも模索するべきです。あれも違う、これも違うと闇雲に探したって良いじゃないですか。遠回りになってもいい。そして教えて貰った事を改めて試してみるのも悪い事ではない。その結果、大切な人を守れる力になるなら良いじゃないですか」
落ち着いてきたのか、おもむろにカップを手にしてロシュは樽からワインを注ぐ。
オーギュにあまり口にするなと忠告されているはずだが、酔いが入るとすっかり忘れてしまうようだ。
注いだワインを一気に飲みきり、カップを放った。
「才能を生かすのも殺すのもあなた次第ですよ」
「………」
そうして、ぽんと軽くルイユの手の内にある武具を叩く。
しばらくした後、彼はぐっと奥歯を噛み締めつつそれまで俯いていた顔を上げた。
「…ロシュ様」
「?」
「じゃあ、やってみる。腕が鈍ってるかもしんねぇけど…何処へ撃てばいい?」
ふ…と口元に笑みを浮かべ、ロシュは該当する箇所へ指先を向けた。微弱な魔力を送り、目的の場所を薄く照らす。
月明かりの下の為に多少明るく照らしても気にならない程度だ。魔物も急に激しく動いてしまった為か、だらりと両手を放るような形で体を傾けている。
嘴からはギリギリと異音を出し、威嚇を繰り返していた。
離れた所からは未だに野次馬の騒ぐ声も聞こえてくる。
ルイユは持たされた弓のグリップを握り、カスタマイズされた鋲付きの矢を静かにレストに引っ掛けて手慣れたように構えた。
矢をゆっくり引き、ロシュが差し示した辺りへの飛距離を頭の中で考えていく。
久しぶりの感触で、しかも決して軽くはない弓の重さに腕が軋みを上げる。
…変に遠過ぎてもいけない、だが近過ぎても駄目だろう。
目標物は動かない分やり易いはず。
角度をやや上に向け、引く力を僅かに緩めた。弧を描いた後の着地点を予測し、示された場所目掛けて一気に矢を放った。
「……っ!!」
…放つ瞬間だけ、最大限の力を使う。
矢を放つその一瞬のみ、これでもかと言う程目一杯引いて放つ。その分、ぐんと飛距離が伸びるという。
父親から教えられた際、覚えていた技術の一つだった。
矢を放った時、全身の細胞が躍動した。ギリギリした緊張から一気に解き放たれた爽快感。ルイユは懐かしさと共に、不思議な感覚に打ち震える。
ふわりと金の髪が舞い、体が高揚し脈動していく。
矢が風を強く斬っていく力強い音は、久しぶりの高ぶりを増幅させてくれた。
…もしかしたら。
もしかしたら、これが自分の力となる一閃なのかもしれない…!!
「ロシュ様!」
結界鋲はロシュが示した場所へ着地していた。ルイユはどうよと言わんばかりに彼を見上げる。
「ありがとうございます、ルイユ」
結界鋲が全て挿された事によって、準備はほぼ完了となった。ロシュは突き刺さった鋲がほぼ対角線上に繋がっているのを目視し、上出来ですよと呟く。
「あとはやって欲しい事は無い?」
「いえ、ここからは私がどうにかします。危険な事には変わりないですから、あなたは安全な場所へ退避して下さい」
「分かった。無茶するんじゃねえぞ、ロシュ様」
ルイユは矢を失った弓を手にしながら物影を探し始めた。彼が安全な場所へ引っ込むのを確認した後、ロシュは魔法の力で再び浮上する。
結界鋲が全て挿された事によって、そこから僅かばかりの魔力の流れが起きていた。
「さて…」
魔法の詠唱を開始する。同時に、魔物の姿を完全に包囲する形で魔法陣の線が少しずつ光を放って地面に浮かんでいった。
一方。
返り血を浴び、嫌な気持ち悪さを感じたままヴェスカは頬に付着し固まった血を強く擦る。
「あぁ、くそ…嫌な感じだわ」
自分のならばまだ我慢も出来るが、魔物の血液となれば嫌悪感しか無い。浴びた瞬間全身の動きが一気に鈍くなり、その場にがくりと膝を突いていた彼は、ほぼ真近で同じように動きを止めた相手を目の当たりにして危機感を覚えていたのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
いい具合に腱の力を奪えたらしく、がくんとバランスを崩してくれた。元は人間だという事から、急激に大きくなってしまった体に対応し難かったのかもしれない。
例えれば、小さな子供が急激に背の高い大人になったようなものだ。
体の成長が追いついていないかの如く、どう動いていけばいいのか分からないのだろう。
「スティレンは…」
暗がりの中、彼は部下の姿を捜した。しかし何処へ飛ばされてしまったのかさっぱり分からない。声を上げたいが、魔物を刺激してしまいそうだ。
大怪我を負ってなければいいけど…と不安に駆られていると、自分の身の周りが薄緑色に発光している事に気付いた。
「え?…これは…」
光が強くなるにつれ、魔物に変化が起こった。
ぐ、ぎ、ぎ、ぎ…と鋭い口から声が漏れると同時に動きもぎこちなさが出ている。
これは魔法か…?と頭上を見上げていると、自分からやや遠い場所で白くボヤけた人の姿が地上に向けて杖を強く振り下ろしていた。
「ロシュ様か…?」
身の回りが薄緑色に輝きを増している事から、結界は無事張り巡らされたらしい。
「あー…これで多少は押さえられ…っっ!??」
ズドン、と全身が上から押し潰されそうになった。ヴェスカは思わず声を上げ、両膝をがくりと地面に付ける。
魔法陣の影響下にある為だろうか。見れば円陣の内側に嵌っている事に気付く。不思議と嫌な気分は無いものの、動けないとなれば話は別だ。
これも魔力に耐性が無い為なのだろうか。凄まじい圧力を全身に受けていた。
「うっ…ぐ、く…っ…おっも…!」
全身に力を受け過ぎて、下手をすれば鼻血を吹き出してしまいそうだ。
重くなって動きにくい全身を引き摺り、魔法陣の外側へと無理矢理移動した。体が全て範囲外へ抜け出すと、急に身軽になり前のめりにバランスを崩す。
「…っあ!!」
身を伏せる形で倒れ込むと、反射的に仰向けに転がった。
「はあっ、はあ…!!は…っ、や、ヤバかった…!」
何だよこれ、と身を起こしながら体の感覚を少しずつ取り戻していく。
結界の中心に居る魔物に目を向けて今の状況を把握しようと試みていると、拘束されてしまったのを察知したのか今までに無い激しい鳴き声を放っていた。
酷く甲高く、不愉快極まり無い奇声。恐らくこの酒場の外にも聞こえているだろう。
野次馬達の不安に満ちた騒ぎが小さく耳に届いてくる。恐怖を感じるならその場から退散して欲しいものだが、好奇心が勝ってしまうのだろう。
自由を制御され激昂したのか、躍起になって立ちあがろうとしているのが分かった。しかし、まともに動けないばかりか、ヴェスカが斬った足の負傷で更に身動きが取れない状況。
苛立っているのがその鈍くなった動きで分かる。
「こっからどうするかなぁ…」
流石にロシュの魔法ばかりに頼る訳にもいかなかった。動きを抑制してそのまま弱体化させるまで待つには時間が勿体無い。
先程の重力によるダメージも小さい訳ではなかった。
もう少し自分の体力の回復を待って欲しいものだが、そうも言えないだろう。
考えが纏まらないままどうにか立ち上がると、魔物も同じように重い腰を上げた。
のっそりとした大き過ぎる影がヴェスカの視界を遮る。
「うぇええええ…マジかよぉ…」
愕然とし、ヴェスカは思わずボヤいた。
結界鋲の意味は無いのだろうか。流石に大きな圧力の中で立ち上がるなどとは考えもしていなかった。
魔物は忌まわしい結界を張り巡らせてきた相手を探すかのように首を回す。
元々人間だったという彼は知っているのだろう。この結界の原因が同じ人間だという事を。
彼は唸り声を上げて両手をゆっくりと上げ、前後左右に大きく振るった。
「…うっわ!!」
鞭のようにしなり、大きく毛深い手が地面を掠めていく。近くに居たヴェスカはその攻撃から逃れようと慌てて物影へと後退した。
逆上してんじゃね…と引っ込んだ物影から顔を出したその時だった。
「誰が動けと言いましたか」
凛とした声が暗闇に響くと、魔物はドスンという重苦しい音と同時に動きが停止する。
「あぁ…?」
それまで暴れていた巨体は、尻餅を付く形でまた魔法陣の中で大人しくなっていた。
「今の声って…」
魔物と対峙するように空中に浮かぶ人影を確認し、ヴェスカは目を細めて凝視する。そこには月の光を浴び、法衣を纏う細身の人間が魔物を見下ろしていた。
何か嫌な予感がしてきた、とヴェスカは思う。
その嫌な感覚にざわざわしていると、浮遊している人間から更に声が降り注いだ。
「人が苦労して結界を張ったというのに」
その声は明らかにロシュのものだが、やはり何か様子がおかしい。…何故口調がいつもより荒いのか。
すると、何処からか擦るような足音が聞こえてきた。ヴェスカは職業柄、聴力は少し敏感な所がある。
人の気配や動植物が蠢く音には、癖になってしまったのか即座に反応が出来た。
「…誰か居るのか!?」
野次馬を拗らせた一般人なら非常に危険だ。
稀にこのように怖いもの見たさや度胸試しと言いながら警戒区域内に忍び込む者も存在する。
こんな時に、と内心舌打ちしつつも、ヴェスカは物音の方に刃先を向けた。
「おっ…やめろよ、そんなもん向けんなって。ヴェスカ、俺だよ…俺…」
暗がりの中で鈍く光る刃が自分に向けられていたので、慌てて姿を見せてルイユは小さな声で訴える。
ヴェスカは安堵し、良かった…と剣を収めた。
「無事だったか」
「そりゃそうよ。逃げ足は早い方だからな」
得意げに言い退ける彼の手には、古く大きな弓と数本の矢があった。
「何だそれ?」
「お?ああ、これ?拾った」
「拾ったって…」
「護身用にいいかなってさ」
護身用だとしてもその辺で拾ったものならば立派な武器だ。逃げる際に誰かが落としていった危険物に変わりはない。
ヴェスカは呆れて「あんたには危な過ぎる」とルイユに注意すると、危ないからそれを渡せと手を差し出した。
「ばっ…バカ言え、俺だってこれくらい使えるんだぞ。ほら、貴族の嗜みってやつだ!」
「嗜みと実戦は違うだろ!」
先程の結界鋲を飛ばした興奮が冷めないルイユは、ヴェスカの手を払いながら弓をしっかり抱える。あの後、矢を探しているとちょうど矢筒が残されていたのでそれも回収してきたのだ。
何かあれば自分でも手助け出来るようにと。
「お前はこっち使えねぇじゃん!今更弓使いたいとか贅沢言うなよ!」
「そりゃそうだけどよ…」
そういう問題ではない。
子供に戦わせる訳にはいかないだろ…と頭を抱えていると、先程の轟音よりも更に大きな落下音が周囲に響いた。
地面一帯が揺れ、それに伴って全身に一気に伝わってくる。轟音と同時によろめいたルイユは、ヴェスカの腕の中にぼすりと支えられた。
「あっ!取んなよお前!」
「だから危ねぇって…玩具じゃないんだぞ」
体格差があるヴェスカ相手では、力も敵うわけがない。すんなりと弓を引ったくられてしまう。
「あー!もう!折角持ってきたのに!」
「元々あんたの所有物じゃないだろ!」
言い争っていた二人の真横を、一陣の風が吹き遊んだ。ほぼ同時に風に反応し、彼らは不意に上空を見上げる。
そして自分達の頭上に、魔物の巨大な手の平がある事に気付く。そして、全身から激しい冷汗が流れた。
自分の足元で騒いでいたので気付かれた模様。
「「あばばばばばばばばば!!」」
ヴェスカとルイユは、変な声を一緒に発した。
「ここから離れるぞ!!」
「おうよ!よしヴェスカ、俺を抱えろ!!」
「合点だ!!」
小柄なルイユをひょいと簡単に脇に抱え、ヴェスカは移動を試みる。同じように、魔物の手の平は地面目掛け振り下ろされていた。
上から落とされるような風圧を全身に受けたかと思うと、バン!!という強い音が周囲に響く。
瓦礫が吹き飛び、退避する二人の全身に否応無く襲ってきた。
「くっそ、見えねぇ!!」
幸い押し潰されはしなかったものの、周囲が暗過ぎて物影を探す余裕が無い。とにかくルイユだけは守らなければ、とヴェスカは自らの身を壁にしてこの場をやり過ごした。
粉塵が吹く中、魔物の動きが止まる事を待つ。
「何回も何回もうるせぇなあ!人間に戻ったらぶん殴ってやるからな!」
ルイユが毒を吐き散らかす。
魔物がバチン!バチン!と叩き払われた地面を手が打ちこむ度に全身が激しく振動して耳にも響き、頭が痛くなってしまう。これでは文句も言いたくなるだろう。
ひたすら地面に手を打ち続けている相手に苛立ちを覚えてきたその時だった。
頰を張った音と似た不思議な衝撃音が走る。異音を聞き逃さなかったヴェスカは、何だ?と伏せていた顔を上げた。
砂煙の奥、巨大な魔物が後方へ倒れていくのが見える。妙にスローに目に映ったのは気のせいだろうか。
「は…?」
完全にバランスを失った魔物はそのまま背中を地面に打ち付けながら倒れてしまった。
「なんか死んでねぇか?」
呆気に取られ、口をぽかんとするヴェスカ。
そして何故かすぐ死なそうとするルイユ。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ん?」
「ロシュ様に何か飲ませたか?」
色んな事が起き過ぎて、一番気になっていた事を聞くのを失念していた。
倒された魔物を空中で見下ろしているロシュを確認しながら、ヴェスカはルイユに問い掛ける。
何も知らないルイユは、彼の質問の意味が分からずにきょとんとする。だがその後、「ああ」と思い出しながらけろっと答えた。
「俺が隠れてたとこにロシュ様が突っ込んで来てさぁ…そん時に埃が喉に入っちゃって凄い咳き込んでたから、ワインちょっとだけ飲ませたんだよ。近くにワインの樽があったしな。めっちゃ苦しんでたから」
「………」
まじか…とヴェスカは脱力した。
だがこの状況はやむを得ない。他に水分が無く、ルイユもロシュにアルコールを与えるとどうなってしまうのかは全く知らないのだから。
「それが何かしたのか?」
「いや…いいんだ。それは仕方無ぇよな…うん。ロシュ様があまり酒を口に出来ない理由なんて、あんたには知るよしもないしさ…」
後々が怖いが、この場合やむなしとしてオーギュに事情を説明出来るだろう。…多分。
向こうが事情を分かってくれればいいのだが。
「いいか、ルイユ。今のロシュ様はいつものあの人じゃない。それだけは頭に入れておけ。な?」
「………?」
先程のロシュを思い出し、ルイユは「そうなのか?」と首を傾げた。
「あの人が酒をなるべく避けろと言われてる理由、今に分か…」
言いかけていると、魔物が激しい悲鳴のような金切り声を発した。あまりの耳障りな声に、思わず「うるせえ!」とルイユは両耳を塞いで文句を吐き散らかす。
「ロシュ様…どうするつもりなんだろ…」
押さえておけばどうにかなる核も存在せず、原因となった魔導具の魔石も粉砕され存在しない今、あの化け物化した人間を戻す術すら未だに見つからない。
魔物と対峙するロシュの姿に、ヴェスカは不安げに呟いていた。
自由に動けない余り、ヒステリックに声を上げ寝そべる魔物を前にするロシュは不愉快そうに顔を少しばかり歪めていた。
張られた結界に捕えられ、後は処理のみだが予想以上に抵抗が激しい。終いには鼓膜を破りかねない叫びを上げる始末だ。
今でも鋭い嘴を携える口を開け、威嚇の唸り声を放ち続けている。
「散々暴れ狂って…あなたは人間に戻りたくないのですか?」
人が折角親切に対処法を模索しているのに、と溜息を漏らした。すると、長い腕が鞭の如くしなり空中のロシュ目掛けて強く払ってくる。
腕が横一文字の状態で眼前に近付いた瞬間、ロシュは無表情で手にしていた杖で激しく打ち返していた。
杖を握る腕に、一瞬だけ筋力の増強を施して破壊力のある剛腕を造る事が出来る。
普段のロシュでは考えない発想だ。いつもならば、自ら戦うという頭を持たずに、あくまで誰かのサポート役に徹する。
現在の彼は司祭が持てる能力の範囲内で、いかにして相手を押さえるかに重きを置いたやり方を行っていた。
打ち返された魔物の腕は、思わぬ反動を受けて引っ込んでしまう。
ギャアアア!と鳴き声を放つ相手に、ロシュは「ああ、うるさい」と眉間に皺を寄せて忌々しげに吐き捨てていた。
…ここからどうするか。
聖なる光の魔法陣の上で完全に制御され、寝そべる形で倒れ込む異形の者を前に冷静に考える。
元の魔石が存在するなら、どうにか対応策は練られそうだが既に破壊されているケースは今まで遭遇した事が無い。
…この場にオーギュが居たならば、どう考えるのだろう。
「………!!」
深く考え過ぎる余り、一瞬周囲の警戒を怠った。眼前を細長いロープのような影が走ったかと思うと、右半身に鋭い痛みを受けてしまう。
スナップを効かせた巨大な腕と、その先の手の平からの攻撃にロシュの体は勢い良く地に落下した。
「ロシュ様!!」
それでも彼は悪運が強いのだろう。
落下地点付近には丁度ヴェスカとルイユが居た。弾かれたと同時にすかさずヴェスカが司聖を支えようと必死に駆け付けながら両手を伸ばす。
落とされる最中、ロシュは自分を追うようにして手を伸ばす宮廷剣士の姿を目の端で確認した。なるべく彼の負担をかけまいと魔法の力を使い落下速度を弱めるが、タイミングが遅くなってしまう。
「ぐ…っ!!」
全身に響く人間の重み。
落ちてきたロシュを抱き止め、ヴェスカはそのまま彼を守るようにして地面を転がった。
「…っはぁああ…あっぶね…大丈夫か、ロシュ様?」
力強い腕の中でロシュはうっすらと瞼を開く。
間近で見れば、彼の年齢を感じさせない美しさが非常に伝わってきた。月明かりも重なり、ゾクッとしそうな危うさもある。
これがオーギュだと欲に任せて襲いたくなるが、ロシュの場合は逆に触れていいのか躊躇しそうな雰囲気だ。
「…ええ。油断していました。ありがとうございます、ヴェスカ」
支えられながら上体を起こし、ロシュは再び魔物へ目を向けた。
「ロシュ様!」
ヴェスカを追いかける形で、ルイユも駆け付ける。
「めっちゃ飛ばされてくるじゃん…大丈夫か?」
「ちょっと考え事をしていて油断しただけですよ。何しろ肝心の核を持たない相手ですから」
魔法陣の中でしか動けないものの、そこからどうしたらいいのかまだ判断出来ずにいる。このまま膠着状態では魔法陣を張った意味を成さない。
街の中で暴れ回らないようにしているだけでも、まだマシかもしれないが。
「なぁ、ロシュ様」
「はい」
核という言葉を聞き、ルイユはおもむろに口を開いた。
「さっきの結界鋲って持参したやつなの?」
「…私が即席で魔法で作ったものですよ。それがどうしましたか?」
「へぇ…じゃあ魔法で即席の核って作れるんじゃねぇのかなってちょっと思ったんだ」
「………」
突然の案に、ロシュはそれまで様々な方法を巡らせていた思考を停止させた。
「ただ、その核をどうあいつにくっつけるかなんだよなぁ。俺、魔法に関して詳しくないし。核があっても中に埋め込む方法があればいいんだけど」
何げなく言ったルイユの発言だが、ロシュにとっては光明だった。彼はスッと立ち上がり、魔物に向けて再び数歩進む。
突然何も告げずに歩き出すので、ルイユは何か悪い事でも言ってしまったのかと慌てた。
「え?ロシュ様、どうしたんだよ?」
自らの魔力で出現させた杖を手にしたまま、ロシュはルイユに礼を告げる。強行策だが、これなら今の状況を打破出来るかもしれない。
優男風の顔が強気にぐっと引き締まった。
「ありがとうございます。あなたのご意見を参考にさせて貰いますよ」
「……へ??」
「あなた方は安全な場所で待機していて下さい」
…一体何をする気なのか。
ロシュは数歩進んだ後、再び魔力で浮上した。
「ええ…一人でどうにかする気かよ…ヴェスカ、どうにかなんねぇの?」
困惑し、動こうとするルイユの腕をヴェスカが危険だと引っ張る。
「今回は俺じゃ役に立てねぇ」
申し訳無さそうに頭を垂れる筋肉男を、ルイユは少しばかり残念そうに眉を寄せた。
「何だよ、随分と弱気じゃん」
「駄目なんだよ、あの魔法陣の中。凄い重力みたいなもんが全身に入ってくる。なのに、地面は減り込んでねぇんだよな。…生物に対して圧力掛かってんのかもしれない。俺みたいに魔法の耐性が無いのが入ったらそれこそ潰れてしまう」
「………」
そこまでなのか、とルイユは魔法陣の輝きを見上げる。内部で不気味な唸り声を放つ魔物は、ゆっくりと体を起こしている。
変に刺激しても良くない結果になりかねない。
自分達はこうして見ているしかないものか…と歯痒い気持ちに陥ってしまう。
「そういや、スティレンは何処で寝てんだろ」
すっかりもう一人の存在を忘れていたと言わんばかりにぼそりと呟いた。無事ならばいいのだが、あれから姿が見えないままだ。
「吹っ飛ばされてる時に体が何かで覆われてるのを見たけど…ちょっと探すか。ルイユ、お前はいい場所見つけて隠れておけ」
ヴェスカが先程の衝撃を受けて重く感じる体を立たせていると、不意に空から小さい物が回転しながら落ちてきた。
二人とは数メートル程度離れた左側の場所。地面に激しく、ビターンと打ちつけられる。
「…あぁ?何だこれ…」
比較的身動きが取れやすいルイユがその落下物に近付き、落ちた物を確認する。その後すぐに彼は「うわっ!!」と叫び声を上げた。
「何!?何だよ?」
「何か指みたいなのだ!怖ぇえええ!!何で!」
体毛に覆われた指先だと確認し、ルイユはヴェスカの元へ引っ込む。しばらく間を置いて、小柄な人影がそれを追う形で空から降りてきた。
砂煙を撒き散らし、駿馬のような両足を強く踏み締めながら綺麗に着地する。
「…くそ、ほんの少ししか斬れなかった」
不満気にボヤきながら、彼は双剣の柄を握り直した。
「はは…良かった、探す手間が省けたな」
どうやらスティレンは無事だったようだ。彼の姿を確認し、ヴェスカは苦笑する。
「何だお前かよ!」
まるで出て来てはいけないような言い方に、スティレンは不愉快そうに言い返した。
「はぁ?俺で悪かったね」
「あれ、お前がやったのか?」
落下してきた物体を指差しながら問う。
「ふん…本当は手首からぶった斬ってやりたかったんだけど。手が付けられない位暴れてくるからあれだけしか出来なかったよ…魔法陣の中に入りにくかったしさ」
そう言いながら、彼は斬り落とした指に近付くと左足で勢い良く踏み潰した。
ぐじゃ、と嫌な音と同時に血飛沫が舞う。それを見たルイユは思わず顔を顰めた。
「うわぁ…そこまでやる?引くわー、ドン引きだわー」
「再生するかもしれないでしょ。はぁ…汚い」
自ら踏み付けておきながら不満を漏らす彼に、じゃあ踏むなよと引き気味に突っ込んでしまった。
「副士長」
「おう。…やっぱ、お前もあの中には入り難いんだな」
「はい。数分は耐えられますが後は無理です。強力な磁場が発生しているみたいな感じで…」
そう言い終えると、彼は煌々と輝く魔法陣へ視線を向ける。
「ロシュ様をお守りする立場なのに、逆に頼らなければならないなんて」
手出し出来ないもどかしさと、本来の目的の一つであるにも関わらずロシュを護衛出来ないという矛盾にスティレンは苛立ちをそのまま漏らした。
気持ちは分からなくも無い。
ヴェスカは彼の心境を汲み取りながら、「こればっかりは仕方無い」と宥める。
「あの人にはあの人の考えがあるみたいだ。俺らはあの中には入れないから、経過を見守るしかねぇよ。この魔法陣が消えるような非常事態が起これば…そん時には動くぞ」
事の成り行きを見守るのも重要だ。
上官の言葉を大人しく聞いたスティレンは、「…はい」とだけ言葉を返した。
即席で鋲を作成出来るなら核も作れるのでは…というルイユの提案に、ロシュは「何故今までそれに気付かなかったのだろう」と呟きながら再び結界の中の魔物と対峙する。
魔法陣に捕らえられたままの獰猛極まり無い獣は、何故か左手を振り回しながら悶えている。
「………?」
暗がりで振り回している手の状態は確認出来なかった。どうなっているのか知る由もない。
恐らく、何かの拍子に手をぶつけたのだろう。
余程痛いのか、魔物はこちらの存在に気付いていない模様。
懐に潜り込むには絶好のチャンスと言って良い。
ロシュはなるべく悟られないように素早く魔物の胸元へ降りていく。
「(まあ、周りは暗いしすぐに気付かれたりはしないだろうけど…)」
降りる最中、ロシュは振り回している左手をちらりと見た。
仄暗い月の明かりで一瞬だけ、広げた手の指の一部…関節部分が綺麗に無くなっている。すっぱりと、刃物で一気に斬られたように。
何だあれは…と双眸を細めていると、胸元に掠めた僅かな風に気付いた魔物はロシュの体目掛け、空いていた右手を使い叩きつけてきた。
激しい風圧を頭上に受け、ロシュはすぐに振り下ろしてくる手の下から逃れる。
バチン!!と自らの胸を叩く音が響いた。魔物の体毛が風に乗り、ロシュの頰を掠めていく。
「ちっ…鈍臭そうに見えて随分反応が早い」
手慣れたように魔物の眼前まで移動すると、持っていた杖の下部を嘴目掛け強めに打ち込んだ。同時に、甲高い悲鳴がそこから発せられる。
ロシュは「ほう」と驚いた。
「神経が通っているんですね。なるほど」
そう言いながらも再び杖を打ち付けた。
苦悶の声を漏らして魔物が再びこちら目掛けて手を振り上げるのを見るや、反射的にロシュは軽く浮上し杖を横一文字に振るってそれを弾き飛ばす。
バキッ、と何かが折れる音が聞こえた。
「おやおや」
ロシュは溜息を吐きながら呆れた表情を見せる。
今まで以上に激しい抵抗の叫び声を聞きながら、「中は脆弱なのですね」と杖を軽く振るった。
…中身は体の大きさについて行けないままなのかもしれない。そう思えば、少し残酷な事をしてしまった。
「早々に対処しないと」
もしかすれば、自分で暴れている段階で体内に異常を感じていたのかもしれない。痛みを受け、更に注意力が散漫になっているうちに、ロシュは再び魔物の胸元付近へ移動する。
嘴の下の辺りまで進み、相手の目線が確実に届かない事をチェックする。体の構造上、長い嘴を持つ彼は喉元まで目線を送る事は不可能。
ある意味、この魔物が動けない限り一番安全だった。
ただ、とにかく声が煩いのを我慢出来ればの話だが。この間にも、真横にある喉元からは金切り声や唸り声が引っ切りなしに聞こえている。
「体内に何も無いなら何処でも同じか…」
本来なら、胸元に近い場所が妥当だろう。
臨時で核を作るなら、この際何処でも構わない。
一呼吸置いて、ロシュは魔法の詠唱を始めた。
魔法の力を使う際、一部を除いて魔力の粒子による輝きが発生してくる。何かを具現化させる際も例外ではない。
喉元付近で輝き、魔力による熱を感じた魔物は違和感にすぐに気付く。折れた右腕では無く、負傷した左手でロシュを払おうと試みるものの、魔法陣の影響を受けてまともに体が動けないようだ。
虚しく腕が宙を舞うのをちらりと見る。
「…ま、頃合いでしょう」
最初の頃と比べると、随分大人しくなってきたと思う。杖の先端から小さな球体を作り上げた後、ロシュはそれを引き抜いた。
核としては些か小振り過ぎるが、仕込みとしては上出来だ。魔力の熱を感じつつ、彼は自らの足元に居る大型の魔物を見下ろす。
同時に凄まじい声が喉元から溢れ出した。
「…あぁ、うるさい!黙るっていうのを知らないんですか!」
結界による締め付けが、ロシュが新たに発した魔力によって更なる強度を増したようだ。術者が作り上げた魔法陣内で、新たに同じ術者による他の魔力が発生すると、プラスの作用が働いて円陣の強度が更に増してしまう。
延々と苦痛を与えるのは司祭の立場としては褒められたものではない。
さっさと終わらせてやるのが救いだ。
彼は手にしていた魔力の塊を、魔物の喉元に当てると別の魔法の詠唱を開始した。
魔力の塊をロシュが魔物に宛てがっているのとほぼ同時刻、ルイユは困惑気味に「大丈夫なのかね…」と呟いていた。
自分の一言で彼は魔物の元に向かってしまったので、もし何かがあれば自分のせいになってしまう。その際には自分も魔物を叩いてやろうと思ったが、ヴェスカに武器を取られた事を不意に思い出した。
「ヴェスカ」
「んあ?」
「弓、返してくれよ」
「だからダメだって言っただろ…大体、元々あんたのじゃねえだろうがよ」
商売道具を捨てた方が悪いだろ…と口を尖らせたその時だ。
それまで暗かった周囲が一瞬光に包まれ、柔らかい風が吹き抜けていく。急激な輝きに包まれながら、三人は結界の方へゆっくりと目を向けた。
魔物の体内から大量の真っ赤な触手を思わせるものが噴射され、1ヶ所に吸収されていくのが見える。
吸収されていく赤い物の先には、丸い魔法壁に包まれた状態の人影があった。魔物は赤い何かを吹き出し続けるにつれ、その姿形をみるみる消化させていく。
「何が起きたんだ…?」
周囲を包んでいた輝きが少しずつ収まると同時に、結界もすうっと消え失せていった。
ルイユは大丈夫なのか?と疑問を抱きつつも、魔物が居た方へ走り出す。
「あっ!!何勝手に動いているのさこの馬鹿!」
「あいつ、跡形もねぇぞ!ロシュ様が片付けたんだろ、凄げぇな!」
警戒するというのを知らないのか、とスティレンがルイユを引き止めようとしたその時。
まだ吸収されていない赤い物体がするすると地面を這う。そして突如勢い良く上へ突き上げ、ルイユの胸元を直撃した。
「!!!」
…ドスン、という衝撃が胸から全身に伝わる。
何?と自らに起きた事に対して理解が追い付かずにいると、スティレンの声が飛んできた。
「何して…っ、だから言っただろ!!」
「ルイユ!!」
それまで調子良く動き回っていた彼は、突如湧いた不快感に膝を落とした。かはっ、と咳き込みながら胸元を押さえ込む。
ヴェスカはルイユの元へ駆け付けると、腕に抱えながら「大丈夫か」と問い掛けた。
不思議な事に、血は出ていない。しかし突き刺された胸からは痛みと熱、そして息苦しさを感じる。
「あー…やっべ、体あっつい…ごめん、お前ら。俺、死ぬかもしれねぇ」
「縁起でも無い事を言ってんじゃないよ!」
叱りつけるスティレンの声を聞きながら、ルイユは自らの無鉄砲な行為に後悔した。
今更後悔しても遅い。…まさか、こんなに大事になっていくとは思わなかったのだ。
本来ならば普通に飲み食いをして、普通に帰るつもりだったのに。
「リシェの顔が見てぇな…」
ここで思い描くのは無表情で、全く可愛げの無い剣士の事。怒りっぽくて女みたいで、でも頼れる存在。
守りたいと思っているのに、これじゃあな…と自分の不甲斐無さに呆れた。
全身が熱に支配されるのと同時に、目の前がボヤけて真っ赤になっていく。
薄れていく意識の真っ只中、ルイユはこちらに近付いてくる足音を耳にする。その足音はロシュだと思ったものの、彼は完全に力尽きてしまった。
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