錦と氷、やがて春

雨ノ川からもも

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大人なんですね

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 *

 な、鳴らしてしまった……
 ――今朝、女の人と会ってましたよね? どうしても気になって来ちゃいました。
 なんて、あざとくかわいく、バカ正直に告白する図太さなんか持ち合わせていない。
 どうしよう。どうすればいい?
 インターホンを押してしまった後で、思考をフル回転させて必死にうまい言い訳を探していた私は、
「どうしたの? こんな時間に」
 そう言って出てきた彼を見て、ぴたりと固まってしまった。
「そっちこそ、大丈夫……?」
 どうしたの? はこっちの台詞だ。
 そんな、薄暗闇でも分かるほど、蒼白い顔をして。
「寝てたほうがいいよ」
「えっ? あっ、ちょっ……」
 玄関で靴を脱ぎ捨て、おぼつかない足取りの彼の手を取り、部屋に足を踏み入れる。
 見ると、テーブルの上に、まだ中身の入っていそうなビール缶があった。異様な顔色の原因はこれか。
「そっか。大人なんですね、ユキさんって」
 嫌味たらしく呟いてしまったのは、今朝のことがより鮮明に脳裏をよぎったからだ。
「飲む?」
「遠慮しときます。未成年だし」
 それ飲んだら間接キスじゃないですか、とは言わないでおく。
「真面目だね」
「うち、母が教師なんです。ひとくちでも飲んで帰ったら、きっと気づきます」
「じゃあ、ここにいたらまずくない?」
「そんな顔色で言われても」
 苦笑を返して、彼をベッドに寝かせる。
「君、お母さんのこと嫌い?」
 布団をかけてやり、
「嫌いってわけじゃないけど、好きじゃないのも確かです」
 答えながら、彼に背を向ける形でベッドの淵に腰かけた。
「相手の気持ちが分からない人なんです。担当、現代文なのに」
 文章や物語の中に織り込まれている繊細な想いを汲み取って、生徒たちに伝える。そんな仕事をしているはずなのに、いつも何かに焦って、ピリピリして。
「でもね、最近、思い出したんです」
 彼と関わるうちによみがえってきた、幼き日の、おぼろげな記憶。
「十五年前――父がいた頃は、今みたいじゃなかった。昔から神経質で心配性なところはあったけど、もうちょっとちゃんと、笑ってました」
 訊かれる前に、続ける。
「自殺、かもしれないんです」
 父は母とは正反対な性格で、物腰やわらかな人だった。母の小言も、ごめんね、分かったよ、って受け入れながらうまくかわして。
 そんな、怒りや苛立ちとは無縁に見えた父が、たった一度だけ、母に反抗したことがあった。
 ――キミハ、ボクガイナクテモイキテイケルダロ?
 とても悲しげな声だった。
 なぜそう言ったのかは分からない。当時、私はようやくひとりでトイレに行けるようになった年頃で、夜中に用を足そうと起き出してリビングを通りかかったときに、たまたま聞こえてきたのだ。
「それで、深夜だったのに気分転換に釣りに行くって出ていって、そのまま帰ってこなくなっちゃったみたいで」
 翌朝、近所の川で遺体となって発見されたという。
「解剖もしたけど、溺死ってこと以外、詳しい死因が分からないらしくて」
 最初、何かの暗号のようにしか聞こえなかった父の最後の言葉も、歳を重ねるにつれてだんだんと理解できるようになった。母が自分を責め続ける気持ちも、自殺かもという呪縛から逃れられない理由も。
「思えば勉強も、もともと母のために頑張ってたんです。テストでいい点取ると、喜んでくれるから」
 笑って、くれるから。
「だけどもう、私じゃ無理なんです」
 呟いた声は、思った以上に情けなくなった。
「ユキさん、前に私に言いましたよね? 先は長いって。でも、人間って変に賢い生き物だから、自分で死ぬ日を決めることもできるんです。父は、そうだったのかもしれない」
 ――君は、僕がいなくても生きていけるだろ?
 たしかに、父の主張も間違ってはいなかったのだろう。事実、母は父が亡くなってからずっと、女手ひとつで私を育ててきたのだから。
 けれど、
「誰かに優しくするのって、心の余裕が必要だと思うんです」
 父は、それをくれる人だった。父のことなんてほとんど覚えてないけど、それだけは自信を持って言える。
 生活が成り立つとか成り立たないとかじゃなくて、もっと大事なもの。私たちが心穏やかに生きていくために、家族であり続けるために、欠かせないもの。
 私は、父の代わりにはなれない。父が空けた穴は、父にしか埋められない。
「愛だね」
 ふいに背後から聞こえた声に、「えっ……?」と射貫かれたような気分になる。
「その心の余裕ってやつ、愛だと思うよ?」
 あぁ――彼はいつもそうやって、私の一歩先を行く。
 当然か。大人なんだから。
「――今朝の人って、彼女ですか?」
 せっかく忘れかけていたのに、また意地悪したくなってしまった。
 すると、彼はしばらく考えるように間を空けた後、「見てたんだ……」と少し驚いた様子でこぼしてから、
「違うよ」
 あくまで落ち着いた声色で答えた。嘘偽りは感じられない。
「じゃあ、どういう?」
「うーん、秘密」
 言えないような関係なの? 好きだけどまだ付き合ってないとか? それとも――
「ユキさんって、嘘はつかないけど、隠し事はしますよね」
 拗ねたように言うと、彼は「疑ってるな?」といたずらに呟いて起き上がり、私の隣に腰かけた。
「アカネの髪色って、茶色っぽいけど、地毛?」
 じっと見つめながら問われ、「う、うん……」と戸惑いながら答える。
「へぇ、かわいいね」
 無邪気な口調を崩さず言うと、彼は私のヘアゴムを外した。
「ユキさん……?」
 そしてそのまま、優しくベッドの上に押し倒され――
「ねぇ、君、自分で気づいてる? 怒ると敬語に戻るの」
 逃げ道を絶たれる。
「機嫌、直してよ」
 彼の顔がゆっくりと近づいてきて、思わずぎゅっと目を閉じた。
 少し酒臭い、吐息。
「なーんて、冗談」
 その一言で、空気が一変し、はっと目を開ける。
 彼は涼しい顔でベッドからおりると、私に背を向け、出窓の前で立ち止まってカーテンを開けた。
「未成年と成人がするのは、犯罪だよ」
 ――じゃあ、私が大人だったら……
 身も蓋もない問いかけは呑み込んで起き上がり、その場に座り込む。
 たった四つ。片手で数えられるのに、遠い。
「俺はね」
 彼は窓枠に肩ひじをついて、話し始めた。
「昔、母親がキャバクラで働いてたとき、観光に来てたアメリカ人の客に気に入られて、大サービスした末にできた子供らしい。妊娠が分かった頃には相手は帰国済みで、認知しなかった。だから俺は父親の顔を一切知らない」
 思い出すのは、ハーフかと尋ねたときの、動揺したような彼の反応。人に知られたくない過去なんて、誰もが持っているのかもしれない。
「この話も、ずいぶん前に泥酔した母親から聞かされただけだから、本当かどうか分からない。でもまぁ、他人の君がそう感じるなら、実際そうなのかもね」
 他人。
 その単語が、容赦なく胸をえぐった。
「いずれにせよ、俺には尻軽女の血が流れてるんだ。君も気をつけたほうがいい。今ので思い知っただろ?」
 冷たい背中。
「……私、帰りますね」
 シーツの上に放置されていたヘアゴムを拾い上げて結び直し、ベッドからおりる。
「勉強、しないと」
 嘘じゃない。受験生は忙しいのだ。
「お邪魔しました」
 何も返してくれない彼にそれだけ言い残して、部屋を出た。

 *

「はーあ。何やってんだろ、俺」
  ベッドに横たわって背中を丸め、深いため息とともに独り言ちる。
 あの夜は彼女が帰った直後から自己嫌悪に陥り、すでに鈍い頭痛を感じていたにもかかわらず、残っていた酒を完飲し、案の定地獄行き。
 朦朧とした意識の中で、そういえば彼女はあの人との関係を気にしているようだったと思い出し、
『昨日はごめん。会って話したい。絶対なんか誤解してるから』
 吐き気に苦しめられながら送ったメッセージには、すぐさま既読がついたものの、一向に返信がなく日曜が終わった。
 翌日には無事体調が回復し、
 ――考えてみればメッセージでのやり取りは初めてだし、年の瀬だし、そんなこともあるか。
 と自分に言い聞かせながら年末年始もバイトで気を紛らわせていたが、ついに二週間経っても進展せず、前回と同じ過ちを繰り返して現在に至る。
 ほんと、笑えない。
 あんなことした上に、自分から拒絶したくせに。
 ――大人なんですね。
 彼女の突き放すような一言が、耳の奥にこびりついていた。
「全然、大人じゃねぇよ……」
 彼女は知らないのだろう。
 あのとき――酒のせいばかりじゃなく、途中でブレーキをかけるのに、茶化すのに、相当な理性が必要だったことも。
 こうやって、二日酔いで寝込んで、独り女々しく思い悩んでいることも。
 きっと、何ひとつ知らないのだろう。
 彼女は勉強に逃げてしまう自分を卑下していたが、そんなのまだかわいいもんだ。酒に逃げるより、百倍いい。
 お母さんのために、なんてめちゃくちゃかわいいじゃないか。
 そう思いながら、手は自然と枕もとのスマホへ伸びる。
 ダメもとで追撃してみようか、なんて懲りずに彼女の連絡先を開いたとき、
 ――ピロン。
 図ったように、メッセージが届いた。
【返信、遅くなってごめんなさい。今から行ってもいい?】
「おぉっと……」
 待て。落ち着け。イエスと叫びたいのは山々だが、この状況でまともに対応できるのか?
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 よしっ。
『二日酔いでダウンしてるけど、それでもよけ……』
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『二日酔いでダウンしてるけど、もう吐き気もおさまってるし、君には迷惑かけないと思うから。待ってる』
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