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💧 Life3 ふたりのかたち
「未来に怯えて、目の前の幸せから逃げないで?」
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新鮮な空気。新鮮な景色。
志賀家の一室に何度も足を運んだから、構造や間取り自体には見慣れているはずなのに、全く知らない場所のように感じる。
でも、妙にそわそわと浮足立っているのは、きっと、それだけのせいじゃない。
入籍した翌日。あらかた引っ越しを済ませて、ふたりきりで過ごす、初めての夜。
入浴を終えたあまねが、パジャマ姿で奥の部屋――ふたりの寝室を覗くと、薄暗闇の中で、少し驚いたような瞳が出迎えた。
「へぇ、おろすとそんな感じになるんだ」
先にベッドに入って待っていた丈の反応に、あまねは「あぁ……」と自分の髪に触れる。
普段はひとつにまとめているのであまり分からないが、幼い頃は、指に巻きつけると形が残るくらいのくせ毛だった。年齢を重ねるにつれてだんだんと落ち着いてきたけれど、今でも、おろせば全体に緩くウェーブがかかる。
「変?」
「ううん。かわいいなって」
そんなたらし文句に、不覚にも頬が火照るのを感じ、「褒めても何も出ませんよ」なんてごまかしながら出入り口を閉め、彼の隣に横たわる。
掛け布団を引き上げようとすると、そのままふわりと抱き寄せられた。
彼の、におい。後ろ髪に触れる、華奢な手。
静謐な夜に包まれて、互いの左手薬指だけが、密やかにきらめいている。
「ねぇ……」
「んー?」
彼のほっそりとした指先は、後頭部から毛先のほうへ。その手つきには、独特な甘美さと気品が漂っていた。
「――私のこと、いつから好きだったの?」
髪を撫でられるやわらかな心地よさに浸っていると、いつもの自分からは想像できないような小恥ずかしい言葉が、自然とこぼれ出た。
それもこれも、深夜ゆえ、というやつだろうか。
――いつも自分を貫いててかっこいいって言ってた。
数日前の、菊池の言葉がよみがえる。
自分を貫いている、だなんて言えばずいぶんと聞こえはいいけれど、あまね本人としては、わがままでひねくれ者なだけなんじゃないかしら、と思う。
――他人から見た自分なんてたいがいどっかズレてんだろ。
だけどまぁ、菊池が言ったように、丈にとってはそれが真実なのだろう。
ありがたく受け取ってはおくが、ずっと気になっていた。
いったいどうして? と。
いつどんなきっかけで、彼の目に映る私は、特別な存在になったのだろうか。
「ねぇってば」
猫なで声で催促するが、
「ないしょー」
彼はいたずらに微笑むばかり。
「こらー、教えろー」
余裕のある表情が小憎たらしくて、お腹をくすぐってやる。
「ちょっ、やめ……いやだって」
「分かった。じゃあ菊池に聞いちゃうもんね」
「だーめっ」
そんなふうにああだこうだ言いながらじゃれ合っているうちに、丈の手のひらが、ふと、あまねのふくよかな胸に触れた。
そして――
止まる。突然、我に返ったように。
「本当に、いいのかな……?」
瞬く間に重く沈んだ影が差し、強張る表情。
こんな幸せなひとときでさえ、彼の中で、現実という魔物が首をもたげ、大きく口を開ける瞬間があるのだろう。
「家族が増えるってことは、僕が死んだとき、悲しむ人が増えるってことだ。そんなのやっぱり……」
呑み込まれてしまう前に、あまねは「黙って」と彼の唇の前に人差し指を立てる。
「私も丈も、今ここにいる。それだけで充分じゃない。未来に怯えて、目の前の幸せから逃げないで?」
告げてから、「それにね」と優しく諭すように彼の手を取った。
「悲しむ人が増えるってことは、悲しみを分かち合う仲間も増えるってことなの。家族を失う痛みは、丈も充分知ってるはずでしょ? それを純さんひとりに背負わせるほうが、よっぽど酷だと思わない?」
そう説いてもなお、不安の色が消えないから、もっと言うなら――と彼の胸に額をくっつける。
「悲しむ人が多いのは、自分がそれだけたくさんの人に愛されたって証拠。ちっとも悪いことじゃない。むしろ誇るべきだよ」
孤独より、愛されたほうがいい。遅かれ早かれ、最期の時は、誰しも平等にやってくるのだから。
小さく息を呑む気配がして、あまねはすっと顔を上げた。
「入籍するのもそうだったけどさ、いざってときに尻込みしちゃうの、あんたの悪い癖よ」
指摘すると、
「だ、だって……」
丈は聞き分けのない子供のように口籠る。
「言い訳しないの。子供ができたら、おっきい布団敷いて、みんなで川の字になって寝るのが私の夢なんだから」
笹川家にはなかった、ずっと憧れ続けた光景。思い描くだけで微笑ましい。彼とふたりで叶えられたら、どんなに素敵だろうと思う。
想像を膨らませて目を細めると、丈は切なさと愛おしさにあふれた眼差しで、じっとこちらを見つめる。
「……ほんとかわいいよね」
やにわにそう呟いて、ふっと破顔すると――ためらいがちに、唇を重ねた。あまねもゆっくりと応える。
丈にねだられて添い寝は一度だけしたけれど、それ以上のことは初めてだ。
ファーストキスと初体験を同時に済ます夫婦が、今時どれほどいるだろう。もしかしたら、自分たち以外にいないかもしれない。
ひょっとして丈は、すでに武中と経験済みだったりするのだろうか。ふとよぎった。
ううん。このぎこちなさは、キスのしかたも知らない。そう思いたい。
上手い下手なんて、私にもよく分からないけれど。
そんなことを考えている間に、キスはたちまち深くなった。
日中は家のことを丈に任せて仕事へ行き、彼の体調がいいときは、流れに身を任せてふたりで甘い夜を過ごす。
そうしてしばらく、穏やかな日々が続いた。
*
「おぉーっと!」
リビングダイニングで仕事に行く準備をしていると、寝室のほうから純の叫び声が聞こえてきた。また吐いたのだろうか。
結婚生活が始まって半年足らず――春が去り、季節が夏から秋へと移り変わりつつある今日この頃、丈が久々に体調を崩した。
あまねは当初の予定に沿って、二ヶ所でバイトを掛け持ちし、生活費を工面している。
昨日の夕方に帰宅したとき、めずらしく丈の顔色が優れず、「なーんかだるいんだよねぇ。今のところ熱はないんだけど……」などと言っていたと思ったら、深夜にトイレで嘔吐したらしく、ふらつきながら出てきた。嫌な予感がするなと思いながら熱を測ってみれば、案の定、三十八度五分。
あまねはこの通り翌日もバイトがあったため、ずっとそばで看病するわけにもいかず、すぐに純に連絡した。幸いにも彼は休みだというので、こうして朝から来てもらったというわけだ。
いざというときの備えが、ようやく役に立った。
幸せの作用か、結婚してから一昨日まではすこぶる体調がよかったようなので、丈自身は辛いだろうけれど。
「丈ー?」
身支度を整えて寝室に向かうと、黒ビニール袋を片手に持った純と入れ違った。やはり吐いたらしい。
昨夜にトイレで吐いた後も、「あたまいたい……まだきもちわるい……」とベッド上で洗面器を抱えていて、あまねが傍らで純と電話している最中に吐き、スマホ片手に背中をさすった。今朝方にも一度吐いている。いつもと同様、吐き気がひどいようだ。とはいえ、ひっきりなしでなくてまだよかった。
「行っちゃうの? 苦しいのに……」
薄化粧を施したあまねを認めるなり、独占状態のダブルベッドから体を起こした丈が、飼い主の外出を引き止める子犬のような眼差しで見つめてくる。
額にはお決まりの冷却シートが貼られ、抱えてこそいないが、枕もとにはいまだ洗面器が置かれていた。
あまねは、すっかり甘えん坊モードに入った丈に歩み寄り「そんな顔しないの」と包み込むように抱きしめる。
「だいじょーぶ。今までと違って、ちゃんとここに帰ってくるから。だって家族だもん。ねっ?」
そう。私たちはもう、他人じゃない。どんなときも、こうして一緒にいるために、家族になったのだから。
すると、丈も肩越しにくすぐったそうにふふっと笑った。触れた体や回された腕は、昨夜と変わらず熱を持っている。
「病院、行くんだよ?」
「うん。行きたくないけど行くー。気持ち悪いの嫌だし」
行きたくないとは言いつつも、ずいぶんと素直になったものだ。きっと純も喜んでいることだろう。
実は今日、あまねも病院に行く用事があるのだけれど、今伝えたら自分のことはそっちのけでついていくと言い出しかねないので、事後報告にしよう。
「ん。いい子」
キスする代わりに、ぽんぽんと優しく背中を叩いてやり、そっと体を離す。
夕方まで、しばしお別れだ。
「それじゃあ、すみませんけど、しばらく丈のこと、お願いしますね」
あまねは、わざわざ玄関前まで見送りに出てきてくれた純に、あらためて伝える。
「いえいえそんな。しっかり病院にも連れていきますんで、安心してください」
頼もしく答えた彼に、「純さん」と呼びかけた。彼はきょとんと目を丸くする。
「丈が幸せになったからって、あんまり余計なこと考えちゃダメですよ?」
直後、その瞳の奥が、かすかに揺らいだ気がした。
――僕がもし、あいつの立場だったらって考えたとき、同じ選択をしたかもしれないなって、思ったんです。
あの日の純の一言が、今でもずっと、頭から離れない。
あれから、いろいろな環境や感情が目まぐるしく変化して、予想もしなかった形にはなったけれど、間違っても私を「唯一の肉親を任せられる人」だとは思ってほしくない。
両親と妹が亡くなったのをきっかけに同棲を解消して以来、特に恋人もいないようだ。
辛くても生きていけるのは、守るべきもの――歯止めになる何かがあるからで。
自分の未来を捨ててまで弟のために走り続けてきた彼が、もしも、ここで抜け殻になってしまったら。
取り返しのつかない選択をしたとしても、おかしくはない。死ぬのは怖くない、と繰り返す丈のように。
だから今日、丈には気の毒だけれど、こんなふうに純を呼び出す口実ができたことは、内心ほっとしている。あなたはちゃんと、必要な存在だ。
私たちはもっともっと、幸せになっていい。ならなくちゃいけない。
「分かち合う仲間が、増えただけですから」
念を押すように、いつか丈に告げたのと同じ言葉をかけると、純はふっと優しく表情を崩した。
「――大丈夫ですよ。甥っ子や姪っ子の顔も見たいですし」
言った後で「ってこれ、セクハラかも」と困ったように苦笑しながら頭の後ろを掻く彼。
そんな様子に、あまねもくすりと笑った。
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