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🐾決意の冬 一夜の奇跡と永久の願い
「俺はお前の、ここになりたいと思ってる」
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*
「ありがとう」
目的地に到着し、礼を言ってふらつきながら車を降りた。
頭がくらくらする。気持ち悪い。
これは、脳死状態の体とリンクしているせいばかりではないと思う。
事前の予告通り、父の運転は、一昔前のヤクザ並みに荒かった。
発車してからはとても休息どころではなかったけれど、おかげで通常は車を使っても十分程度かかるところを、半分以上短縮できた。
その代償なのだから、文句は言うまい。むしろ感謝すべきだ。
動かない体にむちを打って数歩進んだ、そのとき、
「卓也」
姉の気遣うような声が、呼ぶ。申し訳ないが、もはや振り返る余裕もない。
「――がんばって」
背中越しでも、何かを呑み込んだのが分かった。
ひょっとしたら、父と姉は、このまま自分の帰りを待っているつもりなのかもしれない。
けどごめん。俺は二度とここへは戻れない。今日が終わったら、消えるから。
……なんてそんなこと、言えるはずもなくて。
だから代わりに、精一杯片手を上げて応えた。
車のドアが、ゆっくりと閉まる。同時に、一歩一歩、踏みしめる。
痛みと雪のせいか、足の感覚はほとんど麻痺している。もう、まっすぐ歩けているかどうかも分からない。
目指す場所は目の前だが、父も言っていたように、もう真夜中だ。当然、正面からは入れない。裏口を、探さないと。
たった数メートルが、とてつもなく遠い。一歩が、鉛のように重い。
そのうち、吐き気すら込み上げてくる。
「うっ……なんかやばい。ゲロりそう……」
――ゲロなんか吐いてる場合じゃないよ。あと十五分もないんだからっ!
容赦なく尻を叩く母の声。
――ここまできて、諦めるのかい?
「……冗談じゃねぇ」
母に発破をかけられた俺は、最後の力を振り絞って走りだす。
お願いだ。俺はどうなってもいい。
地獄だろうと天国だろうと行くし、命だって心臓だって、なんだって差し出すから。
だから、頼むから、間に合ってくれ……!
*
雪を見るのなんて、いつ以来だろう。
私は病室の厚い布団に包まって、白く曇ったガラス窓を人差し指でそっと撫でた。
触れた指先が、痛むように冷たい。
今夜はまだ一睡もしていなかった。暗くて時計を確認できないが、そろそろ日付が変わる頃だろうか。
年明けだし、まあいいか、と思う。
ベッドから抜け出して騒いでいるわけでもないのだから、このままおとなしくしていれば、巡回の看護師に気づかれることもないだろう。
こうしていると、卓也と過ごした夜を思い出す。
彼が初めて人間の姿になり、猫に戻る瞬間をこの目に焼きつけようと奮闘した春の夜。
発作をめぐるいさかいの後、とりとめもない恋愛話をした夏の夜。
彼の意外な一面が見えた秋の夜。
そして――キスで想いを通わせた冬の夜。
たくさんの思い出がよみがえってきて、ふいに泣きたいような気持ちが湧き上がってきたそのとき、ゆっくりと静かに、ドアの開く音が聞こえた。
看護師だろうかと上半身だけで振り返って、目を見張り、反射的に飛び起きた。
「たく――」
思わず叫びかけると、彼が「シーッ」というように唇の前に指を立てたので、はっと口をつぐんだ。
彼は小さくうなずいて、忍び足でこちらに近づいてくる。
今日は季節の変わり目ではないはずなのに、どうして人間の姿なのだろう。そもそも、どうやってここに?
よく見ると、その足取りはふらついているように思えた。暗がりのせいではっきりとは分からないが、顔色もあまり優れない気がする。
そう思った瞬間、力なく倒れかけた。
「あっ……」
反射的に駆け寄ろうとすると、片手を伸ばして制する彼。
「大丈夫だ。ちょっと安心して気が抜けた、だけだから……」
心なしか、呼吸も苦しそうだ。
ほんとに大丈夫? と尋ねる前に引き寄せられた。今までと違い、私が彼の意思を汲んで寄り添うような曖昧さはなく、しっかりと抱きしめられている感覚。
あぁ、彼は生きているんだ、と思った。
「卓也……だよね?」
胸の中に身を委ねたままあらためて問うと、彼は「うん」と優しく答えた。
「今日、わりと元気そうじゃん」
「そうだね。なんか、卓也のほうが具合悪いんじゃない?」
深刻になりすぎないよう、さらりと尋ねたら、
「俺は平気だよ。さっきまで死にかけてたけど、お前の顔見たら全部ふっ飛んだ」
なんて粋な受け答えをして、くせっ毛を慈しむように撫でてくれる。
しばらくされるがままになっていると、
「大事な話があるんだ」
彼は手を止め、あらたまった口調で切り出した。秋の夜に、心臓のことを訊かれたときと似ている。
「信じられないかもしれないけど、今から話すのは映画の設定でも、どっかのおとぎ話でもない。本当のことなんだ。笑わずに聞いてくれるか?」
「私、ファンタジックな物事には慣れてるから」
微笑交じりに答えると、彼は安心したように吐息を漏らし、体を離した。
そして軽く屈んで目線を合わせ、こちらの胸にそっと手を置く。
「俺はお前の、ここになりたいと思ってる」
当然その一言では理解できず、眼差しで詳細な説明を求めると、彼はベッドの傍らにひざまずき、ひとつひとつ言い聞かせるように話した。
自分の元の体が、脳死状態でまだこの世にある。それを使えば、お前を助けられるかもしれない。その意思を周囲に伝えるために、一夜限りで肉体を取り戻したのだと。
「でも、そんなことしたら卓也はどうなっちゃうの? それに、ドナーになるって簡単なことじゃないんだよ?」
いくら本人や家族に臓器を提供する意思があっても、血液型や体格をはじめとする様々な条件が患者と合致しなければ、ドナーにはなれないのだ。彼は本当に分かっているのだろうか。
それに、私が生きたいと思えたのは、あなたがいたからこそなのに。
取り乱して震える拳を、彼の手のひらが優しく包み込んだ。
「この姿に戻すとき、俺の母親も同じようなことを言ったよ。『あんたが心臓を捧げたところで、それがあの子のものになるかどうかは分からない』って」
そう言って「でもさ、ふうか」と儚げに微笑む。
「その可能性は99パーセントかもしれないし、50パーセントかもしれないし、1パーセント以下かもしれない。それこそ誰にも分からないんだよ。ただ……」
彼は雪がちらつく窓の外を遠い目で眺めながら、言った。
「100じゃないことは確かだけど、0じゃないことも確かだ」
その言葉は、これまでにない重みとともに、私の心に届いた。
「それにもし、うまくいったらさ」
彼は生真面目な表情を一変させて、無邪気な子供のように身を乗り出す。
「俺たち、死ぬまで一緒なんだぜ? それってすごいことだと思わないか?」
たしかにその通りだ。提供された臓器は、移植された人間の中で働き続け、成長し続ける。
私が彼を置き去りにしていくこともないし、彼に置き去りにされることもない。
朽ち果てるその瞬間まで、ともに生き続けるのだ。
大切な大切な、彼と。
「だから、俺は賭けてみたいんだよ。貧乏な村人が、待ち続けた王子様に出会うよりも、よっぽどあり得るこの奇跡にさ」
気づいたら、うなずいていた。
放置すれば、いずれ消える命。そんなものでちょっと夢見たくらいで、天罰は下らないはずだ。
彼は白い歯を見せて満足そうにはにかみ、かと思えば「あ~あ……」と落胆したような声を出す。
「ほんとはさ、今から病院抜け出して、誰もいない場所で、お前とはしゃぎ回りたいところなんだけど。もう、時間がないみたいだ」
「何その少女漫画みたいな展開。卓也の発想って、ときどき古く――」
後半の一言は聞こえなかったふりをして笑い飛ばそうとした。けれど、言い終わる前に塞がれる。
あの夜の遠慮がちなものとは比べものにならないほど、激しくて熱いキスだった。
苦しい。でもそれは、ちゃんと重なっているからだ。互いが生きて、呼吸をしているからだ。
「ぁ……ん……」
途中、息が続かなくなって鳴くように声を漏らしても、彼は手加減してくれない。むしろ、またきつく抱き寄せられる。まるで自分の存在を焼きつけるかのように。
もっと近づきたくて、彼の体に腕を回した。撫でた背中は、がっしりとしていて男らしい。
あたたかなしずくが頬をつたう。自分の涙と、彼の涙が溶け合った。
好き。大好き。愛してる。
ありふれた言葉を、包み隠さない気持ちを、濃厚なキスで伝える。
胸の内とはいえ、愛してる、なんて小恥ずかしい言葉を使う瞬間が訪れるとは思わなかった。
心の片隅で羞恥を覚えている間にも、どんどん深くなる、
あぁ――ずるい。初恋の人との最後のキスがこんなにも熱いなんて、こんなにも悲しいなんて、ずるい。絶対に忘れられなくなってしまう。
苦しさをこれほどまでに幸せだと感じる瞬間は、きっとこの先どこにもない。
どれくらいそうしていただろう。ほんの数分のようにも、途方もなく長い時間のようにも感じた。
彼がようやく唇を離し、潤んだ瞳で切なげに微笑む。
「いるからな、ここに」
そう囁いてから、もう一度こちらの胸に触れる。
そのたしかなぬくもりに、
「卓也……!」
いかないで、と叫ぼうとしたとき――遠くで除夜の鐘が鳴った。
*
真っ白な中にいた。
――お前さん、一番大事なことを伝えそびれたんじゃないのかい?
「わざとだよ。分かってるくせに」
――そうかい。
「寂しいけどさ。これはこれでよかったのかもな」
――どうして?
「あいつのことだから、俺のこと覚えてたら、楽しいときも、誰かを好きになったときも、ずっと引け目を感じて生きていくかもしれないだろ? そんなのは、俺も嫌だし」
――ったく、カッコよくなっちまって。
母は呆れたように、でもどこか誇らしげに笑った。
――安心しな。あんたはきっと、天国に行けるさ。
「あ~、やだやだ。天国も地獄も行きたくねぇ。今日までの記憶持った状態で、そっくりそのまま生まれ変わりてぇ」
そしたら真っ先に、君に会いに行くのに。
――せっかく褒めてやったのに、なに駄々こねてるんだい。
「なぁなぁ、母ちゃんは神様なんだろ? どうにかできねぇのかよ」
――バカ言うんじゃないよ。無理に決まってるだろぉ? 一回チャンスをもらえただけで儲けもんだってのに。転生のルールに文句があるんだったら、向こうに行ってから、もっと上の階級の神に申し立てるこった。あたしゃどうなっても知らないけどね。
うなだれたかったけれど、もう体がなかった。
――そんなに落ち込まなくたって、いずれあの子もこっちに来るんだから。あんたが五十年ちょっと早く死んだだけのことじゃないか。
「そんな簡単に言うなよなぁ……」
――あ~もう。色ボケ男はほんとにめんどくさいねぇ。ほら、お迎えだよ。
眩い光に包まれた。
君が笑っている。
俺は、この笑顔を守れただろうか。今にも消えてしまいそうな、泡のように儚かった君の命を、未来へつなぐことはできただろうか――
君と過ごした日々。君が教えてくれた気持ち。全部、忘れないよ。もしも忘れてしまっても、いつかきっと、思い出すから。絶対に、心のどこかにはしまっておくから。
「頼んだぞ、俺の体」
そんな一言を残して、俺は光の中へ溶けていった。
「ありがとう」
目的地に到着し、礼を言ってふらつきながら車を降りた。
頭がくらくらする。気持ち悪い。
これは、脳死状態の体とリンクしているせいばかりではないと思う。
事前の予告通り、父の運転は、一昔前のヤクザ並みに荒かった。
発車してからはとても休息どころではなかったけれど、おかげで通常は車を使っても十分程度かかるところを、半分以上短縮できた。
その代償なのだから、文句は言うまい。むしろ感謝すべきだ。
動かない体にむちを打って数歩進んだ、そのとき、
「卓也」
姉の気遣うような声が、呼ぶ。申し訳ないが、もはや振り返る余裕もない。
「――がんばって」
背中越しでも、何かを呑み込んだのが分かった。
ひょっとしたら、父と姉は、このまま自分の帰りを待っているつもりなのかもしれない。
けどごめん。俺は二度とここへは戻れない。今日が終わったら、消えるから。
……なんてそんなこと、言えるはずもなくて。
だから代わりに、精一杯片手を上げて応えた。
車のドアが、ゆっくりと閉まる。同時に、一歩一歩、踏みしめる。
痛みと雪のせいか、足の感覚はほとんど麻痺している。もう、まっすぐ歩けているかどうかも分からない。
目指す場所は目の前だが、父も言っていたように、もう真夜中だ。当然、正面からは入れない。裏口を、探さないと。
たった数メートルが、とてつもなく遠い。一歩が、鉛のように重い。
そのうち、吐き気すら込み上げてくる。
「うっ……なんかやばい。ゲロりそう……」
――ゲロなんか吐いてる場合じゃないよ。あと十五分もないんだからっ!
容赦なく尻を叩く母の声。
――ここまできて、諦めるのかい?
「……冗談じゃねぇ」
母に発破をかけられた俺は、最後の力を振り絞って走りだす。
お願いだ。俺はどうなってもいい。
地獄だろうと天国だろうと行くし、命だって心臓だって、なんだって差し出すから。
だから、頼むから、間に合ってくれ……!
*
雪を見るのなんて、いつ以来だろう。
私は病室の厚い布団に包まって、白く曇ったガラス窓を人差し指でそっと撫でた。
触れた指先が、痛むように冷たい。
今夜はまだ一睡もしていなかった。暗くて時計を確認できないが、そろそろ日付が変わる頃だろうか。
年明けだし、まあいいか、と思う。
ベッドから抜け出して騒いでいるわけでもないのだから、このままおとなしくしていれば、巡回の看護師に気づかれることもないだろう。
こうしていると、卓也と過ごした夜を思い出す。
彼が初めて人間の姿になり、猫に戻る瞬間をこの目に焼きつけようと奮闘した春の夜。
発作をめぐるいさかいの後、とりとめもない恋愛話をした夏の夜。
彼の意外な一面が見えた秋の夜。
そして――キスで想いを通わせた冬の夜。
たくさんの思い出がよみがえってきて、ふいに泣きたいような気持ちが湧き上がってきたそのとき、ゆっくりと静かに、ドアの開く音が聞こえた。
看護師だろうかと上半身だけで振り返って、目を見張り、反射的に飛び起きた。
「たく――」
思わず叫びかけると、彼が「シーッ」というように唇の前に指を立てたので、はっと口をつぐんだ。
彼は小さくうなずいて、忍び足でこちらに近づいてくる。
今日は季節の変わり目ではないはずなのに、どうして人間の姿なのだろう。そもそも、どうやってここに?
よく見ると、その足取りはふらついているように思えた。暗がりのせいではっきりとは分からないが、顔色もあまり優れない気がする。
そう思った瞬間、力なく倒れかけた。
「あっ……」
反射的に駆け寄ろうとすると、片手を伸ばして制する彼。
「大丈夫だ。ちょっと安心して気が抜けた、だけだから……」
心なしか、呼吸も苦しそうだ。
ほんとに大丈夫? と尋ねる前に引き寄せられた。今までと違い、私が彼の意思を汲んで寄り添うような曖昧さはなく、しっかりと抱きしめられている感覚。
あぁ、彼は生きているんだ、と思った。
「卓也……だよね?」
胸の中に身を委ねたままあらためて問うと、彼は「うん」と優しく答えた。
「今日、わりと元気そうじゃん」
「そうだね。なんか、卓也のほうが具合悪いんじゃない?」
深刻になりすぎないよう、さらりと尋ねたら、
「俺は平気だよ。さっきまで死にかけてたけど、お前の顔見たら全部ふっ飛んだ」
なんて粋な受け答えをして、くせっ毛を慈しむように撫でてくれる。
しばらくされるがままになっていると、
「大事な話があるんだ」
彼は手を止め、あらたまった口調で切り出した。秋の夜に、心臓のことを訊かれたときと似ている。
「信じられないかもしれないけど、今から話すのは映画の設定でも、どっかのおとぎ話でもない。本当のことなんだ。笑わずに聞いてくれるか?」
「私、ファンタジックな物事には慣れてるから」
微笑交じりに答えると、彼は安心したように吐息を漏らし、体を離した。
そして軽く屈んで目線を合わせ、こちらの胸にそっと手を置く。
「俺はお前の、ここになりたいと思ってる」
当然その一言では理解できず、眼差しで詳細な説明を求めると、彼はベッドの傍らにひざまずき、ひとつひとつ言い聞かせるように話した。
自分の元の体が、脳死状態でまだこの世にある。それを使えば、お前を助けられるかもしれない。その意思を周囲に伝えるために、一夜限りで肉体を取り戻したのだと。
「でも、そんなことしたら卓也はどうなっちゃうの? それに、ドナーになるって簡単なことじゃないんだよ?」
いくら本人や家族に臓器を提供する意思があっても、血液型や体格をはじめとする様々な条件が患者と合致しなければ、ドナーにはなれないのだ。彼は本当に分かっているのだろうか。
それに、私が生きたいと思えたのは、あなたがいたからこそなのに。
取り乱して震える拳を、彼の手のひらが優しく包み込んだ。
「この姿に戻すとき、俺の母親も同じようなことを言ったよ。『あんたが心臓を捧げたところで、それがあの子のものになるかどうかは分からない』って」
そう言って「でもさ、ふうか」と儚げに微笑む。
「その可能性は99パーセントかもしれないし、50パーセントかもしれないし、1パーセント以下かもしれない。それこそ誰にも分からないんだよ。ただ……」
彼は雪がちらつく窓の外を遠い目で眺めながら、言った。
「100じゃないことは確かだけど、0じゃないことも確かだ」
その言葉は、これまでにない重みとともに、私の心に届いた。
「それにもし、うまくいったらさ」
彼は生真面目な表情を一変させて、無邪気な子供のように身を乗り出す。
「俺たち、死ぬまで一緒なんだぜ? それってすごいことだと思わないか?」
たしかにその通りだ。提供された臓器は、移植された人間の中で働き続け、成長し続ける。
私が彼を置き去りにしていくこともないし、彼に置き去りにされることもない。
朽ち果てるその瞬間まで、ともに生き続けるのだ。
大切な大切な、彼と。
「だから、俺は賭けてみたいんだよ。貧乏な村人が、待ち続けた王子様に出会うよりも、よっぽどあり得るこの奇跡にさ」
気づいたら、うなずいていた。
放置すれば、いずれ消える命。そんなものでちょっと夢見たくらいで、天罰は下らないはずだ。
彼は白い歯を見せて満足そうにはにかみ、かと思えば「あ~あ……」と落胆したような声を出す。
「ほんとはさ、今から病院抜け出して、誰もいない場所で、お前とはしゃぎ回りたいところなんだけど。もう、時間がないみたいだ」
「何その少女漫画みたいな展開。卓也の発想って、ときどき古く――」
後半の一言は聞こえなかったふりをして笑い飛ばそうとした。けれど、言い終わる前に塞がれる。
あの夜の遠慮がちなものとは比べものにならないほど、激しくて熱いキスだった。
苦しい。でもそれは、ちゃんと重なっているからだ。互いが生きて、呼吸をしているからだ。
「ぁ……ん……」
途中、息が続かなくなって鳴くように声を漏らしても、彼は手加減してくれない。むしろ、またきつく抱き寄せられる。まるで自分の存在を焼きつけるかのように。
もっと近づきたくて、彼の体に腕を回した。撫でた背中は、がっしりとしていて男らしい。
あたたかなしずくが頬をつたう。自分の涙と、彼の涙が溶け合った。
好き。大好き。愛してる。
ありふれた言葉を、包み隠さない気持ちを、濃厚なキスで伝える。
胸の内とはいえ、愛してる、なんて小恥ずかしい言葉を使う瞬間が訪れるとは思わなかった。
心の片隅で羞恥を覚えている間にも、どんどん深くなる、
あぁ――ずるい。初恋の人との最後のキスがこんなにも熱いなんて、こんなにも悲しいなんて、ずるい。絶対に忘れられなくなってしまう。
苦しさをこれほどまでに幸せだと感じる瞬間は、きっとこの先どこにもない。
どれくらいそうしていただろう。ほんの数分のようにも、途方もなく長い時間のようにも感じた。
彼がようやく唇を離し、潤んだ瞳で切なげに微笑む。
「いるからな、ここに」
そう囁いてから、もう一度こちらの胸に触れる。
そのたしかなぬくもりに、
「卓也……!」
いかないで、と叫ぼうとしたとき――遠くで除夜の鐘が鳴った。
*
真っ白な中にいた。
――お前さん、一番大事なことを伝えそびれたんじゃないのかい?
「わざとだよ。分かってるくせに」
――そうかい。
「寂しいけどさ。これはこれでよかったのかもな」
――どうして?
「あいつのことだから、俺のこと覚えてたら、楽しいときも、誰かを好きになったときも、ずっと引け目を感じて生きていくかもしれないだろ? そんなのは、俺も嫌だし」
――ったく、カッコよくなっちまって。
母は呆れたように、でもどこか誇らしげに笑った。
――安心しな。あんたはきっと、天国に行けるさ。
「あ~、やだやだ。天国も地獄も行きたくねぇ。今日までの記憶持った状態で、そっくりそのまま生まれ変わりてぇ」
そしたら真っ先に、君に会いに行くのに。
――せっかく褒めてやったのに、なに駄々こねてるんだい。
「なぁなぁ、母ちゃんは神様なんだろ? どうにかできねぇのかよ」
――バカ言うんじゃないよ。無理に決まってるだろぉ? 一回チャンスをもらえただけで儲けもんだってのに。転生のルールに文句があるんだったら、向こうに行ってから、もっと上の階級の神に申し立てるこった。あたしゃどうなっても知らないけどね。
うなだれたかったけれど、もう体がなかった。
――そんなに落ち込まなくたって、いずれあの子もこっちに来るんだから。あんたが五十年ちょっと早く死んだだけのことじゃないか。
「そんな簡単に言うなよなぁ……」
――あ~もう。色ボケ男はほんとにめんどくさいねぇ。ほら、お迎えだよ。
眩い光に包まれた。
君が笑っている。
俺は、この笑顔を守れただろうか。今にも消えてしまいそうな、泡のように儚かった君の命を、未来へつなぐことはできただろうか――
君と過ごした日々。君が教えてくれた気持ち。全部、忘れないよ。もしも忘れてしまっても、いつかきっと、思い出すから。絶対に、心のどこかにはしまっておくから。
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