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🐾決意の冬 一夜の奇跡と永久の願い

――もう、逃げない

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 眠れない。
 私は暗がりの中、熱に浮かされた頭でぼんやりと天井を見つめた。
 立夏に倒れて以来、体調は悪化する一方だ。二学期に入ってからはほとんど学校に行けず、発作も毎日のように起きる始末。はっきり言って勉強どころではないし、留年の可能性が濃厚になってきたこともあり、両親や担任、医師などと相談して休学届を出した。
 十月上旬のことだったから、すでに一ヶ月近くになる。
 近頃のコンディションは最悪だった。発作はもちろん、熱もないことのほうがめずらしいくらいで、冷却シートや氷枕が手放せない。多少マシな日はあっても全快することはない、といった感じだ。今となっては、元気だった頃の感覚をうまく思い出せない。これまでも体調を崩しやすい時期はあったけれど、こんなに長期間重症化するのは初めてだ。まるで、自分が自分でなくなってしまったかのような、虚無感。
 もしかしたら、私はもう……
 そんな暗い感情が心に忍び寄ってきたとき、ふいに、やわらかいものが腕の中で小さく震える。
「またなの……?」
 彼が潜り込んでいるはずの左脇に向かって呼びかけると、もぞもぞと這い上がってきて顔を覗かせた。
「なんか大丈夫? 最近」
 目の前のウィンにではなく、卓也に尋ねるつもりで語りかけると、彼はどこかほっとしたように、それでいて申し訳なさそうにひと鳴きする。
「起こしちゃったとか思ってるなら気にしなくていいよ。まだ寝ついてなかったし」
 休学してからというもの、ウィンはあまり外に出なくなり、四六時中一緒にいるからか、猫の姿でも彼の考えていることがおおよそ分かるようになってしまった。
「なんて顔してるのよ」
 苦笑して、情けなく不安げな眼差しで見つめてくる彼の頭をそっと撫でてやる。
 立秋の夜から、明らかに彼の様子がおかしかった。
 こうして夜中に飛び起きては、私が声をかけると、安堵と不安の入り混じったような表情を見せるのだ。ここ一、二週間ほどで、頻度も増した気がする。
 まるで、何かにひどく怯えているみたいだった。
「だいじょーぶ。ちゃんとここにいるから」
 言い聞かせるように伝えて、頭から背中をしばらく撫でさすっていると、彼は安心したように腕の中で丸くなり、再び眠りに落ちた。
 彼はいったい、何を抱えているのだろう。
 それを訊ける唯一のチャンス――彼の名前の由来にもなった季節がやって来る日は、もうすぐそこだ。

 *

 俺は、どうしたらいいのだろう。
 立冬を迎えたその朝、いつものように床にしたふうかの隣でひざを抱え、答えの出ない問いとジレンマに思い悩まされていた。
 自分の体が脳死状態にある。衝撃の真実を知ったあの日から、何度も同じ夢を見る。
 余命わずかな母に頼まれてサインしたドナーカード。叶わなかった願い。そして、棺の中で眠るふうか。
 棺を覗く瞬間までは、母の身に起きた悲劇――つまり、俺がまだ辛うじて道を踏み外す前、律儀に病院へ通い詰めていた頃に起きた、本当のことだ。
 事実と妄想で作りだされた、残酷な夢。
 だからこそ、もしもお前がドナーにならなければ……とふうかの未来を警告されているようで、怖くて怖くてしかたない。彼女の声で悪夢から目覚めるたび、現実が変わっていないことに心底ほっとし、危うく泣きそうにさえなる。
 彼女の口から「脳死」という単語を聞いたときには、希望と動揺で背筋が冷えるような思いだった。
 自分の体で、彼女を救えるかもしれない。けれど、それを彼女に伝えたとして、手放しで喜んでくれるとは到底考えられなかった。
 心優しい彼女のことだ。その問題をめぐって家族が葛藤していると知れば、なおさら、怒鳴るほどの勢いで反対するだろう。
 どうしてなんだ。どうして俺の大切な人は、みんな揃いも揃って遠くへいってしまうんだ。
 もし本当に、彼女がいなくなってしまったら……
 ひとり悶々もんもんとしていると、ふと傍らで乾いた物音がした。
 視線をやれば、いつものごとく額に冷却シートを貼ったふうかが、布団から体を起こして洗面器を抱えている。
「どうした?」
 普段は見ない光景に、少し心配になりながら尋ねると、彼女は病的に蒼白い顔をこちらに向けて、弱々しく苦笑した。
「――あぁ、ちょっとね。気持ち悪いんだけど、なんか吐けなくて」
 そう言って下を向き、胃の中にとどこおっているものを促すように空咳をする。
 この頃は症状が悪化したのか、ひどいときはお粥も喉を通らず、ほぼ点滴だけに頼っているような状態のこともあるので、吐き気があっても押し出されるものがないのかもしれない。
 もどかしく辛そうな姿に、涙の夜に彼女が言ってくれた言葉が思い起こされた。
 ――大事なのは、何ができるとか、できないとか、そういうことじゃないと思うの。
 ――ただ私のことを想って、そばにいてくれたら、それだけで充分頑張れるから。
 そうだ。
 ――もう、逃げない。
 できないことを数えてくよくよするのは、いい加減やめよう。どんな小さなことでもいい。大切な人のために、何か手を差し伸べよう。
 そうすれば、ずっとまとわりついてきた無力さからも解放されるはずだ。彼女が俺を、必要としてくれる限り。
 俺はふうかのほうへそっと身を寄せ、最近ますます華奢になったような気がする背中に、静かに手のひらを添えた。といっても、すり抜けるとまた失望してしまいそうだから、触れるか触れないか、ギリギリの距離を保って。
 かすかなぬくもりを感じたらしく、ふうかはちょっと驚いた様子で顔を上げたが、すぐに何かを悟ったようにふわりと微笑んだ。
 俺もふっと微笑み返し、背中に回した手を慎重に動かし始める。
 いたわりと励ましを込めながら、上から下へ、ゆっくりと。
 しばらくそれを繰り返していると、
「うっ……」
 彼女を苦しめていたものが、ようやくおりてきた。
 彼女の咳が湿り気を帯びると、上下に撫でつけるようにしていた手を、今度は後ろから前へ、優しく小刻みに叩くように動かす。
 この瞬間が一番辛いだろうなと思う。代わってやれたらどんなにいいか。
「……っ」
 一度おさまったかと思ったら、続けて次の波が来た。おそらく、ほとんど胃液だろうけれど。
「大丈夫か?」
 徐々に落ち着きを取り戻してきたタイミングでそう声をかけると、
「うん。もう大丈夫。ありがと」
 彼女は、先ほどよりいくらかすっきりした笑顔を見せて洗面器を枕もとに戻し、横たわると同時にスマホをタップする。
 できるものならそこまで手を貸してやりたいけれど、さすがにそれは叶わない。
 やがて母親がやって来て、嘔吐物を処理したのち戻っていくと、
「ねぇ、隣で一緒に寝て?」
「……はい?」
 彼女がとんでもないことを言い出した。
 えっと、それはつまり、添い寝をしろということでしょうか……?
「何その『コイツ頭大丈夫か?』みたいな反応。いつものことでしょ?」
 いや、言われてみればたしかにそうかもしれないけど、だってほら、あれは大半が背中合わせだし……
「それとこれとはわけが違うだろ」
「どう違うの?」
 あ~、もう。
「一緒じゃん」
 お前にとっては一緒でも、
「俺にとっては全然違うんだっつーの……」
 自分でも分かるほど赤面して俯き加減でこぼした言葉に、彼女は分かっているのかいないのか「えー、なにー?」と少しばかりからかうような態度を返してくる。
「……っだー! これで我慢しろッ!」
 俺は恥ずかしさを振り払うように叫ぶと、そのまま、ふうかの左手に自分の右手を重ねた。
 彼女はちょっといたずらに微笑んで「しかたない。妥協してあげよう」なんて言う。
 輪郭が曖昧な右手からは、ほっそりとした色白の左手が浮き出ていたけれど、不思議と以前のようなむなしさが湧き上がってくることはなかった。それよりも、かすかに感じるこのぬくもりが愛おしい。
「たくや」
 甘えたような声で名前を呼ぶ彼女に、
「なんだよ……」
 意識的に不愛想な返事をする。でないと、自分を抑えられなくなってしまいそうだった。
「私、今日は発作が起きても、ママ呼ばないから」
「は!? なんで?」
 またもぶっ飛んだ発言に、すっとんきょうな声が出てしまう。
「だって、それで救急搬送されたら、今度こそ帰ってこられなくなるかもしれないじゃない?」
「別に、そうなっても、もう泣いたりなんかしねぇよ」
 なんだか子供扱いされている気がして、いじけた口調で答えると、
「そうじゃなくて、私が嫌なだけ」
 彼女も拗ねたように頬を膨らませる。
「だから、もし発作が起きたときは、さっきみたいに背中、さすってほしいの」
 ごまかすでも、照れるでもなく、あくまで生真面目なその表情は、かえって鼓動を刺激した。
「意味ねぇだろ、そんなん」
 また、意識的に冷たくあしらう。
「ううん。人の手ってね、ときどき、どんな薬よりも効くことがあるんだよ」
 あふれだしそうな感情は、努めて呆れたような吐息に変えた。
「……分かったよ。けど、それでおさまんなかったら、ちゃんと助けを呼ぶこと。いいな?」
 諭すように言うと、彼女は満足げに微笑んでうなずく。
「……ったく」
 ――お前がいなくなったら、俺が困るんだから。
 そんな言葉は胸の奥に押し込んで、
「いいから、もう寝ろよ」
 俺はさらにふうかとの距離を詰めると、重ねていないほうの手を再び背中に回し、ゆったりとしたリズムで叩いてやる。三ヶ月前、彼女の父親がそうしていたように。
 すると、彼女は一分もしないうちにウトウトとし、薄くきれいなまぶたを閉じて、心地よさそうに寝息を立て始めた。
「……ほんとすぐ寝るんだな」
 幼い頃からの癖なのかもしれない。
 俺は、子供のように無防備な寝顔に、穏やかな気持ちで顔をほころばせた。

 誰かに腕を掴まれた気がして目が覚めた。いつの間にか居眠りしてしまったらしい。
 外はあたたかなオレンジ色に染まっている。
 もう夕方か……とぼんやり考えながら腕のほうへ視線を落とせば、ふうかが何か言いたげにこちらを見つめていた。
「トイレついてきて」
「えっ……」
 なんだか今日は、彼女に驚かされてばかりだ。
「お前、俺はおと――」
「誰も中までなんて言ってない。寝ぼけてないで、ほら早く」
 そう言って立ち上がった彼女の隣に、うまく回らない頭で促されるまま並ぶ。
 と、彼女の手の指先が自分のそれに触れる感覚がしたので、もしやと思い眼差しで問うと、照れくさそうにうなずいた。
「トイレまで遠いから、何かあったときのために」
 何かあっても結局助けられねぇけどな、と思いながらも手を添える。
 彼女が求めているのは、きっとそういうことじゃない。
 部屋を出て、本来なら体がぶつかり合うほどの距離感で、歩幅を合わせながら比較的長い廊下を歩く。
 無事にトイレの前までたどり着くと、彼女がそっと手を離した。
「ここで待ってて」
「心配しなくても、覗き見したりしねぇって」
 そんな軽口に小さく笑ってから、彼女はドアを閉める。
 眠気も飛び、ひとりになったことで余計な思考が働きだしたのか、出てきたときにふらっと倒れたらどうしよう、なんて今さら不安になったとき――ふと思った。
 吐き気に苦しめば背中をさすり、手を重ねて一緒に寝て、トイレに付き添い……もしかしたら今日の自分は、彼女の父親と肩を並べても恥ずかしくないのではないか? まあ、最後のこれは、ふうかの心遣いが含まれているかもしれないけれど。
 もちろん、できないことのほうが圧倒的に多い。でも、どうせ無理だと投げ出していた数ヶ月前と、もう逃げないと決めた今朝のあの瞬間を比べれば、今のほうがはるかに彼女の力になろうと努力している。そして実際、力になれている気がする。
「大事なのはここ、か……」
 自分の胸に手をあてて、ぽつりと呟いてみた。本当にそうなのかもしれない。
 それに、こういうのって、なんだかすごく、恋人っぽい――
 身勝手な喜びに頬をだらしなく緩ませたとき、水を流す音がした。
 あわてて気を引き締めていると、彼女がドアからひょっこり顔を出す。
「なに? なんか嬉しそうだけど」
「いや? べつに?」
 自分でも笑ってしまうほどぎこちないごまかし方だったけれど、彼女は特に追求することなくドアを閉めると、当たり前のように手を差し出してくる。
 飽きもせず暴走する鼓動を必死に抑えて手を取りながら、考えた。――まさか、全部バレてたりする?
 ドアが開きっぱなしになっている部屋の前で、添えていた手を離すと、彼女はまるでウォーキングを終えた後のように「はぁ~」と声に出して布団の上へダイブする。今の彼女にとっては、日常のちょっとした行動も一苦労なのだろう。
「こら。疲れたのは分かるけど、寝るならちゃんと寝ろって」
 掛布団の上に寝そべったまま背中を丸めたので、すかさずたしなめると、彼女は「はぁい」とお昼寝中に先生に叱られた園児よろしく中へ潜り込む。
 きちんと見届けて俺も定位置に戻ったとき、スマホや洗面器、ポシェットなどとともに置かれた体温計が目に入った。
「そういえば今日、まだ一回も熱測ってないんじゃね?」
 指摘すると、彼女も「言われてみればそうかも……」とのん気そうにこぼして、体温計を手に取った。
 ゆっくりとそれを脇に挟みながら、ふふっとおかしそうに笑う。
「なに笑ってんの?」
「卓也、お母さんみたいだなって」
 ――俺がなりたいのは、母親なんかじゃねぇよ。
 もどかしい気持ちをぐっと呑み込み、
「なんだよそれ。せめて父親にしろよ」
 なんて場に合わせた冗談を返す。
 ちょうどそのとき、体温計が小さな電子音を立て、取り出した瞬間――彼女は花が開くようにぱあっと顔を輝かせた。
「ねぇ、これ! みてっ!」
 彼女が嬉しそうに見せてきた体温計に表示されていた数字は、
 36.7。
 ――世間一般的に「平熱」と言われている範囲内のものだった。
「……マジ? これ、お前がなんか小細工したわけじゃなくて?」
「してないしてない。ちゃんと見てたでしょ?」
 そう言われてもまだ信じられなくて、すっかり冷たさを失った冷却シートの上から彼女の額に手をかざしてみる。けれどたしかに、
「……熱くない」
 かすかでも、熱気のようなものは感じなかった。
「ほらね」
 彼女は得意げに微笑んで、用済みとばかりに冷却シートをはがす。
 考えてみれば、ついさっきトイレに行ったときも、それなりに体力を消耗した様子ではあったものの、以前のように、一歩踏み出すのも辛い、といった深刻な印象は受けなかった。
「よかったな」
 胸の奥から、じわりと安心感が滲み出してくるような感覚を覚えつつ微笑むと、
「うんっ」
 彼女もあどけなくはにかむ。
 心からの笑顔を見たのは、本当に久しぶりのような気がした。
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