10 / 32
🐾変化の夏 揺れる想いと君の秘密
「頼むから」
しおりを挟む*
ポシェットの中に入っていたのは即効性のある薬だったようで、服用した瞬間からふうかの顔にはみるみる血色が戻り始め、救急車に乗り込んで病院へ着いたときには、すっかり落ち着きを取り戻していた。
鼻孔を刺激する薬品のにおい。清潔感を見せつけるかのごとく白い壁と天井に、かたそうなベッド。
俺はそれらを拒絶するように、室内をうろつきながら苦々しく顔をしかめた。
病院は苦手だ。どうしたって思い出してしまうから。
閉ざされた未来。弱っていく母。バラバラになった家族。
思った以上に早く終わりを告げてしまった人生のうちで、どん底と言っても過言ではないほどの、悪夢の日々を。
まぁ、よほど腕のある先生に助けてもらったとか、同室の誰かと大親友になったとか、そういうドラマチックなエピソードでもない限り、病院は辛くて当たり前の場所なのかもしれないけれど。
ベッドから体を起こし、窓を見つめて黙りこくっているふうか。三つ編みがほどかれた長い黒髪は、朝と同じように波を打っている。でも今はそれを、かわいいと思う余裕もない。
何か諦めたような表情のまま一向に口を開こうとしない彼女に、どう声をかけたものかと悩んでいると、
「ふうかっ!」
あわただしく病室のドアが開き、頭の後ろでひとつに束ねた髪を揺らしながら母親が病室に駆け込んできた。よほど急いだらしく、激しく息を切らしている。
後を追って入ってきたのは、痩せぎすの男性。初めて見る顔だけれど、もしかして父親だろうか。くしゃくしゃとした癖のある黒髪と、黒縁眼鏡から覗く少し頼りなさそうな瞳が、どことなくふうかに似ていた。
「もう、また勝手なことして! こうなるといけないから、ひとりで遠出はしちゃダメだって、いつも言ってるじゃない!」
呼吸を整えてベッドに歩み寄るなり、荒く語気を強めた母親に、ふうかは「ごめんなさい……」としおらしくうなだれる。
「どこ行ってたのよ」
しかし、続けられた質問には、鋭い視線を返した。
「勝手に出かけたのは謝る。だけど、どこに行ってたかなんて、ママには関係ないことでしょ?」
娘の反抗的な一言に、母親は瞳に確かな怒りを宿す。頬を張りそうな勢いだ。
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃないか。無事だったんだから」
すかさずとげとげしい雰囲気を察知した父親が、やんわりと口を挟んだ。だがそれも逆効果だったようで、母親はますますいきり立つ。
「あなたは黙ってて。だいたい、あなたがいつもそうやって甘やかすから――」
怒りの矛先が父親に向いたそのとき、病室のドアが規則正しくノックされ、
「島谷さん、先生がお呼びですので、少々よろしいですか?」
まだ経験の浅そうな若い女性看護師が顔を覗かせた。
「あ……はい」
「分かりました」
ふうかの両親は、何事もなかったかのように会釈して返事をすると、看護師についてしずしずと病室を出る。
ドアが閉められる音を最後に、暗く淀んだ空気が降りた。
「今年は、ひとりじゃなかったんだけどな……」
再び窓に視線を戻し、心なしか悔しそうに呟いたふうかに「大丈夫か?」と訊こうとして、やめた。
バカみたいだ。あんなの、大丈夫じゃない。大丈夫なわけない。
だから代わりに、
「どうしたんだよ……」
さっき言えなかった言葉をかけた。
すると、
「……たまにあるんだ」
ふうかは静かに答える。それから、ゆっくりとこちらを振り返り、
「たいしたことじゃないの。ほんとに、大丈夫だから」
なんの説明にもならない言葉をぎこちない笑顔に包み、瞳で訴えかけてくる。
もう、これ以上は聞かないで――と。
申し訳ないがお断りだ。俺はそこまで優しくない。それは、彼女もよく知っているだろう。
「突然ぶっ倒れて救急車で運ばれといて、たいしたことないって。そりゃあねぇだろ。お前、俺をどこまでバカだと思ってんの?」
煽るように鼻で嗤ってみせると、
「あの海ね」
彼女はことさらに声のトーンを明るくする。偽りと、拒絶の明るさ。
「まだパパと一緒だった頃、家族みんなでよく行ったんだ」
「……逃げんなよ」
「離れて暮らすようになってからも、夏になると私ひとりでこっそり行ったりしてたの。たぶん、ママが知ったら嫌がるから。海だけは、今までバレたことなかったのに――」
「オイッ――!」
たまらず声を荒らげると、彼女は驚いて怯えた小動物のように肩をすくめる。
はっとした。
「ご、ごめん……」
我に返った俺はか細い声で謝罪をこぼして俯き、唇を噛み、拳を握り締める。
腹が立ってしかたがなかった。彼女が重大な秘密を隠し持っていたこと、それを頑固に語ろうとしない態度にもだが、何より自分自身に。
初めて会った日に動物病院まで走ったとき、やたらと長引いていた息切れ。年齢のわりに早すぎる就寝時間。
――今日で冬も終わるんだ。なんか、ほっとするなぁ。
――見るだけだから持ってきてない。泳ぐのは嫌いなの!
彼女の何気ない言葉。
そして、肌身離さず持ち歩いていたポシェット。春先の軽い体調不良だって。
今思えば、小さな疑問が、ヒントがそこかしこにあったのに、それを深く考えようともせず、のうのうと過ごしていた自分が不甲斐なかった。許せなかった。
こんなに、近くにいたのに。
俺は、おもむろにベッドの脇へ歩み寄ると、片ひざをついてふうかと視線を合わせた。
「なぁ、俺って家族なんだよな?」
自ら発した言葉に胸の奥が鈍く痛んだけれど、気づかないふりをした。
ふうかは首だけで小さくうなずく。
「だったら、ちゃんと教えてくれよ。俺、今日逃したら三ヶ月お預けなの知ってるだろ?」
じっと見つめても、返事はなかった。
普段は聞き分けが良すぎるくらいの彼女が、こんなにも必死に隠したがっているのだ。相当知られたくない何かがあるのだろう。
無理を強いていることに、心が痛まないと言えば嘘になる。けれど、こちらだって引き下がるわけにはいかない。
これは義務だ。そう――家族としての。
「頼むから」
なおも懇願する気持ちで繰り返すと、彼女は観念したようにまぶたを伏せて深いため息をつき――胸に手を当てる。
浜辺で倒れたとき、痛みを抑制するように押さえていたそこに、そっと。
そして、覚悟を決めた眼差しで、言った。
「私の心臓、ポンコツなの」
1
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
生まれきたる者 ~要らない赤ちゃん引き取ります~
京衛武百十
現代文学
『要らない赤ちゃん引き取ります』
そう記された怪しいサイトを真に受ける人間は、普通はいないだろう。けれど、そんな怪しさしかないサイトすら頼らずにいられない人間はいる。
そして今日も一人、そこに記された電話番号をダイヤルする者がいたのだった。
なろうの方で連載していたものを、こちらにも掲載することにしました。
筆者注:筆者自身も子を持つ親として自らを戒める為に書いているというのもありますので、親や大人にとっては非常に耳の痛い部分もあると思います。ご注意ください。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ダブルファザーズ
白川ちさと
ライト文芸
中学三年生の女の子、秋月沙織には二人の父親がいる。一人は眼鏡で商社で働いている裕二お父さん。もう一人はイラストレーターで家事が得意な、あっちゃんパパ。
二人の父親に囲まれて、日々過ごしている沙織。
どうして自分には父親が二人もいるのか――。これはそれを知る物語。
俺にはロシア人ハーフの許嫁がいるらしい。
夜兎ましろ
青春
高校入学から約半年が経ったある日。
俺たちのクラスに転入生がやってきたのだが、その転入生は俺――雪村翔(ゆきむら しょう)が幼い頃に結婚を誓い合ったロシア人ハーフの美少女だった……!?
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる