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🌕最終夜 僕と私の後悔
「中途半端なんだよッ!」
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*
あれから、どうやって家まで戻ったのか、まったく覚えていない。おかしなくらいにすっぽりと、記憶が抜け落ちている。
頭の片隅におぼろげに残っている、お父さんに事情を説明する理佳子さんの言葉が正しければ、冷たくなった弟を背負って帰ってきて「アユが、死んじゃった……私が殺したのっ……!」と玄関で泣き崩れたらしい。
でも、気がついたときには辺りは夜の闇に閉ざされ、雨も小降りになっていて、ベッドの中で怯えた小動物みたいに震えていた。
パジャマに着替えていたから、風呂には入ったのだろうか。体はほんのりあたたかいのに、震えが止まらなかった。まるで、ママのときのように。
あの後のことを思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われ、止めどなく涙があふれだす。防衛本能が働くのだろうか。
四年前――私が中学に、アユが小学校に上がるタイミングでリノベーションされた我が家。
二階にあった六畳一間を子供部屋にし、当時まだ幼かったアユが不安にならないようにと、あえて防音性の低い可動式収納で仕切ってある。
そのため、いつもお互いの生活音がよく聞こえた。彼の存在を、すぐそばに感じていた。
なのに、今は何も聞こえない。不気味なほど静かだ。
毎晩のように収納の扉を開けて、眠れないとぐずる彼のもとへ行った日々が懐かしい。
そんなことを考えると、ますます涙が止まらなくなった。
翌朝五時頃、窓を叩く雨の音で、浅い眠りから覚めた。
ゆっくりと起き上がれば、泣きすぎたせいか頭がガンガンする。だけど寝ている暇はない。
もう、決めたから。
私はベッドからおりて身支度を済ませると、机の引き出しから、チェーンのついた小瓶を取り出す。
――これで寂しくないよね? とっても大事なものができたら、中に入れて持ち歩くといいよ。
何を入れたらいいか分からず、ずっと奥にしまいっぱなしだった、ママの形見。
もうひとつの遺品である、コンパクトサイズの裁縫セットも取り出した。
机上には、あの空色のジュエリーボックスが置かれ、コルクボードから剥がした家族写真を整理したアルバムも立てかけられている。
自室の机は、ママとの思い出の孤島だ。
ドアノブに手をかけたら、内側から鍵がかかっていた。こんなことすら覚えていないなんて。
鍵を開けて部屋を出ると、小瓶と裁縫セットを手に、なるべく足音を立てないよう、階段をおりる。
リビングを覗けば、部屋の片隅、昨日寝ていたのと同じ布団に、アユの亡骸が安置されていた。
夢ではなかったのだと痛感し、また涙が込み上げそうになるが、ぐっと下唇を噛みしめてこらえ、奥のダイニングへ。
持っていた小物を一度テーブルに置くと、裁縫セットの中から縫い針を一本、それとテレビボードの引き出しからガーゼを取り出し、隣に並べた。
背後にあるキッチンの蛇口を軽くひねれば、ちょろちょろと水が流れ出す。
喉が渇いていたけれど、冷たい水は飲みたくなかった。――フラッシュバックしそうだから。
小瓶の栓を抜き、一度きれいにゆすいでから、三分の一ほど水を入れ、そのまま風呂場の洗面所へ向かった。
棚から、理佳子さんが掃除で重宝しているクエン酸を取り出し、少量投入して、栓を閉める。
これで大丈夫なはず。
ダイニングへ戻ると、右手に小瓶、左手にガーゼと針を持ってアユの前まで行き、ひざを折った。
ガーゼと針と小瓶を傍らに置くと、そっと掛布団をめくって彼の手を取り、ひらのほうへ返す。
怪我をしたのは後頭部だし、見える範囲に目立つ外傷はなかったけれど、手の冷たさはすでに、生きている人のそれではなくて。
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えながら、もう片手で針を持ち――彼の親指の腹に、刺した。
一瞬で抜くと、素早く小瓶に持ち替えて開栓。滲み出した赤黒い液体を受け止めてから再び栓をし、傷つけたアユの指にガーゼを巻く。
本当は、採血キットなんかを取り寄せてきちんと丁寧にやりたかった。けれど、そこまでの時間はない。
ママも、まさか人の血を入れるとは思っていなかっただろう。私だって驚いている。
身近に看護師がいたおかげで、血が固まるのを防ぐには血液凝固防止剤が必要だと知っていた。クエン酸ナトリウムも、そのひとつになるらしい。
真っ赤に染まった小瓶を首にかけ、傍から見えないよう、服の内側に隠した。
私は今日、通夜にも葬式にも参列しないで、この家を出る。だからせめて、犯した罪を忘れないために。
「ごめんね。さよなら」
眠り続けるアユにぽつりと語りかけ、腰を上げた。
血のついた縫い針は、そのままテーブルへ――ティッシュの上に転がして、裁縫セットとともに残していく。
私は、あなたたちの大事な息子にこんなことをしました。お父さん、理佳子さん、ごめんなさい。
心の中で謝罪しながら、ひとり深く頭を下げ、玄関へと足を向ける。
そうして靴を履いたちょうどそのとき、背後で誰かが階段をおりてくる音がした。
「彩……?」
お父さんだ。理佳子さんじゃなくてよかったと思いつつ、背を向けたまま立ち上がる。
「こんな時間にどうした?」
「私、もう戻らない」
質問には答えず、断言した。
「私はアユを殺した。ここにいる資格、ないから」
「なに言ってるんだ。待ちなさい、彩」
掴まれた手を、また振り払う。
「モデルとして稼いだお金は全部置いていく。だから許して」
「はっ? そういう問題じゃないだろ。ちゃんと話を――」
「ねぇ」
まだ何か言おうとするお父さんを遮って、
「最後にひとつだけ、訊いてもいい?」
今度は顔だけで振り向いた。
「ママと理佳子さん、どっちが好き?」
返ってきたのは、硬直した戸惑いの表情。
「それは……」
――答えられないんだ。
「中途半端なんだよッ!」
思った以上に、怒気のこもった大声が出た。
一瞬の隙をついて、外に飛び出し、玄関の鍵をかける。
少しでも時間を稼がないと、簡単に追いつかれてしまうだろう。
――パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?
ごめんなさい、ママ。
他の人を愛したことを怒ってるんじゃないの。でも、中途半端は嫌いだから。
涙で滲む視界の中、冷たい雨に打たれて、ただひたすらに走った。
あれから、どうやって家まで戻ったのか、まったく覚えていない。おかしなくらいにすっぽりと、記憶が抜け落ちている。
頭の片隅におぼろげに残っている、お父さんに事情を説明する理佳子さんの言葉が正しければ、冷たくなった弟を背負って帰ってきて「アユが、死んじゃった……私が殺したのっ……!」と玄関で泣き崩れたらしい。
でも、気がついたときには辺りは夜の闇に閉ざされ、雨も小降りになっていて、ベッドの中で怯えた小動物みたいに震えていた。
パジャマに着替えていたから、風呂には入ったのだろうか。体はほんのりあたたかいのに、震えが止まらなかった。まるで、ママのときのように。
あの後のことを思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われ、止めどなく涙があふれだす。防衛本能が働くのだろうか。
四年前――私が中学に、アユが小学校に上がるタイミングでリノベーションされた我が家。
二階にあった六畳一間を子供部屋にし、当時まだ幼かったアユが不安にならないようにと、あえて防音性の低い可動式収納で仕切ってある。
そのため、いつもお互いの生活音がよく聞こえた。彼の存在を、すぐそばに感じていた。
なのに、今は何も聞こえない。不気味なほど静かだ。
毎晩のように収納の扉を開けて、眠れないとぐずる彼のもとへ行った日々が懐かしい。
そんなことを考えると、ますます涙が止まらなくなった。
翌朝五時頃、窓を叩く雨の音で、浅い眠りから覚めた。
ゆっくりと起き上がれば、泣きすぎたせいか頭がガンガンする。だけど寝ている暇はない。
もう、決めたから。
私はベッドからおりて身支度を済ませると、机の引き出しから、チェーンのついた小瓶を取り出す。
――これで寂しくないよね? とっても大事なものができたら、中に入れて持ち歩くといいよ。
何を入れたらいいか分からず、ずっと奥にしまいっぱなしだった、ママの形見。
もうひとつの遺品である、コンパクトサイズの裁縫セットも取り出した。
机上には、あの空色のジュエリーボックスが置かれ、コルクボードから剥がした家族写真を整理したアルバムも立てかけられている。
自室の机は、ママとの思い出の孤島だ。
ドアノブに手をかけたら、内側から鍵がかかっていた。こんなことすら覚えていないなんて。
鍵を開けて部屋を出ると、小瓶と裁縫セットを手に、なるべく足音を立てないよう、階段をおりる。
リビングを覗けば、部屋の片隅、昨日寝ていたのと同じ布団に、アユの亡骸が安置されていた。
夢ではなかったのだと痛感し、また涙が込み上げそうになるが、ぐっと下唇を噛みしめてこらえ、奥のダイニングへ。
持っていた小物を一度テーブルに置くと、裁縫セットの中から縫い針を一本、それとテレビボードの引き出しからガーゼを取り出し、隣に並べた。
背後にあるキッチンの蛇口を軽くひねれば、ちょろちょろと水が流れ出す。
喉が渇いていたけれど、冷たい水は飲みたくなかった。――フラッシュバックしそうだから。
小瓶の栓を抜き、一度きれいにゆすいでから、三分の一ほど水を入れ、そのまま風呂場の洗面所へ向かった。
棚から、理佳子さんが掃除で重宝しているクエン酸を取り出し、少量投入して、栓を閉める。
これで大丈夫なはず。
ダイニングへ戻ると、右手に小瓶、左手にガーゼと針を持ってアユの前まで行き、ひざを折った。
ガーゼと針と小瓶を傍らに置くと、そっと掛布団をめくって彼の手を取り、ひらのほうへ返す。
怪我をしたのは後頭部だし、見える範囲に目立つ外傷はなかったけれど、手の冷たさはすでに、生きている人のそれではなくて。
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えながら、もう片手で針を持ち――彼の親指の腹に、刺した。
一瞬で抜くと、素早く小瓶に持ち替えて開栓。滲み出した赤黒い液体を受け止めてから再び栓をし、傷つけたアユの指にガーゼを巻く。
本当は、採血キットなんかを取り寄せてきちんと丁寧にやりたかった。けれど、そこまでの時間はない。
ママも、まさか人の血を入れるとは思っていなかっただろう。私だって驚いている。
身近に看護師がいたおかげで、血が固まるのを防ぐには血液凝固防止剤が必要だと知っていた。クエン酸ナトリウムも、そのひとつになるらしい。
真っ赤に染まった小瓶を首にかけ、傍から見えないよう、服の内側に隠した。
私は今日、通夜にも葬式にも参列しないで、この家を出る。だからせめて、犯した罪を忘れないために。
「ごめんね。さよなら」
眠り続けるアユにぽつりと語りかけ、腰を上げた。
血のついた縫い針は、そのままテーブルへ――ティッシュの上に転がして、裁縫セットとともに残していく。
私は、あなたたちの大事な息子にこんなことをしました。お父さん、理佳子さん、ごめんなさい。
心の中で謝罪しながら、ひとり深く頭を下げ、玄関へと足を向ける。
そうして靴を履いたちょうどそのとき、背後で誰かが階段をおりてくる音がした。
「彩……?」
お父さんだ。理佳子さんじゃなくてよかったと思いつつ、背を向けたまま立ち上がる。
「こんな時間にどうした?」
「私、もう戻らない」
質問には答えず、断言した。
「私はアユを殺した。ここにいる資格、ないから」
「なに言ってるんだ。待ちなさい、彩」
掴まれた手を、また振り払う。
「モデルとして稼いだお金は全部置いていく。だから許して」
「はっ? そういう問題じゃないだろ。ちゃんと話を――」
「ねぇ」
まだ何か言おうとするお父さんを遮って、
「最後にひとつだけ、訊いてもいい?」
今度は顔だけで振り向いた。
「ママと理佳子さん、どっちが好き?」
返ってきたのは、硬直した戸惑いの表情。
「それは……」
――答えられないんだ。
「中途半端なんだよッ!」
思った以上に、怒気のこもった大声が出た。
一瞬の隙をついて、外に飛び出し、玄関の鍵をかける。
少しでも時間を稼がないと、簡単に追いつかれてしまうだろう。
――パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?
ごめんなさい、ママ。
他の人を愛したことを怒ってるんじゃないの。でも、中途半端は嫌いだから。
涙で滲む視界の中、冷たい雨に打たれて、ただひたすらに走った。
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