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🌕最終夜 僕と私の後悔
大人が作り上げた私
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*
夏の終わり、蝉が短い命を削って繰り広げる大合唱にも負けないほど力強い産声を上げた歩夢は、そのパワフルさに似合わず、心配になるほど病弱な子だった。
生まれたときから喘息持ちで、ひどいときには高熱を出してぐったりし、咳込みすぎて嘔吐することもある。
手はかかるけれど、突然できた弟は、思った以上にかわいくて。
彼が三歳になり、保育園に上がる頃には、夜の寝かしつけは私の役目だった。
保育園も学校の通り道にあるので、看護師として働く理佳子さんが仕事や家事で忙しいときには、下校ついでに私が迎えに行くこともある。
「ねぇ、彩」
この日もリビングの常夜灯に照らされ、同じ布団に包まる私たちの後ろで、理佳子さんが洗濯物を畳みながら静かに口を開いた。
「んー?」
私は、そばで寝息を立てる歩夢の頬を、起こさない程度に指先でむにむにしながら、短く答える。
――かわいい。
この、つきたてのお餅みたいな肌は、幼児の特権だ。
それに、ねーたん、と舌足らずな口調で呼ばれたら、もうたまらない。
「アタシのこと、恨んでる……?」
予想だにしなかった問いかけが返ってきて、満たされた気持ちはどこかへ飛び、手も止まる。
「――ずるいよ、その質問は」
あまりに逃げ腰な言い方をするので、ちょっと意地悪したくなってしまった。
だけど、消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と言った理佳子さんに対し、すぐにそんな自分が恥ずかしくなって、私は呆れ交じりの吐息を漏らすと、続ける。
「恨みっこないでしょ? だって、アユを産んでくれた人だもん」
そう。彼女が今の道を選んでくれていなかったら、こんな愛しい子も、存在しなかったかもしれない。
「でもごめん」
今度は私が謝る番だった。
「私の母親は、ママだけなんだ」
告げると、理佳子さんは穏やかに「いいのよ」と言う。
ドラマなんかではよく、父親の後妻に向けて実の母と異なる呼び方をし、「もうひとりの母」として受け入れる展開があるけれど、それもなんだか違う気がした。
私はこの人のお腹から産まれていないし、血も分けていない。
家族だけど、母ではない。
理佳子さんは理佳子さんだ。
かわいい弟を、私が涙を止める理由をくれた、大切な人だ。
それ以上でも以下でもない。
「……お父さんのこと、好き?」
不意打ちで尋ねたにもかかわらず、理佳子さんの返答は「そうね。好きよ。泰晴さんのこと」と淀みない。
父の呼び方は年齢を重ねるうちに「お父さん」に変わったけれど、ママはあくまで「ママ」だった。
幼い頃の、強くて優しいママのまま、時が止まっている。
アユを、ママの生まれ変わりだと思おうとしたこともあった。
――でもたぶん、それはおかしいのだ。
赤ちゃんは、そんなに簡単に産まれるものじゃないらしい。
アユが理佳子さんのお腹に宿ったとき、ママはまだ、生きていたんじゃないのか?
そう、気づいてしまったから。
「なら、いいよ」
けれど、だからこそ、私は声に出して自分を説得させる。
理佳子さんは、ママの高校時代の親友だという。ふたりにしか分からないことも、きっとあったはずで。
そこに愛や絆が存在するのなら、何も言うまい。
――パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?
約束、したんだから。
ウワキなんて、フリンなんて、私が知らなくていいことだ。
あの日、理佳子さんに言った言葉は嘘じゃない。
でも数年後、彼女と過ごした時間がママとの時間を追い越したときはやっぱり胸が痛んだし、どうしようもなくむなしくなる瞬間はあった。
お父さんが理佳子さんに優しげな眼差しを向けることにも、ふたりが体の弱いアユにかかりきりになることにも、不満はない。
ただ、私だけ「半分」だから。
私がいるばかりに我が家は「訳アリ」だけど、私さえいなくなったら、「普通」の家族になれるんじゃないだろうか?
こんな考え方、ナンセンスだって、分かってはいるけれど。
拭えない虚無感と疎外感をやり過ごすため、高校一年の夏、友だちと遊びに行った原宿でスカウトされたのをきっかけに、ファッションモデルの仕事を始めた。
とにかくどこでもいいから居場所が、寝るまで家に帰らなくていい理由がほしかった。
家族も特に反対はしなかったので、デビューまでは比較的順調だったが、現実はそんなに甘くなくて。
厳しい体重制限を強いられた上、事務所の方針で私の誕生花である「カザニア」から取った「ニア」だとかよく分からない横文字の芸名を与えられ、現役女子高生だということ以外、詳細な情報は伏せられた。
カメラを向けられたら、嬉しくなくても、楽しくなくても、笑わなきゃいけない。それが、仕事だから。
いつもいつも、笑顔を貼り付けて、ポップにかわいらしく着飾って。
どうしてだろう。全然ドキドキしない。ワクワクしない。もともと「女の子らしいこと」は嫌いじゃなかったはずなのに。
路線変更すれば新しい何かを見つけられるだろうかと、思いきってクール系をやってみたいと意見したこともあったけれど、「うちはこういうイメージだから」と聞き流された。
やるからには中途半端にしたくない。今さら引くに引けない。
そんな使命感と意地だけでがむしゃらに仕事をこなしていき、気づけば一年近くが過ぎて。そんな頃、とあるマイナーなティーンズ雑誌の表紙を飾った。
もちろん、お父さんも理佳子さんも嬉しそうだったけれど、この快挙を誰よりも喜んでくれたのは――他でもないアユだった。
「すごいじゃない! 姉さん」
彼はいつだって、私の一番のファンで。私が載った雑誌は全部持っていたし、どんなにページの端っこだろうと、必ず見つけてくれた。
小学校高学年になっても、生まれたてみたいな、穢れを知らない瞳をしていて。
まっすぐに見つめられ、「姉さん」と呼ばれるたび、心がえぐられる。
やめて、やめて。そんな目で見ないで。
「これで有名人だね!」
無邪気な笑顔。
ありがとうって、そう言えばよかったのだと思う。
だけど、
「――アユも、大人が作り上げた私が好きなの?」
口をついたのは、そんな拒絶の一言で。
「えっ……?」
傷ついたような彼の表情にはっとして、あわてて口角を上げた。
「ごっ、ごめん。でも、重いよ、そういうのは」
きっと、うまく笑えてなんかいなかっただろう。
――これで有名人だね!
アユの言葉は、ある意味で現実となった。
表紙を飾って以来、徐々に人目につく仕事が増え、一部で「謎の女子高生モデル」なんて呼ばれ始めて、コアなファンがついたのだ。
『ニアちゃんマジ天才!』
『世界一かわいい!』
だが、それに比例して、アンチと呼ばれる人たちも出てくる。
『事務所のゴリ押し』
『あんなん、○○の二番煎じだろ』
いつしか、ネットには過度な称賛と批判が混在し、友だち付き合いにも支障が出始めた。
芸能人だから、仲良くしておきたい。そうすれば、憧れのあの人に会えるかも。
なんて心の声が聞こえてくるよう。
この頃になると、テレビ出演の仕事が数件来たけれど、すべて断った。
有名になりたかったわけじゃないし、これ以上「ニア」としての知名度が上がったら、本当の自分が壊れてしまう気がしたから。
――あれ? そもそも、本当の自分ってなんだっけ?
ニアとしてじゃなく、ありのままの私を心から愛してくれたのは、誰だったか。
そう考えたとき、気づいてしまった。
――あっ、そっか。ママだ。
日比野家は、私がいないほうが純粋に成立する。
世間は、ニアじゃない私になんて興味がない。
本当の私は、不要なんだ。
だったらいっそ、ママのところへ行こう。
夏の終わり、蝉が短い命を削って繰り広げる大合唱にも負けないほど力強い産声を上げた歩夢は、そのパワフルさに似合わず、心配になるほど病弱な子だった。
生まれたときから喘息持ちで、ひどいときには高熱を出してぐったりし、咳込みすぎて嘔吐することもある。
手はかかるけれど、突然できた弟は、思った以上にかわいくて。
彼が三歳になり、保育園に上がる頃には、夜の寝かしつけは私の役目だった。
保育園も学校の通り道にあるので、看護師として働く理佳子さんが仕事や家事で忙しいときには、下校ついでに私が迎えに行くこともある。
「ねぇ、彩」
この日もリビングの常夜灯に照らされ、同じ布団に包まる私たちの後ろで、理佳子さんが洗濯物を畳みながら静かに口を開いた。
「んー?」
私は、そばで寝息を立てる歩夢の頬を、起こさない程度に指先でむにむにしながら、短く答える。
――かわいい。
この、つきたてのお餅みたいな肌は、幼児の特権だ。
それに、ねーたん、と舌足らずな口調で呼ばれたら、もうたまらない。
「アタシのこと、恨んでる……?」
予想だにしなかった問いかけが返ってきて、満たされた気持ちはどこかへ飛び、手も止まる。
「――ずるいよ、その質問は」
あまりに逃げ腰な言い方をするので、ちょっと意地悪したくなってしまった。
だけど、消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と言った理佳子さんに対し、すぐにそんな自分が恥ずかしくなって、私は呆れ交じりの吐息を漏らすと、続ける。
「恨みっこないでしょ? だって、アユを産んでくれた人だもん」
そう。彼女が今の道を選んでくれていなかったら、こんな愛しい子も、存在しなかったかもしれない。
「でもごめん」
今度は私が謝る番だった。
「私の母親は、ママだけなんだ」
告げると、理佳子さんは穏やかに「いいのよ」と言う。
ドラマなんかではよく、父親の後妻に向けて実の母と異なる呼び方をし、「もうひとりの母」として受け入れる展開があるけれど、それもなんだか違う気がした。
私はこの人のお腹から産まれていないし、血も分けていない。
家族だけど、母ではない。
理佳子さんは理佳子さんだ。
かわいい弟を、私が涙を止める理由をくれた、大切な人だ。
それ以上でも以下でもない。
「……お父さんのこと、好き?」
不意打ちで尋ねたにもかかわらず、理佳子さんの返答は「そうね。好きよ。泰晴さんのこと」と淀みない。
父の呼び方は年齢を重ねるうちに「お父さん」に変わったけれど、ママはあくまで「ママ」だった。
幼い頃の、強くて優しいママのまま、時が止まっている。
アユを、ママの生まれ変わりだと思おうとしたこともあった。
――でもたぶん、それはおかしいのだ。
赤ちゃんは、そんなに簡単に産まれるものじゃないらしい。
アユが理佳子さんのお腹に宿ったとき、ママはまだ、生きていたんじゃないのか?
そう、気づいてしまったから。
「なら、いいよ」
けれど、だからこそ、私は声に出して自分を説得させる。
理佳子さんは、ママの高校時代の親友だという。ふたりにしか分からないことも、きっとあったはずで。
そこに愛や絆が存在するのなら、何も言うまい。
――パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?
約束、したんだから。
ウワキなんて、フリンなんて、私が知らなくていいことだ。
あの日、理佳子さんに言った言葉は嘘じゃない。
でも数年後、彼女と過ごした時間がママとの時間を追い越したときはやっぱり胸が痛んだし、どうしようもなくむなしくなる瞬間はあった。
お父さんが理佳子さんに優しげな眼差しを向けることにも、ふたりが体の弱いアユにかかりきりになることにも、不満はない。
ただ、私だけ「半分」だから。
私がいるばかりに我が家は「訳アリ」だけど、私さえいなくなったら、「普通」の家族になれるんじゃないだろうか?
こんな考え方、ナンセンスだって、分かってはいるけれど。
拭えない虚無感と疎外感をやり過ごすため、高校一年の夏、友だちと遊びに行った原宿でスカウトされたのをきっかけに、ファッションモデルの仕事を始めた。
とにかくどこでもいいから居場所が、寝るまで家に帰らなくていい理由がほしかった。
家族も特に反対はしなかったので、デビューまでは比較的順調だったが、現実はそんなに甘くなくて。
厳しい体重制限を強いられた上、事務所の方針で私の誕生花である「カザニア」から取った「ニア」だとかよく分からない横文字の芸名を与えられ、現役女子高生だということ以外、詳細な情報は伏せられた。
カメラを向けられたら、嬉しくなくても、楽しくなくても、笑わなきゃいけない。それが、仕事だから。
いつもいつも、笑顔を貼り付けて、ポップにかわいらしく着飾って。
どうしてだろう。全然ドキドキしない。ワクワクしない。もともと「女の子らしいこと」は嫌いじゃなかったはずなのに。
路線変更すれば新しい何かを見つけられるだろうかと、思いきってクール系をやってみたいと意見したこともあったけれど、「うちはこういうイメージだから」と聞き流された。
やるからには中途半端にしたくない。今さら引くに引けない。
そんな使命感と意地だけでがむしゃらに仕事をこなしていき、気づけば一年近くが過ぎて。そんな頃、とあるマイナーなティーンズ雑誌の表紙を飾った。
もちろん、お父さんも理佳子さんも嬉しそうだったけれど、この快挙を誰よりも喜んでくれたのは――他でもないアユだった。
「すごいじゃない! 姉さん」
彼はいつだって、私の一番のファンで。私が載った雑誌は全部持っていたし、どんなにページの端っこだろうと、必ず見つけてくれた。
小学校高学年になっても、生まれたてみたいな、穢れを知らない瞳をしていて。
まっすぐに見つめられ、「姉さん」と呼ばれるたび、心がえぐられる。
やめて、やめて。そんな目で見ないで。
「これで有名人だね!」
無邪気な笑顔。
ありがとうって、そう言えばよかったのだと思う。
だけど、
「――アユも、大人が作り上げた私が好きなの?」
口をついたのは、そんな拒絶の一言で。
「えっ……?」
傷ついたような彼の表情にはっとして、あわてて口角を上げた。
「ごっ、ごめん。でも、重いよ、そういうのは」
きっと、うまく笑えてなんかいなかっただろう。
――これで有名人だね!
アユの言葉は、ある意味で現実となった。
表紙を飾って以来、徐々に人目につく仕事が増え、一部で「謎の女子高生モデル」なんて呼ばれ始めて、コアなファンがついたのだ。
『ニアちゃんマジ天才!』
『世界一かわいい!』
だが、それに比例して、アンチと呼ばれる人たちも出てくる。
『事務所のゴリ押し』
『あんなん、○○の二番煎じだろ』
いつしか、ネットには過度な称賛と批判が混在し、友だち付き合いにも支障が出始めた。
芸能人だから、仲良くしておきたい。そうすれば、憧れのあの人に会えるかも。
なんて心の声が聞こえてくるよう。
この頃になると、テレビ出演の仕事が数件来たけれど、すべて断った。
有名になりたかったわけじゃないし、これ以上「ニア」としての知名度が上がったら、本当の自分が壊れてしまう気がしたから。
――あれ? そもそも、本当の自分ってなんだっけ?
ニアとしてじゃなく、ありのままの私を心から愛してくれたのは、誰だったか。
そう考えたとき、気づいてしまった。
――あっ、そっか。ママだ。
日比野家は、私がいないほうが純粋に成立する。
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