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🌕最終夜 僕と私の後悔
この子は私が守らなきゃ
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ママの容体が急変したのは、空が癇癪を起したみたいに大雨が降った、六月末日。
自宅に帰ってきて一ヶ月が過ぎ、私が歳を数えるのに両手がいるようになって、たった四日後のことだった。
愛娘の誕生日を見届けて、ほっとしたのかもしれない。自宅療養に切り替えた、一番の目的だったのだろうから。
あの頃の私は、今よりもっと無力だった。
朝からずっと、ベッドの傍らに張り付いて、苦しそうなママの手を握っていることしかできなくて。
つないでいる手はもちろん、全身の震えが止まらなかった。
自分の意思とは関係なく震え続ける体に、あめでさむいからかな? わたしもへんなびょうきになっちゃったのかな? なんて不安に思っていた。
それが、大切な人を失うかもしれない、死という抗いようのないものに対する恐怖だと気づかずに。
「ねぇ、彩……」
苦しげな呼吸の合間に、土砂降りの雨に掻き消されそうなほどか細い声で名前を呼ばれ、
「なっ、なに? ママ」
包み込む手に、そっと力を注ぐ。答える声も震えた。
「パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?」
その言葉を聞いた直後、少し離れた場所から私たちを見守っていたパパが、悲痛な面持ちで俯いた。唇をきつく噛みしめている。
どうして突然そんなことを言い出すのか分からなかったけれど、ママのお願いなら、拒否する理由はない。
「うんっ、やくそく」
じんわりと汗ばむほど握り続けていた手を離し、飽きもせず小刻みに震える小指を立てて差し出した。
ママも、もはやないに等しい力を振り絞って応えてくれ、小指が絡み合う。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。
私を満たしたぬくもりは、すぐさま無情にも遠ざかり――
ママが悲しげに微笑んで、ひと粒の涙をこぼして目を閉じたとき、もう二度と目覚めないことを悟って、ベッドに突っ伏して張り裂けるように泣いた。
パパも、必死に嗚咽をこらえながら私の背中をさする。
こんなときでも、コルクボードに飾られたてるてる坊主は、小さな虹の下でのん気に笑っていた。
――ママがしんだのは、いのちをつかいきったから?
――いつになったら、すてきにうまれかわってくれるの?
――ねぇ、さびしいよ。さびしすぎて、わたしまでしんじゃいそうだよ。
ママがいなくなってから、考えてもむなしくなるようなことをつい考えては、毎晩毎晩枕を濡らした。
私の涙が枯れるより梅雨が明けるほうが先で、ママが生きているうちはちっとも働いてくれなかったくせに、いなくなったとたんに太陽ばかり連れてくる、あまのじゃくなてるてる坊主を嫌いになった。
我が家に知らない女の人がやって来たのは、そんな、腹立たしいほど空が青く晴れ渡った七月下旬のことだったと思う。
「初めまして。理佳子です。よろしくね」
「こ、こんにちは」
突然の来客に戸惑いながらも、玄関先でぺこりと会釈する。よそ様にはきちんと挨拶しなきゃダメよ? とママに教えられていたから。
「会わせたい人がいるんだ」とパパが連れてきたその人は、明るめの茶髪を頭の後ろでひとつに結った、明るくて快活な人だった。
幼心に、なんだかママとは正反対だな、と思った。
「おなか、おおきい、ですね……」
リカコさんのお腹が大きく前に突き出ていることに気づき、思わず口にする。
「でも、パパのおともだちのおなかとは、なんかちがう」
何気なく続けた一言に、パパとリカコさんは顔を見合わせて小さく噴き出し、ころころと笑い始めた。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
前に遊びに来た、パパの仕事仲間だという男の人も似たようなお腹をしていたけれど、それとは少し違って見えたのだ。
なんていうか、もっとこう――
「赤ちゃんがいるのよ」
まだ乏しい語彙の中で懸命に適切な表現を探す私に、リカコさんはさらりと言った。
「あかちゃん……」
あの、か弱くて不思議な生き物が、リカコさんのお腹の中にいるのか。
誰もがそうやって生まれてくるものだということは、なんとなく知っていたけれど、妊婦さんを間近で見るのは初めてだった。
「彩、お姉ちゃんになるんだぞ」
パパも嬉しそうに重ねる。
赤ちゃんに、お姉ちゃん。その単語は、最近芽生え始めた好奇心と自我をくすぐるには、充分だった。
「触ってみる?」
リカコさんはそう言い、お腹を抱えるようにして、ゆっくりと玄関を上がる。
「いいの?」
「もちろん」
笑顔で快諾してくれた彼女に歩み寄り、そっとお腹に触れた、そのとき、
「――あっ、いま、ポコってした……」
かすかだけど、確かな動きを感じた。
彼女のお腹には、紛れもなく生命が宿っているのだと実感して、これまで知らなかった種類の喜びが沸き上がった。
この子は私が守らなきゃ、と思った。
自然と笑えたのは、すごく久しぶりな気がする。
「よろしくって言ってるのね」
愛おしそうにお腹を撫でるリカコさん。
「すごいじゃないか。パパが触っても、いまだに動いてくれたことないのに。先越されちゃったな」
ちょっぴり悔しそうなパパ。
これが、新しい家族、そして、腹違いの弟――歩夢との出会いだった。
ママが亡くなってから、まだ一ヶ月も経っていなかったのに。
無知な子供で、本当によかったと思う。
ママの容体が急変したのは、空が癇癪を起したみたいに大雨が降った、六月末日。
自宅に帰ってきて一ヶ月が過ぎ、私が歳を数えるのに両手がいるようになって、たった四日後のことだった。
愛娘の誕生日を見届けて、ほっとしたのかもしれない。自宅療養に切り替えた、一番の目的だったのだろうから。
あの頃の私は、今よりもっと無力だった。
朝からずっと、ベッドの傍らに張り付いて、苦しそうなママの手を握っていることしかできなくて。
つないでいる手はもちろん、全身の震えが止まらなかった。
自分の意思とは関係なく震え続ける体に、あめでさむいからかな? わたしもへんなびょうきになっちゃったのかな? なんて不安に思っていた。
それが、大切な人を失うかもしれない、死という抗いようのないものに対する恐怖だと気づかずに。
「ねぇ、彩……」
苦しげな呼吸の合間に、土砂降りの雨に掻き消されそうなほどか細い声で名前を呼ばれ、
「なっ、なに? ママ」
包み込む手に、そっと力を注ぐ。答える声も震えた。
「パパが、ママ以外の人のことを好きになっても、嫌いに、ならないであげてね……?」
その言葉を聞いた直後、少し離れた場所から私たちを見守っていたパパが、悲痛な面持ちで俯いた。唇をきつく噛みしめている。
どうして突然そんなことを言い出すのか分からなかったけれど、ママのお願いなら、拒否する理由はない。
「うんっ、やくそく」
じんわりと汗ばむほど握り続けていた手を離し、飽きもせず小刻みに震える小指を立てて差し出した。
ママも、もはやないに等しい力を振り絞って応えてくれ、小指が絡み合う。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。
私を満たしたぬくもりは、すぐさま無情にも遠ざかり――
ママが悲しげに微笑んで、ひと粒の涙をこぼして目を閉じたとき、もう二度と目覚めないことを悟って、ベッドに突っ伏して張り裂けるように泣いた。
パパも、必死に嗚咽をこらえながら私の背中をさする。
こんなときでも、コルクボードに飾られたてるてる坊主は、小さな虹の下でのん気に笑っていた。
――ママがしんだのは、いのちをつかいきったから?
――いつになったら、すてきにうまれかわってくれるの?
――ねぇ、さびしいよ。さびしすぎて、わたしまでしんじゃいそうだよ。
ママがいなくなってから、考えてもむなしくなるようなことをつい考えては、毎晩毎晩枕を濡らした。
私の涙が枯れるより梅雨が明けるほうが先で、ママが生きているうちはちっとも働いてくれなかったくせに、いなくなったとたんに太陽ばかり連れてくる、あまのじゃくなてるてる坊主を嫌いになった。
我が家に知らない女の人がやって来たのは、そんな、腹立たしいほど空が青く晴れ渡った七月下旬のことだったと思う。
「初めまして。理佳子です。よろしくね」
「こ、こんにちは」
突然の来客に戸惑いながらも、玄関先でぺこりと会釈する。よそ様にはきちんと挨拶しなきゃダメよ? とママに教えられていたから。
「会わせたい人がいるんだ」とパパが連れてきたその人は、明るめの茶髪を頭の後ろでひとつに結った、明るくて快活な人だった。
幼心に、なんだかママとは正反対だな、と思った。
「おなか、おおきい、ですね……」
リカコさんのお腹が大きく前に突き出ていることに気づき、思わず口にする。
「でも、パパのおともだちのおなかとは、なんかちがう」
何気なく続けた一言に、パパとリカコさんは顔を見合わせて小さく噴き出し、ころころと笑い始めた。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
前に遊びに来た、パパの仕事仲間だという男の人も似たようなお腹をしていたけれど、それとは少し違って見えたのだ。
なんていうか、もっとこう――
「赤ちゃんがいるのよ」
まだ乏しい語彙の中で懸命に適切な表現を探す私に、リカコさんはさらりと言った。
「あかちゃん……」
あの、か弱くて不思議な生き物が、リカコさんのお腹の中にいるのか。
誰もがそうやって生まれてくるものだということは、なんとなく知っていたけれど、妊婦さんを間近で見るのは初めてだった。
「彩、お姉ちゃんになるんだぞ」
パパも嬉しそうに重ねる。
赤ちゃんに、お姉ちゃん。その単語は、最近芽生え始めた好奇心と自我をくすぐるには、充分だった。
「触ってみる?」
リカコさんはそう言い、お腹を抱えるようにして、ゆっくりと玄関を上がる。
「いいの?」
「もちろん」
笑顔で快諾してくれた彼女に歩み寄り、そっとお腹に触れた、そのとき、
「――あっ、いま、ポコってした……」
かすかだけど、確かな動きを感じた。
彼女のお腹には、紛れもなく生命が宿っているのだと実感して、これまで知らなかった種類の喜びが沸き上がった。
この子は私が守らなきゃ、と思った。
自然と笑えたのは、すごく久しぶりな気がする。
「よろしくって言ってるのね」
愛おしそうにお腹を撫でるリカコさん。
「すごいじゃないか。パパが触っても、いまだに動いてくれたことないのに。先越されちゃったな」
ちょっぴり悔しそうなパパ。
これが、新しい家族、そして、腹違いの弟――歩夢との出会いだった。
ママが亡くなってから、まだ一ヶ月も経っていなかったのに。
無知な子供で、本当によかったと思う。
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