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🌕最終夜 僕と私の後悔
「――わたしも、だいすき」
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*
出窓の四角い額縁に切り取られ、濃紺の空にぽっかりと浮かぶ、満月。
月明かりに照らされる、不気味な黒いてるてる坊主。
風にそよぐレースカーテン。
パジャマ姿のわたし。
同じ、夜。
目を閉じて息を吸い込めば、風のにおいだけは、あの日と違ってかすかに冬の気配を纏っていた。
「なんか、久しぶりだね。こういうの」
今やすっかり耳に馴染んだ声がして、ゆっくりと目を開けると、そこには両足をおろして窓枠に腰かける、マント姿の彼女がいた。
わたしの望みを叶えてくれるという、魔女。
「ほんと。たった一ヶ月前のことなのにね」
答えると、彼女はしばらく足をぶらぶらさせた後、すとんとカーペットに降り立った。
そして、窓の外を見て、呟く。
「今日の月は、青いね」
「そうだね」
本題に入るのを引き延ばすような、要領を得ない会話。きっとわたしたちは今、同じ気持ちだ。
しかし、やがて覚悟したように、彩はひとつ息をついて、こちらを振り返った。
「それで、心は決まった?」
まっすぐにわたしを見つめる、力強くて、だけどあの日よりずっと優しげな眼差し。
「うん」
わたしの決断に、彼女は何を思うのだろう。
ついそんなことを考えてしまうけれど、もう悩まない。小指の爪を彩る彼岸花は、消え去ったのだから。
タイムリミットだ。
「わたし、わたしね……」
大丈夫。少なくともわたしは、この選択を絶対に後悔しない。
「――わたし、彩の記憶からは消えたくない」
気持ちを落ち着け、静かに、それでいてきっぱりと告げる。
すると、彼女は射貫かれたように瞳の奥を揺らし、今度は「はぁ~……」とはっきり声になるほど大きなため息を漏らして、へなへなとその場にへたり込んだ。
「よかった……」
心の底からこぼれたと分かる安堵の一言に、なんだか泣きたくなる。
「大丈夫?」
手を差し伸べようと歩み寄ったら、彩は胸の内側から、例のものを取り出した。
クリスタルのように眩しく輝く、小瓶。
彼女はふっと儚げな表情でそれを見つめてから、顔を上げて、言った。
「この中にはね、人の血が混ざってるんだ」
*
私は、日比野家の一人娘として、愛情いっぱいに育てられた。
「ママ。ビーズ、ぜんぶなくなっちゃった……」
まだ幼かったある日、寝室のベッドで体を起こしたママに、空になった小瓶を見せて、しゅんと報告したのを覚えている。
去年、誕生日プレゼントに買ってもらった、水でくっつくタイプの八色セットのビーズ。
色ごとに小瓶に分けて、別のビーズと併用しながら、一年ほどかけて少しずつ消費していたのだが、ついに最後の一色だった黒まで使いきってしまったのだ。
今にも泣き出しそうな私に、ママは困ったように眉を下げ、「そっかそっか。おいで」と両手を広げた。
駆け寄って胸に飛び込むと、
「でもね、彩。どんなものでも使い続ければ、いつかはなくなったり壊れたりするのよ?」
優しく言い聞かせながら、髪を撫でてくれる。
「だって……」
だって、なんだか寂しかったのだ。一日一作、あの特別なビーズを使って、ママに作品を届けられなくなることが。
ビーズは他にもたくさんあるけど、新しいのを買い足せばいいけど、そういう問題じゃなくて。私とママをつなぐものがひとつ、消えてしまった気がして。
涙声でそう訴える私に、ママは「ううん。そんなことない」と励ますように言う。――素敵に生まれ変わっただけでしょ? こんなに大事に使ってもらえて、ビーズもきっと幸せよ? と。
「それにママ、もう病院には戻らないから。彩の好きなときに好きなことしてくれたら、それだけで嬉しいな」
ママは、私が物心ついたときからずっと入退院を繰り返していて、家でもほとんどベッド上での生活だった。
そのせいか、私の遊びも、ビーズアートをはじめとする簡単な手芸や、お絵描きなど、インドアなものが中心で。
ママが家にいるときは、リビングで作業して、できあがったものを寝室にいる彼女のところまで持っていく。
入院中は、保育園が終わったら、前日に作ったものを片手にパパとお見舞いにいくのが日課だったのだけれど、先月末頃に再び自宅へと帰ってきていたのだ。
たまにある一時帰宅なのかと思っていたが、今回は少し事情が違うらしい。
「ほんと?」
驚きと期待を滲ませて顔を上げると、ママは「本当よ」と大きくうなずいた。
「すっかり元気になったから、入院もしなくていいし、お見舞いもなくて大丈夫なの」
もう病院には戻らない。
思えば、この頃のママは骨格が浮き出るほど痩せ細っていたし、私とお揃いだったはずの長くしなやかな黒髪は見当たらず、いつもニット帽をかぶっていた。
今なら、この状況から悲しい真実を導き出せてしまうけれど、年齢を訊かれたら片手を開くだけで事足りた当時の私には、そんなこと分かるはずもなくて。
ママがついた愛の嘘を、無邪気に信じ込んでいた。
いや、本当は心のどこかで分かっていたけれど、分からないふりをしていたのかもしれない。
「だからほら、最後のお見舞い、ママに見せてよ。今日は何を作ってくれたの?」
急かされて、小瓶を持ったのとは反対の手に、ビーズアートを握っていたことを思い出す。
すっと体を離して立ち上がり、
「これ」
手を開くと、ママは「わぁ……!」と歓声を上げた。
虹と、笑顔のてるてる坊主。
六月に入ってから雨が降り続いてばかりで、ママの顔色もよくない気がしたから、早く晴れますようにと、元気になってくれますようにと願いを込めて作った。
ちなみに、最後の黒いビーズは、てるてる坊主の目になったのだ。
「ふたつも!? ありがとう。後で飾るね!」
ママは弾むように言って私の頭を撫で、ベッドサイドテーブルの上に置かれた空色のジュエリーボックスに、あげたばかりのビーズアートをしまった。
箱の中には、私が今までプレゼントした小物が、たくさん詰まっている。ママの宝箱だ。
他にも、ボックスに入りきらないサイズの絵や、特に気に入ったものについては、家族写真とともにいくつものコルクボードに飾られて室内の壁を彩っていた。
虹とてるてる坊主も、じきに仲間入りするのだろう。
「そうだ彩。その小瓶、貸して?」
何かひらめいた様子のママに、きょとんとしながら空っぽの小瓶を手渡す。
すると、今度はサイドテーブルの引き出しから、安全ピンと接着剤、それから小さな金具とボールチェーンを取り出した。
そこは言わば魔法の引き出しで、裁縫道具から工作道具まで、なんでも揃っている。
ママは安全ピンでコルク栓の裏側に穴を開けて、接着剤で金具をくっつけ、そこにチェーンを通した。
「できたっ」
満足げに呟いてチェーンを外し、私にちょいちょいと手招きする。
相変わらず状況が読めないまま距離を詰めれば、銀色のそれをそっと私の首に回した。
「はい、お守り。これで寂しくないよね? とっても大事なものができたら、中に入れて持ち歩くといいよ」
「とってもだいじなもの……」
「そう。っていっても、ちっちゃなものしか入れられないけどね」
ママはちょっぴり残念そうに言って、だけどすぐに、
「最後まで残ってて幸運だったな、黒くん! 君には重大な任務を課したぞ」
なんて、小瓶に向かって笑いかける。
ママは昔から、どんな物でも生きているみたいに扱う人だった。
特に衣服の修復が得意で、いくらボロボロになっていても、縫い直したり、ワッペンを付けたり、ときにはまったく別の物にリメイクしたり。
それでもどうしても使えないもの、使いきったものは、「お疲れさま」の気持ちを込めて、丁寧に処分する。
ママがそこまで身の回りの物を大切にするのは、自分の終わりをひしひしと感じていたからこそ、だったのかもしれない。
「彩」
突然、切なげに名前を呼ばれ、ふわりと抱き寄せられた。
そのまま、また優しく髪を撫でられる。
ママのひざの上で、おしゃれにヘアセットしてもらうのが好きだった。
最後にやってもらったのは、いつだっただろう。
「ママ……? どうしたの?」
「ううん。大好きだなぁって、思っただけだよ」
このときすでに、自力で立つのも辛い状態だったことを、ずっと後になって知った。――小さなビーズアートを、壁に飾りつけることもできないほど。
ごめんね、ママ。
黙って抱きしめ返してあげられるくらい、私が大人だったらよかったのに。
「――わたしも、だいすき」
この一言が、ママを余計に苦しめてしまったんじゃないかって、今でもそう思えてしかたないんだ。
出窓の四角い額縁に切り取られ、濃紺の空にぽっかりと浮かぶ、満月。
月明かりに照らされる、不気味な黒いてるてる坊主。
風にそよぐレースカーテン。
パジャマ姿のわたし。
同じ、夜。
目を閉じて息を吸い込めば、風のにおいだけは、あの日と違ってかすかに冬の気配を纏っていた。
「なんか、久しぶりだね。こういうの」
今やすっかり耳に馴染んだ声がして、ゆっくりと目を開けると、そこには両足をおろして窓枠に腰かける、マント姿の彼女がいた。
わたしの望みを叶えてくれるという、魔女。
「ほんと。たった一ヶ月前のことなのにね」
答えると、彼女はしばらく足をぶらぶらさせた後、すとんとカーペットに降り立った。
そして、窓の外を見て、呟く。
「今日の月は、青いね」
「そうだね」
本題に入るのを引き延ばすような、要領を得ない会話。きっとわたしたちは今、同じ気持ちだ。
しかし、やがて覚悟したように、彩はひとつ息をついて、こちらを振り返った。
「それで、心は決まった?」
まっすぐにわたしを見つめる、力強くて、だけどあの日よりずっと優しげな眼差し。
「うん」
わたしの決断に、彼女は何を思うのだろう。
ついそんなことを考えてしまうけれど、もう悩まない。小指の爪を彩る彼岸花は、消え去ったのだから。
タイムリミットだ。
「わたし、わたしね……」
大丈夫。少なくともわたしは、この選択を絶対に後悔しない。
「――わたし、彩の記憶からは消えたくない」
気持ちを落ち着け、静かに、それでいてきっぱりと告げる。
すると、彼女は射貫かれたように瞳の奥を揺らし、今度は「はぁ~……」とはっきり声になるほど大きなため息を漏らして、へなへなとその場にへたり込んだ。
「よかった……」
心の底からこぼれたと分かる安堵の一言に、なんだか泣きたくなる。
「大丈夫?」
手を差し伸べようと歩み寄ったら、彩は胸の内側から、例のものを取り出した。
クリスタルのように眩しく輝く、小瓶。
彼女はふっと儚げな表情でそれを見つめてから、顔を上げて、言った。
「この中にはね、人の血が混ざってるんだ」
*
私は、日比野家の一人娘として、愛情いっぱいに育てられた。
「ママ。ビーズ、ぜんぶなくなっちゃった……」
まだ幼かったある日、寝室のベッドで体を起こしたママに、空になった小瓶を見せて、しゅんと報告したのを覚えている。
去年、誕生日プレゼントに買ってもらった、水でくっつくタイプの八色セットのビーズ。
色ごとに小瓶に分けて、別のビーズと併用しながら、一年ほどかけて少しずつ消費していたのだが、ついに最後の一色だった黒まで使いきってしまったのだ。
今にも泣き出しそうな私に、ママは困ったように眉を下げ、「そっかそっか。おいで」と両手を広げた。
駆け寄って胸に飛び込むと、
「でもね、彩。どんなものでも使い続ければ、いつかはなくなったり壊れたりするのよ?」
優しく言い聞かせながら、髪を撫でてくれる。
「だって……」
だって、なんだか寂しかったのだ。一日一作、あの特別なビーズを使って、ママに作品を届けられなくなることが。
ビーズは他にもたくさんあるけど、新しいのを買い足せばいいけど、そういう問題じゃなくて。私とママをつなぐものがひとつ、消えてしまった気がして。
涙声でそう訴える私に、ママは「ううん。そんなことない」と励ますように言う。――素敵に生まれ変わっただけでしょ? こんなに大事に使ってもらえて、ビーズもきっと幸せよ? と。
「それにママ、もう病院には戻らないから。彩の好きなときに好きなことしてくれたら、それだけで嬉しいな」
ママは、私が物心ついたときからずっと入退院を繰り返していて、家でもほとんどベッド上での生活だった。
そのせいか、私の遊びも、ビーズアートをはじめとする簡単な手芸や、お絵描きなど、インドアなものが中心で。
ママが家にいるときは、リビングで作業して、できあがったものを寝室にいる彼女のところまで持っていく。
入院中は、保育園が終わったら、前日に作ったものを片手にパパとお見舞いにいくのが日課だったのだけれど、先月末頃に再び自宅へと帰ってきていたのだ。
たまにある一時帰宅なのかと思っていたが、今回は少し事情が違うらしい。
「ほんと?」
驚きと期待を滲ませて顔を上げると、ママは「本当よ」と大きくうなずいた。
「すっかり元気になったから、入院もしなくていいし、お見舞いもなくて大丈夫なの」
もう病院には戻らない。
思えば、この頃のママは骨格が浮き出るほど痩せ細っていたし、私とお揃いだったはずの長くしなやかな黒髪は見当たらず、いつもニット帽をかぶっていた。
今なら、この状況から悲しい真実を導き出せてしまうけれど、年齢を訊かれたら片手を開くだけで事足りた当時の私には、そんなこと分かるはずもなくて。
ママがついた愛の嘘を、無邪気に信じ込んでいた。
いや、本当は心のどこかで分かっていたけれど、分からないふりをしていたのかもしれない。
「だからほら、最後のお見舞い、ママに見せてよ。今日は何を作ってくれたの?」
急かされて、小瓶を持ったのとは反対の手に、ビーズアートを握っていたことを思い出す。
すっと体を離して立ち上がり、
「これ」
手を開くと、ママは「わぁ……!」と歓声を上げた。
虹と、笑顔のてるてる坊主。
六月に入ってから雨が降り続いてばかりで、ママの顔色もよくない気がしたから、早く晴れますようにと、元気になってくれますようにと願いを込めて作った。
ちなみに、最後の黒いビーズは、てるてる坊主の目になったのだ。
「ふたつも!? ありがとう。後で飾るね!」
ママは弾むように言って私の頭を撫で、ベッドサイドテーブルの上に置かれた空色のジュエリーボックスに、あげたばかりのビーズアートをしまった。
箱の中には、私が今までプレゼントした小物が、たくさん詰まっている。ママの宝箱だ。
他にも、ボックスに入りきらないサイズの絵や、特に気に入ったものについては、家族写真とともにいくつものコルクボードに飾られて室内の壁を彩っていた。
虹とてるてる坊主も、じきに仲間入りするのだろう。
「そうだ彩。その小瓶、貸して?」
何かひらめいた様子のママに、きょとんとしながら空っぽの小瓶を手渡す。
すると、今度はサイドテーブルの引き出しから、安全ピンと接着剤、それから小さな金具とボールチェーンを取り出した。
そこは言わば魔法の引き出しで、裁縫道具から工作道具まで、なんでも揃っている。
ママは安全ピンでコルク栓の裏側に穴を開けて、接着剤で金具をくっつけ、そこにチェーンを通した。
「できたっ」
満足げに呟いてチェーンを外し、私にちょいちょいと手招きする。
相変わらず状況が読めないまま距離を詰めれば、銀色のそれをそっと私の首に回した。
「はい、お守り。これで寂しくないよね? とっても大事なものができたら、中に入れて持ち歩くといいよ」
「とってもだいじなもの……」
「そう。っていっても、ちっちゃなものしか入れられないけどね」
ママはちょっぴり残念そうに言って、だけどすぐに、
「最後まで残ってて幸運だったな、黒くん! 君には重大な任務を課したぞ」
なんて、小瓶に向かって笑いかける。
ママは昔から、どんな物でも生きているみたいに扱う人だった。
特に衣服の修復が得意で、いくらボロボロになっていても、縫い直したり、ワッペンを付けたり、ときにはまったく別の物にリメイクしたり。
それでもどうしても使えないもの、使いきったものは、「お疲れさま」の気持ちを込めて、丁寧に処分する。
ママがそこまで身の回りの物を大切にするのは、自分の終わりをひしひしと感じていたからこそ、だったのかもしれない。
「彩」
突然、切なげに名前を呼ばれ、ふわりと抱き寄せられた。
そのまま、また優しく髪を撫でられる。
ママのひざの上で、おしゃれにヘアセットしてもらうのが好きだった。
最後にやってもらったのは、いつだっただろう。
「ママ……? どうしたの?」
「ううん。大好きだなぁって、思っただけだよ」
このときすでに、自力で立つのも辛い状態だったことを、ずっと後になって知った。――小さなビーズアートを、壁に飾りつけることもできないほど。
ごめんね、ママ。
黙って抱きしめ返してあげられるくらい、私が大人だったらよかったのに。
「――わたしも、だいすき」
この一言が、ママを余計に苦しめてしまったんじゃないかって、今でもそう思えてしかたないんだ。
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