上 下
25 / 40
🌙三夜目 頑固なおじいちゃんの未練

「もうすぐそっちへいくんですもの」

しおりを挟む
 *

 シズヲさんが近くにいるって、どういうことだろう。
 わけも分からず彩に促されるまま、わたしたちは昨日三人で来た田舎道を再び歩いていた。
 マントのフードをかぶったわたしと、タカシさんに挟まれる形で歩を進めている彩の手のひらには、文字盤が淡く光り、スローテンポで点滅を繰り返す懐中時計がのせられている。
 先ほど彼女がタカシさんに蓋を開いて見せ、「シズヲさんのことをイメージしてください」とお願いしたところ、何かを感知したらしく、このような反応を示したのだ。
 ぽうっと光る深紅の文字盤が示す時刻は、午後七時過ぎ。
 もうすっかり日が落ちた道を、彩は真剣な表情で懐中時計を見つめながら、ぐいぐいと突き進んでいく。頭を覆うフードは、時折夜風に煽られている。
 どこまで行く気だろうと思いつつも、漂う圧に口を開けず、無言でついていけば、なんとあの、民家が並ぶ敷地に入っていくではないか。
 彩は何かを確かめるように、一軒一軒の前で立ち止まり、手にのせた懐中時計を前方へ差し出す。
 すると、とある家まで来たとき、懐中時計が点滅のスピードを速めた。
「ここだな」
 そう言うなり、懐中時計を左手に持ちかえ、もう片手でタカシさんの手を取り、幽霊姿に戻してしまう。
「お前さん、さっきから何を……」
 戸惑うタカシさんに、彼女は淡々と、しかし緊張感の滲んだ声色で告げる。
「どうか、今は僕の言うことを黙って聞いてください。そうすれば、あなたの願いを叶えられるかもしれない」
 切迫した雰囲気が伝わったらしい。タカシさんはやや固い表情でうなずいた。
「あの、彩」
 さすがに状況を共有しておこうと思い、声をかけたわたしに、彩は懐中時計を右手に戻しながら答える。
「昨日、今来た道を歩いてたとき、かすかな気配を感じたんだ。タカシさんのものとよく似てたから、勘違いかと思ったんだけど、どうやらそうじゃなかったみたい。夫婦は似るっていうしね」
 言われてみれば昨日、自由奔放なタカシさんについてこの道を散策する途中、彼女は不思議そうに小首をかしげていた。
 その気配が、もしもシズヲさんのものだったとしたら――
「沙那、フードしっかりかぶって。人の気配がするから」
「あっ、うん」
 彩の指示に、わたしはフードを目深にかぶり直し、
「タカシさんも、行きますよ」
 続けて言われたタカシさんは、ぴんと背筋を伸ばす。
 そして、三人並んで玄関の前に立つ。
 彩が静かに目をつむると、引き戸が音もなくひとりでに開いた。魔力を使ったのだろう。
 それなりの理由があるとはいえ、人様の家に忍び込むのは少なからず抵抗があった。だが、そんなことを言っている場合ではない。
 彩がもう一度目で合図を送って、引き戸がひとりでに閉まったのを確認してから、息を殺して玄関を上がり、暗い廊下を忍び足で進む。
 中程にある和室の前を通りかかったとき、彩の手の中の懐中時計が、より激しく点滅し始めた。まるで、「ここだよ」と伝えるかのように。
 彩とわたしは顔を見合わせてうなずき、彼女はまた目を閉じる。
 襖がゆっくりと開いて、恐る恐る中を覗くと――
 畳の中央に敷かれた布団に、白髪のおばあちゃんが横たわっていた。
「シズヲっ!」
 その姿を認めるや否や、半透明のタカシさんが枕もとへ飛んでいって、崩れるようにひざを折る。
「だいじょうぶか……?」
 尋ねた声は、か細く、押し寄せる感情に震えていた。
「タカシさん……?」
 訊き返したシズヲさんの声は、もっと弱々しい。
「あら、ひょっとして迎えに来てくれたの? それとも、恨んで呪いに来たのかしら。ワタシが、あなたを病院に置き去りにしたりしたから」
「違う、違う。置き去りにしたのは、ワシのほうだろう?」
 いやいやする子供のように首を振りながら言うタカシさんに、シズヲさんは愛おしげにくすりと笑う。
「まぁ、なんだって構わないわ。どのみちワタシも、もうすぐそっちへいくんですもの」
 シズヲさんの何気ない一言。加えて、普通の人間には見えないはずのタカシさんの姿を認識していること。彩が彼女の気配を察知したこと。
 これらの事実が暗示する未来に、ヒリリと胸の奥が痛む。
 しかしすぐに思い直した。
 ふたり揃って同じ場所へ旅立つ。それは彼らにとって本望だったはずだと。
 ――後悔なんかないって言っとろうがっ!
 たぶん、タカシさんは本当に後悔なんてなかったのだ。愛する人のそばで死ねず、置き去りにしてしまったこと以外は。
 頑固なおじいちゃんの未練は、偶然にも「再会」に関するものだったというわけか。
 そんなことを考えていたら、
「沙那も、消えるつもりなら一度見ておくといいよ。人が、人じゃなくなる瞬間を」
 隣に立つ彩が、ふと、わたしの心を読んだように言った。
 思えば、亡者をちゃんと見送るのはこれが初めてだ。
 人が人じゃなくなる瞬間。
 言葉だけでは想像もつかないけれど、その重みだけは分かる。
 記憶から抹消されるとはいっても、わたしもおそらく同じような道をたどるのだ。
 彼女の言う通り、決意の固さを確かめるには、いい機会かもしれない。

 それからタカシさん夫婦は、月明かりだけが照らす部屋の中で、ずいぶんと長い間、ふたりの時を分かち合っていた。
 ただ黙って、本当はまだ握ることのできない手を握り合い、静かに見つめ合っている。
 聞こえるのは、シズヲさんの、すこし苦しげでかすかな息遣いだけ。
 穏やかに流れる空気を感じながら、出入り口からそんなふたりを見守るうち、気づけば、わたしも彩もその場に腰をおろしていた。
 そうして、だんだんとまぶたが重くなり始めた頃、
「もうすぐだね」
 彩がぽつりと呟いて立ち上がる。
 わたしもはっとして腰を上げた。彼女の手の中の懐中時計を覗き込むと、点滅はやみ、光もかなり弱まっている。
 これは、もしかして……
 そう思った直後、細く続いていたシズヲさんの呼吸が、ゆったりと止まった。
 同時に懐中時計は光を失い、彩はすっと蓋を閉めて腰にさげる。
 やがて、シズヲさんの体から半透明の分身が離脱し、泣きそうな顔でほろりと微笑んだ。
 きっと、タカシさんと「同じ」になったのだ。
 何も言わずふたりが抱き合うと、やわらかな光で室内が満たされた。
 淡く白い光に包まれて、きらきらと溶けるように消えていくふたり。
 ――……ず、ちぃ……ず、を。
 初めて会った日の夜、タカシさんは寝言で、シズヲさんの名前を呼んでいたのかもしれない。
 彼らはいったい、どれほどこの瞬間を待ちわびていたのだろう。
 そのとき、彩からそっとハンカチを差し出されて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
 ありがたく受け取って、目尻を拭う。わたしが泣くのはお門違いかもしれないけれど、止められなかった。
 悲しいわけじゃない。ひたすらにきれいで、ほっとしたから。
 ただ、それだけだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

呪配

真霜ナオ
ホラー
ある晩。いつものように夕食のデリバリーを利用した比嘉慧斗は、初めての誤配を経験する。 デリバリー専用アプリは、続けてある通知を送り付けてきた。 『比嘉慧斗様、死をお届けに向かっています』 その日から不可解な出来事に見舞われ始める慧斗は、高野來という美しい青年と衝撃的な出会い方をする。 不思議な力を持った來と共に死の呪いを解く方法を探す慧斗だが、周囲では連続怪死事件も起こっていて……? 「第7回ホラー・ミステリー小説大賞」オカルト賞を受賞しました!

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

処理中です...