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🌙三夜目 頑固なおじいちゃんの未練

お前のそばにいたかったよ……

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 体調がなかなか回復せずに入院することは、昔からよくあった。
 ここにいる人たちは皆、専門家だ。今までだって、何度も助けてもらった。
 いつもにこやかで、丁寧に接してくださる。ワシも、失礼のないようにしなくては。
 医者の言うことをしっかり聞いて、規則正しく安静にしていれば、じきによくなる。
 きっと大丈夫だ。きっと。
 そう、思っていたのに。……聞いてしまったんだ。
 ある日の朝、体温やら血圧やらを測り終えた後、病室を出ていった看護師たちが、ひそひそと話しているのを。
「ずっとここに置いておくつもりなんですかね?」
「しょうがないわよ。タカシさん、今の数値じゃ回復は厳しそうだし。奥さんもあんまり具合がよくなくて、娘さん夫婦のところに行ったみたい」
「あぁ……佐伯さえきさんちって訳アリでしたっけ? 娘さんもとびきり若いわけじゃないだろうし、自分に加えて父親の面倒まで見てくれとは、言いづらいですよねぇ。血縁があるならまだしも」
 それは、どういう意味だ?
 たしかにシズと出会ったとき、彼女には幼い一人娘がいた。血のつながりこそないが、義娘もワシを好いてくれ、関係は良好だ。
 シズとワシとの間に子供はできなかったが、ずっと、彼女を本当の娘のようにかわいがり、育ててきた。愛する人の大事な存在なのだから、そんなことは造作もない。
 彼女もとうの昔に成人して結婚し、三人の子宝に恵まれた。ワシの孫にあたるその子たちも、すでに全員ひとり立ちしている。
 たまたま見知ったそこらの看護師が、ワシの何を分かっているというのか。
 ひ孫を待ちわびるワシの気持ちなど、考えたこともないだろうに。
 それに、
 ずっとここに置いておく? 回復は厳しい?
 シズの具合が悪い? そんな素振り、ワシにはちっとも見せなかったではないか。
 衝撃の――いや、本当はいつも心のどこかで恐れていた事実に、自分の中のいろいろなものが、音を立てて崩れていく気がした。

 失望していたってしかたがない。
 遅かれ早かれ、人間は必ず死ぬのだ。ワシも、シズも、いつか必ず。
 けれど、だからこそ、死ぬ場所くらいは自分で選びたい。回復の見込みがないのなら、家へ、シズのもとへ帰りたい。
 もちろん、最初はきちんとその旨を伝えようとした。
 でも、
「あの、うちに帰りたいんじゃが……」
 自身を奮い立たせ、重い口を開くたび、
「はいはい、よくなったら帰れますからねー」
 決まって、そんなふうに流されてしまって。
 よくなったら帰れる? 嘘を言え。ワシは知っているんだぞ。
 それで気がついてしまった。
 今まで優しげに聞こえていた声かけも、ただただ適当にあしらわれていただけなのだと。もしかしたら自分は、疎まれてさえいるのだと。
 もういい。そっちがその気なら、こっちだって黙っちゃいない。
 それからワシは、周囲に対して敵意を剥き出しにするようになった。
 看護師がやたらと愛想よく様子を見に来れば、
「やめろっ! そうやってヘラヘラしていれば、ワシがいつまでもおとなしくしておると思ったか? どうせボケ老人だとでも。ふんっ、バカにしおって」
 思いつくままに罵声を浴びせて暴れ回り、医者が回診に来れば、
「お前は人を治すのが仕事だろう? この木偶の坊めが」
 容赦ない言葉で人格を否定した。
 突如豹変したワシに、看護師たちは「タカシさん、どうしちゃったのかしら。あんなに穏やかだったのに……」と怯えて被害者面をする。
 ふざけるな。元凶を作ったのは、お前たちだ。
 もう、誰になんと言われようと、態度をあらためる気はなかった。

 そんなふうだったから、罰が当たったのだろう。
 入院して一ヶ月が過ぎた頃、大きな発作が起きた。
 苦しい。苦しい。苦しい。
 ヒューヒューと間抜けな呼吸音が漏れるだけで、もはや咳すら出ない。
 息が、できない。
「――シさんー? 聞――ますかー?」
 視界は霞み、人の声が、機械の音が、遠い。
 このまま死ぬんだと思った。
 最後の力を振り絞って、顔だけをテレビのほうへ向ければ、シズからもらった腕輪が目に入る。
 やっぱり身につけるのは恥ずかしくてできなかったけれど、床頭台の上に置いて、好きなときに眺めていたのだ。
 シズが見たら、また「ちゃんとつけてくださいよぉ」なんてむくれそうなものだが。
 なぁ、シズヲ。
 お前はワシが重荷だったから、こんなところに預けたのか?
 お前の愛は痛いほど伝わった。けれど、人生は愛だけではどうにもならないことのほうが多い。
 本当は具合が悪いせいばかりじゃなく、ワシは手がかかるから、いなくなってしまえば楽なのにって、頭の片隅で思っていたんじゃないのか?
 看護師が言っていたように。
 そんなことはありえない。そう信じ込みたい自分もいるが、最悪、それでもいい。
 いなくなったらほっとしてくれて構わないから、せめて最期の最期くらい、お前のそばにいたかったよ……
 狭まっていくおぼろげな視界の中で、南天の赤だけが、いつまでも鮮やかだった。

 *

 胸が痛い。
 話を聞き終わったとき、わたしは真っ先にそう思った。
 周囲の心ない言動が、ひとりの慈悲深い人を「頑固な厄介者」に変えてしまったなんて。
 どんな凶悪犯も、最初から極悪人だったわけじゃない。そうなってしまったきっかけや境遇が、多少なりとも存在するはずだ。
 すると、ずっと南天を見つめながら話していたタカシさんが「サナ、お前さん、さっき言っておっただろ?」とわたしに目を向ける。
「『もっと違う伝え方もあった』と。今ならその気持ちも分かる。ワシも諦めて暴れるのでなく、もっと根気よく伝え続けていれば、伝え方を変えていれば、向き合ってもらえたかもしれん。家に帰るのは無理でも、最期の時をシズと一緒に過ごすことは、できたかもしれん」
 でも、タカシさんが怒ったのは、散歩道でわたしに言ってくれたように、あくまで「納得できなかったから」で。
 たしかに状況からして自宅に戻ることは難しかったのかもしれないが、きちんと事情を説明しようともせず、患者の要望を受け流していた医師や看護師のほうが、よほどタチが悪い。
 と思うと同時に、この数日間のタカシさんの様々な言葉がよみがえってくる。本人も感じていたようだが、きっと病院の人たちは、彼を「お年寄り」という枠組みだけで見て、マニュアル通りに接していたのだろう。
 なんて考えてしまうわたしは、まだまだ子供なのだろうか。
 ――思いっきり息ができるというのは、いいもんじゃなぁ……
 何気なく聞こえたこの一言も、今となっては重さが段違いだ。
 腹立たしいやらむなしいやらで、勝手にくさくさしていたら、突然、
「――そういうことか」
 彩がひとり、合点がいったように呟く。
 きょとんとするわたしとタカシさんに、彼女は衝撃の一言を口にした。
「近くにいるかもしれませんよ? シズヲさん」
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