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🌙三夜目 頑固なおじいちゃんの未練
「お守りです」
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*
思ったより時間がかかったのか、我が家の前で彩と再び合流できたのは、夕暮れが徐々に群青を受け入れ始めた頃だった。
風は少し肌寒くなり、わずかながら魔女のマントが防寒の役割を果たしてくれている。
「ごめん。お待たせ」
言いながら歩み寄ってきた彩は、両手で大事そうに何かを抱えていた。
よく見ると、銀色に輝くジョウロだ。例の水が入っているのだろう。
「遅いではないか、小娘」
「いくらでも待つって言ってたのは、どこの誰でしたっけ? っていうか、この時期は日が落ちるのが早いんですよ」
憎まれ口を叩き合いつつ、暗黙の了解とばかりにすぐさま勝手口へ向かうふたり。そんな彼らの後ろを、わたしも微笑み交じりについていく。
この人たち、なんだかんだ言って気が合うんじゃないだろうか? なんてうっかりこぼしたら、揃いも揃って全力で否定されそうだけど。
南天の鉢植えの前にたどり着くと、彩がジョウロを構えた。
「いいですか? ちゃんと見ててくださいね?」
言い聞かせるように言って、タカシさんが少し緊張した様子でうなずいたのを確認してから、彼女は銀色のそれをそっと傾ける。
しゃわしゃわと控えめな音を立てながら、ノズルから優しい雨のように降り注いだ水は――淡い虹色だった。
沈みかけた夕日のオレンジを反射しているわけではない。水そのものが、色鮮やかに煌めいているのだ。
七色の水を浴びたとたん、未熟な南天は、子供が嬉しげに頬を上気させるように赤く色づきながら、瞬く間に大きく育っていく。
これが、生命の水。植物が、喜んでいる。
やがて、七色の雨が静かにやむ頃には、すっかり立派な姿に成長していた。
架空の世界から飛び出してきたような魔法には、いつも魅了されてしまう。
タカシさんも、あっという間にたわわに実り、いまだ七色のしずくに艶めく南天を見つめて、感嘆のため息をひとつ漏らす。
そして、
「もう一回、飲みたいのう。――シズの、南天茶が」
しんみりとこぼして、堰を切ったように話し始めた。
*
妻のシズヲは、自然を愛する人だった。
二十代で出会って、半世紀以上。気づけば、出会う前より、ともに生きた日々のほうが、はるかに長くなっていて。
よく晴れた日、布団に包まりながら、庭いじりをする彼女を眺めるのが好きだった。
居間に面した中庭で、眩しい緑に囲まれて、黒く染めた素朴なひっつめ髪を揺らしながら、今日はせっせと赤い実を摘んでいる。
正面の窓ガラスは閉められているが、無邪気な鼻歌が聞こえてくるようだ。
あの実もいずれ、ワシの一部になるのだろうか。
他愛もないことに思いを巡らせながら、ワシはひとつ空咳をする。
いつも季節の変わり目は、持病の喘息が悪化して、体調を崩しやすかった。
咳が止まらなくなって息苦しいし、胸も痛くなる。
そんなときは、どんな治療や薬よりも、シズの作る南天茶が一番よく効いた。
年の初めになると、真っ赤に色づいた南天の実を干して煮出し、お茶にするのだ。
あの独特なぬめりと、いかにも漢方らしい苦み。味はなんとも言えないが、あれを飲むと、不思議と呼吸が楽になって、よく眠れた。
良薬口に苦し、とはよく言ったものだ。
などと考えていると、ふいにシズがガラス越しにこちらを見て、ふわりと笑った。
歳のわりにずいぶんあどけなく見えるその笑みに、ワシも淡く微笑み返す。
体は辛いけれど、こうして特等席で過ごす穏やかな時間は、とても幸せで。
ワシはあと何回、この至福のひとときを迎えられるだろう。
「心配するな。すぐに治るから」
簡素な部屋の白いベッドの上、病院から貸し出されたパジャマ姿で、傍らに座るシズに落ち着き払って告げる。
「ええ、待ってます」
彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべたまま、はきはきと答えた。
その声に、努力や虚勢の色はない。本当に、いつも通り。
まったく。彼女には到底及ばない。
そんなことを思って、苦笑を噛み殺したとき、
「あっ、そうだ! タカシさん」
シズは何やら思い出したようにちょっぴり楽しげに手を叩くと、ひざに置いたかばんの中を探り始める。
「はい、これ」
ややあって彼女が差し出したのは、南天の実をいくつもひもに通し、腕輪状にしたものだった。
丸くきれいに並んだ紅色が、目に鮮やかだ。先日摘んでいたものを使ったのだろうか。
「お守りです」
どこか自慢げに微笑む彼女の手から、ひょいとそれを受け取って、
「本当に南天が好きじゃのう、お前は」
思わず含み笑いを漏らすと、
「だって、あなたにはこれが一番なんですもの。それにほら、南天は難を転ずるって言うでしょう?」
彼女は微笑みを崩さず、茶目っ気たっぷりに返事をする。
「そうだな」
淡白に答えれば、今度は、
「もうっ、ぼーっと見つめてないで、ちゃんとつけてくださいよぉ」
ふくれっ面で南天の飾りを取り返し、そのまま痩せ細ったワシの腕にするっと通す。
「やっ、やめんか恥ずかしい……」
「イヤです。こうやって使うものですから」
シズはつんと言ってから、小さく噴き出し、鈴の音のようにころころと笑いだした。
つられて、ついつい顔がほころぶのを感じる。
あぁ――名残惜しい。
この愛らしい笑顔とも、しばしお別れだ。
思ったより時間がかかったのか、我が家の前で彩と再び合流できたのは、夕暮れが徐々に群青を受け入れ始めた頃だった。
風は少し肌寒くなり、わずかながら魔女のマントが防寒の役割を果たしてくれている。
「ごめん。お待たせ」
言いながら歩み寄ってきた彩は、両手で大事そうに何かを抱えていた。
よく見ると、銀色に輝くジョウロだ。例の水が入っているのだろう。
「遅いではないか、小娘」
「いくらでも待つって言ってたのは、どこの誰でしたっけ? っていうか、この時期は日が落ちるのが早いんですよ」
憎まれ口を叩き合いつつ、暗黙の了解とばかりにすぐさま勝手口へ向かうふたり。そんな彼らの後ろを、わたしも微笑み交じりについていく。
この人たち、なんだかんだ言って気が合うんじゃないだろうか? なんてうっかりこぼしたら、揃いも揃って全力で否定されそうだけど。
南天の鉢植えの前にたどり着くと、彩がジョウロを構えた。
「いいですか? ちゃんと見ててくださいね?」
言い聞かせるように言って、タカシさんが少し緊張した様子でうなずいたのを確認してから、彼女は銀色のそれをそっと傾ける。
しゃわしゃわと控えめな音を立てながら、ノズルから優しい雨のように降り注いだ水は――淡い虹色だった。
沈みかけた夕日のオレンジを反射しているわけではない。水そのものが、色鮮やかに煌めいているのだ。
七色の水を浴びたとたん、未熟な南天は、子供が嬉しげに頬を上気させるように赤く色づきながら、瞬く間に大きく育っていく。
これが、生命の水。植物が、喜んでいる。
やがて、七色の雨が静かにやむ頃には、すっかり立派な姿に成長していた。
架空の世界から飛び出してきたような魔法には、いつも魅了されてしまう。
タカシさんも、あっという間にたわわに実り、いまだ七色のしずくに艶めく南天を見つめて、感嘆のため息をひとつ漏らす。
そして、
「もう一回、飲みたいのう。――シズの、南天茶が」
しんみりとこぼして、堰を切ったように話し始めた。
*
妻のシズヲは、自然を愛する人だった。
二十代で出会って、半世紀以上。気づけば、出会う前より、ともに生きた日々のほうが、はるかに長くなっていて。
よく晴れた日、布団に包まりながら、庭いじりをする彼女を眺めるのが好きだった。
居間に面した中庭で、眩しい緑に囲まれて、黒く染めた素朴なひっつめ髪を揺らしながら、今日はせっせと赤い実を摘んでいる。
正面の窓ガラスは閉められているが、無邪気な鼻歌が聞こえてくるようだ。
あの実もいずれ、ワシの一部になるのだろうか。
他愛もないことに思いを巡らせながら、ワシはひとつ空咳をする。
いつも季節の変わり目は、持病の喘息が悪化して、体調を崩しやすかった。
咳が止まらなくなって息苦しいし、胸も痛くなる。
そんなときは、どんな治療や薬よりも、シズの作る南天茶が一番よく効いた。
年の初めになると、真っ赤に色づいた南天の実を干して煮出し、お茶にするのだ。
あの独特なぬめりと、いかにも漢方らしい苦み。味はなんとも言えないが、あれを飲むと、不思議と呼吸が楽になって、よく眠れた。
良薬口に苦し、とはよく言ったものだ。
などと考えていると、ふいにシズがガラス越しにこちらを見て、ふわりと笑った。
歳のわりにずいぶんあどけなく見えるその笑みに、ワシも淡く微笑み返す。
体は辛いけれど、こうして特等席で過ごす穏やかな時間は、とても幸せで。
ワシはあと何回、この至福のひとときを迎えられるだろう。
「心配するな。すぐに治るから」
簡素な部屋の白いベッドの上、病院から貸し出されたパジャマ姿で、傍らに座るシズに落ち着き払って告げる。
「ええ、待ってます」
彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべたまま、はきはきと答えた。
その声に、努力や虚勢の色はない。本当に、いつも通り。
まったく。彼女には到底及ばない。
そんなことを思って、苦笑を噛み殺したとき、
「あっ、そうだ! タカシさん」
シズは何やら思い出したようにちょっぴり楽しげに手を叩くと、ひざに置いたかばんの中を探り始める。
「はい、これ」
ややあって彼女が差し出したのは、南天の実をいくつもひもに通し、腕輪状にしたものだった。
丸くきれいに並んだ紅色が、目に鮮やかだ。先日摘んでいたものを使ったのだろうか。
「お守りです」
どこか自慢げに微笑む彼女の手から、ひょいとそれを受け取って、
「本当に南天が好きじゃのう、お前は」
思わず含み笑いを漏らすと、
「だって、あなたにはこれが一番なんですもの。それにほら、南天は難を転ずるって言うでしょう?」
彼女は微笑みを崩さず、茶目っ気たっぷりに返事をする。
「そうだな」
淡白に答えれば、今度は、
「もうっ、ぼーっと見つめてないで、ちゃんとつけてくださいよぉ」
ふくれっ面で南天の飾りを取り返し、そのまま痩せ細ったワシの腕にするっと通す。
「やっ、やめんか恥ずかしい……」
「イヤです。こうやって使うものですから」
シズはつんと言ってから、小さく噴き出し、鈴の音のようにころころと笑いだした。
つられて、ついつい顔がほころぶのを感じる。
あぁ――名残惜しい。
この愛らしい笑顔とも、しばしお別れだ。
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