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🌙三夜目 頑固なおじいちゃんの未練
「ワシに付き合ってもらうぞい」
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「昨日のあれ、やっとくれ!」
翌朝、いつものようにマント姿で抜け出した出窓の前。
青いアクリル絵の具に浸したような秋空の下で、タカシさんは彩にはつらつと片手を差し出した。
「……はい?」
対して、向かいの彩は昨日と同じ仏頂面だ。
「ほれ、体が重くなって、物も持てるようになるあれじゃよ」
タカシさんはごまをするような甘い声で言う。どうやら、生身の人間に戻りたいらしい。
それにしても、体が重くなる――この言い回し、前にもどこかで聞いたような……あっ。
少し考えて、すぐに思い当たった。ダイチくんだ。
たったそれだけで、目の前にいる頑固なおじいちゃんが、なんだかものすごくかわいく思えてしまった。
意外と素直なところもあるのかもしれない。
「人間に戻ってどうする気ですか?」
冷めた口調で訊く彩に、タカシさんは何やら企みを宿した目で、隣のわたしを見た。
「この娘がな、どんな小さなことでもいいから、やりたいことをやってみろとうるそうての。しかたなく従ってやることにしたんじゃが、こんな体では何もできんじゃろうて。お主らにはしばらく、ワシに付き合ってもらうぞい」
その主張に、昨夜の含みある言葉の真意を理解した。もちろん、そういう意味で言ったわけではないのだけれど。
うぅ……やっぱりかわいくないかも。
「――クソジジイ」
んんっ? なんか今、聞いてはいけない単語を聞いてしまったような気が。けど、きっと気のせいだ。そういうことにしておこう。うん。
彩は、心底面倒くさそうにため息をつくと、
「分かりました。そっちがその気なら、とことんやらせていただきます」
仕事ですしね、と加えてこぼし、半歩タカシさんに歩み寄った。そして、
「でも、残念ながら手が逆です。僕の場合、魔力が宿ってるのは右手なので、魔女志願でもない限り、左手を出してもらわないと。特別ですよ。基本、ひとり一回なんですから」
淡々と言いながら、腹いせのようにぐいと半透明の左手を引っ張った。
「いっ……!」
もう昨晩からお馴染みになりつつある光景を横目に、わたしは彩の言葉を聞いてなんとなく自分の右手に視線を落とした。
間違いない。小指の爪に描かれた彼岸花は、日に日に薄くなっている。絵具やマジックで書いたわけではないから、お風呂で流れ落ちてしまうなんてこともないだろうに。
これも、なにか魔法と関係があるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、タカシさんは肉体を取り戻し、「これじゃよ、これ」なんて満足そうにウシシと笑い、意気揚々と先陣を切って歩き出す。
彩は全身に憂鬱さを漂わせつつも、無言でフードをかぶると、のろのろと後に続いた。
わたしもフードに手を伸ばし、小走りで追いついて彼女の隣に並ぶ。
「ごめんね、なんか」
苦笑しながら顔の前で両手をこすり合わせれば、彩は恨めしげに前を見つめたまま答えた。
「べつにいいよ。ほんとのところは分からないけど、とりあえず根気よく相手するしかなさそうだし、沙那のせいじゃないから。そこのおじいさんがお子ちゃまなだけでっ!」
最後の一言は嫌味たらしく強調したようだったが、タカシさんは聞こえているのかいないのか、鼻歌交じりで上機嫌に前を歩いていた。
いったい、どこまで歩くつもりなのだろう。足が痛くなってきた。視線も、自然と下へ落ちている。
秋は過ごしやすい季節だなんていうけれど、晴天の下に長時間いれば、さすがにじんわりと汗をかく。マントを羽織っているから余計にだ。
「あっつい!」
たまらずフードをはねのけて顔を上げ、辺りを見渡すと、
「っていうか、ここどこ……?」
そこにはいつの間にか、見慣れない景色が広がっていた。
我が家の周辺より木々の背丈が高くなり、赤や黄の草花が足もとを彩っている。
遠くには田畑が見え、民家らしきものも点在していた。ずいぶんとのどかなところまで来たようだ。
そういえば、おじいちゃんって当てもなくずっと散歩してるイメージだな。まさか、このまま日が暮れるまでぶらついて、わたしたちを疲れさせようとかいう魂胆なんじゃ……
そんなことを思って、ひとり不安になっていると、
「ん……?」
同じくフードを脱いで隣を歩いていた彩が、小首をかしげる。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない。たぶん気のせいだと思――」
「おっ!」
と、彩が言い終わるや否や、何かを見つけたらしいタカシさんが、突然目にも留まらぬ速さで駆け出した。
「えっ、タカシさん!?」
「早っ……」
あわてて追いかける。
タカシさんはどんどんわたしたちを引き離して進み、やがて生い茂る草の向こうに見えなくなった。おじいちゃんとは思えない脚力だ。
雑草をかき分けてどうにか追いつき、
「もうっ、びっくりするじゃないですかっ、急に……」
肩で息をしながら顔を上げて、
「わぁ……!」
思わず漏れた。
視界の先に、おっきな川が横たわっていたから。
だだっ広い河原。空の青をそのまま映した、穏やかな水面。
こんな場所があったなんて、知らなかった。
浅瀬では、すでにタカシさんが「川じゃ川じゃ!」とはしゃぎながら少年のように走り回っている。
目の前の美しさに引っ張られるようにして、一歩踏み出そうとした、そのとき。
隣の彩が、固まっていることに気がついた。
「……? どうしたの? 行こうよ」
まるで、何かに怯えているみたいに、強張った表情。
「い、いや、僕はい――」
ピシャァ。
答えかけた彼女の顔面に、突如、少量の水しぶきが飛んできた。
驚いて見やると、タカシさんがしたり顔で立っている。わたしにはかかっていないので、明らかにわざとだ。
それを理解したとたん、彩は鋭く彼を睨みつけた。おまけに一瞬、こめかみのあたりに怒りマークが浮いた気がする。
――あっ、これひょっとして、まずいやつ?
そう思ったのもつかの間、
「……やったなぁ!」
彼女はマントと靴を脱ぎ捨ててズボンをたくし上げると、「待てこのー!」と心なしか愉しげに叫びながら、逃げ惑うタカシさんを追って、あっさり川の中へ入っていった。
「ちょっ、ふたりともずるーい! 置いてかないでよー」
わたしも一拍遅れて参戦する。
それからは、水をかけ合ってはしゃいだり。
水切り対決をして、図らずも彩のドヤ顔を目にしたり。
彩が、ころころと声を上げて笑っている。
――彩って、こんなふうに笑うんだ。
こんなにも無邪気な彼女を見たのは、初めてかもしれない。
冷たく澄んだ水は、疲れて火照った体に心地よかった。
「昨日のあれ、やっとくれ!」
翌朝、いつものようにマント姿で抜け出した出窓の前。
青いアクリル絵の具に浸したような秋空の下で、タカシさんは彩にはつらつと片手を差し出した。
「……はい?」
対して、向かいの彩は昨日と同じ仏頂面だ。
「ほれ、体が重くなって、物も持てるようになるあれじゃよ」
タカシさんはごまをするような甘い声で言う。どうやら、生身の人間に戻りたいらしい。
それにしても、体が重くなる――この言い回し、前にもどこかで聞いたような……あっ。
少し考えて、すぐに思い当たった。ダイチくんだ。
たったそれだけで、目の前にいる頑固なおじいちゃんが、なんだかものすごくかわいく思えてしまった。
意外と素直なところもあるのかもしれない。
「人間に戻ってどうする気ですか?」
冷めた口調で訊く彩に、タカシさんは何やら企みを宿した目で、隣のわたしを見た。
「この娘がな、どんな小さなことでもいいから、やりたいことをやってみろとうるそうての。しかたなく従ってやることにしたんじゃが、こんな体では何もできんじゃろうて。お主らにはしばらく、ワシに付き合ってもらうぞい」
その主張に、昨夜の含みある言葉の真意を理解した。もちろん、そういう意味で言ったわけではないのだけれど。
うぅ……やっぱりかわいくないかも。
「――クソジジイ」
んんっ? なんか今、聞いてはいけない単語を聞いてしまったような気が。けど、きっと気のせいだ。そういうことにしておこう。うん。
彩は、心底面倒くさそうにため息をつくと、
「分かりました。そっちがその気なら、とことんやらせていただきます」
仕事ですしね、と加えてこぼし、半歩タカシさんに歩み寄った。そして、
「でも、残念ながら手が逆です。僕の場合、魔力が宿ってるのは右手なので、魔女志願でもない限り、左手を出してもらわないと。特別ですよ。基本、ひとり一回なんですから」
淡々と言いながら、腹いせのようにぐいと半透明の左手を引っ張った。
「いっ……!」
もう昨晩からお馴染みになりつつある光景を横目に、わたしは彩の言葉を聞いてなんとなく自分の右手に視線を落とした。
間違いない。小指の爪に描かれた彼岸花は、日に日に薄くなっている。絵具やマジックで書いたわけではないから、お風呂で流れ落ちてしまうなんてこともないだろうに。
これも、なにか魔法と関係があるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、タカシさんは肉体を取り戻し、「これじゃよ、これ」なんて満足そうにウシシと笑い、意気揚々と先陣を切って歩き出す。
彩は全身に憂鬱さを漂わせつつも、無言でフードをかぶると、のろのろと後に続いた。
わたしもフードに手を伸ばし、小走りで追いついて彼女の隣に並ぶ。
「ごめんね、なんか」
苦笑しながら顔の前で両手をこすり合わせれば、彩は恨めしげに前を見つめたまま答えた。
「べつにいいよ。ほんとのところは分からないけど、とりあえず根気よく相手するしかなさそうだし、沙那のせいじゃないから。そこのおじいさんがお子ちゃまなだけでっ!」
最後の一言は嫌味たらしく強調したようだったが、タカシさんは聞こえているのかいないのか、鼻歌交じりで上機嫌に前を歩いていた。
いったい、どこまで歩くつもりなのだろう。足が痛くなってきた。視線も、自然と下へ落ちている。
秋は過ごしやすい季節だなんていうけれど、晴天の下に長時間いれば、さすがにじんわりと汗をかく。マントを羽織っているから余計にだ。
「あっつい!」
たまらずフードをはねのけて顔を上げ、辺りを見渡すと、
「っていうか、ここどこ……?」
そこにはいつの間にか、見慣れない景色が広がっていた。
我が家の周辺より木々の背丈が高くなり、赤や黄の草花が足もとを彩っている。
遠くには田畑が見え、民家らしきものも点在していた。ずいぶんとのどかなところまで来たようだ。
そういえば、おじいちゃんって当てもなくずっと散歩してるイメージだな。まさか、このまま日が暮れるまでぶらついて、わたしたちを疲れさせようとかいう魂胆なんじゃ……
そんなことを思って、ひとり不安になっていると、
「ん……?」
同じくフードを脱いで隣を歩いていた彩が、小首をかしげる。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない。たぶん気のせいだと思――」
「おっ!」
と、彩が言い終わるや否や、何かを見つけたらしいタカシさんが、突然目にも留まらぬ速さで駆け出した。
「えっ、タカシさん!?」
「早っ……」
あわてて追いかける。
タカシさんはどんどんわたしたちを引き離して進み、やがて生い茂る草の向こうに見えなくなった。おじいちゃんとは思えない脚力だ。
雑草をかき分けてどうにか追いつき、
「もうっ、びっくりするじゃないですかっ、急に……」
肩で息をしながら顔を上げて、
「わぁ……!」
思わず漏れた。
視界の先に、おっきな川が横たわっていたから。
だだっ広い河原。空の青をそのまま映した、穏やかな水面。
こんな場所があったなんて、知らなかった。
浅瀬では、すでにタカシさんが「川じゃ川じゃ!」とはしゃぎながら少年のように走り回っている。
目の前の美しさに引っ張られるようにして、一歩踏み出そうとした、そのとき。
隣の彩が、固まっていることに気がついた。
「……? どうしたの? 行こうよ」
まるで、何かに怯えているみたいに、強張った表情。
「い、いや、僕はい――」
ピシャァ。
答えかけた彼女の顔面に、突如、少量の水しぶきが飛んできた。
驚いて見やると、タカシさんがしたり顔で立っている。わたしにはかかっていないので、明らかにわざとだ。
それを理解したとたん、彩は鋭く彼を睨みつけた。おまけに一瞬、こめかみのあたりに怒りマークが浮いた気がする。
――あっ、これひょっとして、まずいやつ?
そう思ったのもつかの間、
「……やったなぁ!」
彼女はマントと靴を脱ぎ捨ててズボンをたくし上げると、「待てこのー!」と心なしか愉しげに叫びながら、逃げ惑うタカシさんを追って、あっさり川の中へ入っていった。
「ちょっ、ふたりともずるーい! 置いてかないでよー」
わたしも一拍遅れて参戦する。
それからは、水をかけ合ってはしゃいだり。
水切り対決をして、図らずも彩のドヤ顔を目にしたり。
彩が、ころころと声を上げて笑っている。
――彩って、こんなふうに笑うんだ。
こんなにも無邪気な彼女を見たのは、初めてかもしれない。
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