35 / 38
🌈Last time 君は、心の傘
希望に変わるまで
しおりを挟む*
この数ヶ月間に、これほど幾度も眠れない夜を過ごすことになるなんて。
大和は二段ベッドの上段で、ひたすら募っていく不安にもがいていた。
まだ夜の八時を過ぎたばかりだ。けれど、起きていても落ち着かなくて、入浴を済ませると早々に床につき、お化けにおびえた子供のように丸くなっている。
昨日、無事に意識を取り戻した結乃だったが、その日の夕方に突然発熱してしまったらしく、今日は家族以外、面会謝絶だったのだ。
どうしたのだろう。
志歩から聞いた話によれば、医者はストレスだとか、手術の影響だとか言っていたらしい。でも、そんな曖昧な理由で納得できるはずがない。
昨日の出来事が、何らかの形で関係しているのでは?
そもそも、命を譲り渡すって、栞奈は一体何をしたんだ? もしもまた、意識不明なんてことになったら……
勝手に最悪の結末を想像し、青ざめる大和の背後で、静かにスマホが震えた。
わざとかと思うほど大きく飛び上がった後、彼はゆっくりと寝返りを打ち、恐る恐る画面を覗き込む。
志歩からだ。まさか、結乃に何かあったんじゃ――
恐怖と不安で押し潰されそうになりながら、どうにか電話を取り、相手の応答を待つ。
『もしもし? 私、結乃』
その声に、ほんの一瞬、安堵が胸を満たした。しかし、すぐに焦りが勝ってしまう。
「えっと、あ、あの、だいじょ……」
『落ち着いて、大和』
苦笑交じりになだめられ、大和は一度小さく息をついた。
『あのね、今日熱が出たのは、免疫力の低下が原因で起きた、私の命と大和の命が馴染むまでの一時的な拒絶反応みたいなものなの。明日には下がると思う』
拒絶反応。
移植手術などで聞いたことがあるけれど、それと同じ類なのだろうか。
『本当はもっと早くに伝えるつもりだったんだけど……』
聞くと、まだこの説明をしていなかったことに、今朝になって気づいたという。だが、何せ人前で堂々とできるような話ではない。
結乃のスマホは事故のときに壊れてしまったし、状況が状況なので、公衆電話に頼ることも不可能だ。
しかたなく、志歩のスマホをこっそり借りようとタイミングを見計らっていたら、こんな時間になってしまったらしい。
『大和は大丈夫みたいでよかった。ごめんね、心配かけて』
そんなふうに謝られると、かえってこちらが申し訳なくなる。「ううん。僕のほうこそ、いろいろ気遣ってもらっちゃって……」
その心遣いは、自分をよく理解してくれている彼女だからこそできる、濃やかなもので、とても頭が上がらない。
「あっ」
そこでふと思い出した。もうひとつ分からないことがある。そう、まるで、おとぎ話のような――
「あのさ、あれはどういう仕組みになってたの? 眠気と、キス……」
口籠りながら言うと、『キス?』と訊き返される。
頼むから、その単語だけ拾わないでくれ。
悶えたくなるような恥ずかしさに苛まれながらも、しかたないので事の顛末を話した。
すると、結乃は特に照れた様子もなく、
『何もしてないはずだよ。大和の思い込みじゃない? 泣き疲れてたとか』
と笑った。
どうやら、まんまとはめられたようだ。
栞奈め。
大和はどうにも耐えられなくなって「……熱は?」と話をそらす。
『まだ三十八度あるけど、気合で下げます』
そう答える声からは、本当に気合が感じられて、クスッと笑ってしまった。
『あっ、お姉ちゃん戻ってきそうだから、そろそろ切るね』
電話の向こうから、遠くで結乃を呼ぶ声がする。
「うん。思ったより元気そうでよかった。わざわざありがと」
礼を言うと、彼女も『うん』と返してあくびをした。
きっと、きっと大丈夫だ。
『明日、待ってるから』
「絶対行く」
約束を交わして電話を切った後、大和は、安心感に包まれながら目を閉じた。
*
「――で、ここはさっき求めたから……」
「あっ、そっか。全体から、この部分と、この部分を引けばいいんだ」
「そういうことです」
白い個室には、規則正しい時計の音と、ふたりの会話だけが満ちていた。
「じゃあ、今日はこのへんにしとこうか」
結乃が紙に答えを書き終えたタイミングで、大和は言う。
ベッドで上半身を起こし、オーバーテーブルに向かっていた彼女は、シャープペンを置いて大きく伸びをした。
「大和、教えるの上手いね」
「いえいえ。生徒さんが優秀だからですよ」
照れ隠しにそんなことを言って、大和は丸椅子に座り直す。
結乃の言葉通り、「命の拒絶反応」は一日でおさまり、大和は翌日から可能な限り毎日病院へ足を運んでいた。
面会時間は午後三時から八時までだが、リハビリとの兼ね合いや大和の都合もあるので、一緒にいられるのは長くて一時間ほどだ。
女子のおしゃべりなら短いくらいだろうが、奥手なカップルにとっては、とてつもなく長い、ふたりきりの時間。
結乃の打撲の痛みがおさまるまで、最初の二、三日はどうにかこうにか会話をつないでいた。
だが、彼女が「授業、遅れちゃうなぁ……」と呟いたのをきっかけに、勉強を教えることになったのだ。
といっても、大和に一から教えられるほどの頭はないので、復習ばかりだけれど。
それなら志歩のほうが、と思わなくもなかったが、彼女はすでに出来の悪い生徒をひとり抱えていることだし、推薦入試まで時間もない。負担は増やさないほうがいいだろう。
「あーあ、やっぱ算数きらーい」
結乃はめずらしく、ちょっと不機嫌そうに肩を落としてぼやく。今日の授業は、彼女が最も苦手だという、図形の面積、体積の求め方だったので、いつもより頭を使ったのかもしれない。
その横顔をあらためて見てみると、昨日までガーゼで保護されていた額の傷は、すっかり消え去っていた。彼女も年頃の女の子だ。傷跡が残らなくてよかった。
安心感から顔をほころばせた大和に気づかず、結乃はもう一度小さなため息をついて、静かに窓のほうを見つめる。
意識が戻ってから、いつも明るく振る舞っている彼女。けれど、時折こんなふうに、翳りを見せることがあった。
「ねぇ、大和」
ただ名前を呼ばれただけなのに、それはやけに切なく響いた。
テーブルの上のプリントを片付けながら、なるべく自然に、「んー?」と返す。
「生きててよかったって思わなきゃ、ダメだよね……」
心の準備をしていたにもかかわらず、何も、答えられなかった。
きっと周りはそう思うだろう。
脚なんてなくても、また会えて、戻ってきてくれてよかった。
そんなふうに、今の現実を希望として捉えている。
でも、彼女は違う。
その気持ちだけでは、どうしても割り切れないものがあるのだ。
「ごめんね。命分けてもらったのに、こんなこと――」
「ゆの」
大和は彼女の名前を呼び、振り向きざまの頬に――優しく口づけた。
僕がいると、伝えたかった。
馬鹿だと思われるかもしれないけれど、君の中にある絶望が、いつか希望に変わるまで。いや、その先もずっと、そばにいるからと。
家族の前ですら「いい子」でいてしまう君が、「悪い子」の部分をさらけ出せる、そんな存在になってみせるから、と。
ほんの一瞬に、そんな想いのすべてをのせて、届けた。
「この前は知らなか――」
言い終わる前に、塞がれる。
一秒も経たないうちにその安らぎは遠ざかり、彼女の顔に控えめな笑みが咲く。
「誰にも内緒だよ? この歳でキスのしかた覚えたなんて知ったら、お父さんが泣くから」
照れくさそうにはにかんだその表情がたまらなくて、もう一度重ねる。彼女もそっと応えてくれた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
【完結】その同僚、9,000万km遠方より来たる -真面目系女子は謎多き火星人と恋に落ちる-
未来屋 環
ライト文芸
――そう、その出逢いは私にとって、正に未知との遭遇でした。
或る会社の総務課で働く鈴木雪花(せつか)は、残業続きの毎日に嫌気が差していた。
そんな彼女に課長の浦河から告げられた提案は、何と火星人のマークを実習生として受け入れること!
勿論彼が火星人であるということは超機密事項。雪花はマークの指導員として仕事をこなそうとするが、日々色々なことが起こるもので……。
真面目で不器用な指導員雪花(地球人)と、優秀ながらも何かを抱えた実習生マーク(火星人)、そして二人を取り巻く人々が織りなすSF・お仕事・ラブストーリーです。
表紙イラスト制作:あき伽耶さん。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
地獄三番街
有山珠音
ライト文芸
羽ノ浦市で暮らす中学生・遥人は家族や友人に囲まれ、平凡ながらも穏やかな毎日を過ごしていた。しかし自宅に突如届いた“鈴のついた荷物”をきっかけに、日常はじわじわと崩れていく。そしてある日曜日の夕暮れ、想像を絶する出来事が遥人を襲う。
父が最後に遺した言葉「三番街に向かえ」。理由も分からぬまま逃げ出した遥人が辿り着いたのは“地獄の釜”と呼ばれる歓楽街・千暮新市街だった。そしてそこで出会ったのは、“地獄の番人”を名乗る怪しい男。
突如として裏社会へと足を踏み入れた遥人を待ち受けるものとは──。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
瞬間、青く燃ゆ
葛城騰成
ライト文芸
ストーカーに刺殺され、最愛の彼女である相場夏南(あいばかなん)を失った春野律(はるのりつ)は、彼女の死を境に、他人の感情が顔の周りに色となって見える病、色視症(しきししょう)を患ってしまう。
時が経ち、夏南の一周忌を二ヶ月後に控えた4月がやって来た。高校三年生に進級した春野の元に、一年生である市川麻友(いちかわまゆ)が訪ねてきた。色視症により、他人の顔が見えないことを悩んでいた春野は、市川の顔が見えることに衝撃を受ける。
どうして? どうして彼女だけ見えるんだ?
狼狽する春野に畳み掛けるように、市川がストーカーの被害に遭っていることを告げる。
春野は、夏南を守れなかったという罪の意識と、市川の顔が見える理由を知りたいという思いから、彼女と関わることを決意する。
やがて、ストーカーの顔色が黒へと至った時、全ての真実が顔を覗かせる。
第5回ライト文芸大賞 青春賞 受賞作
PROOF-繋いだ手を離したくない-
橋本彩里(Ayari)
ライト文芸
心から欲しいと思うからこそ、近づけない。離れられない。
やっと伝えた思いは絶えず変化し、時の中に取り残される。
伸ばし合った手がやっと繋がったのに、解けていきそうなほど風に吹かれる。
この手を離したくない。
過ごした時間の『証』を刻みつけたい。
「一年前の桜の木の下で」
そこから動き出した二人の関係は、いつしか「会いたい」という言葉に涙する。
タグにもありますが切ない物語。
彼らのピュアで尊い物語を最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
表紙は友人の kouma.作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる