そらのとき。~雨上がりの後で~

雨ノ川からもも

文字の大きさ
上 下
29 / 38
🌈Last time 君は、心の傘

ひとりひとりのSOS

しおりを挟む

 *

 不快な高笑いで目が覚めた。

 ダイニングのほうからだ。母は夜勤で家を空けている。そうでなくとも考えられるのはひとりだけか。――このトーン、かなり回っているようだ。
 こういうことは、今までもままあった。仕事で上手くいかなかったときや、夫婦喧嘩をして、母に口を利いてもらえないときなんかに。

 でも、今日はきっと、そのどちらでもない。
 とても過保護で、弱い人なのだ。

 こんなときはいつも、掛布団を頭までかぶって、「これだから男は」なんて結乃と愚痴をこぼし合ったり、ソルトを抱き寄せて癒しを求めたりするのだけれど、今やそれも遠い夢のようになってしまった。

 最初こそ、まぶたを閉じたり、寝返りを打ったりして、聞こえないふりをしていた志歩。だが、そのうちどうにも見過ごせなくなって、布団から飛び起きた。
 苛立ちのこもった足音を響かせながらダイニングに向かい、力任せに扉を開ける。

「ねえ、何やってんの?」

 おどしつけるように低い声で、問いただす。
 突然やって来た娘の剣幕に、父ははっと息を呑み、言い訳を探すように目を泳がせた。
 その顔面は天狗のように赤くなり、右手には缶ビール。テーブルの上には、空になった同じものが三、四本転がっていた。
 小型テレビの中で騒ぎ立てるタレントたちの声が、耳に障る。

 弱い人なのは知っている。知っているけれど、今回ばかりは許せない。

 志歩は食卓の上にあったリモコンを取り上げると、黙ってテレビを消した。
 心を掻き乱すざわめきが消え去り、強すぎる白だけが照らす部屋。その狭い空間に、一本の糸のように張り詰めた沈黙が降りる。
 父は静かに、飲みかけの缶を食卓に置いた。

「大事な娘が生死をさまよってるっていうのに、よくテレビなんか見て大笑いしてられるよね?」

 バカじゃないの? と暗く沈んだテレビ画面に向かって小声で吐き捨てると、その中の父は、しゅんとしおれたように俯く。

「そういうの、ずるいと思う」

 今度は本人を見据えながら、突き放すように重ねる。父は自分のひざに目を落としたまま、何も言い返さない。その態度が、怒りとむなしさを限界まで這い上がらせた。

「――のよ……」

 冷たいフローリングが、布団の中で中途半端に温まった裸足に、痛いほどみた。

「何なのよ……」

 心の中だけで処理しきれなくなった感情は、しずくとなって頬をつたっていく。

「何とか言いなさいよ、このクソジジイ!」

 涙で震えた声を押し隠すために放った言葉は、自分でも耳を疑うものだった。
 泣き顔を見られたくなくて、とっさに後ろを向く。ほぼ同時に、父が驚きと焦りの音を立てて椅子から立ち上がる。

「ついてくんなっ!」

 あふれだすままに叫び、志歩は玄関を飛び出した。

 *

 遠くで、音がする。
 その音は、だんだんと意識の中に潜り込んできて――

 重たいまぶたを持ち上げ、天井から音のするほうへ視線を移すと、枕もとでスマホが鳴っていた。
 手に取り、目をこすりながら確認する。――志歩から電話だ。

「……もしもし?」

 慶太は通話をつなげてそう応えながら、これまた枕もとのデジタル時計を見やる。深夜二時。

『会いたい』

 こりゃなんかあったな、と寝ぼけた頭で思った。
 普段耳もとでこんな甘い言葉を囁かれたら、鼻血でも噴いて倒れそうなものだが、今は眠気が興奮を抑制してくれているようだ。

「今、どこ?」

 もしかしたら、この問いかけも、彼女にはものすごく不愛想に聞こえているかもしれない。

『あんたんちの前』
「……えっ!?」

 一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。

 すぐさま電話を切って足早に階段をおり、玄関のドアを開ける。――そこには、本当に志歩が立っていた。
 目が合った瞬間、その瞳がみるみる切なげに潤んでいく。言葉でなぐさめている余裕はなさそうだ。

「ちょっ……」

 慶太はとっさに志歩の肩を抱き寄せると、まぶたを閉じ、彼女の唇を自分のそれで塞いだ。

 ――泣くのはいい。ただ、もうちょっと待て。

 ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて重ねる。途中、彼女の目尻にたまった涙が落ち、ほんのかすかな悲しみの味を残していった。
 まさかこんなタイミングで、今までにないほど深いキスをすることになるとは。
 数秒してそっと離れると、思いが伝わったのか、あるいは単に驚いたのか、ひとまず涙は止まったようだ。

 その隙に腕を引き、階段を駆け上がる。そのまま自室へ入ると、一度彼女から離れて、半開きのドアをしっかりと閉めた。
 やっと訪れたふたりきりの静寂の中で、志歩はまだ呆気に取られたような顔をしている、
 慶太はそんな彼女に微笑みかけ、再びふわりと抱き寄せた。

「ごめん。もう、いいよ」

 その言葉を合図に、すすり泣きだす彼女。最初は控えめだった嗚咽も、次第に大きくなり、室内はあっという間に悲しみに包まれた。
 小刻みに肩を震わせて泣きじゃくる彼女を、ただ静かに受け止める。

 泣きながら、「ほんと何なのよ、もう!」「あのヘタレ!」と憤っていたから、おおよそ父親絡みだろうと推測はできた。だが、いつもの親子喧嘩とは、いささかわけが違うようだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~

八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」  ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。  蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。  これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。  一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完結】その同僚、9,000万km遠方より来たる -真面目系女子は謎多き火星人と恋に落ちる-

未来屋 環
ライト文芸
――そう、その出逢いは私にとって、正に未知との遭遇でした。 或る会社の総務課で働く鈴木雪花(せつか)は、残業続きの毎日に嫌気が差していた。 そんな彼女に課長の浦河から告げられた提案は、何と火星人のマークを実習生として受け入れること! 勿論彼が火星人であるということは超機密事項。雪花はマークの指導員として仕事をこなそうとするが、日々色々なことが起こるもので……。 真面目で不器用な指導員雪花(地球人)と、優秀ながらも何かを抱えた実習生マーク(火星人)、そして二人を取り巻く人々が織りなすSF・お仕事・ラブストーリーです。 表紙イラスト制作:あき伽耶さん。

日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~

海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。 そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。 そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。

僕の目の前の魔法少女がつかまえられません!

兵藤晴佳
ライト文芸
「ああ、君、魔法使いだったんだっけ?」というのが結構当たり前になっている日本で、その割合が他所より多い所に引っ越してきた佐々四十三(さっさ しとみ)17歳。  ところ変われば品も水も変わるもので、魔法使いたちとの付き合い方もちょっと違う。  不思議な力を持っているけど、デリケートにできていて、しかも妙にプライドが高い人々は、独自の文化と学校生活を持っていた。  魔法高校と普通高校の間には、見えない溝がある。それを埋めようと努力する人々もいるというのに、表に出てこない人々の心ない行動は、危機のレベルをどんどん上げていく……。 (『小説家になろう』様『魔法少女が学園探偵の相棒になります!』、『カクヨム』様の同名小説との重複掲載です)

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

処理中です...