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てのひら
しおりを挟む「ごめんね。お兄ちゃん」
弟はまだすこし苦しそうな息づかいで僕に言った。
「なんであやまるんだよ」
「だって、僕のせいでいっぱいがまんしてるでしょ? めいわくかけてるでしょ?」
胸の奥がちくりと痛む。
「いいんだよ、そんなの」
こんなありきたりなことしか言えない自分がくやしい。
「じゃあ行ってくるな」
あたたかそうな布団にくるまっている弟の頭をそっとなでて、静かに部屋を出た。
あの夜は、節分の日に保育園で鬼に追いかけられたときより、遊園地で初めてジェットコースターに乗ったときより、ずっとずっと怖かった。
「ねえ、どうしたの? 苦しいの?」
どれだけ問いかけても、弟は返事ひとつしてくれない。返ってくるのは、のどもとから聞こえてくるおかしな音と、つらそうにせき込む声だけ。
ふるえる手をかたくにぎりしめて長いろうかをすべるように走り、いそいで母さんと父さんを呼びに行った。
どうしてそばにいてくれなかったんだ。
リビングの明かりとふたりの笑い声に、どうしようもなく腹が立ったのを覚えている。
僕らを寝かしつけた後はいつもそうしていたのに。今に始まったことじゃないのに。
怖くて心細い気持ちは怒りにかわって、そのうち涙がぽろぽろ出てきて止まらなくなった。
「小児ぜんそくですね」
救急車に乗ってかけつけた先の病院で、先生は落ち着きはらってそう言った。
ずいぶん前にひどい風邪をひいてから、せきだけがいつまでも残っていたので両親も心配していたのだけれど、どうやらこいつが悪さをしていたらしい。
あれからもう二年がたつけれど、弟はちっともよくならない。
ぜんそくは思っていたよりはるかに重かった。毎日数え切れないほどの薬を飲み、どんなときも吸入器が手放せない。
今年の春、僕の中学入学と同時に待ちに待った小学校デビューをはたしたものの、あまりなじめずにいるようだ。無理もないだろう。あいつは、みんなと走り回って遊ぶことすら許されないのだから。
「すこしでも空気のいいところに――」「主治医の先生が転勤したから――」
そんな理由で引っ越しや転校も何度か繰り返している。
「めいわくかけてるでしょ?」
ふと、今朝の切なげな表情が頭をよぎって、唇をきつくかんだ。
めいわくだなんてそんな。
弟のためなら何でもしてやりたいと思っている。何度引っ越して、親しい人たちとはなれることになっても、あいつがよくなるのならそれ以上にうれしいことはない。
でも、
でも自分は、本当に力になれているのだろうか。
どれだけ空気がきれいな場所に行っても、どれだけ大きな病院に行っても、弟の病気が治るわけではないのだ。症状がよくなる様子もなければ、病院の先生もいつも同じようなことばかり言う。
「大変よね。あなたも」
「いいお兄ちゃんだわ」
そんなセリフを耳にたこができるほど聞いた。
「いえ、そんなこと」
こんな言葉も口がすっぱくなるほど言った。そのたびに、ほっぺを引き上げて無理に笑った。
「こんなの、いやだ」
たまらず吐き出すと、肩のあたりがふいにひんやりとした。
見上げると、さっきまできれいなオレンジ色だったはずの空が、いつの間にか灰色の厚い雲におおわれている。
もしかして……
大つぶの雨水がアスファルトにはげしく打ちつけ始めたのは、折り畳み傘を広げたのとほぼ同じタイミングだった。
こんなこともあろうかと、スクールバッグに雨具を入れておいて正解だ。
傘を片手にしばらく歩くと、いつもの公園が見えてきた。
止まるな。僕の目的地はここじゃない。
言い聞かせておきながら、結局は立ち止まってしまう。
首を右に回すと、目に入るのは見慣れた小さな段ボール箱。
数日前まではにぎやかな子猫の声がひびいていたけれど、それも日がたつにつれてだんだん小さくなっていた。何度か引き取られるところも見たことがある。
今日はやけにしずかだ。もうみんな拾われたのだろうか。
うずうずとした気持ちが、僕の決心をゆさぶった。まるで誰かに背中をぽんと叩かれたみたいだった。
一歩一歩ふみしめて、そーっと段ボールの中をのぞきこむ。
――いた。
空の雨雲と同じ色をした子猫が一匹、タオルのまんなかで丸くなってねむっている。
僕の気配に気づくとぱっと顔を上げ、けいかいしたように毛を逆立てた。
「あっ、ごめん。びっくりさせたな」
あやまると、子猫はくりくりした目で僕を見つめて、甘えるように小さく鳴いた。
やめてくれよ、そんなこと。
「お前、捨て猫か?」
そう言った自分の声は、笑ってしまいたくなるほど不自然だった。
すこしかがんで子猫と目線を合わせる。そばにこられただけで大満足だったのに、勝手に手が伸びてしまった。
「ざんねん。うちじゃ飼ってやれないなぁ」
子猫の頭をなでながら、どこか冷たい先生の声がまたよみがえる。
「ペットはぜったいに飼わないでくださいね。発作の原因をわざわざおくようなものですから」
気をまぎらわそうと、子猫の身の周りをくるりと見わたしてみる。
みだれた毛並み、雨でふやけた段ボール箱。
「誰がおいていったか知らないけど、もうちょっと考えてやればいいのに。段ボールなんて雨にぬれたらすぐダメになる」
それに、空っぽのお皿がふたつ。
「おまけにエサも水もない」
深いため息をついて、折り畳み傘を雨と泥でぐしょぐしょになった段ボール箱に立てかける。
「たいして役に立たないだろうけど、ないよりマシだろ」
かわりにスクールバッグを頭に乗せる。子猫のきょとんとした表情に思わず笑みがこぼれた。
「じゃあな」
自分はなんてずるいんだろう。
自然と顔がほころぶのが分かって、あわてて後ろを向いて走り出した。
家に帰ると、母さんが玄関先で目をぱちくりさせた。
「どうしたの、びしょぬれじゃない」
「急に降ってきたから、傘持ってなくてさ。こいつにがんばってもらった」
冷たくなったスクールバッグを頭からおろして、えへへと笑う。
「がんばってもらった、じゃないの。もう。シャワー浴びてきなさい」
「へーい」
あきれ顔の母さんにスクールバッグをあずけ、そそくさと脱衣場へ向かう。ぬれた衣服をせんたくかごへ放り込むと、浴室に入ってシャワーをひねった。
すこし熱めのお湯が、気持ちよく冷えた体をあたためていく。
弟のぜんそくが分かってから、母さんはやたら健康に気を使うようになった。
毎日バランスのとれた食事を三食きっちり食べさせ、夜更かしや二度寝はぜったいに許さない。ちょっと鼻水でもたらしていようものなら、青ざめてあれやこれやと走り回る。
今朝も弟が軽い発作を起こして大騒ぎだったのだ。
うんざりしてしまうこともあるけれど、母さんは母さんなりに必死なのだろう。もう二度と、同じ失敗を繰り返さないようにと。
お風呂から上がって向かったのは、弟のいる寝室だ。幼い頃、家族そろって布団を川の字に並べた思い出の場所でもあれば、あの日、それまで生きてきて一番怖いことが起こった場所でもある。
今は僕とふたりで二階にある子供部屋で寝起きしているのだけど、発作が起きたときは何があってもすぐかけつけられるように、ここで体を休めているのだ。
まだ、この部屋のドアノブをにぎるには、ちょっぴり勇気がいる。
「ただいまー」
小さく言って中をのぞくと、弟がにっこり笑った。
「おかえり、お兄ちゃん」
今朝より呼吸も落ち着いて、顔色もいい。布団から起き上がっているところを見ても、だいぶ楽になったようだ。
「大丈夫か?」
「うん。もう平気」
元気そうに答える弟のそばでひざをかかえる。
「今日さ、子猫に会ったんだ」
言うと、弟は満面の笑みを浮かべて目をかがやかせた。
「え? ねこ!?」
「そう。今日の雨雲みたいな色したちっちゃいの」
「どこにいるの!?」
すっかり興味しんしんだ。
「うーん、近所の公園……かな」
言葉をにごすと、何かをさっしたように弟の表情がくもった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
突然、弟が僕のてのひらに自分のてのひらを重ねる。
「その子猫のとこ、毎日行ってあげないとダメだよ?」
思いもよらない発言に、なんだか心臓がどきりとした。
「ぜったいだよ」
僕を見つめる弟のまなざしは、しんけんそのものだ。
「……分かった」
押し出すように答えると、また弟の顔がぱっと明るくなる。それはもう、見ているこっちがまぶしく感じるくらいとびきりの笑顔だった。
「約束。またお話聞かせてね」
弟が差し出した小指に自分の小指をからめる。
「ゆびきーりげんまーん、嘘ついたらはり千本のーますっ。指切った!」
それからは毎日かかさず子猫のところに通った。
学校帰り、家から猫が好きそうなものをこっそり持ち出しては、それと水の入ったペットボトルを片手にまた公園へ向かう。
最初に持っていったシーチキンをぺろりと平らげてくれたのがうれしくて、メニューは日に日に豪華になっていった。
いつだったか、冷凍庫にしまわれていたまぐろのさしみにまで手を伸ばしてしまったのは、誰にも言えないひみつだ。
子猫のおやつタイムを見届けて家に戻った後は、弟にその日の様子を聞かせてやる。
そんなふうに毎日を過ごすようになって、どれくらいたっただろうか。年も終わりに近づいたある日、僕らの街に初雪がふった。
下校後、いつもより厚手の服を着込んで家へ向かっている途中、上着のポケットに入れていた携帯が音を鳴らす。
見ると、母さんから着信だった。
「もしもし?」
出ると電話口で疲れたような声が返ってきた。
「あ、もしもし? 悪いんだけど今家に誰もいないから、帰ったら病院にきてくれる? あの子が学校で発作起こしちゃったもんだから……」
秋の初めに軽い発作を起こしてからは、病院に走らなければならないような症状は出ていなかったので、久しぶりのことにあたふたしているらしい。
しばらく入院することになったから、家には寄らずそのまま病院にきてほしいとのことだった。
電話を切ってから、ふたつのことが頭に浮かんだ。
子猫のかわいらしい鳴き声と、弟の笑顔。
――どうしようか。
「ぜったいだよ」
ふと、弟のうれしそうな声がこだまする。からめた指はやさしくてあたたかかった。
そうだ、約束したじゃないか。
足早に歩き出す。靴ごしに感じる雪のふわふわした感触が心地いい。白い息を吐きながら、公園へと続く道をたどっていった。
「おい、雪だぞ! 雪!」
僕の声に子猫は起き上がり、段ボール箱からひょいっと顔を出した。
雪で子猫の灰色の毛もところどころ白くなっている。
めずらしそうに雪をながめる子猫につられて、空を見つめた。ボタンみたいに大きな雪のつぶが次から次へと地面に落ちていく。
「そうだ。おやつだったな」
思い出して缶詰めのふたを開ける。
手ぶらで行くわけにもいかないので一度家に戻ってみたけれど、そうそう新しいものが増えているはずもなく、困ったときのシーチキンになってしまった。
まあ、結構気に入ってくれているようだから、それはそれでいいのかもしれない。
缶詰めの中身をお皿にうつしてやると、子猫は「待ってました!」と言わんばかりに夢中になって食べ始めた。
そんな姿を見ていたら、胸の奥がちくりと痛んだ。あの朝と同じように。
「本当はずっとそばにいてやれたらいいんだけど……」
のどが焼けつくように熱い。
「毎日お前の好きなところに行って、おいしいものをたくさん食べて、こんな日はいっしょにコタツで丸くなってさ」
いいのかな?
ちゃんと飼ってやれもしないのに、こいつは僕といて本当に幸せなのだろうか。
毎日似たようなえさをあげるのがせいいっぱいで、後は何もできないのに。
そう、弟のことだって……
僕はいつも中途半端だ。
いくらがんばったって、いくらがんばっているように見えたって――
と、生あたたかくてザラザラしたものが触れた。
おどろいて目をやると、子猫が僕の手をなめている。
「……」
ありがとな。そう言おうとしたけど言えなくて、子猫の頭をくしゃくしゃに、くしゃくしゃになでた。
何があっても弟との約束をやぶってはならない。
初雪の日のことがあってから、前よりも強くそう思うようになった。
ずっとそばにいてやれなくても、えさをあげることしかできなくても、あいつがたよれるのは僕だけなんだ。なぐさめるように僕の手をなめるつぶらなひとみがそう言っていた。
弟のしんけんな表情の意味も、今なら分かる。
今日も僕は公園へ向かう。小つぶの雪が風に吹きあれているけれど、そんなの気にしない。
えさと冷たい水を持って、白い息を吐きながら、雪の中を足早に歩いていく。
「おーい、今日も――」
何気なく段ボール箱の中をのぞいた瞬間――背筋がひやっとした。
さっきまでの生き生きした気持ちも、風に飛ばされた風船みたいにどこかに行ってしまった。
「……お前、大丈夫か?」
そう言った自分の声はおびえたようにふるえていた。子猫が力なく返事をする。
苦しそうな子猫の息づかいが、二年前の夜を思い出させて、いやな汗が流れた。
「待ってろ。今病院っ……」
考えるより先に手が動いていた。たしか近くに動物病院があったはずだ。
抱き上げた小さな体はすっかり冷えきっている。
「がんばれ! がんばれ!」
お願いだ、間に合ってくれ。
「ごめん。ごめんな」
どうしてもっと早く気づいてやれなかったのか。もうこんな思いはしたくなかったのに……
あふれそうになる涙を必死にこらえて雪の上を走った。
自分に泣く資格なんてないんだ。今はただこいつを助けることだけ、一生懸命に生きようとしているこいつを救うことだけ考えるんだ。
考えて、考えて、走れ。
走れ、走れ、走れ――――
病室に入ると、弟がぼんやり外をながめていた。
僕に気づくと「おかえり」とほほえみかける。
「母さんは?」
ベッドのそばに置かれたイスにはいつも母さんが座っているはずだが、今日はバッグがちょこんとのっているだけだった。
「先生とお話してる。許可が出れば明日退院できるんだって」
「そっか。よかったな」
言いつつバッグを床におろして、空いたイスに腰かける。
「もしかして、子猫だっこしたの?」
突然の質問に自分の服を見ると、灰色の毛がたくさんくっついていた。
おっと、いけない。
「ああ、これは……まあ」
答えながらあわてて上着をぬぐ。そのまま持っているわけにもいかないので、しかたなくさっきおろした母さんのバッグの奥に押し込んだ。
こんなことが知れたら、とてつもないカミナリが落ちるだろう。想像しただけで身ぶるいがした。
「いいなぁ。僕もしてみたい」
のんきな弟の声に鼻の奥がつんとした。
「なあ……」
ベッドのわきに顔をふせて問いかける。――もうダメだ。
「なあに?」
分かっているのかいないのか、弟はみょうに明るく聞き返した。
「幸せだったかな? あいつ」
しぼり出した声はかすれている。
弟は何も言わずに、僕の頭に手をのせた。
「幸せだったかな……」
二度目の声はもっとかすれていた。目のあたりがじんわりと熱い。
「――幸せだったよ。きっと」
こらえていたものが一気にあふれ出す。続けようとした言葉はもう声にならなかった。
「お兄ちゃん、あんなにがんばってたんだもん。僕、ちゃんと知ってるよ」
子どものように泣きじゃくる僕の髪をなでるてのひらは、あったかくてとても大きく感じた。
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