鈍すぎるにも程がある

文月 青

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県営球場の三塁側スタンドに足を運ぶと、既にお馴染みの顔触れが揃っていた。中程の席に座っている脇坂と和泉さん、フェンス際で肩を回している野球少年と、彼に話しかけている葉菜の友達カップル。春季大会の県予選準々決勝ともなれば、さすがに高校生以外の観客も多い。おそらく日曜日なので、野球好きの社会人が詰めかけているのだろう。

「こんにちは」

脇坂と和泉さんに挨拶をしてから、葉菜は野球少年の元に行った。脇坂の微妙な表情が何とも切ない。

和泉さんに釘を刺されたせいなのか、それとも他に何か思うところでもあるのか、葉菜は野球観戦に脇坂を誘わなかった。一方の脇坂も和泉さんが葉菜に手出しするのを警戒し、要求を呑むに至っている。さっさと好きだと言ってしまえば、こんなややこしいことにならずに済んだのに、二人共何故頑なにその一言を口にしないんだか。

ふと見ると野球少年が脇坂の方を睨んでいる。玉砕して友人の座に収まった彼にしてみれば、脇坂の行動は理解し難いのだろう。もっとも少年と葉菜が笑う度に苛々と足を揺らすので、脇坂が嫉妬しているのがもろばれているけれど。

試合開始まではまだ時間があるので、俺は手招きして通路に脇坂を呼び出した。葉菜のためにも和泉さんの隣から離したい。

「珍しく嫉妬しているのが態度に出ているのに、肝心の葉菜が見ていないんじゃなあ」

まだ野球少年と話し込んでいる葉菜の後ろ姿を、食い入るようにみつめる脇坂が少し不憫に思えてきた。

「俺、妬いてるのか?」

視線を逸らさずに訊ねる脇坂。  

「水島があいつといると、むしゃくしゃして仕方がない」

考えてみれば女嫌いの脇坂に、この手の感情が湧いたのは初めてかもしれない。きっと正体が分からなくて、自分で自分の気持ちを持て余したことだろう。

「妬いてるよ。可愛いくらい」

「ば、ばかやろ、ふざけんな」

その程度の揶揄いに動揺するあたり、冗談抜きで可愛いから怖い。

「そろそろ大事な二文字を伝えてみない?」

監督からの集合がかかり、野球少年がダッグアウト前に移動したのを見計らって、俺は諭すように脇坂に言った。葉菜がこちらを振り返り、ゆっくり階段を上ってくる。

「野球少年に限らず、他の誰かが葉菜に近づいたら、ずっとその気持ちを抱えていかなくちゃいけないんだよ」

苦しげに脇坂が唇を噛んだ。

「今のうちにトイレに行ってくるね」

通路に辿り着いた葉菜がそう断って、俺達の横をすり抜けてゆく。続々と観客が席を埋めていく中、脇坂は人の流れに逆行するように葉菜を追った。

「水島!」

葉菜がトイレに入る前に、脇坂は辛うじて彼女の腕を掴んだ。そのまま人気のない隅の方に引っ張ってゆく。

「どうしたんですか?」

まさか脇坂が自分を追いかけてくるとは思っていなかったのだろう。呆気に取られた様子の葉菜は、抵抗することなく後ろを歩いている。俺はコンクリートの柱の影から、こっそり…でもないけれど二人を窺った。

「帰るぞ」

葉菜の腕を離すなり、また前後の脈絡なく脇坂が切り出した。

「でも試合はこれからですよ」

驚くことなく答える葉菜。 脇坂の唐突な言動には突っ込まず、素直に相手ができるのは、やはり彼の性格を理解している証拠。

「俺が帰るときは水島も一緒だ」

「今日は兄と和泉さんが、それぞれセットですよ」

デザートを指すような口調で、やんわりと入る葉菜の訂正に、脇坂は苛々と髪を掻きむしる。ここで短気を起こしたら元の木阿弥だ。

「あとでちゃんと詫びる。今は水島を球場に置いておきたくない」

努めて冷静に脇坂が続けた。彼にしては上出来だが、野球少年の傍にいて欲しくないと言えないところが、この上なくもどかしい。

「しつこくルールの説明を求めたりしませんよ?」

「分かってる。いや、分かってない」

「分かってますって」

「分かってないって」

何だかなあ、この夫婦漫才。フォローするべきなのか放っておくべきなのか、頭を悩ませる俺の前で、脇坂がこれまた責任転嫁をする如く言い募る。

「どうして水島はいつも見当違いなことばかり口にする。俺は試合を見せたくないわけでも、ルールを教えるのが嫌なわけでもない」

「和泉さんと一緒に車で来たのではないのですか? 先に帰っては拙いのでは」

「別々だ。俺の車に水島以外の女は乗せない」

「では何故なにゆえ?」

「それを聞くか。水島が好きだからに決まってるだろうが。大体お前は鈍すぎる。毎回毎回和泉が和泉がっていい加減にしろ」

脇坂が葉菜に対して珍しく憤慨しているので、一瞬錯覚を起こしたかと疑いたくなったが、確かに俺の耳は好きだという言葉を捕らえた。怒りに任せてはいるものの、葉菜にも間違いなく届いたらしい。顔が熟れたトマトのようになっている。これまた珍しい光景だ。

ようやくこの日が来た。お兄ちゃんは嬉しいよ。正に感無量の状態で俺は葉菜から脇坂に視線を移した。ところが妙なのである。一方の脇坂は耳の色一つ変えていない。いくら表情に出にくいとはいえ、仏頂面のまま腕組みをして仁王立ち。とても恋心を伝えたばかりの男には見えない。

「顔が赤いぞ。具合でも悪くなったのか?」

しかも眉を顰めて葉菜を窺っている。そこで葉菜が硬直したのが分かった。まさかとは思う。でも脇坂なら充分あり得る。

ーー自分が告白したことに気づいていない。

「とりあえずうちまで行くぞ。熱が上がる前に横になれ」

しかも葉菜が風邪だと決めつけている。それはどう考えても恥じらっているせいではないか。鈍すぎるにも程があるだろう。脇坂の台詞ではないけれど、試合開始を知らせるサイレンが俺には試合終了の合図に聞こえた。





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