結婚三箇条

文月 青

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翌朝、柿崎さんは台所に立ち寄ることなく出勤しました。夕食も外で済ませてきたようで、お風呂に入った後はずっと二階で過ごしていました。何だか本格的に(?)家庭内別居状態になりそうで怖いです。
 
それが数日続いたある日、久々に二階から私のスマホに電話がかかってきました。梅雨入りをした小雨が降る蒸し暑い夜でした。

「しばらく忙しくなるから、帰りが遅くなると思う。先に休んで構わないが、戸締りだけはしっかりするように」

逸る気持ちを抑えつつ、いつも通りもしもしと言った私に、連絡事項のみを一方的に伝えて、あっという間に電話は切られました。結婚当初より不毛な感じです。

昨日の告白は一体何だったのでしょう。柿崎さんは最初から私が好きだったと、自分が私との結婚を望んだと告げました。なのに返事も聞かずに避けるのは何故なのでしょうか。柿崎さんの行動の意味するところが分かりません。

これではまるで嫌われているようで、私の心は梅雨空の如く雲るばかりでした。




もともと一人暮らしに近いものでしたが、いざ本当に柿崎さんが二階にいないとなると、広い家で迎える夜は想像以上に不安でした。雨が葉っぱを濡らす音や、かさっというビニール袋の音さえ、やけに大きく響きます。

特に観たくもないテレビをつけ、近所迷惑にならない程度にボリュームを高くして、真帆お勧めの本のページを繰っていると、ふいにチャイムが鳴りました。時刻はもう二十一時を回っています。

柿崎さんは自分で鍵を開けて入ってくるので、私を呼び出すことはありません。他の人の家と間違えているのでしょうか。

自分の部屋で様子を窺っていると、何度か忙しくチャイムを鳴らされた後、男の人の声が聞こえました。

「隣の佐々木です。遅くにすみません」

お隣は確かに佐々木さんですが、実家の両親と同年代のご夫婦と、二十代半ばの娘さん、それからおばあちゃんの、四人家族だったと記憶しています。

「何かご用ですか?」

私は部屋を出て玄関に向かいました。引戸を開けずに訊ねます。

「あれ? 省ちゃん、いえ柿崎さんは?」

名字を口にしたことよりも、「省ちゃん」の一言で私はほっと胸を撫で下ろしました。どうやら本当にお隣さんのようです。

「まだ仕事から戻っておりませんが」

相手はよほど焦っているらしく、私が誰かを問う間も惜しんで言いました。

「ばあちゃんが急に苦しみ出して。手を貸して欲しいんだけど」

それを聞いて私はみっともないことに、お風呂上がりのパジャマ姿で飛び出しました。




「全く、君という人は! 留守番も満足にできないのか!」

私はお茶の間で柿崎さんに、こんこんとお説教をされています。かれこれ一時間。現在二十四時を回っています。

「戸締りはしっかりとあれほ…っ!」

足が痺れて涙目で助けを請うと、柿崎さんはぐっと言葉を詰まらせました。はーっと疲れたように息を吐いて視線を逸らします。

事は隣の佐々木さんが訪ねてきたところから始まります。

「ばあちゃんが急に腰が痛いと言って、そのまま唸ってるんだ」

引戸の前に立っていた大学生くらいの男の子は、雨でしっとりした髪を振り乱し、自分の家へと駆け出しました。

開け放たれた隣家のドアの向こうには、廊下に倒れているおばあちゃんの姿が見えます。意識はあるようで、腰に手を当てて呻き声を洩らしています。

「失礼します」

歩み寄ると額には汗が浮いていました。

「大丈夫ですか?」

体に触って良いのか判断がつかなかったので、耳元でゆっくり囁きます。痛みで声が出ないのか、おばあちゃんは頷くので精一杯です。

「親と姉貴は出かけてて」

佐々木さんが顔を顰めます。その間もおばあちゃんは苦しんでいます。何が起こっているか分からない以上、私達に出来ることはありません。むしろ勝手な振る舞いをして、おばあちゃんを危険に晒しては大変です。

「救急車をお願いしましょう」

そんな事態は私も佐々木さんも初めてで、慣れない電話に四苦八苦しましたが、ちょうどそこにご両親とお姉さんが帰ってきてくれたので、後はお任せした次第です。

「こんな時間にごめん。助かったよ」

私を自宅まで送りがてら、佐々木さんはやっと安堵の笑みを浮かべました。

今春高校を卒業したという、私と同い年の佐々木さんは、遠方の大学に入学して家を出ていたのだそうです。三日後に控えたお姉さんの結婚式に出席するため、ついさっき帰省したところ、おばあちゃんが一人倒れていたというわけです。

ちなみに佐々木さんは私が柿崎さんの嫁と知って、めちゃくちゃ驚いていました。

「犯罪だろ、省ちゃん」

大抵の方と同じような反応ですね。

「大きな病気じゃないといいね」

励ますつもりで言ったのですが、自分の方がよほど気が緩んでいたのでしょう。私は自宅の玄関前で見事に転んでしまいました。

「柊子ちゃん意外とドジだね」

子供みたいに泥だらけの私を、佐々木さんが抱え起こしたとき、ちょうど仕事を終えた柿崎さんが戻ってきたのです。

「何を笑っている?」

たぶんひとりでに笑みが零れていたのでしょう。目の前の柿崎さんが眉を釣り上げました。

「ごめんなさい」

私は崩れかけた足を揃えて謝ります。不思議ですね。叱られているのに嬉しいのです。

例え寄り添っていなくても、同じ家の中に柿崎さんがいてくれるだけで、私は安心して暮らせていたのですね。自分が守られていたことを、今頃になって知りました。



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