結婚三箇条

文月 青

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またやってしまった。そう言いたげな表情で柿崎さんは肩を落としました。冷静な人だと思っていましたが、このところうっかり屋さん気味です。そのちょっと悔しそうに唇を噛む仕種に、お陰様で私の方が落ち着きを取り戻すことができました。

「割と面倒な人ですね、柿崎さん。嫌ならどうしてバイトを勧めるんですか」

布巾で自分が零したコーヒーを拭きながら、私は呆れたようにため息をつきます。

「面倒って、君が仕事をしてみたいと言っていたからだろう。若いのに家に閉じ込めておいても可哀想だし」

若いという表現におじさんの匂いを感じることは黙っていませう。

「社会勉強はしたいです。でも今のまったりした生活を犠牲にしてまで、無理に働こうとは考えていないのですが」

もちろん工藤さんの言葉も大きいです。齧ってみたいという気紛れな職場体験では、会社に多大な迷惑をかけてしまいます。

「家計が苦しいなら話は別ですよ。ちゃんと職探しもしますし」

ついでにテーブル全体を拭いて、汚れた布巾を洗っていると、いつのまにかマグカップには新しいコーヒーが注がれていました。

「今のところ、その心配はない」

バツが悪そうに視線を逸らす柿崎さん。

「ではどうしますか? 工藤さんへの返事」

「俺が決めるのか?」

慌てたように視線を私に戻します。

「私が決めていいんですか?」

しばしお互いの顔を眺めた後、柿崎さんは頭を掻きながら囁きました。

「できれば今回は、諦めてくれると有り難い」

教科書でも読むような抑揚のない声。

「どうしましょうね」

「え!」

ぼやく私に柿崎さんは青ざめました。あまりにも沈んだ様子につい吹き出してしまったら、揶揄われたと気づいたのでしょう。がっくりと項垂れました。

「最近、柊子くんに手玉に取られているよな、俺」

「男も知らない小娘ですよ? 私」

「揚げ足取るなよ」

落ち込む三十過ぎの男性が可愛らしくて、けれど怒るでしょうから必死で笑いを噛み殺しました。柿崎さんは拗ねたのかしばし無言でコーヒーを飲んでいるので、私はその間に朝食用のサンドイッチを作り始めます。昨夜茹でておいた卵に、ハムやチーズやレタスを挟んだだけの簡単な物ですが、充分お腹が膨れますし焼いても食べられます。

「年の差のせいなのかな。俺には柊子くんの思考回路は理解し難い」

徐に柿崎さんが呟きました。

「一旦お茶の間に移動してもいいですか?」

出来上がったサンドイッチとコーヒーをトレイに乗せ、断りを入れてからいそいそと台所を出ます。空腹が顔に現れていたらしく、柿崎さんは苦笑しながら頷いてくれました。向かい合って正座してから、私は先程の柿崎さんの台詞に反論しました。

「こっちも同じですよ。もっとも私の場合、柿崎さんと同年代の男性の見本が叔父さんですから、根本的に間違っていますけど」

「あぁ、あいつは素直ではあるがな」

私はそこでサンドイッチに手を伸ばしました。けれど目の前の柿崎さんが食事をしていないのに、一人で食べるのはさすがに気が引けます。条例違反(?)と注意を受けたらそれまでと、私はサンドイッチの皿を座卓の中央にずらしました。

「よかったら一緒に如何でしょうか? 柿崎さんに頼まれて作ったわけじゃないので、お世話したことにはならないと思うんですが。それに残り物一掃を図っているので、手伝ってもらえると非常に大助かりです」

説得しようという意思が見え見えですね。でも温泉宿で一緒にご馳走を頂いたとき、私は食がいつも以上に進みましたし、柿崎さんも完食していましたから。まぁ食事の内容は月とすっぽんなので、胃に拒否されたらそれまでですが。

「いいのか?」

ところが予想外の問いが返ってきました。

「あんな三箇条を突きつけておいて、母さんが泊りに来たときも今も、勝手に、その、都合よく…」

やはり自分の出した三箇条に捕らわれているようです。なので私は自信を持って答えました。

「つくづく面倒ですね。四の五の言わずに食べて下さい。味は保証しませんが」

「はい」

小学生よろしく首を縦に振ると、柿崎さんは私と同時にサンドイッチを口に運びました。ゆっくり噛み締めてから目尻を下げます。

「美味い」

どうやら朝食は好きで抜いているのではなさそうです。えぇ、全くもって理解し難い思考回路です、この方。

「もしかして白い結婚だけじゃなく、三箇条全て父との約束なのですか?」

思いついたまま訊ねると、二つ目のサンドイッチを食べていた柿崎さんはあっさり否定しました。

「いや、あと二つは自分への縛めってとこだ」

縛めとはまた物騒な感じがします。

「せめて夫婦生活がない一年は、君に負担をかけないよう、君を路頭に迷わせないよう」

「相変わらず意味不明ですが、三箇条は私だけじゃなく、柿崎さん自身に対してのものでもあるのですね?」

何気なく確認したら、柿崎さんは君には隠し事ができないなとぼやいて立ち上がりました。

「そろそろ行かないと。ごちそう様。本当に美味かったよ」

壁の時計を見て苦笑しつつ、お茶の間を出て二階に駆け上がっていきました。去り際に今日は片倉の来襲に感謝しようと洩らして。





     
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