結婚三箇条

文月 青

文字の大きさ
上 下
7 / 40

7

しおりを挟む
四月に入り麗らかな日が続いています。その後私と柿崎さんの関係が劇的に変化したかというと、全くそんなことはなく、これまで通り彼は彼のペースで、私は私のペースで生活しています。それでも顔を合わせれば三分以上話すようになりましたし、手を貸してほしいときは遠慮なくお願いしています。

母についても特にタブーとなるわけでもなく、柿崎さんの抱いている「香苗さん」像と、私の見てきた母の姿を教え合ったりして、妙ですが二人を繋ぐ共通の話題の役目を果たしてくれています。

そうそう結婚一ヶ月にして、やっと柿崎さんの会社での業務内容を知りました。父と勤務先が同じなので、洗剤や化粧品を扱う化学メーカーだとは知っていましたが、柿崎さんはそこで商品開発に携わる技術職に就いているのだそうです。

正直ちんぷんかんぷんです。新商品の安全性がどうの、量産ラインがこうのと説明されても、頭の中がもやもやして何も浮かびません。とりあえず係長だということだけは覚えました。つくづく一度は社会に出ることが必要だと痛感します。

「せめて週に三日でも、バイトをしてはいけないでしょうか?」

実は私はアルバイトの経験もありません。あまりの箱入り加減に柿崎さんも驚いていました。なのでこのままではただの世間知らずで終わってしまいそうで怖いです。

「検討しよう」

渋々了承してくれたものの、納得していないのがありありです。柿崎さんはずいぶん変態チックな理由を上げていましたが、私を専業主婦にしたのは上司の娘に苦労はさせられないと、気を使った部分が大きかったようなのです。

「社会勉強だと思って頂ければ」

「柊子くんの場合、違う勉強になりそうで嫌なんだけどね」

絶対同僚の恋愛に興味津々になるでしょ、とため息をつく柿崎さん。一体どういう意味でしょう。私は自分の手でお金を稼いでみたいだけなのですが。まぁちょっとは、興味ありますけれど。いいじゃないですか。疑似体験くらい。自身で経験する筈だった大人の恋は砕けちゃったんですもん。しかも懲りずにこの会話も電話で行われているんですからね。




「いい匂いだな」

洗面を終えた柿崎さんが台所に顔を出しました。彼が寝坊することはまずありません。一人で起きてトイレに行って顔を洗ってコーヒーを淹れる。これが朝のルーティンです。

「お弁当を作っているんです」

残念ながら桜は大分散りかけているので、いずれ近況報告を兼ねてお花見ならぬピクニックをしようと、昨夜真帆からお誘いがあったのです。

「花嫁修業も兼ねているんですけどね」

「花嫁修業?」

コーヒーメーカーのスイッチを入れてから、柿崎さんは狐につままれたような顔で私を眺めます。

「仕事はもちろん、私家事もできませんから」

柿崎さんのお世話が要らないということで、家事はすべからく手抜き状態でした。なのでせめて一階だけでも居心地よくしようと、まずは掃き掃除や拭き掃除から頑張ることにしました。料理は数をこなすしか道がなさそうなので、入門書と首っ引きでちゃんと三食作ることを目指しています。

「君は俺の嫁だった筈だが」

二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、柿崎さんは苦笑しながらその一つを私に差し出してくれました。このところ私のコーヒーも彼が淹れてくれます。一旦手を止めてそれを一口含み、私は満面の笑みで答えます。

「でも私達仮面夫婦ですから!」

結婚の経緯を知らせた真帆が、私と柿崎さんの関係は正しくこれだと指摘したのが「仮面夫婦」です。

「愛情はないが夫婦関係を続ける、他人の前では仲良さげでも、実は二人の間は冷え切っている。ドンピシャじゃないの」

愛のない結婚も捨て難いですが、私もこちらの方がしっくりきます。さすが幅広いジャンルの本を読破している真帆さん。すっかり気に入りました。

「また異なことを。俺達は別に冷え切っていないだろう」

幼子を見守るような目で柿崎さんが微笑んでいます。夫というよりはやはり父親みたいです。

「ところで着ていく服はあるのか?」

珍しく柿崎さんが私の身に着けている物に言及しました。学校ジャージ姿でも文句をつけない人がです。何でもこの一ヶ月、私の衣装が変わり映えしないことに気づいていたらしく、用意した生活費では不足しているのかと考えていたんだそうです。

「不足じゃなくてですね、不足したら困るので使えないと言いますか…」

しどろもどろ気味に生活費には手を付けず、持参した貯金で賄っていることを話すと、柿崎さんは呆れ切った表情でぼやきました。

「本当に君という人は。親御さんからの貯金こそ大事にしないと」

「ごめんなさい」

しょんぼりと肩を落とす私。子供の浅知恵だったのですね。返す言葉もありません。

「いや、そもそもいきなり大金を預けた俺が悪い」

何故か酷く慌てた柿崎さんが逆に謝り始めます。そして逡巡してからぽつりと零しました。

「今度の日曜日、柊子くんの服を見繕いに行くか」

もしかしてデートですか? 声に出さなくても分かったのでしょう。柿崎さんは笑って頷いてくれました。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした

さこの
恋愛
 幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。  誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。  数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。  お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。  片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。  お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……  っと言った感じのストーリーです。

裏切りの代償

志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。 家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。 連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。 しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。 他サイトでも掲載しています。 R15を保険で追加しました。 表紙は写真AC様よりダウンロードしました。

旦那様に離縁をつきつけたら

cyaru
恋愛
駆け落ち同然で結婚したシャロンとシリウス。 仲の良い夫婦でずっと一緒だと思っていた。 突然現れた子連れの女性、そして腕を組んで歩く2人。 我慢の限界を迎えたシャロンは神殿に離縁の申し込みをした。 ※色々と異世界の他に現実に近いモノや妄想の世界をぶっこんでいます。 ※設定はかなり他の方の作品とは異なる部分があります。

あなたの嫉妬なんて知らない

abang
恋愛
「あなたが尻軽だとは知らなかったな」 「あ、そう。誰を信じるかは自由よ。じゃあ、終わりって事でいいのね」 「は……終わりだなんて、」 「こんな所にいらしたのね!お二人とも……皆探していましたよ…… "今日の主役が二人も抜けては"」 婚約パーティーの夜だった。 愛おしい恋人に「尻軽」だと身に覚えのない事で罵られたのは。 長年の恋人の言葉よりもあざとい秘書官の言葉を信頼する近頃の彼にどれほど傷ついただろう。 「はー、もういいわ」 皇帝という立場の恋人は、仕事仲間である優秀な秘書官を信頼していた。 彼女の言葉を信じて私に婚約パーティーの日に「尻軽」だと言った彼。 「公女様は、退屈な方ですね」そういって耳元で嘲笑った秘書官。 だから私は悪女になった。 「しつこいわね、見て分かんないの?貴方とは終わったの」 洗練された公女の所作に、恵まれた女性の魅力に、高貴な家門の名に、男女問わず皆が魅了される。 「貴女は、俺の婚約者だろう!」 「これを見ても?貴方の言ったとおり"尻軽"に振る舞ったのだけど、思いの他皆にモテているの。感謝するわ」 「ダリア!いい加減に……」 嫉妬に燃える皇帝はダリアの新しい恋を次々と邪魔して……?

王女の朝の身支度

sleepingangel02
恋愛
政略結婚で愛のない夫婦。夫の国王は,何人もの側室がいて,王女はないがしろ。それどころか,王女担当まで用意する始末。さて,その行方は?

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】身を引いたつもりが逆効果でした

風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。 一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。 平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません! というか、婚約者にされそうです!

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

処理中です...