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四月に入り麗らかな日が続いています。その後私と柿崎さんの関係が劇的に変化したかというと、全くそんなことはなく、これまで通り彼は彼のペースで、私は私のペースで生活しています。それでも顔を合わせれば三分以上話すようになりましたし、手を貸してほしいときは遠慮なくお願いしています。
母についても特にタブーとなるわけでもなく、柿崎さんの抱いている「香苗さん」像と、私の見てきた母の姿を教え合ったりして、妙ですが二人を繋ぐ共通の話題の役目を果たしてくれています。
そうそう結婚一ヶ月にして、やっと柿崎さんの会社での業務内容を知りました。父と勤務先が同じなので、洗剤や化粧品を扱う化学メーカーだとは知っていましたが、柿崎さんはそこで商品開発に携わる技術職に就いているのだそうです。
正直ちんぷんかんぷんです。新商品の安全性がどうの、量産ラインがこうのと説明されても、頭の中がもやもやして何も浮かびません。とりあえず係長だということだけは覚えました。つくづく一度は社会に出ることが必要だと痛感します。
「せめて週に三日でも、バイトをしてはいけないでしょうか?」
実は私はアルバイトの経験もありません。あまりの箱入り加減に柿崎さんも驚いていました。なのでこのままではただの世間知らずで終わってしまいそうで怖いです。
「検討しよう」
渋々了承してくれたものの、納得していないのがありありです。柿崎さんはずいぶん変態チックな理由を上げていましたが、私を専業主婦にしたのは上司の娘に苦労はさせられないと、気を使った部分が大きかったようなのです。
「社会勉強だと思って頂ければ」
「柊子くんの場合、違う勉強になりそうで嫌なんだけどね」
絶対同僚の恋愛に興味津々になるでしょ、とため息をつく柿崎さん。一体どういう意味でしょう。私は自分の手でお金を稼いでみたいだけなのですが。まぁちょっとは、興味ありますけれど。いいじゃないですか。疑似体験くらい。自身で経験する筈だった大人の恋は砕けちゃったんですもん。しかも懲りずにこの会話も電話で行われているんですからね。
「いい匂いだな」
洗面を終えた柿崎さんが台所に顔を出しました。彼が寝坊することはまずありません。一人で起きてトイレに行って顔を洗ってコーヒーを淹れる。これが朝のルーティンです。
「お弁当を作っているんです」
残念ながら桜は大分散りかけているので、いずれ近況報告を兼ねてお花見ならぬピクニックをしようと、昨夜真帆からお誘いがあったのです。
「花嫁修業も兼ねているんですけどね」
「花嫁修業?」
コーヒーメーカーのスイッチを入れてから、柿崎さんは狐につままれたような顔で私を眺めます。
「仕事はもちろん、私家事もできませんから」
柿崎さんのお世話が要らないということで、家事はすべからく手抜き状態でした。なのでせめて一階だけでも居心地よくしようと、まずは掃き掃除や拭き掃除から頑張ることにしました。料理は数をこなすしか道がなさそうなので、入門書と首っ引きでちゃんと三食作ることを目指しています。
「君は俺の嫁だった筈だが」
二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、柿崎さんは苦笑しながらその一つを私に差し出してくれました。このところ私のコーヒーも彼が淹れてくれます。一旦手を止めてそれを一口含み、私は満面の笑みで答えます。
「でも私達仮面夫婦ですから!」
結婚の経緯を知らせた真帆が、私と柿崎さんの関係は正しくこれだと指摘したのが「仮面夫婦」です。
「愛情はないが夫婦関係を続ける、他人の前では仲良さげでも、実は二人の間は冷え切っている。ドンピシャじゃないの」
愛のない結婚も捨て難いですが、私もこちらの方がしっくりきます。さすが幅広いジャンルの本を読破している真帆さん。すっかり気に入りました。
「また異なことを。俺達は別に冷え切っていないだろう」
幼子を見守るような目で柿崎さんが微笑んでいます。夫というよりはやはり父親みたいです。
「ところで着ていく服はあるのか?」
珍しく柿崎さんが私の身に着けている物に言及しました。学校ジャージ姿でも文句をつけない人がです。何でもこの一ヶ月、私の衣装が変わり映えしないことに気づいていたらしく、用意した生活費では不足しているのかと考えていたんだそうです。
「不足じゃなくてですね、不足したら困るので使えないと言いますか…」
しどろもどろ気味に生活費には手を付けず、持参した貯金で賄っていることを話すと、柿崎さんは呆れ切った表情でぼやきました。
「本当に君という人は。親御さんからの貯金こそ大事にしないと」
「ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落とす私。子供の浅知恵だったのですね。返す言葉もありません。
「いや、そもそもいきなり大金を預けた俺が悪い」
何故か酷く慌てた柿崎さんが逆に謝り始めます。そして逡巡してからぽつりと零しました。
「今度の日曜日、柊子くんの服を見繕いに行くか」
もしかしてデートですか? 声に出さなくても分かったのでしょう。柿崎さんは笑って頷いてくれました。
母についても特にタブーとなるわけでもなく、柿崎さんの抱いている「香苗さん」像と、私の見てきた母の姿を教え合ったりして、妙ですが二人を繋ぐ共通の話題の役目を果たしてくれています。
そうそう結婚一ヶ月にして、やっと柿崎さんの会社での業務内容を知りました。父と勤務先が同じなので、洗剤や化粧品を扱う化学メーカーだとは知っていましたが、柿崎さんはそこで商品開発に携わる技術職に就いているのだそうです。
正直ちんぷんかんぷんです。新商品の安全性がどうの、量産ラインがこうのと説明されても、頭の中がもやもやして何も浮かびません。とりあえず係長だということだけは覚えました。つくづく一度は社会に出ることが必要だと痛感します。
「せめて週に三日でも、バイトをしてはいけないでしょうか?」
実は私はアルバイトの経験もありません。あまりの箱入り加減に柿崎さんも驚いていました。なのでこのままではただの世間知らずで終わってしまいそうで怖いです。
「検討しよう」
渋々了承してくれたものの、納得していないのがありありです。柿崎さんはずいぶん変態チックな理由を上げていましたが、私を専業主婦にしたのは上司の娘に苦労はさせられないと、気を使った部分が大きかったようなのです。
「社会勉強だと思って頂ければ」
「柊子くんの場合、違う勉強になりそうで嫌なんだけどね」
絶対同僚の恋愛に興味津々になるでしょ、とため息をつく柿崎さん。一体どういう意味でしょう。私は自分の手でお金を稼いでみたいだけなのですが。まぁちょっとは、興味ありますけれど。いいじゃないですか。疑似体験くらい。自身で経験する筈だった大人の恋は砕けちゃったんですもん。しかも懲りずにこの会話も電話で行われているんですからね。
「いい匂いだな」
洗面を終えた柿崎さんが台所に顔を出しました。彼が寝坊することはまずありません。一人で起きてトイレに行って顔を洗ってコーヒーを淹れる。これが朝のルーティンです。
「お弁当を作っているんです」
残念ながら桜は大分散りかけているので、いずれ近況報告を兼ねてお花見ならぬピクニックをしようと、昨夜真帆からお誘いがあったのです。
「花嫁修業も兼ねているんですけどね」
「花嫁修業?」
コーヒーメーカーのスイッチを入れてから、柿崎さんは狐につままれたような顔で私を眺めます。
「仕事はもちろん、私家事もできませんから」
柿崎さんのお世話が要らないということで、家事はすべからく手抜き状態でした。なのでせめて一階だけでも居心地よくしようと、まずは掃き掃除や拭き掃除から頑張ることにしました。料理は数をこなすしか道がなさそうなので、入門書と首っ引きでちゃんと三食作ることを目指しています。
「君は俺の嫁だった筈だが」
二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、柿崎さんは苦笑しながらその一つを私に差し出してくれました。このところ私のコーヒーも彼が淹れてくれます。一旦手を止めてそれを一口含み、私は満面の笑みで答えます。
「でも私達仮面夫婦ですから!」
結婚の経緯を知らせた真帆が、私と柿崎さんの関係は正しくこれだと指摘したのが「仮面夫婦」です。
「愛情はないが夫婦関係を続ける、他人の前では仲良さげでも、実は二人の間は冷え切っている。ドンピシャじゃないの」
愛のない結婚も捨て難いですが、私もこちらの方がしっくりきます。さすが幅広いジャンルの本を読破している真帆さん。すっかり気に入りました。
「また異なことを。俺達は別に冷え切っていないだろう」
幼子を見守るような目で柿崎さんが微笑んでいます。夫というよりはやはり父親みたいです。
「ところで着ていく服はあるのか?」
珍しく柿崎さんが私の身に着けている物に言及しました。学校ジャージ姿でも文句をつけない人がです。何でもこの一ヶ月、私の衣装が変わり映えしないことに気づいていたらしく、用意した生活費では不足しているのかと考えていたんだそうです。
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しょんぼりと肩を落とす私。子供の浅知恵だったのですね。返す言葉もありません。
「いや、そもそもいきなり大金を預けた俺が悪い」
何故か酷く慌てた柿崎さんが逆に謝り始めます。そして逡巡してからぽつりと零しました。
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